第46話 スポットライトの妖精たち
ジェイクがジャックストリート・コートのメンバーに加わったことで、透の生活は一変した。主力メンバーによる見張り番の回数が半分以下になり、昼夜問わずの呼び出しもパタリと止んで、リーダーの肩に圧し掛かっていた責務は大幅に軽減された。
現在、ジェイクはビーとレイを押しのけ、ナンバー2の座を維持している。テニスの名門校で鍛えられた腕と、冷静に状況を見極め、的確な指示を下せる判断力は、幹部の中でも秀でている。
欲を言うなら、年齢も立場も近い者同士、もう少し腹を割って話すことが出来れば良いのだが、いまだ彼には対抗意識が根強く残っているのか。こちらから距離を詰めようとしても、すっと引かれる感がある。
それでも、透は頼りになるナンバー2がいてくれるだけで満足だった。自身の為に費やせる時間が出来て、中学生らしい生活を送れるようになったのだから。
透は余った時間を、迷わずファッション・ショーのアルバイトに注ぎ込んだ。
ごく一般的な容姿をした中学生に与えられる仕事と言えば、大道具を中心とした肉体労働に限られているが、舞台設営から撤去までの長時間勤務とあって、裏方にしては給料が良い。時間的な余裕ができた今、一気に稼ぎまくるチャンスである。
現状では、帰国可能な時期は希望的観測をもってしても高校二年の秋になる。かろうじて遥希と交わした約束は守れるものの、世話になった先輩達とは一緒に活動できずに終わってしまう。
どうにかして帰国の時期を高校一年の春に早めたい。それが無理なら、せめて成田や唐沢達が卒業するまでには戻りたい。この願望を叶える為にも、ファッション・ショーのアルバイトは必要不可欠な存在だった。
アルバイトの紹介先からファッション・ショーが行われる日時と会場を教えてもらうと、透とエリックは喜び勇んで現場へ向かった。同じ家に住むエリックもまた、将来の夢を叶えようと地味なアルバイトを細々と続ける同志である。
気心知れた親友と大金を稼げるチャンスとあって、二人共がはしゃいでいた。
ところが会場に入るとすぐに、この浮かれ気分は一掃された。
「エッリク、どうやら今回のステマネはハズレらしいな?」
「うん。皆、かなりピリピリしているね」
「ステマネ」とはステージ・マネージャーの略で、舞台進行を任されている責任者のことである。
華やかな世界に何度か出入りしているうちに、透たち素人にも舞台裏の諸事情が分かってきた。
一つのショーを成功させるのにモデルの何倍もの数のスタッフが動いていること。やたらと物の名前を省略して呼んだり、隠語や番号で伝え合ったりする特殊な慣習も、多くは仕事を効率よく進めるための工夫であること。モデルよりも、デザイナーよりも、もっと重要視される“お偉いさん達”が大勢いることも。
とりわけステージ・マネージャーは舞台裏の要となるポジションで、現場の動き易さも彼等の采配によるところが大きい。有能なマネージャーに当たれば、リハーサルから本番までテンポ良くこなせるが、小物のマネージャーに当たれば、余計な疲労感を味わう羽目に遭う。
残念なことに、今回は神経質、且つ、几帳面なマネージャーが担当するらしく、スタッフ全員が息を詰めるように仕事をしていた。
資材の搬入を任された透とエリックは、この張り詰めたムードの中で仕事に取り掛かった。
とは言え、ヤンチャ盛りの少年二人である。ステージ上に漂う緊張感を逆手に取って、おどけて見せたり、スタッフのちょっとした仕草を真似したりして、互いを笑わせる事に新たな楽しみを見つけた。
人間、笑ってはいけないと思う時ほど笑いたくなるものである。また人が必死になって笑いを堪える姿を見るのも、可笑しいものである。
二人はいつしか、仕事よりも互いを笑わせる事に意識が傾き、その悪ふざけがエスカレートして、最終的には周りのスタッフをも巻き込んでいった。
無論、本職のスタッフ達は、本気で悪ふざけに参加しているわけではない。適度に場が和んだ方が、仕事もやり易くなる。そんな配慮から他愛もないお遊びを容認していたのだが、これを好ましく思わない人間もいた。
