第38話 絆

 「どうしても、気持ちは変わらないのかい?」
 宿題の答えを持ってテニスショップを訪れた透に、ハウザーが悲しげな目を向けた。
 従業員、一人ひとりの性格を把握して、適材適所に人材を配する店長のことだ。透の頑固な性分も分かっているのだろうが、彼は彼で、愚かな若者を放ってはおけない性分なのだろう。結論を聞かされても、尚、根気よく説得にあたる姿は、どうにかして思い止まって欲しいと願う親心が垣間見えて、本物の父親よりもそれらしい。
 「ごめん、ハウザー。いろいろ迷ったけど、今が一番スッキリしている。だから、これが俺なりの正解だと思う」
 「夢を諦めても?」
 「いや、諦めない。夢も仲間も、両方を守れるリーダーになる」
 「あそこのリーダーだけでも大役だよ。自分の夢まで追いかけられる?」
 一昨日の宿題を出された時と同じ質問が繰り返された。しかし、今度は躊躇うことなく答えられる。
 「ジャンは諦めていなかった。仲間を守りながら、夢を叶えるチャンスを待っていたんだ」
 「どうして、そう思うの?」
 「夢を諦めた奴に、あのコートは守れない。だって、あそこは夢を叶えるための砦だから」
 接客カウンターの内側から深い溜め息が漏れてきた。クレーマーから無理難題を突き付けられても笑顔を崩さぬ店長が、唇をへの字に曲げて、黙り込んでいる。
 「ハウザー、本当にごめん。俺の為を思ってアドバイスをくれたのに」
 透は本物の父親の前では決して見せない従順な態度で謝罪を述べた。自身の出した答えが間違いだとは思わないが、人の良い店長の困り果てている姿には、やはり罪の意識を感じてしまう。
 「他にも俺が日本へ帰れるように動いてくれた人もいたんだけど、その話もさっき断ってきた。
 俺はジャックストリート・コートで自分の夢を追いかける」
 たとえ同意を得られなくとも、彼には知っておいて欲しかった。皆の反対を押し切って、留まると決めた理由。ジャックストリート・コートだからこその訳を。
 「ハウザーの言う通り、あんな所でいくら頑張ったって、何にもならないのも分かっている。でも、あそこは何もないから価値がある。
 誰の助けも借りずに自分の手で夢を掴んで、自分の足で卒業できた時に、初めて意味が……いや、意義と言うのかな。生まれるような気がするんだ。
 たぶん、俺にしか分からない意義かもしれないけど」
 「そうでもないさ」
 ハウザーの口元がへの字から一文字にまで戻っている。反対される事はなさそうだが、賛同する気もないらしく、彼は腕組みをしたまま動かない。
 透は黙って続きを待つことにした。
 今は何も話しかけてはいけない。いつになく真剣な横顔から、直感的にそう思った。
 しばらくの沈黙の後、ハウザーから告げられたのは、反対でも、賛成でもなく、「ついておいで」の一言だった。行き先ぐらいは教えて欲しかったが、ここは大人しく従うほかないようだ。
 振り向きもせずに通りへ出ていく背中を追って、透も急いで店を後にした。

 この時期のメインストリートは一年のうちで最も華のない“素”の姿をしている。ちょうどクリスマスの飾り付けが始まる前で、落ち葉が木枯らしによって片付けられた後で、商業的にも、季節的にも、本流から外れた感がある。
 通りに沿って立ち並ぶ木々に彩りはなく、客の目を引くような看板もないために、普段は目立たぬ店が存在感を放っている。
 いつも代わり映えのしないペーパーバックを店頭に並べ、新刊の立読み防止に努めたせいで、すっかり客足が遠のいてしまった老舗の本屋。一発で糖尿病になりそうな甘ったるい菓子類を主力商品に掲げるグローサリーストアの隣には、自然食品の店があり、そこでは、最近、低カロリーのダイエット食を積極的に売り始めたと聞いた。
 大手スーパーに挟まれながらも、量の多さと安さで地元の主婦達の人気を維持する精肉店。昔は花売り娘だったと自負する老婆が、仲の悪い嫁と二人で営む生花店。
 学生の身分ではテニスショップ以外、他店との関わり合いはないはずなのに、個々の特徴が頭に浮かぶ。
 目立たぬものだが、そこにあり続けることで、同じ場所に根を張る者には、いつの間にか、その存在が浸透している。通り過ぎるだけの観光客には見えないものが見えている。これが、その土地で暮らすという事かもしれない。
 「トオルはこの街をどう思う? 美しいと思う? それとも汚れていると思う?」
 器用にもハウザーは、メインストリートで店を構える店主達と陽気な挨拶を交わす一方で、透に対しては真顔で話しかけている。
 「う〜ん、どっちだろ? 着いたばかりの頃は綺麗だと思った。空の色も東京とは全然違うし、自然に囲まれた住みやすい街だって。
 でも色んな事があって、汚い部分も見えてきて、ついこの間までは最悪だと思っていた」
 「で、今は?」
 「今は、よく分かんねえや。
 こうしてハウザーと歩いていると、そんなに悪くないと思うけど、前ほどじゃない。正直、俺にはキツい事の方が多かった。
 ハウザーはどうなんだ?」
 「トオルと同じさ。この街の住人で良かったと、誇らしく思う時もあれば、どうしようもなく汚れて見える時がある。
 ただ一つだけハッキリしている事は、場所というのは入れ物であって中身じゃない。箱の中身を良くするのも、悪くするのも、結局、そこに住んでいる人なんだよね」
 ハウザーが何故こんな話をしてくるのか、見当もつかなかったが、二人が向かった先で、その理由は明らかにされた。

