第35話 リーダーの器

 罰当番がこんなに楽しいと思ったことはない。
 前日にチャンフィーから砦を奪い返した透、ビー、レイの三人は、乱闘で受けた傷もまだ癒えぬというのに、早朝からコートに集まり、大掃除を開始した。各所に散乱する酒瓶を片づけ、煙草の吸殻などのゴミを一掃し、地面にこびりついた汚れをブラシで丁寧に落としていく。
 昔は嫌々させられていた作業の一つひとつが、今は楽しくて仕方がない。ブラシがコンクリートの地面にこすれる音も、それに合わせて飛び散る水しぶきも、些細なことが喜びに繋がった。
 居場所があって、そこに集う仲間がいる。いかにそれが幸せなことか、すっかり忘れていた。
 ジャックストリート・コート。この場所が、今日からまた自分達の砦になった。夢を叶えるための最後の砦――。

 「トオル? これ、お前のだよな?」
 丸太の周辺を担当していたレイが、戸惑い気味にリストバンドをかざして見せた。記憶力の良い彼の事だから、以前とのギャップに困惑しているのだろう。
 透は、少しの間、確かめる振りをしてから、小さく頷いた。
 あの晩、モニカと共に旅に出ると決意した夜に、自ら外したリストバンド。その後、何処へやったか、覚えがないが、ポケットにでも仕舞ったのかもしれない。それが乱闘の最中に落ちて、多くのヤンキー達に踏みつけられ、消火器の泡も喰らったらしく、ピンクとグレーの混じった何とも表現しがたい色に染まっている。
 しかも異様な色彩を放つ地の色に加え、斑点状のシミまで増えている。小さいなりにも存在感を示すそれは、顔も覚えていない誰かの血痕だ。
 本当はそのリストバンドが“かつての”所有物である事は、日本語の刺繍から容易に判断できた。だが、すぐにそうとは言い出せなかった。
 透は変わり果てた姿のリストバンドを受け取ると、ジーンズのポケットに押し込んだ。
 あの夜ことは、紛れもない裏切り行為である。奈緒に対しても、モニカに対しても。以前の生活に戻れたからと言って、何事もなかったかのような顔をして身に着けることは出来なかった。
 持て余しているのなら、いっそ捨ててしまえば良いものを。一度は捨てた思い出に未練を残す自分が情けない。
 いつから、こんな優柔不断になったのか。自身の中に何一つ「絶対」と言い切れるものがない。
 自分で自分が信用できなくなっていた。一度はモニカと共に生きると決めたくせに、昨夜、夢に出てきたのは奈緒だった。死を覚悟してコートを奪還し、生きていると実感した瞬間、会いたくなったのも奈緒だった。
 体を重ねて確かめたはずの想いは幻で、逆に、厳しい現実の中で、色褪せたかに見えた想いの方が本物なのか。矛盾だらけの自分に、昨日から振り回されていた。

 「もう一つ落ちていたんだけど、これ、どうする?」
 しかめっ面のレイが次によこしたのは、細切れになったプロミスリングであった。
 いくら丈夫に組んであると言っても、これだけ何度も切り裂かれていれば、さすがにボロボロだ。第一、何度も切ったり結んだりして使う代物ではない。
 透はしばらく思案した後で、
 「これが最後だ。もう一度だけ、誓いを立ててみないか?」と二人に持ちかけた。
 「リーダーのお前がそう言うなら、俺様は構わないぜ」
 ビーの意見にレイも同意して、短くなったプロミスリングをラケットのフレームに結んだ。自身のラケットを売り払った透は、ひとまずジャンの形見を拝借して、二人分の誓いを結ぶ事にした。
 不恰好な結び目を見て、ビーが噴き出した。
 「これじゃあ、プロミスリングって言うより、プロミス団子だな」
 「ま、俺達らしくて、良いんじゃない? もともと型通りに生きられない運命なんだよ」
 レイのコメントは相変わらずシビアに聞こえるが、「型通りに生きられない」というところは妙に得心した。
 「誓いを立てるぞ」
 透の号令で、ビーとレイが丸太の前に整列した。
 「俺達はテニスプレイヤーとして、二度とラケットで人を傷つけないと誓います」
 前リーダーの時と同じ誓いを述べてから、透はもう一言、言い足した。
 「但し、命が危ない時は、どんな事をしてでも生きること」
