第36話 新米リーダーの挑戦

 翌朝、透は普段着としていたジーンズからジャージに着替え、京極をジャックストリート・コートに迎え入れた。
 己の身の丈をわきまえた上で、改めて仲間と夢の両方を守れる強いリーダーになろうと心に決めた。その手始めとして、昨日の雪辱を果たすべく、京極にリターンマッチを申し込んだのだ。
 「わざわざ呼びつけたからには、俺を楽しませる自信があるんだよな?」
 京極の視線が透の着ているジャージで一旦留まり、別の場所で赤いジャケットを認めた直後に鋭くなった。
 「いえ、自信はありません」
 こうして邪念を捨てて京極と向き合うと、よく分かる。全身を覆う分厚い筋肉の層は、恵まれた肉体に甘んずることなく鍛錬を続けていた証拠であり、瞬時に相手の考えを見抜く洞察力も、熾烈な戦いに身を投じてきた結果、自ずと培われたものである。
 ジャンにジャケットを脱がせた男の実像は、昨日より何倍も大きく、そして手強く見えた。
 「自信がないなら帰るぞ。俺は、やる気のない奴の相手をするほど暇じゃない」
 いつもの威勢の良さを期待していたのだろう。京極が不機嫌さを露に、地面に置いたばかりのラケットバッグに手をかけた。
 返答次第では、試合をせずに帰るということか。透は、ますます彼を落胆させると知っていながら、あえて掟破りの要望を口にした。
 「京極さん、丸太側のコートへ入ってもらえませんか?」
 「何だと? お前、リーダーのくせして挑戦者側のコートで勝負を受ける気か?」

 ジャックストリート・コートでは、挑戦者が出入り口、メンバーが奥の丸太側で対戦する決まりになっている。
 太陽の向きを考えれば、午前の数時間だけ挑戦者側のコートは日差しが眩しいが、すぐにコートチェンジが行なわれる為に、むしろ最初に丸太側にいたメンバーの方が不利になる。さらに、挑戦者側に立つ者にはサーブの選択権も与えられる。
 これら、挑戦者優先の寛大なルールは客人に対するヤンキー流の礼儀であり、それぐらいのハンデをあげても負けないというメンバーの誇りの現れでもあった。従って、透のこの要望は双方の立場を逆転させるもので、面子を重んじるストリートコートのリーダーにとって屈辱的なポジションにあたる。
 「一体、どういうつもりだ?」
 「昨日の試合で、よく分かりました。今の俺は、京極さんより多くの面で劣ります。だから、今日は挑戦者として勝負をさせてください」
 「お前にはリーダーのプライドがないのか?」
 「これが真実だから。俺はジャンの足元にも及ばない、非力なリーダーです。格上の挑戦者と対戦するのに、ハンデをつける余裕はありません」
 わずかな沈黙の後、京極から溜め息が漏れた。但し、それは新米リーダーの不甲斐なさを嘆いたからではなく、謙虚な言動の裏側に隠された真の狙いを見抜いたからである。
 「トオル? お前さ、口では自信がないと言いながら、本当は俺に勝つ気でいるだろう?」
 百戦錬磨のリーダーからの鋭い指摘を受けて、これまで大人しくしていた新米リーダーが本性を見せた。
 「ええ、やるからには」
 「面白い。お前の挑戦、受けてやるよ」

