第7話 イカレた男・ビー

 「やっと俺様の出番か!」
 ナンバー4との試合が終わるや否や、ピンク髪のビーがぶるっと体を震わせた。
 恐らく武者震いの類だろう。軽やかな歩調でコートに入る仕草には、四十七人ものプレイヤーをごぼう抜きにした対戦相手への配慮など欠片も見られない。
 極上の獲物に出会った時のような、熱い視線が疲れた体を撫で回す。
 無論、透の快進撃を称えているのではない。獲物の疲れ具合を推し測り、じきに訪れるであろう己が勝利に酔いしれているのである。
 透は滴り落ちる汗を拭う間もなく、次の対戦の準備をしなければならなくなった。
 このビーという男。初めは髪の毛ばかりが目立ち、その他の部分を見過ごしていたのだが、よくよく観察してみると、どこもかしこも妙である。
 まず服装からして普通ではない。
 白い半袖のTシャツの下に合わせているのは、紺色の七分丈の袴であった。剣道で着用する袴のようだが、着方を知らぬのか、最初から丈が足りぬのか、ともかく足のすねの辺りを半分晒している。
 上から順に、ピンクの髪、白いTシャツ、紺色の袴と、足元は煤けた色のテニスシューズ。和洋折衷の許容範囲を大きく超えたファッションセンスは、機能性を重視したとも思えない。
 さらに彼の二の腕には「富士魂」というタトゥーが彫られている。
 富士山でも、大和魂でもなく、富士魂。
 確かに日本語かもしれないが、まるで意味をなさない単語である。
 アメリカ人から見れば、日本人も似たようなことをやらかしているのだろうが、やはり滑稽だ。
 しかし最も奇妙に映るのは、彼の構えであった。
 テニスではレディ・ポジションといって、相手からの返球を待つ間、中腰の要領で体の各所、とくに下半身を柔らかく保ち、ボールに素早く反応するための構えがあるのだが、彼はその際に両足をジタバタと踏み鳴らし、まるで落ち着きがない。
 透もレディ・ポジションからスプリット・ステップに移るまでの間、次の動作にスムーズに入れるように足を小刻みに動かしているが、ジタバタと音を立てる程ではない。
 あくまでレディ・ポジションは車でいうところのアイドリングであって、ギアを入れる前からアクセルをふかしても意味をなさないからだ。
 一時たりとも静止しないビーのステップは、ボールに素早く反応するためというよりは、幼子の地団太に近かった。それに合わせて、頭上のピンク髪もゆさゆさと揺れている。
 これからサーブを打とうとする時に、目の前で黄色いテニスボール以上に目立つ男にジタバタされると、気になって仕方がない。
 今までも充分個性的な連中と対戦してきたが、今回は一段とやり辛そうな相手である。

 「あと二人……」
 透は心の中で残りの人数を言い聞かせると、ベースラインに立ってサーブの構えを取った。
 見るからに癖のありそうな男と対戦するというのに、これといった策も浮かばない。
 光陵テニス部で教わった知識を全て吐き出し、体力も限界に来ている。唯一武器になり得る瞬発力とて、俊足自慢の彼の前では威力を発揮するかも定かでない。
 頭の先から爪先まで、透には戦力と呼べるものが残っていなかった。
 勝ち目のない勝負。それでも今は進めるところまで進むしかない。
 透は一つ一つ丁寧に手順を踏むことだけを考えて、サーブを打ち込んだ。
 ナンバー4を封じ込めたスライス・サーブ。ビーはそれをいとも簡単に返した。
 あの落ち着きのないジタバタは決して効率的とは言えないが、いち早くダッシュを切るには都合の良いステップかもしれない。
 しかも本人の精神的な高揚に合わせて加速するようで、リターンが上手く返ったと同時にピンク髪が激しく揺れた。
 成り行きとは言え、不用意に彼に喧嘩を吹っ掛けた軽率さを後悔しながら、透は相手のリターンをベースライン深くに返球した。
 テニスコートの縦半分の長さは約12メートルある。ベースライン際でバウンドするように打たれれば、さらに後方へ下げられる。
 この場合、普通ならコート後方で留まるか、アプローチショットで段階を経て徐々にネットへ詰めることを考える。
 ところがビーは深い球を拾った直後にダッシュをかけて、次の球が戻ってくる前にネットにつけるのだ。
