第51話 自由の砦の仲間たち

 カーメルのロケから帰ったその足で、透は真っ直ぐジャックストリート・コートへ向かった。
 本来ならジェイクと話し合いをする為に、居場所を先に突き止めなければならないが、直感というヤツか。何となく、彼がストリートコートへ戻っているような気がしたのである。
 「裏切り者。お前がいるから仲間になったのに」
 帰国の意思を告げた時のジェイクの顔が頭から離れなかった。まるで信じていた者に裏切られたかのような、怒りのこもった悲しい目をしていた。
 実際、そう思ったに違いない。他のメンバーがこぞってリーダーの朗報に沸き立つ中、彼は独りコートを去った。
 しかし、透には確信に近いものがあった。
 ジェイクは必ず戻ってくる。たとえ信じた者に裏切られたとしても、自らテニスを捨てることはしない。一度でも手放した経験のある者は、それが裏切りよりも耐え難い苦しみであることを知っているからだ。

 「ジェイクは戻っているか?」
 透はストリートコートの扉を開けると同時に、近くにいるメンバーに声をかけた。
 「良かった、リーダーが帰って来てくれて……。お願いだから、あの二人を止めて!」
 質問の答えより先に、ティントの涙声が返ってきた。それにつられて中を見やると、透の予想通り、ジェイクはそこにいた。だが、その姿は予期せぬものだった。
 普段からジェイクは感情をむき出しにしたプレーを嫌い、理性や品性に欠ける挑戦者には、殊更、シビアな戦術を用いて応戦する。時にその主義主張はリーダーの透にまで及び、必死さを見せることは弱みを晒すのと同義だと言って、気合い充分のファインプレーに冷ややかな目を向けることもある。
 そんな彼が汗を拭うことも忘れ、必死の形相で戦っている。対戦相手は、「あとの事は俺様に任せて、お前はロケへ行け」と、頼もしい台詞で透を送り出してくれたビーである。
 「俺の留守中に、何があった?」
 仲間を咎めるつもりはなかったが、困惑を抑えた口調が非難めいて聞こえたのか。メンバー達は首をすくめて押し黙り、誰一人として透と目を合わせようとはしなかった。
 そして返事の代わりに、皆の視線が丸太の上で試合を見守るレイへと集中した。詳しくは彼に聞いてくれ、ということだ。
 「レイ? 一体、これは?」
 「お帰り、リーダー。今、どっちが新リーダーに相応しいか、決めているところだよ」
 その顔には他のメンバーのような不安や困惑はなく、むしろ誇らしげな笑みが浮かんでいた。

 片時もコートから目を離さずに、レイが透の留守中に起きた騒動について話し始めた。
 ジェイクが去った後、メンバー全員で今後のことを話し合った結果、新リーダーの候補に名前が挙げられたのはビーだった。実力から判断しても、透、ジェイクに次いでナンバー3に位置する彼なら反対する者はいなかった。
 ところが、リーダーを引き継ぐにあたり、ビーが最初に下した命令はティントを追い出すことだった。
 名目上、秘書としてビーに仕えるティントは、ジャックストリート・コートの正式なメンバーではない。「強くなりたい」と願う彼の熱意に負けて、透が特別に出入りを許可した見習いのような立場にある。とは言え、実際には誰もがティントを五十一番目のメンバーと認め、快く迎え入れており、彼の教育係であるビーも可愛がっていたはずである。
 無慈悲な命令に異を唱えるメンバーに対し、ビーはリーダーと教育係の二役は負担が大きいと言って、強制的にティントを追い出した。
 このやり方に反発したメンバー数名が五位のキースを筆頭にリーダーの名乗りを上げたが、百戦錬磨のナンバー3が相手ではまるで歯が立たず、全員敗れてしまった。
 それでも、どうにかティントの残留を願う彼等は無い知恵を絞って一計を案じたらしく、今朝になって、ジェイクが挑戦者の一人としてコートに現れた。無論、メンバーは全員、試合を放棄し、ナンバー4のレイからスタートしようとしたところをビーがジェイクとの直接対決を望んだ為に、互いにハンデなしの一騎打ちになった、との事だった。

