第5話 最後の砦 

 ダウンタウンの中心部に店を構えるテニスの大型専門店『ロコ』。
 売り場の面積から品揃えに至るまで、街一番を誇るテニスショップが中学生の透を拾ってくれた。そこの四階にあるカフェで、皿洗いとして雇ってもらえることになったのだ。
 普通なら英語の読み書きも満足に出来ない十二歳の少年など門前払いを喰らうところだが、透にはマイナス要素をカバーするだけの取り柄があった。
 皿洗いの仕事は、文字通り、皿だけ洗っていれば良いという単純なものではない。一度に三十名分ほどの皿の洗えるウォッシングマシンを動かす合間に、食事の終わったテーブルの食器をタイミング良く下げに行き、調理場には洗浄後の磨き上げたものを不足がないよう補充しつつ、鍋や調理器具等は機械に頼らず手で洗わなければならない。
 これらを効率よくこなす為には、必然的に皿は何十枚も重ねて運ぶことになる。同様にして、グラスも、カップも、サラダボールも。百人分のスープを作る鍋でさえ、一つずつ運んでなどいられない。
 早さと正確さが求められる職場で威力を発揮するのは、読み書きの能力ではなく、ハードな作業に耐え得るだけの頑丈な肉体だ。
 皿洗いの重労働を“金の貰える筋トレ”と捉えて意欲的に働く透は、その驚異的な体力をカフェの責任者であるシェフに見込まれ、試用期間が終わる前に「長持ちしそうなアルバイト」として採用されたのだ。

 新たな居場所を得て嬉々として動き回る少年は、『ロコ』の従業員のみならず、来店する客たちにも受けが良かった。
 透の働くカフェはショップと隣接するテニスクラブのレストハウスも兼ねているだけに、客のほとんどがテニスに精通しており、自慢のウンチクを披露したくてうずうずしている。そこへテニスのことなら何でも知りたがる人懐っこい少年が皿を下げるついでに耳を傾けてくれるとあらば、人気を集めるのは当然の成り行きだった。
 透にとっても、職場にいながらテニスの情報収集が出来るのだから、こんなにありがたいことはない。
 地元で有名なプロのプレイヤーの話や、学生ではどこの学校の何という選手が注目されているのか。他にも、安く利用できるテニスコートの場所やテニスクラブの良し悪し、どの時期にどんなトーナメントが開催されるのか。
 イースト・パタソーンズのテニス部に在籍していた頃よりも、遥かに幅が広くて正確な情報を得ることが出来た。
 ただ一つだけ難を言えば、この仕事でもらえる賃金が“微々たるもの”の典型で、日本までの交通費と生活費を計算すると気が遠くなるばかりだが、小額でも夢に近づいている事実に変わりはない。週ごとに受け取る僅かなドル紙幣を前進の証と思って、辛抱強く貯えていった。

 そんな生活が一ヶ月ほど続いたある日、透はカフェに来る客の一人から、この辺りで最強と噂されるプレイヤーの話を聞かされた。
 久しぶりに耳にする「最強」の言葉に、胸が高鳴った。
 その男は、ジャックストリートという通り沿いに位置する公園の奥に同名のストリートコートがあって、そこに出入りする若者たちのリーダーを務めているらしい。噂によれば「非運の覇者」の名を残す元プロのテニスプレイヤーだとか、どこぞの学校の英雄的存在だったとか、実しやかな伝説がいくつもあるという。
 ところが真剣な面持ちで客の話に聞き入る透を、調理場からシェフが呼び寄せた。
 彼は学生時代にカフェの皿洗いから始めてシェフにまで伸し上がった、所謂「叩き上げ」で、店長のハウザー同様、この街のテニスに関することなら何でも知っている。
 「トオル、今の話は忘れろ」
 「なんでだよ?」
 「良いか? 『ジャックストリート・コート』ってのは、血の気の多い連中の溜まり場だ。
 賭博、強盗、傷害、殺人。あまりに事件が多すぎて警察も手が回んねえから、市が危険区域として未成年の立ち入りを禁止している。
 要するに、処分できねえゴミをとりあえず寄せておく掃き溜めみてえなところだ。
 生きていたかったら、絶対に近づくな。分かったな!」
 忠告というよりも、脅すような口振りで釘を刺されたが、透の好奇心はすでに自力では制御できない程の膨らみを持っていた。
 テニス部を退部してからの一ヶ月。裏庭の壁打ちボードを相手に、ひたすら孤独な練習を重ねてきた。筋力トレーニングを苦痛とは思わぬが、ボードを相手にひとりラリーを続けることには限界を感じていた。
 自分が打ち込むのと同じスピードでボールが返ってくる壁打ちでは、大した進歩は望めない。一ヶ月も続ければ飽きてしまう。
 人間を相手にラリーがしたい。生きたボールを返してくれる相手と、心行くまで打ち合いたい。
 まだ本人に自覚はなかったが、透はこの時すでに最強の男との勝負を望んでいた。

