第13話 告白(後編)

 体育倉庫の前までやって来て、透ははたと立ち止まった。
 固く閉ざされた体育倉庫の扉が一段と分厚く、そして汚らしく見える。
 以前、奈緒とここで待ち合わせをした時も、この砂泥のこびりついた木製の扉が自分の姿と重なり、しばらく中に入れず躊躇した。
 しかし、今は迷っている場合ではない。一刻も早く彼女を助け出さなければ。
 「奈緒、中にいるのか!? いたら返事してくれ!」
 扉に向かって叫んでみるが、物音ひとつ聞こえない。不気味なまでの静けさだ。
 塔子の話によれば、最近の宮越の奈緒に対する執着は異常だったという。
 もしもそれが本当なら、この静寂は危険である。
 透は意を決して後ろへ下がると、助走の勢いを借りて扉を蹴破った。
 木材の砕け散る音が派手に響いたが、扉自体は見た目以上に老朽化が進んでいたのか、案外、楽に突破できた。
 「奈緒、大丈夫か!?」
 散乱した木片を踏み越え入っていくと、奈緒が奥に積まれた跳び箱の間でうずくまっていた。
 よほど怖い思いをしたのだろう。透を視界に捉えても彼女は唇を震わせるだけで、まともに返事も出来ない様子である。
 「宮越は?」
 この問いかけにも、視線を倉庫の片隅に移すことでどうにか答える有り様だ。
 彼女の視線を辿っていくと、壊れた扉の下敷きになっている宮越が見えた。
 まさかこんな粗っぽい入り方をするとは夢にも思わず、入り口近くにいたようだ。塔子の評するところの「えのきみたい」に細い体は扉ごと吹き飛ばされ、完全にのびている。
 ここで何が起きたかは一目瞭然だった。奈緒の怯えた様子と、赤く腫れた手首と、ボタンの取れかけたブラウスと。
 あと少し到着が遅れていたら ―― そう考えると、背筋の凍る思いがした。
 「宮越、何でこんなことを!?」
 透は奈緒に自分の制服の上着を掛けてから、宮越のところへ向かっていった。

 木屑まみれの体を半分起こした宮越は、謝るでもなく抵抗するでもなく、初めは呆然と透を見上げていた。
 倒れた拍子に頭でも打ったのか。焦点が定まらない。
 「宮越、何でだよ?」
 二度目の問いかけで、ようやく彼は現状を、己の目論見が失敗に終わったことも含めて理解したと見えて、気抜けた呆け顔が徐々に強張っていった。
 「真嶋君、君は昔からわがままなんだよね。欲しいものは何でも手に入れて、その分、他の人に幸せが回らないって、どうして気付かないの?」
 きつく透を睨めつける宮越は正気に戻ったかに見えるが、彼の言い分には不明な点が多かった。やはり塔子の言うとおり、今の彼は正気であって、正気でないのかもしれない。
 「まるで疫病神だね。人の幸せを次々と奪っていくんだから。テニス部のレギュラーも、皆の注目も、それに彼女だって……。
 ねえ、どれか一つぐらい僕に分けてよ? そうだ、西村さんが良いな。彼女を僕にちょうだい」
 「宮越……」
 「君さえ帰って来なければ、もうすぐ僕のものになる予定だったんだ。
 西村さんは昔と変わらず僕に接してくれる。余所者がうちにやって来て、皆が僕のことを馬鹿にし始めても、彼女だけは変わらなかった。
 ちゃんと僕の目を見て挨拶してくれるし、学級委員の仕事だって『大変だね』って手伝ってくれるし。
 それなのに、君が帰って来た途端、僕のことを見てくれなくなって……全部、君のせいだ。君が悪いんだ。ねえ、僕の彼女を返してよ」
 常にトップを走り続けた優等生が、高等部に進級してからは思うような成績を維持できなくなった。
 生まれて初めての挫折。さらに思い通りにならない人の心。
 いくら想いを込めて尽くしても、振り向いてもらえないこともある。努力が無駄になることもある。
 宮越はこの事実を受け入れられずに、是が非でも彼女を思い通りにしようとしたのだ。邪魔者が確実にテニス部の部室に拘束される学園祭の当日を狙って。
 「完璧な計画だったのに。君さえ来なければ……君さえ現れなければ上手くいったんだ」
 呪文のように呟き続ける宮越が、ふらふらと立ち上がった。
 「ねえ、真嶋君。お願いだから、消えてくれないかな?
