第9話 ジャックストリート・コートの掟
つくづく思い通りにならない人生だ、とゲイルは思った。
物心がついた時には繁華街の路地裏で娼婦の手引きをさせられ、そこで生きていくためには周りの大人よりも下種になれと教わった。
腹一杯の食事。シーツのある寝床。何処かにいるはずの家族。生まれてこの方、欲しい時に欲しいものを手にした記憶はない。
テニスコートが、唯一、思い通りにできる場所だった。
そこなら己の力だけで伸し上がれると思ったし、現に、中学、高校はコートで積み上げた実績で通えたようなものだった。
卒業後は決してクリーンとは言えぬ生い立ちから定職に就けず、コートを離れた時期もあったが、ジャックストリート・コートとの出会いが新たな拠り所となった。
どんなに蔑まれようと、あそこでだけは望みが叶う。自分の意思を持ったとしても意味をなさない人生を、ほんの一瞬でも肯定できる。
下種は下種なりに上手くやってきたはずなのに――。
「あのガキ、舐めた真似しやがって……」
ゲイルはジャケットから煙草を取り出すと、急き立てられるように火をつけた。
ストリートコートを出る時に封を開けたパッケージの中身が、残りわずかとなっている。勢いに任せて吸い続けたせいか、喉がいがらっぽい。
不快なことだらけであった。
安定剤代わりの煙草も。気を紛らわせてくれるはずのダウンタウンの喧騒も。今日に限って、皆、期待を裏切る。
「くそっ!」
いくら振り払っても、あの時の光景が頭から離れない。
突然コートに転がり込んできて、たった一度の挑戦でナンバー3にまで登り詰めた小賢しい少年のウエイトが。それを言い当てた時のジャンのやけに嬉しそうな笑顔も。
ハッキリとは言わなかったが、ジャンはあの少年に長い間追い求めていたものを感じたに違いない。あんな笑顔はここ数年見たことがない。
ジャンにはあって、自分にはないものを、あの少年は持っている。
「クソ忌々しいガキめ! 必ず追い出してやる」
空になった煙草のパッケージを握り潰すと、ゲイルは夜の闇へと消えていった。
「この店、本当に客にメシを食わす気あるのかよ?」
歓迎会の名目で透が案内されたのは、『ラビッシュ・キャッスル』という奇妙な名前の居酒屋だった。
ラビッシュ(=RUBBISH)とはゴミ、がらくたの意味で、それにキャッスルが続くのだから、直訳すると「ゴミの城」。飲食店が掲げるにしては、あまりにリスキーな名前である。
「『ラビッシュ・キャッスル』なんて……」
困惑気味に店名を呟く透の口元を、ビーが慌てて両手でふさぐ。
「バカ! オーナーの前で“キャッスル”なんて言うんじゃねえ!」
イギリスびいきのオーナーは、店の名前を「キャッスル」ではなく「カースル」と発音しなければ、たちまち機嫌が悪くなるという。
「良いか、カースルだ。ラビッシュも、あまりRの音を強調するな」
ストリートコートではやりたい放題のビーが、イギリス流の発音を几帳面に指導した。
同じ英語圏でもイギリスとアメリカでは単語の発音やイントネーションが微妙に違う。アメリカ人はあまり気にしないようだが、イギリス人、もしくはイギリスびいきの中には微妙な違いを不快に思う者も多く、特にこの店のオーナーは生まれも育ちもアメリカ西海岸でありながら、何故かイギリス至上主義との話であった。
レイが「一階がパブで……」と言いかけ、透の疑問を含んだ表情を素早く見て取って、説明を加えた。
「パブはイギリス風の居酒屋のことさ。酒の種類もイギリスの銘柄が中心だって、ジャンが話していた」
日本人の持つ怪しいイメージの店とは違い、ここでの「パブ」は居酒屋を指すようだ。