「ちょっと、遊び半分で来たなら帰ってちょうだい!」
せっかく働きやすくなった現場を険悪なムードに戻したのは、カリナというモデルであった。イタリア系アメリカ人の彼女は、マスカラで真っ黒に塗り固められた目尻を器用に吊り上げ、悪ふざけの中心人物である透を上から睨みつけている。
平均身長が高いモデルの中でも彼女は一際背が高く、目鼻立ちもハッキリしている。世の女性にはその舞台映えのする容姿が羨望の的となるのだが、上からの物言いが癇に障る年頃の少年には、ただの高慢な女としか映らない。
「遊んでなんかいねえよ。どうせ仕事をするなら楽しくやろうと思っただけだ」
口を尖らせて苦しい言い訳をする透を、カリナがピシャリとやり込めた。
「良いこと? 貴方たち裏方はどうだか知らないけれど、私達モデルは楽しくやる必要はないの。このショーに人生を懸けている人間もいるのよ。
これ以上、ふざけた仕事をするなら出て行って!」
彼女の言い分はもっともだと分かっているのだが、高飛車な態度がどうにも我慢できなくて、透はついボソッと余計な一言を発してしまった。
「何だよ、偉そうに。アンタのタヌキみてえな目ん玉の方がよっぽどふざけてるっつうの」
「何ですって!? 誰か、この失礼な日本人を早く追い出してちょうだい!」
悪ガキの悪態に逆上したカリナは、周りのスタッフの制止も聞かず、大人の女としての立場も、理性も、性別も忘れて、透に掴みかかろうとした。
「カリナ? 彼はまだ新人だから、今回は大目に見てあげて」
神経質なマネージャーの耳に届く前に騒ぎを収めてくれたのは、シェリーという名の別のモデルであった。厳つい印象のカリナとは対照的に、彼女は骨が折れるかと思うほど線の細い体をしている。
「あら、裏方にも媚を売ろうって言うの? さすが優等生は抜け目がないのね」
皮肉を浴びせる同僚を気に留める様子もなく、シェリーは穏やかな口調で透に語りかけた。
「今日はいつもと雰囲気が違うからやりにくいと思うけど、皆がこの日の為に長い時間をかけて準備をして来たの。君も協力してくれるわよね?」
「ええ、まあ……」
「私はシェリー・マックファーレン。君は?」
「トオル・マジマ」
「トオルね。陽気な大道具さんと一緒に仕事ができて、とても嬉しいわ」
そう言ってシェリーは気さくな笑顔を傾けてきたが、透はばつの悪さも手伝って、ふいっとそっぽを向いた。
現場のスタッフの話では、裏方に対して横柄な態度を取るモデルが多い中、シェリーは誰に対しても態度が変わらず、同じ仕事仲間として接してくる。それ故、スタッフの間では人気が高い反面、モデル仲間の間では敵が多いのだそうだ。
確かにシェリーの場合、同じ美人でも格の違いを感じさせる魅力がある。黄金色に実った麦畑を思わせる豊かな髪と、深く澄んだサファイアブルーの瞳。これで性格まで良いとなれば、嫉妬心の強かろうモデル仲間から反感を買ったとしても不思議ではない。
しかしながら、透には気性の激しいカリナも、性格が良いと評判のシェリーも、同類に見えていた。アメリカ人のくくりではなく、“表面上の付き合いしか出来ない人種”という意味で。
シェリーに笑いかけられて顔を背けたのも、ばつの悪さもあったが、その作り慣れた笑顔に違和感を覚えたからである。
仕事柄、モデル達は自分の魅せ方を心得ている。どの角度で、どんなふうに笑えば、美人と言われるか。
透はこのモデル特有の作り笑いが苦手であった。
顔は笑っているが、目は笑っていない。飾り立てられた瞳からは、まるで感情が伝わってこない。思ったことを、思うがままに口にする事に何の制約も受けない少年には、シェリーもカリナも気色の悪い人形としか見えなかった。
リハーサルが終了し、本番の始まる直前に、シェリーがティーカップを二つ持って、声をかけてきた。
「紅茶が好きだって聞いたから……」
透の紅茶好きをスタッフから聞いて、わざわざ入れて来てくれたようだ。
「私も、コーヒーより紅茶が好きなのよ。アメリカでは不思議な顔をされるけど、日本ではどうなのかしら?」
いくら苦手な相手でも、ショーの主役であるモデルにここまで気を遣われては無視するわけにもいかず、仕方なく透は答えを返した。
