第52話 飛躍

 国際線の出発時刻が迫っているにもかかわらず、透はまだ自室に留まっていた。
 この場合、留まるというよりも、足止めされたというべきか。要するに、出発したくても出来ない状況にある。
 「なんで、こんな時に限って……」
 狭い部屋の中を這いずり回り、クローゼットの裏からベッドの下に至るまで、幅五センチ以上の隙間をくまなく捜索する傍らで、昨夜からの記憶を辿ってみるが分からない。
 夜寝る前、確かに荷物と共にベッドの脇に置いたはずのラケットが消えている。
 非常にマズいことになった。帰国の翌日には光陵テニス部恒例のバリュエーションが予定されている。
 本当はもう少しゆとりのあるスケジュールを組もうとしたのだが、中学校の卒業資格を取得するにあたり、一日でも多くの出席日数を確保しなければならず、だからと言って、バリュエーションの日程も変更できず。アメリカでの生活の幕引きをしつつ、日本での新生活をスタートさせようとした結果、体を休める間もない強行スケジュールとなったのだ。
 新入部員じゃあるまいし、部長の補充人員として呼ばれた立場にありながら、ラケットも持たずにバリュエーションに参戦するなど、断じて許される行為ではない。
 「マジで、やべえ……」
 探し物が自分の部屋にはないと判断した透は階下のリビングに駆け込むと、周りの留学生を片っ端から捕まえ、聞いて回った。
 「俺のラケット、知らねえか!?」
 その語気の強さと顔色から事の重大さに気付いた学生達が、それぞれ怪しいと思われるところへ散らばった。ある者はダイニング、別の者は玄関と、次第に捜索範囲が広がり、騒ぎも大きくなる中で、一人だけ落ち着き払った声で問いに答える者がいた。
 「お前のラケットなら、俺が捨てておいてやったぞ」
 この家で誰もが耳を疑うような重大ニュースを平然と言ってのける人物は、一人しかいない。
 「親父……今、何て……?」
 「捨てた、と言ったんだ」
 リビングのソファにゆったりと腰を掛け、胸元のはだけた甚平姿で朝刊を広げる龍之介に悪びれる様子は微塵もない。昨日の夜も深酒をしたのか。サイドテーブルには二日酔い対策のトマトジュースが置いてある。
 寝間着代わりの甚平と言い、トマトジュースと言い、腹立たしいまでに普段通りの父の姿は、透の怒りを煽るには充分であった。
 「捨てただと!? なんで、てめえが人の持ち物、勝手に捨ててんだ!?
 あれは俺の恩人の形見で、命の次に大事な宝物なんだ。それを……!」

 一見、無茶苦茶に見える父親の行動には、いつも何かしらの理由があった。
 しかし、今度ばかりはどんな理由があろうと、許す気にはなれない。それどころか、過去に受けた仕打ちの数々が記憶の中から甦り、怒りが二倍にも三倍にも膨んだ。
 岐阜から東京、東京からアメリカと、唐突な転勤を繰り返し、自分の都合で家族を振り回す。そんな不安定この上ない生活に終止符を打とうと自立を決意して三年、ようやく帰国までこぎ着けたというのに、旅立ちの日まで息子の足を引っ張るつもりなのか。
 「てめえ……そんなに俺に殺されてえのかよ?」
 父の読んでいる新聞を振り払い、本気で首を絞めようと掴みかかった次の瞬間。透の目の前に、一本のラケットが突きつけられた。
 濃紺色したラケットは、ジャンの物でも、売り払ったはずの父の物でもない。ただグリップにまかれた透明なシュリンクフィルムから、それがまだ誰の手にも渡っていない新品であることだけは分かった。
 新しいラケットを握ったまま、龍之介は黙って息子を睨みつけている。いや、睨んではいないだろうが、ピクリともしない視線がそう思わせた。
 木刀を振り下ろされた時と同じような、張り詰めた空気が押し寄せてくる。抗うことはもちろん、目を背けることすら出来そうにない。父の研ぎ澄まされた“気”をまともに受けて、全身が硬直したのである。
