第4話 1ドルの友情
ボールが小気味よいリズムを刻む。ガットを鳴らし、壁打ちボードを弾き、地面を蹴って、また戻る。
ひとりであっても、こうしてテニスができる。
それはテニス部を退部したばかりの透にとって、この上なくありがたく、また心満たされる事実であった。
とは言え、壁打ちボードもテニスコートも、テニス部のものと比べれば不出来な点は否めない。
壁打ちボードはベニヤ板を数枚重ねただけの粗末な代物で、おまけにスペースの問題なのか、テニスコートの真後ろに設置されている。
したがって、ボールを打つにはネットに背を向けて、テニスコートの半面を使用するしかないのだが、コート自体がほったらかしの芝生の上に造られているために、イレギュラーバウンドが半端ない。
要するに、荒れ地でプレーするのと変わりがないのである。
だが、いまは贅沢を言える立場ではない。練習場所があるだけでも感謝しなければ――。
ふとした拍子に折れそうになる心を奮い立たせ、透が壁打ちボードに向かっていると、背後から龍之介の声がした。
「おい、クソガキ。いきなり人の道、踏み外そうってんじゃねえだろうな?」
「何の話だよ?」
「さっき、言っただろうが。ボードは1ドル、コートは2ドルだ。現金のみの先払いだからな」
先ほど、一瞬でも感謝の気持ちを抱いた自分が愚かであった。
自宅の裏庭に設置されている壁打ちボードを、そこの家の息子が使う。この当たり前の行為に対して、父は使用料を取るという。
「ふざけんな! こっちは何の準備もなしにアメリカまで連れて来られて、しなくても良い苦労をさせられてんだ。
せめてバイトが見つかるまでは、大目に見てくれたって良いじゃんか!」
「勘違いするな。これは俺の研究用に造らせたものだ。
それを空いている時間は格安で開放してやろうってのに、なんだ、その言い草は?」
「えっ、俺のために造ってくれたんじゃねえのかよ?」
「たかがガキの道楽に、ムダ金つぎ込むほど酔狂じゃねえよ」
「道楽だと!?」
「違うのか?
それじゃあ、何か? お前はその半端な腕でメシが食えるのか?」
「いや、そこまでは……」
「それを世間では道楽というんだ。
金がねえんじゃ、話にならん。商売の邪魔だ。とっとと失せろ」
「親父……てめえ、俺が無一文なの分かってて、わざと言っただろ?
この鬼! 悪魔! 人でなし!」
壁打ちボードを前にしてボールを打つことが出来ない。自他ともに認めるテニスバカにとって、これほど辛いことはない。
「まったく、テニススクールを丸ごと息子に無料開放してくれる親もいるってのに……」
日本で遥希の羨ましい生活を経験したあとだけに、龍之介の薄情さがいつにもまして恨めしい。
しかし、父の性格からして、これ以上議論を重ねたとしても無意味なことも知っている。
どうにも割りきれない思いはあるが、この場は黙って退くしかない。
裏庭から表の庭を通って玄関へ。喜び勇んで駆け抜けたルートを逆戻りして、自室の扉を開けた途端、透は言いしれぬ倦怠感に襲われた。
体のどこにも力が入らない。まるで魂が抜け落ちたようである。
部活動のないの生活がこんなにも虚しいものとは思いもしなかった。
テニスを続けるには金が要る。
だが、社会経験も語学力もない十二歳の少年を雇ってくれる店など、そこらに都合よく転がってはいまい。
冷静に考えてみると、テニス部は金がなくともテニスができる唯一の場所だった。
いまさらあの下種なコーチが牛耳るテニス部に未練はないが、誇りを選んだ代償は思いのほか高かった。
「ああ、ちくしょう! ボール打ちてぇぇぇ!」
透は悲痛な思いを、切り立った崖の上で咆哮する猛虎のごとく声高に、しかし断じて天井ではない何かに向かって訴えた。
だが、非力な中学生がいくら全力で吠えたところで応じる者はなく、聞こえてくるのは誰かの靴音と思しきタップ音だけである。
あの刺々しいリズムの取り方は、上階にいる女性陣からのクレームに違いない。
ヒールで床を踏み鳴らすこと、三回。「Shut your mouth(=黙れ)」の意味だろう。
いよいよやることのなくなった透は、萎んだ体を窓際のベッドに横たえた。
陽の高いうちからベッドに潜りこむという、この体たらく。それを冷ややかな目で見つめる自分がいる。
毎日、テニスをするために学校へ行き、暗くなるまで帰らなかった。
