第33話 守るべきもの(後編)

 部屋の中の照明を落とすと、モニカはお気に入りのアロマ・キャンドルに火をつけた。別段、香りを楽しもうとした訳ではない。自然がもたらす光の方が、このただならぬ緊張をすんなり和らげてくれる気がしたのである。
 だがしかし、指先ほどの小さな炎はひと時の温もりを与える代わりに、ちょっとした空気の流れにも過敏に反応し、却ってそれが不安を煽る結果となった。危うげな光が、不吉な予兆に見えてくる。まるで大切な人の命が失われていくような。
 「信じてくれ、モニカ。あいつ等は、絶対に俺が説得する」
 透がそう言い残して去ってから、半日が過ぎようとしていた。
 彼を信じたい気持ちと、彼の性格を知るが故の不安が交錯する。
 コートの上では機敏な動きを見せる少年も、一旦、そこを離れると、不器用な生き方しか出来ない事をモニカは知っている。
 傷ついた仲間を放っておけない。たとえそれが自らの首を絞める行為だとしても、相手が助けを求める限り、彼は手を差し伸べてしまう性格だ。
 果たして無事に戻って来られるだろうか。予期せぬトラブルに巻き込まれ、彼自身も深い傷を負っているのではないだろうか。
 独りでいる時間が長過ぎて、考えが悪い方向へ傾いてしまう。キャンドルの炎の瞬きや、夜の静寂など、普段は何でもない事が気になって仕方がない。
 せめて独りでいる事だけでも意識せずにいられるよう、モニカは楽しかった過去の出来事を思い浮かべた。

 前にも一度、こうして夜中に透を待っていた事がある。ブレイザー・サーブを完成させるにあたり、プロの選手のプレーを参考にしたいと言って、彼が多量の映像資料を抱えてモニカの自宅まで押しかけて来たのである。
 あの頃から比べれば、何という変わりようか。
 オンコートでの指導さえままならなかった自分が恐怖心を克服し、自力で夢を掴むまでに強くなった。しかし時を同じくして、いつも自分を温かく見守ってくれていたリーダーが命を落とした。彼を慕う少年達の拠り所であった砦も、今は見る影もないと聞く。
 結局、どちらも長続きしないのだ、と改めて思う。良いことも、悪いことも。幸せも、不幸も。
 ただ一つだけ、あの頃から変わらないものがある。透に対する思慕の情が、持ち主の意に反して、しぶとく残っている。
 一度は告白したものの、困り果てる彼を見て、とっさに冗談にすり替えた。あれ以来、モニカは心に鍵をかけたまま、黙ってストリートコートを去る決意をした。
 決意をしたはずだった。少し前までは、それで良いと思っていた。
 透には他に想いを寄せる相手がいる。同じ日本人で「ナオ」という名の彼女が。
 彼がいつも身につけているリストバンドは、その彼女からのプレゼントだ。「向こうは忘れている」と諦めたように話していたが、彼の心の中では「ナオ」が存在し、支えとなっている。その事は、苦しい状況に追い込まれると必ずリストバンドを見つめる仕草からも察せられた。
 透が愛しているのはモニカではない。それでも――。
 胸に渦巻く感情を、もう抑えることが出来なかった。リーダーの死という混乱の中で、再び膨らみ始めたこの想い。
 彼を誰にも渡したくない。嬉しい時も、苦しい時も。琥珀色の瞳に映るのは、常に自分でありたいと願ってしまう。
 こんな気持ちは初めてだ。
 恋愛経験がない訳ではない。失恋の経験も、それなりにある。
 今までは、成就の見込みのない恋愛は潔く捨て去ることが出来た。他に好きな女性がいるのなら、その人と幸せになってくれれば良いと思えたし、振られた相手に未練たらしくすがりつくなど、プライドが許さなかった。
 だが、シアトルで透と共に過ごすうちに、つまらぬプライドは消えていた。それよりも、もっと強い感情が芽生えていた。
 透が心の支えにしている「ナオ」は、ここにはいない。いま、傷ついた彼を慰めてあげられるのは、自分しかいない。自分が彼を笑顔にしてみせる。
 ジャンを失った悲しみを独りで抱える姿を目の当たりにして、その想いが一層強くなった。遠い日本にいる温もりすら与えられない彼女ではなく、常に側にいられる自分の方がこの役割には相応しいと。