 透はアルバイトが終わると同時に、例のストリートコートへ向かった。危険区域に指定されていたとしても、誰にも見つからないよう覗く分には問題はないはずだ。
 遠くから、こっそり見るだけ ―― 最初は好奇心が多くを占めていた。
 コンクリートで出来た一面のテニスコート。これがジャックストリート・コートの全てであった。逆に言えば、それしかなく、他に注視すべき物はない。
 だが、問題はその周りの環境とプレーする人間にあった。
 コートを囲む金網フェンスはお決まりのようにカラースプレーで賑やかに着色され、入口には「十六歳未満立ち入り禁止」の看板がぶら下がっている。もとは「十八歳未満」であった表記を、わざわざ上から「十六歳未満」に書き直し、ご丁寧にドクロマークまで添えてある。
 カラフルなフェンスの中へ入るとすぐ正面にテニスコートがあり、その奥にはログハウスで使うような立派な丸太が高く積み上げられている。何故、丸太がコート脇に置かれているかは不明だが、他にも鉄パイプやペンキの缶など、テニスに不要と思われる品々がそこ此処に散らばっている。
 丸太の向こう側も同様で、壁打ちボードとシングルスコート分のスペースがあるにはあるが、そこにも瓦礫やらドラム缶が転がっている。全体的にテニスコートのラインが引かれていなければ、工事現場といった方が近い雰囲気だ。
 そして中でたむろしている連中は人種が分からぬほどに色とりどりに髪を染め、季節が分からぬほどに好き勝手な服装で、予想はしていたが、テニスウエアを着用している者など一人もいなかった。
 ピンクの長い髪を頭頂部で束ね、噴水のように爆発させている者。耳の周りに隙間なくピアスをしている者。全身に、しかもスキンヘッドの頭部にまでタトゥーを入れている者。
 素行が悪いと評判だった芙蓉学園のテニス部員など可愛いもので、彼等は皆、筋金入りのヤンキーで、あろうことか、フェンスやラケットのみならず、一面しかないテニスコートにもペンキで悪戯書きをして、白いはずのラインをポップな色調に仕上げている。
 一癖も二癖もありそうなヤンキーが総勢五十人近くいる中で、透はある一人の男に意識が向いた。
 コート脇に積み上げられた丸太の頂上でどっかりと腰を下ろす、鋭い目付きのアメリカ人と思しき男。彼がリーダーに違いない。
 顎鬚をたくわえているせいで老けて見えるが、二十代後半といったところか。赤い革のジャケットを羽織ったその体は、服の上からでも筋肉の隆起が見て取れる。
 リーダーのとなりには、黒のジャケットにサングラスをかけた、これまた危なげな男も座っている。ピンク髪の男のようなイカレた危うさではなく、何処か裏の世界に通じるどす黒い危うさだ。
 確かにシェフの忠告通り、とても健康的に汗を流せる場所とは思えない。こんなところでプレーをするなど、命がいくつあっても足りはしない。さっさと離れたほうが身のためだ。
 頭では分かっているのだが、どうしてもそこで行われている試合に目が奪われてしまう。
 プレイヤーも、その場所も、周りにたむろする連中も、常識からは逸脱しているが、確かに中ではテニスが行われている。ラケットとボールを使い、ネットを挟んで、生きたボールを打ち合っているのである。

