第32話 守るべきもの(前編)
「アナタはあの二人を説得しに行くのよね?」
バスから飛び降りた透の腕を、モニカが掴んだ。不意を突くその問いに答えられず、駆け出そうとした足が止まる。
昨夜、シアトルにいた透のもとに飛び込んできたのは、第二の悲劇を匂わせる不吉な一報だった。
「ゲイルがやられた! もう我慢できない」
詳細を聞き出す前に電話を切られてしまったが、取り乱したレイの様子から事情を察した透は、仲間の暴走を食い止めようとバスを乗り継いで戻って来たのだが――。
恐らくレイは相棒のビーと共にチャンフィーの根城へ乗り込み、敵を討とうとしているに違いない。亡きリーダーの厳命によって、かろうじて抑えられていた怒りが、何かを切っ掛けにして爆発したのだろう。
モニカからの問いかけは、確認の意図が含まれている。もしも二人が説得に応じず、復讐を果たすと言い出したとしても、透は冷静な立場で諭すことが出来るかと。
「俺は……」
仲間の暴走を止めるつもりで戻って来たが、本当にそれだけなのか。心の奥底では、自分も彼等に同調し、やり場のない怒りを復讐という安易な手段に委ねようとしていないか。
正直なところ、よく分からなかった。自分がどんな行動に出るのか。ただ、万が一の時にはあの二人に加勢するかもしれない。その可能性は否定しきれなかった。
説得か、加勢か。透が「イエス」とも「ノー」ともつかない、逃げ道になるような答えを探していると、突如としてモニカの平手打ちが飛んできた。
「しっかりしなさい! アナタはナンバー2なのよ。リーダーが不在なら、代わりにメンバーを守るのはアナタの役目でしょ?」
「モニカ……」
ジャンの死によって、ジャックストリート・コートのメンバーは解散した。実力で定められた厳しい序列も、砦と共に崩壊している。今さらナンバー2の責務などあろうはずがない。
しかし彼女が訴えているのは、屍と化した集団の中での役割とは違う。誰が最もリーダーと近しく、その遺志を理解しているか、を問うている。
復讐という無意味な争いから仲間を守ろうとした、彼の想い。孤独な葬儀を選択してまで争いの連鎖を断ち切ろうとした、切なる願い。
今、この遺志を守り通せるのは、透をおいて他にはいない。
「サンキュー、モニカ。おかげで目が覚めた。
どんな事があっても、俺はあの二人を止めてみせる」
「それを聞いて安心したわ。さあ、急ぎましょう」
「いや、モニカは家で待っていてくれ。場合によっては、危険なところへ行くかもしれない」
「だったら、尚更、独りでは行かせられないわ」
「信じてくれ、モニカ。あいつ等は、絶対に俺が説得する。
これ以上、一人の犠牲も出したくない。だから……」
自分でも不思議なくらい体の感覚が戻っていた。
まだ気力と呼べるものが残っているのか。あるいは、亡きリーダーの想いが自分を動かしているのか。いずれせよ、今まで実感のなかった現実世界がはっきりと見えている。
「分かったわ。アナタを信じる。だから必ず二人を説得して、無傷で戻ると約束して。
一人の犠牲も出したくないのは、アタシも同じよ」
「ああ、分かった。約束だ」
現在、チャンフィーはかつて根城としていたヴィーナスストリート・コートを引き払い、ジャックストリート・コートに拠点を置いている。
彼がここまでジャックストリート・コートに執着する理由は諸説ある。ジャンに対する嫉妬心であるとか、古巣の「ヴィーナス」の名前が女々しく聞こえるから、とか。しかし、本当はジャックストリート・コートのリーダーとしての名声を欲していたのだろう。
勢力を二分していたとは言え、実力はジャンの方が数段上だった。無論、テニスの腕だけでなく、人間性においても、彼には人を束ねる力があった。