「二階へ行けば食事ができる。英国風家庭料理を売りにしていて、かなり独創的なんだって」
「レイは食ったことねえのか?」
「見た目がちょっとね」
「それだけか?」
「あと、匂いも」
「レイ、はっきりマズいって言ったらどうだ?」
「ジャンの行きつけの店だからね。俺の口からは言えないよ」
イギリスびいきのアメリカ人がマズい英国風料理を出す「ゴミの城」。偏屈な要素満載のこの店がリーダーの行きつけと聞いて、透は妙に得心した。
何しろジャンは透の実年齢を知って笑い転げた挙句、ナンバー3になれと言ってきた変人だ。
「類は友を呼ぶ」といおうか。偏屈なオーナーと変わり者のジャンはさぞかし気が合うことだろう。
ビーとレイの話しぶりからして、とてもまともな食事が出来るとは思えなかったが、二人のおごりだと言うので、透は仕方なく「ゴミの城」の二階に上がった。
昼間から通しで試合を続けたせいで、さすがに腹の空き具合も尋常ではない。
透は出された料理を片っ端から平らげた。
人間、死にそうになるまで腹が減れば何でも食べられる。まさに空腹は最高のソースである。
それを強く実感したのは、店の名物『キドニーパイ』が出された時である。
『キドニーパイ』とは牛の腎臓を煮込んでパイで包んだイギリスの伝統的な家庭料理で、日本でいうところの肉じゃがと同じ位置づけにあるようだが、これが「名物に旨いものなし」の典型。いや、文句なく玉座につける代物だった。
まずテーブルに運ばれた時点で牛肉の腐った部位を無理やりソースで誤魔化したような恐るべき異臭がして、一切れ口に入れると異臭通りの味がした。くさやのような嬉しい裏切りは少しもない。異臭がそのまま舌の上を通過するのである。
透はこの日、料理が凶器になることを初めて知った。
しかしながら、悲鳴を上げる五感とは対照的に、空っぽの胃袋は食い物を欲していた。舌も鼻も「もう勘弁してくれ」と叫んでいるのに、フォークを握る手だけはせっせと動く。
その結果、透は咀嚼の間だけ息を止め、嗅覚と味覚の機能を極限まで低下させながら異臭を腹の中に収めるという妙技を体得したのであった。
食事をしながら、ビーとレイがジャックストリート・コートに出入りするうえで覚えておかなければならないルールについて、新入りの透にも分かるように話してくれた。
ストリートコートの中では彼等がもっとも若いとあって、最初は冗談を交えながら面白おかしく説明していたのだが、話がメンバーの身の上に及ぶと、結局、誰を取り上げても「shit(=糞)」の一言で片付けられると気づき、今度はリーダーの経歴に話題を変えた。
ジャンが元プロの選手だという噂は本当だった。
彼は学生時代に類まれなる才能を認められ、地元のプロチームにスカウトされた後は国内外の遠征で知名度を上げていったが、世界的プレイヤーへの足掛かりとなるはずのプロデビュー戦の直後、突然引退を表明したとのことだった。
従ってプロとしての「ジャン・ブレイザー」を知る人間は、地元の一部のファンを除き、ほとんどいないという。
「どうして引退したんだ?」
透の素朴な疑問に、レイが肩をすくめた。
「チーム内のトラブルさ。経営陣の判断で対戦相手を勝たせるよう指示を受けたのに、わざと無視してトーナメントで優勝したんだってさ。ジャンらしいよね」
「それって、八百長だよな? プロの世界でもあるのか?」
自身の苦い経験もあってか、つい前のめりになって質問を重ねる透に対して、レイはよくあることと言いたげに落ち着いた口調で話している。
「プロの世界の方が多いんじゃないの?