 出入り口側のコートに立った透は、そこに横たわる緊張に飲まれないよう深く息を吸い込んだ。
 実に久しぶりの感覚だった。ボールが行き交う前の、静かに張り詰めた空気。誰の助けもない一対一の勝負が始まろうとしている。
 この緊張感を求めてここを訪れたのは、一年以上も前の事である。挑戦者側のコートから、五十人のメンバーを相手に勝負を挑んだ。あの時と同じ感覚が甦る。
 ネットの向こうの京極は、さすがに場慣れしていると見えて、ベースラインで悠然と構えている。
 一瞬たりとも気を緩めてはいけない。勝ち急いでもいけない。油断、焦り、動揺といった、隙を見せる行為が、即、敗北に繋がる相手である。
 「ジャン、見ていてくれよな。今の俺の全力をぶつけるから」
 透は丸太に掛けたジャケットに向って呟くと、サーブの構えに入った。
 トスを上げたと同時に、自分でも違うと分かった。昨日は冴えなかったサーブが、今日はインパクトの感触だけで、その出来栄えを推し測ることが出来る。
 ベストなタイミングで放った時にしか生まれないラケットの快音と共に、狙い通りのコースを経てコートから飛び出すボールの影が見えた。
 京極はと言えば、ラケットを振り切った直後のフォームで静止したままである。
 レシーバーがフォロースルーの後に動きを止める理由は、一つしかない。次の返球に備える必要がなくなった時。つまりサービス・エースを決められた時である。
 「お前、このサーブ……?」
 「『ブレイザー・サーブ』と名づけてくれました。ジャンから教わったサーブです」
 「なるほど。どうりで、そっくりだと思った。
 身長差はトスの角度を調整して、カバーしたのか?」
 「はい」
 迷いが吹っ切れたおかげで、目の前のボールに集中できたからだろう。昨日とは打って変わって、サーブのキレが良かった。
 試合の流れを最初に左右するのは、サービスとリターンである。そう教えてくれたジャンの言葉通り、第1ゲームは透がブレイザー・サーブを軸に積極的に攻め続け、先取した。

 「ジャンの形見のサーブで勝負しようという訳か? だったら、俺も遠慮なくやらせてもらうぜ?」
 その昔、京極のサーブには散々苦労させられた覚えがある。頂点に立つ男の実力が見たい一心で勝負を挑んだまでは良かったが、長身から繰り出される矢のようなスピードに追いつけず、当てる事さえ叶わなかった。
 あの頃の悔し泣きばかりしていた自分を、透は懐かしく思った。
 負けん気だけでは超えられない壁があると悟り、自身のトレーニング方法を一から見直し、機会あるごとに京極に挑戦し続けた。それでも二人の距離は縮まらず、いつも赤子の手を捻るがごとく、あしらわれていた。
 思えば、当時の悔し涙は八つ当たりに近かった。自分ではどうにも出来ない苛立ちを涙で発散していただけで、周りの誰かがそれを拭ってくれた。京極や、唐沢や、滝澤や、多くの先輩達が、声を発すれば応えてくれた。
 自分で流した涙の始末を自分でつけられるようになったのは、アメリカへ来てからだ。そのやり方を、ここで教わった。
 「自由にしたけりゃ、強くなれ」
 京極が渾身の力を込めたサーブを、透は易々と打ち返した。ボールのスピードに目が慣れていたのである。
 ブレイザー・サーブの練習は、相手が打つサーブを目で捉える訓練にもなっていた。自身が放つサーブと同じスピードまでなら、容易く追い付ける。
 「ジャンがお前に叩き込んだものを、全部、見せてもらおうか?」
 明魁テニス部のリーダーを務めた男の目が、本気に変わった。