 「モニカ……寝たのか?」
 ドアをノックする音に混じって、玄関から声がした。
 キャンドルだけの薄暗い部屋は、外から覗くと寝入ったように見えたのか。在宅を確かめる声は随分と抑えられていたが、モニカにはそれが待ち望んだ人のものだと分かっていた。
 「良かった。無事に戻って来られたのね?」
 「心配かけて悪かった。レイもビーも分かってくれた。あの二人は、もう大丈夫だ」
 「中に入って。いまコーヒーでも……」
 扉を開けると、そこには透が立っていた。ところが普段と変わらぬ姿を認めて、安堵したのも束の間、彼の口からは思いも寄らない台詞が飛び出した。
 「実は、お別れを言いに来た。今から旅に出ようと思う」
 「何を言っているの? 今朝、シアトルから戻ってきたばかりじゃないの?
 一体、どこへ? 何のために?」
 一度に返せないと分かっていながら、驚きのあまり矢継ぎ早に質問を重ねた。唐突な別れもさることながら、彼の態度が気になった。
 親しい人に別れを告げているにもかかわらず、なぜ透は落ち着いていられるのか。それどころか、彼の口元には笑みが浮かんでいる。歓喜を表すものとはかけ離れた、無気力な笑みが。
 「とにかく、中へ入ってちょうだい。話はそれからよ」
 危うげな笑みを浮かべて佇む透の腕を掴むと、モニカは半ば強引に自室へと押し込んだ。


 「リュウ! どうして、トオルを止めなかったの!?」
 話し合いの場には相応しくない態度だと自覚しながらも、エリックは非難めいた言い方を改めることが出来なかった。
 そこに同席した他の留学生達もまた、誰一人としてエリックを取り成す者はいなかった。彼等も、龍之介の冷淡さに腹を立てていたからだ。
 夢を叶える為の旅立ちなら文句はないが、明らかに先程の透の様子は違っていた。

 ―― ジャンとゲイルの墓を手配する為に、透は父から譲り受けたラケットを手放す覚悟を決めた。
 木製の古びたラケットではあるが、当人にとっては多くの思い出の詰まった宝物であった。それをテニスショップの店長を務めるハウザーに売ったのだ。
 テニス用品のコレクターでもある彼は、以前、龍之介のラケットなら千ドルで買い取ると約束した事がある。当時は現金よりも宝物の方が大事だと拒否した透だが、墓地で牧師から二千ドルもの大金を提示された時、その話を思い出した。
 ハウザーに事情を話して値段を掛け合い、そこで得た金額に残りの貯金をかき集め、二人が安心して眠れるような墓を用意した。
 二本目のラケットの当てがある訳ではない。日本へ帰るための資金は、全部使い果たした。
 つまりそれは、テニスプレイヤーの道を断念するという決意の現れでもあった。目標とするリーダーを亡くした事で、透は夢を掴むための道具も捨てたのだ。
 「親父、今から旅に出る。世話になった人の宝物を、ある人に届けなきゃならない。ただ当てのない旅だから、いつ帰れるかは分からない」
 「金は?」
 「旅をしながら、バイトでもする」
 「そうか」
 今生の別れを仄めかす息子を前に、龍之介が起こした行動は金に関する質問を一つよこしただけだった ――

 どんなに苦しい状況でも夢を追い続けた透が、その夢を諦めて旅に出るというのに、平然と見送った龍之介に対して、エリックは抗議をせずにはいられなかった。
 「貴方は父親として何とも思わないの? 僕にはトオルが自暴自棄に陥っているとしか思えない。
 普段は放任主義でも構わない。でも、こういう時だけは、何かしてあげるべきだよ」
 「何かとは、何だ?」
 「それは……夢を諦めずに済む方法を一緒に考えてあげるとか。せめてラケットを買い戻せるぐらいは用立ててあげるとか。
 自分を支えてくれる人がいると思うだけで、希望が持てるでしょ? このままじゃ、トオルは本当に駄目になってしまう」
 「こんなところで終わるようなら、あいつはそれまでの男だ」
 涙ながらに訴えるエリックとは対照的に、龍之介は顔色一つ変えなかった。
 「リュウ、なんて酷い! トオルは貴方の息子でしょ?」
 「ああ、そう聞いている」
 「だったら、どうしてそんな冷たい態度が取れるの? 貴方は息子のトオルを本当に愛しているの?」
 「さあ、そいつはどうか、分からんな」
 それまで新聞に目を落としていた龍之介が、つと顔を上げた。
 「情なんてものは、相手の受け取り方によって、愛情にも憎しみにも変わる。俺が与えてやっているものを、あいつがどう受け取っているかは分からん。
 そもそも、親が子供に与えなきゃならねえのは情じゃない。そいつが独りで生きていけるだけの力だ」
 これも年の功なのか。語勢に頼らず、理路整然と持論を説く龍之介の弁に圧され、エリックを始め、他の学生達も大人しくなった。
 「でも、トオルが戻らなかったら? もうリュウの息子じゃなくなるかもしれないよ? そうなってからじゃ、遅いでしょ?」
 エリックが最も危惧するのは、この事だった。
 夢を失くした親友が、生きる気力をも失ってしまうのではないか。絶望のあまり、自らの命を絶つような事になったとしたら。
 エリックの心配をよそに、龍之介は再び視線を新聞に戻すと、事もなげに言い切った。
 「その通りだ、エリック。受けた恩も返せず死んじまうような野郎は、端から俺の息子じゃねえよ」


