第40話 レイの過去・ビーの過去

 「じゃ、あとは頼んだぞ」
 自然な流れで、さり気なく。ここが重要なポイントだ。
 避けているとか、距離を取っているなどと怪しまれる事のないよう、透は何食わぬ顔でストリートコートからの脱出を試みた。
 ところが、毎回同じメンバーと同じ時刻に抜け出す行為を世間では不自然と呼ぶらしく、三歩と歩かぬうちにクリスに呼び止められた。
 「ダーリン、ちょっと待って! どうして、いつもビーとばかりランチに行くの? 私のこと、避けている?」
 「いや……」と否定はしたものの、次の言葉が見つからない。
 「だったら、今日は私と行きましょう。良いわよね?」
 「いや、今日はちょっと……」
 「『ちょっと』って、なあに?」
 「だから、その……」
 これでは疑惑を持たれても仕方がないとの自覚はあるが、もともと直球勝負の人間が上手い言い訳を揃えているはずもなく、必然的に突っ込みどころ満載の返事をしてしまう。
 そこへ二人の様子を見兼ねたビーが、助け舟を出してくれた。
 「今日は前のリーダーの墓参りに行く予定だ。悪いが、クリスは外してくれ」
 「そうそう! 今日は墓参りに行く予定だった。じゃ、あとは頼んだぞ」
 あえて彼女が介入できない口実を楯にして、ようやく透は当初の目的を達成した。

 ストリートコートからダウンタウンへ向かうには複数のルートがあるが、透とビーは森の小道を抜けるルートを選択した。これなら墓参りと見せかけて、途中でこっそり進路変更ができるのだ。
 教会へ続く道とダウンタウンへの分岐点に差しかかった所で、透が安堵の溜め息を漏らすと、その様子で安全圏に入ったと確信したのだろう。ビーも少し遅れて一息吐いた。
 クリスがストリートコートのメンバーに加わってからというもの、透とビーの二人は常に行動を共にするよう協力体制を敷いている。
 透の場合は、猛獣並みに力強いアプローチから逃れる為に。ビーの場合は、うっかり「オカマ」などと口走り、ぶん殴られる事態を避けるが為に。理由は違えど、クリスから身を守るという点で、二人の利害は一致している。
 午前中は二人でペアを組んでラリーを続け、練習の区切りがついた振りをして、ランチを口実に脱出する。夜、怪しげなバーの仕事で生計を立てているクリスは、午後から翌朝までコートに顔を出すことはない。よって、この作戦でランチが長引いた事にして昼過ぎに戻れば、あとは普段通りの快適な時間が待っているという訳だ。

 「それにしても、レイはよく平気でいられるよな? 前から動じない奴だとは思っていたけど……」
 特に深い意味もなく投げかけた透の疑問に、珍しくビーが真顔で答えた。
 「レイの昔の彼女が、クリスと同じだったんだ」
 「クリスと同じってことは、男? あれ、女だっけ?
 悪りぃ、ビー。実はそういう話、よく分かんねえんだ」
 「俺様も詳しくは知らねえが、聞いた話によると、世の中には心と体の性別が一致しねえで生まれてくる連中もいるらしい。
 性同一障害とか、言ったな。一種のハンディキャップだ」
 「じゃあ、工事中ってのは?」
 透は、この時とばかりに疑問を解決しようと、質問を重ねた。
 「たぶん、性転換手術を受けて、少しずつ本来の体に戻しているんだろう。一回の手術で、簡単に男から女の体へ変えられるものでもないって話だ」
 「つまり、今はどっちでもない、という事か。
 何となく分かったけど……。で、レイの彼女もそうだったのか?」
 「いや、レイが前の彼女と知り合ったのは、手術の後だった。だから、あいつは相手を女として見ていたし、将来のことも真剣に考えていた」
 「もしかして、ずっと知らずに付き合っていたのか?」
 「ああ。結婚前に隠し事ナシってことで、お互いの過去を打ち明けた時に、初めて事実を知らされたと言っていた。
 レイは母親の男性遍歴や、そのせいで施設に入れられて育ったことも全部話して、彼女はそれを受け入れた。けど……」
 ビーの口ごもる様子から、悲しい結末が浮かび上がる。
 「あいつは何度も理解しようと努力したんだ。だけど、戸籍の手続きとか、子供はどうするとか、色々とややこしい問題が出てきてな。結局、精神的に無理しているのが相手にも伝わって、向こうが身を引く形で別れちまった」
 「そうだったのか」
 別れを選んだ際の二人の気持ちを考えると、透は心が痛んだ。
 性転換の手術を受けるぐらいだから、彼女の体も本人の意に反していたに違いない。本来の肉体を取り戻す為に、人とは違った苦労を強いられてきたのだろう。
 同様に、レイも苦しんだはずである。
 頭では理解していても、受け入れられない現実というのは存在する。透もまだ心の整理のつかないことがある。ジャンの死について。
 さすがに生きているとは思わないが、死んだとも思えない。分かりきった事実が、どっちつかずの場所に転がったまま、不安定な状態を維持している。理性では解決がつかず、感情では消化できず、さりとて風化もしてくれない。
 レイはどんな気持ちで答えを出したのか。結論を急ぐあまり、物分かりの良い大人の振りをしたのではあるまいか。そして、そのことを後悔しているとしたら。