大手企業のスポンサーが付いているならともかく、この辺りの弱小クラブが抱えるプロチームじゃ、そうでもしないと維持できないんだよ。皆、生活がかかっているからね」
「『非運の覇者』と呼ばれているのも、そのせいか?」
「いや、クラブ側が事実を隠ぺいするために、ジャンの引退は肘の故障が原因だと発表したんだ。
デビュー戦で優勝した直後だったから、地元のファンが彼の才能を惜しんで名付けたって話だよ」
噂の真相を知るにつれ、透はジャンがストリートコートで金を賭けたがらない理由が分かったような気がした。
世界に打って出るほどの才能がありながら、チームのために、つまりは金のために八百長を強いられ、それでも権力に屈せず戦い続けた結果、認められるどころか、引退を余儀なくされたのだ。
自身の少ない経験の範囲内でしか推し測ることが出来ないが、ほとんど在籍しなかったテニス部でも退部の時には悔しい思いをしたのだから、プロになるまでの道のりを考えれば、その無念は計り知れない。
『非運の覇者』の伝説は、本来なら「悲運」として語り継がれるべきだった。
暗くなりかけた食卓を、レイが新たな話題で明るくしてくれた。
「ここで俺達、よくゲイルの悪口を言って盛り上がるんだよな、ビー?」
それを受けて、ビーがゲイルの口真似をした。
「『ナンバー3のお前が逆らう理由はない』って、あの陰険野郎! マジ、ムカつくぜ!」
ピンク髪のビーが影のあるゲイルの口真似をするのが滑稽で、透は思わず噴出した。
「な、似ているだろ? 俺様、こう見えても芸達者なんだぜ」
調子に乗ったビーの物真似大会が始まった。
「ここの連中を仲間だと思ったことは一度もない。こいつ等は単なるフィルターだ。
貴様、俺をコケにしやがって! 次は、そのふざけたウエイトを外して来い!」
さっきは心底ムカついた台詞も、ビーにかかれば飛びっきりのジョークになる。
今までもこの二人は、ナンバー2の理不尽な言動をこうして洗い流してきたのだろう。
ビーの物真似の才能に感心しながら、透は久しぶりに腹の底から声を出して笑った。
三人で散々笑って、文字通りゲイルを「コケにした」後で、ビーがふと真顔になった。
「トオル、ゲイルには気をつけろよ?」
「ラフプレーのことか?」
「いいや。ジャンが仕切る試合なら、もうラフプレーはしないと思う。だからこそ、本気になったゲイルは相当ヤバい」
透にもその言葉の意味は理解できる。頭の中に苦戦の原因となったゲイルの強烈なリターンがまざまざと甦る。
「俺様もよく知らねえんだけどさ。ゲイルがジャンとは付き合いが十年以上になるって言っていたから、あいつも学生時代に同じテニス部にいたんじゃねえかと思う」
ビーの推測は、それほど的外れではないと思った。
力みのないフォームと言い、コントロールも、テクニックも、ラフプレーを除けば申し分ない。あれは基礎を正しく習った者のプレーである。
「ま、俺様は何があっても、トオルを応援しているからな! それだけは覚えておけよ」
ピンク髪を揺らしながら、ビーが透に人懐っこい笑顔を傾けた。
「へえ……可愛いじゃん?」
先程から静かだと思ったら、レイが一枚の写真を手にしている。財布にしまったはずの奈緒の写真である。
「なんでお前がそれを!?」
「ビーがくれた」
悪びれる様子もなく、レイがビーに写真を手渡した。
「そうだろ? やっぱ、日本女性ってのは神秘的でそそられるよな?」
同じくビーにも罪悪感はないらしく、写真の中の奈緒を熱心に見つめている。
「だから、なんで俺の写真がそこに……」
「大丈夫だって」
「何が大丈夫なんだよッ!?」
「俺様、こう見えて日本びいきだから」
「意味分かんねえよ!」
「これが、その証だ。クールだろ?」
ビーが自慢げに見せびらかしたのは、二の腕に刻まれた「富士魂」のタトゥーであった。
「クールって言うか、それ……」
さすがに面と向かって「日本語として間違っている」とは言えなかった。ペイントと違って、タトゥーは消しようがない。真実を伝えたところで本人が落ち込むだけである。
答えに詰まる透の前に、見慣れた財布がぽんと放り投げられた。
「勝手に盗って悪かった。実は昔、レイと二人でコンビを組んでいた。お前みたいに無防備な奴を見ると、つい昔の癖で指が動いちまう」
「どうりで……全然、気づかなかった」
「試合の後、お前をぶん殴るのを忘れてたから。これでチャラってことで良いよな?」
「なんか、うまく丸め込まれた気がするんだけど?」
「細かいこと気にすんなって!」