 ここまで話してから、レイが「もうすぐ終わるよ」と言って、先程とは異なる意味合いの笑みを浮かべた。半分は誇らしく、残りは寂しさと晴れやかさが半々といったところか。
 そこからビーとレイ、二人の胸中を察した透は、彼と同じようにコートの中へと目を向けた。過ぎし日の、懐かしくも切ない思い出と共に。
 三年前、透も仲間を守ろうと、ナンバー2のゲイルに挑んだことがある。その仲間というのが、今コートで悪役として戦うビーと、成り行きを見守るレイだった。
 「最後まで、お前等には世話をかけたな」
 とても短い感謝の言葉だが、透とレイの間ではこれで通じ合う。
 「今に始まった事じゃないでしょ?」
 「ああ、そうだな」
 「ま、お互い様だけど」
 普段、丸太に寄りかかることはあっても、頂上まで上がって来ることのなかったレイが、珍しく特等席に腰を下ろしている。
 恐らく自分達の引き際を自覚しているのだろう。柔らかくも誇らしげに引き結ばれたレイの口元が、時おり不自然に歪む。
 「あの時、トオルがああやってゲイルと戦ってくれたから、俺とビーはここに残れた。口には出さないけど、ビーも俺も、トオルには感謝している」
 「ほとんど成り行きだったけどな」
 「茶化すなって。たぶん最初で最後だから、真面目に聞きなよ。
 俺はトオルと出会えて、本当に良かったと思っている。神様なんて信じちゃいないけど、お前と出会ってから感謝することが多くなった。
 チャンフィーからコートを奪い返した時も、トオルがリーダーになるって覚悟を決めてくれた時も……」
 短く鋭いコメントを得意とするレイが、今日はやけに長く話し込んでいる。透はその理由を知っていながら、何も言わずに聞いていた。
 「今まで俺は誰かに付いていくだけだったし、これからも、そうかもしれない。
 自分の人生にあまりこだわりを持たないことにしているんだ。下手に気持ちを入れると、余計な痛みも感じるからね。
 生きているんだか、死んでいるんだか分からないようにして、ずっと過ごしていた。波風立てずに、流れるようにさ。
 だけど、トオルと、ビーと、俺と。この三人で過ごした毎日は、生きていたって感じがする。こんな俺にも青春、みたいな?
 『俺を怒らせる三人』が俺の人生の中で一番の宝物だ。ありがとう、トオル。大切な思い出を作ってくれて」
 「レイ。それは、俺だって……」
 同じ想いと知っているらしく、レイは透が最後まで言い終わるのを待たずして、丸太から降りていった。

 「リーダー、僕はどうしたら良いの?」
 レイと入れ替わりに、ティントが丸太の上に顔を出した。純粋な彼は今回の騒動の原因が自分にあると思っているようで、今にも泣きそうだ。
 「残念だけど、ティント。俺達は黙って見守るしかない。ビーも、ジェイクも、仲間のために戦っているのは同じだから」
 「ビーも仲間のために戦っているの?」
 「ああ、そうだ。俺達の砦をジェイクに託せるか。五十人の仲間を守る覚悟があるか。ビーは試合を通して、新リーダーに確かめようとしている」
 ティントに説明しながら、透は先ほど話題に上がった三年前を思い返していた。
 仲間を守るために、ゲイルと戦ったあの試合。ジャンはどんな気持ちで丸太の上から眺めていたのか。
 長年、苦楽を共にしてきた親友と、己の夢を託そうとした少年と。両者が本気でぶつかり合う中で、彼は何を考えていたのだろう。
 当時の透にはどっかりと腰を下ろしているように見えたが、心中穏やかなはずがない。
 今になって分かること。その立場に立たされてみなければ、計り知れないこと。物事は見る角度によって、それぞれ違った捉え方になる。
 コートの中を広く見渡せる丸太の上に座してみて、初めて透はジャンの偉大さを知った。そして多くのことを教えられたこの場所を、次のリーダーに明け渡す時期が迫っている。
 「ティント? ジェイクのこと、頼んだぞ? 新米リーダーは、何かと大変だからな」
 「えっ!? ぼ、僕なんて、何も……皆の足を引っ張るだけなのに」
 リーダーから大役を頼まれたティントが、早くも怖気づいたように両肩をすぼめて、かぶりを振った。
 「ティント? 人を強くするのは、腕力や体力じゃない。
 誰かを大切に思う心。それを持った時、それが自分の中に存在すると知った時、人は誰でも強くなれる。
 ここのメンバーが強いのは、そういう守りたいと思う仲間がたくさんいるからだ」
 「僕も仲間?」
 「当たり前だ。でなきゃ、ジェイクがわざわざ戻って来たりはしないだろう?」
 「僕が仲間……僕の仲間……」
 しばらくの間、「仲間」を繰り返し呟いた後で、黒い瞳が大きく見開かれた。
 「分かった。僕、やってみるよ。だって、リーダーみたいに強くなりたくて、ここに入ったんだもの」