 さすが俊足を自負するだけのことはある。
 透はネットまでダッシュしてきた相手を再びロブで後ろへ退けると、続けざまにドロップショットで前へと誘き寄せた。
 まずは前後に揺さぶりをかけ、相手の反応の速さを確かめる。
 「俺様に小細工は通用しねえよ!」
 特徴的なステップをフルに活用して、ビーは前後に変化をつけた球も難なく返している。彼の場合、フットワークだけでなく柔軟性も兼ね備えているために、無理な姿勢からでも返球が可能であった。
 「ほらチビ、走れ、走れッ!」
 一瞬の隙を突いて、今度はビーがネット前から攻撃を仕掛けてきた。
 動きの速い彼からのボレーの連打は、球筋が読みにくい。いくら瞬発力のある透でも返球するだけで精一杯だ。
 必然的にネット前の陣取りが、ポイントを取るか、取られるかの鍵となる。
 どちらが先にネット前を占領して攻撃を仕掛けるか。それによって試合の流れが大きく変わる。
 透は攻撃的なボレーを慎重に拾い上げると、もう一度ロブを使って相手を後方へ下がらせ、代わりに自分が前へ出た。
 ネットの主が交代した。だが、ビーに焦った様子は見られない。
 恐らく向こうも気づいているのだろう。
 互いのスピードが互角であるとするならば、いずれチャンスは訪れる。ネット前の争奪戦を続けることにより、余計な画策をせずとも、疲労を抱えた透の方が不利になる。
 ビーはわざと試合を長引かせ、もっとも苦痛を与える方法で獲物を仕留めようという魂胆だ。
 「足腰立たなくなるまで引きずり回してやる。俺様に喧嘩を売ったことを、せいぜい後悔するんだな!」
 歓喜に満ちた声がコートの中にこだました。

 カウント上は「3−3」と両者譲らず進んでいたが、透の体力は限界を迎えていた。
 「クソチビ、まだダウンするんじゃねえぞ。さっき殴り損ねた分もまとめて、たっぷり返してやる!」
 憎々しげに話す側から、ビーが透の足元へボールを落とした。
 左右に振られることに慣らされていた歩幅のど真ん中。そこを不意打ちで狙われた透は、細かいステップの制御が出来ず、ボールに足を取られた格好でコンクリートのコートに顔面から突っ込んだ。
 いつもなら、これぐらいのフェイントは対処できるはずなのに。極度の疲労から体の反応がすっかり鈍くなっている。
 転倒させた相手に悪びれる様子もなく、ビーが誇らしげに笑いかけた。
 「これが俺様流ドロップショットだ。どうだ、すげえだろ?」
 ドロップショット ―― 通常はネット際で急降下する打球の呼び名だが、英語のドロップ(=drop)には、“落下”の他に“倒れる”との意味がある。それも、疲れ果て、傷ついて倒れ込むという不吉な過程が含まれる。
 コンクリートに激突した頬からはヤスリで削られたような痛みが熱を帯びて伝わってくる。ただでさえ己の体力の限界を感じて不甲斐なく思っているところへ、転倒させられた屈辱とインチキなショットに対する怒りも加わり、透の理性は薄れていった。
 「へえ……『俺様流』って、そういうこと」
 常識の基準が完全に狂っている。ここのコートも、試合のルールも、プレーするメンバーも。
 向こうがその気なら、こちらも意識を変えなければならない。正攻法が通じる相手ではない。
 透は血の滲んだ頬をジャケットの袖口で拭ってから起き上がると、かろうじて相手の耳に届く程度の小声で呟いた。
 「それじゃあ、ラケットがまともに振り切れないのも『俺様流』なんだ?」
 「何だと?」
 優位な立場にいるはずのビーが、独り言とも取れる台詞に対して過敏に反応した。顔色が変わっただけでなく、声まで裏返っている。
 その様子からして、彼がまだ喧嘩の火種を引きずっているのは一目瞭然だった。
 「どうして振り切れないか、教えてやろうか? そのラケット、アンタに合わないんだよ。重くない?」
 「いい加減なこと言うな、クソチビ!」
 「ラケットの重さが負担になって、テイクバックの時点で腕がぐらつくから、振りも遅れる。構えから安定しないんじゃ、まともにスイングなんて出来る訳ねえよ」
 「俺様はこのラケットでずっとプレーしてきたんだ。んなわけねえだろうが!」
 「ふ〜ん。そんなラケットでずっとプレーしちゃったんだ。腕にも疲労骨折ってあるのかなぁ。少しずつ痛みが来るらしいけど……。