 ビーとレイが二人同時に透を見やった。首を傾げながらの視線はさして懐疑的なものではなく、ジョークにされることを待っていたようだが、やがてその気がないと分かると凝視に変わった。
 透は個々の視線に真顔で頷き、真面目な訴えであることを伝えた上で、二人に問いかけた。
 「ジャンが取った行動を非難するつもりはないし、俺にその資格がないのも分かっている。だけど、万が一の時には、俺は仲間に誓いを破ってでも生き延びて欲しい。
 この考えは間違っているか?」
 今回の一件で多くの人の悲しみを見てきたからこそ、辿り着いた結論だ。今の透に出来る精一杯の誓いである。
 「良いぜ。俺様、気に入った」
 「中途半端なところが、俺達らしくて良いかもね」
 前リーダーの教えを曲げることに、罪悪感とは別の痛みを胸に抱きながら。透たち三人は、改めて丸太の前で誓いを立てた。
 ラケットで人を傷つけない。但し、我が身が危険にさらされた時は命を優先すること。

 作業に戻ろうとする透に、今度はビーが相談を持ちかけた。
 「ついでだから、新リーダーの称号も決めようぜ」
 「リーダーの称号?」
 「だから、『伝説のプレイヤー』とか、『最強の男』みたいなヤツだ」
 「それって、わざわざ決めるモンなのか?」
 「今回は特別だ。なるべく強そうな名前を考えてアピールしねえと、今のままじゃ誰も寄り付かねえ」
 確かに、ビーの言う通りであった。
 前リーダーの悲劇も、チャンフィーの悪しき所業も、「俺を怒らせる三人」による大立ち回りも、ジャックストリート・コートの名を貶めるには充分で、おかげで奪還から一夜明けたというのに、一人の挑戦者も来ない有り様だ。
 「例えば、『悪党を返り討ちにした魔界の王者』ってのは、どうだ?」
 「強そうって言うより、悪そうだ。それに長過ぎる」
 「じゃあ、『極悪プレイヤー』は?」
 「その物騒なイメージから離れることは出来ねえか?」
 「バ〜カ! これでも苦労してんだぜ? ジャンほど強くもねえのに、最強とは言えねえし。
 嘘吐きはチャンフィーの始まりだからな。嘘のない範囲で、インパクトのあるネーミングを考えねえと」
 理論的には正しいかもしれないが、逆効果だと思うのは自分だけだろうか。
 これは常々感じていた事だが、ビーのセンスは特異である。良し悪しの問題ではなく、奇抜なのだ。髪の色にせよ、服装にせよ、コート内のペイントにせよ。
 「出来るだけ、常識的なのを頼む」
 言った側から、ビーが得意顔になった。
 「そうだ! 『伝説を引き継いだ悪魔』が良い。これなら嘘はないし、短くて、インパクトがあって、強そうだろ?」
 「もう良い。勝手にしてくれ」
 あの顔になった時のビーは、誰にも止められない。掃除よりも気合を入れる仲間を残し、透は先に近況報告を済ませようと、コートを後にした。

 生前ジャンがよく通っていた店には、一連の騒動が終結した旨を報告しがてら、新リーダーの挨拶をしなければならない。特にハウザーが店長を務めるテニスショップには、墓の件で世話になった事もあり、真っ先に伝えておきたかった。
 「考え直した方が良い」
 透が事情を説明し終わらないうちに、ハウザーの口から否定的な意見が飛び出した。
 人当りの良い店長がこんな言い方をするのは珍しい。店先での立ち話とあって、口調は穏やかだが、間の取り方は問答無用と言いたげだ。ナンバー2の時とは、対応がまるで違う。
 「何でだよ? 他の二人は仕事があるし、順番から言っても、俺がリーダーになるしかねえじゃん」
 「あそこのリーダーになるのが、どういう事か。分かっているのかい?」
 ハウザーの視線が、透の着ているジャケットに向けられた。
 リーダーの勲章である赤い革のジャケットは、ジャンの体格でこそ形を成すが、今月でようやく十四歳になろうかという少年の体には大き過ぎた。両袖を三つ折にまくり上げ、調整を試みたものの、肩のラインは二の腕近くに下がり、腰で決まるはずの着丈が膝の上まで達している。
 「とりあえず、仲間とコートを守れば良いんだろ?」
 透は質問に応じながら、さり気なくカウンターに肘をつき、少しでも裾が短く見えるようにポーズを取った。
 「そうだね。だけど、『とりあえず』じゃなくて、何よりも優先して……だよ?
