第45話 ウェインの報復

 「リーダー! 大変、大変!」
 午後のティータイムで賑わうカフェに叫び声と共に飛び込んできたのは、ストリートコートのメンバーになって間もないティントであった。
 「ティント、あのなぁ……」
 透は息の荒い新入りをスタッフルームの中まで誘導すると、リーダーのアルバイト先に押しかける際の注意事項を言って聞かせた。
 「良いか? 前にも話したと思うが、ここでは名前で呼んでくれ。俺の他にリーダーが二人もいるからな。元、だけど」
 ここのカフェの責任者であるシェフはジャックストリート・コートの五代目リーダーで、彼の上司にあたるテニスショップの店長は初代リーダーだ。透を合わせると、「リーダー」と呼ばれて振り向く人間が館内に三人もいるのである。
 しかもメンバーが慌てて呼びに来たという事はストリートコートに問題が生じたからに違いなく、そんな事が知れようものなら、すっかり紳士に落ち着いた店長はともかく、気性の荒いシェフは「リーダーがだらしねえから、こうなんだ!」と激怒するに決まっている。
 内部事情もよく知るシェフのことだから、最終的には職場を抜け出す許可をくれるだろうが、どうせなら無傷で放免して欲しいというのが、現役リーダーの切なる願いである。
 わざわざティントをスタッフルームへ誘導したのも、店の客に気を遣った訳ではない。元リーダーの年季の入った蹴りから我が身を守る為だった。

 「事情は走りながら聞く。とにかく急ぐぞ」
 結局、シェフに見つかり青アザを三箇所こしらえた体で、透はティントを連れてストリートコートへ向かった。
 「ウェインが来たって……」
 「ウェイン?」
 「クリスが、そう言えば分かるって」
 「そう言えば分かる」と言われて、困惑する時ほど恥ずかしいものはない。しかしヒントが名前一つでは、どうする事も出来なかった。
 もともと人名を覚えるのが苦手な上に、横文字の名前は馴染みがない。正しい答えが記憶に刻まれているかも疑わしい。
 「ウェイン、ウェイン……。ああ、分かんねえや!」
 「その人が来てから、クリスの様子が変なんだ。怖がっているって言うか、怯えているって言うか……」
 まるで頼りにならないリーダーの手助けをしようと、ティントが息も切れ切れになりながら、ウェインなる人物の情報を補足していった。
 「クリスが?」
 「他の皆は、見たことないって」
 「クリスが怯える相手……。そうか、分かった! あのクソ・コーチの名前が、確かウェインだ」
 日頃から思ったことをすぐに口にしてしまう透だが、目上に対する言葉遣いには多少なりとも注意を払っている。光陵テニス部に在籍していた頃の体育会系の教えが体に染みついているのである。
 しかしながら、ウェインに限っては例外中の例外だ。彼には「クソ」を付けても余りあるほど、透とクリスは嫌な思いをさせられている。
 生徒を指導する立場にありながら、レッスン中にサーブをクリスに打ちつけ、公然と嫌がらせを行なっていた最低最悪のコーチ。偶然、居合わせた透がその卑劣な行為に腹を立て、大勢の観客が見守る中、掟破りの試合をして負かしたという、いわく付きの相手でもある。
 噂では、事件後、彼はホテルを解雇されたと聞いたが――。
 ウェインの正体が判明したところで、ティントが事の次第を説明し始めた。
 「昼過ぎだったかな。そのウェインって人がコートにやって来て、試合を始めたんだ。すごく強くて、あっという間に、全員、やられちゃった」
 「ビーとレイは、どうした?」
 「レイは仕事があるから午前中で抜けて、ビーはランチに行ったきり、戻って来ないんだ」
 ストリートコートのルールでは、リーダーが不在の場合、その場にいるトップを倒せば挑戦者にリーダーの権限が移ってしまう。よって、日頃から幹部同士でローテーションを組んで不測の事態にも備えているのだが、たまたま主力メンバーの不在の折に ――あるいは、そこを狙われたのか―― ウェインに乗り込まれたようである。
 「キースまでやられちゃって」
 現在キースは、ビーとレイに次いでナンバー4に位置している。
 「まさか、ウェインがリーダーに?」
 「ううん、ジェイクが……」
 「ジェイク?」
 「そう。ジェイクがリーダー代理の振りをして、試合を引き延ばしてくれている。僕にリーダーを呼んでくるよう指示したのも、彼だよ」
 にわかには信じられなかったが、思い当たる節はある。
 気位が高く、透の誘いにも素直になれないジェイク。しかし、テニスに関しては実直な一面を持っている。それはティントをメンバーに入れる際のサポートぶりや、その前後の言動からも判断できる。
 テニスと真摯に向き合ってきた彼には、リーダーの留守を狙うような卑怯な輩にコートを奪われることが許せなかったに違いない。