 しばらく見ているうちに、透はストリートコートの独自のルールも理解した。
 区営コートと同様、ここでも最初のサーブ権は挑戦者にあり、ハーフマッチ、つまり3ゲーム先取の勝ち残り方式で試合が行われている。
 だが区営コートと決定的に違うのは、挑戦者が賞品となるものを自ら持参していることだ。しかもギャンブル好きの唐沢の所業が幼く見えるほど、品物が豪華である。
 宝石や、時計の類もあるが、中には滅多に手に入らないトーナメントのチケットを賭ける者までいる。
 それに対し、挑戦を受ける側は何も賭けていない。但し、彼等にはランク付けがされており、試合に負けるたびに順位が下がるようで、最下位のメンバーがよく入れ替わっている。
 要するに、このストリートコートの定員は常に五十名で、挑戦者は五十位以内のメンバーに入りたいが為に、自身の大事な持ち物を賭けて勝負を挑んでいる。
 試合に勝利すれば仲間に入れて賞品も返してもらえるが、負ければ即、没収されて、コートからも追い出されてしまう。
 試合の手順が分かると参加したくなるのが人情だが、十二歳では近づくことさえ許されない。透は遠くから指をくわえて見ているしかなかった。
 それでもコートの中を行き来する生きたボールを眺めるだけで、いくらか気持ちが落ち着いた。光陵テニス部にいたおかげで、他人の試合を見て、自分でも次の手を考える癖がついている。
 フェンスの外の離れた場所にいるにもかかわらず、まるで自分が中でプレーしているような気分に浸れた。これで充分満足だと、その時は思っていた。

 ジャックストリート・コートの存在を知らされてからというもの、透は暇さえあれば危険区域へ通った。
 初めは見ているだけでも幸せだったが、段々と欲が出てきて、自分も試合がしたいと思うようになっていった。
 それも他のメンバーではなく、あの丸太の上の最強と噂される男と打ち合ってみたい。一度で良いから、この街の頂点を見てみたい。
 最強の男はどんなサーブを放つのか。どんなリターンを返してくるのか。得意のショットは何で、どういうプレースタイルで戦うのか。
 独りで練習をしている孤独もあって、その欲求は日を追うごとに膨らんでいった。
 テニスは一人では出来ない。相手があってこそのテニスである。
 かれこれ一ヶ月半も孤独な練習を強いられている少年には、誰もが避けて通る危険区域のコートがセンターコートよりも憧れる夢の舞台に見えていた。
 そんな透に、またとないチャンスが訪れた。
 その日は学校の授業が午前のリクリエーションだけで終わり、珍しくアルバイトも休みであった。
 午後のスケジュールがフリーとなった透は、当然のようにストリートコートへ足を向けた。
 ラッキーなことに、いつもは挑戦者で順番待ちの列が出来ているのに、今日に限って一人もいなかった。しかも、中では例の場所でリーダーが退屈そうに寝そべっている。
 ひょっとしたら、暇潰しに自分の相手をしてくれるかもしれない。
 透は危険区域であることも忘れて金網フェンスの扉を開けると、万に一つの望みをかけて丸太の頂上に向かって声を張り上げた。
 「なあ、アンタ? 暇なら俺と勝負してくれよ」

