第47話 追想

 透がモデルのシェリーと出会ってから数ヶ月が過ぎたある日。普段はマナーにうるさい親友のエリックが、ノックもせずに部屋に駆け込んできた。
 「トオル、今度のショーはどこだと思う? ニューヨークだよ。ニューヨーク!
 シェリーが僕達にも同行して欲しいってさ!」
 仕事の依頼を受けた直後だということは、手にしたままの受話器から察しがついた。そして、温厚な親友が珍しく興奮していることも。
 政治、経済、芸術、出版、金融、コンピューター産業と、あらゆる分野の中心地であるニューヨークは、ジャーナリスト志望のエリックにとって、一度は訪れたいと願って止まぬ憧れの都市に違いない。そこへ仕事で ―― つまりはタダで行けるのだから、興奮する気持ちも分からなくはない。
 だが、よく言えば自然派志向。早い話が田舎者の透は、気乗りがしなかった。高いビルとセットになった人混みを想像するだけで、うんざりしてしまうのだ。
 「悪いけど、俺はあんまり行きたくねえな。第一、寒そうだ」
 「そんな事ないって。秋のニューヨークはベストシーズンだよ」
 「ストリートコートを長く留守にするのもマズいしなぁ」
 「長いと言っても、ウィークエンドを挟んで五日間だけだから。
 アメリカに二年以上も住んでいて、一度もニューヨークへ行かずに帰国するなんて、もったいないよ。ね、一緒に行こう?」
 ニューヨークに特別な想いを抱く親友には申し訳ないが、この時すでに透の意識はそこから離れ、まったく別の方角を向いていた。

 十一月の声を聞いてから、心ここにあらずの日々が続いている。
 理由は、誰に問うまでもない。透自身、何となく、こうなるであろうことも分かっていた。
 ジャンの命日が近付いているのである。いつもと変わらぬ日常の中で、忽然と彼の姿が消えてから一年になる。
 街を彩る木の葉のように、何か予兆があったわけではない。ある日突然、目の前で途絶えた尊い命。一年経った今でも、彼が丸太の陰からひょっこり現れるような、残酷な錯覚を起こすことがある。
 毎朝、赤い革のジャケットを着るたびに、その死を自覚しようとするのだが、気が付けば故人の姿を追っている。
 それは待ちぼうけを食わされた時の心境とよく似ている。
 いくら待っても、待ち人は現れず、連絡もない。時間が経つにつれ、嫌な現実が迫ってくるが、もう少し、もう少しと、待っているうちに帰る機会を逸して、その場から離れることが出来なくなる。
 不毛な待ちぼうけを続けている間に一年が過ぎた。いい加減、諦めれば良いものを、やり残したことがあるせいか。上手く踏ん切りがつけられない。
 透にはまだ果たせていない約束があった。
 ラケットで人を傷つけない。この誓いを守り通した結果、ジャンは命を落とした。
 彼の最後の望みは、プロミスリングの結ばれたラケットを最愛の彼女に渡すこと。これを実現させるべくシアトルまで訪ねてみたが、残念ながら彼女は引っ越した後で会えなかった。
 ジャンに「今まで惚れた中で最高の女」と言わしめた女性は、彼氏に黙って連絡を絶ったことになる。
 二人の間に何があったかは分からない。だが、せめて最後の願いだけは叶えてやりたい。
 そう思って、透は形見のラケットを肌身離さず持ち歩いていた。いつ、どこで会っても良いように。
 十一月。冬の訪れを間近に控えたこの時期は、やり残した約束も含めて、物思いにふけることが多かった。

 三日後、透はニューヨークにいた。
 エリックにどうしてもと泣きつかれたのも理由の一つだが、ジャンの命日にジャックストリート・コートにいたくなかったというのが本音である。