 透がストリーコートに到着すると、ウェインとジェイクの試合は「6−4」で決着がついた直後であった。
 試合を終えた二人の様子は対照的だった。
 以前と比べて、ウェインの体は別人のように引き締まり、息ひとつ乱れていない。かなりハードなトレーニングを積んで、なまった体を絞ってきたのだろう。
 対するジェイクは、傍目にも疲労が見て取れた。
 いくらテニスの名門校で鍛えられたとは言え、コーチが相手では力の差があり過ぎる。ここまで持ち堪えてくれただけでも、奇跡に近い。
 「リーダーのくせに、携帯ぐらい持っていろよ。他の連中はお前の連絡先を知らないって言うし。まったく、ここの危機管理体制はどうなってんだ?」
 透を見るなり、ジェイクは非難を浴びせかけたが、その口調に刺々しさは感じられなかった。疲労のせいなのか。ウェインを共通の敵と認識したことで、仲間意識が芽生えたのか。いつもの敵対心剥き出しの彼とは違っていた。
 「サンキュー、ジェイク。おかげで乗っ取られずに済んだ」
 「別に……手強そうな相手だと思ったから、腕試しに対戦しただけだ。
 それより気を付けないと、ここに出入りする連中とは格が違うぞ」
 「分かっている。ああ見えて、テニスの腕前だけは指導者レベルだ」
 「何だって!? それじゃあ、プロのコーチか? どうして、そんな奴がこんな真似を?」
 ジェイクが驚くのも無理はない。まともな指導者なら、ストリートコートのヤンキー相手に勝負など挑まない。
 「さあな。だけど、俺の存在が気に入らねえ誰かさんにとっては、ちょうど良かったんじゃねえか?」
 ウェインにコートを明け渡すつもりはなかったが、透はあえて投げやりな態度を取ってみせた。
 「バカ、あれは本心じゃない。分かれよ、それぐらい」
 「回りくどい言い方は苦手なんだ。だから、単刀直入に聞く。ジェイク、俺がリーダーじゃ不満か?」
 「そうじゃない。ただ……」
 もう少しでジェイクの本音が聞き出せると思ったところへ、コートの中からウェインが怒鳴りつけてきた。
 「ようやくリーダーのお出ましか。この前の礼はタップリさせてもらうから、覚悟しろよ!」
 残念なことに、体はアスリートらしくなっても、性格は昔と変わらぬようである。
 「大口叩くわりには、随分とやり方がセコくねえか?」
 「うるさい! クズどもを相手に、手段なんか選んでいられるか」
 「ここのリーダーになったところで、ホテルのコーチほど高い給料はもらえないぜ?」
 無論、ストリートコートのリーダーが労力に見合う給料をもらえるはずもなく、これはコーチを辞めさせられたウェインへの皮肉である。
 「粋がっていられるのも、今のうちだ。メンバーの前で大恥をかかせてから、叩き出してやる!」
 どうやら彼は、自身が解雇された原因が透にあると思っているらしい。逆恨みというヤツだ。
 ウェインの目的は透への復讐だ。トレーニングを重ね、なまった体を鍛え上げ、見当違いの恨みを晴らす為にやって来たのである。