 ところが返事をしたのは丸太の上のリーダーではなく、ピンクの髪を噴水のように爆発させている、あのイカレた男であった。
 「入口の看板、見えなかったか?」
 内心、ヤバいと思った。最も関わりたくない相手に見つかってしまった。
 しかし、またとないチャンスを目の前にして、ここで退くわけにはいかない。
 「俺はここのリーダーと勝負がしたいんだ。話をさせてくれ」
 ありったけの勇気を振り絞ったにもかかわらず、透の要求はあっさり無視され、代わりにピンク髪の男から質問を返された。
 「坊や、まだ字が読めないでちゅか?  それとも、ママを探しに来たでちゅか?」
 膝を曲げ、目線を下げて話しかける仕草は、大人が幼児と向き合う時にするもので、明らかに相手はふざけてやっている。
 ここのヤンキー連中に正攻法は通用しないと知りつつ、他に手立てを知らない透は、同じ言葉を繰り返した。
 「ここのリーダーと、最強の男と勝負させてくれ」
 三度に渡る真剣な訴えも空しく、コートの中は笑いの渦に包まれた。ピンク髪の男も、目の前で笑い転げている。
 「ボクちゃんと勝負しようだって! リーダーも堕ちたもんだな。なあ、ジャン!」
 丸太の上に向かって叫んだところをみると、あのリーダーは「ジャン」というらしい。
 だが、ジャン本人は顔を上げようともしなかった。
 それを良いことに、他のメンバーも赤ちゃん言葉で透をからかい始めた。
 「坊や、お家に帰ってママに聞いてごらん? ジャックストリート・コートのお兄ちゃんたちと遊んで良いでちゅかって!」
 次々と広がる笑いの渦。この二週間、我慢に我慢を重ね、やっとのことで口にした心からの願いも、ここでは暇潰しのネタにされてしまう。
 ピンク髪の男が、笑いを引きずりながら尚も続ける。
 「ボクちゃんがもう少し大きくなって、ちゃんとラケットが振れるようになってから、また来てくだちゃいな」
 透の目的はあくまでも最強の男との勝負であって、ヤンキー連中の戯言など無視するつもりでいたのだが、この一言が癇に障った。子ども扱いされるのはともかく、テニスに関しては譲れないものがある。
 「アンタに言われたくねえよ」
 「何でちゅか、坊や?」
 「アンタこそ、ラケット振り切れてねえじゃん。テイクバックがあんな遅せえんじゃ、しゃあねえか」

 一瞬にして、コート内の空気が凍りついた。ピンク髪の男はそのことをよくリーダーのジャンに注意されていたのである。
 この二週間、フェンスの外から中の試合を観察していたおかげで、透の頭には常時いるメンバーの癖やプレースタイルがインプットされていた。
 残念ながら黒のジャケットの危なげな男とリーダーのジャンがプレーする姿をまだ見たことはないが、それ以外はほぼ全員記憶している。
 透が指摘したピンク髪の男。彼は足の速さを過信するあまり、テイクバック、つまりラケットを引いて準備をする動作が遅れがちであった。
 本来はボールを追いかけるのと同時進行で、ラケットを引くのが基本である。
 しかしフットワークに自信のある彼は、走った後でも間に合うと思っているのか、テイクバックをぎりぎりになって行なうために、いつも不安定な構えのままボールを迎えている。その結果、思うようにラケットを振り切れず、ベースラインでの打ち合いでミスする場面が多かった。
 そんな相手から「ちゃんとラケットが振れるようになってから」と言われては、反論の一つもしたくなる。
 子供だと散々馬鹿にしていた相手から鋭い指摘を返され、ピンク髪の男の顔が見る見るうちに赤らんでいった。
 「ここが何で『十六歳未満立ち入り禁止』か、教えてやろうか?」
 ふざけた口調から一変して、凄みのある低い声が響いた。声だけでなく目付きも変わった男の素振りから、透は反射的に身構えた。
 「小便臭せえお子様じゃ、挨拶だけでチビんだよ!」
 この宣戦布告と同時に、透の左頬を目がけて拳が打ち込まれた。それをすんでのところでかわした透は、右の拳でピンク髪の男に反撃を加えた。
 普通ならこれで簡単に決着がつくのだが、喧嘩慣れしたこの男は最初のパンチをフェイクに使い、二発目を直撃させようと用意していた。
 さすが危険区域に出入りしているだけのことはある。テイクバックは遅くても、拳の使い方には無駄がない。
 互いに相手の俊敏さに対抗しようとして、それぞれが最もスピードのあるパンチを同時に繰り出した。
 ――このままでは避けきれない。
 透が覚悟した時だった。
 勢いのついた二人の拳を、たった一人で制する男がいた。今の今まで丸太の上で寝そべっていたはずのリーダー・ジャンである。

