第43話 タイニー・ティント

 日本への帰国を夢見て節約生活を続ける透にとって、週末の昼食は数少ない楽しみの一つであった。
 平日の月曜日から木曜日までの四日間、昼食は果物やパンなど、質より量の食べ物で済ませ、貯蓄プランの目標額を達成できた週の金曜日。その日だけは自分へのご褒美として、学生食堂のパスタ・ランチを注文することに決めている。
 3ドル50セントのランチは日本で言うところのレディース・セットに似ており、メインのパスタ料理に、パンと、サラダと、スープまで付いてくる。ドリンクやデザートは別料金だが、日頃から質素な食事で飢えをしのいでいる少年には、充分過ぎるほど贅沢な昼食だ。
 しかも、温かい。これはリンゴやパンには無い魅力であり、リッチな気分に浸れる必要不可欠な要素である。
 この日も、透は自身を労うために、学生食堂へ足を向けた。盛り付け係のおばちゃんが規定の分量より多めにスパゲッティを皿に乗せてくれるのを確認してから、軽く笑顔を傾ける。
 単なる偶然かもしれないが、透の周りにいる「○○の」と名のつくおばちゃんは、皆、世話好きで気の良い人達ばかりである。
 小学校近くの「駄菓子屋のおばちゃん」、光陵学園の「購買部のおばちゃん」、そして、このイースト・パターソンズの「食堂のおばちゃん」。
 彼女達の楽しみは生徒の笑顔と決まっているようで、中でも食堂のおばちゃんは、透が来るたびに「アンタの笑顔は良いねえ」と高らかに笑っては、何かしらのオマケを付けてくれる。但し、このオマケは「お駄賃」に化ける場合もあるらしく、受け取る時には注意が必要だ。

 「ねぇ、あの奥のテーブルに座っている男の子。アンタと同じクラスの生徒だろ?」
 いつもは周囲に響き渡る音量で話しかけてくる食堂のおばちゃんが、今日は何故か声を潜めている。
 「さぁ?」
 もともと休息を兼ねて学校へ来ている透は、自身のクラスに誰がいるのか、とんと興味がない。特に親友のエリックが飛び級で上の学年へ移った後は、気軽に話せる友達もなく、「ストリートコートの不良」の肩書も手伝って、教室内では完全に孤立した存在になっていた。
 従って、食堂のおばちゃんでも記憶しているクラスメートを本人が知らぬのも当然の事だった。
 「最近、高等部の悪ガキどもに使われているみたいなのよ」
 「使われているって?」
 「ああやって、ランチの席取りに一時間も前から座らされているのさ」
 「そりゃ、ご苦労なこった」
 透がおばちゃんの視線を避けてランチ用のトレーを持って席に着こうとすると、カウンターから頼みもしないオレンジとアイスクリームが追加された。
 「なんで?」
 「ほんの気持ち」
 「俺、あいつがクラスメートだって、おばちゃんに言われるまで知らなかったんだけど?」
 「ちょうど良いじゃないか。お近付きのしるしに相談に乗ってあげなよ」
 「やれやれ……」
 特別に追加されたデザートの意味を悟った透は、思わず溜め息を吐いた。
 出来れば、この手の面倒には関わりたくはなかった。ストリートコートのメンバーの世話をするだけでも手一杯なのに、どうでも良いクラスメートの苛め問題にまで関与する余裕はない。
 第一、せっかく不良で通っているのに、これでは善人に見られてしまう。悪ぶりたい年頃はとうに過ぎたが、学校というところは不良でいる方が何かと便利である。クラス委員に推される事もなければ、リクリエーションに駆り出される事もなく、皆が放っておいてくれる。リーダーとアルバイトを中心に生活している者には、非常に都合の良い立ち位置なのだ。
 だが普段から世話になっている食堂のおばちゃんからデザート付きで頼まれれば、無下には出来ない。仕方なく透は、「事情を聞くだけだからな」と念を押して、パシリをやらされている少年が座る一番奥の席へと向かった。