財布を盗られたのだから普通なら真剣に抗議すべきかもしれないが、透は軽く睨んだだけで咎めるようなことはしなかった。
ビーとレイの二人に共通して言えることだが、彼等は透の過去や生い立ちについて、一切触れてこない。
東京では仲良くなるための儀式のように、以前どんな暮らしをしていたか。通学していた学校から家族構成に至るまで、洗いざらい話さなければならなかった。
アメリカに来てからは個人主義が徹底しているのか、東京ほどではなかったが、それでも苗字を名乗った時点で、父親の話題が押し寄せた。
ところが彼等は透の過去や素性に関心を示さない。互いにろくな話にならないと分かっているのだろう。
この付かず離れずのスタンスが、今の透にはとても居心地の良い空間に感じられた。
一ヶ月先のゲイルとの試合が終わった後でも、彼等とはずっと付き合っていける。人種や立場に関係なく、本音を見せ合える仲間として。
だから、少しぐらいの悪戯は笑って許してやろう。そう思っていた。翌日の午後までは。
次の日、透が早速ジャックストリート・コートに立ち寄ってみると、ビーとレイがコートの中で掃除をさせられていた。
昨日の彼等の話では、確かコート掃除は罰当番を意味すると教わった。
一体、彼等は何をやらかしたのかと不思議に思っていると、丸太の上からデッキブラシが降ってきた。
「おい、小僧。お前もだ!」
リーダーのジャンがいかにも不機嫌そうな顔で、透を睨みつけている。
「お、俺?」
「昨日、散々飲み食いしただろうが。俺のツケで!」
どうやらジャンは『ラビッシュ・キャッスル』での歓迎会の話をしているらしかった。あの二人のいう「おごり」とは、“ジャンの”が頭についていたのである。
しかも本人の了解もなく勝手に飲食代をツケにしたようで、そのとばっちりが透にも及んでいる。
「ちょっと待ってくれよ。俺はこいつ等が『おごり』って言うから、てっきり……」
「食ったのか、食ってねえのか。どっちなんだ?」
「食ったけど……」
「だったら同罪だ。つべこべ言ってねえで、遅れた分まで気合い入れて掃除しろ!」
この分ではいくら言い訳をしたとしても、罪が重くなるだけだ。そう判断した透は唇の先にありありと不満を突き出したままで掃除を開始した。
となりでは首謀者二人が鼻歌交じりで作業をしている。明らかに確信犯である。
透は昨日のクソ不味い『キドニーパイ』を思い出し、彼等とは早めに縁を切ろうと、固く心に決めた。
テニスコートをデッキブラシで掃除するのは初めての経験だが、罰当番というほど重労働でもなかった。しかしながら、そこに付着した汚れが何であったかを想像すると、楽しいものでない。
コンクリートの地面から浮き出てくる茶褐色の汚水は、その大部分が自分の体の中を流れていた血液だ。ここでゲイルのスピンボールを受けて倒れた記憶がある。
こうしてブラシで擦っていると、何とも言えない惨めな気持ちになる。ほとんど意識がなかったはずなのに、ボールを避けきれなかった一瞬が鮮明に甦る。
一旦、地面に染みこんで乾いた血液は簡単には落ちてくれそうにない。ブラシを握る手にも、つい力が入る。
「くそっ! あのドロップショットさえ、うまく処理できていれば……」
悔しさをぶつけながら掃除を続ける透に、メンバーの一人が声をかけてきた。
「トオル・マジマって、お前のことだよな?」
その声に反応して、次々とメンバーの視線が自分に向けられるのを感じた。やはり、ここでも真嶋の姓を知る者が少なくない。
それにしても、なぜバレたのか。不思議に思って声のする方を振り返ると、その前方にテニス部のキャプテン・ケニーの姿があった。
「トオル……やっぱり、噂は本当だったんだ」
落胆の色を浮かべるケニーの表情から、透の身を案じて来てくれたことは察しがついた。
「君がここに入って行くのを見かけたって言う部員がいて……。どうして、こんなところに?」
差別とは無縁のケニーを相手に、ここに至るまでの経緯をどう説明すれば良いのか。話したところで、分かってくれるとも思えない。
「テニス部の皆も待っている。君が作ってくれたトレーニングメニューがね、そろそろ物足りなくなったって……」
「悪いけど」
自分でも驚くほど冷たい口調だった。
「悪いけど、帰ってくれ。もうテニス部とは関係ない」
「分かっているよ、トオル。俺からもミスター・アップルガースに頼んでみるから、一緒に帰ろう」
テニス部に未練などないと思っていた。屈託のない笑顔で帰ろうと声をかけられるまでは、痩せ我慢をしているとは気づきもしなかった。