 透はジャケットを脱ぐと、念入りにウォーミング・アップを始めた。
 この勝負。本気でかからないと、取り返しのつかない事になるかもしれない。
 「ダーリン、ごめんなさい。もとはと言えば、私のせいで……」
 ストレッチに入った透の背後から、クリスが消え入るような声で話しかけてきた。ボールをぶつけられた時の恐怖が甦ってきたのだろう。彼女の声も体も小刻みに震えている。
 「大丈夫だって。挑戦者として来たからには、相手をするのが俺の役目だ。クリスが気に病む必要はねえよ」
 出来るだけ明るく答えてから、透はティントを呼び寄せた。
 「ティント? 試合が終わるまで、クリスの側にいてやってくれないか?」
 「側にいれば良いの? 僕で良いの?」
 「ああ、頼んだぜ」
 このやり取りを聞いたウェインが、憎々しげに口元を歪めた。
 「相変わらず、オカマには優しいな。それとも上手く抱き込まれたか? もう普通の女じゃ満足出来ない体にされたんだろ?」
 「ひとつ、聞きたい事があるんだが……」
 ウェインの口汚い挑発を無視して、透は話を進めた。
 「ここがストリートコートだと承知の上で、俺に勝負を挑むのか?」
 「当然だ。雑魚とはハーフマッチで、幹部とは6ゲームの1セットマッチ。挑戦者側に最初のサーブ権があるんだよな? 全部、調べて来たぜ」
 「アンタの知っているご立派なコートとは勝手が違うと思うけど、それでもやるか?」
 「サーフェスの違いなら心配無用だ。ここのコンクリートに合わせて対策も取ったし、お前が来るまでに調整も済んでいる」
 「そうか。それなら、遠慮なくやらせてもらう。後で文句を言うなよな?」
 「貴様こそ、後で吠え面かくなよ」

 序盤からウェインはトップスピンを多用した攻撃を仕掛けてきた。コンクリートのコートでは、トップスピンはハードコートよりも球脚が速くなる。
 コーチ職に就いていたのは伊達ではないという事か。豊富な知識に、高度な技術。それに鍛え直した筋力が加われば、『伝説のプレイヤー』から直に手ほどきを受けた透でも苦戦を強いられる。
 打ち負ける ―― と言っても、単なるパワーの差ではなく、ラリーを重ねていく中でジワジワと相手のペースに巻き込まれる感覚を、久しぶりに味わった。
 前後左右とコースを打ち分けながら、ウェインがスピンボールに押され気味の透を満足げに眺めている。
 「安心しろ。そう簡単には潰しはしねえよ。じっくり痛めつけた後で、追い出してやるからな」
 言うが早いか、ウェインが透の顔面を目がけてボールを叩きつけてきた。
 一度でもテニスの指導者を志した事のある者ならば、最低限のマナーは守ると思って、油断した。テニスボール特有の焼けるような痛みが透の頬を掠めていった。
 「アンタ、やっぱりクソだな」
 「こういう勝ち方も、ここではアリだと聞いたもんでね」
 自分が付けた傷跡を見て冷笑するウェインに、指導者としてのプライドは欠片も残っていなかった。

 「あれ、ヤバそうな奴が転がり込んでいるじゃねえか?」
 休憩時間から大幅に遅れて、ビーがコートに戻ってきた。大方、今日は挑戦者が来ないと踏んで、ランチの後ものんびり構えていたのだろう。帰りを知らせる第一声は、おべんちゃらが嫌いな彼にしては妙に媚びていた。
 「ああ。イカレ具合で言えば、お前以上だ」
 文句を言いたいのを堪え、透が顔を上げるや否や、ビーの表情が険しくなった。赤く腫れた頬の傷と脱ぎ去られたジャケットで、自身の留守中に何が起きたか、察したようである。
 「確かに、イカレた野郎だな。よりによって、今日か?」
 「ああ。よりによって、今日だ」
 透とビーの双方に不敵な笑みがこぼれた。

 ―― 昨日はFourth of July。アメリカ独立記念日だった。
 国民意識の強いアメリカ人にとって、この日は植民地支配から解放されて独立を宣言したとされる記念日で、二百年以上経った今でも、各地で盛大なパレードやイベントが行われている。
 人種の寄せ集めの危険区域では、アメリカが独立しようが、支配されようが、知った事ではないが、お祭り気分を味わえるという点では、透達もちゃっかり便乗させてもらっている。特に花火 ――空気が乾燥しているカリフォルニア州では、通常、花火の使用はもちろん、売買も禁止されている―― を好きなだけ使って遊べるとあって、ヤンキーの間では最も評価の高い記念日だ。
 その独立記念日から一夜明けた今日。コートの中がどういう状態になっているか。
 神聖なるキリストの誕生日でさえ、ボヤ騒ぎを起こして丸太を焼失させた悪ガキどもが、どんな風にこの全米最大規模の祭りの日を過ごしたか ――

