第8話 非情なナンバー2
瞬きをする間のほんの束の間、透はあの頃にタイムスリップしたかのような錯覚に捕らわれた。
光陵テニス部の真新しいユニフォームに身を包む自分と、そのとなりで俯く奈緒と。どういう経緯でそうなったかまでは定かでないが、照れ臭そうに写る二人の写真が空を舞い、一回転してから落ちていった。
「こんな紙切れ一枚賭けたところで、俺には何のメリットもない。返してやる代わりに、負けたら二度とここへは顔を出すな。それが俺の条件だ」
あれは確か、関東大会へ向けてのバリュエーションで中西に勝利した後だった。
レギュラーに昇格した記念にとマネージャーの塔子が透のユニフォーム姿を写真に収めようとして、せっかくだから応援に来てくれた奈緒も一緒に写れと誘ったら、テニス部の先輩達が何を勘違いしたのか、二人の仲を冷やかし始め、ちょっとした騒ぎになったのだ。
二人とも照れ臭そうにして写っているのは、周囲の視線を気にしてのことだろう。
「ガキはそろそろネンネの時間だろ?」
足元の写真を拾うにもおぼつかぬ様を見て、ゲイルが冷やかな笑みを浮かべている。
懐かしい思い出は泡沫のごとく儚く消えて、意識が現実に引き戻される。
情けないことに、透は立っているのがやっとであった。侮蔑の言葉に対して言い返す労力さえ惜しまれる。
動きの鈍い体を無理やり動かし、落ちた写真に腕を伸ばすと、ちょうど俯く彼女の髪の辺りに手が触れた。
「奈緒……」
こんな時、彼女が側にいてくれたら――。
指先の触れた個所から思い出が溢れ出す。
透が初心者の頃から、試合になると応援に駆けつけてくれた奈緒。
連敗を重ねる初心者の試合など、応援のし甲斐もないはずなのに、「だいじょうぶ。トオルなら出来るよ」と言って励ましてくれた。
中西と対戦した時も、その場にいたほとんどが、番狂わせが起きるとは予期せぬ中で、彼女だけは透の勝利を信じてくれていた。
無条件で自分のことを信じてくれる人がいた。信じられる仲間もいた。
透は温かな思い出の詰まった写真を手に取ると、裏向きにして財布の中に押し込んだ。あまり長く見つめていては自らの泣き言に飲まれそうになる。
反対側のコートでは、早くもゲイルがリラックスした様子で構えていた。
五十人のヤンキーの中でナンバー2に君臨する男を撃破するのはとてつもなく高いハードルだが、この難所さえ乗り切ればリーダーと勝負が出来る。
透は弱気な心を振り切るようにして、最初のサーブを打ち込んだ。
ところが、直後に鋭いスピンのかかったボールが目の前を通過した。しかも透の立つポジションの逆を突かれたということは、狙いを定めた返球に違いない。
渾身のサーブを正確なコースコントロールとともに突き返されたのだ。
自身のサービスゲームにもかかわらず、ゲイルの強烈なリターンに圧されて、思うような展開に繋がらない。それどころか、際どいコースを狙われ、透は次第に追い込まれていった。
ある程度、覚悟はしていたものの、ナンバー2の実力は他のメンバーの比ではない。
何か打つ手はないものか。
透は相手のボールに翻弄されながらも、ネット前に出られるチャンスをじっと待った。そこなら左右に走らされる振り幅も狭くなる上に、攻撃を仕掛けるチャンスも増える。
粘り強くラリーを続けていると、向こうから絶好球と思しきショットが返された。ネット際に落ちるドロップショットである。
ロブで揺さぶるための罠かもしれないが、今はこのチャンスに賭けるしかない。
試合の流れを変えるべく、透はドロップショットを返球しながらネット前に進み出た。その途中、妙な光景を捉えた。
ゲイルが笑っている。
一瞬のことで気のせいかと思った。ところが、ネット前に足を踏み入れた次の瞬間、透の体はコート後方へ吹っ飛ばされていた。
初めは何が起きたか、分からなかった。
しかし左頬から伝わる火傷に似た痛みから、すぐに相手の狙いを理解した。
他の球技と違って、テニスで使用するボールは表面がフェルト状の細かい繊維で覆われているために、素肌に当たれば打撲の衝撃と同時に摩擦の痛みも焼きつけられる。スピン系の回転が施されたボールは特に。