 メインストリートを抜けて透が連れて来られた場所は、他ならぬジャックストリート・コートであった。
 ハウザーは金網フェンスの扉を手際よく開けて中に入ると、プレー中のレイとビーも呼びつけ、コート脇に備えつけられているスコアボードの前に並ばせた。
 これは透の予てからの疑問であるが、こんなお粗末なコートに立派なスコアボードがあるのが不思議でならなかった。ハーフマッチを基本に試合が行われるストリートコートでは、最も使用頻度が低く、どちらかと言えば不釣合いなアイテムだ。
 大方、誰かが面白半分で拝借してきた盗品だろうと思っていたが、この場の雰囲気からして、ただのスコアボードではなさそうだ。
 ハウザーが護身用の小型ナイフを使ってボードの側面に刃先を立てると、表面の板がはがれ、後ろからもう一枚、細かい文字の刻まれた緑のボードが現れた。
 ほんの一瞬、その文字の羅列にハウザーが顔をしかめたかに見えた。まるで失恋の古傷を触られた時のような、苦々しい思いと気恥ずかしさとが入り混じった顔である。
 「これから新リーダーを迎える儀式を始めるよ」
 「儀式?」
 透は思わず、素っ頓狂な声をあげた。スコアボードもさることながら、テニスショップの店長がどうして儀式などと口にするのか。
 レイも、ビーも、訝しげな顔を向けているが、三人に構わず、ハウザーは「儀式」とやらを始めた。
 「ジャックストリート・コートでは、代々、リーダーが交代した際に、新しいリーダーがこのスコアボードに名前を刻んでいる。但し、メンバー全員に認められた者に限り、だ。逆に言えば、ここに名前がない者は正式なリーダーとは認められない」
 「名前がない者」とはチャンフィーを指しているのだろう。淡々と話を進める口調が、そこだけトーンダウンした。
 「本来なら、この儀式には前リーダーが立会人として参加しなければならないのだけど、今回は私がジャンの代わりを務めるよ。大昔のリーダーとしてね」
 「えっ!?」
 今度は三人ともが素っ頓狂な声をあげた。これまで人の良いテニスショップの店長だと思っていたハウザーが、自分達と同類で、リーダーまで務め上げた兵だったとは。
 慌ててスコアボードに目をやると、リストの一番上には彼の名前が彫られていた。
 「ハウザー、アンタがここの初代リーダーだったのか……」
 少しばつの悪そうな顔をして、ハウザーが頷いた。
 「誰もが気軽にテニスを楽しめるようにと思って、街の人達と協力して造ったんだ。ここのコンクリートを敷き詰めたのは、私だよ。
 若気の至りってヤツだけどね。一応、高い理想はあった。
 お金がなくても、生まれや育ちに関係なく、皆が好きな時に来て、好きなようにテニスを楽しむ。公的機関が行なう普及活動では、どうしても一部の住民しか参加できないからね。こういう万人の為のコートが必要じゃないかと思ったんだ」
 遠い目をして過去を語る彼は、砦を造ったことを後悔しているようにも見える。
 「昔はここまで人も多くなかったし、他にコートもないから、大した騒ぎも起こらなかった。
 人が集えば争いが起こるのは当たり前だと思う。だけど、最近の君達を見ているとね。争いの火種になるんだったら閉めてしまおうかと、正直、考えていたよ」
 胸が痛かった。暴力でしか解決できない自分達の未熟さを、心から恥じた。
 「さっきトオルにも話したけど、場所というのは箱であって、そこの価値は人によって決まる。
 ジャックストリート・コートは夢を叶える砦にもなるけれど、一歩間違えれば、凶器にもなる。自由を手にするというのは、決して楽しいものじゃなくて、本当はとても恐ろしい事なんだ。
 何にも惑わされない信念と、どんな時でも自分を律するだけの強さが必要になるからね。
 ここに名を刻んだ歴代のリーダー達は、それぞれが自由と格闘して、彼等なりに道を切り開いてきた者達だ」
 そう言って、ハウザーはボードに刻まれたリストを見せた。
 ハウザーから始まり、最後の名前は透がよく知る「ジャン・ブレイザー」のサインである。彼は七代目のリーダーだ。
 「ハウザー、これ……?」
 見覚えのあるサインは、二人だけではなかった。五代目リーダーのところには、透のアルバイト先であるカフェのシェフの名前もあった。
 「シェフもリーダーだったのか?」
 言われてみれば、最初に透がストリートコートへ行こうとした時、強く反対された覚えがある。「生きていたかったら、絶対に近づくな」と脅された。
 リーダーを経験してきたからこそ、彼はここがただの自由の砦ではない事を知っていたのだ。
 「君があまりに自分と似ているから、シェフは止めたんだ」
 「俺が、シェフに?」
 「正確に言えば、歴代のリーダー二人。シェフとジャンに似ている、と私は思うのだけどね」
 わざわざ「私は」と補足を入れたという事は、当人達に話をしたが、同意は得られなかったと見える。
 確かに、あの二人には共通点がある。口の悪いところも、気が短いところも、素直に親切心を出せないところも。
 「ちょっと待ってくれ、ハウザー? あの二人はともかく、俺はそんなに捻くれてねえよ」
 「今のところはね……」
 ハウザーが必要もないのに口元に手をやり、「ククッ」と喉を鳴らした。笑いを噛み殺そうとしているのは、一目瞭然だ。
 「今のところはって、どういう事だよ?」
 透がムキになって反論の材料を探していると、ビーが隣から脇腹を突っついた。
 「おい、これってゲイルじゃないか?」
 ビーが指差した先には、かつてのナンバー2、ゲイルの名前があった。五代目のシェフと、七代目のジャンの間に挟まれて。
 これでようやく合点がいった。透に敗北した後、なぜ彼がここを去ったのか。
 元リーダーのプライドがナンバー3にまで堕ちる事を拒んだからである。
 メンバーの入れ代わりが激しいコートでは、この事実を知る者はごく僅かだろうが、ゲイルの性格からして許せなかったのだ。親友とトップの座を競い合う関係を壊され、ナンバー3に転落した我が身を。
 ゲイルがコートを去る際に残した台詞が甦る。
 「俺にもプライドがある。もう、貴様ほどピュアではないが……」
 あの時、彼が守ろうとしたものは、かつてのリーダーとしてのプライドだ。そして、その事を知っていたから、ジャンはあえて引き留めることもせずに、「放っておけ」と言ったのだ。
 透はボードに刻まれた一人ひとりのサインを指でなぞりながら、今一度、ハウザーに決意を伝えた。
 「ハウザー? 俺、アンタがここの初代リーダーだって、威張れるぐらいの場所にする。本物の自由の砦にしてみせる。
 だから、もう一度だけチャンスをくれないか?」
 「そのつもりで連れて来たんだよ。君なら歴代のリーダーの想いを、きちんと引き継いでくれると分かったからね」
 ハウザーからナイフが手渡された。
 初代リーダーと二人の仲間が見守る中、透はナイフを片手にボードに向かった。
 たった三人のギャラリーで、スコアボードに名前を彫るだけの儀式だが、そうそうたるメンバーと同じ場所に名前を連ねるかと思うと、ひどく緊張した。
 一文字ずつ丁寧に木の板に刻みつける作業が続いた。自由の砦への願いを込めて。歴代のリーダー達と肩を並べる事に、誇りと責任を感じながら。
 八代目リーダー、トオル・マジマ ―― 新リーダーの誕生である。