「日本ではガキ扱いされます。俺、苦いの嫌いだから」
「あら、すごく大人っぽく見えるのに」
絶対に嘘だと思った。先程の幼稚な騒動を見た後で、大人だと思うはずがない。
「あの……あまり気を遣わないでください。俺、ただのバイトだし」
「迷惑だったかしら? 私は一緒に仕事をするスタッフとは、出来るだけコミュニケーションを取りたいと思っているのだけど?」
それを聞いて、透は思わず紅茶を噴き出した。人形のような作り笑いをする人間が、真顔でコミュニケーションを取りたいと言ったのが、ひどく滑稽に思えた。
しかし、笑った後から後悔した。彼女は紅茶を噴き出すほどの理由がどこにあるのか分からず、サファイアブルーの瞳を曇らせている。
普段は脳と舌が直結している人間も、さすがにこの状況で本当のことは言い辛い。
「あ、いや……えと……コミュニケーションって言われたから……その……」
「無理しなくて良いから、君が思っていることを正直に話して欲しいわ」
様子を見兼ねたシェリーから、助け舟が出された。
「正直に?」
「ええ」
批判にもなりかねない本音を打ち明けることに罪悪感がなくもなかったが、透は腹の底に溜まっているものを正直に彼女にぶつけた。
「アンタもそうだけど、ここにいるモデルは全員、不自然に見える。頭の中と顔が違う奴って、俺には信用できないし、そんな連中と分かり合えるとも思えない」
「頭の中と顔が違う?」
「アンタ、見た目は笑っているけど、本当は笑っていない。 本心を見せない奴からコミュニケーションなんて言われても、しらけるだけだ」
リクエストに応えて本音を吐露したものの、やはり止めておけば良かったと後悔した。明らかに、シェリーはショックを受けている。足元まで落ちた視線と沈黙が何よりの証拠だ。
きっとこの後、両肩が震え出し、唇を噛むと同時にサファイアブルーの瞳に涙が溜まる。女性が泣き出す際の手順は分かっている。モニカの時がそうだった。
人気モデルを泣かせたとあっては、どんな大目玉を喰らうか知れやしない。お偉いさんの説教で済むならまだしも、給金を減らされては堪らない。どうにか穏便に事を収める方法はないものか。
透が極めて自己中心的な後悔に苛まれていると、シェリーがつと顔を上げた。
「そうかもしれないわね」
彼女はまず自身を傷付けたはずの言葉を肯定した後で、おもむろに背筋を伸ばし、少し考えをまとめるような素振りを見せてから、先の話題とは全く別の質問を投げかけた。
「トオルには、何か夢中になれるものがある?」
「テニス」
「あら、即答ね。という事は、よっぽど好きなのね」
「ああ、俺にはテニスしかないから。でも、テニスさえ出来れば充分だとも思う」
「テニスしかないか……」
先程まで無反応に見えた瞳の中に、わずかだが光が差したような気がした。
「私も、この仕事しかないと思っているのよ。モデルを続けられれば、充分だってね。
だから、どんなに屈辱的な言葉を浴びても、モデル仲間から非難されても、ショーを成功させる為には何でもやるわ」
透はまたしても激しい後悔の念に襲われた。但し、今度は自身の懐を案じたからではない。
作り笑いと感じた笑顔の下には、子供の自分が考えも及ばない信念が隠されていた。同僚のモデルに嫌味を言われても、年下のアルバイトの機嫌を取ってでも、彼女は皆が円滑に仕事をこなせる環境を作っておきたかったのだ。全てはショーの成功のために。
「ごめん、シェリー。俺、よく知りもしないで、アンタにひでえこと言って」
直球勝負の人間のせめてもの救いは、自分が悪いと思えば、素直に頭を下げられることである。
「勘違いしないで。トオルを責めたわけじゃないの。
ファッション・ショーってね、チームワークが一番大事なのよ。モデルだけでも、マネージャーだけでも、スタッフだけでも成り立たないわ。皆がそれぞれの持ち場で最大限の努力をした時、初めて最高のショーが出来上がるの。
だから貴方にも、その事をもっとよく理解して欲しいと思ったの」
モデル仲間の間では、そういったやり方を快く思わぬ者も多いと知った上で、それでもシェリーはコミュニケーションを大事にするという。