 リーダーになる以上は、何よりも仲間とコートを第一に考えなければならない。自分の夢よりもね。その覚悟があるの?」
 「当然だろ。コートと仲間が守れるなら、俺の夢なんて……」
 堂々と決意を語るつもりが、次第に語気が弱くなっていった。
 再び生じた自身の中の矛盾に、透は困惑した。
 皿洗いのアルバイトは続けている。だが、それは単なる習慣として通っているだけで、実際には帰国の夢は潰えたのも同然だった。
 一年半かけて貯めた資金は全て使い果たし、今ではラケットも借り物だ。一から貯め直すとしても、帰る頃には光陵テニス部の当時の部員は全員、高等部を卒業しているだろう。ライバルを倒す為に帰るというのに、肝心の遥希が卒業した後では意味がない。
 正直なところ、リーダーを引き継ぐと決めた時点で、透は夢を諦めても良いと思った。実現できるかどうか分からない無謀な夢を追うよりも、自分はジャックストリート・コートに留まり、仲間の卒業を見送る立場に回るのも悪くない。リーダーとして生きるのも一つの道であると。
 ところが改めてハウザーに問いただされると、口ごもってしまう。「自分の夢を諦めて、仲間とコートを守る」と断言できない。
 夢を断念しても良いと思っているくせに、確認されると答えられない自分。やはりリーダーになる覚悟が定まっていないのか。
 その動揺を見透かすように、ハウザーが畳み掛けた。
 「実を言うとね、ジャンにはたくさんのオファーがあったんだ。もう一度プロとしてコートに立たないかと誘われていたのに、全て断って、君達を守ってきた。
 立派な事だと思うけど、私はトオルに同じ道を歩いて欲しいとは思わない。
 ストリートコートは、所詮、遊び場だ。いくら命がけでコートを守ろうと、連戦連勝で街の噂になろうと、記録には残らない。
 もっとはっきり言えば、あそこに何かを懸ける価値はない。君の将来も、もちろん命もね。
 良い機会だと思って、もう一度、これからの事をよく考えてみなさい」

 報告するつもりで行ったのに、ハウザーに宿題付きで追い返されてしまった。
 今まで将来について考えなかった訳ではない。以前、ジャンに日本へ帰った後のことを聞かれてから、透にも漠然とではあるが、頭に描いていた夢がある。
 光陵学園へ帰ってライバルを倒し、納得のいく形で卒業した後、ストリートコートに戻って、ジャンに勝負を挑む。そして、いずれは彼を越えるプレイヤーになってみせる。そんな自分なりの夢を抱いていた。
 自分を拾い、育ててくれた恩人に対して、彼よりも強くなる事が最大の恩返しだと思っていた。丸太の上で「もっとデカイ男になってから、戻って来い」と言って微笑むジャンの姿は、今でも鮮明に覚えている。
 まさかそのジャンがいなくなり、夢ごと潰えるとは思いも寄らなかった。ライバル・遥希を倒すという目標も、唐沢と交わした約束も。想いだけが強くて、何一つ実現できていない。
 現状はアメリカに来た当初と変わらず、振り出しに戻っている。いや、自身のラケットを失った分だけ、マイナスだ。
 一歩ずつでも夢に向かって進んでいると信じていたのに。夢を追う気持ちさえあれば、少なくとも後退する事はないと思っていた。
 一生懸命頑張ってきた結果がマイナス発進とは。一体、これからどうすれば良いのだろう。

 考え事をしながら歩いているうちに、いつの間にか透はジャンの墓の前にいた。
 アメリカではよほど親しい間柄でない限り墓参りをする習慣がないと聞いたが、辺り一面にサイズの違うバドワイザーのボトルが並べられているところを見ると、故人を偲ぶやり方に違いはないようだ。
 「ごめん、ジャン。今日も手ぶらで来ちまった」
