第49話 招喚

 チャンスとは気まぐれに見えて、実は常に人の頭の上を均等に飛び交っているのかもしれない。ただ、物に出来るかどうかは本人次第で、そこには世間で言うところの「運」ではなくて、もっと堅実的なものが関与しているのではないだろうか。
 一瞬で通り過ぎる運命の糸を素早く捕らえ、自分の懐まで引き寄せる。成功の鍵は、チャンスが訪れた際に発揮すべき能力を日頃から練磨しているか、否か、で決まるのだ。
 電話を切り終えた透の目には、この理(ことわり)が鮮明な映像となって見えていた。
 頭の上にチャンスが浮かんでいる。もう、手を伸ばしても届かぬ雲のような遠い存在ではない。
 「今度デカい波が来たら、迷わず乗れよ」
 京極からの謎めいた伝言も、このことを指しているのだろう。
 運命を変える風が、こちらに向かって吹いてくるのを感じた。
 自分の居場所は、自分で決められるくらい強くなってやる ―― この誓いを立ててからの三年間、悔し泣きしか出来なかった少年にも、ようやく転機が訪れようとしていた。

 一ヶ月前、思いも寄らない人物が透を訪ねてやって来た。
 明魁テニス部ナンバー3の実力を持つ男、岬諒平。透がまだ光陵テニス部に在籍していた頃に、都大会で一度だけ彼の試合を見たことがある。
 バスケットボール部出身の彼は、当時、光陵学園ナンバー3の藤原とのシングルス戦を制し、並外れた身体能力の高さと共に、両校の格の違いを周囲に知らしめた。同大会の数か月前、校内試合で藤原に完敗を喫した透には、同じ選手を「6−4」で退けた彼が別世界の住人としか思えなかった。
 その岬が透と試合をする為に、正月休みを利用してジャックストリート・コートまで来たのである。
 「真嶋ってのは、お前だよな?」
 初めて間近で相対した彼は、透の抱いていた印象よりも痩せて見えた。
 体格の良いアメリカ人に囲まれて生活してきたせいなのか。あるいは、透自身、少しは体が出来てきた証拠なのか。
 いずれにせよ、痩せて見えるのは“記憶よりも”と言うだけで、実際の岬は透との身長差が二十センチ近くある上に、二歳上の貫禄も充分に備えていた。
 「京極の使いで、真嶋と勝負して来いってさ。俺はいつでもオーケーだけど、お前は?」
 ストリートコートに身を置く限り、いつ、どんな形で挑戦者が来ようと拒めない。ただ一つ、「京極の使い」の意味を計り兼ねて、透は理由を尋ねた。
 「試合をするのは構いませんけど、どうして俺と?」
 「部長命令だってさ。個人的にも、お前には興味があるし」
 まるで以前からの知り合いのような口振りと部長命令の意図が分からず、ますます首を傾げる透に向かって、岬はさらに不可解なことを言い出した。
 「俺、あいつに惚れてんだ」
 「はい?」
 最初は、初対面の人間に「惚れた」と告白する大胆さに困惑した。
 「あいつに惚れている、と言ったんだ」
 「あいつ、って?」
 「だから、お前も知っている『あいつ』だよ」
 次に「あいつ」なる人物が一人しか浮かばず、別の意味で困惑した。明魁学園に在籍する岬と透が共に知る人物と言えば、京極以外に考えられない。
 「あいつって、まさか京……?」
 「そう、西村奈緒」
 「えっ? なんで!?」
 なぜ岬の口から奈緒の名前が飛び出したのか。彼女とはどういう関係なのか。それより、何より、なぜ初対面の自分にこんな告白をするのか。
 最終的に何処で困惑したのか分からなくなり、透は「なんで」と言ったきり、大口を開けたままマヌケ面を晒していた。
 「続きは、真嶋が俺との勝負に勝ったら教えてやる。
 どうだ? これで立派な理由が出来ただろ?」
 挑発的な笑みを携えて、岬がコートに入った。
 思えば、この時すでに運命を変える糸は透の目の前にぶら下がっていたのである。