「なるほど、そういうことか」
試合前、ビーがキャンセルを強く勧めた理由はこれだった。ゲイルはドロップショットで透を前へ誘き出しておいて、顔面を狙ってスピンボールを打ち込んだのだ。
ラフプレーは半端な下っ端がするものと油断した。
ここは常識が存在しない危険区域で、こういう卑怯なプレーも攻撃手段の一つとして公然とまかり通る場所だった。
顔面にボールをまともに受けた衝撃で、口の中が切れたのか。薄っすらと血の味がする。
透は赤くなった唾を吐き捨てると、ラケットを支えに立ち上がった。頬の傷が焼けるように痛んだが、他にケガはないようだ。
満身創痍となった姿を、ゲイルの冷たい視線が追いかける。
自身の放ったスピンボールの威力は生々しい傷跡から確認できる。それにもかかわらず、まだ立ち上がる意図を計りかねているようだ。
「ガキはネンネの時間だと教えてやっただろう? それとも、まだ足りないか?」
「アンタ、やっぱり最低だ」
試合前と同じ台詞を、透はもう一度、ゲイルに投げつけた。
「俺はどんなに追い込まれても、ラフプレーだけは絶対にしない」
「追い込まれただと? 自惚れるな。
こいつは掃除だ。虫けらを駆除するのに、俺の手を汚すまでもないからな」
「仲間も大事に出来ねえアンタに、虫けら以上の価値があるのかよ?」
てっきり殴り掛かってくるかと思ったが、ゲイルは黙ってサーブの構えに入った。
透の怒りを込めた主張はまたも空振りに終わった。そう結論づけたのは、あまりにも浅慮であった。
ゲイルから放たれたサーブがバウンドした直後に、透の顔面に向かって跳ね上がる。
恐らくスピン・サーブの一種だろう。彼はそれを使って今度こそ「虫けら」を排除しようとしたのである。
透もとっさにボールの軌道を読んで避けたが、すかさず先程と同じドロップショットがネット前に落とされる。
これを拾えば次も顔面を狙われる。だが、ここで拾わなければ失点する。
ゲイルのリターンに苦戦してサービスゲームを落とした後で、これ以上、点差を開かせるわけにはいかない。
頬の痛みはいまだ熱を伴い残っているが、透は構わずネット前までダッシュした。
一つだけ、危険を回避しながら返球する方法がある。トップスピンロブである。
空中で弧を描くようにして落ちるロブなら、相手が後ろに下がる時間を利用して、充分な間合いを取ることも出来るはず。
透はドロップショットに追いつくと、力一杯ボールを擦り上げた。
ところが、こちらの考えを読んでいたのか、すでにゲイルはバックコートで構えていた。
迷うことなく肩の後ろに引かれるラケット。それはスマッシュに入る直前の型通りのフォームであった。
先程のスピンボール以上に強烈な打球が、今度は顔面ではなく、無防備な腹部に命中した。
立っているだけで精一杯の状態で、不意を突かれたスマッシュをかわせるはずがない。
通常のショットでさえ吹っ飛ばされたのだ。それをスマッシュで直接腹に叩き込まれたら、どうなるか。
その答えを出す前に、ひどい不快感に襲われた。生温かい液体が胃の中からせり上がる。
赤く染まるコンクリートのコート。そこへ仰向けに倒された透は、この時初めてコートを華やかに彩るペイントがカラースプレーだけではないことに気がついた。
赤や黄色のスプレーに混じって、茶褐色のシミがいくつもある。
西海岸の気候は、この時期、気持ちの良い晴天が続く。そのため、雨に洗い流されることなくコートに染み込み沈着したのだろう。前のプレイヤーが残した血痕の上に、自分の鮮血が重なっていく。
「生きていたかったら、絶対に近づくな」
今頃になって、透に忠告していたシェフの顔がキッチンで包丁を握る時より真剣であったことを思い出した。
「なんでかなぁ……」
薄れゆく意識の中で、さして急務とは思えぬ疑問が浮かび上がる。
なぜ自分はこんなところにいるのだろう。
身も心もボロボロになりながら、何をしようというのだ。練習相手を探すだけなら、もっと楽なやり方があるではないか。
危険を冒してまで、狂った連中と試合を続けることに意味はない。頭では分かっているのに、性懲りもなく体の具合を確かめている自分がいる。