 まるでティントの決意が届いたかのようなタイミングで、ジェイクから勝利を決定づけるショットが放たれた。
 「やれやれ、もう俺様の時代は終わったな」
 「もしかして、ビー? わざとティントを追い出したのか? 俺を呼び戻すために?」
 負けたにしては爽やかなビーの笑顔を目の当たりにして、ジェイクも彼の真意を悟ったようだ。エメラルドグリーンの瞳が真相を確かめるべく、丸太の上とコートの中を行き来した。
 「バカ野郎! 俺様はそんなお人好しじゃねえよ。
 強い奴のルールに従うのが、ここの決まりだ。ティントは、お前の好きにしろ!」
 狼狽を露にするビーに向かって、今度は透が丸太の上から声をかけた。
 「素直に『ティントのことを頼む』と、言ったらどうだ?」
 「うるさい! だいたいリーダーがだらしねえから、俺様が……」
 「ああ、分かっている。サンキュー、ビー。本当に感謝している」
 「な、何だよ。やけに素直じゃねえか。気持ち悪りぃ!」
 どんなに取り繕ったとしても、顔を真っ赤にして吠えたてるビーはお人好し以外の何者でもない。その様子から、他のメンバー達も今回の騒動の真の狙いが何処にあるのか気付いたと見えて、不穏な空気に包まれていたストリートコートに安堵の笑みが広がった。
 透は丸太から下りると、ジェイクに改めて問いかけた。
 「ジェイク、リーダーを頼めるか?」
 「ここまでされたら、引き受けるしかないだろう?」
 「万が一、コートを余所の連中に乗っ取られても、奪い返すために命なんか懸けるなよ?」
 「ああ。俺は誰かさんと違って、そこまでバカじゃない」
 「そうか。それを聞いて安心した」
 自分達がしてきたことに悔いはない。だが、跡を継ぐ者に同じような危険を冒して欲しくない。
 きっとジャンも同じ想いで、透たちに「復讐をするな」と言い残したに違いない。これも今だからこそ理解できることではあるが。
 透はスコアボードの表の板を外すと、ジェイクに九代目リーダーの名を刻ませた。多くの仲間に見守られながらの儀式であった。
 「ジェイク、これを」
 儀式の仕上げに透がジャケットを脱いで、次のリーダーに託そうとしたが、ジェイクは受け取ろうとはしなかった。
 「俺がリーダーを拒んだ本当の理由は、まだお前を超えられるレベルじゃないと思ったからだ。
 リーダーの役目は引き継ぐ。だけど、その証となるジャケットは預かっておいてくれないか?」
 「預かる?」
 「ああ。いつか俺がお前を超えたと確信できたら、日本でもどこでも勝負しに行くから。それでお前に勝って、その時は堂々とジャケットをもらう。どうだ?」
 プライドの高いジェイクらしい理由であった。
 透がリーダーを引き継いだ時とは違い、ジェイクには倒すべき相手がいる。もしもジャンが生きていれば、透も同じことをしたかもしれない。
 「分かった、ジェイク。これは俺が責任を持って預かっておく」