 「6−4か……。最悪だ!」
 試合終了後、がっくりと肩を落としたのは岬の方だった。明魁テニス部ナンバー3の実力を誇る選手を相手に、透は2ゲームの差をつけ勝利した。
 しかし、楽に勝てたわけではない。日頃からトレーニングの為に着けているウエイトはもちろん、冬だと言うのにジャケットもシャツも脱ぎ捨て、最後は切り札のドリルスピンショットまで繰り出し、ようやく手にした勝利である。
 やはり光陵学園がライバルと目するだけあって、明魁学園のレギュラー陣はレベルが高い。だが、見方を変えれば充実した試合内容だったとも言える。丸太の上で頭を抱える岬には申し訳ないが、透は今の自分の実力を推し測ることが出来たのだから。
 様々な事情を抱えた挑戦者がやって来るストリートコートでは、レベルがあるようで無きに等しい。体格、年齢、プレイヤーとしての経歴も、全てが違い過ぎる為に、その中で勝利を収めたとしても、成長を実感できなかった。
 果たして、自分は今の高校生のレベルに付いていけるのか。今まで続けてきた練習方法が間違ってはいまいか。確たる証もなく、不安の中で練習を続けていた。
 日本にいれば、透は中学三年生の冬休みを迎える頃である。今の時点で高校二年生の岬と互角の勝負が出来るということは、帰る頃には光陵テニス部でのレギュラー入りも夢ではないだろう。
 今までの練習が無駄ではなかったと、安堵する透の傍らで、岬はいまだ分かりやすいポーズで己の敗北を悔やんでいた。
 「越智から『元唐沢の秘蔵っ子だから侮るな』と忠告されていたんだが、まさかドリルスピンショットまで伝授されていたとはな」
 「伝授だなんて、そんな……俺が勝手にパクったんですよ」
 「勝手にパクれる代物じゃねえだろ? まあ、それはそれで大したものだけど……」
 確かに、彼の言う通りである。ドリルスピンショットは見よう見真似で体得できるものではない。
 実際、透も試行錯誤を繰り返し、マスターできたと思ったらジャンから「半端なスピン」と指摘され、再度研究し直してようやく完成させた。それ程までに難易度の高いショットである。
 「たぶん俺は、出会いだけは強運なのかもしれません。光陵の先輩達や、京極さんや、ここで出会った人達も、その都度、俺に大事なことを教えてくれたような気がします」
 「出会いねぇ……。それも本人の実力のうちだろうな」
 岬は区切りをつけるように「ふうっ」と長い溜め息を吐くと、今度はしっかりとした口調でここへ来た経緯を語り始めた。