どこの世界でも、本当にプロ意識の高い人間は大切なものを見失わない。個人の力だけでは偉業を成し得ない現実も知っている。
シェリーが現場のスタッフから慕われている理由は、単に愛想が良いからではない。彼女の仕事に対する姿勢が共感を呼ぶのだ。
「シェリー、ほんとに、マジで、悪かった」
シェリーは透の謝罪に小さく首を振って応えると、寂しげな笑みを浮かべて言った。
「良いのよ。トオルが言ったことは事実だもの。笑顔を仕事にすると、いつの間にかプライベートでの笑い方を忘れてしまうのね」
「いや……あれは、その……」
「心配しなくても、大丈夫よ。信じてもらえないかもしれないけど、私、正直な人が好きなの。夢を持っている人も」
そう言いながら、シェリーは今回のファッション・ショーが自分達にとって特別であることを告げた。
彼女がアルバイトにまで気を配ったのには理由があった。今日のショーには、客席に多くのスカウトマンが紛れ込んでいるとの噂が流れていたのである。
都市部で開かれるファッション・ショーのモデルを発掘する為に、時おり地方の舞台にもスカウトマンが顔を出す事もあるらしく、マネージャーを始め、他のモデル達も、皆、落ち着きを失くしているのだそうだ。なかなか陽の目を見ないモデル達には、まさしくビッグ・チャンスとなるのだから無理もない。
彼女はその浮ついた空気が裏方にも感染して、肝心のショーに影響が出ることを恐れていた。
「シェリーは、そのスカウトに来る奴にアピールしなくて良いのか?」
「良いのよ。私は目の前の舞台を成功させたい。それだけ」
「だけど、せっかくのチャンスなんだろ?」
不満げに口を尖らせる透を、シェリーが優しく諭した。
「例えばトオルがテニスの試合に出るとして、チームメイトに何を望むかしら? 派手な応援? それとも?」
「黙って見てろ、って言うな」
「だったら、分かるわよね。この舞台は私にとってテニスの試合と同じなの」
試合と舞台が同じだと諭され、ようやく透も理解した。
地方の小さなショーでも、目の前の舞台に集中する。それは、透が出場できるか分からぬ大きなトーナメントを夢見るよりも、己がリーダーを務めるストリートコートでの一戦を大事にすることと等しく、価値のある事なのだ。
ステージ・マネージャーからタイムキーパーを通して送られてくる合図を見て、シェリーが立ち上がった。
「そろそろ本番よ。自分の持ち場で最大限の努力をお願いね。それから……」
一度はバック・ステージへ行きかけた足を止めてから、彼女が透の耳元で囁いた。
「私も、カリナのマスカラはつけ過ぎだと思ったわ」
悪戯っぽく微笑むシェリーの笑顔が幼い少女に見えた。
ファッション・ショーが始まった。
基本的に大道具係はアクシデントでもない限り、本番終了後の搬出まで出番はないが、万が一に備えて、会場内の連絡のつく場所に待機していなければならない。まだ現場での経験が少ない透とエリックは、勉強もかねて舞台袖でショーを見守った。
スポットライトが点灯すると同時に、モデル達が見る見るうちに輝き出した。あの性格の悪いカリナも、金色のライトの下ではトップモデルに見えてくる。
だがしかし、美しく輝いているからと言って、必ずしも内面まで美しいとは限らない。中には同僚の活躍を嫉ましく思う人間もいる。
事件が起こったのは、ちょうどファッション・ショーが中盤に差しかかった頃だった。
ショーのフィナーレを飾るウェディング・ドレス。シェリーが着る予定であったドレスの袖口のボタンが、一つだけ切り取られていたのである。
こういったアクシデントに備え、通常は予備を用意しているのだが、今回はそれも含めて消えている。
犯行の手口からして、内部の人間の仕業と見て間違いない。だが、今は犯人探しよりもウェディング・ドレスのボタンを調達する方が先である。
タイムキーパーの割り振りでは、どんなに引き延ばしたとしても四十分後にはフィナーレに突入するという。
「フラワー・コーディネーターに事情を話して、ブーケを変えさせろ」