 実際、迷惑している人、たくさんいると思うよ。テニス部の人達も、クラスの皆も、その方が喜ぶと思う。
 僕、学級委員だから、皆のために働かなくちゃ……」
 彼の手の中で怪しい輝きを放つ鋭利な刃物が見えた。キャンプなどで使用する小型のアーミー・ナイフようである。
 万が一に備えて、護身用に用意していたものなのか。あるいは、学園祭の準備か何かで偶然目にしたナイフが彼をこのような愚行に走らせたのか。
 ともかく宮越は常軌を逸している。狂った優等生の目には明らかな殺意が感じられる。
 「帰って来なくて良かったんだよ。君なんか、存在しない方が……皆のためだから……」
 怪しげな光が一歩ずつ透に向かって近づいてくる。どうにか話し合いで事を収められればと思っていたが、もはやそんな猶予もないようだ。
 すぐにでも逃げなければならない。頭では分かっていた。
 ところが、気の迷いとでもいうのだろうか。透はそこから動くことが出来なかった。
 ナイフから放たれる銀色の光。ジャンが命を落としたものと同じ光を向けられた瞬間、自分も同じ死に方をするのなら、それでも良いと思った。汚れた過去を引きずり、後悔しながら生きていくぐらいなら、いっそジャンと同じ運命を辿ろうと。
 このまま動かなければ、確実にそうなる。堂々と楽になれる。
 傷もある。汚れもある。他人の血も浴びている。それらがあの光を受け入れることで浄化されるのだ。
 銀色の光が上手い具合に近づいてくる。一歩、一歩、確実に。
 自分の心の中にこんなにも弱い部分が潜んでいたとは知らなかった。その弱さを認めたくなくて頑張ってきたような気もするが、それとて死んでしまえば灰となる。真嶋透という存在そのものが無に帰る。
 殺されかけているというのに、薄っすらとした安堵があった。憎しみがこもっているはずの凶器が、この時の透には神々しく見えた――。

 「トオル、逃げて!」
 奈緒の叫び声と同時に、ナイフの持ち主は大きく後ろへ退いた。怪しい光に惑わされていた透には、彼女の声に反応する余裕はなかったはずなのに。
 不思議に思って辺りを見回すと、隣で手首をぶらぶらとさせながら不機嫌そうに正面を見据える姿があった。
 体育会系にしては色白で、どちらかと言えばひ弱な部類に入る華奢な体躯。本来なら宮越と同じく「えのきみたい」と評されてもおかしくないが、彼の場合、その細身の体が動きの速い武器となる。
 どうやら塔子から連絡を受けて駆けつけた唐沢が、寸でのところで窮地を救ってくれたらしい。彼の拳をもろに受けた宮越が顔面血だらけで倒れている。
 「大事な右腕に先立たれると、本体の俺が困るんだけど?」
 「唐沢先輩? 俺いま……何を……?」
 我に返った透は己がしようとしたことを思い出し、寒々とした恐怖を覚えた。
 殺されそうな場面で避けなかった。これは紛れもなく自殺行為である。
 「だから『無駄に自分を追い詰めるな』と、言っただろう?」
 相変わらず唐沢は不機嫌そうに正面を見据えている。
 彼には透が愚かな行為に走ったことよりも、久しぶりに繰り出した拳が期待した程ではなかったことの方が不快のようで、もぞもぞと動き始めた宮越を「チッ、生きてやがったか」などと物騒な舌打ちをしながら睨んでいる。
 「すいません、唐沢先輩。一緒にインターハイへ行くって約束したのに……」
 「謝る必要はない。ただその約束を守るつもりでいるのなら、今後、俺に黙って消えるような真似はするな」
 「本当にすみません」
 「分かったかどうか、返事だけで良い」
 「はい」
 透が頷いたのを確認してから、唐沢はつかつかと宮越に歩み寄り、鼻血の滴り落ちる胸倉を掴んで持ち上げた。
 「おい、優等生。今回は未遂で終わったから見逃してやるが、次はこれで済むと思うなよ。この意味、分かるよな?」
 人当たりの良い外見からは想像もつかない凄みの利いた台詞を聞かされ、さすがの宮越も正気に戻らざるを得なくなった。但し、彼の場合、正気そのものが常人とは違うために、己の正当性を主張するという厄介な戻り方であった。
 「な、何を仰っているんですか? 未遂なんて言いがかりだ。
 僕はただ西村さんと話がしたくて……。それを真嶋君が勝手に騒いで飛びかかってきたから、怖くなってナイフを向けただけなんだ」
 「ナイフを向けただけ?」
 それまで不機嫌さを前面に出していた唐沢が、全くの無表情になった。
 「まさか本気で刺そうなんて思っちゃいませんよ。
 それより貴方こそ、こんなことして良いんですか? 仮にもテニス部の部長でしょう? いくら後輩が可愛いからって、過剰防衛じゃないですか?