 ジャンが生きていた頃と同じく、反省の欠片もない態度で軽く詫びを入れると、透は墓石の前に腰を下ろした。
 「なあ、ジャン? どうしたら良いと思う? 俺だって日本に帰りたいと思うけど、でも……」
 ふいに背後に人の気配がして、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 「まずはジャケットの丈から直した方が良いんじゃねえか? せっかくのリーダーの勲章が、着ぐるみ仕様になったかと思ったぜ」
 言われたくない時に、言われたくない言葉を平気で挨拶代わりに口にする男と言えば、一人しかいない。
 「京極さん!」
 「おう! 久しぶりだな、トオル」
 「例のトーナメントの視察で来たんですか? 元気そうですね」
 去年と同様、彼は父親の出張に同行し、そのついでに顔を出してくれたらしい。
 「まあな。お前はこれ以上ないってぐらい不幸だろ?」
 一年ぶりの再会を喜ぶ間もなく浴びせられた毒舌に、透は笑顔で応えられなかった。いつもなら「相変わらず」と笑って聞き流せるものを、この時はひどく不快に感じた。
 「日高遥希が、光陵テニス部の部長になったぞ」
 「ハルキが?」
 上級生が引退した光陵テニス部では、今や透の学年が中心となって部を引っ張る立場にある。一年生の時からレギュラー入りしている遥希なら、部長に選ばれたとしても不思議ではない。
 「まあ、実力からして当然だろう。今年の日高テニススクールのジュニア・トーナメンントでも優勝しているし、あいつの代では向かうところ敵無しだ」
 「ジュニア・トーナメントって、三月じゃないんですか?」
 透の記憶では、日高テニススクールがトーナメントを行なうのは、毎年三月と決まっていたはずだ。
 「お前、マジで浦島太郎だな。今年から十二月になったんだ。
 三月だと選抜と重なって調整が厳しくなるから、参加する選手が限られてくるだろ? だから全国各地、一人でも多くの選手が参加できるように、十二月に繰り上げた」
 「全国から……」
 「早く高校生の部も作れ、とあのタヌキ親父に交渉しているんだが、自分の息子の成長に合わせてトーナメントを計画しているらしくてな……」
 透は最後まで話を聞くことが出来なかった。
 遥希が光陵テニス部の部長として活躍している。しかも全国から選手が集う大会で、優勝を果たすほどの力をつけている。その二つの事実が、頭の中で繰り返し響いていた。
 父親がテニススクールのオーナーで、何の苦労もなく活躍の場を与えられる遥希。透が帰りたいと切望する光陵学園に毎日通い、当たり前のようにテニス部で練習を続けている。
 それに反して、自分は危険区域でヤンキー相手に乱闘騒ぎを起こし、いまだ公式戦に出た事もない。
 先程ハウザーから受けた忠告は、何も将来に限った話ではなかった。
 ストリートコートは、所詮、遊び場で、どんな強敵を相手に勝利を得たとしても、記録には残らない。この一年半の努力を証明する術はない。
 改めて自分と遥希が置かれた環境の落差を痛感し、胸の中に底知れぬ嫉妬心が渦巻いた。
 口数の少なくなった透に構うことなく、京極が続けた。今日の彼は、何故か癇に障る言い方をしてくる。
 「同じ頭を張るにしても、光陵テニス部の部長とストリートコートのリーダーとじゃ、えらい違いだな? これがジャンを倒してナンバー1になったと言うなら、話は別だが……」
 「京極さん、一体、何が言いたいんですか!? さっきから、わざとムカつく話ばかりしていますよね?」
 「お前こそ、何を苛ついている? 俺に図星を指されたのが、そんなに悔しいか?」
 「悔しいとか、そういう問題じゃなくて……」
 「なんだ、悔しくねえのか? ゴミ溜めに長居し過ぎて、闘争心まで鈍ったか?
