第42話 気合の果てに
泥酔の“酔”の字を“睡”と置き換えたくなる程の睡魔であった。酒を飲んだわけでも、乗り物酔いをしたわけでもないのに、吐き気がする。
眠気から来る吐き気なのか。吐きたくなるほど眠いのか。考えようとすると、瞼が自動的に下りてくる。
透の人生の中で、ここまで強い眠気を感じたのは初めてで、また、人間、寝不足を重ねると気持ちが悪くなることも初めて知った。
ジャンという偉大なリーダーを失ってから三ヶ月、ろくな休みも取らずに過ごしてきた。命がけでコートを奪還したまでは良かったが、人員不足から昼夜問わずの見張り番に追われ、その合間を縫って学業とアルバイトをこなす日々。最後にベッドで寝たのが何時かも覚えがない。
それが今月に入って徐々にメンバーが増え始め、月に二回程度の当番で済むようになった。しかも今日は学校が休みで、珍しくアルバイトの予定もない。
つまり全てのノルマから完全に解放された休日を手に入れたのだ。
「今日は、とことん寝てやる」
気合を入れて誓うほどの事ではないが、強い意思を持って行動しなければ、夜中の見張り番を終えたばかりの体は動いてくれそうにない。
まずは自宅の玄関から風呂場へ直行して、体についた汗や汚れを落とし、キッチンから飢え死にしない程度のささやかな ――と言っても、リンゴ三つにラグビーボール大のライ麦パンを一塊と、それらを無理やり流し込むミネラルウォーターが二リットルで、あくまでも育ち盛りの十四歳を基準にした量ではあるが―― いわゆる非常食を調達してから、残りわずかな体力を振り絞り、二階の自室まで。無論、髪を乾かすとか、パジャマを着るなどの不要な労力を一切省き、ベッドから手の届く範囲に食料を配備すると、下着だけの姿でシーツの中へ潜り込んだ。
もうこれでトイレ以外の用事で体を動かす事はあるまい。生きることの意義は、この眠りに落ちる瞬間の喜びを味わう為だけにあるように思えた。
「幸せだぁ」
洗い立てのシーツに包まり、夢までの招待状を遠慮なく受け取ろうとした、まさにその時。いきなり自室の扉の開く音がして、ディナが駆け込んできた。
「トオル、ビーが来ているわよ!」
多くの留学生が寝食を共にする透の家では、いくつか守らなければならないルールがあった。
他の留学生の部屋に入る時には必ずノックをすること。
二階の男子と三階の女子が互いの部屋を行き来してはならない。
用事がある場合は、一階のリビングで話をすること。
これらのルールを全て無視してディナは入ってきたのだが、それはいつもの事であり、彼女を姉貴分と慕う透には、さほど大きな問題ではなかった。何より今は眠気の方が強い。
「ディナ、頼む……出かけた事にしてくれ」
すでに透の意識は現実から夢の中へと八割がた落ちている。
「ダメ、ダメ! 呼んで来るって、言っちゃったもん」
「一生のお願いだから」
「それ、結婚式の立会人をした時に使わなかった?」
「じゃあ、超一生のお願い!」
「良いから、早く来なさい」
一生をかけた願い事を素気無く断られた透は、“泥睡”状態の体を引きずり、一階のリビングまで下りていった。
いっそのこと親友の訪問を無視して寝てしまおうかとも考えたが、そうも出来ない理由があった。ジェイクのことである。
彼は地元では有名な資産家の跡継ぎでありながら、父親がオーナーを務める老舗デパートの買収劇に巻き込まれ、一夜にして家も財産も失い、孤児同然の身の上となった。両親は未だ行方知れず、姉は結婚してオーストラリアに住居を構えた為に、この街に残ると決めた彼に頼れる縁者はいない。
透はそんなジェイクを気にかけ、何度もメンバーになるよう誘っているのだが、本人はストリートコートへは来るものの、外から眺めるだけで決して中へ入ろうとはしない。