 「それから、もう一つ引き継がなければならない物があるよね?」
 ハウザーが丸の上に掛けておいたジャケットに視線を移した。
 「あれは良いよ。俺はまだ似合いそうにないから」
 リーダーの勲章である赤い革のジャケットは、本来ならば儀式と同時に引き継ぐべき物だろうが、とてもそんな気にはなれなかった。自分が着るには足りないものが多すぎる。
 ところがハウザーは丸太の上からジャケットを持ってくると、半ば強制的に透の肩に掛けた。
 「与えられた器が、人を大きく成長させる事もある。今回の一件で、君が多くの事を学んだみたいにね。
 このジャケットは勲章と言うより、リーダーを務める者の覚悟の証なんだ。だから、これを背負ってやってごらん」
 初代リーダーだと知らされたせいもあるのだろうが、ハウザーの言葉には重みがあった。穏やかに話していても、従わざるを得ないような説得力が。
 儀式と同様の緊張を感じながらも、透は渡されたジャケットに腕を通した。
 このジャケットにしがみついて泣いた事もある。ペンキをつけて怒られた事もある。
 数々の思い出が染み込んだ赤い革のジャケットは、ストリートコートの歴史そのもので、だからこそ、共に歩まなければならない。歴代のリーダー達が、そうしてきたように。
 「分かったよ、ハウザー。俺にはデカ過ぎるけど、背負ってみる」
 「そうだね。お世辞にも似合うとは言えないけど、前よりは様になったと思うよ」
 再びハウザーが「ククッ」と喉を鳴らしたが、今回は笑いを噛み殺すこともなく、口元を華やかに綻ばせた。

