第12話 告白(前編)
「真嶋? 俺は部員のプライベートにまで口出すつもりはないが……」
そう前置きをしてから、唐沢がつと歩みを止めて、夕日に染まった河原へ視線を投げかけた。
「大切な人が突然いなくなることもある」
オレンジ色の光が長い前髪の隙間をすり抜け、影のかかった瞳を明るく照らし出す。
普段は庇の役割を果たす前髪も真横から差し込む斜陽では防ぎようがないのか。唐沢は少し鬱陶しそうに目を眇めている。
実のところ、彼の瞳が髪の色とは違うと気付いている者は、ほとんどいない。
ココア色の髪より深くて、栗色よりは赤みを帯びた、俗にいう鳶色をした瞳。それはまるで他人と心を通わせる行為を極力避けているかのように、大事な場面で相手の意思確認をする時以外は前髪で覆われている。そのため、この事実を知るのは常に彼と行動を共にしている人間に限られる。
今も河原の夕焼けを眺める振りをして、わざと視線を外されたような気がする。
きっと本音をぶつけることに慣れていないのだ、この人は――。
学校からの帰り道、唐沢の話を聞きながら、透は会話の内容とはまったく別のことに気を取られていた。
唐沢は滅多に本音を漏らさない。漏らすとしても、こうして何かのついでを装い、遠い目をして話す。
思えば、三年前もそうだった。
あれは確か透がアメリカへ転校する直前で、唐沢を目標としている旨を打ち明けた時であったか。視線を空にさ迷わせる仕草が軍師と恐れられる先輩にしてはやけに虚ろで、違和感を覚えた記憶がある。
あの頃は、背負うものもなくて前だけを見ていれば良かったあの頃の透は、唐沢にも高い目標があって、なかなか辿り着けないその場所に想いを馳せているものと思っていた。一人のテニスプレイヤーとして。
しかし、今はそれが幼かった自分の勘違いに思えてならない。
彼の消え入るような眼差しは、眼前に開けているであろう輝かしい未来ではなく、もう手の届かない過去に向けられているのではあるまいか。
大切な人が突然いなくなることもある ―― 河原の風に乗って聞こえてきた呟きには、命が尊いのは儚い故だと知る者の憂いが感じられる。
恐らく唐沢も自分と同じ痛みを知っている。いや、知っているだけではない。彼は今もその痛みの中にいるのではないだろうか。
とうに闇に飲まれた夕日をまだなお追いかける横顔から、透はふとそんな気がしていた。
「俺の話の最中に黄昏(たそがれ)るとは、良い度胸だな?」
河原を吹き抜ける風を避けるようにして振り向いた唐沢は、いつもの厳しい部長の顔に戻っていた。但し、余所へ意識を飛ばしていた後輩を本気で責めるつもりはないらしく、口調はいたって穏やかなものだった。
「あ、すみません。ちょっと考え事をしていて」
「まあ、良い。とにかくそういう事だから」
「えっ? そういう事って?」
「だから俺に迷惑をかけるとか、他の連中に悪いとか、不要な気遣いをするな。自分の気持ちを伝えられる時に言わないと、一生後悔することもある」
「は、はい」
「くれぐれも無駄に自分を追い詰めるなよ。じゃ、俺こっちだから」
軽く手を挙げて、笑って見せてから、唐沢は帰っていった。
「先輩も……」
夕闇の中に消えゆく背中に言いかけて、透はそれを独り言に変えた。
「先輩も人のこと言えないッスよ」
自分の後ろ姿を見ることは出来ない。だからこそ、素の姿が表れる。正面切って向き合う時は強気な部長を演じられても、背中が本音を伝えてくる。
血潮のごとき鮮烈な光を放つ夕日でさえ夜の闇には抗えぬように、遠ざかる彼の背中がひどく儚く見えた。
「俺に出来ることなら、何でもしますから……」
胸に秘めた決意をあえて口に出してみる。
少しでも唐沢の背負う荷物が軽くなるなら、彼の望むことは何でもしよう。
だから、もっと頼りにして欲しい。独りで背負わず、心の内を見せて欲しい。