そんなテニスバカの部屋にあるのは、形ばかりの勉強机とベッドだけ。
昨日までは、それで充分だった。寝る場所さえあれば満足していたのに。
殺風景な部屋に、目覚まし時計の音がコチコチと響く。
リアルタイムで時の流れを感じる自分が、ひどくつまらぬ人間に思えた。
「はあ、どっかに金、落ちてねえかなぁ……って、あれ?」
思わず漏らした溜め息の向こう、見事なまでに四角い部屋の片隅で、透の視線はあるものに釘づけになった。
下手くそな英字で「To Toru Majima」と書かれた段ボール。あれはたしか、日本から自分で送った荷物である。
当面は使わぬものばかりを詰めたので、急いで開梱する必要もないかと、放っておいた。
「へへっ、捨てる神ありゃ、拾う神ありだ!」
透はベッドから飛び起きると、埃まみれの段ボールに飛びついた。
自分の記憶が正しければ、これこそが救いの神となるに違いない。
二重、三重と貼られたクリアテープを引きはがし、衣類や本などの中身を全部かき出して、箱の底から目当てのものを見つけた透はほくそ笑んだ。
やはり思った通りである。
透がいま手にしているのは、日本を発つ前、日高からもらった餞別だ。「龍には内緒だ」と言って渡された袋の中には、親戚からのお年玉でしか見たことのない一万円札が入っていた。
本当は落ち着いたら新しいラケットを買うつもりでいたのだが、この際、背に腹は変えられない。
「おっさん、一生恩に着るぜ!」
透は一万円札に向かって一礼すると、となりのエリックの部屋をノックした。
「エリック、いまから円をドルに換金できる場所、知らねえか?」
「この時間だと、どこも閉まっているから、ホテルのフロントぐらいかな」
「よし、分かった。サンキュー!」
「ちょっと待って、トオル! 明日、銀行が開くまで待てないの?」
急いで部屋を飛び出そうとする透を、エリックが引き止めた。
「いや、どうしても今日……てか、いま必要なんだ」
「でも、ホテルの換算レートは銀行より高いから、ずいぶんと損をするよ」
思慮深い彼ならではの助言である。
透としても、虎の子の一枚を大事に使いたい。
しかし、壁打ちボードの存在を知らされた今となっては、じっとしてなどいられない。
透が換金を急ぐ理由を伝えると、エリックは少し考えるようなそぶりを見せてから、一ドル札を差し出した。
真嶋家では学生同士の金の貸し借りは禁止されている。
真面目なエリックのことだから、その禁を犯すことに抵抗があるのだろう。渡し方がぎこちない。
そして透も、エリックとは別の理由で、目の前の一ドル札を拒んでいた。
「エリック、気持ちは嬉しいんだけど、俺、借金は生涯しないって決めてんだ」
光陵テニス部で、唐沢に強いられた借金生活がトラウマとなっているのである。
「借金なんて、そんな大層なものじゃないよ。明日、返してくれれば良いから」
人の良さそうなエリックの笑顔は天使のように清らかで、唐沢が後輩をカモにする時の悪魔の笑みとは違う。
その違いは分かっていても、透はまだエリックの好意を素直に受けとることが出来なかった。
「でも、どうして俺なんかに?」
初対面の時から、何かと親切にしてくれるドイツ人。とくに気が合うわけでも、趣味が合うわけでもないのに、気がつけばいつもフォローしてくれている。
透にはそれが不思議でならなかった。
「同い年だから……かな?」
エリックが、言ったあとから小首を傾げた。
律儀にも、ふと口をついて出た答えが、問いの答えとなり得るものか、自らの言を振り返っているようだ。
ここはひとつ、彼の人間性を信じてみても良いのではないか。
万が一、騙されたとしても、1ドルの利息ならたかが知れている。ホテルで換金することを思えば、大差ない。
「じゃ、遠慮なく」
透は目の前の一ドル札をそっと引きぬくようにして受けとると、龍之介のもとへと走っていった。
翌朝、銀行の開店と同時に換金し終えた透は、エリックの部屋へ向かった。
ところが、途中の廊下でジョセッピと出くわした。
ジョセッピは、透の姉貴分であるディナに「九月になるから」という不可解な理由で一方的に別れを告げたイタリア人で、いわゆる元彼だ。
「ジョセッピ、聞きたいことがある」
「なに?」
「どうして、ディナと別れた?」
「それはね、トオル。九月になるからさ」
ジョセッピの答えは、ディナから聞かされたものと同じであった。しかし、その理由こそが最大の謎である。