 何なら生徒会に訴えて、テニス部の実情について倫理委員会を立ち上げてもらっても良いんですよ。貴方達が裏でこそこそ行なっている『闇の学園祭』だけでも、詮議する価値が充分にあるのでは?」

 非常に危険な状態にある、と透は思った。無論、危険視されるのは宮越ではなく、唐沢だ。
 宮越は『闇の学園祭』を盾に脅したつもりだろうが、今の唐沢にとって、こういう下手な小細工が最も発火性の高い起爆剤となるからだ。
 「生徒会ねぇ……。上等だ。生徒会に掛け合うなら、テニス部部長じゃなくて、俺の名前をきっちり出せよ。
 最初に断っておくが、『闇の学園祭』は生徒会も公認のうちの伝統行事だ。隠れてやった方が盛り上がるという意見が多いから、演出として『裏でこそこそ』しているだけで、現に生徒会長も、副会長も、テニス部に万単位の借金を抱える身だ。
 因みに、お前のクラスの担任は元将棋部で、今も将棋部の現役顧問のくせして、五年連続で俺にボロ負けして総額三十二万。毎月五千円ずつ部員とカミさんに内緒で返済し続けている。
 借金を表沙汰にしたくない連中が、俺を葬るか、お前を葬るか。見物だな?」
 「な、何て性質の悪い……」
 「性質が悪いだと? どの口がほざいてんだ?」
 傍で見ていても、危険度が増していくのが分かった。
 表情の乏しい目元を一段と細めて、下唇を薄く噛んでから、深呼吸を一つ。唐沢がキレる直前に出す合図である。固く握られた左拳もすでに二打目の準備が整っている。
 対する宮越はと言えば、唐沢の迫力に負けじと最後の抵抗を試みているが、あの調子では一分と持つまい。体も声も気の毒なほどに震えている。
 「こ、こ、後悔しますよ。真嶋君のような問題児は秩序を乱すだけで、どこへ行っても厄介者だ。そのうち貴方達テニス部だって、彼の存在を持て余す」
 「良いか、優等生? お前が真嶋にどんな感情を抱こうが勝手だが、うちの部にはどん底から這い上がって来たこいつの根性を認めても、迷惑がる部員は一人もいない。人間の価値を躓いた数でしか測れない温室育ちには、一生かかっても理解できない理屈だと思うがな。
 真嶋が自分の意思でテニス部を出て行かない限り、俺達が後悔することはない。
 転んだ痛みも知らない半端なクソ野郎が、うちの部員に余計なお世話してんじゃねえよ!」
 透の目の前を、ボロ雑巾のようになった宮越が通り過ぎた。
 これでキレた唐沢を見るのは二度目だ。いずれも彼自身の為ではない。何かと手のかかる不出来な後輩を守らんが為である。
 唐沢の口から飛び出す乱暴な台詞の一つ一つが、透の胸の奥まで響いてくる。
 人間だから躓くこともある。迷うこともあれば、間違うこともある。
 だけど、それで人間の価値が決まるわけではない。躓いたところから立ち上がり、その先の道を歩き続けることで、初めて人の価値は決まるのだ。
 今まで透を追い詰めていた痛みの数々が、唐沢の一撃と共に砕けていった。
 「唐沢先輩……」
 「うるさい! 話なら後にしろ!」
 「あの、先輩? お言葉ですが、これぐらいにしておいた方が……」
 久しぶりのことで忘れていたが、一度キレた唐沢を大人しくさせるのは至難の業である。
 「何でだよッ!? こいつのせいで初日の稼ぎをふいにしたんだ。あと二、三発は殴らせろ」
 「いや、本当にもうこれ以上は、先輩の方が犯罪者になるかと……」