 「授業、出なかったのか?」
 一時間も前から座らされていたという事は、当然、授業を欠席したことになる。出席率に関しては威張れる立場ではないが、名前もろくに覚えていない相手には、こうやって話しかけるぐらいしか思いつかなかった。
 「あの、僕……友達と大事な約束があって」
 苛めに遭っている人間は、必ずと言って良いほど事実を隠したがる。自ら「食堂で席を取るよう命令されて、授業も受けられませんでした」と、白状するはずがない。
 「ふ〜ん、友達ねぇ。隣、座るぞ?」
 そこが上級生の為に確保されたスペースだと承知の上で、透はあえて少年の隣に座った。
 「あっ、そこは……」
 「ここのスパゲッティは温かいうちに食わねえと、マズくなる。それに、今日はどういうわけか、デザート付きだし。
 とっとと食って帰るから、良いだろ?」
 気弱そうな少年の制止を無視して、透は大盛りになったスパゲッティを口に運んだ。
 正直、このまま相談に乗っている振りをして、頃合を見計らって帰ろうかとも考えた。文字通り「食い逃げ」だ。
 ところが次の少年の一言が、透の関心を引く切っ掛けとなった。
 「君は日本人なのに、どうしてそんなに強くいられるの?」
 「どういう意味だ?」
 「誤解しないで。僕は日本人を差別しているとかじゃなくて。その、僕も黒人だから」
 「だから?」
 「体も小さいし」
 「それで?」
 「黒人なのに体が小さいから、『タイニー・ティント』って呼ばれている」
 「お前、ティントって名前だっけ?」
 言われてみれば、そんな名前がクラスにいたような気もするが、ハッキリとは思い出せない。特にタイニー(=小さい)よりも、彼の本名であるティントに関しては。
 会話を重ねていくうちに、少しずつティントの抱える問題のアウトラインが見えてきた。
 人種や体格差が原因で苛められてきたせいだろうが、彼の場合、相手の人間性を見極める前から、誰彼構わず自分の弱さを晒してしまう。
 力の弱い者と相対した時、身内でもない限り、擁護してやろうなどと考える人間は数少ない。大抵は無視するか。あるいは、自身の力を誇示しようと攻撃するか。心身ともに未発達な連中が集まる中学校では、後者に属する人間が圧倒的に多く、時には教師でさえ仲間に加わることもある。
 ただ、こればかりは他人がどうにかしてやれる問題ではない。
 おどおどした態度が性質の悪い連中を呼び寄せ、苛められる恐怖から、また怯えてしまう。この悪循環を断ち切るには、本人の強い意思が不可欠だが、果たしてティントがそこまで望んでいるかは分からないし、仮にこちらから助言をしたとして、そう簡単に解決できるはずもない。
 やはり食い逃げが妥当と結論付けて、透がデザートに手を伸ばした直後に、事件は起こった。