 ラケットを息子に突きつけた状態で、龍之介が淡々とした口調で語り始めた。
 今までの経験から、父がこの口調になる時は厳しい現実を伝える時で、己の未熟さを思い知らされる瞬間だと分かっていた。だからこそ、体が自然と身構えたのかもしれない。
 「春休みに行われた校内試合で、日高遥希がベスト3に入れなかったそうだ。
 子供のころから元プロの父親に仕込まれ、中学ではトーナメント優勝を独占してきた選手が、いま現在、高等部を率いる連中に全く歯が立たなかった、と言っていた。
 これがどういう事か分かるか?」
 唐突な質問にもかかわらず、透の頭には上位三名の顔がすんなりと浮かんだ。部長の成田、副部長の唐沢、そして元陸上部の藤原が、その三名に違いない。
 「お前がこれから戻る光陵学園は、昔とは比べ物にならない程レベルが上がっている。特に今年の高等部はな。捨て身でかからねえと、足をすくわれる」
 「だからって、何も人のラケットを捨てなくても……。えっ? これって、もしかして俺の?」
 「勘違いするな。ハウザーが勝手に置いていったものだ。三年間の精勤賞と餞別代わりだそうだ」
 いつものふてぶてしい口調に戻った龍之介が、新品のラケットを透の懐に押し付けた。
 「本当に大事なものなど、まだお前は何一つ手にしちゃいない。このアメリカで学んだと勘違いしているものは、全部、忘れてから行くことだ」
 かなりの変化球ではあるが、龍之介は息子の旅立ちに際し、助言をくれたらしい。
 ストリートコートのリーダーの実力など、全く通用しない世界へ飛び込もうとしていること。そこで戦い抜くには、一から出直す覚悟で臨まなければ太刀打ちできないこと。
 二つの忠告を真新しいラケットと共に与えてくれたのだ。
 「分かった……。一応、受け取ってやる。だけど、ジャンのラケットを捨てたことは、許してねえからな!」
 本当は「ありがとう」と言うべきところだろうが、やはりこの父に対しては素直になれない。可愛げのない捨て台詞と共に一ドル札をサイドテーブルの上に叩きつけると、透は裏庭の壁打ちボードへ向かった。

 大事なラケットを捨てられたことに対する怒りとは別に、新しいラケットでボールを打ちたいとの衝動が抑えられなかった。
 誰かのお下がりではない、自分自身のラケットを手にするのは初めてだ。
 グリップを握った瞬間に、それがいかに体に合っているかを実感した。テイクバックから振出しと同時に腕の一部になるような感覚は、これまでの物とは明らかに違う。
 鉄製のジャンのラケットと比べて重量は軽減されたはずなのに、フレームバランスをトップヘビーにしたのか、振り抜いた後も違和感がない。打球の情報をソフトに伝えてくる振動も、鉄製や木製では味わえなかった感触だ。
 父のラケットも、ジャンのラケットも、それなりに良い品だと思っていたが、このラケットを手にした今となっては、勘違いだったと認めざるを得ない。
 見方を変えれば、ラケットの性能に頼らずに確かな技術を身につけた今だからこそ、この品質の良さを理解できるのだ。誰も意図した事ではないだろうが。
 「まったく素直じゃねえな、あのクソ親父……」
 打つ度に体に馴染んでくるラケットは、紛れもない父からの贈り物だと確信した。本人はハウザーのお節介を強調していたが、これは龍之介が発注したものに違いない。
 透のプレースタイル、筋力、グリップサイズに至るまで把握している者でなければ、ここまで持ち手に合わせた品物を選べるわけがない。
 思い返せば、この壁打ちボードにも救われた。テニス部を追い出された後の数ヶ月、ブランクを作らず練習を続けられたのは、これのおかげである。
 悔しさをぶつけ、孤独と向き合ってきた壁打ちボード。原動力は理不尽な現実に対する怒りが主かもしれないが、情熱の炎を絶やさずに乗り切れたのは、独りでも練習に打ち込める環境があったから。
 「まさか……最初からそのつもりで?」