 ジャンなら、売られた喧嘩は喜んで買ってくれたがな」
 京極の不敵な笑みを見て、気のせいではないと悟った。間違いなく、彼は挑発している。
 その理由は分からないが、挑戦者がいる限り、受けて立つのがリーダーの役目である。
 「試合をしに来たんだったら、早く言ってくださいよ」
 「俺と勝負して、勝てると思っているのか?」
 「去年までの俺とは違いますから。覚悟してください」

 自信満々とは言えないが、透にも少なからず勝算はあった。
 この一年間、無駄に過ごしたつもりはない。努力という点では、誰よりも重ねてきた。
 最強の男の下でサーブを習得し、モニカからも指導を受け、自分なりに成長を実感している。唐沢のドリルスピンショットも、切り札として通用するはずだ。
 ところが、どうした事だろう。あれだけ苦労して完成させたサーブが、まったく決まらない。ドリルスピンショットに至っては、繰り出すチャンスすら与えられず、透は呆気なく敗北した。
 時間にして十五分もかからなかった。京極を倒すどころか、「6−0」のラブゲームであった。
 惨憺たる結果に愕然とする透に、京極が追い討ちをかけてきた。
 「確かにお前は成長したかもしれないが、俺も日々進歩している。他の連中だって同じだ」
 「だけど俺は、ハルキの何倍も苦労して……。それなのに、なんで?」
 「あのな、自分だけが苦労したと思うなよ。俺達だって必死で練習してきた。お前がここでヤンキー相手にぶん殴っている間もな」
 透にとって、これを言われることが最も辛かった。
 危険区域でプレーする以上、乱闘は避けられない。何も好き好んで人を殴っているのではない。テニスを続ける為に、コートを守る為に、仕方なくやっている事である。
 しかし、時々自分でも分からなくなるのも事実であった。コートを守る為に人を殴っているのか。人を殴る為にコートにいるのか。
 京極の言うように、ストリートコートに長居し過ぎて感覚が麻痺しているのかもしれない。いつか自分もチャンフィーと同じ過ちを犯すのではないか。そんな不安を常に抱えて過ごしている。
 「京極さん……俺はどうすれば……?」
 どうすれば強くなれるのか。遥希よりも力を付ける事が出来るのか。
 自分ひとりの力ではどうにも出来ずに、すがるような思いで京極を見上げた。
 「トオル? お前、変わったな。昔のお前なら『勝つまでやる』と言って、何度でも挑戦してきた。いくら俺に邪険にされても、土下座までして、喰らいついてきた。
 今のお前じゃ、何を言っても無駄だ。リーダーどころか、ここにいる資格もねえよ」
 完全に思考が止まっていた。反論する気力も湧いてこない。
 うなだれる透に向かって、京極が淡々と言って聞かせた。
 抑揚のない口調には、義理で説明してやるが期待はしない。そんな落胆を含んだ寒々しい響きがあった。
 「今日、俺がここへ来た理由を分かっているのか?
 ジャンの親友の一人として、同じ上に立つ者として、お前が本当にリーダーに相応しいか、見極めに来たんだ。
 試合は誤魔化しようがない。今の精神状態が反映されるからな。
 それなのにお前は、小手先の技を出す事ばかり考えて、勝ち急いだ。一度も勝った事のない相手に対し、見るからに邪魔なジャケットを脱ごうともしなかった。
 完全に見失っていたよな? 自分の力量も、誰を相手にしているのかも。違うか?」
 全て京極の指摘した通りであった。
 あのジャンでさえ、京極と対戦した時はジャケットを脱いで試合に臨んだのだ。冷静に状況判断が出来ていれば、簡単に分かる事である。
 京極にこれまでの自分の頑張りを認めてもらいたくて、技を出すことだけに神経を使い、他は何にも目に入らなかった。対人競技であるにもかかわらず、対戦相手の存在そのものが意識の外だった。
 京極の指摘は尚も続けられた。
 「お前、ここを逃げ場にしているだろう? リーダーになれば、夢を諦める立派な口実が出来るからな」
 そうかもしれない。ハウザーに問いただされた時、口ごもったのも、夢に対する未練ではない。後ろめたさがあったからだ。