 「トオル、グッドニュース!」
 フェンスの向こうから興奮気味の声が飛び込んできた。元メンバーのブレッドと、隣には親友のエリックも頬を紅潮させて立っている。
 「グットニュース」と叫んでいたのは、ブレッドの方である。
 「今度、うちのホテルでバトラーを募集する事になったんだ。テニスクラブ会員専用のバトラーだから、テニスの知識のある経験者が必要だ。
 どうだい、やってみないか?」
 日頃はほとんど接点のないブレッドが、何故ここにいるのか。初めは解せなかった透だが、彼の満面の笑みを見て理解した。
 ブレッドはストリートコートで起きた一連の事件を、街の噂か、元メンバーからでも聞いたのだ。そして透の窮状を知って、働き口を探してくれたに違いない。
 しかし、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。バトラーとは、VIPクラスの客に仕えて身の回りの世話をする執事のような役割で、通常は厳しい訓練を受けたホテルマンしか就けない職種である。
 「俺なんかが雇ってもらえるのか?」
 「ノー・プロブレム! 今回は期間限定だから、アルバイトの方が良いんだって。
 本当は俺に回ってきた仕事なんだけど、ベルデスクも人手不足でさ。ボスにトオルの話をしたら、明日からでも来て欲しいってさ」
 「日本人なのに?」
 「うちのボスは、人種差別はしない。現に、黒人の俺でも、ちゃんと仕事をやれば認めてくれる」
 「中学生なのに?」
 「あの『伝説のプレイヤー』に仕込まれた天才児だ、と伝えた」
 「ここのリーダーなのに?」
 「それは内緒さ」
 生真面目なブレッドが、珍しく茶目っ気たっぷりにウィンクをして見せた。
 バトラーの時給は能力給が含まれるために、今の皿洗いの三倍になるという。つまりは今までの三分の一の期間で資金が貯まる計算になる。しかも接客態度が客に評価されればチップがもらえる上に、運が良ければ有名選手に出会える機会もあるそうだ。
 稼ぎながら一流選手のプレーを間近で見られるなど、透にとっては夢のような仕事である。
 続いて話し始めたエリックも、用件は同じであった。彼も貯金を使い果たした透の為に、割の良い仕事を持ってきてくれたのだ。
 姉貴分のディナが知り合いに頼んで紹介してもらったアルバイトで、大道具などを扱うファッション・ショーの裏方だ。こちらもホテルのバトラー並みに給料が良い。
 「ディナがね、『悩むのは良いけど、立ち止まるのはトオルらしくない』って」
 「ディナが?」
 「それで僕にも声をかけてくれてね。二人で一緒に頑張れって。
 引き受けても良いよね?」
 「ありがとう、エッリク。それにブレッドも」
 一度は手放した夢が射程圏内と思える場所まで戻ってきた。もう、途方もない距離ではない。むしろ、皿洗いだけで頑張っていた頃よりも現実に近くなった。

 「トオル? 入口の看板、『アンダー14』に変更しておくからな!」
 扉にくくりつけられている「十六歳未満立ち入り禁止」の看板を、ビーが得意のペイントを使って16から14に書き換えた。
 それは昔「十八歳未満」だった警告を、上から十六歳に塗り替えた経緯がある。
 「うちのリーダーがコートに入れないんじゃ、洒落になんないからね」
 年下のリーダーを気遣ったレイのコメントに、透は笑顔で頷いた。
 初めてここを訪れた時は、塗り替えられた警告を目にして、危ない連中の溜まり場だと怯えた自分が、今はそれを容認する立場にある。だが、以前のように「最低だ」と言って落ち込むことはなかった。自由の砦を介して得られた仲間達を、心から誇りに思うから。
 身の丈よりも遥かに大きいジャケットをだぶつかせ、透は丸太の上へ駆け上がった。
 足元にはペンイトだらけのコンクリートのコートが見える。少し視線を上げると、右手にはサンフランシスコの港が、左手にはメインストリートの並木が一望できて、さらに頭上には青空が広がっている。
 久しぶりに綺麗だと思った。自分の住んでいるこの街が。
 透はその場で横になると、抜けるような青空を全身で仰いだ。
 丸太の上に寝そべって空を眺めるリーダーの姿 ―― それは、かつてジャンが暇な時によく見せたお決まりのポーズであった。






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