 京極の強みはサーブだけではない。「ボレーの達人」の異名を持つ彼の場合、前へ出られた時が本当の勝負である。
 互いにサービスゲームをキープする形で「2−2」と引き分けた後の第5ゲーム。京極がブレイザー・サーブを的確に捕らえ始めた。
 これまで球の威力に圧され気味だったリターンが、確かなコントロールと共に返される。ボールの重さも申し分ない。完全に攻略されたと解釈して良いだろう。
 ブレイザー・サーブを攻略したと同時に、じりじりと前へ詰め寄る京極。試合における彼の位置取りは独特だ。
 通常、ボレーを得意とするプレイヤーがネットに出る場合、ネット付近、少なくともサービスエリア内に留まり、攻撃を仕掛けてくる。
 しかし、ローボーレ、ハイボレーと、あらゆる高さのボレーを自在に操る京極は、他の選手よりも守備範囲が広い為に、サービスライン上に陣を取る。そこは長身の彼にとって、相手のロブをけん制するのにギリギリのラインでありながら、それ以外のボールはボレーで処理出来るという、死角なしのベストポジションだ。
 右に左にコースを打ち分けながら、緩急まで付けてくる、厄介な攻撃が続けられた。恐らく彼は、じっくり腰を据えて透のプレーを観察しつつ、体勢が崩れたところを一気に攻め立てる腹だろう。
 「ボレーの達人」を相手にボレーで対抗するのは分が悪い。だからと言って、ボレー対ストロークでは、尚、分が悪い。
 こちらがストロークで返球するという事は、相手に体勢を整える時間を与える事になる。反対に、向こうからはノー・バウンドで返される分だけ、こちらは速いテンポで対応しなければならない。しかも相手の守備範囲はコート半面で済むのに対し、自分は全面をターゲットにされるのだ。
 透はリスクを承知の上で、あえてコート後方に留まり、来るべきチャンスをじっと待った。形勢を逆転するには、京極が罠を仕掛ける一瞬しかない。
 今までの経験からして、彼はもっと強力に揺さぶりをかけてくるはずである。左右だけでなく、前後にも――。
 透の足元深くにボレーが落とされた。
 「間違いない。今だ……!」
 相手を後ろに遠ざけた状態で京極が送り込んでくるのは、ネット際に落ちるドロップボレーである。
 「ジャンの他に、俺にテニスを教えてくれた人がもう一人……」
 返球と同時に前方へダッシュした透は、落ち始めたボールの下へラケットを滑り込ませると、慎重にグリップを引いた。
 扱うラケットの重さが変わった事により、繊細なタッチを要するショットには、いつも以上に注意を払わなければならない。手首の角度は崩さずに。しかし余計な力は抜いて、グリップを支える小指に意識を集中させる。
 重量のあるラケットから離れたボールが、軽やかにネットの上を滑り、わざとタイミングを外すような素振りを見せてから、反対側のコートへポトリと落ちた。
 「この小賢しいボレーもジャンから教わったのか?」
 「いいえ。ジャンの親友が残してくれたボレーです」
 ネットの上をつたってから反対側に落ちるボレー。それはジャンの親友であり、かつてのナンバー2であるゲイルが得意としたドロップボレーである。

 試合前、透は京極を相手にした場合の流れを頭の中に描いていた。挑戦者のハンデをもらったとしても、それが通用するのはゲームの序盤までで、中盤にはブレイザー・サーブは攻略される。試合巧者の彼の事だから、その機に乗じてサービスゲームをブレイクし、突き放しにかかるはず。
 そこまでの展開を読んだ上で、あえて透は相手の策に乗っかり、彼が勝利を呼び込むために使うであろう決め球を狙って、ゲイルのドロップボレーを繰り出した。
 京極は多くの試合を制してきた必勝パターンを崩されたことで、動揺はせずとも、ゲームを立て直す時間が必要となる。その少しの足止めで充分だった。何故なら、この第5ゲームを物にすれば、透はまた次の2ゲームで有利な丸太側のコートに立てるのだ。
 作戦通り、サービスゲームをキープした透は、ここから一気に点差を引き離す策に出た。ゲイルが残してくれたもう一つの形見。ラジング・リターンを使って。
 ところが、オズボーンでも攻略できなかったライジング・リターンを、京極はいとも簡単に返してきた。プロテストを受けるレベルの選手に有効であっても、百戦錬磨のリーダーには通用しないらしい。
 頭の中で組んできたゲームの流れが変わる予感がした。
 再び足元深くに落とされるボール。二度目のドロップボレーを予想して、透が前に出た時だった。
 「こんなところで、お前を相手に使う事になるとはな!」
 不機嫌さを前面に出しながらも、ボールを追う京極は、予想外の展開を楽しんでいるかに見えた。
 あれは、京極が中等部にいた頃の、都大会の決勝戦だったか。成田と対戦した時も、彼はこんな表情をしていた。苦戦を強いられたことに腹を立てているのに、どこかでその状況を楽しんでいるような。
 彼があの時と同じ顔でネットについた。隠し球的な何かを出そうとしている事は間違いない。
 身構える透の目の前に、思いも寄らない光景が浮かび上がった。
 「まさか……?」
 姿は違えど、フォームは瓜二つだ。ラケットの構え方も、面の角度も、そこから飛び出したシャープな球の動きも、そっくり再現されている。
 強烈なサイドスピンと共に通り過ぎていったボールは、まさしくジャンのアングルボレーであった。
 「来年のインハイで成田と当たるまで使うつもりはなかったんだが、まったくムカつく野郎だ」
 乱暴な言葉とは裏腹に、鮮やかに決まったボレーを見て、京極が満足げに目を細めた。
 「京極さん、いつの間にジャンのアングルボレーを?」
 「だから、言っただろう? 成長したのはお前だけじゃない。ここでテニスを学ばせてもらったのもな」
 ブレイザー・サーブに続いて、透がジャンから出された課題はアングルボレーであった。以来、透は練習を重ねていたが、チャンフィーの一件もあって、いまだ習得出来ずにいた。
 それを京極はすでに物にしていたのだ。たった一度、試合中に見せられただけのボレーを。
 よくよく考えてみれば、当たり前の事かもしれない。透が必死になってサーブ練習に打ち込んでいる間に、その必要ない京極は次のステップへ向かった。彼がライバル視する成田を倒す為に。
 必死になって練習を重ねてきたのは、自分だけではない。目の前で完成形のアングルボレーを見せられて、改めてこの事実を思い知らされた。
 透が一歩先を読んで仕掛けたつもりでも、京極は先の先まで見据えて、対抗する手段を持っている。頂点に立つ男との格差は、そう簡単に埋められるものではないという事だ。
 そして、恐らく日本にいるライバル・遥希との差も、期待するほどには埋まっていないだろう。