確かにそう思っていたのだ。この時までは――。
「もう勘弁してくださいよ、唐沢先輩!」
翌日、唐沢から呼び出しを受けて部室に入った透は、河原での誓いを破り捨てたい衝動に駆られた。
この先輩の望みはろくでもないことばかりで、薄っぺらな体面をはがせば、頭の中から腹の底までギャンブル一色であることを思い出したのだ。
「真嶋、今さら逃げようなんて思うなよ。せっかくお前の為に一万五千円の特等席を用意してやったんだから」
昨日とは打って変わって満面の笑みで透を出迎えた唐沢の背後には、整然と並べられたテーブルと椅子が四組。そこには将棋盤セットが一式と値札付きのプレートがそれぞれ配置されている。
五千円からスタートして、一万、一万五千、二万円の表示を見れば、満面の笑みの意味するところも察しがつく。
今日と明日の二日間は、光陵学園の数あるイベントの中でも最も賑やかな学園祭が行われる。
各クラスの出し物の他にも、文化系クラブによる演劇やコンサートなど、気になる催し物がてんこ盛りの学園祭。テニス漬けの毎日を送る透が、唯一、汗臭くない青春を満喫できる貴重なイベントだ。
三年前より金額の跳ね上がったプレートを横目に、透は精一杯の抵抗を試みた。
「俺、まともに学園祭に参加したことないんスよ? アメリカにいる時も、ずっと後悔していたんですから」
「海外の祭りの方が賑やかで良いだろ?」
「日本の学園祭は別格なんですよ。焼きそばとか、たこ焼きとか、食ってみたいんです!」
「素人が作った食い物なんか、腹壊すだけだから止めておけ」
「ケンタ先輩のクラスのお化け屋敷にも誘われているし」
「今度、うちの裏庭で本物を見せてやる」
「コンサートのチケットも買っちゃったし」
「後で軽音の奴等から反省会用のDVDを借りてきてやる」
「だから、そういう問題じゃなくて!」
「真嶋? いい加減、観念したらどうだ?
テニス部に籍を置く以上、『闇の学園祭』に参加するのは部員の義務だ。先輩達から代々受け継がれてきた歴史ある出し物だからな。
せっかくの伝統を息子の代で潰しちゃ、お父上に申し訳が立たないぞ」
こういう時に唐沢が浮かべるにこやかな笑顔、通称“悪魔の笑み”は、部長になってからも健在だ。狙いをつけたカモがもうすぐ手中に落ちると確信した時に、彼はこの顔をするのである。
テニス部の伝統とされる『闇の学園祭』は、皆が額に汗して、時に涙して、労苦をいとわず運営している学園祭の片隅で、客をこっそり部室に呼び込み、賭け将棋をさせて、手間暇一切かけずにボロ儲けをするという、実に罰当たりで恥知らずな出し物だが、これを始めたのは何を隠そう透の父親・真嶋龍之介であった。
せめて一度ぐらいは健全な学園祭に参加したいと願う透も、創始者の話をされれば返す言葉がない。
「だいたい、唐沢先輩? 部長になったらギャンブルも自粛するって、言いませんでした?」
無駄な抵抗と分かっていながら、透は次なる一手を差し向けた。光陵テニス部部長としての自覚を促す作戦だ。
「完全に断つとは言っていない。
それに自粛とは自ら進んで行動を差し控える行為だ。学園祭の間は部活も休みだから控える必要もないし、当然、俺には自ら進んで年に一度の貴重な稼ぎ時を逃す気もサラサラない。
お互い基本に戻って、己の腕一本で万札を勝ち取る喜びに酔いしれようじゃないか」
「俺の基本はそんな所にないですから」
「テニスはまだまだ課題が多いが、将棋に関しては俺の右腕と呼んでやっても良い」
「いえ、先輩の右腕を目指すのはダブルスだけで充分です」
「そう遠慮するな。俺が部長になった限りは、昔みたいに成田に気を遣わずに堂々と荒稼ぎができる。
なんだったら、もっと金額を高くしてやっても良いぞ。光陵テニス部の歴史を一緒に塗り替えてみないか?