 ジャンの跡を継ぐ為に夢を諦めた、と言えば聞こえは良いが、実際には好都合だと思っていた。これで叶わぬ夢を体よく捨てられる。大義名分を得たことに安堵して、そのくせ、上面だけ取り繕おうとする行為に罪悪感を抱いていた。
 こんな中途半端な状態で、京極との勝負に勝てるわけがない。ずっと明魁テニス部の部長という立場を背負わされていた彼には、透の本人すら気づかぬ心の内が分かっていたのだ。
 「今のお前に、ジャンの跡を継ぐ資格はない。お前なんかに付いていく奴等が可哀想だ。仲間の為にも、ジャンの名誉の為にも、さっさとリーダーなんか辞めちまえ」
 言うべき事だけ伝えると、京極は足早に去っていった。

 しばらくの間、透はコートに座り込んだまま動けなかった。命がけで砦を奪い返したというのに、残された現実はどれも厳しく、褒められるどころか、非難を浴びている。
 そんなにいけない事をしたのだろうか。ただジャンが大切にしてきたものを守りたかっただけなのに。
 今の試合で、自分に力量がない事はよく分かった。前リーダーの足元にも及ばない存在である事も。
 だからと言って、今さらリーダーの立場を放棄できないし、もちろんコートを手放すつもりもない。
 ならば、夢を諦める覚悟を決めて、ストリートコートのリーダーに徹するしかない。体の良い口実ではなく、今度こそ本気でジャンの跡を継ぐ為に。
 夢を追いかけるには、それなりの運も必要だ。遥希のような恵まれた環境でなくとも、人並みの生活を送れるだけの幸運が。
 現実には夢を諦めて生きている人間の方が多いはず。何も悪い事をするわけではない。ただ折り合いを付けようとしているだけだ。与えられた現実の中で、実現可能な夢を探せば良い。
 それなのに、何故まだ後ろめたさを感じているのか。叶わぬ夢を捨てられないのか。堂々巡りの問いかけを、透は何度も繰り返していた。

 「ちょっと、墓参りをしたいんだが……良いか?」
 気がつけば、辺りは薄っすらと暮れかかり、夕月が顔を出す夜の手前の時刻になっていた。薄暗がりの中から、赤ら顔で声をかけてきたのは、『ラビッシュ・キャッスル』のオーナーだ。
 「墓参りって、ジャンの墓地は向こうだぜ?」
 「バカタレが! あいつの抜け殻なんぞに用はない。奴の魂は、ここにある。だから、ここで墓参りをする。
 分かったか、坊主?」
 墓参りを、故人の魂が宿る場所でする。偏屈で通るオーナーらしいやり方だ。
 透が高齢だと威張るオーナーに肩を貸し、丸太の上まで連れて行くと、すでにそこは夜景の準備が整っていた。
 オレンジ色の光の眩さは、ジャンが生きていた頃と変わらない。彼はこの夜景を肴に、よく酒を飲んでいた。下から見ると寂しげに思えた背中は、何を背負い、どこを目指していたのだろう。
 「坊主、名前は?」
 「オーナー? いい加減、名前ぐらい覚えてくれよ。
 俺の名前はトオル。ずっと前にナンバー2になったって、挨拶に行っただろ?」
 その後も何度か店を訪ねているのだが、彼の記憶にはないらしい。
 「トオルは原石だと、奴はよく自慢げに話していた。お前がその原石か?」
 唐突な質問に、透は思わずかぶりを振った。
 「俺は違うって」
 「トオルじゃないのか?」
 「そうだけど、でも原石なんて言われるほどの価値はない。すっげえ弱くて、さっきもボロ負けしたばかりだ」
 「そうか、弱いのか?」
 「ああ。弱くて、バカで、最低だ」
 「それは、まだ磨き方が足りねえだけじゃないのか?」
 「えっ?」
 「確か、奴はそんな事をほざいていたな」
 ウォッカとオレンジジュースを交互に口に含んで、オーナーはすっかり酔っ払いの域に達している。
 仮にも酒場を営む人間が、こんな横着なカクテルの作り方をして良いのか疑問に思ったが、あえて口にはしなかった。それよりも原石の話の方が気になった。
 透も、昔、ジャンから原石の話をされた事がある。彼は実に身勝手な夢を語り、その夢を叶える為には原石が必要だと話していた。