 「ビー? 俺、コートに戻るよ」
 透はクリスに対する配慮のなさを反省した。
 自身も理不尽な差別を受けて、散々、嫌な思いをしたにもかかわらず、そんな出来事をすっかり忘れ、彼女を異分子として遠ざけた。傷が癒えれば差別の罪深さを忘れてしまう、己の愚かさを恥ずかしく思った。
 「すぐには分かり合えないかもしれないけど、せめてメシぐらいは一緒に……」
 言いかけた透の言葉を、ビーが遮った。
 「止めておけ。どう転んだって、俺達には理解不能な世界だ」
 「だけど……」
 「お前は、女になりてえなんて思っちゃいねえだろ?」
 いつもは誰よりも熱くなり易い親友が、この話題に関しては、やけにクールな反応を示した。
 コートの襟を立てて、ビーが葉の落ちた森の中をゆっくりと見渡した。
 冬本番にもなると、いつものTシャツと袴姿で過ごすにも限界があるらしく、彼は丈の長いベンチコートを羽織っている。日本びいきの彼曰く、「新選組」の陣羽織を意識しての格好だそうだが、チグハグな印象は拭えない。
 だが慣れとは恐ろしいもので、出会った当初のような驚きはなく、心のどこかでビーは奇抜な服装をする奴だと、その滑稽さを受け入れている。現に、彼が自身で縫い付けたという背中の「城」の文字。これが本来は「誠」だと気付くのに、数日を要した。
 白い息を吐きながら、ビーが続けた。
 「例えば、お前が『ジャップ』と言われて、差別を受けたとする。俺様はきっと仲間を侮辱されて腹を立てるだろうけど、お前の辛さや悔しさは分からない。何故なら、白人に生まれた俺様には、人種差別を受けた経験がないからだ」
 例え話と分かっていても、透はビーが「ジャップ」と口にした一瞬、不快な気分を味わった。アメリカへ来た頃の苦々しい体験が、嫌でも思い返される。
 「同じように、施設で育った俺達のことを、お前は理解できない。何故なら、お前には真っ当な家族がいるからだ。
 わざわざ口に出さねえだけで、俺様も、レイも、人を信じたことはない。人生で最初に出会った人間。それも、腹を痛めて産んでくれたはずの母親に裏切られてんだ。他人なんか論外だ」
 人を信じない。顔色一つ変えずに言い切るビーが、ひどく遠い存在に思えた。今まで仲間だと思っていた群れから、一人だけ取り残されたような寂しさを感じる。
 動揺を抱える透とは対照的に、ビーは来た時と変わらず、白い息が木々の間をすり抜けていく様を眺めている。
 「それは……『他人』っていうのは、俺も含めてか?」
 思わぬところで仲間の線引きをされたようで、透は確かめずにはいられなかった。
 「信じない」の範囲が何処まで及ぶのか。同じ痛みを持った人間でない限り、腹を割って話す事はないというのか。
 「安心しろ。お前は仲間だ。他人じゃない。
 だけど、ジャンに出会わなかったら、お前のことも信じられなかったと思う。
 そもそも、人を『信じる』って言葉が脅し文句じゃねえって分かったのも最近だ」
 「それって、どういう……?」
 「あの女は、散々、俺様をぶちのめした後に、必ずこう言うんだ。『ブライアン、貴方を信じているわ』ってな。
 なんでかなぁ。昔は、その言葉にしがみつくしかなかった。体じゅうアザだらけになっても、周りの大人には自分で転んだって、言い続けてさ。馬鹿なガキだろ?」