「なんで九月になると、別れなくちゃいけないんだ?」
「だって、九月は夏じゃないもの。とても悲しいことだけど」
ジョセッピの答えは、透をさらに困惑させた。
例えば、九月に故郷に残した彼女がこっちに来るというのであれば、事の善悪はともかく、まだ理解のしようもある。
しかし、夏の終わりと恋人たちの別れと、どういう関係があるのか。
ジョセッピの悲しげな表情を見るかぎり、本人も遊びで付き合っていたわけではなさそうだ。
すっかり困惑した透が次の言葉を探していると、部屋の扉が開いて、中からエリックが顔を覗かせた。
「トオル? いくら問いつめても、これ以上、彼から納得のいく答えは得られないと思う。あとで僕が説明するよ」
学校へ行く道すがら、エリックは「九月になるから」の理由を、透にも分かるように教えてくれた。
「僕の友達にもいるんだけど、イタリア人……とくに観光地に近いところでは、夏の恋は特別なんだ。
その年の夏に、いかに素敵な恋愛をするか。そこに重きを置いているから、夏の終わりに別れるカップルも少なくない」
「つまり、期間限定で付き合うってことか?」
「期間を定めているというより、夏の恋を特別視しているというか。
ああ、そうだ。お祭りみたいなもの、と言えば分かるかな。
特別な時間を、特別な相手と過ごす。でも、それは非日常なわけだから、特別な時間が過ぎれば、特別な恋も終わる。
これが彼等の常識なんだよね」
「で、『九月になるから』か」
「うん、そう。ディナはアメリカ人だから知らなかったと思うけど、ヨーロッパではわりと有名な話」
ドイツ人のエリックにとっても、これは常識なのか。淡々と話を進める口調には、ディナに対する配慮は見られない。
「エリックも常識だと思っているのか?」
「とんでもない! 僕は彼等とは違うし、それに恋愛なんて……」
「もしかして、エリック? 彼女とか、いねえの?」
「彼女なんて、そんな! いるわけないよ」
「いままで一度も?」
「だって、僕はまだ十三歳だよ。それに、いまはこっちの生活に慣れるほうが先だから」
「ふ〜ん、そっか」
いつもは物静かなエリックが、珍しく慌てている。心なしか、色白の頬もピンクに見える。
――ってことは、こいつもバージンか。
かなり幼稚な動機だが、透がエリックを“その他の人種”としてではなく、心許せる友として見られるようになったのは、この時からだった。
昼休みが半分以上過ぎてから、透は例の1ドルを返し損ねたことに気がついた。
教室にも、図書館にも、食堂にも、エリックのいそうなところを探してみたが、姿はない。
仕方なく校内をうろついていると、中庭のほうから声がした。
はじめは生徒同士がふざけているのかと思ったが、そうではないようだ。面白そうにはやし立てる複数の声に交じって、誰かの悲鳴が聞こえる。
不審に思った透が中庭に到着した時には、すでに二重の人だかりが出来ていた。
外側には野次馬が。内側には同じクラスの男子生徒が。そして、輪の中央にはエリックがいた。
いじめの最中であることは、一目瞭然だった。
男子生徒のうちの二人がエリックを押さえつけ、残りが彼のものと思しき本を、代わる代わる見せびらかすようにして回している。
おそらく、あの本はエリックにとって大事なものに違いない。いつもは冷静沈着な彼が、英語ではなく、誰にも通じぬドイツ語で喚いている。
「おい、お前等……」
透が人混みをかき分け、輪の中に入ろうとした矢先、ドイツ語の悲鳴とともに水音がした。
調子に乗った男子生徒の一人が、本を池の中に投げ込んだのだ。
「腹ごなしのレクにしちゃ、趣味が悪いな?」
透はエリックを押さえつけている男子生徒の襟首を背後から掴むと、二人を同時に締め上げた。
喧嘩慣れした不良ならともかく、相手はごく普通の生徒だ。自分より一回りほど体が大きいということ以外、警戒すべき点は何もない。
それにもかかかわらず、透は掴んだ襟首を離そうとはしなかった。
ひどく不快な気分であった。胸の辺りがムカムカする。
力任せに締め上げて、相手が気を失うことのないよう、加減を調節しながら素早く人数を確認する。
輪の内側にいる生徒は、手元の二人を含めて六人。いずれもアメリカ人だ。
「テニス部の落ちこぼれが、偉そうにヒーロー気取りか?」
六人のうちの一人が透のほうを見て、せせら笑った。
「どういう意味だ?」