確固たる信念を持つリーダーのもと、それに共感した若者達が集って出来た砦は、質も違えば、格も違う。危険区域の底辺で格とほざいても、世間からは嘲笑を浴びるだろうが、確かに他とは一線を画していた。
透がリーダーと認めたジャン・ブレイザーは、何より誇りを大事にした男であった。
テニスプレイヤーとしての誇り。これを頑なに守り続けた結果、ジャックストリート・コートは他のコートから別格の存在として位置付けられ、そこの五十人限定のメンバーである事がヤンキーの中でもステータスとなった。
ところが一朝一夕で手にする事の出来ない名声を、チャンフィーはリーダーの奇襲という汚いやり方で奪い取った。今頃はかつてジャンがそうしていたように、丸太の上でふんぞり返っているだろう。
チャンフィーに対して、恨みや憎しみがない訳ではない。むしろ日を追うごとに増している。
それでもジャンの遺志を守るために、自分がなすべき事を優先させなければならない。
残りのメンバーを一人の犠牲も出さずに守り通す。リーダーからの教えを最も多く受けた者として。
気を緩めれば爆発しそうな怒りを封じ込めると、透は仲間のもとへと向かった。
透が留守をしている間に、レイとビーに何が起きたかは分からない。だが二人の行く先は、おおよその見当がついていた。
敵を討つと決めた彼等が、必ず立ち寄る場所がある。森の向こうの教会だ。
とりわけジャンに可愛がられていた二人だからこそ、彼の墓前で一言謝罪を述べてから行くはずだ。最後の最後までリーダーの命に逆らう自分達を許してくれと。
バス停からメインストリートを駆け抜け、森の中へ。左へ行けばチャンフィーの根城となったジャックストリート・コートだが、透はあえて右の道を進んだ。教会へと続く道を。
「これは……?」
墓地の中に足を踏み入れた透は、我が目を疑った。数日前に行われた葬儀の時とは、まったく別の場所を見ているようだ。
敷地に生えていた緑の芝生は掘り返され、茶褐色の土砂と小石が散乱している。ジャンの棺に入れたはずの花びらが、そこかしこに飛び散り、故人の名を記した石のプレートは粉々に砕かれていた。
「レイ? ビー? これは?」
透の予想通り、二人は墓地にいた。だが今は彼等の説得よりも、目の前に広がる惨状の理由を知りたかった。
「荒らされたんだ。あいつ等に!」
レイの言う「あいつ等」とは、チャンフィーとその手下のことだろう。
「墓荒らしか?」
「ただの墓荒らしじゃない。棺に入れたはずのジャンのジャケットがなくなっている」
「そんな……」
ジャンが愛用していた赤い革のジャケット。それはジャックストリート・コートのリーダー達が代々受け継いできた「最強の男」の証だが、今回の一件でその慣習も無用になったと判断したゲイルが、解散宣言を兼ねてジャケットをジャンの遺体と共に葬ることにしたのである。
「優勝カップや盾なんかは、全部そのままだ。金品目当ての墓荒らしなら、こっちを狙うはずだし、もっと手際が良い。
どう見ても、これは素人が力任せに掘り返した跡だ」
確かにレイの言う通り、あのジャケットの価値を知る者で、墓を掘り返してまで奪おうとする人物は、透が知る限りでも一人しかいない。どこまで腐った連中なのか。
透は込み上げてくる怒りを意識の届かぬ場所まで押しやると、まずは二人の説得に当たった。
「とにかく落ち着け、二人とも。まだチャンフィーの仕業と決まったわけじゃない。証拠もないし、仮にそうだとしても復讐は……」
「てめえは現場を見てねえから、そんな事が言えんだよ!」
それまで黙々と片づけをしていたビーが、いきなり掴みかかってきた。
「俺達が、なんで気付いたと思う?