 「タイニー・ティント、サボってんじゃねえぞ! 席が一つ足りないじゃないか!」
 大柄な男子生徒が、食堂に入ってくるなり怒鳴りつけてきた。いつもティントを便利に使っている連中の一人だろう。
 「ごめんなさい。すぐに用意するから」
 「バ〜カ! 俺達が来た時に揃っていなきゃ、意味がないんだ。その為の席取りだろ?
 まったく、お前は脳みそまで小さいな」
 容赦なくティントを責め立てる少年は、中高合わせた中でも一際体の大きいウィリーと呼ばれる上級生だった。
 「すぐに席を空けてやるから、黙って待っていろ」
 頭上で息巻くウィリーを気にも留めず、と言うより、デザートのアイスクリームが溶けかかっている事の方が気になって、透は仲間内で話すのと同じ口調で上級生を黙らせた。実際、危険区域に出入りするヤンキーから見れば、とりたてて媚びへつらう相手ではない。
 「残りは中庭で食うか」
 約束通り、十秒と経たないうちにトレーの中身を空にして、残ったオレンジをポケットにしまい、席を立った。
 ところが、この普段と変わらぬ態度が上級生の目には生意気と映ったらしく、透の前をウィリーがデカい図体を誇示するように立ち塞がった。
 「おい、ジャップ! 『お邪魔しました』の一言ぐらい、詫びていったらどうだ?」
 冷静に判断して、喧嘩を買うには有利とは言い難かった。
 透の背丈よりも頭二つ分ほど大きい上級生と、その背後には彼の取り巻き連中が数名控えていた。しかも自分は右手にトレーを持ったままで、ラケットも鞄ごと教室に置いてある。この状況で使える物と言えば、左手だけだった。
 さて、どうするか ―― 無論、謝るか否かではなく、どうやって戦うかを考えていたのだが、そこへ思わぬ仲裁が入った。ティントである。
 「ウィリー、ごめんなさい。僕から話をしようって誘ったんだ。
 だから、彼に酷い事をしないで」
 小さな体を目一杯広げて、ティントが透とウィリーの間に入ってきた。
 よほど無理をしているのだろう。庇うつもりで伸ばした両腕がブルブルと震えている。
 「タイニー・ティント? まさかとは思うが、俺に意見するつもりじゃねえよな?」
 「ち、違うけど……僕のせいで、誰かが酷い目に遭うのは嫌なんだ」
 「だったら、まとめて酷い目に遭わせてやる。二人一緒なら心強いだろう?」
 ウィリーの太い腕が、いとも簡単にティントを突き飛ばし、続いて透の胸倉を掴んだ、次の瞬間。
 「誰が、誰に詫び入れろって?」
 左手で素早くズボンのベルトを外し、自分に向かって伸びてくる太い腕に絡ませながら、後ろ手になるよう縛り上げる。これら一連の動作を、透は先の台詞を言う間のわずか三秒でやってのけた。右手のトレーは無事である。
 一見、透の方が不利に見えた形勢は、ウィリーの片腕を締め上げる事によって、徐々に逆転していった。
 巨体と背中合わせになるよう透自身も向きを変え、肩を支点としてベルトを引いていけば、ますます相手の腕は上へと引っ張られる。ウィリーが反対の手で反撃しようともがいているが、身長差が仇となって、背後で締め付ける透に触れることすら出来なかった。
 「そろそろ詫び入れねえと、腕、折れちまうぜ?」
 透が勝負あったのタイミングで脅しをかけると、ウィリーが消え入るような声で許しを請うてきた。
 「わ、悪かった」
 「それだけか? ティントは俺のクラスメートだ」
 「分かった。もう席取りはさせないから、許して……腕が……!」

 透がベルトを緩めると同時に、ウィリーの巨体が床に崩れ落ち、今まで見て見ぬ振りをしていた生徒達が一斉に騒ぎ出した。
 ストリートコートの不良が校内で暴れ始めた ―― 口々に恐怖を語る周囲の視線は、喧嘩を仕掛けたウィリーではなく、上級生を片手で締め上げた透に向けられていた。
 「違うよ。トオルは僕を庇って……」
 ティントが懸命に事の次第を説明しようと試みるが、気弱な彼に大衆の注意を引き付けるだけの声量も度胸もない。小さな彼の訴えは、次々と押し寄せる野次馬によって掻き消されていった。
 「ベルト一本で、あのウィリーを片付けちゃうなんて」
 「下手に近付いたら、殺されちゃうかもよ」
 ちょうど昼時と重なった事もあり、無責任な噂話は瞬く間に食堂の狭いスペースを駆け抜けた。
 こういう時は、下手に言い訳をしない方が良い。見せかけの常識を振りかざす生徒達を相手にしていては、身が持たない。勝手に噂を流した連中が、勝手に飽きて忘れるのを、黙って待つしかない。
 「皆、お願い。僕の話を聞いて……」
 涙目になりながら生徒達に訴えるティントの脇を素通りして、透は出口へ向かった。
 こんな事は日常茶飯事だ。学校でも、街中でも。
 転んだ子供を助けようとして親から睨まれたこともある。落し物を届けに警察へ行こうものなら、百パーセント盗んだと疑われる。
 傷つかないと言えば嘘になるが、それでも昔に比べればマシだった。テニス部を追い出され、練習も満足に出来ず、何処にも希望を見出せなかったあの頃に比べれば。
 「君は悪くないから!」
 怒声にも似た呼びかけに振り返ると、ティントが必死の形相で立っていた。臆病な彼の、これが精一杯の恩返しのつもりだろう。人前で大声を出したのも初めてかもしれない。
 自分の声が透に届いたと分かると、ティントは再び同じ台詞を繰り返した。
 「君は悪くないから。悪くないのに……」
 「ああ、分かっている」
 涙で潤んだ黒い瞳を真っすぐ捉え、透は返事を返した。
 「ティント、お前もな」
 「えっ?」
 「お前も悪くない。黒人だって、背が小さくたって、何一つ悪い事はしていない。そうだろ?」
 「そうだけど、でも、僕は……」
 「なら、もっと堂々と胸を張っとけ。他人に対してじゃない。自分に対してだ」
 「自分に対して? そうすれば、僕も君みたいに強くなれる?」
 「知らねえよ。けど、今よりはマシになるんじゃねえか」
 去り際に食堂のおばちゃんが申し訳なさそうな顔でアップル・パイを勧めてくれたが、今度は立ち止まることなく食堂を後にした。