ステージ・マネージャーの指示は、切り取られたボタンの個所をそのままにして、ブーケの形を変えて袖口を隠すというものだった。
残された時間を考えれば妥当な策ではあるが、シェリーは納得しなかった。デザイナー、スタイリスト、着付け担当のフィッターにまで掛け合って、同じボタンの在庫を保有する店を聞き回っている。
「シェリー、諦めろ。仮に店が見つかったとしても、この混雑では会場から車を出すだけでも時間がかかる。新しいボタンを買って来て、縫い直すなんて、出来やしない」
妥協案を押し通そうとするマネージャーに向かって、初めてシェリーが強い口調で反論した。
「諦めるのは、まだ早いでしょ? ボタンが一つでも欠けていたら、このドレスに関わった人達の努力が無駄になるわ」
「アクシデントをカバーするのもモデルの仕事だ。今日は各地からVIPが来ている。失敗は許されない」
「お客様の為じゃなくて、VIPの為に妥協案を通すと言うの?」
「このステージの責任者は、私だ」
「これはマネージャーだけの問題じゃないわ。私達、全員のショーなのよ!」
細い体が壊れるのではないかと心配なるほど、最高の舞台にこだわるシェリーの声には迫力があった。
重苦しい空気が漂う中、スタイリストの一人から在庫のある店を探し当てたという情報が入った。彼女の熱意に打たれたスタッフが、手分けをして探してくれたらしい。
「メインストリートに五階建てのテニスショップがあるでしょう? そこの隣の店に同じボタンがあるそうよ。どうする、シェリー?」
情報を持ってきたスタイリストも、手放しで喜べない様子である。在庫があったとしても、車の出し入れだけで時間のかかる現状では、フィナーレには間に合わない。ボタンを縫い付ける時間を含めて、最低でも二十分のうちに行って帰って来なければならなかった。
諦めムードが立ち込めた、その時。自信満々で名乗りを上げたのは、透である。
「シェリー、俺が行ってくる」
「無理よ。免許だって持っていないでしょう?」
「走っていけば良いじゃねえか」
「車でも間に合うかどうかの距離よ?」
「裏道を使えば問題ない。あそこら辺は俺の庭みたいなもんだから。大道具の仕事は新米だけど、足の速さなら誰にも負けねえよ」
最終的にステージ・マネージャーの同意も得て、透はボタンを取にいくという大役を仰せつかった。
信号待ちのない裏道を選んで走りながら、時間内に帰ると信じて待っていてくれるスタッフ達の顔を思い浮かべた。
裏口からバック・ステージまでの通り道を確保しようと指示を出す大道具の仲間達。時間を調整し直すタイムキーパーとステージ・マネージャー。ウェディング・ドレスの前で待つスタイリスト、フィッター、それにモデルのシェリーも。
自分の持ち場で最大限の努力をする ―― ショーが始まる前に言われた言葉の意味を改めて噛み締めた。
持ち帰るものは小さなボタン一つだが、これには皆の想いが込められている。最高のショーにしようと決めたスタッフ全員の想いが。
「お疲れさま、トオル。大活躍だったね!」
約束通り二十分で戻ってきた透を出迎えてくれたのは、親友のエリックだった。他のスタッフも声はかけてくれるものの、それぞれがズレたスケジュールの帳尻合わせに忙しく、手が離せない様子である。
しかし満足感はあった。特にシェリーがウェディング・ドレスを来て舞台へ上がった瞬間は、試合で勝利を収めた時と同じ類の感動が込み上げてきた。
スポットライトを浴びた花嫁を、何も知らない観客達はうっとりと、そして舞台裏ではスタッフ全員が誇らしげに見つめていた。
全力疾走した後の汗が、今頃になって透の首筋に流れてきた。コートで流すものとも、勤労の汗とも少し違うが、爽快感はそれらに勝るとも劣らない。
「なあ、エリック? 俺さ、こういう所で働く奴って、チャラチャラした人間ばかりだと思っていたけど、そうでもないんだな」
「僕もだよ。一緒に仕事をしてみて、僕には彼等が白鳥に見えた」
「白鳥?」
博識の親友は、時おり突拍子もないたとえ話を持ち出してくる。
「そう、白鳥。見た目は優雅に振舞っているけど、水面下では必死に足を動かして泳いでいるでしょ?