 これが元いたメンバーだけで過ごせるなら違っていたかもしれないが、今のメンバーでジャンを知る者はほとんどいない。事情を知らない彼等の前で湿っぽい顔も出来ず、だからと言って、何事もなかったかのように振舞う自信もなく。
 相変わらずの中途半端な気持ちを持て余した結果、透はニューヨークへやって来たのである。
 「二人とも、今夜は日本食を食べに行くわよ!」
 ショーの打ち合わせを終えたシェリーが、透とエリックを見るや否や、二人を抱きかかえるようにして声をかけてきた。
 珍しい事もあるものだ、と透は思った。プロ意識の高い彼女はショーが終わるまでは感情をセーブしているところがあるのだが、今夜はやけに上機嫌で、それを隠そうともしない。
 「シェリー、何かあったのか?」
 「あら、分かる? なるべく悟られないようにしているのだけど」
 「でも、悪い話じゃなさそうだ。どっちかっつうと、良い知らせ、だろ?」
 「ええ、とっても!」
 サファイアブルーの瞳が、スポットライトを浴びる前から輝き出した。
 「貴方たちに、私の親友を紹介したいの。さあ、早く出かけましょう」
 最近になって気づいたことだが、シェリーが透とエリックをショーに同行させるのは、単に仕事のやり易さだけではない。トップモデルになるという大きな夢を追い続ける彼女は、同じように夢に向かって努力している人間を見ると、応援したくなるらしい。
 実際、現場では彼女の口利きで雇われたと話すスタッフが結構な数を占めており、ちょっとした劇団まがいのチームが出来上がっている。その中でも透とエリックは歳も若いとあって、特に可愛がられているようだ。
 裏切りや抜け駆けが当たり前の世界で夢を掴もうとするシェリーには、心から信頼できる仲間が必要で、その仲間もまた、自分の夢を追いつつ他人の夢にも手を差し伸べられる彼女に尊敬の念を抱いていた。

 シェリーに案内されて入った店は、暖簾に「寿司処」と書いてある、店構えもまあまあの日本食レストランで、透たち三人はそこのカウンターに席を取った。
 日本食レストランを探すのに、ニューヨークで困ることはない。ただ本物となると、話は別である。
 「ジャパニーズ・レストラン」の看板を掲げる店の多くは、従業員が全員板前未経験のアジア人であったり、味付けも国際色豊かな調味料が使われていたりと、日本人から見れば、およそ和食とは思えぬ料理を平気で出してくる。
 この店も例外ではなかった。「トウキョウ巻」、「サッポロ巻」、「ヨコハマ巻」と、不可解なメニューが並ぶ中、透は「キョウト巻」を頼んでみた。
 栄養士の母のおかげで、舌はそれなりに肥えており、食材の知識も中学生にしてはある方だ。
 京都と聞いて時期的に秋サバを期待した透であったが、目の前に出されたのは、アボガドとチーズを酢メシで巻いてあるだけのお粗末な代物だった。これの何処が「キョウト巻」なのか。日本人でありながら理解に苦しむネーミングである。
 「ま、こんなもんだよな」と呟き、酢メシ以外は到底寿司とは呼べない「キョウト巻」を観念して口に運んだ時だった。
 「まったく、この店も変わっていないわね。海苔巻きイコール、寿司じゃないって、何回言えば分かるのかしら」
 流暢な日本語で文句をつけながら、店内をキョロキョロと見回す女性がいた。店長はもとより、全ての従業員が中国人という「自称・寿司処」で、彼女の悪態を正確に聞き取れたのは透だけだろう。
 スラリと背の高いその女性は、カウンターに座るシェリーに向かって、今度は日本語と同じくらい流暢な英語で話しかけた。
 「ハイ、シェリー! 久しぶり」
 「ノーラ!」
 全身で喜びを表すシェリーの態度から、「ノーラ」と呼ばれた女性が例の親友である事はすぐに分かった。
 「彼等が貴女のお気に入りのボーイズ?」