まだヤンキーの仲間入りをする事に抵抗があるのか。彼はふらりとやって来て、メンバーのプレーをしばらく見ては去って行き、この二ヶ月間、同じ行動を繰り返している。
ジャックストリート・コートの定員は五十人までと決められている。そろそろ意思を固めなければ、あと十名程しか枠がない。
透が休みを取るにあたり、レイとビーには「ジェイクが仲間になると言ってきたら、すぐに知らせてくれ」と伝えてあった。ビーの突然の訪問は、ジェイクの件だと思った。だが、しかし――。
「トオル、レディの前なんだから、シャツぐらい着ろよな」
開口一番、ビーの口から飛び出したのは、やけに違和感のある台詞であった。
「ああ」と返事をしたものの、何かがおかしい。
確かに、寝ようとしたところを無理やり起こされた為に、透がいま身につけているのはトランクス一枚だ。もしも父親がリビングで同じ格好をしていれば、自分だって注意をするはずだ。
では、この違和感は何だろう。
少しずつ戻り始めた意識の中で、言われた相手がピンク髪に袴姿の外見を全く気にせぬビーであることを思い出した。しかもリビングにいるのは、姉貴分のディナである。どちらかと言えば、「レディ」より「野郎」に近い存在の。
「ビー、何かあったのか?」
遅ればせながら投げかけられた問いに、ビーの頬が髪と同じ色に変わった。
「いや……あの……」
「ビー?」
「あのさ……お前の部屋で話して良いか?」
自室に戻ると、ビーから受けた違和感がより鮮明なものとなった。仲間内では特攻隊長の役割を買って出るほど威勢の良い彼が、今日は借りてきた猫のように大人しい。
「で、何があった?」
「ジェイクの姉貴の結婚式で、会っただろう?」
「誰と?」
「彼女と……」
「彼女?」
「だから……その……ディナと」
「もしかして、お前、まだディナのこと?」
リビングでの「レディ」発言も、歯切れの悪い物言いも、全てはこれが原因か。一度は振られたにもかかわらず、ビーはまだディナを諦め切れていないのだ。
「あれから、ずっと? マジで?」
しつこく確かめたのには訳がある。透が知る限り、この親友は熱しやすくて、冷めやすい。ディナに告白した時も、前回の失恋から三日と経っておらず、あまりに惚れっぽい性格故に「すぐ心変わりする男は嫌い」と断られたのだから。
あれから一年半は経っている。その間ずっと、ディナに想いを寄せていたとなると、これはかなりの重症だ。
「本気なのか?」
「こう見えて、割り切りは良い方なんだ。それが、この前……ジェイクの姉貴の結婚式でディナと再会した時、違うと思った。
何て説明すれば良いのか。その……ずっと気持ちが変わらない。他の女なんてあり得ねえって、思っちまう。こんなの初めてだ」
日ごとに恋愛対象が異なる彼が、年単位で同じ女性を好きでいること自体、驚愕に値する。いよいよ本気の線が濃厚になった。
「なあ、トオル? どうしたら良い?」
「そう言われてもなぁ」
「俺様、前にも振られているし、お前しか相談できる奴がいないんだ。
彼女の性格から言って、しつこい男は嫌われる。けど、どうしても諦められねえ。
もう、格好つける余裕もないほど、ディナが……」
ビーが「好きだ!」と叫んだのと、ディナがノックもせずに部屋に入って来たのは、ほぼ同時であった。
「ごめん……アタシ、トオルにアルバイトの連絡をしようと思って……」
柄にもなく、ディナが無断で入室したことについて反省の色を見せている。タイミング的には、聞こえたか、聞こえなかったか、ギリギリのラインだが、彼女の様子から察するに、ばっちり聞こえたに違いない。悩める男の心の声が。
「前に話していたファッション・ショーの仕事、月末だから……スケジュール、空けておいて」