「お前、テニス部の練習に耐えられなくて、辞めたんだろ?」
どうやら彼等は、透がテニス部を退部した経緯を誰かに聞いたらしい。しかも事実と異なるところをみると、さしずめ情報源はコーチのアップルガースといったところか。
「お前等も、あの下種野郎の飼い犬か。だったら、ちょうど良いや。
なあ、俺と遊ばねえ? テニス部辞めたら、体がなまってさ……」
不穏な空気を察知して、エリックが慌てて止めに入った。
「僕なら大丈夫だから。お願い、乱暴な真似はしないで!」
「エリック。ドイツじゃどうだか知らねえが、日本じゃ売られた喧嘩は買うのが常識だ」
「このチビ、俺等を相手にひとりでやる気かよ」
一番背の高いアメリカ人が薄ら笑いを浮かべながら、透の胸倉を掴もうと腕を伸ばした。
一瞬、胸の中の不快なムカムカが姿を変えた。
透はいま両手を塞がれている状態だ。
ここであの腕を払いのければ、せっかく捕らえた二人を逃がしてしまう。だが、二人を手放さなければ、今度は自分が胸倉を掴まれ、締め上げられる。
どちらに転んだとしても、相手にとっては有利な展開になるはずで、当然、透もそう来るだろうと読んでいた。
胸のムカムカが高笑いをしている。いまが奴等に制裁を加えるチャンスだと。
透はギリギリまで待ってから、素早く腰を落として相手の腕をかわすと、しゃがんだ勢いで手元の二人を地面に叩きつけ、正面から襲いくる生徒に対しては、低い体勢から脇腹を目がけて一蹴りしたあとで、倒れてきた顔面に頭突きを喰らわせた。
まるで、なにかに取りつかれたようだった。目の前で人が三人、頭から血を流して転がっているというのに、なんとも思わない。
あっという間に六人のうちの半分を伸した透は、残りの三人が許しを請うのも聞き入れず、全員を池の中に放り込んだ。
「ここから出たけりゃ、さっきの本を拾ってこい。無事に見つかるまで、上がって来られると思うなよ!」
池の広さはさほどでないが、深さがあるために苔も多く、六人全員で探しまわっても見つけ出すのにかなりの時間を要した。
その間、輪の外側にいた生徒たちは何をするでもなく、ヒソヒソ声で話をしながら池の周りを囲んでいる。
一度は解消されたはずのムカムカが、胸の中でふたたび渦を巻く。
一体、自分は何に対してムカついているのか。
いじめを働いた六人の生徒たちには、充分な制裁を加えた。それでも胸のムカムカは止まらない。新たなターゲットを見つけては、また暴れ出す。
結局、エリックの本は手元に戻ったが、中身は池の汚れで緑に染まり、おまけに水の重みで破れた個所もあったりで、とても書物とは呼べない有様だ。
「お前等、明日まで待ってやる。明日の朝一番で、この本と同じものを持ってこい。
できない時は……」
「トオル、もう止めて!」
ずぶ濡れの生徒に向かって拳をチラつかせる透を、エリックが制した。
「たぶん、この街には置いてない物だから。これ以上、彼等を傷つけないで」
「なにを言ってる? 傷つけられたのは、お前だろ」
「うん……でも、お願い」
自身が一番の被害者だというのに、危害を加えた生徒のために許しを請おうとするエリック。彼のその澄んだ瞳を目にした瞬間、透はムカムカの正体を悟った。
自分はエリックをいじめから守るという大義名分のもと、アメリカ人に復讐したかっただけなのだ。
はじめは正義感からいじめっ子どもに立ち向かっていったのかもしれないが、次第に邪な感情に心が食われ、途中からはアメリカ人を打ちのめすことが目的となっていた。
これでは、人種で物事を判断するアップルガースと変わらない。
「分かったよ」
透が拳を解いてみせると、エリックは嬉しそうに目を細めた。
相変わらず、天使のような邪気のない笑顔。だが、にっこり微笑む唇に色はない。
「まったく、お人好しが過ぎるぜ」
青白い笑顔を見せるエリックに、不満顔で応える透であったが、不思議なことに、胸のムカムカは、いつの間にか、消えていた。
放課後、とくにやることのなかった透は、昼間の一件も気になって、エリックとともに帰ることした。
彼の話によると、昼間の生徒は前々からエリックの優秀な成績を妬んで、陰湿なイジメを繰り返していたという。
「言ってくれりゃ良かったのに。なんで我慢してたんだ?」
「考えていたんだ。みんなが納得できる解決策を。
僕にも落ち度はあったと思うから」
「エリック、お前さ。良い子すぎんじゃねえのか?