 ま、俺には関係ないか」
 透は意味ありげに話を切り上げると、ベースラインに戻った。
 強気で反論していたビーのジタバタが止まった。彼の興奮が徐々に冷めつつある。
 それを遠目で確認してから、透はフラット・サーブを打ち込んだ。
 相手のリターンが乱れ始めた。リターンだけではない。ラリーを重ねるごとに動きが鈍くなっていく。
 彼は今、自分のラケットを正当化しようと必死になって考えを巡らせているはずだ。
 今まで使い続けたラケットが合わない訳がない。では、透に言われた直後から重く感じるのは何故なのか。
 ひょっとしたら原因が他にあるのかもしれない。タイミングを狂わされたか、フォームが崩れたか。あるいは――。
 ビーが小首を傾げながら何度も素振りを繰り返し、フォームの確認をし始めた。ラケットの重さを意識し始めた証拠である。
 この機を逃さず、透は追い討ちをかけた。
 「やっぱり、そのラケット重くない? 棄権すれば?」
 「バカ野郎! そんなこと出来るか!」
 「知っていると思うけど、合わないラケットを使っていると故障の原因になるぜ。特に手首は痛めやすい」
 「お前に言われなくたって分かっている」
 「だったら遠慮しないで本気でいくけど、テニスが出来なくなっても後で恨むなよ?」
 「上等だ、クソチビ。やれるもんなら、やってみろ!」
 動揺を悟られまいとして、語気を荒らげるナンバー3。仕掛けはすべて整った。

 ビーのスイングが安定しない原因は、単純にテイクバックの開始が遅いだけであって、ラケットの重量のせいではない。
 構えが遅ければ、自ずと打点にもズレが生じ、ボールのコントロールも難しくなる。あのジタバタするステップも、正しい形でスイングするには効率が悪い。
 そこで彼は欠点をカバーするために、体の各関節を柔らかく使うことで帳尻を合わせている。
 しかし、このやり方ではラケット面が安定しないために、腕に負担を掛ける打ち方になってしまう。
 それを鋭く見抜いた透は、手首に的を絞って疲労させる作戦を立てた。しかもその原因をラケットの重さのせいだと勘違いさせることで、精神的にも苦痛を味あわせようというのである。
 徐々に感じる手首への負担。もしもその原因がラケットにあるならば、この試合中に改善される見込みはなく、故障の不安を抱えながら戦うことになる。
 ここに出入りする連中に、試合だからといって予備のラケットを用意するような思慮深さはない。手持ちのラケットで戦うしか選択肢はないのである。
 そしてまた、さり気なく忍び込ませた“疲労骨折疑惑”も精神的苦痛を与えるのに一役買っている。
 あらゆる角度から不安を植えつけ、敵の動揺を誘い、あとは体力の続く限り一気に突き崩す。
 とても褒められた策ではないが、目には目を、邪には邪を。あんなセコいショットをドロップショットとして乱用するのなら、自分も何でもアリのルールに則ってプレーしようと腹を決めたのだ。

 透は引き続きフラット・サーブを、それも出来るだけ深いコースを狙って打ち込んだ。
 回転をかけたスライス・サーブに比べ、フラット・サーブは直線コースで突っ込んでくるだけボールの重みを感じ易い。さらに手首の角度が安定しないプレイヤーは、低い体勢でボールを拾わされるのが何より負担となる。
 容赦なく続く重いサーブの連打に耐え切れなくなったのか、ビーがロブを上げて対抗した。
 チビと馬鹿にした少年の頭上を越えるはずのロブだが、生憎、それはずば抜けた身体能力を誇る透にはチャンスボールであった。
 高く舞い上がるロブに合わせて軽やかに飛び上がると、透は空中から反対側のコートへボールを叩きつけた。ジャンピング・スマッシュである。
 「本気でいく」の宣言を裏付けるかのような鮮やかなスマッシュは、疲労を隠すための精一杯のパフォーマンスであった。
 ここで疲れを見せては、敵に反撃のチャンスを与えることになる。まだ体力的に余裕があると思わせなければならない。
 サービスゲームをキープした後も、透は攻撃の手を緩めなかった。
 試合開始直後より随分と大人しくなったビーのサーブを、足元深くに沈むリターンで返していく。徹底的に手首を酷使させる作戦だ。