もしかしたら僕の目に映っていた大人達は、多かれ少なかれ、白鳥だったのかなって思う。落ち着いて見えても、陰では一生懸命努力している。
僕もそんな大人になれたら、素敵だなって……」
「エリックらしいな。俺だったら誰にでも分かるように努力して、思いっきり自慢してやる。『どうだ、すげえだろ? 悔しかったら、俺と同じぐらい努力してみろ』ってさ」
「そっちこそ、いかにもトオルらしい。でも君なら、本当にそんな大人になりそうな気がするよ」
ファッション・ショーは大成功を収め、デザイナーへの賞賛の拍手と共に幕を閉じた。
本来なら大道具係は舞台の解体と搬出に追われる時間であるが、透の作業をする手は止まっていた。ボタンを盗んだ犯人が気になるのである。
「なあ、エリック? 俺は、絶対、あのカリナってモデルが怪しいと思う」
「僕もそう思うけど、ステマネや他のスタッフも追及しないし、あまり騒ぎを大きくしない方が良いよ」
「だけど、どう見たって、あれは内部の人間の犯行だ。今後の為にも、キッチリ締め上げておかねえと」
透が鼻の穴を膨らませて息巻いていると、着替えを終えたシェリーがやって来た。
「放っておいて良いのよ、トオル」
「なんでだよ? 一番嫌な思いをしたのは、シェリーだろ?」
「この業界では、今日みたいなことは日常茶飯事なの」
「でも……」
「それに、どうせやり込めるなら、正々堂々と舞台の上で決着をつける。それが私の流儀よ」
卑怯な相手だからこそ、正攻法で戦って勝利を得たい。彼女の流儀は、喧嘩っ早いヤンチャ坊主をも納得させるものだった。
透の鼻の穴が元の大きさに戻ったのを確かめてから、シェリーが所属事務所の名刺を差し出した。
「ねえ、貴方達? 良かったら、今後も私の仕事に同行してくれないかしら?」
透とエリックは、二人して顔を見合わせた。
やるか、やらないかで問われれば、当然、答えは「イエス」だが、これはいわゆる引き抜きではないか。素人のアルバイト生を引き抜くなど聞いた事がない上に、話が旨すぎる。
何か裏があるのではないかと身構える二人を認め、シェリーが慌てて言い足した。
「誤解しないで。私は一緒に仕事をするなら、心から信頼できるスタッフとしたいだけなのよ。
貴方達がいてくれるとスタッフの間にも活気が出るし、すごく仕事がやりやすいのだけど……駄目かしら?」
説得を続ける彼女の態度から、これが本心だという事は分かった。
「貴方達の事務所には失礼のないよう、私から話をしておくわ。何だったら、掛け持ちでも構わないし」
「事務所に迷惑をかけないなら、僕はオーケーだよ」
「アルバイト料は、今の二倍は約束するわ。トオルはどうかしら?」
「是非とも、やらせてくれ。いや、やらせてくださいッ!」
給料二倍の誘惑に、透も迷わず食いついた。
渡米した直後は霞んで見えた希望の光が、確かな道筋を照らし始めた。
テニスを続けたくても方法が分からず、帰りたくても金はなく、夢を掴む力もなければ、仲間と呼べる人間もいなかった。それが今は仲間を介して仕事を得て、その仕事を通して新しい出会いへと繋がり、その出会いが真っすぐ夢へと導いてくれている。
いつの日か光陵学園へ帰る ―― この「いつの日か」が、すぐそこまで迫っていた。