 「よりによって、Fourth of Julyの翌日に乗り込んでくるとはねぇ。間の悪い野郎だな」
 丸太に上がって試合を観戦するビーのピンク髪が、楽しげに揺れた。
 ウェインが二人の会話の意味を理解したのは、その直後のことである。
 透から送り込まれたボールはサイドラインぎりぎりの際どいコースであるが、比較的浅めの緩い返球だった。ウェインがそれを拾って前進すれば、ネット前を陣取るチャンスにもなり得る反面、下手に返せば、サイドに振られた後だけに、逆襲を喰らうリスクもあるという、早い話が“釣り球”だ。
 しかし、攻撃のチャンスがある以上は、勝負に出ない訳にはいかない。好調なトップスピンとコーチとしての中途半端なプライドが、安全策ではなく、勝負を選択させた。
 ところが釣り球を追いかけてコートの端に勢いよく踏み込んだ瞬間、ウェインはヌルリとした感触と共に足を滑らせ転倒した。
 「トオル! そこ、ビンゴ! 俺様がローストポークをぶちまけたのは、ちょうどその辺りだ」
 丸太の上で大はしゃぎするビーの叫び声を聞いて、ウェインが慌てて上体を起こしたが、時すでに遅く、油の混じった肉汁が白いテニスウェアに染み付いた後だった。無論、ソックスとシューズにも、べっとりと跡が付いている。
 「ローストポークだと!? まさか、貴様等、ここで飯を食ったのか!?」
 「ここのコートはダイニングにもなるし、リビングにもなる。俺達には、自宅みたいなもんだから」
 動揺を露にするウェインに向かって、透が何でもない事のように答えると、すかさずビーが追い打ちをかけた。
 「ちなみに、チキンサラダとチェリーパイも食ったし、あとバーベキューもやったんだ!」
 長年、整備されたコートを職場としてきたコーチには信じられない話だろうが、ここを根城とするヤンキーには常識の範囲である。
 「くそっ! せっかくのシューズが油まみれだ」
 ウェインがテニスシューズの底を左右交互に確認してから、忌々しげに舌打ちをした。
 コンクリートのサーフェスを想定し、クッション性が高く、程よくブレーキングの効くシューズを吟味して履いてきたのだろうが、肝心の靴底にはラード状になった油が隙間なく埋め込まれている。これでは、せっかくの高性能シューズがまるで機能しない。
 「どうする? そんなシューズで、まだ続けるつもりか?」
 「貴様……釣り球と見せかけて、わざと俺をここへ誘い込んだのか?」
 「こういう勝ち方も、ここではアリなんだ」
 「さっきの礼か? 上等だ。それなら、こっちも思う存分やらせてもらう」
 見るからに滑りやすそうなシューズを履いたまま、ウェインは元のポジションへ戻っていった。