「お互いテニス部を思ってのことなんだから、多少方向性にズレがあったとしても、クラブの運営に関しては皆で話し合えば良いじゃないか」
「方向性のズレって? あの野郎がそう言ったのか?」
そしてまた、未練だけではないことも気づかされてしまう。今なお胸に残る屈辱的な言葉の数々が、苦々しい思い出となって浮かび上がる。
「君がテニス部を退部した後、皆でコーチを問い詰めたんだ。そうしたら、話してくれた。
クラブの運営方針を巡って意見が対立して、コーチが妥協案を提示する前に、君が自分からと出ていったと聞いた。違うのかい?」
あくまでもアップルガースは八百長の事実を隠ぺいするつもりだ。恐らくそうするであろうと予想はしていたが、実際に悪党が吐いた苦し紛れの言い訳が真実であるかのように語られると、割り切れないものがある。
「ああ、その通りだ」
不本意ながら、透はアップルガースのその場しのぎの嘘に付き合うことにした。そうでもしないと、ケニーに真実を悟られる。
出来ることなら、彼には何も知らずにいて欲しい。半分は彼の純粋さを思ってのことだが、もう半分は、アメリカにいる限り異分子としか見られない惨めな自分を、これ以上、晒し者にしたくないという想いもあった。
「ねえ、トオル? 君も知っての通り、もうすぐ地区大会が始まる。
君の出場枠は俺が責任を持って用意するから、戻ってきてくれないか? 俺達で一緒にテニス部を……」
「言ったはずだ。アンタとはもう一緒に出来ないって。
これ以上の話し合いは無意味だ。帰ってくれ」
なるべく早く、この苦痛に満ちた会話を終わらせたかった。心の底では戻りたいと、性懲りもなく切望する自分を気取られないうちに。
「トオル、こんなところにいてはいけない。君はうちのテニス部に必要な人間だ。
さあ、一緒に帰ろう」
フェンス越しに説得を続けるケニーの声に背を向けると、透は出来るだけ大きな音を立てて、ブラッシングを再開した。
ささやかなプライドを守るために封じ込めた本音を、ざっくりと掘り起こされた気分だった。
それはテニス部を辞めた直後よりも、今の方がより大きくなっている。
居場所のない不安。リターナーのいないコートでサーブ練習を続ける虚しさ。自分のボールしか返ってこない壁打ちボードとひたすら向き合わなければならない孤独。
それらの感情がちっぽけなプライドを押し潰そうとする度に、テニス部に未練はないと必死で思い込もうとした。
黙々とデッキブラシを動かす透に向かって、ケニーの説得は尚も続けられた。
「一緒にテニス部を強くしようって誓ったじゃないか! トオルとなら出来ると思ったのに。皆、君のこと信じているのに。どうして、こんなところに……」
彼の放つ一言一言が胸の奥に突き刺さる。それでも聞こえない振りをするしかなかった。自分の血で汚れたコートを洗いながら。
「おい、クソガキ! さっきから黙って聞いてりゃ、『こんなところ』ってえのは、どういう意味だ?」
突如として、ビーが透とケニーの間に立ちはだかった。
「あ、いや……そんなつもりじゃ……」
「あのな、人にはそれぞれ似合いの場所ってのがあるんだよ。トオルはもう俺達の仲間だ」
「まさか!? 嘘だよね、トオル?」
「俺様はガキと嘘が大嫌いなんだ! ケガしたくなかったら、とっとと帰れ! それとも、この場でぶっ飛ばされてえか!?」
決して褒められるやり方ではなかったが、この時ばかりはビーに感謝した。
昨日の透の言動と、今のケニーとの会話で、ビーにはおおよその見当がついたのだ。十二歳の少年が何故ここを「最後の砦」と言わざるを得なかったのか。
そしてビーだけでなく、周りにいた他のメンバーも事情を理解したに違いない。
その証拠に、ケニーが立ち去った後も、透に話し掛けてくる者はいなかった。彼等なりに距離を置くという方法で気遣ってくれていた。ただ一人を除いては――。
「なるほど、真嶋教授の息子か。どうりで小細工の利いたプレーをすると思ったぜ」
嫌味の含んだ言い方は、顔を上げずとも誰だか分かる。ナンバー2のゲイルである。
「学者様のお坊ちゃまなら、こんなところに出入りする必要はないはずだ。お偉いお父様に頼んで、会員制のテニスクラブにでも入れてもらえよ。なあ、ミスター・マジマ?」
しつこく絡んでくるゲイルの言葉を、透は聞こえない振りをしてやり過ごした。昨日の試合を通して、彼とは決して相容れないことを自分なりに悟っている。
ところが、その態度がゲイルの怒りに火をつけた。
「貴様、無視を決め込むとは良い度胸だ。俺の話が聞けない奴は、コートから出て行け」