遠目にも黒かったんだ。真っ黒だった。いつも緑に囲まれているはずの、この墓地が……」
怒りに震える親友の声に、透は更なる悪夢を覚悟した。
「辺り一面、真っ黒だった。カラスの大群で」
「カラス? なんで……?」
「奴等はジャンの墓を掘り起こした後、遺体をそのままにして逃げやがった」
その惨劇が明確になるにつれ、心の支えが奪われていった。
「開けっ放しにされた棺に、カラスが集まってきて」
「もう良い。ビー」
「まるでゴミの集積所みたいに、カラスがジャンの体を……」
「もう良い。止めてくれ! それ以上は……」
「ジャンは、俺達のリーダーは、カラスの餌にされたんだ!」
心のどこかで、まだ彼が生きていると信じていた。信じていたかった。
彼の遺体を確認したわけではない。棺が埋葬されるところを遠くから覗いただけの透には、これは悪い冗談で、しばらくすればジャンがひょっこり現れるのではないかとの期待があった。
万に一つの可能性かもしれないが、その僅かな希望のおかげで、かろうじて自身を支えてこられた。それなのに、こんな形で彼の死を確かめる事になろうとは。
まるで無間地獄にいるようだ。何度も同じ人の死に向き合わされて。
一度目は透の目の前で。二度目はゲイルの告白によって。そして三度目は故人が安らかに眠っているはずのこの墓地で。
こうして大事な人の死を何度も突きつけられるぐらいなら、あの時、自分が刺されていれば良かった。同じ地獄を見るにしても、我が身に降りかかる災いであれば、肉体的な苦痛で済むだけ救いもある。
墓地の惨状を前に、気弱な考えが透の脳裏をかすめた瞬間、
「万が一、命を粗末にするような事があったら、その時こそ、貴様を殺しに来るから覚悟しろ。覚悟して、生きろ」
ゲイルの台詞がそれを砕いていった。そして、この記憶に引きずられるようにして、透は自身のなすべきことを思い出した。
「ゲイル……ゲイルはどうした?」
「死んだ。遺体は、教会の中だ」
ビーの視線が、石造りの建物を指した。
「それも、チャンフィーの仕業なのか?」
「いや、たぶん凍死だと思う。俺達が発見した時には、掘り返されたジャンの棺の側で冷たくなっていた」
「ゲイルが凍死? まさか、そんな……」
俄かには信じられなかった。良くも、悪くも、彼ほど隙のない人間が、凍死などという愚かな死に方をするとは思えない。
「かなり酔っていたんだと思う。牧師の話だと、葬儀の後ずっと墓の前に座り込んでいたらしい。大量のバドワイザーのボトルを抱えて。
だけど俺達に言わせりゃ、チャンフィーにやられたのと同じだ。あのゲイルが、こんな情けねえ死に方をするなんて……」
立場上、毅然とした態度を通していたが、最もジャンの死を悼み悲しんでいたのは、ゲイルであった。独りで親友の葬儀を取り仕切り、透がシアトルに旅立つのを見届けてから、ようやく彼は心ゆくまで嘆く時間が持てたのだ。
学生時代からの付き合いなら、思い出の量は他の人間の何倍も、何十倍もあるだろう。消し去る事の出来ない悲しみと知っていながら、彼は酒で洗い流そうとしたに違いない。
ジャンに続いてゲイルの死は、透の胸にも強い衝撃を与えた。
声を詰まらせるビーに代わって、レイが話を続けた。
「トオル? 俺達は、一時的な感情だけで動いているんじゃない。
シアトルにいたお前は知らないと思うけど、チャンフィーがリーダーになってから、俺達のコートはメチャメチャだ。ルールを無視して挑戦者から金を巻き上げ、金がなければ身ぐるみをはがし、あいつ等のやっている事は強盗と変わらない」
金以外のものを賭けるのが、ジャックストリート・コートのルールであった。代々リーダーが受け継いできた伝統でもある。
現役時代に汚い金に翻弄されたジャンは、特にこのルールを厳守していた。
「それだけじゃない。トオルが苦労して造ったバックヤードは奴等の宴会場になっているし、真剣に練習している奴なんて一人もいない。酔っ払って試合をした挙句、挑戦者を袋叩きにしている奴もいる。
これじゃあ、まるで……本物のゴミ溜めだ!」
レイが吐き捨てるように「ゴミ溜め」と言った気持ちは、透にも痛い程よく分かる。
これまで世間から「ゴミ溜め」と蔑まれても、ジャックストリート・コートのメンバーは顔を上げて生きてきた。他人がどう言おうと、自分達には誇りがあった。
少しぐらい人の道から外れる事があったかもしれないが、テニスプレイヤーとしての道理は通していた。そういう仲間同士の自負があった。
