第44話 ジェイクとティント

 「結局、ギャラリーを一人増やしただけだったね」
 さらりと現実を語るレイのコメントが、今の透には酷く胸に応えた。
 メンバーになりたいと食い下がるティントに情けをかけて、試合のチャンスを与えたまでは良かったが、結果は惨憺たるものだった。
 そもそも「最後の砦」と言われ、過去の自分と重ねた事からして間違っていたのだ。冷静に考えて、学校のリクリエーションでテニスを少しかじった程度の初心者が、五十位とは言え、正規のメンバーに勝てるはずがない。
 透の願いも空しく、ティントは五分と経たないうちに敗北し、彼のメンバー入りの夢は一片の希望も残さず砕け散った。その悲惨な試合から一週間。彼は毎日ストリートコートへやって来ては、恨めしげに中の様子を眺めている。
 レイが「ギャラリーを増やした」と言ったのは、ジェイクに加えてティントまでもがフェンスに張り付いているからだ。
 「負けたんだから、仕方ねえだろ」
 強気で反論したものの、最も落胆したのは透であった。
 クラスメートとの日常会話でさえ尻込みするティントが、ヤンキーの溜まり場までやって来て、強くなりたいと訴えたのだ。半端な覚悟ではないはずだ。
 ビーに追い出されても、尚、必死に喰らいつく姿に想いの強さを認めた透は、つい、あらぬ期待を抱いてしまった。あの根性をもって試合に臨めば、初心者の彼にも奇跡を起こせるかもしれないと。
 ところが開始早々、ティントはラケットを野球のバットのように振り回し、せっかくのサーブ権を全て場外ホームランで無駄にした上に、続く第2ゲームでは、シングルスにもかかわらずダブルスコートへ返球して失点し、その無知さ加減はメンバー全員の度肝を抜くほど救い難いものだった。
 テニスに細かいルールが存在する事すら知らずに、きょとんとするティントの呆け顔は、光陵テニス部に入部したての頃の自分を見せられているようで、透は落胆に加え、底知れぬ羞恥心と罪悪感を同時に味わった。
 何より問題なのは、ティントには闘争心がないことだ。
 「強くなりたい」と願う気持ちはあっても、勝利に対する執着心がない為に、平気で相手にチャンスボールを与えてしまう。これではメンバー入りはおろか、テニスプレイヤーとしてやっていけるかも疑わしい。

 「こうなったらメンバーの枠を増やして、五十一人にしちゃえば?」
 リーダーの心中を察したレイが見兼ねて助言をくれるが、透には受け入れられない理由があった。
 「いや、それは出来ない」
 「どうして? リーダー命令だって言えば、誰も逆らう奴はいないでしょ?」
 「そんな事をしたら、今まで五十位を争って敗れた連中の無念が無駄になる。五十人の定員は絶対に守らなきゃならない一線なんだ」
 「まったく……どうして、無意味なところで義理立てするかな。
 だったら、リーダーが何とかしてよ? 毎日、あの恨めしそうな顔を見せられたら、こっちのテンション、下がりまくりなんだからね」
 レイの言い分はもっともだ。
 小柄なティントは普通に接するだけでも視線が下から上へと向くために、必然的に物欲しそうな顔になる。その彼にフェンスの外から羨望の眼差しで見つめられれば、中にいるメンバーはまるで自分達が酷い仕打ちをしているような罪悪感に捕らわれ、やる気が萎えるのだ。
 レイに促されて、透は仕方なくフェンス越しに説得を試みた。
 「ティント、この前の試合で分かっただろう?
 ここのメンバーは、ウィリーなんかよりも荒っぽい連中ばかりだ。お前みたいに対戦相手に遠慮するような奴には向いてねえよ。諦めて帰れ」
 「でも、僕は強くなりたい。君のように……強くなるって……」
 早くもティントの円らな瞳が涙で潤み始めたが、透は構わず続けた。
 「お前が誰を目標にして、どうやって強くなろうが勝手だ。だが、メンバーなるには試合で勝たなきゃならない。この条件をクリアしない限りは、どんなに素晴らしいプレイヤーでも許可できない」
 「素晴らしいプレイヤー」というところで、透はわざとジェイクの方を睨みつけた。
 やる気はあるのに実力が伴わなくて、メンバーになれないティント。それに反して、実力は申し分ないはずなのに、仲間に加わろうとしないジェイク。どちらの事情も把握しているリーダーとしては、歯痒さが先に立つ。
 黒い瞳を涙で一杯にして、ティントがフェンスの外から問いかけた。
 「どうすれば、僕は君みたいに強くなれるの?」
 以前、同じ質問をした経験のある透は答えに窮した。
 まだリーダーを引き継いで間もない頃、日本から様子を見に来た京極に大敗を喫して、藁をもすがる思いで尋ねた。どうすれば強くなれるかと。
 あの時、京極は具体的に何かをしろとは言わず、ありのままの現実を淡々と語って聞かせた。強くなる方法ではなく、本人が目を背けていた弱さを指摘したのである。
 今なら、なぜ彼がそうしたのか、よく分かる。
 透は心の内を見抜かれないようティントに背を向けると、冷たく言い放った。
 「俺は決して強くない。ただお前と違って、誰かに泣きすがるよりは、練習に打ち込む時間の方が多かった。
 練習の邪魔になるから、もう帰れ」
 それ以来、ティントはストリートコートに顔を出さなくなった。