「それはナンバー2としての命令か?」
「だったら、どうした?」
険悪になりかけた空気を敏感に察知して、またもビーが間に入ってくれた。
「親が何やっているとか、苗字がどうとか、どうでも良いじゃん。トオルはトオルで」
相棒のビーをフォローしようと、レイも後に続く。
「そうだよ。ビーなんて本当はブライアンって言うんだぜ? この顔でブライアンは、笑っちゃうよな!」
「レイ! それは内緒だって、言っただろうがッ!」
「そうだっけ、ブライアン?」
二人は掛け合い漫才のようなじゃれ合いをしながら、その場を切り抜けるつもりでいたようだが、非情なナンバー2には通用しなかった。
「このガキの味方をするなら、貴様らも同罪だ。さっさとここから出て行くんだな」
ストリートコートのルールでは、ランクが上の人間の指示に従わなければならない。このままでは三人ともが居場所を失う。
透は巻き添えを避けるため、込み上げる怒りを抑えながらゲイルに頭を下げた。
「この二人は関係ない。俺がコートから出て行けばアンタの気が済むんだろ? これ以上、大人げないことするな」
本人は頭を下げたつもりでも、言いなれない謝罪には本音がしっかり見えていた。
「貴様……!」
一瞬にして透は胸倉を掴まれ、ゲイルの目線の高さまで持ち上げられた。
「俺の指示に従えないなら、それでも構わない。貴様を目の前から消す方法はいくらもある」
サングラス越しであるにもかかわらず、ゲイルの殺気が伝わってくる。単なる脅しではなく、本気の、しかも簡単に人を殺められると知っている者の殺気であった。
透の喉元を締め上げる力が次第に強くなる。宙吊りとなった両足をバタつかせてみるものの、胸倉を掴んだ腕はびくともしなかった。
透の意識が朦朧としかけたところへ、どこからか間延びした声がした。
「おい、小僧? ここへはケジメをつけてから来たんだろうな?」
丸太の上で寝そべっていたジャンである。
これを聞いて、透の胸倉を締め上げていたゲイルの手元が渋々ながら緩められた。
リーダーとの会話をナンバー2が邪魔する訳にはいかない。これもルールである。
「ケジメ?」
「ここでケジメと言えば、これのことだ」
そう言ってジャンは拳を見せた。その仕草と期待に満ちた表情から、何をもってケジメとするかは理解した。
「いや……」
透はわざと期待を裏切るような答えを返した。
「小僧、まさか尻尾巻いて逃げてきたんじゃねえだろうな?」
「いいや、拳じゃない。コーチの顔面を蹴飛ばして辞めてきた」
コート内にリーダーの豪快な笑い声がこだました。
「そうか! お前はやっぱり愉快な奴だ!」
これも度量の違いなのか。ジャンと話していると、いつまでも傷跡をじくじくとさせている自分がちっぽけな人間に見えてくる。
ジャックストリート・コート。ここはリーダーを始めとして、皆が似たような傷を抱えて集まった場所である。そして、その傷に触れることなく、笑い飛ばそうとする仲間達がいる。
透はふと思い立ち、丸太の奥を指差した。
「おっさん、あそこのバックヤード、ちょっと改造しても良いか?」
「ああ、フェンスさえ壊さなきゃ構わねえ。好きにしろ」
リーダーの了解を得た透はコートの後ろの空き地に入り、使えそうな材料を物色した。ゲイルの指示に従うとすれば、ここしかない。
二枚の壁打ちボードがあるだけの、コートの裏側にあるバックヤード。その広いスペースには、鉄パイプ、砂袋、ポールといった工事用の資材の他に、セメントやペンキなども放置されている。
「これだけあれば、充分だ」
透は必要な材料を揃えると、早速、作業に取り掛かった。
まずは二枚の壁打ちボードのうち、一枚にコンクリートの塊をぶつけて表面をデコボコにした。
続いて周りに生えている木の枝に砂袋を提げて、上げ下げが出来るようにした。
他にも丸太を輪切りにして並べたり、木の根元をくり抜いたり、アスレチックさながらの空間を造っていった。
初めは数人が遠巻きに見ていただけだが、次第に見物人の数が増えていき、作業が終わる頃にはほとんど全員の視線がバックヤードに集中した。
「おい、一体、何を造っているんだ?」
後ろで見守るメンバーの一人が、堪らずといった風に声をかけた。
それは遥希の家に下宿して以来、透自身も筋力トレーニングのために欲しいと思っていたものである。
ここは人数が多いわりにはコートが一面しかなく、メンバーの待ち時間が長すぎる。
ちょうど地面にラインを引き終えた透は、その問いかけに笑顔で答えた。
「トレーニングジムだ。ここのメンバー専用の!」