 親友とのハグもそこそこに、ノーラが鼻を突出し、透とエリックを至近距離で観察し始めた。
 右から左、上から下へと少年二人を撫でていく視線に遠慮はなく、初対面の挨拶にしては不躾な気もしたが、不快な感じはしなかった。彼女のクルクルとよく動く瞳は明らかに歓迎の意を示しており、大らかに開いた口元も、親友が大切に思う仲間に会えた喜びに満ちている。
 「ノーラは私と同じモデル仲間で、一番の親友なのよ。だから、貴方達にも紹介しておきたくて」
 心許せる友人との再会とあって、シェリーの口調が次第に速くなり、それに合わせて女性二人の会話も身内ならではの内容へと移っていった。
 「それで、シェリー? どっちと、どこまで、どうなったの?」
 「相変わらずね、ノーラ。彼等は私の大切なパートナーよ。仕事の上での、ね」
 「あら、もったいない。二人とも、今からが旬と見たわ」
 「夢を追いかける同志だから」
 「夢ならベッドの中でも追いかけられるでしょ?」
 大人の節度を弁えたシェリーとは対照的に、ノーラは自由奔放な印象を受ける。とりわけ性の話に関しては、TPOも禁忌もないらしい。
 食事の最中も、ノーラは「インチキ寿司」と文句を言いつつ、巻き物を次から次へと注文し、ビール、焼酎、日本酒と、速いピッチで飲み進める合間に、青少年には際どすぎる話題を平然と差し向けている。
 「ねえ、エリックはドイツ人でしょ? 私、ドイツ人って未体験ゾーンなのよね。色々と教えてくれる?」
 「色々って?」
 生真面目なエリックが、聞き流して良いはずの質問を律儀に拾い上げた。案の定、彼女の目の色が変わり、日本酒で潤された舌がエンジン全開で動き出す。
 「アメリカ人と比べてドイツ人は几帳面だって言われるでしょ? 仕事じゃなくても、私生活でもそうなわけ?
 例えば、あの最中でも彼女の下着は丁寧に畳んであげなきゃ気が済まないとか? どんなに酔っぱらっていても、彼女をイかせた回数は完璧に覚えているとか?」
 「いえ、あの……僕は中学生だし、そういう事はまだ……」
 「エッリック? 貴方、もしかしてゲイなの?」
 「ち、違います。ただ、今は学校とアルバイトで手一杯で、恋愛までは……」
 アルコールまみれの溜め息がカウンターの上を流れていった。
 エリックの模範解答が、タブー知らずの酔っ払いのどこかに火をつけたことは明らかだ。その証拠に、ノーラは長い溜め息の後、手にした杯をくいっと呷ると、半開きの目で透とエリックを見据え、独演会を始めた。
 彼女はまず「経験に勝る恋愛なし」と聞いたこともない諺もどきを声高に叫び、学校の勉強は年老いてからでも出来るが、恋愛は若いうちからの積み重ねが大事だと言って、一刻も早く彼女を作るべきだと主張し、「デキる男はキスも上手い。良い男の条件は、状況に応じてキスを使い分けられる優しさとスキルのある男」とカウンターをバンバン叩きながら力説した挙句、実際に透を使って妙技を伝授しようとしたところを保護者役のシェリーによって引き剥がされ、強制的に店から連れ出された為に、やっとの事で大人しくなったのだ。
 始終赤面させられ通しの夕食だったが、透もエリックも店を出る時は笑顔であった。これがノーラなりの歓迎の仕方だと気づいていたからだ。

 エリックの言う通り、秋色に染まったニューヨークはまさに今が見頃で、街路樹の隙間から覗く原色使いの看板や、黄色い落ち葉に埋もれた古い建物の石段など、街角の何気ない風景をカメラに収める観光客の姿がそこ此処で見受けられた。
 ただベストシーズンと言えど、さすがに夜になると冷え込みが厳しい。体を冷やさないよう、透が手にしたジャケットを羽織った時である。千鳥足ながらも皆と共に散策を楽しんでいたノーラが歩を止めた。
 「よう、姉ちゃん達。これから俺達と付き合わねえか?」