 深いボールから逃れるようにして、ビーがネット前を占領した。ボレーならば足元を狙ったコースを防げると、彼なりに策を講じたつもりだろう。
 だが、急場を凌いだと思われたポジションは、必ずしも安全圏ではなかった。むしろ、それが透の狙いであった。
 「俺さ、テニスショップでバイトしているんだけど……お客さんでいるんだよね」
 ビーと同じくネットについた透は、すかさず相手に聞こえるように悩ましげな独り言を開始した。
 「ちょっと触っただけで、見た目重視でラケットを選ぶ奴」
 プレー中に話しかけるのも、ここでは立派な心理作戦だ。
 「そんでガットを張ってから、やっぱり合わなかったって返品しに来る客が多いんだよ。ちゃんと試し打ちしてから買えば良いのに……」
 集中してボールを追わなければならない場面で、ビーの視線が手元に落ちている。ラケットを購入した時の記憶を手繰り寄せているに違いない。
 試合よりもラケットのほうを気にし出した相手にトドメを刺すのは容易である。
 「あれ? さっきよりスピード落ちてない?」
 この問いかけと同時に、透の放ったボレーがビーの脇を通り抜けた。
 「俺様がボレーで抜かれるなんて……」
 確かにボレーでの処理なら足元深くを狙ったコースは避けられる。だがその反面、ボールの重みを直に受ける分だけ手首に負担がかかる。
 本来、ボレーは手首さえしっかり固定していれば大きなミスもなく返球できるショットだ。ところがビーは手首をかばいながら返球しているために、ラケット面が安定せずに打球がぶれてしまい、それが逆に手首に負担をかけるという悪循環に陥っている。
 しかも透はそうなることを見越して、体の正面にボールが集中するよう狙って打っている。所謂、ボディ狙いである。
 もっとも返し辛いボレーを不安定なフォームで処理していれば、当然、反応も鈍くなる。ネットに出て速攻で試合を決めようとしたビーの作戦が、逆に自らの首を絞める結果となったのだ。

 前半の長いラリーに比べると、後半戦は呆気なく終了した。力を誇示する人間ほど、一度崩れ出すと早い。
 透の心理作戦にまんまと引っかかったビーは、手首への負担を気にするあまり、最終ゲームでのサーブもまともに返せず、リターン・ミスを連発した。
 つくづくテニスはメンタルが左右するスポーツだと実感する。そして光陵テニス部の先輩達が基礎練習を何よりも重要視した訳も。
 もしも相手がきちんと基礎を習得した選手であれば、こんな子供騙しの心理作戦は通用しなかった。それどころか、安定したフォームにビーのスピードが加われば、透は悪あがきする間もなく負けていただろう。
 ゲームカウント「6−3」。とても正攻法とは言えないが、透は「俺様流ドロップショット」を受けてから1ゲームも許すことなく勝利した。
 奇跡に近い勝利にガッツポーズで喜びを味わたいところだが、もう体のどの箇所も主の命令を聞いてくれそうにない。立っているだけで精一杯の状態だ。
 するとそこへ、たった今負けたばかりのビーが走り寄ってきた。
 「お前、名前は?」
 「トオル……だけど?」
 あえて苗字は口にしなかった。この国で、特にテニス関係者に「真嶋」の姓を明かすのは、自らトラブルを招くようなものだと経験済みである。
 「日本人か?」
 「ああ」
 「テニスショップで働いているのか? どこの店だ?」
 矢継ぎ早に浴びせられる質問を不審に思い、透は返事を返さず、一呼吸置いてみた。
 この状況での自己紹介は危険すぎる。万が一、逆恨みされて、試合後にアルバイト先へ殴り込みにでも来られたら。
 何より、危険区域に入ったことがシェフにバレるのはマズい。
 どういうつもりで尋ねてきたかは知らないが、とりあえず相手の意図を確かめてからにすべきである。
 こちらの警戒心を察したらしく、ビーが口調を緩めた。
 「トオル? その……さっきはセコい真似をして悪かった」
 「えっ?」
 「俺様、今まで自己流でやってきたから、ああいう戦い方しか知らなくて。お前みたいに正攻法で戦える奴、マジですげえと思う」
 「はぁ……」
 「本当は途中まで俺様の手首を気遣ってプレーしてくれていたんだろ?