 再びジャケットを羽織った透に、ビーから「もう一つの儀式」の提案がなされた。
 「無事、新しいリーダーも決まったことだし、次は元リーダーのグラデュエーションを始めるか?」
 「元リーダーって、俺の?」
 「当たり前だ。他に誰がいる?」
 「だって、随分、急だから……」
 「ここは俺達の都合なんかお構いなしに、次から次へと問題が起きる。だから、ジャンはなかなか卒業できなかった。
 お前もそうならないよう、今のうちにとっとと出て行け」
 長い間、幹部役を務めただけあって、彼の言うことには説得力がある。敵味方問わずヤンキーが頻繁に出入りするジャックストリート・コートでは、平穏無事な一日を探す方が困難で、今が心置きなく卒業できるベストなタイミングかもしれない。
 「お前等はどうするんだ? どうせなら、ビーもレイも一緒に……」
 「タ〜コ! 俺達は、お前が“あるべき場所”へ帰るまで見届ける義務がある。この約束だけは守らねえと、他のは全部破っちまったからな」
 コートの中ではレイが手際よくメンバー達を並ばせている。こちらの意見を聞かずとも、彼等はグラデュエーションを行なうつもりなのだ。
 卒業を意味するグラデュエーションは、旅立つメンバーを送り出すために、ジャンが始めた儀式であった。
 卒業を迎える者が、他のメンバーを相手に一球交代でラリーを続ける。全員のボールを返球し、最後にリーダーが上げたロブをスマッシュで決めた時点で、儀式は終了する。
 だが、その儀式を始めるにあたり、一つ問題が生じた。
 「ティント、お前が先頭だ。ミスんじゃねえぞ!」
 激励のつもりでかけたビーの言葉が、気弱なティントを震え上がらせた。
 グラデュエーションは実にシンプルな内容だが、一球でもミスがあれば、最初からやり直しになるという難点がある。コートに立った透は、すでに涙目のティントを見て不安を覚えた。
 実力順に並んだ結果、彼が最初の球出しを務めることになったようだが、ビーに「ミスるな」と脅されたせいで、緊張のあまり縮こまっている。
 「さっさと始めろ、クソチビ!」
 ビーの合図で無理やり始めたものの、ボールがことごとくネットに引っかかる。
 「何やってんだ、ボケ! 球出しでミスって、どうするんだッ!?」
 「ご、ごめんなさい……。でも、僕……」
 今にも泣きそうなティントを見るに見兼ねて、透は一旦コートの外へ連れ出した。
 「良いか、ティント? これから緊張の解けるおまじないを教えてやる。
 まずは深呼吸をして。次は両方の肩を思いきり上げてから、一気に力を抜くんだ。そう、そう、その調子……」
 「ねえ、リーダー?」
 途中まで素直に従っていたティントが、突如として透のジャケットの裾を掴んだ。
 「どうした、ティント? もう期限切れのリーダーだけど、アフターサービスで聞いてやるぞ?」
 「そんなこと言わないで!」
 緊張を解そうとして飛ばした冗談だった。たぶん、周りの皆も、ティントも分かっているはずだ。
 だが、それを冗談と受け取れないほど切羽詰っているらしく、大きな瞳からは涙が溢れている。
 「どうしていなくなっちゃうの? リーダーの夢は、ここじゃ叶えられないの?」
 ティントの動作が鈍く見えた原因は、緊張だけではなかった。彼もジェイクと同じく、仲間の旅立ちを受け入れられずにいたのだ。大方、透のためを思って抑えていた感情が、いざ送り出す段になって爆発したのだろう。
 「皆、ずっと一緒にいれば良いじゃない? 出て行くなんて言わないで……誰も……。お願いだから、日本なんか……日本なんて……もう会えなくなっちゃう」
 メンバー全員が小さな仲間の声を、それを振り絞る姿を、黙って見ていた。彼の震えながらも漏らした声は、皆の気持ちを代弁したものである。