何事もなかった振りをして強引に話を進めるディナと、秘めたる想いを相談するはずが予期せぬ告白となり、硬直しているビーと。二人の間に挟まれて、どちらに焦点を合わせれば良いのか分からず、透はパンツ一丁の情けない姿でうろたえるばかりであった。
「えっと……俺は……そうだ、シャツ! まずはシャツを着ないと。レディの前だからな」
気まずい空気をどうにかしようと、当たり障りのない話題を口にしてみるものの、自室のクローゼットの場所さえ見失うほど冷静さを欠いた人間に、この場を収めるだけの技量はない。
無意味に慌てふためく親友を見兼ねて、ビーが潔く切り出した。
「ディナ、話がある」
その真剣な表情からビーの覚悟を察した透は、ようやく辿り着いたクローゼットからシャツを掴み取ると、転がるようにして部屋から出て行った。
「俺、エリックにバイトの話を伝えてくるから、二人とも、ご、ごゆっくり!」
ビーとディナを二人きりにする口実を見つけた透は、言葉通り、隣のエリックの部屋へと駆け込んだ。二人の問題とは言え、それが自分の親友と姉貴分となると、彼等がどんな結論を出すのか、気にかかる。
隣の部屋へ移動するのにわざわざキッチンを経由し、ガラスのコップを持参してから中へ入った。よく漫画などで使われるコップを壁に当てて会話を盗み聞きするという、何とも古典的な方法を実践するつもりであった。
ところが隣の部屋で待っていたのは親友のエリックではなく、透が一瞬にして不機嫌になる相手であった。
「親父……ここで何やってんだ?」
目を覆いたくなるような光景とは、一般的に残酷なシーンを指すのだろうが、恥ずかしさで覆いたくなる場合もあるらしい。今、透の目に映る光景は、父が商売道具の聴診器を使って、息子の部屋の会話を盗み聞きしている姿であった。
しかも、返ってきた答えには罪の意識というものがまるでない。
「見りゃ分かるだろ。盗聴だ」
「開き直ってんじゃねえよ」
「聞かれたから、答えたまでだ」
「良い歳して、恥ずかしくねえのかよ?」
「だったら、てめえの手にある“それ”は何なんだ?」
「いや、これは……」
父の聴診器に比べれば息子のコップなど可愛いものだが、人の会話を盗み聞きするという点では、罪の重さに変わりはない。
「そんなんじゃ、物音ひとつ聞こえやしねえよ」
「そうなのか?」
「この家は、年数は経っているが、造りはしっかりしている。古い屋敷を買い取ったからな。
お前、ここの家の息子だろ? そんなことも知らなかったのか?」
日頃の扱いを考えれば、こういう時だけ息子として責められるのは、酷く理不尽な気がした。
「親父、いつもこんな事やってんのか?」
「親御さんから預かった大事なお譲さんだ。愛娘の監視は怠っちゃいけねえ」
あくまでも龍之介はディナの身を案じての行動だと言い張っているが、普段の姿をよく知る息子には、エロオヤジが若い娘の恋愛話に首を突っ込みたくて、盗聴しているとしか思えない。
だが残念なことに、自身もその血をしっかりと受け継いでいる。手の中のコップが、妙に汚らわしいものに見えてきた。
「俺、リビングにいるから。あの二人の話が終わったら、教えてくれよ」
「なんだ、聞いていかねえのか?」
「良いよ。親父のおかげで目が覚めた」
「そうか。今、ちょうど良い感じで……おおっ!?」
「何だよ、親父?」
汚れなき常識人の道を歩もうとした息子は、聴診器を片手に興奮する父親によって、あっという間に呼び戻された。
「なるほどな……」
「だから、どうしたんだって?」
「これだから女ってヤツは……ま、しゃあねえか」
「親父!? 独りで納得していないで、俺にも教えろよ!」
「じゃ、10ドル」
「は? まさか、親父?」
「聴診器のレンタル料だ」
学校の授業で教えられた記憶はないが、世の中には正論よりも理不尽な話の方が遥かに多い。最近になって、透はこの事を一つの真理として認識するようになった。その典型的な例が、目の前にいる龍之介である。