 気の迷いとしか言いようがないのだが、ジェイクは「ティント」と呼ばれる黒人の少年と話がしたくて、後を追っていた。
 透とは知り合いのようだが、たった今、ストリートコートから追い払われ、泣きながら大通りを歩いている。右によろよろ、左にふらふらと、おぼつかない足どりで蛇行する様は、魂の抜け殻と言っても過言ではない。
 「なあ? どうしてお前は、あそこのメンバーになりたいんだ?」
 透に言われた事がよほどショックだったのか。蛇行中の彼は、三度目の問いかけで我に返り、四度目でようやく振り向いた。
 「えっ? ぼ、僕?」
 「お前しかいないだろ?」
 「ごめんなさい。誰かに話しかけられる事なんて、滅多にないから」
 「そうなのか?」
 「あ……嘘です。ごめんなさい。
 学校では話しかけられるって言うか、いつも怒鳴られていて……その、僕……」
 涙で濡れた黒い瞳が、忙しなくジェイクの頭から爪先までを行き来した。質問の内容よりも、相手が自分に近付いてきた目的の方が気になると見えて、品定めによこした視線は警戒心に満ちていた。
 「安心しろ。俺はお前があんな所のメンバーになりたがっている理由を知りたいだけだ」
 この説明に納得したのか。ティントは濡れた瞳をさらにキラキラさせて話し始めた。
 「僕もトオルみたいに強くなりたいから。
 あのね、トオルって強いんだよ。すっごく大きい上級生も片手でやっつけちゃうし、何を言われても堂々としていて。
 僕もあそこのメンバーになれば、強くなれると思ったんだ」
 「あいつと同じ学校なのか?」
 「うん、クラスメートだよ」
 「だったら、同い年だろ? お前、平気なのか?」
 「何が?」
 「メンバーになったら、あいつに使われる事になる」
 「だって、彼は強いもの。あそこは一番強い人がリーダーになる決まりでしょ?」
 ジェイクにとって歳の変わらぬ相手から命令を下されるなど、屈辱以外の何物でもないのだが、ティントは強い者に従うのは当然だと思っているらしい。
 話が噛み合わないと悟り、ジェイクは別の質問をぶつけた。
 「あんな所に出入りすれば、学校の友達からも変な目で見られるだろ? 家族だって、きっと……」
 「そんなのは、いつもの事だよ。僕を一番変な目で見ているのは、家族だから」
 「何だって?」
 「僕だけなんだ。家族の中で体が小さいのは。だから、大丈夫。
 あそこのメンバーになれば、少なくとも僕は……僕だけは、自分を嫌いにならずに済むから」
 「俺には、社会からドロップアウトした連中が傷を舐め合っているようにしか見えないんだけど?」
 「僕はそうは思わないよ。だって彼等は、皆、堂々としているじゃない?」
 「仲間同士で虚勢を張っているだけだ」
 「格好良いよ」
 「分かった、もう良い」