 淡々と語られる過去があまりに痛々しくて、透は話題をそこから遠ざけた。
 「ジャンとは、どんな風に出会ったんだ?」
 「俺様がジャンから財布を盗もうとしたんだ」
 ビーがうっすらと笑みを浮かべた。冷淡な笑いではなかったが、少し自嘲の混じった笑みだった。
 「そりゃまた、大胆っつうか、自殺行為だな?」
 「まあ、そうだな。今なら絶対にやろうとは思わねえが、あの時は単なる酔っ払いにしか見えなかった。出会った場所も『ラビッシュ・キャッスル』だったし」
 「ああ、それで……」
 テニスコートの中でこそジャンの偉大さも知れようが、一旦、そこを離れると、彼に尊敬の念を抱くことは難しい。特に『ラビッシュ・キャッスル』のカウンターでバドワイザーを片手に飲んだくれる姿は、エロオヤジ以外の何者でもない。初対面のビーが狙いをつけるのも無理からぬ事である。
 「で、どうなった?」
 「簡単に捕まった。余裕で逃げ切れると思ったんだが、酔っ払ったジャンの方が俺様よりも速かった」
 「それから?」
 透は思わず身を乗り出して、話に聞き入った。
 自分の知らないジャンの昔話はどんな冒険談よりも魅力的で、子供の頃に憧れた英雄伝説のように、無条件で心惹かれる響きがあった。
 「てっきりボコボコにされるか、警察に突き出されると覚悟したんだが、ジャンは俺様を捕まえるなり、『盗みの為だけに、その足を使うのは勿体ねえな』って、ニヤニヤ笑うんだ。
 正直、ビビったぜ。ヤバいおっさんに捕まったってな。
 でも、その後、レイと一緒にストリートコートへ連れて行かれて、やっと理由が分かった。
 俺達みたいなクズでも、少しは価値があるかもしれない。そんな風に思える場所だった。あのコートは」
 「じゃあ、ビーも五十位から順に勝ち抜いてメンバーになったのか?」
 「いや、当時は二十人くらいしかいなかったから、誰でもメンバーになれたんだ」
 「なんだ、そうなのか」
 「お前みたいに無茶苦茶な入り方した奴は、たぶん、最初で最後だろ」
 そう言って、ビーが肩をすくめて見せた。
 負けず嫌いの彼が敗北を認めた時、決まって「参った」と言う代わりに、このポーズを取る。たぶん、今も、透の無謀さに呆れたからではなく、他にそうする理由があるのだろう。

 こうして二人で思い出のやり取りをしていると、時間が逆戻りしたような錯覚を起こす。大きな支えに守られていたあの頃に。
 「トオルは前に『簡単に手に入るから、簡単に手放せる』と、言った事があるよな?」
 それは、以前、透がモニカに向かって発した台詞である。結局、その一言が原因で彼女を泣かせてしまい、ジャンからこっ酷く怒られた記憶がある。
 「自分の為だけに強くなるのは、オスのすることだ。男ってのは、そうじゃねえだろ?」
 今でもジャンの思い描いていた男がどういうもので、あの時、自分がどうすべきであったか、答えは出ないが、彼が弱い立場の人間を傷付けることを酷く嫌っていた。その事だけは鮮明に覚えている。ペンキ塗りたての丸太に縛り付けられた、あの不快な感触と共に。
 ビーも当時のことを思い出したのか、口調が柔らかくなった。
 「ストリートコートのメンバーになった頃の俺様には、あそこがどれほど大事な場所か、分かっていなかった。だからジャンに怒られる度に出て行って、結局、どこにも居場所がないと気付いた頃に、タイミングよく連れ戻されて。
 自分でも矛盾していると思うが、ジャンに反発して逃げ出すくせに、そのジャンが捕まえてくれるのを待っていた」
 「鬼ごっこみたいだな」
 「ああ、そうだ。鬼の変わらねえ鬼ごっこだ。
 そんな事を一年ぐらい続けた後だ。ジャンから長めの説教を喰らってさ。そろそろ落ち着け、というような事を言われたと思うが、当時の俺様には、その言葉自体が信じられなかった。
 自分の存在を何も聞かずに受け入れて、説教までしてくれる他人がいるなんて、居心地が悪かった。だから、俺様は『アンタに何が分かる!?』と言って、食ってかかった。昔のお前より、もっと反抗的だったぜ」
 ジャンに反抗するのは誰もが通る道なのだろうが、今さら子供染みた行為を蒸し返されると、かなりバツの悪い思いをする。先ほどビーが自嘲気味に笑ったのも、そのせいだ。
 「そん時、ジャンにキッパリ言われた。『俺に分かる訳ねえだろ。俺とお前は違うから』って。
 すげえムカついた。やっぱり、からかわれていると思った」
 話の内容から、透には、その時のジャンの姿が目に浮かぶようだった。丸太の上にどっかりと腰を下ろし、必死になって刃向かう悪ガキどもを、いとも簡単に蹴散らしてしまう。少年達の心に刺さった棘までも吹き飛ばす勢いで。
 「ぶん殴ってやろうと思って丸太の上に駆け上がったら、ジャンが能天気な面して、座っていてさ。こっちは一戦交える覚悟で来てんのに、ろくに構えもしねえで言ったんだ。
 『俺とお前は違う。だがな、毛色の違う人間が同じ場所に居ちゃいけねえって法もねえだろ。だから、お前はここに居て良いんだ』ってな。
 ここだけの話、ホロッと来ちまった。
 大したことを言われた訳じゃねえんだけど。救われたっつうか、安心したっつうか。マジで、このおっさんには敵わねえと思った」
 ビーが先程と同じ笑い方をしながら、また肩をすくめて見せた。