しかし現状を聞く限り、「ゴミ溜め」と呼ばれても仕方のない有り様だ。誇り高きヤンキー達が集うジャックストリート・コートは、リーダー交代と共に本物のゴミ溜めと化したのだ。
再びビーが詰め寄った。
「これでもお前は、復讐はするなと綺麗ごとを言うつもりか!?」
その問いかけは、透の中の疑問でもあった。それでもジャンは、復讐はするなと言うのだろうか。
卑劣なやり方でコートを奪われ、リーダーとその親友を失い、ジャックストリート・コートのメンバーの誇りまでも汚された。ここまでされても指をくわえて大人しく見ていろ、と言うだろうか。
今、自分が守るべきものは何なのか。最も大切にしなければならないものは何か。
透は何度も自らに問いかけた。そして出した答えは、やはり最初にモニカと交わした約束だった。
「そうだ。どんな侮辱を受けても、誇りを汚されても、絶対に復讐はするな」
「てめえ、それでも人間か? 人の心があるのかよ!?」
ストリートコートのメンバーになって以来、ビーが透に対して非難めいた口を利いたことは一度もなかった。たぶん、これが初めてだ。
ゲイルと衝突した時も、アップルガースが乗り込んで来た時も、ジャンから最後の命令を下された時も。いつもビーは透の気持ちを汲んで、味方についてくれた。
そのビーと、今は真っ向から対立している。しかも彼の視線には、おぞましい物を見るような侮蔑が含まれていた。
自分がここまで非力だとは思わなかった。大切な者を守りきれず、砦も奪われ、屈辱に耐える事しか指示できない。
だが、どんなに非難されようと、残されたメンバーを守らなければならない。この仲間だけは絶対に。
「心なんかなくても良い。お前達からどう思われようが、俺は構わない。
だけど、ビー? 俺はナンバー2だから。ジャンも、ゲイルも、コートも守れなくて、情けないナンバー2だけど。だからこそ、せめてお前達だけは守りたい」
ほんの一瞬、襟首を掴んでいたビーの腕が緩んだが、透を睨みつける視線はまだ冷たいままだった。
「トオル、何か勘違いしてねえか?
メンバーは解散した。いつまでもナンバー2気取りでいられたら迷惑だ」
「もう、これ以上、仲間を失いたくない」
「死んだメンバーは仲間じゃねえのかよ? 仲間をカラスの餌にされて、黙っていろと言うのか!?」
「仲間だから。仲間の最後の願いだと思うから、何を捨ててもお前達を守る。
もう、俺にはこうする事しか残されていないから。これが俺に出来る……たった一つの償いだから……」
「償い」の言葉を聞かされ、二人の透を見る目つきが変わった。怒りと悲しみに満ちた冷たい視線に温度が加わった。
だがそれは、悲しみはそのままに。そして怒りが哀れみへと変わったもので、以前のような温かな友情から来る熱ではなかった。
――こいつは一生、重い罪を背負っていくのか。気の毒に。
彼等の心の声が聞こえるようだった。
ビーが透の襟首から腕を離すと、無言で座り込んだ。湿った土の匂いがする地面の上に。
それに続くようにレイも腰を下ろしたが、その顔が透に向けられることはなかった。
リーダーを失ったことで、他にも失くしたものがあった。切れるはずがないと信じていた親友との絆。
「どうか、ジャンの遺志を尊重して欲しい」
もう親友とは呼んでもらえないかもしれないが、透はなおも続けた。
「一つひとつ思い出してくれ。ジャンから教わったこと。
コートを奪われたからと言って、解散したからと言って、教わった事まで手放して良いのか?」
「ジャンから教わったこと?」
その言葉に、まずビーが顔を上げた。
「そう、俺達が教わったことは一つじゃない。
ラケットで人を傷つけない。テニスプレイヤーとしての誇りを忘れない。人にはそれぞれ“あるべき場所”がある。
そして、最後の教えがこれだ。俺達がすべき事は復讐じゃない」
「だけど、俺達にとって“あるべき場所”は、あのジャックストリート・コートだったんだ! どこへも帰る場所のない俺達には、あそこが、あのコートが……。畜生!」
相棒の悲痛な叫びを聞いて、レイも顔を上げた。恐らく彼も同じ気持ちなのだろう。
「なあ、トオル? 俺達、どうすれば良いんだよ? 俺も、ビーも、どこへ行けば良いんだよ? 知っているなら教えてくれよ」
本当は二人とも分かっていたのだ。復讐が無意味である事も、いま自分達が何をすべきかも。