そもそも彼が親でいる事自体、理不尽としか言いようがない。仕事で使う聴診器を盗聴に利用し、尚且つ、それを息子に貸し出して、レンタル料を請求しようとする父親がどこの世界に存在するのか。
もしも心優しい神様がいて、人生の中でたった一つだけ願いを叶えてくれるなら、迷わず父親を変えて欲しいと頼むだろう。それが無理なら、せめて龍之介から受け継いだ遺伝子だけでも、残らず抹殺して欲しい。
「やっぱ、良いや」
急激に襲ってきた自己嫌悪に耐えられず、透は部屋を後にした。ところが、程なくして龍之介も廊下に出てきた。
「親父?」
熱心に盗聴していたわりには、呆気ない退却だ。
「ありゃ、駄目だ。気合ってモンが足りねえ」
「気合?」
「女を口説くには、気合が必要だ」
「気合いで上手く行ったら、誰も苦労しねえよ。相手にだって、好みもあるだろうし」
無意識のうちに、透は奈緒の顔を思い浮かべていた。テニスの試合と違って、どんなに気合を込めたとしても、どうにもならない事もある。
「そんなことを考えているうちは、まだまだだ」
「どういう意味だよ?」
ムキになって抗議する息子を気に留める風でもなく、龍之介は涼しい顔で聴診器をケースにしまうと、それごと透の左胸に突きつけた。
「女は男のここに惚れる」
「ここって、まさかその顔でハートとか言うなよな?」
「ハートだと? そりゃ、あくまでもオプションだ」
「オプション?」
「本体じゃねえってこと。ま、てめえみてえに本体で勝負できねえカス野郎は、オプション付きで売り込むしかねえだろうが」
「だから、本体って何だよ!?」
思わせぶりな龍之介の態度に痺れを切らし、透が声を荒らげた時である。隣の部屋の扉が開き、中からビーが飛び出してきた。
「すまない、ディナ。それだけは譲れない」
「ビー?」
一瞬、透は部屋から出てきた人物が別人ではないかと、目を疑った。そんな錯覚を起こしてしまう程、この時のビーは、普段の彼からは想像もつかないような顔をしていた。
惚れた、腫れた、と浮かれる彼でも、奇抜な発想で皆を驚かせる彼でもなく。見られてはいけないものを隠そうとして、慌てて部屋から飛び出した。詳しい事は分からないが、青ざめた表情から直感的にそう判断した。
奥ではディナが肩を落とし、泣いているようにも見える。一体、二人の間に何があったのか。
龍之介から聴診器を借りなかったことを、今頃になって後悔した。
「悪いな、トオル」
長い付き合いの中で、ビーが何を望んでいるかは、この一言で理解できた。
「自分はフォロー出来ないが、後を頼む」ということだ。
正直なところ女性の涙は苦手だが、ディナを慰められる人間は一人しかいない。状況を把握しているはずの龍之介はいつの間にか消えてしまい、ビーは去った後である。
ひとり残された透は、部屋に入ると、ディナの隣に座った。
この短い時間に何が起こったのか。あえて問いただす事はせずに、黙って隣に居続けた。聞いて欲しければ自分から話をするだろうし、その必要がなければ、ディナのことだ。さっさと部屋から出て行くに違いない。
何をするでもない、無言の時間が流れ、互いの片腕が接する個所に薄っすらと体温を感じ始めた頃、ようやくディナが口を開いた。
ビーに「付き合ってくれ」と告白されたこと。最初は驚いたが、ストレートな告白に心を動かされたこと。そして、彼女も「OK」と返事をしたことも。
「だったら、どうして?」
「髪……」
「えっ?」
「ピンクの髪は嫌なの。彼の髪、せっかく綺麗なアッシュグレイなのに」
「あ、それは……」
理由を言いかけて、透は口ごもった。
以前、ビーに髪を奇抜なピンクにしている理由を尋ねたことがある。その時の答えが頭をよぎった。