 とんだ見込み違いだと、ジェイクは思った。ティントと話をすることで、少しは気分が晴れるかと期待をしたのに、逆にストレスを感じて冷静さを保てない。
 日を追うごとに、腹の中に不快なモヤモヤが鬱積していく。その正体が何であるかは分からない。だが、ストリートコートに出入りする連中に関する事だとは思っていた。
 モヤモヤの原因が彼等にあるなら、例えば「社会のゴミ」などと悪態をつくことで解消するのではないかと思い立ち、ティントに声をかけたのだ。ところが、彼は自分を追い出した連中を恨むどころか、憧れを抱いているようだ。
 期待したものとは違う反応にジェイクが戸惑っていると、ティントが遠慮がちに尋ねてきた。
 「君はどうして、毎日あそこにいるの?」
 「さあな」
 「君もメンバーになりたいの?」
 「いや……」
 否定するつもりで用意した言葉が喉につっかえ、中途半端な返事となって宙に浮いた。
 「ねえ、ジェイク? もしかして、君も僕と同じじゃないの?」
 「どこがだよ!?」
 耳に届いた自分の声が怒声であることに、ジェイクは驚いた。こんな態度は、らしくない。どうにか平常心を取り戻そうと、呼吸を深くして仕切り直しを図るも、急場しのぎの対処法は単なる息継ぎにしかならなかった。
 「ティントって、言ったよな? あいつの肩を持つわけじゃないけど、お前、テニスに向いていないよ」
 「どうして?」
 「良いか? テニスはリクリエーションなんかじゃない。あのテニスコートの真ん中にあるネットは境界線なんだ。勝者と敗者、強者と弱者を隔てる境界線だ。
 勝者にならなきゃ、敗者にされる。だから、全力で相手を潰しにいく。お前にはその気概がない」
 「君も強くなりたいの?」
 「強くなりたいんじゃない。強くありたいんだ。俺は常に勝者でいたい」
 「じゃあ、どうしてプレーしないの?」
 「えっ?」
 「だって、毎日ストリートコートに来るのに、見ているだけだから……」
 ティントの意図した事ではないのだろうが、ジェイクにとって、この一言は思わぬ衝撃となった。
 先程から自身を苛つかせているのは、ティントではない。腹の中のモヤモヤも、原因は他にある。
 こうなってみて初めて、ジェイクは自身の渇きに気が付いた。外から眺めることで自分もプレーをした気になっていたが、もう何ヶ月もコートに立っていない。
 この不快なモヤモヤはテニス対する欲求だ。見ているだけでは我慢できなくなっている。
 ボールを打ちたい。ラケットを握りたい。コートの中でプレーがしたい。
 腕が、脚が、疼いている。この古傷の痛みにも似た感覚は体からのSOSだ。
 フォームに乱れはないか。体力は落ちていないかと、体の各所がもがいているのだ。
 今まで必死になって体に覚え込ませた努力の跡が消えていく恐怖と、その過程を受け入れるしかない屈辱は、恐らく耐え難いものに違いない。それらの苦痛から逃れようと、自身の中の欲求に気付かぬ振りをしていたが、心も体もとうに限界を迎えていた。
 本音を言うなら、先程の「メンバーになりたいか」の問いかけにはイエスであり、「僕と同じじゃないか」と聞かれれば、これもイエスであった。どこにも自分の居場所を見つけられず、苦しみもがいているという点では、二人は同類だ。
 本当はティントと話をする前から分かっていた。ただ独りで結論を出すのが怖くて、切っ掛けとなるものを求めていたのだろう。
 「ティント、俺と一緒にテニスをやらないか?」
 「教えてくれるの? でも、僕はテニスに向いていないって……」
 「それなら、大丈夫だ。俺に秘策がある」
 「本当?」
 「ああ、テニスを好きになれば良いだけだから。誰にも負けたくないと思えるぐらいにな」