今日だって、六対一になった時点で、あいつ等が100パー悪りぃだろ」
「そうかもしれないね。
今日はトオルのおかげで助かった。ありがとう。
でも、これは僕のポリシーなんだ」
エリックがひと呼吸おいてから、透の目をまっすぐ見つめて言った。
「じつは、僕、ジャーナリストを目指しているんだ。だから、いくら理不尽だと思っても、暴力に訴えるようなことはしたくない」
「そうか、エリックはジャーナリストになるのが夢なのか」
同い年の少年の夢の話に興味を持った透は、エリックを通学途中にある公園へと誘った。
通常、中学生ともなればファーストフード店が語らいの場になるのだろうが、1ドルを工面するのに四苦八苦する現状では、選択の余地はない。
エリックも透の懐事情を察してか、その提案を快く受け入れてくれた。
街中の大通りに面した緑豊かな市民公園。そこは街の中心部に位置するにもかかわらず、植物園並みの広さがあった。
低い石造りの門から中に入ると、正面には青々とした芝生の広場があって、そこから敷地の奥へは遊歩道で散策できるようになっている。
透もまだ足を踏み入れたことはないのだが、奥のほうには花壇に囲まれたビニールハウスが三棟並んでおり、さらに向こう側には、こんもりとした森らしき緑も見える。
日本なら間違いなく入園料を取られそうなこの場所が、タダで市民に開放されているというのだから驚きだ。
中に入った二人は、早速、緑の絨毯に寝転び、話し始めた。
エリックは権力に屈せず、真実を追い求めるジャーナリストに憧れて、その勉強をするためにアメリカに来たという。
だが、しっかり者の彼にも悩みはあるようで、安定した職業を望む彼の両親に留学を反対されて、何度話し合っても理解を得られず、結局、家出同然で実家を出たとのことだった。
「じゃあ、学費とか、生活費とかは、どうしてんた?」
「いまは姉さんに面倒見てもらっている。僕の一番の理解者なんだ。
でもね、そこまでしてアメリカに来たのに、いざ着いてみると心細くてね……」
エリックが何気なく漏らした「心細い」のひと言に、透は共感とはべつに罪悪感を覚えた。
初対面では年上と見まちがえるほど落ち着いて見えたエリックだが、彼もここでは“よそ者”で、自分と同じように心細いと思う、普通の中学生だ。
その当たり前の事実に、いまごろ気がついた。
「そんな時、トオルのママから同い年の男の子が来るって聞いて。ずっとトオルに会えるのを楽しみにしていたんだ」
アメリカに着いてから、何かと親切にしてくれたエリック。彼が優しくしてくれたのは、不思議でも何でもない。ただ透と友達になりたかっただけなのだ。
少し考えれば分かることなのに、彼の気持ちを思いやる余裕がなかった。
「ごめんな、エリック。
俺さ、前にも一度、転校しててさ。
突然、田舎の山ん中から都会に出たから、最初は浮きまくりでさ。
けど、一人だけ、偏見なしに話を聞いてくれる奴がいたんだ。
そいつが言っていた。『知ろうとすれば、分かり合える』って。
俺はそいつの言葉に救われた。
それなのに、ゴメンな。こっちに着いてから自分のことばっかで、エリックの気持ちなんて考えもしなかった」
「それは違うよ、トオル。
僕だって、自分のことで精一杯だった。これ以上、姉さんに迷惑をかけちゃいけないと思って、勉強ばかりしていたし」
「俺も。暇さえあれば、ラケット握っていた」
「だけど、なかなか思うようにいかなくてね。
あの本、英独辞書なんだ。よほど大きい書店じゃないと見つからない」
海外で暮らす留学生にとって、母国語で書かれた辞書は生命線のひとつと言っても過言ではない。ましてジャーナリストを目指しているなら、今後のためにも無くてはならないものだろう。
「愚痴っぽくなった」と言いながら、こんどはエリックが透の夢を尋ねた。
「俺は早く金を貯めて、日本に帰るんだ」
「えっ? せっかく、こっちに来たのに?」
「こっち来たのは、俺の意思じゃねえもん。