 「約束だ。最初から話してやる。
 俺と奈緒は幼馴染みで、ガキの頃からよく一緒に遊んでいた。と言っても、遊ぶのはお互いの弟同士で、俺達は面倒見る側で……」
 前に親友の疾斗から、岬の家は透の家の近所だと聞かされた事がある。奈緒と幼馴染みだったとしても、不思議ではない。
 「あいつ、自分が姉ちゃんだからって、弟達のことを必死で守ろうとするんだよ。どう見たって、あいつが一番ビビリで、要領悪くて、鈍臭せえのに、体張って庇うんだ。
 そういう一途なところが、放っておけなくてさ。いつの間にか、弟よりも気になる存在になって、それが愛情だって気付いたのは忘れもしない。五年前の春、あいつがブラ・デビューを果たした時だ。
 こいつを他の男から守んなきゃなんねえ。そう思って、即行、告ってみたんだが、あっさり振られてな。
 後から考えてみれば、しゃあねえかって。俺は中一でも、あっちは小五だし」
 すらすらと過去を語る岬に、恥らう様子は見られない。あまりに堂々と話すものだから、むしろ透の方が戸惑うほどだ。初対面にもかかわらず、こんなプライベートな話まで聞いても良いのかと。
 「あのう、岬さん? 無理に話さなくても、俺はここへ来た理由が分かれば充分なんで……」
 「バカ野郎! 男が一度口にした約束を、そう簡単に曲げられるか。
 それに、俺は人に説明をするのが苦手なんだ。最初から順を追って話さねえと、自分でも分からなくなる。
 だから、最後まで黙って聞けよ」
 「は、はあ……」
 この時、岬の頬に赤みが差したが、それは苦手なものを明かしたからであって、話を再開すると同時に恥じらいの色は消えて、元の冷静、且つ、真剣な表情に戻っていった。
 「過去の反省を踏まえてだな、俺はあいつが高校生になる時に、もう一度告ろうと決心したんだ。
 だけど和紀が……。ああ、奈緒の弟な。和紀が『姉ちゃんには、他に好きな奴がいる』って言うんだよ」
 岬の要求通り、黙って話を聞いていたが、透の頭の中は疑問だらけであった。
 岬と奈緒が幼馴染みである事は分かった。彼が奈緒に対して好意を抱いているのも理解した。しかし、それを透に赤裸々に語る必要は何処にもない。
 日本を発ってから、三年が過ぎようとしている。その間、奈緒とは連絡を取っていない。
 恐らく彼女の記憶では、透は四ヶ月でいなくなった一風変わった転校生で、覚えていたとしても、せいぜいクラスで浮いた存在の田舎者である事ぐらいだろう。
 そんな自分に、岬が事細かに事情を説明する理由が分からない。これではまるで彼が奈緒に告白するにあたり、元恋人に断りを入れているような格好だ。
 何となく嫌な予感がする。もしかして彼は大きな勘違いをしているのではないか。
 そして、この漠然とした予感は次の岬の一言で現実のものとなった。
 「和紀の話によると、奈緒が惚れている相手っつうのが、お前だそうだ」
 「えっ? お、俺? いや、それはないと思います」
 「何でだよ? まさか遊びで付き合っていたんじゃねえだろうな?」
 「いや、付き合うも何も、俺達は単なるクラスメートで、そういう関係じゃありません」
 やはり思った通りだ。岬はとんでもない誤解をしている。彼は、透と奈緒が恋仲にあると思っているのだ。現在進行形か、過去形かは知らないが。

 岬に真剣な眼差しで見つめられ、透は妙な罪悪感に捕らわれた。
 「俺、アメリカに来てから彼女とは会っていないし、連絡も取っていませんから」
 刑事に疑われた容疑者が、必死になって弁解しているような心境だ。
 「あっ、一度だけ電話をもらったことはあります。でも、それも俺の親友の疾斗って奴が心配しているって話で。
 ほら、彼女、優しいから。岬さんの方がよくご存知だと思いますけど……」
 身の潔白を証明するには、些細な嘘も許されないと思って報告していくうちに、いつの間にか透の方が赤裸々に告白する立場に変わっている。
 「約束したエアメールも、ずっと出していないし。向こうは忘れているか、呆れているかの、どっちかですよ」
 「何でだよ?」
 「『何で』って、俺達、付き合っていたわけじゃないんですよ? 単に同じクラスで、隣に座っていただけで、すぐに転校した奴のことなんか、普通は忘れますって」
 透の説明を受けても、岬は同じ質問を繰り返した。
 「だから、何でそう思うんだよ?」
 「三年も会っていなくて、連絡もよこさないクラスメートを覚えている方がどうかしています。岬さんだって、そう思うでしょ?」
 「お前はどうなんだ? 単なるクラスメートの事なんか、とっくに忘れたのか? 三年間、一度も会わなければ、記憶から綺麗さっぱり消せるのか?
 だったら、さっきの試合。彼女の名前を出されただけで、何であんなに必死になって戦った?」
 「それは……」
 この最後の「何で」を、透は切り返すことが出来なかった。
 岬は、透と奈緒の関係を知った上で、同じ質問を繰り返している。彼の「何で」は違う答えを求めている。
 彼が聞き出そうとしているのは、透の本心だ。お前は本気で西村奈緒に惚れているか、と問うている。わざわざ日本からやって来たのも、それを確かめる為だろう。
 透は気持ちを整理する為に、一旦、視線を岬から離し、見慣れたコートへと向けた。
 ペイントだらけのコンクリートのコートには、血が流れたこともある。そのコートから少し離れた森の奥には、亡きリーダーの墓もある。
 自分を成長させてくれた三年間は、決して正しい事ばかりではなかった。人を憎んだ事も、傷つけた事も、そして違う女性を愛した事もあった。
 一点の曇りもなく、己の気持ちを真っすぐにぶつけられる岬が羨ましいと思った。それと同時に、その彼の真っ直ぐな視線から逃れようとする自分を恥ずかしく思った。
 三年の月日を改めて長いと感じた。今の自分に彼女への想いを打ち明ける資格はない。