お前の親父さんと日高コーチで打ち立てた過去最高記録が三十六万八千円だから、俺達の目標額は思い切って五十万でどうだ?
はっきり言って、インターハイで優勝するより、こっちの方が勝算あるし」
部長としての自覚を促す作戦に出たつもりが、逆にギャンブラーとしての意欲を駆り立ててしまったようだ。
この時ほど成田に戻って来て欲しいと願ったことはない。唐沢が部長となった今、彼の暴走を止められる者がいないのだ。
長い押し問答の末、部活動以上にやる気を見せる唐沢には逆らえないと悟った透は、渋々ながら一万五千円の席に着いた。
ところがマネージャーの塔子が部室に飛び込んで来たことで、事態は一転した。
「真嶋いる!?」
肩で息をする彼女を認め、透は「しめた!」と思った。この慌て方からして、急ぎの用事で自分を呼びに来たに違いない。
クラスの出し物で不備があったとか。大道具の人手が足りないとか。
いずれにせよ、これは『闇の学園祭』から抜け出すまたとないチャンスだ。
だが、そんなお気楽な期待は塔子の次の一言で吹き飛ばされた。
「奈緒、見かけなかった?」
「いや……」
「朝から探しているんだけど、いないのよ」
「手芸部じゃねえのか?」
「それが手芸部の先輩から聞かれたの。当番なのに展示室にいないからって」
「教室は?」
「最初に探したわよ」
「携帯は?」
「何度かけても繋がらない」
「まさか、どっかで倒れてんじゃねえだろうな。あいつ、あんまり丈夫じゃねえくせに根詰めるタイプだから」
中学時代の数少ない思い出が、一つ、二つと透の胸に甦る。
鞄の修理に没頭し過ぎて買い物途中で倒れたことや、アメリカへ発つ日に見送りに来てくれた時も、リストバンドの刺繍が夜を徹しての作業だったのか、赤い眼をしていた。
彼女は多くをこなす器用さはないが、一つの事をやり遂げる意志の強さにかけては、体育会系男子でさえ目を見張るものがある。
そしてまた、彼女がそうした頑張りを見せるのは、大抵、透の為であったことも今更ながら思い至って、胸が痛かった。
だがしかし、今の自分にはどうすることも出来ない。
「どうして今頃になって戻って来たのかな? 光陵学園に?」
あれ以来、透は奈緒を避けていた。宮越に言われた一言が切っ掛けだが、それだけではない。彼女に対する負い目がそうさせた。
三年間、彼女は変わることなく、ひたすら透の帰りを信じて待っていてくれた。それに引き替え自分がアメリカでして来たことは、ストリートコートで人を傷つけ、大切な恩人を死に追いやり、挙句の果てに他の女性と付き合い、彼女を裏切った。
最低としか言いようのない過去の負い目から、透は奈緒に近づくことが出来なかった。
どこで道を間違えたのか。大切な人はいつも心の真ん中に置いていたはずなのに、気が付けば背中を向けていた。
不自然な沈黙から、またしても透の意識が遠くに飛んだと分かるのか。唐沢が使い物にならなくなった後輩の代わりに、話に加わった。
「どこかで倒れたにしても、警備担当の連中が知らせに来るはずだ。
今日は学園祭だし、人の出入りも多い。念の為、俺達も探しに出た方が良いな」
「ええ、まあ……」
「俺がここで待機して必要な情報を送ってやるから、お前達は心当たりを探すか? その方が効率的だろ」
言った側から、唐沢は携帯電話を取出し、アドレスを開いた。
手際よく出された画面には、生徒会長を始めとして、各委員会の委員長、各部の部長、副部長、OBと、そうそうたる面々が名を連ねている。さすが軍師と呼ばれる男の情報網は半端ではない。
「じゃあ先輩、何か分かったら連絡お願いします。俺達は心当たりを探してみます」
唐沢の理性的な行動で我に返った透は、連絡係を彼に託し、塔子を連れて部室を飛び出した。
「まずは、手芸部に寄ってみるか。何か手がかりが掴めるかもしれないし」
駆け出した透の背後から、塔子の険のある声が突き刺さる。
「奈緒に何かあったら、真嶋、アンタのせいだからね!」
「な、何でだよ?」
「分かっているくせに。あの娘、最近ずっと元気なかったよ。アンタのせいでしょ?」