それに日本には倒したい奴がいるし、先輩とも約束したから。必ず帰るって」
不安げに見つめるエリックの視線に気づき、透は慌てて言い足した。
「まだ何年も先の話だって。
自力で日本に帰って、そこで独り暮らしするんだぜ? 飛行機代とか、家賃とか、生活費もかかるだろうし。
けど、どうにか稼ぐ方法を考えないと。このままじゃ、帰る頃にはジジイになっちまう」
「アルバイトを探しているの? だったら、僕の翻訳の仕事を手伝うかい?」
エリックの申し出はありがたいが、母国語でも読み書きの苦手な人間がこなせる仕事ではない。
「悪りぃ。俺の英語、そんなレベルじゃねえから」
「これだけ話せるのに?」
「ああ、ディナのおかげで会話はどうにかなってるけど、読み書きは全然。学校のテストも半分勘で解いてんだ」
冴えない二人が冴えない話題で意気消沈しているというのに、こんな時でもアメリカの空は高くて、青くて、澄んでいて。そこに漂う雲まで、洗い立てのシャツのように爽やかだ。
「なあ、エリック? 俺たちさ、宇宙から見りゃ、ゴミみてえなモンだろうな」
「そうだね。僕は食べ残しのマッシュポテトになった気分だよ。鍋の底に張りついて、洗い流されるのを待っているだけの……」
となりで同じ空を見上げる友人にも、透の言わんとすることが伝わったようだ。
どんなに声を上げても見向きもされず、広い世界の片隅でうずくまるしかない無力な自分。
己の主張はおろか、存在さえも知られることなく、ひっそりと息絶える瞬間を待っている。
高い志に反して、それを叶える術がない。
自ら掲げた夢に押し潰されて、その下敷きになっている愚かな人間など、仮に気づかれたとしても、笑い者にされるのがオチである。
「僕、アメリカに来て、自分が思っているよりも弱い人間だって、よく分かった」
「ああ、俺も。それに、自分が思っているより、クソ野郎だってこともな」
「今日だって……姉さんがくれた大事なものなのに。
『暴力に訴えることはしたくない』なんて、偉そうなこと言って。でも、現実は……見ていることしか出来なくて……」
彼はいくつもの夜を、こうして過ごしてきたに違いない。
きつく唇を噛みしめ、それでも足りない時は、自分の腕を押しつけて。となりの部屋に気づかれぬよう、嗚咽が漏れるのを防いでいたのだ。
「俺さ……」
透はふと目の前の光景に怒りを覚えた。
「ぜってえ騙されたと思う」
「えっ……? トオル、何の話?」
「俺は、あの爽やかぶっている空の野郎に騙されたんだ」
「どういうこと?」
「だってよ、こっちに着いた時、水が合うっつうか、肌が合うっつうか。とにかく上手くいく気がしたんだよ。
それなのに、ふたを開けたら、このザマだ。
せめて、あの雲だけでも引きずり下ろしてだな。ギッタンギッタンに踏みつけて、他の奴等に『この国もこんだけ汚れてます』って知らしめてやんなきゃ、気が済まねえ!」
どうやら二人が気持ちを分かり合えたのは、宇宙の塵までのようである。
本気で雲に戦いを挑もうとする透についていけず、エリックはポカンと口を開けたままだった。
「だからさ、あの雲を引っ掴んでだな……」
言いながら上空へと伸ばした腕が、当然のことながら空を切り、その様子を見ていたエリックが笑いをこらえているのか、両肩を小刻みに震わせている。
「トオル。君って、本当に……」
「なんだよ、その可哀そうな奴を見るような目は? 俺だって、分かってるって!」
「でも、いま本気で掴もうとしたでしょ?」
「どうせ俺のこと、バカにしてんだろ?」
「いいや、逆だよ。君のその行動的なところが羨ましい。
僕はいつも考え過ぎて、チャンスを逃してしまうから」
なにも掴めず降りてきた右手に二人の視線が重なり、目が合った瞬間、二人同時に噴き出した。
ひとしきり笑ったあとで、エリックが透の手首を指差した。
「ねえ、トオル。それ、なんて書いてあるの?」
「『トオルなら、できるよ』って。
さっき話した友達が、日本を発つ時にくれたんだ」
「すごく素敵な友達だね」