 やっぱり日本人には武士道の精神があるんだな。サムライって感じがするぜ」
 「いや、それは……」
 試合途中で透が「遠慮しないで本気でいく」と言ったのは、ただの脅し文句であって、決して相手の手首を気遣っていた訳ではない。
 だが全ての敗因がラケットのせいだと思い込んでいるビーには、前半のせめぎ合いも透がわざと全力を出さなかったと映っている。
 「今日、お前と戦ってみて、よく分かった。俺様もトオルみたいに正々堂々と技術で勝負できるプレイヤーになりたい。
 だから、お前が働く店へ行っても良いだろ? 俺様に合うラケットを一緒に選んでくれないか?」

 非常にまずいことになった。ヤンキーの中でも飛びぬけて危ないお兄さんが、プライドを捨てて対戦相手を称賛し、買い換える必要もないのに一緒にラケットを選んでくれと頭を下げている。
 こうなるまでは考えもしなかったが、彼は見かけに寄らず、いや、見かけとは正反対の体育会系だったのだ。二の腕に刻んだ「富士魂」のタトゥーも、潔さを美徳とする日本の武士道に憧れてのことだろう。
 尊敬の念を露にするビーに、今さら「ラケットの件は嘘でした」とは口が裂けても言えない。話した瞬間に、流血騒ぎになるのは必至。
 何でもアリのルールを悪用した罰なのか。
 両者とも卑怯な手段を使った事実に変わりはない。変わりはないが、自分の過ちを素直に認め潔く謝罪されてしまうと、犯した罪は同じでも、そ知らぬ顔でいるほうが、俄然、立場は悪くなる。
 この場合、明らかに透が悪人だ。日本人の恥である。
 本来なら激闘の果てに芽生えた友情を喜び、互いに固い握手でも交わす場面だが、身の安全を考えれば、ここはひとまず逃げたほうが良いのではないか。脅しではなく、本当にテニスの出来ない体にされそうだ。
 自分に注がれる尊敬の眼差しを避けて、透がひそかに脱出経路を探ろうとした時だ。丸太の上のリーダーと共に試合を観戦していた黒ジャケットの男が二人の間に割って入った。
 「おい、クソガキ。さっさと本当のことを教えてやれ」
 「どういう意味だ、ゲイル?」
 「まったく、頭の悪い野郎だ。
 良いか? このガキはお前の不安定なフォームに狙いをつけて、わざと手首を酷使するよう仕向けただけだ。
 お前はこいつが仕掛けた罠にまんまとハマって、勝手に自滅した。ラケットの重さは関係ない」
 「そ、そうなのか?」
 いまだ信じられないといった様子のビーに向かって、ゲイルと呼ばれた男が更にきつい一撃を加える。
 「お前のそういう甘さが、ここのレベルを落としている。この万年ナンバー3のアホ野郎が!