 その夜、透は改めてリーダーのジャケットの重みを実感した。
 初心者のティントに試合をさせたこと。冷たく追い返したこと。どちらも彼の為に良かれと思ってやった事だが、果たしてそうだろうか。
 「ダーリン、またその曲!」
 どすの利いた呼びかけに顔を上げると、クリスが目を吊り上げて、丸太をよじ登ってくるところであった。
 「その曲」というのは、ジャンが十八番とした『アメージング・グレイス』だ。思い入れの強い曲とあって、透は一度も間違わずに演奏を続けているのだが、さすがに夜通しリピートされれば周りもうんざりするらしく、丸太の上に集まる視線が刺々しい。
 「悪りぃ、つい……」
 透が慌ててハーモニカを引っ込めると、クリスの吊り上った目元も同じ速度で和らいだ。
 「その曲は嫌いじゃないの。だけど、それを吹いている時のダーリンは、あんまり好きじゃない」
 「そんなに下手か?」
 「そうじゃなくて。何だか悲しそうに見えるから」
 彼女の言わんとしている事は、よく分かる。確かに『アメージング・グレイス』は、透が己の不甲斐なさを痛感し、ジャンならどうするかと、思い悩んだ時に演奏することが多い。
 シャンパン色の長い髪を撫で整えてから、クリスが隣に腰を下ろした。
 今夜は少し風が強かった。いつもは温かく迎えてくれるオレンジの夜景も、心なしか、冷たく見える。
 「あの小さい坊やのこと、まだ気にしているの?」
 「ああ、人に偉そうなことを言える立場じゃねえのに、余計な事をしたんじゃねえかと思ってさ」
 「でも、彼のためを思ってした事なんでしょ?」
 「本当はさ、俺にも分からねえんだ。強くなる方法なんてさ。
 答えは自分で見つけるしかない。俺も、周りの連中も、皆、そうやって悩んで、苦しんで、どうすれば強くなれるか、試行錯誤しながらコートに立っている。
 だけど、俺がそういうもんだって気付いたのは最近で、それまでは前のリーダーが道標になってくれていた。ジャンを失って、初めて分かった。俺には教え導いてくれる人がいたんだって。
 ティントの事も、ジャンならきっと、もっと上手くやっていたと思う」
 「私は前のリーダーを知らないけれど、少なくとも坊やはダーリンを目指して来たはずよ」
 クリスの髪が夜風を受けて、サラサラとなびいている。長い髪の隙間から覗く夜景は、まるで金色のレースに覆われた宝石箱のようであったが、風が静まると、すぐにその煌びやかさも冷たい光に変わった。
 「そもそも、俺を目指して来た事からして間違いだ」
 「それは違うわ。現に、ここに集まった五十人のメンバーは、貴方をリーダーだと認めているもの。もっと自信を持って良いんじゃない?」
 「自身を持て」と言われれば、ますます背中が丸くなる。
 透が知る限り、前リーダーのジャンはどんな時でも強かった。仲間を慰めることはあっても、慰められたことは一度もなく、常に行くべき道を示してくれた。
 もともと天と地ほどの差があることは分かっていたが、実際、同じ立場に立たされると、両者の隔たりはそれ以上だと思い知らされる。
 「自信ってさ……」
 これは透が、最近、特に感じることだった。
 「持った後から、いつも後悔するんだよな。正しい選択をしたと信じて進んだはずなのに、後ろを振り返ってみれば間違いだらけでさ。
 最悪なのは、その間違いに気付くのは、大抵、誰かを傷つけた後なんだ。
 たぶん、俺は色んな事を理解するのが人より遅いと思う。本当は、もっと思慮深い奴がリーダーをやるべきなんだ」
 「でも、そうやって自分で気付いたことって、絶対に忘れないでしょ? それを積み重ねていけば良いじゃない。
 前のリーダーはすごい人だったかもしれないけど、今はダーリンが皆のリーダーよ。下をご覧なさい。夜中の見張り番にしては人が多いと思わない?」
 「そう言えば……」
 「皆、心配しているのよ。リーダーの元気がないから。
 あの気の弱そうな坊やが、ここまでやって来たのは何故かしら? きっとジェイクだって、嫌いな人がいる所に毎日通ったりはしないわ。
 今のリーダーを慕って後に続こうとしている人がいるのよ。だから自信がなくても、せめて自分らしさは忘れないで」