 透の決意を聞いて、モニカはようやく理解した。彼の危うげな笑みの理由を。
 彼が本当に別れを告げている相手は、モニカではない。
 今まで大切にしてきたもの。追い続けてきた夢。その為に必要な情熱。テニスプレイヤーの誇り。これら全てと決別しようとしている。
 ナンバー2としての役目も終えて、ラケットも資金も失った今、必要のないものだ。むしろ、ジャンの最後の願いを叶えるためには、持ち続けている方が邪魔になる。
 穏やか過ぎる彼の微笑は、大事なものを諦める為に感情を捨てた。そんな人間が仮面代わりに身につける偽りの笑みだった。
 コーヒーカップを持つ手が震えた。モニカが想像していた以上に、透の悲しみは深いところまで根ざしている。
 「トオル、お願いがあるのだけど?」
 ずっと胸に秘めていた想いを、決意に変えた。
 「アタシも一緒に連れて行って」
 「何を言っている? モニカには、夢があるじゃないか。テニススクールの面接、もうすぐなんだろ?」
 「実を言うとね。シアトルに行った日が、そうだったの」
 「何だって? どうして、それを言わなかった?」
 危うげな笑みに、驚きと困惑の色が加わった。
 「トオルの側にいたかったの。放っておけなかった」
 「俺の為に? 俺なんかの為に?」
 「いいえ、違うわ。たぶん、自分の為よ」
 「なんで?」
 純粋に「何故」と問いかけてくる彼の前で、モニカは固く閉ざした扉の鍵を解いた。
 「アタシね、やっぱりアナタの事が好きなの。だから側にいたかった。
 何度も諦めようと思ったけど……。でも、ストリートコートを卒業することよりも、コーチなる夢よりも、ただ一緒にいたいと思ったの」
 次々と溢れ出す彼への想い。これが純然たる愛情なのか。それとも嫉妬や執着が混じっているかは分からない。
 「アナタが好き。好きだから、一緒にいたいの。側にいたいの。
 アナタの為じゃなくて、アタシの為に」
 だが、もう迷いはなかった。気持ちを抑えようとも思わなかった。そして、答えを聞く事もしなかった。
 「アナタを誰にも渡したくない。お願いだから、側にいさせて」
 「モニカ……?」
 唖然とする透に歩み寄ると、モニカはこれ以上の質問を避けるために、唇で彼の言葉を塞いだ。
 どん底に落ちる時、人は無意識のうちに偽りの世界に溺れたいと願うものなのかもしれない。実体のない幻影に包まれることで、一時的でも悲しい現実から逃れられる。向き合いたくない事実から、目を背けることが出来る。
 モニカは「ナオ」から。報われないと分かっていながら、共に堕ちる事を望み、透はジャンの死から。逃げ道を探しているだけだと知っていながら、共に堕ちてくれる相手を拒むことが出来なかった。
 どのくらい唇を重ねていただろうか。透が手首からリストバンドを外した。
 「良いの?」
 「ああ」
 「ごめんなさい、トオル。でも、アタシ……」
 今度はモニカの言葉を、透が遮った。乱暴に重ねられた唇に、モニカも応えた。
 痛みの伴う口づけは、今の二人にはちょうど良かった。普通の恋人たちが求めるものとは違う。ただ互いの傷を確かめ合う為の、虚しい夢を見る為の、前戯に等しい口づけだ。
 それで充分だった。理性が戻る前に、早く溺れたかった。全てを忘れさせてくれるであろう、闇の中へ。