 この時まではウェインにも勝算があったに違いない。磨きのかかったトップスピンを軸にして追い詰めていけば、ヤンキーごときに負けるはずはないと。
 ところが、先程までスピンボールに苦戦していた透は、攻撃の主軸を難なく返すようになっていた。戦況の変化に焦ったウェインがボールの回転数を上げて打ち込んできたが、効果はなかった。
 「悪いけど、アンタのトップスピンはもう通用しねえよ」
 「どういう意味だ?」
 「このコート、特に俺のバックサイドはカビが多くてさ。少しぐらい回転がかかっていても、効かないんだよね」
 「カビだと? コートにカビまで生えているのか?」
 「そろそろブラシかけなきゃヤバイかなって思っていた時に、アンタが来たからさ。ほんと、色々な意味で間が悪いよな」
 ウェインの表情が瞬く間に曇っていった。
 あり得ないような話だが、コートで食事をする連中なら、カビを生やしたとしても不思議ではない。左サイドへ打ち込む度にボールの表面にカビが付着していたとしたら、トップスピンの威力が落ちたのも納得できる。
 彼の困惑顔を見れば、その考えなど一目瞭然だ。ウェインのボールが右サイドへ集中し始めた頃を見計らって、透は更なる動揺を与えた。
 「ついでに言えば、フォアサイドを狙うのも止めておいた方が良いぜ。何か匂わない?」
 ウェインの視線が落ち着きなくコートの表面を行き来した。
 「貴様等、他には何を……?」
 彼が最後まで言い終わらないうちに、ビーが得意顔で答えた。
 「花火の火薬をコートに擦り付けたんだ!」
 「な、何故、そんな危ない真似を?」
 「俺様、テレビで見たんだ。ボールからズキューンって火花が出るヤツ! 確か、日本のアニメだ」
 「貴様等、バカだろ? テニスコートでそんな……とても正気の沙汰とは思えない」
 「大丈夫だ。アンタ側のコートじゃない。実験したのは反対側だし、残念ながら不発で終わっている。
 あ、でも……さっきの肉汁の油と火薬が混ざれば、ズキューンが実現するかもな!」
 ヤンキー達の非常識な振る舞いに一度は戦意を喪失しかけたウェインだが、ビーの話を聞いて、何やら妙案が浮かんだようだ。
 「そうか。火薬と油ねぇ」
 含みのある言い方で呟くと、ウェインは渾身の力を込めてトップスピンを強打した。
 思い通りの球種が送られてくるのを認めた透は、口の端に笑みを浮かべた。
 恐らくウェインは、回転数の多いトップスピンを放つことで油の含んだボールがバウンドした拍子に発火して、透に火傷を負わせられるかもしれない。非常識な連中の行動を逆手に取ったと、心の中で歓喜の雄叫びを上げているに違いない。
 「ジェイク、面白いものを見せてやる」
 透はこのボールを待っていた。コーチクラスのプレイヤーが本気で放ったトップスピンを。
 皆の視線が透のラケットに集中した。ある者は何が起こるか分からず首を傾げ、また、ある者は好奇心から目を輝かせて。
 そして丸太の上にいるビーは、作戦成功とばかりに満面の笑みを浮かべていた。
 まるで磁石のように吸い寄せられたトップスピンが、透の手元でまったく異なる球種に生まれ変わる。それはドリルによく似た回転を帯びてラケットから離れた後、緩やかにネット際で上昇し、越えたと同時に急激に下降して、相手コートのベースラインから出ていった。
 その場にいるほぼ全員が初めて見るショットに口も利けない様子である。
 「今のショットは、一体?」
 観衆の中で、いち早く我に返ったジェイクが透に尋ねた。
 「ドリルスピンショット」
 「スライスをかけたのか? トップスピンの返し技に見えたけど……」
 試合中のコートに乗り込まんばかりの勢いでジェイクが質問を重ねたが、透はわざと意地悪な答えを返した。
 「それは、ここのメンバーとしての質問か? 仲間でもねえ奴に、大事な決め球の種明かしをする気はないんだが?」
 「何だよ、それ? いちいち勿体つけるなよ」
 「そっちこそ、いい加減、観念しろよ」
 「弱い奴に従うのはご免だ。お前が俺より強いという証拠を見せてくれ」
 「今のショットだけじゃ不服という訳か? 分かった」
 透はボールをバウンドさせて、その感触を確かめると、ウェインの方へ向き直った。
 「そういう事だから、ここから先は本気でやらせてもらう」
 「ふざけるな! 今まで本気じゃなかったと……」
 相手に聞き返す間も与えず、透はサーブの体勢に入った。
 「いいや、本気だった。だけど、戦利品の価値によって本気度は変わる。
 クソ野郎との勝負より、頼りになる幹部候補生が仲間に加わる方が、俺にはよっぽど価値があるからな」
 前方にトスを上げる独特のスタイルから繰り出されるサーブは、透がジャンの下で改良を重ねて完成させたブレイザー・サーブであった。その威力がプロ並みであることは言うまでもない。
 ボールに触れる事さえ出来ないウェインに向かって、透は淡々とサーブを打ち込んだ。
 力を誇示するようなプレーは好きではないが、たぶんジェイクには必要なのだろう。同年代のリーダーに付き従うだけの確固たる理由が。ストリートコートに身を堕す覚悟を決められるだけの証が。
 第1ゲームをドリルスピンショットで巻き返し、続くゲームをブレイザー・サーブで点差を突き放した透は、その後も自分のペースで試合を進めていった。