 京極と互角に打ち合えたのは、ここまでだった。
 アングルボレーを警戒するあまり狙いが甘くなった透は、ネット前からボレーの連打を浴びて、試合を立て直すチャンスを見つける間もなく敗北した。
 ゲームカウント「6−3」。日本から見続けた『山の主』を倒すという夢は、またしても形にならずに終わった。
 「ああ、ちっくしょう!」
 何度、同じ相手に負ければ気が済むのか。日本にいる時から数えて、軽く五十試合は対戦しているはずだ。
 いくら身の丈を知ったとは言え、少しは『最強の男』の下で修行した成果を見せられると思っていたのに、よりによって彼の決め球であるアングルボレーで流れを変えられるとは。
 唇を噛んで悔しがる透の前で、「待ってました」とばかりに京極が顔を覗き込んできた。
 「それだ、それ! やっぱり、お前の悔し泣きは絶品だ」
 「悔し泣きなんかしてません!」
 「遠慮するな。目が赤いぞ?」
 「悔しいですけど、泣いてませんって!」
 「ホント、アメリカまで来た甲斐があるな。お前ほど悔しそうな顔をする奴、日本で見つからなくてさ。
 いっそ、ここを観光スポットにしたらどうだ? 絶品の悔し泣きが見られる名所。十ドルぐらいは取れるだろ?」
 「京極さんッ!」
 相手を喜ばせるだけだと分かっていても、こうもあからさまに楽しまれては、恨みごとの一つも言いたくなる。
 去年の春に出会ってから、もうすぐ二年が経とうとしている。一体、いつになったら、この延々と続く連敗記録に終止符を打てるのか。
 己の未熟さを恨んでいると、不意に京極から笑みが消え、透がよく知る部長の顔つきになった。
 「相手に決め球を使わせないようにするのも、大事な戦術の一つだ。唐沢のドリルスピンショット、マスターしてんだろ?」
 「どうして、それを?」
 「あれだけトップスピンを誘ってくれば、察しはつく。だがな、いくら威力のあるショットでも、使うチャンスがなければ意味がない。
 もう少し試合の組み立て方を研究して、いろんな選手に対応できるよう引き出しを増やしておくんだな」