 いかにも柄の悪そうな連中が、シェリーとノーラを取り囲んでいる。
 透はしまったと、後悔した。
 いくらジャックストリート・コートから遠く離れていても、ここはアメリカの中でも治安が悪いとされるニューヨークだ。しかもモデル二人が揃って夜の街を歩いているのだから、性質の悪い連中のカモにされても仕方がない。観光客気分でいるところを、地元のヤンキーに目を付けられたのだ。
 相手は五人に対し、こちらは四人。うち二人は女性で、もう一人の戦力は期待できない。
 皆を危険な目に遭わせたくはないが、不逞の輩を追い払うには売られた喧嘩を買うしかない。
 透はテニスボールが入った鞄をエリックに渡し、「連中が近付いてきたら、鞄ごと振り回せ」と指示を出してから、ラケットを担いで間に割って入った。
 「このお姉さん達、男の好みにうるさくてさ。下種じゃ相手にならねえってさ」
 「ガキがヒーロー気取りか? ケガしたくなけりゃ、すっこんでいろ!」
 「その台詞、そっくり返してやろうか?」
 「口で言っても分かんねえようだな」
 「ああ、あいにく聞き分けの悪いガキなもんで……」
 透が言い終わるのを待たずして、ヤンキーの一人が殴りかかってきた。
 「シェリー、ノーラ! エリックの後ろに回れ、早く!」
 透は女性二人の安全を確保するのと同時進行で、相手からの攻撃をかわし、挨拶代わりに自分の拳を腹部目掛けて打ち込んだ。
 「さっさと掛って来いよ。体が冷えちまう」
 挑発に乗せられた連中が、次々と襲いかかってきた。
 複数の人間を一人で相手にする場合、向こうから攻撃させる方がこちらの対処がし易くなる。透は男達の動きをラケットで食い止めると、自由が利く脚を使って順番に蹴り上げていった。
 日頃、剣道四段の父親と生々しい親子喧嘩を繰り広げている息子にとって、人質さえ取られなければ、ヤンキー五人を片付けるのは朝飯前である。一人、二人、三人目が倒れたところで、残りの二人が仲間を連れて逃げ出した。あっという間に仲間の半数を倒され、勝ち目はないと判断したのだろう。
 「皆、ケガはねえよな?」
 念の為、三人の無事を確認しようと振り返った透に向かって、シェリーとエリックが笑顔で答えた。しかし、ノーラだけは呆然と突っ立ったままだった。
 「トオル、そのジャケット……ジャンの……?」


 暗闇に浮かぶキャンドル色の白い月が、とても印象的な夜だった。
 場所を変えた方が良いというシェリーの助言もあって、透はノーラを連れて滞在ホテルへ戻ることにした。
 最初は部屋の中で話をするつもりであったが、ノーラがどうしても夜風に当たりたいと言い張り、二人はホテルの中庭へまわった。
 リゾート型のホテルではないので、中庭と言っても月を映す程度の小さなプールが一つ。周りにベンチがいくつか並んでいるだけの簡素な庭である。
 透はそこのベンチの一つに腰を下ろすと、隣の空いたスペースをノーラにも勧めた。
 どこから始めれば良いのか。ジャンを死に追いやった、あの悪夢の出来事からか。彼がラケットに託した想いを伝える方が先なのか。
 いずれにせよ、理路整然と話をするのは無理だと悟り、まずは今の心境から切り出した。
 「驚いた。ノーラが『ノリコ・ハセガワ』だったなんて」
 「それが私の本名よ。外国人にはノリコという名前は発音しづらいから、仕事の時はノーラの愛称で通しているの」
 「ずっと探していた。注意しているつもりだったけど。気づかなくて、ごめんな。驚いただろ?」
 「仕方がないわ。お互い様よ。あのインチキ寿司屋の中では、ジャケット……脱いでいたし……」
 ジャケットに話が及ぶと同時に、ジャンの影がちらついたのか。ノーラの唇が震えた。