 序盤こそ苦戦したものの、終わってみれば透の圧勝だった。
 ゲームカウント「6−0」。自信満々で乗り込んできたコーチを相手に1ゲームも譲らず勝利した。
 反対に敗北したウェインは、いまだ納得のいかない様子である。
 「汚い真似しやがって……。こんな非常識なコートで、まともな試合が出来るか!」
 「だから最初に確認しただろ? ここがストリートコートだと承知の上で、俺と勝負をするつもりかと」
 「だったら、余所のコートで再戦だ。明日、ホテルのテニスコートへ来い」
 「無駄だと思うけど?」
 「他のコートでやって、負けるのが怖いのか?」
 「いいや……」
 丸太の上にチラリと視線を送ってから、透は種明かしを始めた。
 「コートのことなら、ローストポーク以外の話は全部嘘だ」
 「何だと?」
 「いくらなんでもカビが生えるまで放っておかねえし、火薬で遊ぶような馬鹿な真似もしねえよ。あれはアンタからトップスピンを誘い出すための作戦だ。ドリルスピンショットは、半端な回転数じゃ駄目なんだ」
 それを聞いて、丸太の上のビーが笑い転げた。
 「バカじゃねえの? 見え見えの嘘に騙されてやんの。
 それとも、俺様の演技が上手かったって事か? なあ、トオル?」
 ビーが遅刻して戻ってきた時、二人の間で交わされた短い会話の中に、すでに今の作戦が組まれていた。ローストポークの話でペースに乗りかけた相手の集中力を奪い、続いてカビと火薬の話を織り交ぜながら、ドリルスピンショットに必要な切れの良いトップスピンを誘い出したのだ。
 正直、ここまで上手くいくとは思わなかったが、最初のローストポークの衝撃が強すぎたのか。予想以上に簡単に信じてくれた。

 「さすがと言いたいところだが、ビー? お前には遅刻の責任を取ってもらう」
 「ゲッ、マジかよ!?」
 本当は親友ならではのサポートに感謝すべきだろうが、透にはまだ片付けなければならない問題があった。
 「コートを空けた罰として、今日から秘書の面倒を見ること」
 「秘書?」
 秘書と聞いて、メンバー達が最初に思い浮かべたのはクリスであった。ところが透が指差したのは、彼女の隣にいるティントである。
 「約束通り、ジェイクにはうちのメンバーになってもらう。だから、ティントはビーの秘書になれ」
 「ぼ、僕が秘書?」
 「秘書と言っても、コートの出入りは自由だ。他のメンバーと変わりはしない。但し、今後は何をするにも、ビーの指示を仰げ。
 練習で行き詰った時も、試合のやり方も、プライベートの相談も。好きなだけ頼って良いぞ」
 肩書きは「秘書」でも実態は違うと分かり、ビーがの口調が荒くなった。
 「だったら、素直に五十一位を作れば良いじゃねえか! 俺様、こんなビビリの面倒なんか、まっぴら御免だ」
 「テニスショップからここまで、ティントは俺の全力疾走に付いてきた」
 「何だって?」
 透の脚の速さはビーと互角だ。それに遅れず付いてきたと分かり、ビーのティントを見る目が変わった。
 「基本はジェイクが教えてくれている。だが、試合に勝つとなると、個々の能力に合わせた指導が必要になる。
 俺はスピード重視のビーのスタイルが、ティントには一番合っていると思う」
 「俺様、人に物を教えるなんて柄じゃない」
 「だから、やってみれば良い。人に教えることで、自分が教わることもある。
 それにビーなら、ティントの気持ちを分かってやれるはずだから」
 家族から疎まれ、周囲の誰からも自分の存在を認められない。その孤独を分かってやれるのは、同じ痛みを持つ人間だけである。
 「今度は俺達が居場所を与える番じゃないのか? この意味、ビーなら分かるよな?」

 前リーダーのジャンから「ここに居て良い」と言われ、ビーはストリートコートのメンバーに加わった。行き場のない孤独から救われ、自分の居場所を勝ち取るだけの力を与えられた。
 観念したような溜め息が一つ。その後で、ビーがティントを呼び付けた。
 「おい、クソチビ! 今日からお前は、俺様の舎弟だ」
 「舎弟? 弟子にしてくれるってこと?」
 「ああ。但し、一人前になるまで手は抜かねえから覚悟しろよ?」
 「はい、コーチ!」
 「ちょっと待った。俺様はコーチなんて柄じゃない」
 「じゃあ、なんて?」
 「そうだな……トオルがリーダーだから、ボスと呼べ」
 「はい、ボス!」
 メンバーの中で最もイカレた男と、最も臆病な少年の奇妙なコンビが結成された。そして新たなコンビがもう一つ。
 「一応、約束だし、リーダーだと認めてやるよ」
 「一応、約束だし、後でドリルスピンショットの正体、教えてやるよ」
 ジェイクと透。負けず嫌いの点ではどちらも譲らぬ最強タッグも同時に結成されていた。






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