「別に、俺は何も……」
何かするどころか、彼女の顔すらまともに見ていない。しかし中学の頃から二人を見てきた塔子に、そんな言い訳は通用しなかった。
「何もしなければ、傷つけずに済むと思っているわけ? アンタみたいな男を三年も待っていた時間まで消えてなくなるとでも思ってんの!?」
「そんなこと誰も……」
思っていたかもしれない。テニスに没頭することで、彼女の存在を頭から消そうとしていた。他人の振りを続けることで、過去の所業にも触れられずに済むと思っていた。
大切な人が突然いなくなることもある ―― 昨日、唐沢に言われた台詞が脳裏をかすめた。
「駄目だ、絶対に……!」
手芸部の展示室では、部長の洋子を中心に数人の手芸部員が作業台の周りに集まり、話し込んでいた。雑然としたままの室内の様子からして、その目的が学園祭の準備に関する話し合いでないことは見て取れた。
透と塔子が中に入ると同時に、部長の洋子がはっと振り返り、気落ちした様子で尋ねた。
「貴方達、西村さん見なかった?」
恐らく廊下から駆けてくる足音を奈緒のものだと勘違いしたのだろう。困ったように寄せられた眉根には、待ち人来らずの落胆と、それを露骨に見せたことに対する軽い謝罪が含まれていた。
「いえ、俺達も彼女がいないって聞いて、探しに来たんです」
「彼女が連絡もせずにいなくなるなんて考えられないわ。変な事件に巻き込まれていなければ良いのだけど……」
先程から皆が案じているのは、まさにこの事だ。
平常時ならともかく、今日は学園祭が開催されている。学校関係者以外の人間も出入りが可能なところへ行方不明となれば、やはり穏やかならぬ事態を想像してしまう。
「とにかく落ち着いて、もう一度、状況を整理しませんか?」
透は努めて冷静になるよう皆を促した。まったく手がかりのない現状では、奈緒が取った行動を一から辿るしかない。
「今朝、彼女はここにいたんですよね? あれ、でも……」
奈緒がいたと思われる机の上には作業途中のビーズのネックレスが置きっ放しになっている。
「あいつがこんなグチャグチャのままで席を外すなんて、おかしいな。俺、いっつも奈緒に怒られていたから。ちゃんと片付けていけって。
先輩達、何か心当たりありませんか? 誰かに呼び出されたとか?」
「そう言えば、男の子が一人訪ねて来たわよね?」
洋子が他の部員に確認を取りつつ頷いた。
「どんな奴でした?」
「制服のネクタイが赤だったから、一年生だと思うけど。眼鏡をかけていたような……」
それを聞いた塔子が透を押しのけ、洋子に詰め寄った。
「ひょっとして銀縁眼鏡で、髪型は今どき珍しい七三分けで、制服は襟首からボタンを一つも外さず几帳面に着ている、えのきみたいに色白の痩せた男子ですか?」
日頃は鬱陶しいと感じる塔子の観察眼も、この時ばかりは頼りになる。
「そうそう、そんな感じ」
「口調は丁寧だけど人を小馬鹿にしたような上から目線で、そのくせ小者オーラがそこはかとなく出ていて、神経質そうに眼鏡を何度もかけ直す優等生タイプの?」
「そこまでは覚えていないけど、確か同じクラスの学級委員って、言っていた気がするわ」
透と塔子は同時に顔を見合わせた。
「宮越だ!」
しかし、その後の足取りが掴めない。仮に宮越が奈緒を何らかの事情で連れ出し、行動を共にしているとして、二人が行きそうな場所の見当もつかなければ、目的すら分からない。
「一体、あいつ等、何やってんだ?」
知り合いと一緒なら、ひとまず安心だ。悪質な犯罪に巻き込まれている可能性はないだろう。
とは言え、やはり二人の行方が気になった。真面目な彼女が生半可な理由で学園祭の当番をサボるとは考えにくい。
いっそ校内放送で呼び出しをかけた方が早いかと思案していると、隣にいた塔子が透の腕を引っ張り囁いた。
「ねえ、真嶋? 私、すごく嫌な予感がする」
「何で?」
「最近の宮越、変だった。何か思い詰めた感じで……」
途中まで話を聞いたところで、透の制服のポケットから携帯電話の着信音が鳴り響いた。発信者は唐沢ではなく、奈緒本人だ。