 父親以外で、透が繰り出すパンチを止めたのは彼が初めてだ。
 剣道四段の木刀と同等のスピードがあるにもかかわらず、ジャンは二人の間に割って入り、一方の手で透を、もう一方の手でピンク髪の男の拳を捕らえている。
 「一つ良いか、小僧?」
 間近で見たジャンは凄んでいるわけでもないのに、圧倒的な存在感があった。静かに話をしていても、場数を踏んだ者特有の気迫が伝わってくる。
 「お前もテニスプレイヤーの端くれなら、喧嘩で利き腕を使うんじゃねえ」
 拳を覆うジャンの手から徐々に力が加えられていく。その凄まじい握力は、中の拳が握り潰されるかと思うほどの圧迫感がある。
 利き腕を喧嘩に使えば、こういうケガのリスクも伴う。それを彼は最も分かりやすい方法で説いている。利き腕はラケットを握るために使うのであって、テニスプレイヤーならば大事にしろと。
 「分かった。今度から気をつける」
 透は素直にジャンの忠告を聞き入れた。
 このリーダーは力だけで集団を束ねているのではない。解放された右手から、透はそう直感した。
 やはり彼と勝負がしてみたい。どんな球を打つのか、一度で良いからこの目で見てみたい。
 体中の血が騒ぎ始めた。その血に駆り立てられるように、透は丸太の上へ戻ったジャンを追いかけ、彼の足元に跪いて訴えた。
 「頼む! 一度だけで良い。俺と勝負してくれ!」
 「ここはガキの来るところじゃない」
 「3ゲームじゃなくても良い。1ゲームでも。一球でも良いから、アンタのボールを打たせてくれ!」
 「ガキはさっさと帰って、糞して、寝ろ」
 丸太の上のジャンは透を相手にする気がないらしく、すでに元の定位置で横になっている。
 「もう、壁打ちボードだけじゃ我慢できないんだ。自分が打ったのと同じ球しか返ってこない。どうやって打っても、戻ってくるコースが分かる。俺の球しか返ってこない。
 俺はテニスがしたいんだ。頼む! 生きたボールを、アンタのボールを打たせてくれ!」
 尚も粘ろうとする透に、他の仲間の手が伸びてきた。ジャンの「帰れ」は、イコール「追い出せ」の意味があるのだろう。両腕、両脚を別々に掴まれ、透は四人がかりで丸太から引き剥がされた。
 「一度だけで良いから、俺にチャンスを……!」
 出口に向かって引きずられながらも、透は叫び続けた。
 壁打ちボードが相手の孤独な練習。生きたボールを返したいという切なる願い。そして何よりも、互いの闘志をぶつけ合う試合への欲求。それら全てが最強の男との勝負に直結した。
 テニス部を辞めた今、この試合が最後のチャンスになるかもしれない。
 「頼む! もうここしかないんだ。ここが俺の……」
 すでに体半分はフェンスの外に引っ張り出されている。それでも透は叫び続けた。
 「ここが俺の最後の砦なんだ!」