 恐らく透が事実を告げずとも、すでに彼女は知っているに違いない。ジャン・ブレイザーがもうこの世にはいないという事を。
 それでも話さなければならなかった。彼の死に直面した人間しか知らない真実を伝える責任があったから。

 「ちょうど去年の今頃だった。俺の不注意でナイフを持った連中に襲われて……」
 なるべく悲惨な個所には触れずに、要点だけを伝えようとして、透はいつもとは違う自分に気づき、失望した。言葉を選ぶどころか、きちんと話をすることもままならない。
 心の底に沈めておいた事実を拾い上げ、言葉にして伝える。その作業がとても困難に思えた。
 「前々からジャックストリート・コートを狙っている奴がいて、そいつが雇った連中の一人に刺されたんだ。
 俺が気を抜いたりしなければ、こんな事にはならなかった。ジャンは……俺をかばって死んだんだ」
 言葉にして伝えることが怖かった。己の罪の告白よりも、唯一手元に残ったジャンとの接点を手放すことの方が怖かった。
 だが、続きを言わなければならない。まだ彼女に伝えるべき事実を伝えていない。
 「ジャンは、ノーラとの誓いを最後まで守った。死ぬ間際に、これを『ノリコ・ハセガワ』に渡して欲しいって頼まれて」
 透はそう言って、プロミスリングが結ばれているラケットを差し出した。
 「このリング……短くなっているけど、これも全部、俺のせいなんだ。俺にラケットで人を傷つけないと約束させる為に、ジャンが切り分けてくれた。
 それから、こっちの結び目はコートを取り返す時に俺が誓いを破った。ジャンは一度もノーラとの誓いを破っていないから」
 短くなったプロミスリングも、二つになった結び目も、全て未熟な自分のせいだった。今こうして彼女にジャンの遺品を渡す結果となった。その原因も自分にある。

 目の前に差し出されたラケットをしばらく見つめた後で、ノーラがそっと押し戻した。
 「これは貴方が持っているべきよ」
 「でも、ジャンの遺言は……」
 「『面白い拾い物をした』って、すごく嬉しそうに話していたわ」
 言葉を選んで話したつもりであったが、触れてはいけないことを言ったのか。ノーラは透の話を途中で遮るようにして、強引に進めた。
 「クリスマス・ホリデーにようやく会えたっていうのに、あいつったら、ストリートコートに突然やって来た日本人の男の子の話ばかりしていたのよ」
 「それって、もしかして俺のこと?」
 「ええ、そうよ。失礼しちゃうでしょ? こんな美人が隣にいるのに、食事の最中も、ベッドの中でも、ずうっと貴方の話ばかりなの。それも子供みたいに目を輝かせてね。
 初めて私とデートした時より楽しそうだったわ」
 まるで昨日の出来事のように、時おり唇を尖らせながら、ノーラはその時のジャンの様子を教えてくれた。
 「頭にきたから、さっさと追い返してやったの。私より彼の方が良いなら、さっさと帰りなさいって。
 でも、その後、モデルの登録をしていた事務所が倒産してね。やっとの事で今の事務所と契約できたんだけど、仕事の拠点をニューヨークに移さなくてはならなくなったの。
 本当はジャンにも連絡を取るつもりだったのよ。
 だけど、クリスマスの一件もあったし、懲らしめるつもりで黙ってニューヨークに来たの。相変わらず浮気性も直っていないみたいだし、ちょっとお灸をすえようと思って。
 でも、まさかこんな事になるなんて……」
 思い出話を語り始めた時には忙しく尖っていた唇が、現実に話が及ぶと同時に震え出し、最後には曲がったまま動かなくなった。
 透は慌てて視線を中庭へ移した。ノーラの顔を見てはいけないと思った。
 プールの水面に映った月が、やけに透き通って見えた。客の出入りの少ない時期であっても、こまめに水を入れ替え、管理をしているのだろう。