 翌朝二人はバス停へ向かった。一夜を共にしたというのに、会話らしい会話もないままに。
 黙って前を歩く透の背中から、ジャンの形見のラケットが見える。あれ程テニスに情熱を傾けていた少年が、どんな思いで自身のラケットを手放したのか。
 ブレイザー・サーブが完成せずに模索していた時でさえ、彼は諦める事をしなかった。「ジャンを倒すのが目標だから、その為ならどんな課題だってやる」と言って。
 当時、モニカはその真っ直ぐ過ぎる情熱を「イカレている」と評したが、それに対して彼は「心底好きだと、そうなる」と言いながら笑い飛ばした。今の仮面のような笑みではなくて、心からテニスが好きで、それを自ら認めた時の楽しげな笑みだった。
 「好きなら上手く出来なくても、やれるところから始めれば良いじゃねえか」
 テニスを愛する少年が放った数々の台詞を思い出し、胸が痛んだ。
 どんな時でも、真っすぐ夢に向かっていたのに。背中のラケットがそれを封印する楔に見えた。
 「モニカ? 出発する前に、コートへ寄っても良いか?」
 今朝から一言も発しなかった透が、初めて口を開いた。
 無論、コートというのはジャックストリート・コートである。だが、チャンフィーに占拠された今となっては、わざわざ立ち寄る価値があるとは思えない。
 躊躇うモニカに、珍しく彼が頭を下げた。
 「俺がアメリカへ来てから一番世話になったコートだし、二度と戻れないかもしれないし」
 珍しいと思ったのは、頭を下げたことではない。ジャンが亡くなってからというもの、透が自分の事ではっきりと意思表示をするのが初めてだったのだ。
 二度と戻れないかもしれない。そう言われては、無下にもできない。あまり気乗りはしなかったが、モニカは渋々ながら了承した。

 先に現状を知らされていたせいか、コートそのものは思ったよりも荒らされたようには見えなかった。もともと大した設備があるでもなく、丸太やネットなどの備品に関しては、何ら変わりはない。
 ただ空間というのは、そこに集う人間の質によって大きく左右すると実感させられた。
 透が造ったバックヤードには酒瓶や煙草の吸殻が散乱し、筋力アップのためのトレーニング器具は物置場として使われていた。少しでも多くボールが打ちたくて順番を競い合ったコートの周りには、チャンフィーの手下達が気だるそうに寝そべっている。
 かつての境界線 ―― 「ゴミ溜め」と蔑まれた危険区域と、活気溢れるテニスコートとの境目は、どこにも存在しなかった。
 そして、肝心のコートの中はと言えば、怯えきった挑戦者が一人。恐らくリーダーが代わったと知らずに、ジャックストリート・コートの噂を頼りに挑戦しに来た者だろう。聞いていた話とあまりに違う中の様子に、ただオロオロと周りを見渡している。
 「お前、今日から俺達の奴隷な」
 「そんな……金はちゃんと払ったはずだ!」
 「あれは入場料だ。ここのルールじゃ、負けた奴は俺等の奴隷として働くことになっている」
 人伝に聞いていた噂は本当だった。本来のルールを無視して、挑戦者から金を巻き上げた挙句、恐喝まがいのことまで行われている。
 ジャンがリーダーだった頃は、挑戦者から金品を脅し取るような真似はしなかった。乱闘はあっても、あのように敗者を侮辱する事もなかった。
 「奴隷が嫌なら、服ごと全財産を置いていけ」
 「そんな、無理だよ」
 「だったら奴隷、決定だ」
 「嫌だ……誰か、助けて……」
 先程から挑戦者を脅しているのは、何度も噂に聞いたあの男であった。
 黒い髪に、浅黒い肌。そして蛇を思わせるような冷たい目。ジャンを死に追いやった男、チャンフィーだ。
 「おい、奴隷。初仕事だ。これを始末して来い」
 怯える挑戦者に向かって、見覚えのあるジャケットが丸太の上から投げつけられた。それを見ていた仲間の一人が、俄かに顔を曇らせた。
 「何だよ。もう捨てちまうのかよ?」
 「ステータスってヤツで着てみたんだが、やっぱり死人のジャケットは気分が悪い」
 「リーダーがどうしてもって言うから、苦労して持って来てやったのに!」
 「うるさい! 気が変わったんだよ。だいいち汚ねえし。ほら、見てみろよ」
 嫌悪感を露に、チャンフィーがジャケットの背中の辺りを指差した。
 コンクリートの上に放り投げられた赤い革のジャケットには、白いシミが残っていた。その原因は、元いたメンバーなら誰もが知っている。去年のクリスマスに起きた“丸太焼失事件”の跡である。
 「俺を怒らせる三人」が焦がした丸太を誤魔化そうとペンキで塗りたくり、そこにうっかりジャンが座った為に出来たもので、メンバーの間ではストリートコート始まって以来の悲惨なクリスマスとして語り草になっている。あの時のマーブル模様のジャンの姿は、モニカもよく覚えている。
 悪ガキ三人がロープで締め上げられていた場所も、フェンス越しに自分が泣かされた場所も、怒り心頭のリーダーが仁王立ちしていた場所も。どれも「そこだ」と示せるほどに覚えているのに、淀んだ空気のせいか、同じ景色がくすんで見えた。