 京極からテニスの指導をされるのは、初めての事だった。どんな時でも彼はライバル校としての一線を引いてきた。
 試合はしても、指導はしない。たとえノン・レギュラーの部員に対しても、敵に塩を送るような真似はしない。
 アメリカに来てからもそのスタンスを崩すことはなく、透自身も望まなかった。それが、どうした事だろう。
 「京極さん、今日はやけに親切ですね?」
 「タ〜コ! 俺が理由もなく他人に親切にすると思うか?
 トオル? お前、日本へ帰らないか?」
 「へっ?」
 「今回、俺がここへ来た本当の目的は、お前をスポーツ特待生として明魁へ推薦する為だ。
 これは関東に限った話じゃないが、どの大会も、年々、レベルが高くなっているから、うちも優秀な選手を確保するのに必死でな。
 実は、俺も元部長として一人分の推薦枠を持たされている。それをトオル、お前に使おう思う。
 今の実力なら何の問題もない。どうだ、俺と一緒に日本へ帰らないか?」
 「それって、つまり……?」
 「明魁のテニス部に入るという事だ」
 思いも寄らないところから思いも寄らない誘いを受けて、透はどう答えて良いのか分からなかった。
 明魁学園にスポーツ特待生の制度がある事は知っている。全国から優れた選手を募集して選抜テストを受けさせ、合格すれば明魁学園への入学はもちろん、中学、高校、大学までの進路が約束される。しかも授業料が免除になる上に、寮も完備という特典付きである。日本へ帰るための資金は、ほとんど必要ない。
 だが透には、即答し兼ねる問題がいくつかあった。
 「でも、俺にはやらなきゃならない事が……」
 「明魁に入れ」と言われて、最初に頭に浮かんだのはビーとレイ、二人の事だった。彼等を残して、自分だけが抜け出す訳にはいかない。
 ところが、いつからいたのか。フェンスの向こうから本人達が異を唱えた。
 「俺達のことは気にするな。ジャンから、お前を“あるべき場所”へ帰るまで見届けろって言われている。せっかくのチャンスを無駄にするな」
 「ビー……」
 話に夢中で気付かなかったが、二人は京極とのやり取りを聞いていたらしい。ビーに続いて、レイも調子を合わせた。
 「そうそう。最後の命令の一つぐらいは、ちゃんと守らないとマズいしね」
 「レイ……」
 メンバーの同意を得ても、まだ迷いを見せる透に、京極から一つの提案が出された。
 「返事は今じゃなくて良い。あさってまでは滞在するから、ゆっくり考えろ。
 ただ、一つの考え方として聞いてくれ。日高遥希を倒すことがお前の目標なら、明魁に籍を置いても可能なはずだ」
 確かに、その通りである。むしろ明魁テニス部に入った方が、公式戦で遥希と戦うチャンスは多くなる。
 「お前が光陵に帰りたがっているのは知っている。成田や唐沢を慕っていることも。
 だが、明魁にも俺や越智がいる。相応の力をつけるには、決して引けをとらない環境だ。
 少なくとも、指導者不在のコートで我流の練習を続けるよりは、ずっとプラスになるはずだ。お前にとっても、俺達にとっても」
 「分かりました。少し考えさせてください」
 京極の誘いは、またとないチャンスである。
 光陵学園へ帰れるに越したことはないが、現状から言えば、実現できる可能性は極めて低い。ライバル・遥希を倒すという目標だけに絞れば、これほどのチャンスはもう来ないだろう。それでも――。
 即答で「はい」とは言えなかった。八割がた気持ちが傾いているのに、どうしても最後に何かが引っかかる。
 その原因が唐沢との約束なのか。残してきたユニフォームのせいなのか。あるいは、もっと他の理由なのか。
 今まで父の気まぐれとも言うべき行動に振り回されてきた透には、自分の人生を左右するほどの大きな選択を迫られた経験がない。行く先々で壁に頭をぶつけているうちに、自然と流れ着いたのが、ここ、ジャックストリート・コートである。
 しかし、今は二つの選択肢がある。
 リーダーとしてアメリカに残り、夢を追い続けるか。特待生として明魁学園へ入学し、ライバル・遥希との決着をつけるのか。
 少なくとも夢に向かうという点では、どちらを選んだとしても前に進む事になる。無理やり転校させられた昔とは違う。
 可能性の低い夢に賭けるか。多少の妥協をしても、確実な道を選ぶか。
 この大きな決断を下すために、透はあえて丸太の上ではなく、自宅で考える事にした。
 これはリーダーとしての選択ではない。一人のプレイヤーとして考えなければならない。
 夜中の見張り番をビー達に託すと、透は金網フェンスの扉を開けて外へ出た。






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