 だいたいこんなガキに頭を下げて、貴様には幹部のプライドがないのか?」
 ナンバー3のビーを平気で「アホ」呼ばわりする横柄な態度からして、このゲイルという男が次の対戦相手に違いない。先程まで威勢の良かったビーもすっかり大人しくなっている。
 「悪かった、ゲイル。幹部として甘さがあったことは謝る。
 だけど、もっと強くなりたいのは本当だ。ラケットだけじゃねえ。ちゃんとテニスを知りたい。勉強したい。だから……」
 「どう転んだって、貴様が今より強くなれるはずがない。運も、才能も、行き場もねえイカレ野郎が、これ以上高望みをするんじゃない」
 「アンタが勝手に決めんなよ」
 ナンバー2に反論したのはビーではなく、透であった。初めは内輪揉めに乗じて逃げ出そうかと企んでいたが、あまりにひどい物言いに黙っていられなくなったのだ。
 「誰だって上手くなりたい気持ちがあれば、絶対に強くなれる」
 「ガキに同情されるようじゃ、うちのナンバー3もしまいだな」
 負けた仲間に冷やかな目を向けるゲイルに対し、透の怒りは加速していった。
 「同情なんかじゃねえよ。
 アンタ等の幹部がどういうモンかは知らねえけど、ピンクの……えと……ビーは本気で強くなりたいと思っている。負けた相手に頭を下げてでも、自分が強くなる道を選んだ。
 それのどこが悪い?」
 「無駄な努力だと言っている」
 「無駄じゃない。第一、アンタ、ビーの欠点を知っていたんだろ? だったら、どうして直してやらなかった?」
 「何故、俺が?」
 「何故って……仲間だろ?」
 「ここの連中を仲間だと思ったことは一度もない。こいつ等は単なるフィルターだ」
 「フィルター?」
 透はつうと冷たい汗が背中をつたって流れていくのを感じた。
 この男に道理は通用しないのか。彼の前では人としての議論も空振りするようだ。
 「こいつ等は雑魚を俺まで通さないための浄化フィルターだ。ま、中にはこうやって穴の開いた欠陥品もいるけどな」
 「穴の開いた欠陥品」とはビーのことだろう。
 「アンタ、最低だな」
 「他人がどう思おうと関係ない。だが、俺の前で侮辱することは許さない」

 「トオル、ちょっと来い!」
 ビーが険悪な空気に分け入るようにして話を遮ると、透の腕を掴んでコート脇へと連れていった。
 「お前、ゲイルが次の対戦相手だって知ってんだろ?」
 「ああ、まだ対戦していない奴はリーダーを除いて一人しかいねえから」
 「だったら、あんまり試合前にゲイルを刺激するな。野郎には常識ってモンがねえんだよ。
 これ以上、あいつを怒らせたら潰される」
 「お前が言うのか、その台詞?」
 今の試合で散々人を走り回らせた挙句、「俺様流ドロップショット」を喰らわせた人間が口にしてはいけない台詞である。
 「バ〜カ! 俺様なんか比べ物にならねえよ。あいつはマジでヤバい。ヤバい上に強えから、もっと性質が悪い。
 悪いことは言わねえから、キャンセルしろ。殺されるぞ」
 二言、三言交わしただけだが、ゲイルの異様さは透にも感じられた。
 しかもビーに仕掛けた罠を全て把握しているということは、彼は他のメンバーとは異なり、どこかでテニスの基礎を学んだはずである。
 ここへ来て、最も厄介な大物が残っているらしい。
 「最後の試練ってヤツか……」
 体は疲れているはずなのに、透にはブレッドからキャンセルを勧められた時よりも迷いがなかった。
 「まさか、やる気なのか?」
 「本当は逃げようかと思っていたけど、相手が強えと聞かされたら、やるしかねえじゃん。
 それに、ナンバー2を倒せばリーダーと勝負できるしな」
 「なんで、そこまでして?」
 「ビーと同じ理由。俺も強くなりたい。誰よりも」
 ビーが呆れながらも不敵な笑みを浮かべた。彼とはどこか通じるものがあるようだ。
 透はゲイルの待つコートを睨みつつ、ビーに早口で伝えた。
 「テイクバックを早くして、手首の角度を崩さないよう意識すれば、自然とフォームも安定する」
 「本当か? ラケットは買い直さなくて良いのか?」
 「ああ、今度は本当だ。フォームを改善するには慣れたラケットのほうが良いと思う。ただ……」
 透は最後まで言わずにコートの中へ入ると、そこでようやく事実を明かした。
 「テニスショップでバイトしているのは本当だけど、俺は単なるカフェの皿洗いだ」
 「何だと、このクソガキ! 戻って来たら一発ぶん殴ってやるから、覚悟しやがれ!」
 圏外に逃げ込まれたことがよほど悔しいのか、ビーがジタバタし始めた。だが、その顔は口調に反して穏やかだ。
 「ダウタウンにあるテニスショップ『ロコ』の四階で働いている。エスプレッソとアンチョビのパスタはシェフのイチオシだ」
 透は彼と同じ笑顔をコートの外に返すと、ふたたびネットの向こうを睨みつけた。
 その視線の先には奈緒の写真に煙草の煙を吹きかけるナンバー2の姿があった。






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