 「そろそろ行きましょう」
 コートに充満する気だるい空気。奴隷を強要される挑戦者。ゴミ同然に扱われたリーダーの勲章。これ以上、情けない現状を知ったとしても、虚しさが増すだけだ。
 モニカはコートから背を向けると、バス停へと続く道を目指した。当然、透も付いてくるものだと思って。
 「トオル……?」
 今まで抜け殻のように覇気のなかった透が微動だにしない。二度、三度と呼びかけてみるも、彼は動こうとはしなかった。
 無言でジャケットを見つめる横顔に、モニカは不安を覚えた。
 「もう気が済んだでしょう? バスが来るわよ」
 優しく話しかけたつもりが、声の震えが思った以上にひどく、せっつくような話し方になっていた。
 「時間がないわ。早く行きましょう」
 「モニカ? 悪りぃ。先に行っててくれないか?」
 「駄目よ!」
 コートの中を睨みつける力強い視線と、きつくフェンスを握り締める拳と。これらが何を意味するのか。
 本当は最初から分かっていた。彼がここに立ち寄ると言い出した時から、こうなる予感がしたのだ。
 「中に入っては絶対に駄目よ。相手はチャンフィーよ? それに手下も大勢いるわ。
 無茶よ。殺されてしまう!」
 ざっと見渡した限りでも、コート周辺とバックヤードを含めて、総勢百人はいるだろう。いくら透が喧嘩慣れしているとは言え、たった一人で戦うには無謀な数だ。
 「お願い、トオル。よく聞いて。
 ジャンは死んだの。あのジャケットを取り返したとしても、彼は戻らないわ」
 「いや、まだ生きている」
 「何を言っているの? 彼は死んだのよ」
 もしここで「行かないで」と泣き崩れたら、彼を引き止めることが出来るかもしれない。しかし涙を武器にするような卑怯な真似は、わずかに残ったプライドが許さなかった。
 「どうしても中へ入ると言うなら、今ここで選んでちょうだい。アタシは待つのも嫌いだし、馬鹿な男はもっと嫌いなの。
 死んだ人間の為に命を捨てるのか。一緒にバス停へ行くのか。ジャケットか、アタシか。二つに一つよ」
 選べと言った側から、涙が溢れた。答えはとうに出ている。
 ジャンが守ってきたのは、仲間だけではない。
 行き場を失くした少年達の最後の砦。そこでは、差別も、偏見もなく、体一つで自由にプレーができる。ジャックストリート・コートは、歴代のリーダー達がジャケットと共に受け継ぎ、大切に守ってきた信念が宿る場所なのだ。
 それを最もよく理解しているのは、ここでジャンに救われた少年達で、透もその一人である。
 「まだ生きているんだ。あのジャケット……リーダー達の魂が……。俺が本当に守らなきゃならないものが、あそこにある」
 何日かぶりに彼の声を聞いた。他人に判断を委ねることなく、己が意思で発せられたいつもの声を。
 皮肉な事に、凛とした意志を瞳に宿す今の透が、モニカが知る中で最も心惹かれる姿であった。
 「本当はモニカとなら、ずっと一緒に……夢を捨てても、一緒に生きていけると思っていた。昨日のことは、嘘じゃない。だけど……ごめん」
 偽りの世界から抜け出た彼からは、閉ざされた闇が消えていた。感情がストレートに映し出される瞳に映るのは、自分ではなく、コートに投げ捨てられたリーダーの勲章だ。
 今になって泣きつけば良かったと後悔する自分は、愚かだろうか。だが、もう止められはしない。
 「ごめんな、モニカ。それから、ありがとう」
 彼が振り向くことは、二度とない。本当に守るべきものを取り戻すために、目覚めてしまったのだから。
 一晩だけの恋人に謝罪と感謝の言葉を残し、透は姿を消した。百人の敵(かたき)が集うジャックストリート・コートへと。






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