 港の明かりが一つ、また一つと消えていく。
 夜が明ける直前、街全体が漆黒の闇に飲まれる瞬間がある。月明かりも、ネオンも消えて、朝日はまだ顔を出さない。まるで夜と朝の狭間に落ちたような空白の時が。
 「ありがとう、クリス。なんか、元気出てきた。
 ここがティントにとって本物の砦だったら、必ず戻って来るよな?」
 「ええ、そうね。でもね、ダーリン?」
 「ん?」
 「私にとっての本物の砦はダーリンなのよ」
 「へっ……?」
 透の背後から朝日が昇り始めた。暗闇から解かれた光は突如として爆発的なエネルギーを放ち、港を、ストリートコートを、順番に照らしていく。
 この清々しい朝の光の中で、慌しい影が二つ。
 「ねえ、ダーリン! 私、ダーリンが心配で、お店を休んだのよ。これって、本物の証だと思わない?」
 「そ、それは違うかと……」
 「もう、あの坊やのことは気にかけるくせに、どうして私のことは無視するの?」
 「充分、気にかけているって!」
 「だったら、態度で示してよ」
 「いや、日本人は慎み深い人種だから、なかなか態度に出せなくて……」
 「都合の良い時だけ日本人にならないで!」
 転がるように丸太から下りてきた透と、それを追いかけるクリスと。見慣れた光景に安堵したメンバー達は、皆、笑顔でストリートコートを去っていった。


 ジェイクがティントを連れて再びストリートコートにやって来たのは、それから一ヶ月後のことだった。
 「ここは、一度負けた奴でも挑戦できるんだよな?」
 以前と比べて、二人とも逞しく見えるのは、初夏の日差しのせいではない。常に俯き加減で怯えていたティントは背筋を伸ばすことを覚え、ジェイクもまた、今日のために体を作って来たのだろう。ラケットバッグを担ぐ姿が様になっている。
 「ああ、そうだ。負けた奴にも挑戦権はある」
 透の答えに、ジェイクは満足げに頷くと、まるで専属コーチのような口ぶりで、
 「お前から挑戦して来いよ。見ていてやるから」
 と言いながらティントを送り出し、彼自身はネットポストの近くを陣取った。丸太の上を除けば、そこが最も選手の動きがよく見える場所である。
 「ティント、サーブを打ったら前へ出ろ」
 ジェイクが発した指示を聞き、コートを囲むメンバーの間に困惑が広がった。
 通常、サーブはラケットを上から下に振り下ろすオーバーヘッドが一般的だが、ティントはストロークと同様、横に構えて立っている。明らかにアンダーサーブの構えである。
 確かにアンダーサーブは上手くスライス回転をかければ、それなりの効力を発揮するが、初心者のティントから放たれたサーブは、何の変化もない、ただの緩いボールであった。サーブ&ダッシュをかけるには、お粗末過ぎる代物だ。
 「なんだよ、脅かすなよ」
 五十位のメンバーが胸を撫で下ろした直後、素早くネットについたティントからハイボレーが叩き込まれた。
 「一体、どうなっているんだ?」
 誰もが信じられないという風にティントを凝視していたが、透だけは鋭い視線をネットポストに向けていた。
 「ジェイクの奴……」

 透には彼等が、いや、ジェイクがやろうとしている事の見当がついていた。
 どういう経緯でそうなったかは分からないが、この一ヶ月の間、ジェイクは目標を一つに絞って、ティントにテニスの指導をしたに違いない。
 彼が教えたショットはストロークとボレーのみ。この二種類のショットを軸に、五十位のメンバーに勝つためのテニスを叩き込んだのだ。
 テニスには基本のショットが四種類ある。ストローク、ボレー、スマッシュ、そして、サーブ。ジェイクはこれらのうち、サーブとスマッシュの練習を捨てて、ストロークとボレーの強化に時間を割いた。
 初心者がオーバーヘッドのサーブやスマッシュを習得するには時間がかかる。それよりは、サーブを安定したストロークで行ない、ボレーを中心に得点に繋げる方が、勝率も高くなる。しかも緩いサーブが相手コートへ届く時間を利用して、ネット前に出ることにより、相手にもそれなりのプレッシャーをかけられる。
 初級レベルの対戦相手にしか通用しないサービスキープの仕方だが、挑戦者側に最初のサーブ権があるこの試合に限っては、充分に有効な手段であった。