 夏の思い出に浸りに来る客のためか。単に衛生面からか。
 季節外れの澄んだプールが、胸に抱える思い出と重なり、物悲しさを誘う。すでに過去のものとなりつつあるのに、毎日心の中で甦らせてしまう為に、濁ることなく鮮明な形で存在し続ける。
 決して触れることの出来ない水面の月は、思い出の中のジャンと同じだ。触れようとすると冷たい痛みを伴うところまで、悲しいくらいに同じであった。

 「ねえ、トオル? 私、思うのだけど……」
 さっきよりは落ち着いた声で、ノーラが再び口を開いた。
 「ジャンがラケットを渡せと言ったのは、貴方と私を引き合わせたかったのよ、きっと」
 「俺とノーラを?」
 「ええ。彼が死んだあと、貴方が自暴自棄になることを恐れて、ラケットを口実にしたんだわ。
 もしもの時には、私に喝を入れさせようとしたのよ。昔の彼にしたみたいにね」
 その話は前にも聞いたことがある。ジャンがプロを辞めて荒れていた頃、酔っ払って乱闘になりそうになったところをノーラからパンチの効いた説教を喰らい、それが切っ掛けで立ち直ることが出来たと目を細めて話していた。
 だがしかし、死ぬ間際の人間がそこまでの配慮をするのだろうか。
 「俺の為に? 自分が死ぬって時に、ジャンは俺のことを考えていた?」
 ノーラの唇が、また不自然な歪み方をした。
 「彼は……ジャン・ブレイザーは、そういう男じゃなかった?」
 記憶の底に張り付いていた数々の思い出が透の脳裏に浮かび上がる。
 行き場を失くした十二歳の透を、ジャンは豪快に笑って迎え入れてくれた。メンバー達の反対を押し切り、「なあに、ガキの一人ぐらい、俺が面倒見てやる」と言って。
 透がテニス部の為を思ってストリートコートに留まる決意をした時も、彼は恩着せがましい事は一言も言わずに、悔し涙を乾かしてくれた。
 ブレッドのグラデュエーションの際には、丸太の上で己の不甲斐なさを責めていたくせに、様子を見に来た透には、冗談ばかり飛ばしていた。
 テニスに対して誰よりも純粋で、プレイヤーとしての誇りを持てと教えてくれた。他人に対する思いやりを欠いた時には、厳しく叱ってくれた。
 「自分の為に強くなるのはオスのすることだ。男ってのは、そうじゃねえだろ」
 気付かずに過ごした時間の中で、透も彼の偉大さに触れていた。笑う時も、怒る時も、己を責める時でさえ、それは全て仲間の為だった。
 「ああ、そうだった。ジャンは、そういう男だ。そういう男だった……」

 未完成な思い出が、本来のあるべき場所へと押し流されていく。ジャン・ブレイザーを最もよく知る彼女と語り合うことで、心に溜め続けた思い出が過去形へと姿を変えた。
 「ジャンはノーラのことを『俺が今まで惚れた中で、最高の女だ』って話していた。女癖は悪かったけど、本当はノーラをとても愛していたと思う」
 ぼんやりとした月明かりの中でも、彼女の瞳の揺れ具合で悲しみの深さが見て取れた。
 「もう……外だったら泣かずに済むと思ったのに……」
 彼女の頬を透明な滴が降りていった。
 「トオル? そのジャケット、少しの間だけ貸してくれるかしら?」
 「ああ。俺も随分世話になったんだ、このジャケットには」
 涙で濡れた彼女を抱き寄せながら、透もまた、頬に温かなものを感じた。
 初めはその正体が分からなかった。頬をつたう温かなもの。一体、それが何なのか。漠然としか思い出せない。
 いや、正体は分かっている。ただ、久しぶりのことで戸惑っているのだ。何故なら、この一年間、一度も自身のそれに接したことがないからだ。
 自分でも気付かなかったが、ジャンの死後、透はずっと泣かずに過ごしていた。たぶん、これが初めてだろう。