 ずっと息子に無関心だと思っていた。父にとって重要なのは研究だけで、それしか眼中にないと思っていた。だが、本当は龍之介なりに愛情をかけていたのかもしれない。
 壁打ちボードにしろ、ラケットにしろ、恐ろしく偏屈なやり方だが、父はその都度、息子の成長に合わせて必要なものを与えてくれていたとしたら――。

 ボールを打つ手が止まった。
 今からでもリビングへ戻り、父に感謝の気持ちを伝えた方が良いのではないか。しかし、悪態をついて出てきた手前、いきなり態度を軟化させるのも不自然だ。
 感謝の気持ちを伝えるか、否かで、思案する透のもとへ、エリックとディナが二人揃って歩み寄ってきた。壁打ちが一段落するのを待っていたようだ。
 「トオル? これ、皆からのプレゼントなの。受け取って」
 姉貴分のディナが、胸に抱えていた大きな紙袋を差し出した。
 「俺に?」
 「そうだよ。開けてみて」
 エリックに言われるがままに開けてみると、中にはトレーニング用のジャージの上下が入っていた。
 「皆とあれこれ相談したんだけど、普段でも使える物が良いかと思って」
 「サンキュー。でも、貰って良いのかな」
 ストリートコートのリーダーとアルバイトに追われていた透には、家で皆と過ごす時間もなく、たまに在宅したとしても、先程のように親子喧嘩をするだけで、誰かの為に動いた覚えがない。今更ながら、それがとても恥ずかしく思えた。
 「皆、君の夢が叶うと聞いて喜んでいるんだ。ここにステイしている留学生達は、全員、夢を追いかけている人達だから」
 留学生を代表してエリックが気持ちを伝えると、ディナも後に続いた。
 「そうだよ。夢を叶えるのは大変なことだって、皆、知っているもの。
 だから、トオルが自分の夢を実現したこと。それだけで勇気をもらっているんだよ」
 「そんな風に俺のことを?」
 夢を追いかける同志が、ここにもいることを忘れていた。
 正直なところ、十二人もの留学生との共同生活を鬱陶しいと思った時期もある。それなのに、いつだって彼等は好意的に接してくれた。今朝も「ラケットがない」と騒ぐ透のために、一緒になって探してくれた。
 透はもらったばかりのジャージに袖を通すと、遅ればせながら感謝の気持ちを伝えてもらうことにした。皆の好意に応えられるとすれば、これしか方法はない。混じり気のない「ありがとう」を残すこと。
 「エッリク? 俺は今頃になって皆の有難みが分かった馬鹿な奴だけど、ここで過ごした三年間はきっと宝物になると思う。
 皆に心から感謝する。本当にありがとう、と伝えてくれないか?」
 「オーケー、分かったよ」
 「それから……」
 透はもう一つ、素直な気持ちを親友に託そうとした。
 「親父にも……その、ありがとうって……。俺が家を出て行ってから、伝えてくれないか?
 良いか、出て行った後だからな」
 この伝言を聞いたエリックが、困惑気味に眉を寄せた。
 「実はトオル。リュウからも伝言を預かっているんだ。『探し物が見つかるまで、帰って来るな』だって。
 トオルがこの家から出て行く時に伝えてくれ、と言われたんだけど……」
 あまりに似過ぎる行動パターンと、息子の上を行く偏屈ぶりに、透は思わず苦笑した。
 「分かったよ、エリック。俺のは、もう良いや。
 いつか自分で言うことにする。たぶん、ずっと先になると思うけど」

 門柱の方から車のクラクションが聞こえた。空港まで送ると言ってくれたシェリーが到着したのだろう。
 そろそろ出発しなければならない。
 裏庭からリビングを素通りして、荷物を担ぎ、玄関へ。途中、いつもと変わらぬ態度で新聞を広げる父の姿が目に入ったが、あえて知らん顔を通した。
 透が数人の学生達に見送られながら家を出ようとすると、今朝から姿が見えないと思っていた母親がひょっこり現れた。
 「良かった、トオル! まだ出発していなかったのね!」
 「ああ、俺もさっきから探していたんだ」