 学校の授業を終えて、透がストリートコートに顔を出すと、待ちかねたようにレイが新メンバーを紹介し始めた。
 「リーダー、これが新しく入ったメンバー三人。トータルで四十九人になったから」
 「俺がいない間に、急に増えたよな?」
 「正確には、リーダーとビーだね。二人がいない方が入り易いみたいだよ」
 「どういう意味だ、それ?」
 「赤いジャケットだけでも目立つのに、鉄製のラケットを振り回して、『伝説を引き継いだ悪魔』なんて言われたら、誰でもビビるって。
 おまけに、ピンク髪の袴男が参謀役で側にいる姿を想像してみなよ。仲間になろうなんて気はまず起こらないね」
 レイの分析はいつでも正確で、言われた本人も自覚はあるが、いずれも努力して変えられるものではない。
 鉄製のラケットはジャンの彼女に渡すまで持っていなければならないし、赤いジャケットも初代リーダーからの命令で着るしかない。『伝説を引き継いだ悪魔』にいたっては、変える方法があるなら、こっちが聞きたいぐらいである。
 「なあ、レイ? ジェイクが仲間にならねえのも、俺のせいか?」
 メンバーが四十九人と聞かされ、真っ先に透が思い浮かべたのは、ジェイクのことだった。
 相変わらず、彼はストリートコートに来るものの、中に入ろうとはしなかった。最初に出会ってから五ヶ月になろうというのに、今もって進展はない。
 「ジェイクの場合は……」
 レイがフェンスの向こうを見やってから、肩をすくめて言った。
 「彼はそこまで切羽詰っていないんじゃない?
 失くしてみないと分からない事ってあるでしょ? それも絶望的に手の届かない場所まで来ないとさ。
 誰かがお膳立てしてくれているうちは、たぶん、入らないと思うよ」
 確かに、そうかもしれない。
 ジェイクは、まだ知らないのだ。これまで何不自由なくプレーのできる環境にいた彼は、これから起こるテニスに対する渇きがどれほど苦しいものなのか。
 実際、少しずつは感じているはずだ。だからこそ、こうして毎日のように来るのだろうが、名家に生まれたジェイクにはストリートコートの扉が透の時より重いと見えて、いまだフェンスの外に張り付いたまま見物客に徹している。

 「おい、トオル! 怪しいチビを捕まえたぞ」
 バックヤードでトレーニングをしていたビーが「怪しい」と言って連れて来たのは、何処にでもいるような、ごく普通の少年だった。残念ながら、危険区域では普通の少年の方が怪しく見える。
 「僕は怪しい者じゃありません。体も小さいし、皆さんを傷つけるつもりもありません。ただ仲間になりたくて……」
 安易に白旗を掲げる弱気な物言いには覚えがあった。
 「ティント?」
 透の前に突き出された少年は、昼間、食堂でパシリをやらされていたティントであった。
 「何をやっているんだ、こんなところで?」
 「僕、決めたんだ。君のように強くなるって。自分に胸を張れるぐらい強くなろうって。
 それで君がここでリーダーをやっているって聞いて、仲間に入れてもらおうと思って来たんだけど……」
 ティントの怯える視線の先には、ビーがいた。
 大方、固い決意を抱いてストリートコートを訪ねたまでは良かったが、ピンク髪に袴姿のビーを目の当たりにし、怖じ気づいたに違いない。普通の中学生なら、当然の反応だ。透でさえ、最初は関わりたくないと思ったのだから。