「もしもし、奈緒か? お前、大丈夫なのか? 今、どこにいる?」
「洋子先輩、すみません。ちょっと用事ができちゃって……」
安否を気遣う透を無視して、電話の向こうから明るい声が返ってきた。話し声は彼女に間違いないが、いつもと話し方がまるで違う。
「奈緒、何を言ってる? これ、俺の携帯……」
畳み掛けるように、一方的な会話が続けられた。
「本当は手芸部のお当番だったんですけど、代わってもらえませんか?」
彼女の性格上、相手を無視して喋り続けるなど、あり得ない。しかも会話の内容も噛み合っていない。透の声を聞いても慌てるどころか、部長の洋子として話を進めている。
これら不可解な行動から浮かび上がる事実はただ一つ。
嫌な予感にせっつかれながらも、透は出来るだけ落ち着いた声で問いかけた。
「宮越と一緒なのか?」
少し間をおいてから、彼女からの返事があった。
「ええ」
クラスメートと一緒にいて、こんな話し方をするということは間違いない。
「あいつに脅されてんのか?」
「はい」
「そこから出られねえんだな?」
「はい」
「場所を教えられるか?」
「それは、ちょっと……」
「奴が近くにいるのか?」
「はい」
嫌な予感が的中した。宮越が奈緒を脅して、どこかに閉じ込めている。
電話の様子から察するに、身の危険を感じた彼女が機転を利かせて、手芸部の当番を言い訳に透に助けを求めてきたのだろう。
とにかく居場所だけでも突き止めなければならない。側で聞き耳を立てているであろう宮越に悟られないように。
「外にいるのか?」
「いいえ」
「学校か?」
「はい」
「じゃあ、校舎の中か?」
「いいえ……あっ……!」
「奈緒、どうした!? もしもし!?」
どうやら宮越にこちらの動きを勘付かれたらしく、居場所を聞きだす前に切られてしまった。
「真嶋、何か分かった? まさか宮越に監禁されているんじゃないでしょうね!?」
電話が切れたと見るや、それまで大人しくしていた塔子が声を荒らげた。
「監禁かどうかは分かんねえけど、宮越に脅されて、どっかに足止めされているみたいだ」
「それを監禁って言うのよ! で、場所は?」
「えっと……学校の中だけど校舎じゃない、って言っていた」
「じゃあ中庭とか、屋上とか?」
「いや、外じゃない。けど、騒がしかった。だから外かと思って、最初に聞いたんだ。でも、違うって」
「体育館は? 軽音のリハーサルの音じゃない?」
「いいや、あれは楽器じゃないし、音もこもっていなかった。たぶん外から聞こえた音だと思うけど……」
焦る気持ちを落ち着かせ、少ないヒントから候補となる場所を絞り出す。
「真嶋、しっかり思い出して! あの宮越と一緒にいるのよ? 奈緒を監禁して、何かするかも!」
透の冷静な態度が気に入らないのか、塔子がわめき散らした。
「お前、さっきもそんな話してたよな? 宮越の様子がおかしいって、一体、どういう事なんだ?」
居所が掴めないなら、せめて動機だけでも探ろうと投げかけた問いであったが、塔子からの返事は思いのほか時間を要した。男子よりも快活な彼女にしては珍しい。
「あのね、最近、宮越の成績が落ちてんの。中等部では上位をキープしてたけど、高等部に進学してからはサッパリなのよ。
高校受験で入って来た生徒はみんな成績優秀だし、うちは進学校だから上の学年に行くほど勉強も難しくなるしで、相当悩んでいたみたい」
「それと奈緒と、どういう関係があるんだよ?」
「だから、宮越は高等部から一緒になった生徒を良く思っていないのよ。受験組みはもちろん、他校から編入してきた人達を『余所者』って呼んで、毛嫌いしているわ。
大げさじゃなくて、本当に憎んでいるって感じ。だから真嶋のことも……」
塔子が遠慮がちに話していたのは、透を気遣ってのことである。あくまでも宮越の基準であるが、彼の視点を通して見れば、透も元クラスメートとは言え、『余所者』だ。
「じゃあ、この一件は俺への嫌がらせなのか?」
「嫌がらせというより、真嶋に奈緒を取られるのが許せなかったんだと思う。
知っているでしょ? 宮越の気持ち?