 せめて母親には直接感謝の気持ちを伝えようと思った。この機会を逃したら、高校を卒業するまでの三年間、会うことはない。
 「あのさ、親父にはちゃんと言えなかったけど、色々……」
 「ねえ、トオル? 日本に着いたら、『佐倉』の黒豆、よろしくね!」
 「は……?」
 「あら、忘れちゃったの? 家の近所に甘味処の『佐倉』があったでしょ? あそこで丹波の黒豆を買って、こっちに送って欲しいのよ」
 「黒豆って……なんで今、黒豆の話なんか……」
 「だって、『佐倉』の黒豆が一番なのよ。二キロで良いから、お願いね」
 この母親に心に染み入る別れを期待した自分が愚かであった。相変わらず、彼女は物事の道理というものを理解していない。息子は何も黒豆を買うために、三年間、必死になってアルバイトを続けてきたわけではない。
 しかしながら、彼女とこれ以上議論しても無駄であることも知っている。透は別れの挨拶の代わりに「黒豆、二キロな」と言って、家を出た。
 玄関の扉を閉め、一度だけ振り向き、家の外観を目に焼き付けた。
 最初にこの家を見た時は、その大きさに萎縮して、中に入れず戸惑った。そして入った途端、留学生の多さに驚き、自分もその中の一人になったと聞かされ、さらに驚愕した。
 寝る為だけに帰ると思っていた自宅が、振り返ってみると多くの思い出が詰まっている。
 ビーがジーンに一目惚れした時も、透がお坊ちゃま学校に潜入捜査をしようとした時も、京極から明魁学園に誘われ迷った時も。留学生が何かと集う騒々しいリビングが、もう懐かしく思えてきた。
 「色々あったけど、楽しかったぜ。ありがとう」
 住み慣れた家に伝え損ねた感謝の言葉を残し、透はシェリーの車に乗り込んだ。


 「シェリー? 空港へ行く前に寄りたい所があるんだけど……」
 時間がないと分かっているが、アメリカを発つ前にどうしても報告しなければならない人がいる。
 「良いわよ。メインストリートの裏手にある教会でしょ?」
 友達以上の付き合いのある者なら、透が旅立つ前に立ち寄る場所の見当がつくようだ。
 「ごめんな。無理言って」
 「大丈夫よ。何とかするわ」
 メインストリートから森の脇道を強引に通り抜け、進入禁止の標識は立っていないが、どう見ても歩道と思われる小道を突っ切り、教会の手前まで来たところでシェリーが車を止めた。
 「十分で戻って来られるかしら?」
 「ああ、充分だ。サンキュー、シェリー!」
 こんな慌しい墓参りでは故人に呆れられてしまうだろうが、どうしても彼に会って伝えたかった。ようやく約束を果たせる日が来たことを。
 墓の前まで来ると、透は息を整え静かに目を閉じた。
 「ジャン、今から日本へ帰る。俺の“あるべき場所”へ」
 テニス部を追い出された透を拾って、夢に向かって進むための力と勇気を与えてくれた。恩人であり、師であり、憧れでもあった。
 道を示し、道理を説き、その核となるものの在り処を教えてくれた『伝説のプレイヤー』。彼の存在なくしては、今日という日はあり得ない。
 「親父に『全部、忘れていけ』って言われたけど、忘れないから。ジャンのことだけは絶対に」
 父親との別れと違って伝えたいことは山ほどあるが、もう時間がない。気持ちを残しつつ車へ戻ろうとすると、出口で思わぬ人物が待ち構えていた。
 「やっぱり、トオルはジャージの方が似合うわね」
 「モニカ……」
 残念なことに、一年半ぶりの再会を透は手放しで喜ぶことが出来なかった。懐かしさよりも、後ろめたさが先に立つ。
 一度は共に生きると約束しておきながら、彼女を裏切ってリーダーになる道を選んでしまった。しかも、あの別れを切っ掛けにして本当に大切な人の存在を自覚したのだ。
 「ビーからアナタが帰国すると聞いて、ここで待っていたの」
 「ごめんな、モニカ。結局、俺は……」
 透の謝罪を遮るようにして、モニカが言葉を継いだ。