 「別に、俺は他人の恋愛に口出すつもりはねえよ」
 急に無口になった透を気遣ったのか。岬の口調には「何で」を連発した時のような勢いはなく、少しばつの悪そうな遠慮が見える。
 「現に、お前に勝ったら、もう一度、彼女に告白しようと思っていた。
 だけど、ここへ来て、お前と勝負してみて、真嶋がどんな奴かよく分かった」
 「どんな奴か」と言われたことで、透は顔を上げるタイミングを失った。テニスよりも乱闘が多いこの場所で、ヤンキーのリーダーとして収まる自分が、彼女に相応しい相手とは到底思えない。
 しかし岬が下したのは、正反対の評価であった。
 「お前に惚れてんなら仕方ねえ、って思った」
 「どうして、ですか? 俺なんかが彼女と釣り合うわけないですよ」
 「真嶋、俺の眼力をナメんなよ。
 俺はバスケ部出身だ。チームを見れば、リーダーの度量も分かる」
 透と話ながらも、岬は丸太の上から皆の動きを観察していたらしい。
 下ではビーとレイが中心となって他のメンバーの指導にあたり、隣のバックヤードでも、ジェイクが基礎から教える必要のある者達を集め、トレーニングのやり方を説明していた。
 「先を行く奴等が、当たり前のように後輩を指導する。まともな設備のないこんな場所で、互いに工夫しながら、上手くなろうと必死で努力している。
 見た目は少々アレだが、ここには烏合の衆とは違う秩序がある。よほどリーダーがしっかりしていなければ、こうはならない」
 「それは仲間に恵まれただけで、前のリーダーの時から続けてきた事だし」
 「いや、違う。真嶋が思っている以上に、付いていく人間はリーダーの姿をよく見ている。たとえ前のリーダーが良くても、次が駄目なら、さっさと見切りをつけて出て行くはずだ」
 岬の口から初めて柔和な笑みがこぼれた。
 「良いチームを作っているじゃないか、真嶋。お前なら仕方ねえよ。下手に告っても、あいつを困らせるだけだしな。
 だけど今みたいにモタモタしてたら、遠慮なく口説かせてもらう。俺は諦めちゃいねえから。これだけは忘れんなよ?」
 「岬さん……」
 「真面目な話、いつ頃、日本へ帰れんだ?」
 「たぶん、今のペースでいけば、今年の夏ぐらいになるかと思います」
 「夏か。なるほどね……それで慌てて俺を使いに出したのか」
 返事を聞いた岬が、しきりに納得したように頷いた。
 「あの……岬さん、それが何か?」
 「実は、京極から伝言を預かっている」
 透の質問を無視して、岬がわざわざ日本から抱えてきたわりには短過ぎる伝言を告げた。
 「今度デカい波が来たら、迷わず乗れよ」
 「デカい波?」
 「伝言は、これだけだ。但し、お前が俺との試合に勝ったら、という条件付きだった。
 んじゃ、確かに伝えたぜ」
 岬はそう言い残して、ストリートコートを去っていった。