 第1ゲームをティントが先取したのを見届けてから、ジェイクが左手で拳を作り、右手で軽く叩く真似をして見せた。
 「リターンは当てるだけで良い」との指示だろう。次の第2ゲームでは速いサーブを想定し、ブロック・リターンで対応させるつもりなのだ。
 ジェイクの読み通り、初心者に1ゲームを先取されて焦った五十位のメンバーは、自身のサービスゲームを死守しようと、スピードサーブで勝負を仕掛けた。
 ところが、それが却って仇となった。「当てるだけ」で返したティントのリターンには、サーバーが送り込んだのと同じスピードが乗っていた。
 予想以上に速いリターンを返され、五十位のメンバーは対応し切れず、自らが生み出したスピードに翻弄されている。
 3ゲームという短い試合の中では、先にゲームを物にした方が断然有利な立場となり、奪われた側は焦って全力で巻き返しを図るはず。その心理を巧みに利用した、試合経験豊富なジェイクならではの作戦だ。
 追い詰められたメンバーは、シンプルな「当てるだけ」の返球にミスを重ね、自滅の一途を辿っていった。

 「お前の勝ちだ。よく頑張ったな、ティント」
 試合終了後、これまで見た事もない穏やかな笑みで、ジェイクがティントの勝利を称えた。
 「ジェイクのおかげだよ、ありがとう。テニスって楽しいんだね」
 「そうだろう? 特に勝ち試合の後は、最高の気分だ」
 「うん。でも……あの五十位の人は、どうなるの?」
 心優しいティントは、自分が負かした相手を思いやり、素直に喜べない様子である。
 「また挑戦しに来るだろ」
 ジェイクの答えだけでは納得しないのか、ティントは透にも説明を求めてきた。
 「ジェイクの言う通りだ。ここがあいつにとって本物の砦なら、必ず挑戦しに戻ってくる。今日のお前みたいにな」
 「五十一位は作れないの?」
 「それが、ここのルールだ。差別も、偏見もない代わりに、弱い奴から順番に追い出される。残りたければ強くなる。それ以外に方法はない」
 黒い大きな瞳が、またしても潤み出した。
 「やっぱり、僕はここに居られない」
 「どこへ行く、ティント?」
 出口に向かう小さな背中を、透は呼び止めた。
 「あの五十位だった人に戻ってもらおうと思って。彼にとっても、ここは最後の砦なんでしょう?」
 「それはお前の自由だが、負けた相手にそんな情けをかけられても、あいつは喜ばないと思うぜ」
 「どうして? 大切な居場所なのに?」
 「誰かに譲られた場所を、居場所と呼べるのか? 自分の手で勝ち取るからこそ価値がある。ここにいる連中は、皆、そうやってメンバーになった。
 それにティント、お前にはまだやるべき事があるんじゃないのか?」
 透はコート脇に控えるジェイクに目を向けた。
 この後、ジェイクが挑戦者として試合をすれば、難なく幹部クラスまで撃破するに違いない。そうなれば、現在五十位であるティントが自動的に押し出される格好となる。彼がメンバーに留まる為には、もう一人倒さなければならなかった。
 「いや、その必要はない」
 地面に下ろしていたテニスバッグを肩に担ぐと、ジェイクがまるで他人事のような涼しい顔で言い切った。
 「俺はメンバーになるつもりはないから」
 「ジェイク、まだそんな意地張っているのか?」
 「そうじゃない」
 「だったら、何だよ?」
 「気に入らないんだよ。お前がリーダーでいることが。
 だから、俺が取って代わろうと思って。ティントが上位に上がった後で」
 「ジェイク、まさか最初からそのつもりで……?」
 ティントと透は同時に驚きの声を上げた。
 今の勝利は奇策がもたらした結果であって、同じ手が次の対戦相手にも通用するはずがない。ジェイクはそれを承知の上で、ティントひとりをメンバーに押し込めるつもりで挑戦させた。彼のささやかな願いを叶えてやる為に。
 「ねえ、リーダー? やっぱり私を秘書にして、ジェイクを入れてあげれば?」
 ジェイクの意図を察したクリスが以前と同じ提案をしてくれたが、透はそれには応じなかった。
 「いや、このままで良い」
 「どうして?」
 「さっきと同じ理由だ。他人に譲られた居場所じゃ意味がない。そうだろ、ジェイク?」
 ジェイクはその問いかけに答えることなく、無言でコートから出て行った。
 一見、歩み寄りの余地もない頑なな態度に見えたが、去り際に彼が残した台詞に、透はいくらか安堵を覚えた。
 「俺が本当に気に入らないのは、お前じゃない。俺より強い奴がいること。その一点だ」






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