 「本当は、最初から分かっていたの。お互いに“あるべき場所”が違うって。きっとアタシ達は、道を踏み外さなければ交わることが出来なかった。そういう運命だったのよ。
 だから、もう謝らないで」
 進むべき道が異なるが故に、踏み外さなければ叶わぬ恋もある。
 迷路の中にいた頃は矛盾ばかりが目に付いて、そこに理屈が存在するとは考えもしなかった。だが今こうして出口に立ってみると、少しは理解できる。
 現実から逃げたくて、すがるものを追い求めた自分と、偽りだと知りつつ受け入れようとした彼女と。あの頃の二人の間に真実はなく、行く先に未来もなかった。
 「トオル、これで良かったのよ。アナタは心のままに想う女性のところへ帰るべきだわ。今日はそれを伝えに来たの」
 モニカの笑顔が見覚えのあるものへと変わった。ストリートコートへ来た頃の鼻っ柱の強い「クソ生意気な女」の顔へ。
 透はここで初めて謝罪以外の言葉を口にした。
 「モニカは、もう“あるべき場所”へ戻れたのか?」
 「もちろんよ。昔よりもっと厳しいコーチになって、毎日、生徒を鍛えているわ」
 「そうか。良かった」
 「次はアナタの番よ、トオル。ジャックストリート・コートの卒業生なんだから、胸を張って行きなさい」
 腰に手を当てて渇を入れる姿も、昔と変わらない。
 彼女は透よりも先に迷路から抜け出して、自身の“あるべき場所”で力を発揮している。だからこそ、自分の愛した少年が心置きなく旅立てるよう、胸にしまっておきたい事実をわざわざ伝えに来てくれたのだ。
 どこまでも強気で、それでいて人の痛みにも敏感なモニカ。そんな彼女に人として惹かれた。これだけは真実だと思った。
 「俺達、道は違ったかもしれないけど、モニカと出会えて良かった」
 「当然よ。アタシほど良い女は、そう滅多にいないもの」
 「ありがとう、モニカ」
 「そろそろ出発した方が良いわ。さようなら、トオル。いつかまた、もっと大きな舞台で会えると良いわね」
 「ああ、いつかまた……。さようなら、モニカ」

 再びシェリーの車に乗り込んだ透は、モニカに言われた「心のままに想う女性」を思い浮かべた。
 日本へ戻ってレギュラーになれたら、今度こそ。三年前に告げられず、ずっと抱えてきた想いを伝えよう。
 決意を新たにする透をミラー越しに眺めながら、シェリーが笑いかけた。
 「こうして見ると、ジャケットよりもジャージの方が似合うわね」
 「そうか? さっきも同じことを言われたんだけど、そんなにあのジャケット、似合ってなかったか?」
 「ジャケットは似合っていたわ。だけど、ジャージの方がトオルらしいと言うか……」
 少しの間、適切な言葉を探すような素振りを見せてから、シェリーが大きく頷いた。
 「脱皮ね」
 「脱皮? それって、毛虫とかの?」
 「脱皮」発言に納得がいかず、口を尖らせる透を認め、彼女がまた笑った。
 「誤解しないでね。きちんと段階を経て成長している、と言いたかったの。
 あのジャケットは、完成形に近付くための一つの過程に過ぎないってこと」
 「過程か……」
 言われてみれば、そうかもしれない。ストリートコートのリーダーは、己が理想とするものでも、目標とするものでもなかったが、それは大事な通過点であり、そこを通ったからこそ今がある。自分の力で“あるべき場所”へ帰れる今が。
 「それじゃあ、アレは抜け殻ってことか?」
 透は尖った口先をさらに尖らせ、龍之介のように睨みを利かせてみたが、あまり迫力はないらしく、シェリーにあっさり受け流された。それも大いに含みのあるスマイルで。
 「アレは、脱皮前のサナギね。体の中に栄養分を溜めて、殻から飛び出す前の。実際に飛び出したのは、“違うもの”だったけど……」
 二人の話に上がった「アレ」とは、沿道に据え付けられたコマーシャル用の巨大スクリーンであった。映画のプロモーションなどで使われているのと同じものだが、そこには透の記憶に新しい光景が映し出されている。