 透は泣きじゃくるティントを胸に抱きかかえると、コートの周りに整列しているメンバー全員を見渡した。
 「皆、グラデュエーションの前に、少し俺の話を聞いてくれるか?」
 できるだけ多くのメンバーに想いが伝わるように、一人ひとりの顔を見つめながら。かつてここで弁を振るったリーダーの言を、同じ場所に残していく。
 「本来ならメンバー全員が卒業するまで、俺はここに残るべきなのかもしれない。
 正直、迷わなかったと言えば嘘になる。事情の許す限り、ここにいたいとも思う。
 だけど俺は、ここを去ると決めた。何故なら、それが自分の夢でもあったし、前のリーダーとの約束でもあるからだ」
 ビーとレイが見守る中、透は語り続けた。
 「前リーダーのジャンは、人はそれぞれ自分の“あるべき場所”を持っていると教えてくれた。
 自分が最も能力を発揮できて、最もいたいと願う場所。それが“あるべき場所”だ。
 残念ながら、ここは“あるべき場所”じゃない。俺にとっても、皆にとっても……」
 元リーダーの話が胸に響くのか。普段は騒がしいメンバー達が一言も喋ることなく聞き入っている。
 それは、昔も今もジャックストリート・コートに流れ着いた理由が少しも変わらぬ証拠でもあった。
 「俺はここのメンバーだったことを、心から誇りに思っている。ここは“あるべき場所”ではないけれど、街の連中が言うようなゴミ溜めでもない。
 世間の奴等が何と言おうが、ジャックストリート・コートは俺にとって夢を叶えるための砦なんだ。
 だからこそ、俺がここから卒業することを、どうか分かって欲しい。そして出来ることなら、皆も後に続いて欲しい。
 どんな環境に追いやられようと、味方も、武器も、力も、金も、何もないところからでも、諦めなければ人は夢を叶えることが出来る。それを証明することが、この居場所を与えてくれた歴代のリーダー達の恩に報いる唯一の方法だと思うから」
 透が話し終えると、誰からともなく拍手が起こった。
 子供の頃からスピーチに慣れているアメリカ人とは違い、透のそれは単に想いの丈をぶつけただけの拙い弁ではあるが、メンバー全員を納得させるには充分な役割を果たしたようである。
 鳴り止まない拍手の中で、ティントが顔を上げた。
 「あの……トオル? 僕におまじないの続き、教えてくれる?」
 「もちろんだ。肩の力を抜いたら、自分にこう言い聞かせるんだ。
 『大丈夫。俺なら、きっとできる』って」
 この言葉を合図にして、グラデュエーションが再開された。
 透のおまじないの効果が他にも伝染したのか。仲間達は初めての儀式にもかかわらず、全員、自信に満ちた表情で卒業するリーダーの打ち易いところへボールを返していった。
 コートを奪還した当初は悪い噂が先行して人が寄り付かず、メンバー確保に悩まされた時期もあった。たった三人の侘しい再出発から始まり、クリスの乱入に驚かされ、ティントとキースが同時に入ると言い出し、頭を抱えたこともある。
 一人ひとりに思い出があり、その思い出に感謝の気持ちを込めてボールを打ち返す。
 長いラリーの最後に一番苦労させられた、つまりは最も思い出深いジェイクがロブを上げた。
 リーダーを託された実力に違わぬ正確なロブが、上空で弧を描く。それを透がスマッシュで射止めた瞬間、グラデュエーションは終了した。