 ジャンの言葉を通して、透はビーが言わんとする事をようやく理解した。
 人は、本来、異なる存在で、そのことを恐れてはいけない。自身に対しても、他人に対しても。
 ちょうど今いる森のように、同じ空間にいたとしても、生息する木々はそれぞれ違う。異なる種類の木々たちは、異なるままに存在し、同じ季節を経験しながら豊かな土壌を作っていく。
 違う者同士が、あるがままに互いの存在を認め合う。透も、ビーも、そうした居場所に救われた。
 ジャンは相手を認めるという事を、他の誰よりも分かっていたのだろう。
 先程まで殺伐としていた森が、違って見える。外は閑散としているが、土の中で、幹の中で、確かに息づいている。長い時間をかけて受け継がれてきた過去からの贈り物が、ここにある。

 「なあ、ビー? せっかくだから、ジャンの墓参りに行かないか?」
 「俺様も、そう言おうと思っていたところだ」
 「なら、決まりだな」
 教会へ行きかけて、透が「クリスのことなんだけど……」と切り出すと、その途端、ビーはうんざりした顔を見せた。
 「どうせお前の事だから、歓迎会をしようとか、言い出す気だろ?」
 「俺の時もしてくれた。『ラビッシュ・キャッスル』で。どうかな?」
 「まったく、しょうがねえ奴だ。もう、ジャンのツケは利かねえから、お前が半分持つならやっても良いぜ」
 「サンキュー、ビー。やっぱ、お前は最高の仲間だ」
 「やれやれ、腐れ縁ってヤツだな。これだけ一緒にいれば、お互い、考えも分かっちまう」
 「ついでと言っちゃ何だけど、一つ良いか?」
 透は彼の友情に応えるべく、前々から心に留めていた真実を打ち明けた。
 「背中の漢字、間違っているぞ」
 「えっ?」
 「それから腕のタトゥーも」
 ビーの二の腕に彫られたタトゥーは、彼が最も鼻を高くして語るコレクションの一つだが、実は致命的な欠点があった。
 富士魂 ―― そんな日本語はない。富士山や大和魂ならあるが、富士魂は存在しない。
 透は、ビーの二の腕を見た時からずっと、この事実を伝えて良いものか、悩んでいた。ペイントならともかく、タトゥーは簡単には消せないからである。
 「本当は『富士魂』という日本語はないんだ」
 「マジで?」
 「ああ、大マジだ」
 「一文字70ドルもしたんだぞ?」
 「残念だけど事実だ。でも……」
 ネイティブの日本人からの指摘を受けて落胆を露にする親友の肩を、透は力強く抱き寄せた。
 「でも、すっげえ似合っているぜ。チグハグな感じが、ビーらしいと思う」
 「バ〜カ! それを先に言え……って、トオル? もしかして、ずっと悩んでいたのか?」
 「うん、まあ……だって消えないだろ、それ?」
 「だったら、黙っていろよ」
 「間違いを知ってて黙ってんのは、嘘を吐いているみたいで嫌なんだ」
 「お前、妙なところで律儀だな」
 「そうか?」
 「前言撤回だ」
 消沈気味のビーの口元に人懐っこい笑みが戻る。
 「ジャンと出会わなかったとしても、お前なら信じられたかもしれない」
 「俺も。ビーは最初から信じられる奴だと思っていた」
 「嘘吐け! てめえは最初に会った時、『手首を痛める』とか、何とか言って、俺様を騙しただろうがッ! あの屈辱的な敗北は、一生忘れねえからな!」
 口調は荒っぽいが、その言葉に悪意はなく、重ねてきた時間を愛おしく思う気持ちが表れていた。

 人にはそれぞれ背負うものがある。抱える痛みも同じではない。
 しかし、同じ場所にいることで、同じ時間を共有することで、新しく芽生えるものもある。きっと、これが絆というものだろう。
 ジャンは、そうやって生まれた絆を何より大切に守ってきた。そして、ジャンの想いは透やビーを介して、また新しい仲間にも受け継がれていく。
 帰ったらクリスにも伝えよう。「俺達はそれぞれ違うけど、気の済むまでここに居て良い」と。
 何もない冬枯れの森の中で、二人の少年の笑い声がいつまでも響いていた。






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