ただ行き場のない自分達の存在を、悲しみと共に持て余していただけだった。
透は二人の肩を抱き寄せた。
「見つけるんだ、二人とも。ジャンはそれを望んでいたはずだ。
メンバー全員が本来の“あるべき場所”を見つけて、帰ることを」
「俺達にもあると思うか?」
ビーの祈るような眼差しから、復讐の二文字は消えている。
「人にはそれぞれ居場所がある。ビーにも、レイにも、きっとある。
だけど、それは自分で探さなきゃ意味がない。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の意思で決めるんだ。
ジャンの教えを信じて。諦めさえしなければ、きっと見つかる」
「トオル? お前、ジャン並みに口が上手くなったな」
「いや、違う。全部、ジャンが教えてくれた事なんだ」
ジャンは口で何かを説明したり、諭したりするようなリーダーではなかったが、代わりに態度で示してくれた。そしてその行為こそが、道を閉ざされた透には最も心強く、また確かな指針となっていた。
理不尽な差別があったとしても、今は居場所がなくとも、諦めなければ道は開ける。このことを背中で示してくれたのがジャンだった。
ビーとレイ。二人の表情が和らいだ。リーダーの教えが、彼等の体の中で息づくのを実感したようだ。
話し声を聞きつけて、教会の牧師が墓地までやって来た。
「本当に申し訳ないことをしました。ちょうど留守中に、こんな事になってしまって……」
丁寧に頭を下げる彼からは、飾り気のない建物と同じく誠実な人柄がうかがえた。
透は牧師に対し、努めて礼儀正しく振舞った。
「いいえ。今回の事は誰のせいでもないです。どうか、自分を責めないでください。
それより、代わりのプレートを用意したいのですが。出来るだけ頑丈なものを、ゲイルと合わせて二人分」
ジャンの葬儀から埋葬まで、必要な物は全てゲイルが手配してくれた。その彼を失った今、二人に静かな場所で眠ってもらうには、自分達の力でどうにかしなければならない。
「ミスター・ブレイザーには良くしていただきましたから、こちらも出来るだけのお手伝いをしたいと思っております。
しかし二人分となると、少なくとも二千ドルはかかるかと……」
生前からジャンと交流のあった牧師は、申し訳なさそうに価格を提示した。
二千ドルと言えば、日本円にして約二十万円だ。とても定職のない少年達に都合のつけられる金額ではない。
しかもシアトルへの往復で、透は今まで貯めていた貯金をほとんど使い果たしている。中学生が得られるアルバイト代など微々たるもので、それを光陵学園へ帰るための資金に回していた。
光陵学園 ―― これこそが、透の“あるべき場所”だった。最も能力を発揮できて、最もいたいと願う場所。尊敬する先輩達がいて、ライバルの遥希がいて、心の支えとなる奈緒がいる。
いつか必ず光陵学園へ帰る。劣悪な環境にいながらも自分を保つことが出来たのは、その夢があったからこそ成し得た事だった。
だが今は、自分の夢よりも守らなければならないものがある。
透は背中からラケットを取り出すと、「R.MAJIMA」の文字をじっと見つめた。
「では、その金額でお願いします」
無謀なオーダーを聞いて、レイが慌てて止めに入った。
「そんな大金、どうするつもりだ? 気持ちは分かるが、俺達じゃ手が届かない」
「一時間後には、必ずキャッシュでお支払いします。早速、手配してください」
レイの助言を無視して牧師に会釈をすると、透は墓地を後にした。
シアトルでジャンの彼女にラケットを渡し損ねて以来、ずっと考えていた。気持ちを固めるには勇気が要ったが、一度決意してしまえば、拍子抜けするほど楽になった。
暗闇に目が慣れたせいだろうか。大事なものを手放そうというのに、怖くはなかった。
森の小道に差し掛かろうとしたところで、ビーの怒鳴り声が追いかけてきた。
「トオル? 一体、どうするつもりだ!?」
「心配するな。金は届ける」
「そんなことを聞いているんじゃない! 何をするつもりか、と聞いてんだ。
お前、独りで何か背負い込もうとしているんじゃねえのか?」
ピンク髪を束ね、七分丈の袴をはき、メンバーの中でも最も奇抜な格好をしているビー。いつもは真っ先に目が行くはずの彼の姿が、何故か、ぼんやりとしか見えなかった。
透は彼と思しき影に向かって、笑顔で応えた。
「大丈夫だ。たった今、余計な荷物は捨てたから。もう俺に背負うものは何もない」