 透はさり気なくフェンスの向こうへ目をやった。さすがにジェイクも成り行きが気になるのか、しきりと中の様子をうかがっている。
 ストリートコートのメンバー数は、昔から五十人と決められている。ティントが加われば定員となり、誰でも歓迎とはいかなくなる。
 分かっていても、立場上、新しいメンバーを拒むことは出来ないし、反対に、やる気のない者を無理やり仲間に引き入れることも出来なかった。来るもの拒まず、去るものは追わず。これがリーダーの基本姿勢である。
 さらに、こういう時に限って、クリスが余計な問題を持ち込んできた。
 「ダーリン、記念すべき五十人目よ! キースって言うの」
 「まったく、今日はどうなっているんだ?」
 透が頭を抱えるのも無理はない。半年前まで閑古鳥の鳴いていたコートが、まさか定員オーバーになろうとは、誰が想像しただろう。
 それも、最後の一人という段になって、二人の候補者がやって来たのだ。リーダーの思惑とは違う、別の人間が。
 ここは落ち着いて、一人ひとり整理をつけていくしかない。
 「まず、ティント。テニスの経験は?」
 「学校のリクリエーションで少しだけ……」
 「論外だ。帰れ」
 「でも、僕は強くなりたいんだ」
 「ここはストリートコートであって、トレーニングジムじゃない。強くなりたいなら、他でやってくれ。次……」
 簡単な問題から処理して、本題に移ろうとしたのだが、透の思惑はまたも外れた。
 「お願い。僕は君のように強くなりたい。何でもするから、ここに置いて」
 「駄目だ。良いか、ティント? ここはテニスをやりたくても出来ない連中のために造られたコートだ。それに、見ての通り、治安も悪い。
 こんな所まで来た勇気は認めてやるが、さっさと帰ったほうが身の為だ」
 「でも……」
 臆病な彼がストリートコートまで来るには、それなりの覚悟があっての事だとは思う。だが、透の意思は変わらなかった。
 仮にティントをメンバーに加えたとしても、次に挑戦者が来れば、彼はすぐに追い出されてしまう。ジャンやモニカのような優秀な指導者がいるなら望みもあろうが、現状では初心者を一から教える余裕はない。基本を知らない彼が独りで育つには酷な環境だ。
 「もう一度言う。ティント、お前は帰れ」
 二度目のリーダーの命令に、ビーが素早く反応した。連れて来た時と同じやり方でティントを小脇に抱えると、コートの外へ追いやった。

 ティントの処理を頼りになる参謀に任せ、透は本題となるはずのジェイクを探したが、この時すでに彼の姿はなかった。
 最後の枠を諦めたのか。気にはなったが、やる気のない人間を追うことは出来ない。
 「キースと言ったな。経験者か?」
 透は努めて冷静な態度で、五十人目の候補者と接した。
 「ああ、ハイスクールまでずっと。本当は大学まで続けたかったけど、事情があって行けなくなった」
 恐らく家庭の事情だろうが、メンバー内では珍しくもない話である。
 「分かった。キースを五十番目のメンバーと認めよう。すぐに他の連中と対戦をして、順位を決めてくれ」
 「サンキュー、リーダー!」
 上級者向けのラケットと引き締まった肉体から察するに、キースはすぐに幹部レベルまで上がってくるに違いない。リーダーとして彼のようなプレイヤーが幹部に加わってくれるのは心強いが、やはりジェイクのことが気がかりだった。
 辛い時に強気な態度を見せる人間ほど崩れ出すと脆いことを、透は知っている。昔は見たままの姿でしか相手の人間像を捉えられなかったが、今はその言動の裏側まで少しは考えが及ぶようになった。
 遥希や、出会った頃のモニカも、そうだった。心を通わせる相手もなく、ただ突っぱねる事でしか気持ちを表す術を知らない。そんな彼等とジェイクが同じに思えてならなかった。