 陽が沈みかけた海岸で、夕日に染まった白い素肌を惜しみなく魅せる美女と。彼女を抱き締めようと腕を広げているが、差し込む光が眩しくて男が左手をかざしている ―― ように見える。
 忘れもしない。アレは、カーメルでモデルに大抜擢されたにもかかわらず、成熟した女性の裸体に興奮して鼻血を出す直前の、「ヤバイ」と思って慌てて鼻を手で塞ごうとした一秒手前の瞬間写真である。それを事もあろうに、公の場で広告として使用しているのだ。
 「あんな写真、よく使う気になったな?」
 悲惨なロケを思い出し、透は頭を抱えた。
 「すごく好評なのよ、このポスター。
 さすがプロのカメラマンよね。あんな状況で、彼だけ機嫌が良いから、おかしいと思っていたの。まさかコンマ何秒の芸術作品をカメラに収めていたなんて」
 「芸術作品ねぇ……」
 いくら芸術作品と持ち上げられても、数秒後に大失態を演じた者には、悪夢としか思えない。
 「ギャラは後でトオルの口座に振り込んでおくって。あの気難しいカメラマンも貴方のことが気に入って、また『赤の似合う彼』と仕事がしたいって、言っていたわ」
 「勘弁してくれよ」
 ロケの現場で散々からかわれ、初心だ、純情だと、笑い者にされた人間が、同じスタッフと一緒に仕事をしたいと思うはずがない。
 ポスターに添えられた「男を虜にする素肌」というキャッチフレーズが、実際に虜にされた身には辛すぎる。

 無情にも、悪夢の巨大ポスターは通りを三ブロックほど固める勢いで、何枚も何枚も並べられていた。
 延々と続くスクリーンを眺め、これも一つの通過点だと思い込もうとした矢先、見覚えのある面々が目に飛び込んできた。
 巨大スクリーンの上を陣取る派手な服装のヤンキー達。ピンク髪に袴姿のビーと、隣にいるのはレイだった。
 他にもジェイク、ティント、クリスと、ジャックストリート・コートのメンバーが揃って車に向かって手を振っている。その後ろのスクリーンには卒業したブレッドや、テニスショップの店長のハウザーと、シェフの姿もあった。
 「芸術作品、気に入ってくれたかしら?」
 「なんで、あんなところに?」
 「空港以外でトオルを見送るのに良い場所はないかって、エリックを通して相談されたのよ」
 「空港以外で?」
 「ええ。この間のテロで空港はどこもセキュリティーが厳しくなっているから、下手に彼等が見送りに行けば、トオルに迷惑をかけると思って遠慮したんじゃないかしら。
 『言葉を交わさずに、見送れる場所が良い』って、リクエストだったわ」
 「どこまでバカなんだ、あいつ等……。あんなとこ登って、危ねえだろ」
 アメリカでの生活を支えてくれた皆の顔が、車窓の中を一瞬で通り過ぎていった。
 三年間、毎日のように顔を突き合わせ、共に怒られ、共に戦い、喧嘩も悪だくみも、笑いも涙も、全て一緒に経験してきた仲間達が遠ざかる。
 “あるべき場所”へ帰るための通過点は、通り過ぎなければ意味はない。だが、自分の心にだけはしっかり留めておこうと誓った。自由の国・アメリカで出会った掛け替えのない仲間達と、そこで過ごした幸せな日々を。形のないものだからこそ。
 「さあ、到着したわよ」
 車から降りようとするシェリーを、透は引き止めた。
 「ここから先は独りで行かせてくれないか?」
 「分かったわ」
 「シェリー、色々ありがとう」
 「グッド・ラック、トオル」
 グッド・ラック ―― それは、旅立つ者への幸運を祈る別れの言葉。
 多くの人々が与えてくれた「グッド・ラック」を胸に、透は夢への第一歩を踏み出した。その背中には濃紺色のラケットが一本、新たな船出に相応しい艶やかな光沢を放っていた。


第二部・アメリカ留学編 完







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