 京極からの伝言の意味が分からぬままに一ヶ月が過ぎたある日、透の自宅の電話のベルが鳴った。
 電話を受けたのは父親の龍之介だが、それが重大な知らせであることは雰囲気で察せられた。面倒臭がり屋の父親が、珍しく二十分以上も人の話を大人しく聞いている。
 何となく落ち着かず、透が自室とリビングを行ったり来たりしながら様子をうかがっていると、おもむろに龍之介から受話器を渡された。
 「玄のクソ野郎からだ」
 「玄って……日高のおっさんか?」
 親子してまともな呼称で呼ぶ気はないが、電話の相手は光陵学園テニス部のコーチ・日高玄であった。
 「よう、トオル! お前、まだテニス続けているのか?」
 日高の乱暴な口の利き方に懐かしさを覚えた透は、同じように憎まれ口を返した。
 「おっさんこそ、まだクビになってねえのかよ?」
 「ああ、クビになる前に一仕事しようと思ってな……」
 突然の電話の内容はこうだった。
 部長の成田が、今春からアメリカにあるプロテニスプレイヤーの養成所に留学することになった。
 そこはカリフォルニア州に拠点を置く複数のプロチームが共同出資で設立した養成所で、通常のテニス留学とは異なり、卒業後に出資先のいずれかのチームとプロ契約するというのが絶対条件の施設である。一度入学すれば光陵学園へは戻って来られないが、プロへの道は確実となる。
 今回の留学は、成田のこれまでの実績と将来性を高く評価した養成所からの異例のオファーであり、プロの世界の厳しさを知る日高としては、またとないチャンスを教え子に掴ませてやりたいと願っている。それと同時に、今年こそ全国制覇を狙う光陵テニス部のコーチとしては、成田の代わりとなる補充人員を探さなければならない。そこで龍之介に電話をよこした、との話であった。

 「……って事は、成田部長はプロにスカウトされたようなモンだろ? さすがだな。
 そっかぁ。光陵テニス部から、二人目のプロが出んのか。おっさんも鼻が高けえな?」
 三年ぶりの懐かしい声と、世話になった先輩の華々しい活躍に、透は国際電話であることも忘れて、すっかりはしゃいでいた。
 「ああ、本来なら祝杯でも挙げているところなんだがな」
 「何だよ、嬉しくねえのかよ?」
 「当の本人が先方への返事を渋っている。俺と唐沢で何度も説得にあたっているんだが、自分が納得する補充人員が入るまではテニス部を離れられないと言って、書類にサインしようとしねえんだ」
 「責任感強えからな、成田部長は」
 「お前、さっきから他人事だと思って聞いてねえか? 俺は世間話をする為に国際電話をかけているわけじゃない」
 「はぁ……」
 「その補充人員の候補に、お前の名前が挙がっている。
 トオル、光陵学園へ戻って来る気はないか?」
 「へっ!?」
 人生の岐路となるであろう重要な場面で、なんとも気の抜けたリアクションを取ってしまった。
 たった四ヶ月の在籍で忘れられなかっただけでも奇跡だというのに、何の実績も残せなかった自分が、部長の穴を埋める補充人員として指名を受けている。話が旨すぎて、せっかくのビッグ・チャンスを手放しで喜べなかったのだ。
 だが、その疑念はすぐに解消された。
 「お前、あの明魁の岬を6−4で下したらしいな?」
 「どうして、それを……?」
 「京極が、岬との一戦をわざわざうちに報告しに来たぞ。『成田が不在の光陵学園と戦っても面白くない』とほざいたそうだ。
 まったく、最近のガキはませた事をしやがる」
 わざと毒づくように話しているが、日高の野太い声が妙なところで高音になったり、掠れたりしている。鷹揚な話し方をするコーチにしては珍しいことである。
 透の心臓がドクドクと鳴り出した。
 確か、京極の父親はアメリカでプロチームを抱えるテニスクラブの経営者だと聞いている。察するに、彼は事前にそこから成田に関する情報を得て、透が候補に挙がるよう根回ししたのだろう。
 いまだ公式戦に出たこともないヤンキーの実力を証明する為に岬を送り込んでまで、彼は日本に戻るチャンスを与えてくれたのだ。
 「今度デカい波が来たら、迷わず乗れよ」
 あの謎めいた伝言は、この為のものだった。