「ああ」
空港で奈緒からリストバンドを渡されて以来、透はいつも手首につけていた。
「トオルなら、できるよ」
これを見るたびに諦めるなと言われているようで、不思議と勇気が湧いてくる。
テニスの試合中はもちろん、コートの外でも、苦しい状況に置かれた時はいつも――。
透は体を起こすと、エリックに向き直った。
「俺たちさ、宇宙の塵になるには早くねえか?」
「なに? どういうこと?」
「だから、まだゲームセットじゃねえってこと!」
ダウンタウンまでの行き方は、以前、ケニーに連れていってもらったことがあるので覚えている。
透はそこに着くや否や、片っ端から本屋に飛び込んで、辞書のコーナーを調べていった。
「無駄かもしんねえけど、諦めるよりはマシだから」
はじめは躊躇していたエリックも、透の言葉に感じるところがあったのか、途中からは彼が先頭に立っていた。
通りの端から端まで一軒ずつ訪ねて歩き、それでも見つけられずに、こんどは裏通りにまで足を延ばした。
どれくらい歩きまわったか、夜の八時近くになってから、ようやく同じ英独辞書が見つかった。
ダメ元で入った古本屋に、偶然にも一冊だけ置いてあったのだ。
数年前に世話をした留学生の置き土産だと言いながら、店の主人が提示したのは50ドル。新品と変わらぬ金額だ。
「中古の辞書で50ドルは高けえだろ!?」
「嫌なら帰れ」
店主は透の文句を払いのけると、さっさと戸締りにかかった。
「どう見ても10ドルじゃねえか? 手垢も結構ついているし。
それに、ほら! アンダーライン、こんな引いてあんじゃん!」
「だったら、40ドルだ。
これ以上は負けんぞ。こっちも生活があるからな」
「20ドルにしてくれたら、この店は良心的で、掘り出し物もいっぱいあるって、みんなに宣伝してやる。
俺ん家、留学生が十三人もいるんだぜ? そいつ等が、それぞれの学校でこの店の評判を広めたら……」
「よし、30ドルだ」
「よし、買った!」
予想通りの金額に満足した透であったが、エリックの表情は暗かった。
「ごめん、トオル。せっかく交渉してくれたんだけど、僕、20ドルしか持ち合わせがなくて」
翻訳のアルバイトをしているとは言え、彼もまた親からの援助のない身であった。
「学生同士の金の貸し借りは、ルール違反だったよな? だったら、これを昨日借りた1ドルと交換だ」
透は今朝換金したばかりの現金の中から10ドルをエリックに手渡した。
「駄目だよ、トオル。そんなこと……」
「まあ、良いから、聞けって。
俺はエリックから借りた1ドルをもらう。エリックは俺から10ドルをもらう。
これなら借金したことにはなんねえ。あくまでも交換だ。1ドルと10ドルの」
「でも、どうして僕なんかのために?」
「それ、聞くのかよ?」
「だって、いくらなんでも申し訳なくて。1ドルと10ドルじゃ、違いすぎるもの」
「たしかに、昨日、お前は同い年だから助けてくれると言った。俺もそれで納得した。
けど、いまは違う。
俺等は夢を追いかける同志だ。それも身のほど知らずのでっけえ夢の。
一人じゃ無理でも、二人で力を合わせたら、こうやって奇跡が起きるかもしんねえじゃん。
な? 一緒に俺等の夢、叶えようぜ!」
翌朝、透が目を覚ますと、机の上に新聞の切り抜きが置かれており、そこには皿洗い募集の広告が載っていた。
勤め先は、以前、ケニーに連れていってもらったテニスショップ内のカフェである。
皿洗いであれば、読み書きのできない中学生でも雇ってもらえる可能性は高い。
しかも、場所柄、テニスに関する情報も入手できる。
昨夜、エリックが辞書の礼の代わりに、調べてくれたに違いない。広告の下にはメッセージが添えられていた。
「身のほど知らずの夢を持つ同志より」
透は新聞の切り抜きを丁寧にたたんでポケットに仕舞うと、早速、出かける支度を始めた。
殺風景な部屋を明るく照らす朝の光。それにつられて窓の外を見やると、そこには雲ひとつない青空が広がっていた。