 「皆、本当にありがとう」
 リーダーとしての最後の仕事をなし終えた充実感を胸に、透がコートを去ろうとした時だ。
 「ちょっと、待った! てめえ、まさかこの期に及んで、綺麗な思い出で終わらせようとか、思っちゃいねえよな?」
 「グラデュエーションのメインが残っているでしょ?」
 その声掛けに振り返ると、ビーとレイが丸太の上で薄気味悪い笑みを浮かべて立っている。
 「お前等、もしかして……?」
 昔とメンバーが変わったこともあり、すっかり油断していたが、確かグラデュエーションには前半と後半があった。前半は厳かな儀式だが、後半はおぞましいものに早変わりする。
 ヤンキー流シャンパン・ファイト。要するに絶対に頭からかけられたくない物を、メンバー全員から浴びせられる拷問のような儀式である。
 一瞬にして、満ち足りた充実感が悪寒に変わる。
 マヨネーズ、牛乳、ペンキに卵。メンバーそれぞれが好みの“最悪なモノ”を手にしている。数秒後には、これらが頭上から降り注がれる手筈となっているのだ。
 そもそもグラデュエーションは、去り行く仲間に「こんなところ、二度と来るものか」と思わせることが目的だ。ジャンが生きていた頃は、消火器まで登場させて追い出した。その歴史をよく知るビーとレイが丸太の上で微笑んでいるという事は――。
 「リーダー、お疲れ様! もう二度と戻って来る気が起きないように、最高のプレゼントを用意したよ」
 そう言ってレイが取り出したのは『ラビッシュ・キャッスル』のキドニー・パイだった。
 「ティントのせいで、ちょっと冷めちまったけどな。冷めても味と匂いは最悪だから、遠慮なく受け取れ!」
 ビーも両手にテイクアウトの皿を抱えている。
 丸太の中から次々と取り出されるパイを見て、透は彼等の一連の行動を理解した。
 前半の儀式で、何故ビーが必要以上にティントを急かしたか。それはせっかく用意したパイが冷めないように。
 試合中、何故レイが珍しく丸太の上に居座り、長々と話をしていたか。それは中に隠したパイを、透に匂いで勘付かれることを恐れたからである。
 全ては熱々のキドニー・パイを透に投げつける為に取った行動だ。
 ジャンが最も愛し、透が最も毛嫌いした『ラビッシュ・キャッスル』のキドニー・パイ。彼等は最後にそれを投げつけて追い出そうとしているのだ。透の卒業を誰よりも楽しみにしていた亡きリーダーの想いも込めて。

 「トオル? 大変なことになっているけど、僕に何か出来ることはない?」
 唯一、ヤンキーの流儀に染まりきれないティントだけが、透の身を案じて走り寄ってきた。その手には前半の儀式で使用したテニスボールが握られている。
 「サンキュー、ティント。これさえ貰えれば充分だ。
 ああ、そうだ。一つ、頼みがある」
 透はボールを受け取ると、ティントに伝言を託した。
 「俺が出て行った後、もしもあいつ等がいつまでもコートに残っていたら、早く帰るよう伝えてくれ。俺からの最後の命令だと言って」
 この儀式の幕引きまでを経験してきた透は、彼等が散々はしゃいだ後に落ち込むであろうことも知っている。
 「『早く帰れ』って、伝えれば良いんだね?」
 「ああ、この時期は夜中になると急に冷えるから。風邪でもひいたら、明日からの練習に響くだろ? 頼んだぜ!」
 すでに丸太の上からは大量のパイが投下され、コンクリートのコートには悪臭が充満している。
 透は赤い革のジャケットの襟を正すと、前半の儀式で使用したテニスボールを胸に抱え、金網フェンスの扉を開けた。
 「さっさと出て行きやがれ、クソ野郎!」
 背後ではビーが狂ったように叫び声を上げている。
 「二度と戻って来るんじゃないよ!」
 レイの怒鳴り声も聞こえた。
 初めてここを訪れた時は独りであった。コートを奪還しようと乗り込んだ時も独りであった。
 大事な岐路に立つ時は、いつも独りになる。誰かのせいに出来ないように。自分の力を信じて、行くべき道を決められるように。
 皆の想いを背中に感じながら、透は一歩を踏み出した。最後に悪臭漂うコートにこの一言を残して。
 「I’m proud of all you guys!(=お前等みんな最高だ)」






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