 「あの後、ずっと独りで頑張っていたんだな」
 日高の言う「あの後」とは、突然アメリカへの転校が決まり、父親に対する不満をぶつけた時の話だろう。
 龍之介の代わりに謝罪する日高に対し、透は「自分の居場所は、自分で決められるくらい強くなってやる」と誓いを立てた。あれ以来、決して平坦な道のりではなかったが、諦めることなく夢に向かって歩き続けた。その夢が、今、現実になろうとしている。
 心臓の音が更に大きくなった。
 「俺……帰れるのか? 帰っても良いのか?」
 「龍は、『本人が決めることだ』と言っていた。
 住む場所は前の家が借家で残っているし、日本までの交通費は、学校のクラブ活動支援費から出すよう、顧問の恩田先生が校長と話をつけてくれた。スポーツ特待生制度のある明魁と違って、うちはこれぐらいの援助しかしてやれんが……」
 具体的な話が出ているというのに、透はまだ信じられなかった。必ず夢を実現させるつもりであったが、いざとなると信じられない気持ちの方が強かった。
 「帰っても良いんだな……本当に?」
 「ああ。但し、四月のバリュエーションでレギュラー入りするのが条件だ。今のお前の実力なら問題ないだろ?」
 バリュエーション ―― これも懐かしい響きである。
 単なるランキング戦ではなく、各大会の出場選手を選出する視察も兼ねた校内試合。それを光陵テニス部ではバリュエーションと呼んでいる。
 かつては、このバリュエーションでライバルを倒す為に汗を流し、レギュラーになれなくて悔し涙も流した。
 今度はそこが、かつての居場所を取り戻すための舞台となる。そして、それを可能にするだけの力はあるはずだ。
 「どうした、トオル? お前のことだから、滞在費ぐらいは貯めてあるんだろ?」
 願ってもないチャンスにもかかわらず、なかなか返事をしない透を不審に思ったのか。日高の口調がコーチから過保護な父親のものに変わった。
 「もしかして金が足りないのか? 少しぐらいなら俺のポケットマネーでどうにかするから、言ってみろ。龍に内緒で送金してやる」
 「いや、夏までには帰るつもりで、ずっと貯めてきた。金の問題じゃない。
 交通費を出してくれんなら、四月のバリュエーションにも間に合うと思うし」
 「じゃあ、どうした? まさか、お前? ケガでもしたのか?」
 「違うんだ。ただ……信じられなくて……夢じゃねえかって。
 何回も見た事あるから。いつも帰れると思った途端に朝になる。だから、つい……。
 おっさん、これって夢じゃねえよな?」
 「ああ、夢は夢でも、覚めない夢だ。お前自身が勝ち取った。
 問題ないなら、もう一度、聞くぞ。トオル、戻って来るよな? 光陵学園に」

 電話を切ったと同時に、透は郵便局へ向かった。
 三年間、ずっと出せなかった約束の手紙。何度も出そうと思いながら、理想とは程遠い現実に触れる勇気がなくて、出せずにいた。
 しかし、今は違う。これが最初で最後のエアメール。たった一度の短い手紙。ほんの一行をしたためて、ポストへ投函した。
 〈奈緒、もうすぐ帰る〉






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