コートに投げ出された手足は動くのか。ラケットを握る手に損傷はないか。足はまだ走れるか。
腹部の不快感は残っているものの、他は問題ない。まだ走れるし、ラケットも振れる。
ほんの少し視界がぼやける気がしたが、靄がかかって見えるのが、どこの損傷によるものなのか分からない。
頭を打ったせいなのか。ボールを顔面に喰らった際に眼球にも傷が入ったか。
ただ不思議なことに、リストバンドの文字だけはハッキリと見える。「トオルなら、できるよ」と綴られた紫の丸い文字だけは。
背後で誰かが「もう止めておけ!」と怒鳴っているようだが、その声もひどく遠くに聞こえる。
自分で居場所を決められるぐらいに強くなる。透はその想いを支えに立ち上がった。
「サーブ、返さなきゃ……」
リターンのポジションには着けたと思うが、定かでない。足元がふわふわして、立っているかも分からない。
「必ず、ここへ帰って来い」
なぜか唐沢の声がしたかと思えば、今度は雲一つない茜色の空が見えた。恐らくゲイルのスピン・サーブをまとも喰らったのだろうが、痛みがない。
次第に辺りが暗くなり、何も見えなくなった。
「まったく、ガキのくせに手こずらせやがって」
自身が放ったボールを受けて倒れた人間を前にして、ゲイルが見せたのは安堵の溜め息だった。
ここ、ジャックストリート・コートのメンバーも、彼のスピンボールを受けて気を失った者が何人もいる。
ヤンキー同士の乱闘に慣れている彼等でさえ、最初の一発目で意識が吹っ飛ぶ。それを三発続けて浴びたのだから、コートに転がる少年がどんな状態であるかは、誰もが知るところであった。
だがしかし、誰一人彼を助けに行こうとする者はいなかった。非情なナンバー2の神経を逆撫でするような行ないをすれば、今度は自分に怒りの矛先が向けられる。
仲間内の暗黙のルールを破ってコートの中に駆け込んだのは、ただ一人。先の試合で透に敗れたビーだった。
「ガキを相手に、ここまでやることねえだろうが!?」
「試合終了だ。さっさとそのガキをつまみ出せ」
「このまま放り出したら死んじまう。せめて意識が……」
「俺がつまみ出せと言ったんだ。お前が逆らう理由はない」
このストリートコートでは、ランクが上の人間の命令に下の者は従わなければならない。命令に従えない者は出て行くしかない。それが無法地帯の荒くれどもに課せられた唯一の掟である。
仕方なく、ビーは透を抱えて出口に向かった。出来れば運び出している最中に意識が戻ってくれればと願うが、ずしりと重い体にその気配はない。
諦めて放り出そうとすると、背後から野太い声がした。
「おい、ビー? その小僧をこっちに連れて来い。
お前ひとりじゃ大変だろ。ほれ、レイも手伝ってやれ」
ナンバー2の指示を覆せる人物は一人しかいない。リーダーのジャンである。
ジャンは訝しげな顔を向けるゲイルに対し、
「ちょいと確かめてえことがあるんでな」と言いながら、丸太の下まで運ばれてきた透を見やると、ラケットを外すよう顎と手振りでビーに命じた。
気を失っているというのに、透はラケットを握り締めたままだった。
「こいつ……」
言われた通りにラケットを手から離そうとしたビーが、透の手首を見て驚きの声を上げた。ジャケットの袖口からはトレーニング用のパワーリストが覗いている。
「それだけじゃねえだろ?」
ジャンが含み笑いとともに鋭い視線を透の足首へと向けた。
レイがジーンズの裾をめくると、手首と同様のパワーアンクルが現れた。
それを認めたゲイルの顔色が変わった。
「このガキ、舐めた真似しやがって!」
今にも絞殺しそうな勢いで透に掴みかかるゲイルであったが、ジャンはそれを制するでもなく、妙に間延びした口調で問いかけた。
「なあ、ゲイル? ここまでコケにされちゃあ、ナンバー2を張るお前の立つ瀬もねえよなぁ」
「何が言いたい?」
「一ヶ月後に、もう一度、再戦ってことで手を打たねえか?」
「それなら明日でも良いだろ? いや、たった今、こいつを叩き起こして決着をつけてやる!」