あいつが嫌いな色だから ―― ビーの答えは簡潔だった。あいつとは、彼の母親だ。
父親の顔も知らず、唯一の身内である母親から虐待を受けて育ったビーは、彼女とそっくりなアッシュグレイの髪が嫌で仕方がなかった。鏡を見るたびに思い出すぐらいなら、いっそ染めてしまおうと思い付き、最終的に選んだ色がピンクであった。
「ピンクは幸せの匂いがするから嫌い」
彼の母親は、いつも忌々しげにそう話していたという。
淡々と語られた思い出話から、他人の幸せを嫉み、その苛立ちを息子にぶつける事でしか正気を保つことが出来ない哀れな女性像が浮かび上がった。そして、そんな母親を「あいつ」と呼ぶ時、いまだ瞼をひくつかせてしまう息子も、また哀れに思えた。
透が受けた印象では、ビーが髪をピンクに染める理由は、母親に対する嫌がらせであるとか、復讐であるとか、そういった単純なものではないような気がした。
これが他人であれば、忘却という手段で憎しみを薄れさせることも可能だが、肉親故に忘れることも叶わない。だからと言って、許せるはずもない。
あの奇抜なピンクの髪は、着地点を定めることの出来ない心の葛藤を象徴した色なのだ。
透はディナに事情を話そうとして思い止まった。ビーがろくな説明もせずに去ったのは、考えあっての事である。
恐らく彼の中で、ディナに自身の過去を背負わせたくないとの想いがあるのだろう。ストリートコートのメンバーならまだしも、普通の家庭で育った彼女には負担が大きい。
同じ重さの錘を持たない人間に過去を打ち明けたところで、上手くバランスを取ってくれるケースは稀である。最悪の場合、重みに耐えかねて潰れてしまう。
傷だらけの過去を持つ親友は、誰よりもその事を知っている。だからこそ、せっかく恋愛成就のチャンスを手に入れたにもかかわらず、黙って去ったのだ。
自分が親友の為にどこまで働きかけられるかは分からなかった。そもそも透自身、ビーと同じ類の錘を持ったことはない。ただ一つだけ、彼の為に出来ることがある。
「ディナは、ビーに自然体でいて欲しい。そう思っているんだよな?」
「アタシね、いつも人工的な色ばかり目にしているから余計にそう思うのかもしれないけど、自然の色が一番素敵に見えるの。ピンクのビーは、何だか無理している気がする」
「俺も、そう思う。だけど自然でいるのって、人によっては、すごく勇気の要ることなんだ」
「自然でいるのが難しいの?」
「うん、そう。難しいって言うより、怖いんだと思う。子供の頃に……自然でいられる時期に、自分を受け入れられなかったり、怖い思いをした人間にはさ。素の自分を見せることが怖いんだ。
だから、ビーのことを大切に思うなら、待っていて欲しい。ディナならきっと、ビーが失ったものを埋めてくれると思うから」
「何だか、立場が逆転したみたいね。アタシがトオルの恋愛相談に乗ってあげようと思っていたのに……」
口を尖らせ拗ねた口調で照れ隠しをするディナが、やけに可愛らしく見えた。恋をすると、女性は変わるものなのか。
透はこの機に乗じて、龍之介とのやり取りで解決できなかった疑問をディナに投げかけた。
「なあ、ディナ? 女は男の気合に惚れるって、本当か?」
「気合?」
「『女を口説くには、気合が必要だ』って、言っていた」
「気合ねぇ……」
なかなか返事が返ってこないところを見ると、女性側の真理ではないらしい。あるいは、自分が間違った解釈をしたのか。
「それって、リュウが言ったんでしょ?」
「どうして、それを?」
「だって、前にママとの大恋愛の話を教えてくれた事があったから」
「親父が?」
「そうよ」
両親の昔話であるのに、息子よりも他人の方が詳しいというのも不思議な気がしたが、自宅での滞在時間が圧倒的に短い上に、父親とは他人以上に距離を置いているのだから、当然の結果である。