余所者に勉強で負けている上に、彼女を取られるなんて、我慢できなかったのよ」
「勝ち負けの問題じゃねえだろ? 第一、俺が奈緒を取るなんて……」
「常識ではね。でも、今の宮越は普通じゃないわ。
アンタが帰国してから段々エスカレートしていったのよ。何て言うか、ストーカー染みていて……」
「だったら、奈緒はどうして宮越に付いていったりしたんだよ?」
「宮越がどう思っているかなんて、気付いていないのよ。あの子は、真嶋のことしか眼中にないから」
言われてみれば、思い当たる節がいくつもある。
体育倉庫での宮越の態度は尋常ではなかった。あの時は単なる嫉妬心だと思っていたが、その根底に透に対する敵意や憎しみがあったとすれば、刺々しい態度にも納得がいく。
なぜ気付いてやれなかったのか。もっとよく彼女のことを見ていれば、未然に防げたかもしれない。
自分のことで精一杯で、奈緒が、宮越が、他の周りの人間が、どんな状況に置かれているのか。そこまで思いやる余裕がなかった。
自分は何もしなくても、相手を傷つけることもある。先程の塔子の指摘が、ここにきて一段と重く圧しかかる。
こうなったら、一刻も早く奈緒を助け出さなければならない。宮越の目的も足取りも依然として掴めぬままだが、奈緒が最も憎むべき相手に助けを求めたとあっては、逆上して乱暴を働くやもしれない。
「そうだ、待てよ。こんなに人の出入りが多いのに人目につかない場所なんて、逆に限られてくるんじゃねえか?」
透の頭の中でバラバラだったヒントが一つに繋がっていく。
「学校の敷地内で、校舎でもなくて、建物の中だけど外の声がよく聞こえて、学園祭でも出入りのない場所と言えば……。分かった、体育倉庫だ!」
全ての条件に合う場所は、そこしかない。
彼女の居所が分かったと同時に、透は展示室から飛び出した。
「待って、真嶋! 私も行く」
あとから塔子が追いかけてきたが、透は途中で振り返ってそれを制した。
「塔子は唐沢先輩に連絡してくれ。奈緒は俺が必ず助け出す」
「でも、独りじゃ危ないよ。今の宮越は正気じゃないって!」
「だったら尚更、お前まで巻き込むわけにはいかねえよ。
大丈夫だって。もしもの時には独りの方が動き易いし、それに……」
言いかけた台詞を一旦飲み込み、心の中で繰り返す。たぶん、これは塔子ではなく、自分自身にあてた言葉である。
自分にあてたものなら胸の内にしまっておいても良かったが、透はあえてそれを口にした。
「ちゃんとケリをつけなきゃいけないと思う」
「ケリって、宮越との?」
「いいや、違う。俺自身の。
もう逃げない。何があっても。それが、俺がここに帰って来た一番の理由だから」