 「放してやれ」
 丸太の上からの一言で、今まで引きずり出そうとしたメンバーが一斉に手を放した。
 ジャンが半身を起して座り直すと、それまで好き勝手やっていたヤンキーが全員リーダーの次の言葉に視線を集中させた。
 積み上げられた丸太の数は十段以上あるだろうか。その上から透を見下ろすジャンは、喧嘩を止めた時よりも迫力が増したようだった。
 「小僧、お前に賭けられる物があるのか?」
 「これが俺の全財産だ」
 透はジーンズのポケットから財布を取り出すと、丸太の上に向かって放り投げた。中には一週間分のアルバイト代がそっくり入っていたが、最強の男と勝負が出来るのなら惜しくはなかった。
 「残念だが、ここでは現金以外の物しか賭けられない」
 そう言いながらも財布の中身を物色したジャンが、急に鼻の下を長くした。
 「ほう……あと三年もすれば、なかなかの女になりそうだ」
 「ちょ、ちょっとタンマ、それは……!」
 財布ごと放り投げるんじゃなかった、と後悔した。「なかなかの女」とは奈緒のことである。
 透は以前、光陵テニス部でレギュラーに昇格した際に写したツーショット写真を、いつでも見られるように財布の中に仕舞っておいたのだ。
 レギュラーの証であるユニフォーム。それを写したたった一枚の証拠写真。
 四ヶ月しか在籍しなかった者には数少ない記念品であり、ラケットを除けば唯一の宝物である。
 透は急いで丸太に駆け上がり奪還しようと試みたが、上からの一蹴りで呆気なく撃沈された。その慌てぶりを見て、ジャンの無精髭だらけのいやらしい口元が更にいやらしく広がった。
 「小僧の女か?」
 「ち、違う……けど、大事な友達だ」
 「惚れた女が出来りゃ、男も一人前だ。男が体張る理由なんざ、女とプライド。これしかねえからな」
 少し前までの威厳はどこへやら。舐めるように奈緒の写真を品定めする彼は、エロオヤジ以外の何者でもない。このジャンという男は無類の女好きでもあるらしい。
 「小僧。これを賭ける覚悟があるなら、一度だけチャンスをやる。どうする?」
 ひらひらと写真を振りかざし、ジャンが薄笑いを浮かべている。その様子はまるで奈緒を人質に取られているようで、透は無性に腹立たしかった。
 光陵テニス部での思い出の詰まった写真が、負ければエロオヤジに持っていかれてしまう。だが一つだけ、自分の希望も叶えて、宝物も取り返す方法がある。
 透は大きく息を吸い込むと、背中のラケットを丸太の上に突きつけた。
 「アンタを倒せば返してくれるのか?」
 「ふん、小僧。なかなか良い度胸してんじゃねえか。だがその台詞は、ここまで辿り着いてからにするんだな」
 「おいおい、こんなお子様相手に勝負すんのかよ?」
 「泣かれたら、どうすんだ?」
 リーダーが試合の条件を承諾したと分かり、周りのヤンキーからは次々と文句が飛び出した。
 どうやら「一度だけチャンスをやる」とは、透にも他の挑戦者と同様の権利をくれてやる、ということらしい。つまり彼と勝負するには、ここにいるメンバー全員を倒さなければならない。
 光陵テニス部のバリュエーションで鍛えられたとは言え、6ゲーム1セットで計算した場合、最低でも25セットを戦うことになる。その途方もない数を乗り越えなければ、最強の男には辿り着けない。
 内心焦りを感じた透の耳に、他の仲間達の話し声が聞こえてきた。
 「慌てるこたあねえよ。どうせ、すぐに片がつく」
 「だよな。一人分のウォーミング・アップで片付きそうだ」
 「ガキが相手じゃ、ウォーミング・アップにもなんねえって。面倒臭せえから、さっさと終わらせろ」
 自分達の勝利を確信した上で、彼等は最下位のメンバーを急かしている。
 「仕方ねえな。いつでも打ってきな、坊主!」
 ストリートコートのメンバーの中で最弱と思われる男が、コートの中でろくに構えもせず、けだるそうに立っていた。
 大切な思い出の詰まった写真を弄ぶリーダーと、面白半分で仲間を急かすヤンキーと、ネットを挟めば対等であるはずのプレイヤーに失礼な構えを見せる五十位の男と。彼等の態度が、透の闘争心に火をつけた。
 「そうか、分かったよ」
 軽くボールをバウンドさせて感触を確かめた後で、透はその場で高く飛び上がり、ラケットを振り下ろした。
 光陵テニス部にいた頃から改良を重ねてきた得意のジャンピング・サーブは、ヤンキー共の態度を改めさせるには最も手っ取り早い方法だ。
 高い打点から打ち込まれたボールはアメリカ人との体格差をものともせずに、充分な勢いを携えコートの中を駆け抜けた。
 子供だと甘く見ていた相手から、いきなり高度なサーブを叩き込まれ、相手の男は茫然と立ち尽くしている。
 サービス・エース。それも、レシーバーに一度も触れさせずに決めたノータッチ・エースであった。
 「お望み通り、アンタの体が温まる前に片づけてやるよ」
 透の皮肉のこもった挑発に、ヤンキーどもの目付きが変わった。
 一人対五十人の孤独な戦いが、この瞬間に幕を開けた。






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