 意識して堪えていた訳ではない。ただ、泣くという発想がなかった。無意識のうちに、彼の死と向き合うことを避けていたのかもしれない。
 一年の歳月をかけて、透はようやくジャンの死を事実として捉えられるようになった。
 この期間が長いか、短いかは分からない。だが一つだけ分かっているのは、泣かなくても悲しみには触れていた。涙を流さずとも、毎日、少しずつ悲しかった。
 一旦溢れ出した涙は止まることなく、透の頬を何度も濡らした。
 涙に限りがないということも、生まれたての涙が温かいということも、初めて知った。そして人の死を理解するのに、これほどの時間がかかるということも。
 どんなに待っても、一度死んだ人間は帰ってこない。突然いなくなろうが、徐々に消え去ろうが、この事実は変わらない。
 ジャンのいない“今”が信じられず、何度も丸太の上を見上げた。彼の行きつけの店に入るたび、周りをくまなく探した。街中を歩いていても、赤いジャケットを着た男とすれ違えば、わざわざ後を追いかけ確かめた。自分が彼のジャケットを着ていることも忘れ、よく似た背中を追いかけた。
 「本当は俺……ずっとジャンが帰ってくるのを待っていた。昔みたいに、このジャケットの中で泣きたくて。
 もういないって分かっているのに……ずっと待って……」
 「ごめんなさい、トオル。私があんな約束をさせたから……貴方にまで辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
 「謝るのは俺の方だ。ごめん、ノーラ。大切な人なのに……かけがえのない人を、俺は……ごめん……」
 この夜、透は初めてジャンの死を理解した。彼が愛し、彼を愛した女性に真実を打ち明けることによって。一年分の涙を流すことによって。

 どれくらいの間、二人で悲しみを寄せ合っていただろうか。体の冷え具合から察するに、小一時間は経っている。
 涙が枯れたとは思えないが、時間が経つごとに少しずつ落ち着いて話が出来るようになった。
 赤いジャケットから体を離すと、ノーラが穏やかな口調で話し始めた。
 「ジャンはトオルのことを、とても大切にしていたと思うの。だから私に会わせようとしたんだわ、きっと」
 「ああ」
 「だけど彼が思っている以上に、貴方は強かったのね」
 「俺が強い?」
 たった今、自分の弱さを自覚したばかりの透には、何を指して強いと言われたのか分からなかった。
 「ええ、そうよ。現にこうやって、リーダーを引き継いで立ち直っているじゃないの」
 「強くはないと思う。だけど、ジャンが大事にしていた砦を守ろうとして必死だった」
 必死だったとしか言いようがなかった。
 リーダーという大役を引き受け、仲間と砦を守るために無我夢中で走り続けた。ひたすら走ることで、悲しみに暮れる時間を軽減しようとしたのかもしれない。
 「ねえ、トオル? これからは自分の為に生きて欲しい。自分のせいでジャンが死んだと思わないで、ジャンのおかげで生きていると思って欲しいの」
 「ノーラ……」
 「ジャンはトオルに生きて欲しかったのよ。『とんでもない原石を拾った。あれは絶対、磨けば物になる』って、本当に嬉しそうに話していたもの」
 「分かった。今すぐには無理だけど、そう思えるように努力してみる。ジャンの為にも、自分の為にも」
 簡単に吹っ切れるものではないが、ジャンの死も、それによって生かされた自分も、二つの事実を背負って透は前に進もうと心に決めた。
 十一月のニューヨーク。キャンドル色の月が浮かぶ夜。長い、長い待ちぼうけがようやく終わりを告げた。






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