 当時は、それが自分の事だと思えず、聞き流していたが、ひょっとしたら彼はいくらかの期待を寄せてくれていたのかもしれない。
 「他に……ジャンは他に、何て言っていた? 俺のこと、何か話してなかったか?」
 ジャンの声が聞きたかった。自分の事をどう思っていたのか。リーダー失格と言われた自分にも、彼のようなプレイヤーになれる見込みがあるのか。何でも良いから、彼との接点が欲しかった。
 「目の前に見える物だけが、真実じゃない」
 酔いの回ったオーナーが、不安定なリズムで呟いた。
 「墓参りも。奴の魂と語り合うなら、ここの方が良い。
 もしも坊主が、奴の言うように原石なら……お前の信じるものが真実だ。今までお前が感じた中に……奴の本心が……」
 「俺もジャンの本心を聞いているってことか?」
 「今は見えなくても……磨けば、きっと光り出す。本物なら……きっと……」
 相変わらず、口調も姿勢もふらふらとしていたが、オーナーの言葉には妙な説得力があった。まるでジャンの魂が乗り移ったようだ。
 透の左胸にあるものが息をし始めた。ジャンの死後、共に滅したと思っていた、懐かしい感覚が甦る。
 「原石と石ころの違いを教えてやろうか?」
 今も心に残る彼の声。彼の拳が当てられた個所には、あの時の熱が残っている。
 「俺の中に答えが……。ああ、そうか。そういうことか」
 堂々巡りの出口が見えてきた。
 自分はリーダーという立場に捕らわれ過ぎて、肝心な事を見失っていた。今すべき事は、大切な仲間を守ること。それは立場に関係なく、ナンバー2の時から自身に課していたことだった。
 そして、もっと前から決めていたことがある。
 自分の居場所は、自分で決められるぐらいに強くなる ―― そう誓って日本を出たはずだ。その居場所とは“あるべき場所”で、そこへ帰る為に、ここを砦にして進んでいた。たとえリーダーになったとしても、変えてはいけない目標だった。
 自分に欠けていたのは、リーダーとしての覚悟ではない。夢を追い続ける覚悟だ。途方もない道のりに臆して、安易な道を探そうとしていたのだ。
 どうりで見えなくなるはずだ。楽して手に入るものを夢とは呼ばない。
 いくら険しい道のりでも、先が見えずとも、一から資金を貯め直し、ライバル・遥希の待つ光陵学園へ帰る。ユニフォームを残したままの、あのテニス部へ。
 きっとジャンも夢を諦めてリーダーになったのではない。現に、彼はこの丸太の上で夢を語っていたではないか。
 リーダーという大役を務めながら、それでも彼は夢を追い続けた。子供のように目を輝かせ、楽しげに話していた。そんなリーダーだからこそ、自分は付いていこうと決めたのだ。
 光陵学園に戻って、遥希を倒す。ジャンを超える強い男になる。
 これらの夢を叶える為には、どれほどの痛みを伴おうと、磨き続けるしかない。自分の進む先にゴールがあると信じて。
 ようやく頭の中を渦巻いていた迷いが吹っ切れた。
 「オーナー、ありがとう。俺、やってみる。自分の夢も、仲間も、両方守れるリーダーになるよ。
 ジャンみたいに上手く出来るかどうかは分からないけど、これが俺の真実だから」
 「は……? 坊主、誰だ? 名前は?」
 先程まで夢現で語っていたオーナーが、ふと我に返ったように目を瞬いた。これも酒のせいなのか。あるいは、本当にジャンの魂が乗り移っていたのか。
 超常現象など日頃は信じぬ性質だが、この時ばかりはその可能性を否定しきれなかった。二人の生前からの付き合いを思えば、偏屈な者同士、意思の疎通ならぬ、魂の疎通が容易なのではなかろうか。
 「まさか、じじぃの体を借りて、飲みに来たんじゃねえだろうな? ま、どっちでも構わねえけど、ほどほどにしろよ?」
 透は老体を担ぎ上げると、一歩ずつ、しっかりとした足取りで丸太を降りた。身の丈に合わないジャケットを頂上に残したままで。






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