格下だと思っていた少年が自らに不利な条件を課していたと分かり、大いにプライドを傷つけられたのだろう。滅多に感情を表に出さないゲイルが、珍しく苛立ちを露にした。
そんなナンバー2を気に留めることなく、ジャンは丸太の上でどっしりと構えたまま話を続けた。
「ハンデさ、ゲイル。他の連中はともかく、お前に関しては歳の差だけのキャリアがある。それぐらいのハンデはやらなきゃなぁ」
口調は穏やかだが、ジャンがこうして腰を据えて話をする時は、どんな理屈をつけたとしても逆らえない。長い付き合いの中で、ゲイルはそれを知っている。
目の前で無防備に転がる少年に、そこまでの価値があるのか。殺さずに生かしておく価値が。
――まあ、良い。こんなガキ、息の根を止める方法はいくらもある。
ゲイルは久しぶりに芽生えた本物の殺意をジャンに気取られないよう、煙草をくわえる振りをして歪んだ口元をそっと覆い隠した。
「試合は!? ナンバー2との試合はどうなった?」
ナンバー2と戦っていたはずの自分がコートの外にいる。目覚めたばかりの透には、この状況が理解できなかった。
「試合の最中に気を失った。小僧、お前の負けだ」
丸太の上から敗北を聞かされた途端、今まで透を支えていた緊張の糸が切れて、全身の力が抜けていった。
その場にへたり込む透に、ジャンが口調を変えずに問いかける。
「どうしてウエイトを外さなかった? それを外していたら、ちったぁマシな試合が出来ただろ?」
「これをつけてナンバー2に勝てなきゃ、最強の男を倒すのは無理だと思った」
これを聞いて、ゲイルが声を荒らげた。
「貴様、俺をコケにしやがって!」
「アンタをコケにしたつもりはない。けど、最初に言ったはずだ。俺は最強の男と勝負をしに来たんだ」
「他は眼中にない、ということか?」
「アンタが最強なら、話は別だけど。
どっちにしても、俺はもうここには居られない。皆の練習の邪魔をして悪かった」
出口に向かいかけた透をゲイルが呼び止めた。
「待てよ。このまま帰れると思っているのか?」
「負けた奴は出て行くのが決まりだろ? アンタも、そうして欲しかったんじゃねえのかよ?」
「一ヶ月後だ。もう一度、貴様と勝負してやる。次はそのふざけたウエイトを外して来い!」
足早に出て行くナンバー2を見送りながら、ジャンがまた意味深な笑みを浮かべた。
「あいつはプライドが高けえから。ま、小僧のプライドとは少しばかり毛色が違うがな」
「おっさん、どういうことだ?」
意識を失っていた透には、なぜゲイルが心変わりしたのか見当もつかなかった。
慌てて丸太の上に説明を求めてみたが、返ってきたのは予想外の、それも透の運命を大きく変える一言だった。
「小僧。今日からお前はここのナンバー3だ」
「はあ?」
その言葉に驚いたのは、透だけではなかった。他のメンバーからも驚きの声が上がる。
「ジャン、本気かよ? こいつ、どう見ても十六じゃねえぞ」
「ヤベえだろ、それ?」
「ただでさえ、俺等、条例違反してんだぜ? こんなガキのためにパクられたら、どうすんだ?」
皆の心配をよそに、ジャンは澄ました顔で話を進めた。
「なあに、ガキの一人ぐらい俺が面倒見てやるから心配するな。
だが一応、歳を聞いておくか。最近、何かとうるせえからな。
小僧、いくつだ?」
「実は、その……」
「日本人は幼く見えるから、さしずめ十四ってとこだろう?」
ジャンがそう思ってくれるなら、このまま十四歳で押し切ろうかとも考えた。しかし、どういう訳か、彼に嘘を吐くのは実年齢を明かすより気が引けた。
「十二だ」
しんと、笑いのつぼを外したような寒々とした沈黙がストリートコート全体に広がった。
周りを見渡すと、メンバー全員が口を開けたまま固まっている。年下なのは分かっていたが、自分達の負けた相手がまさか十二歳だとは思わなかった、と微動だにしないギャラリーが伝えている。
「来月には十三になる」
まったく意味のなさないフォローを入れた直後に、豪快な笑い声が丸太の上から響いてきた。
「こいつは傑作だ!」
まるで低俗なコント見てバカ笑いするオヤジのように、大口を開けて笑い転げるリーダーと、同じ大口でも違う意味で開けたままのメンバーとの間で、透はただオロオロとするばかりである。