「ディナ、教えてくれ。親父は、どうやってお袋を口説いたんだ?」
「ここ」の疑問を解決するには、実話を聞いた方が具体的で分かり易い。
何より、あの自分勝手な龍之介と能天気な母親とが恋仲になるまでの過程に興味が湧いた。大恋愛というぐらいだから、さぞかし感動的なエピソードがあるのだろう。
初めて明かされる両親の恋物語に、大きな期待を寄せた透であったが――。
ひと通りディナから経緯を聞いた透は、落胆のあまり言葉を失った。
話によると、龍之介は自身の兄の結婚式で母親と知り合い、その日のうちに結婚を決めたらしい。
すっかり忘れていたが、龍之介の兄嫁は透の母の姉である。つまり兄と姉、弟と妹で夫婦になっている。
兄の結婚式で新婦の親族側に座っていた母親を龍之介が見染め、事もあろうに、身内の披露宴の最中に口説いたという。
「付き合ってくれ」を飛び越え、いきなり「結婚してくれ」と頼み込んだ龍之介に対し、母は即答でオーケーしたそうだ。
ディナはドラマティックだと称賛していたが、仕事以外ではドアの開閉さえも嫌がるほど横着な父の気性を知る息子から見れば、これは単なる手抜きとしか思えない。出会って、惹かれ合って、告白して、それなりの付き合いを経てからプロポーズに至るものを、告白からプロポーズまでの過程を丸々省いたのだ。
野鳥の求愛じゃあるまいし、出会ってすぐにプロポーズをして、相手も即答で受け入れるなど、人間界で起こり得ることなのか。
しかも龍之介が結婚を急いだのには、訳がある。この結婚式の一ヶ月後に、彼はロンドンの大学へ教授として渡英する事になっていたのだ。
海外の大学教授ともなれば、夫婦同伴での出席を求められる場も増えてくる。要するに、仕事に必要だから結婚しようと決めたわけで、ゆっくり付き合う時間がなかった為に、慌てて口説いてモノにしたという事だ。
こうなると一目惚れの理由さえ、怪しく思えてくる。龍之介が「女を口説くには、気合が必要だ」と言ったのは、あくまでも自分の都合を押し進める過程で必要になる気合であって、息子が期待したような、情熱とか、愛情とか、心を動かされるような代物ではなかった。
「どこか大恋愛だよ? 結局、俺は親父の自己中の産物って事だよな?」
「良いじゃない。ロンドン産なんだから」
ディナのフォローが虚しく聞こえる。移り気なビーでさえ、真剣な恋愛をしているというのに、龍之介は予想通りというか、自己中心的な態度は今も昔も変わらない。
「だけど、リュウが言っていたよ。恋愛は長さじゃないって」
「それは親父の言い訳だろ?」
「深さだって」
「深さ?」
「リュウは照れているだけで、本当はママのこと、すごく愛していると思うよ。付き合った時間が短くても、愛情は深いってこと。でなきゃ、こんなに長く一緒にいられないって」
「深さねぇ」
これが本当なら、いくらか救われる。透はまた奈緒の顔を思い浮かべていた。
光陵学園で彼女と共に過ごしたのは、ほんの数ヶ月の短い期間だった。それに反して、離れて過ごしてから一年半にもなる。
伝えられなかった想いを握り締めているうちに、いつしか手放せなくなっていた。もしも長さではなく、深さによって結びつきが強くなるのなら、まだ想い続けても良いのかもしれない。
「トオル? アタシ、もう少しビーのこと待ってみる。でも、彼には言わないでね。
アタシが待ちたいから、待つ。それだけだから」
はにかみながらも決意を語るディナは、女の顔をしていた。
やはり、恋をすると女性は変わると思った。時に可愛く、時に逞しく、そして鋭く。
「ナオも、アタシと同じ気持ちで待っていてくれると良いね」
礼のつもりだろうか。ディナは吹っ切れたようにすっくと立ち上がると、透に意味ありげなウィンクを残して出て行った。