 「ダーリン? あの坊や、まだ頑張っているわよ」
 クリスに言われて、透が出口に目を向けると、そこではティントがビーと格闘を続けていた。小さな体を捕まえ、コートの外へ放り出そうとするビーに対し、涙目になりながらも、懸命に袴の裾にしがみついている。
 「ある意味、すごい根性の持ち主よね? あのビーに食い下がるなんて、よっぽど仲間に入りたいんじゃない?
 ねえ、ダーリン? 良かったら、私が代わってあげても良いわよ」
 「クリスはどうするんだ?」
 「私は何でも良いのよ。秘書でも、マネージャーでも、ダーリンの側に居られれば」
 「秘書ねぇ」
 その昔、ジャンもモニカを秘書にすると言って、無理やりメンバーに加えたことがある。その時は手癖の悪いエロオヤジの気まぐれだと思っていたが、本当はちゃんとした理由があった。
 リーダーになって初めて、彼がいかに思慮深い人間だったかを思い知らされる。
 「俺様、お前みたいなビビリが大嫌いなんだ!」
 「ごめんなさい。でも、強くなりたいんです」
 「手を放せ、クソチビ!」
 「すみません! 放せないんです!」
 ピンク髪を振り乱し、激しく揺さぶるビーを相手に、ティントは怯えつつも、決して袴から手を放そうとはしなかった。
 「さっさと出て行け!」
 「お願いします。ここに置いてください。僕には、ここしかないんです」
 「ぶん殴られてえのか?」
 「どうか、お願い……。僕には、ここしかないから。ここが僕にとっては、最後の砦だから!」

 この台詞に覚えのある人間、つまり、透、ビー、レイの三人は同時に顔を見合わせた。
 初めて透がストリートコートに挑戦者として入ってきた時、年齢が低すぎるという理由で追い出されそうになった。その状況を一転させた台詞がこれである。
 志はあるのに、手段が分からず。意欲はあるのに、練習相手を見つけられず。孤独と不安の中、ただ強くなりたい一心で丸太にしがみついていた。あの時の自分の姿と、ティントが重なった。
 「ビー、ティントを放してやってくれ」
 「良いのか? こんなビビリの素人を抱え込んで、俺様、どうなっても知らねえぞ?」
 「うちのリーダーは、代々、『最後の砦』発言に弱いから」
 反対しても無駄だと分かっているのか。ビーも、レイも、大して騒ぎもせず、それぞれが自分なりの感想を言うに留めた。
 二人の意見を聞かずとも、愚かな命を下したことは自覚している。しかし、あの時の自分を思い返すと、どうしても放ってはおけなかった。
 透は丸太に上がり、コートが見渡せる位置で腰を下ろすと、そこからティントに向かって条件を伝えた。
 「ティント、一度だけチャンスをやる。それを自分の物にするかどうかは、お前次第だ」
 「何をすれば良いの?」
 「今から五十位のメンバーと試合をするんだ。勝てば、仲間に加えてやる。
 但し、仲間になったからと言って、誰もお前を守らないし、鍛えてもやれない。乱闘が始まれば、自分で自分の身を守るしかない。
 あまり好条件と言えないが、それでもやるか?」
 「ありがとう。僕、やってみる」
 時として人間は、大きな外圧によって目指した方向から逸れてしまう事がある。良い方向へ向かえば、それは「転機」と呼ばれ、悪い方向へ流されれば「転落」と見なされる。
 これら二つに違いはない。ただ流される過程において、自分の意思が存在するか、どうか。この一点によって、外圧は転機にもなり、転落にもなる。
 「本当にここが『最後の砦』だと思うなら、自分の力で勝ち取ってみろ」
 あの時、ジャンも同じ気持ちでいたのだろうか。
 無意識のうちに、透は両手を組んだ。タイニー・ティントに、自らの手で「タイニー」の呼び名を剥がして欲しい。
 他のメンバーの手前、丸太の上で待つことしか出来ないが、透が組んだその手には強い祈りが込められていた。






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