「正直は一生の宝」と、小学校の道徳の授業で教わった。しかし、その正直さが知らないうちに人を怒らせる場合もあるという現実は、先生も教科書も触れてはいなかった。
「貴様……!」
帰ったと思ったゲイルが、フェンス越しに透を睨みつけている。
「良いか、クソガキ? ここに置いてやるのは一ヶ月だけだ。一ヶ月後には必ず叩き出してやるから、覚悟しろ!」
透の実年齢を知らされ、ますます彼は気分を害したらしく、胸ポケットから取り出した煙草をものすごい勢いで吸い始めると、辺りに煙と暴言を撒き散らしながら去っていった。
静まり返ったフェンスの中で、まだ笑いの余韻を引きずるリーダーが興味深げに透を見下ろした。
「小僧、どうせ行くところがねえんだろ?」
「どうして、それを?」
「試合前に『ここが最後の砦だ』と、ほざいていた」
言われてみれば、最強の男と試合がしたい一心で口走った気がする。ジャンはそれを覚えていたのである。
透は冷静になって、この突拍子もない提案を受けるか否かを考えた。
ここのメンバーになれば、人間を相手に練習が出来る。こんな危ないところに長居をするつもりはないが、一ヶ月だけなら悪くない。
しかも、来月ナンバー2と勝負をして勝てば、今度こそ最強の男と戦うことが出来るのだ。
リーダーの提案に異論はないが、一つだけ確認しておかなければならないことがある。
「俺、日本人なんだけど、それでも仲間に入れてもらえるのか? 後から『金払え』とか、言わねえか?」
古巣にもならなかったテニス部に未練はないが、アップルガースから受けた仕打ちは忘れようにも忘れられない。トラウマというヤツだ。
アメリカ人の中で日本人が金も払わずにテニスが出来るのか。そんな上手い話があるのか。つい反射的に用心してしまう。
だが、その不安をジャンが一掃した。
「周りを良く見てみろ。ラケットとボール以外、何が要る?」
コートの周りを囲むメンバーは、それぞれ似たような事情を抱えているのだろう。滑稽とも取れる透の疑問を、皆が理解しているようだった。
さまざまな髪の色、肌の色、瞳の色。多様な人種に加え、年齢も、服装も、たぶん職業も生い立ちも違うはず。
唯一共通しているのは、ここにいる全員がラケットを手にしている。それだけだ。
「本当にここでプレーして良いんだな?」
口ではしつこく念を押しているが、不安はとうに消えていた。たとえ一ヶ月でも、練習の場があるのは有難い。
思わぬ幸運に笑みを浮かべる透に向かって、ジャンも一つ頷いて見せてから、崩れた相好を改めストリートコートのルールを告げた。
「今日からお前は俺達の仲間だ。二十四時間、好きな時に来て、好きなように打てば良い。
但し、学校や仕事は絶対にサボるな。ここに通うなら、やるべきことを終わらせてから来い」
「本当にタダだよな? 後から請求されても、1ドルだって払わねえぞ?」
「もちろんだ。だがメンバーになった限りは、俺達のルールに従ってもらう。
まず、自分よりランクが上の奴には絶対服従だ。良いか?」
「分かった。他には?」
「後はさっき教えた通り、ここでは金は賭けない。あとの細かい話はビーにでも聞いておけ」
危険区域のルールにしては意外に真面目で驚いたが、それも皆がリーダーに付いていく理由の一つかもしれない。
「よっしゃ、トオル! これからレイと三人で歓迎会だ」
大はしゃぎするビーの傍らで、レイがうんざりした顔を見せる。
「歓迎会って、どうせ一ヶ月しかいないんでしょ? 出て行く時に送別会とまとめてやれば?」
「バカ野郎! 歓迎会はやるが、送別会はやらない。仲間に送別会なんか要らねえよ」
自然に。ごく自然に、ビーが透の肩に腕を回した。
「やれやれ。ビーがそう言うなら仕方ないね」
反対側からレイの腕も伸びてきた。
「サンキュー、ビーと……?」
「俺はレイモンド。レイって、呼んでくれ」
「サンキュー、レイ」
新しい仲間に支えられながら、透は立ち上がった。痛みと疲労のせいでまだ足元はふらつくけれど、踏み出した一歩は自分でも驚くほど軽やかなものだった。