 「んなもん、後で適当に揉み消してやる」
 「俺も本体に何かあったら困るんです。唐沢先輩の右腕として!」
 後輩から自分が発したのと同じ台詞を聞かされ、ようやく唐沢は拳を解いた。
 「分かった。お前がそう言うなら、これぐらいで勘弁してやる」
 唐沢はまだ何か言い足りない様子であったが、倉庫の片隅でうずくまる奈緒の姿を視界の端で認めた途端、そそくさとその場を後にした。
 きっと彼女の衣服の乱れを気遣ってのことだろう。優しさを表に出すのが苦手な彼らしい退散の仕方であった。
 唐沢が去るのと同時に、透は奈緒のところへ駆け寄った。
 「奈緒、大丈夫か? ごめんな、怖い思いをさせて」
 「ううん。私の方こそ……ごめんね」
 閉じ込められた恐怖がまだ残っているのか。彼女の話し方がたどたどしい。
 「なんで謝るんだよ。お前が一番の被害者なんだぞ?」
 「でも、私が電話しちゃったから。トオルにかけちゃったから、変なことに巻き込んじゃってごめんなさい」
 「バカだな。もしもお前が違う奴にかけていたら、そっちの方がショックだ」
 「……ありがとう……来てくれて……」
 「どうした、奈緒?」
 小刻みに震えていた彼女の体が、突然、ふっと糸が切れたように崩れた。
 「奈緒!?」


 白いカーテンで覆われた保健室のベッドは、騒がしい学園の一角にあるとは思えぬほど独特の雰囲気を醸し出している。清潔感溢れるシーツ然り、消毒薬の匂い然り。
 ここにいると、つい今しがた体育倉庫で起きた事件までもが夢ではないかと錯覚してしまう。
 しかしあれは現実だ。目の前で青白い顔をして横たわる奈緒がこうしているのだから。
 保健医の話によれば、極度の恐怖と緊張から一時的に意識を失っただけだと聞かされたが、透には彼女が瀕死の重病患者に見えていた。
 このまま一生意識が戻らないのではないか。事件のショックで記憶を失くすかもしれない。
 いくら「問題ない」と言い聞かされても、実際に自分の目で確かめるまでは落ち着かない。
 「奈緒……」
 無意識のうちに、透は彼女の手を取り、握り締めていた。
 彼女のことなら分かっているつもりでいたのに、肝心なことは何一つ知らなかった。
 宮越に付きまとわれていたこと。自分の中途半端な態度のせいで、彼女を悩ませていたことも。
 「もう逃げないから。今度こそ、ちゃんと伝えるから……目を覚ましてくれ」
 彼女が気を失ってから三十分と経っていないのに、その時間が一日にも一週間にも感じられる。
 奈緒はどんな思いで三年という長い月日を過ごしていたのだろう。
 帰るかどうかも分からない。再会の約束もせずに旅立った自分を、どんな気持ちで待ち続けていたのか。
 「もう二度と独りにしねえから、早く目を覚ましてくれよ」
 「……ほんと……?」
 握り締めた手の中で、彼女の指がピクリと動いた。
 「気がついたか?」
 「私、どうして?」
 「体育倉庫で気を失ったんだ。それで保健室に連れて来た」
 「ごめんね」
 「だから謝るなって」
 「だって……重かったでしょ?」
 彼女が気にしているのは自身が保健室まで運ばれて来た過程にあるようで、青白かった頬に赤みが差している。
 「いや、全然。前より軽かった」
 「嘘」
 「本当だって。お前、相変わらず米食ってねえだろ?」
 「覚えていてくれたの? 私たちが初めて会った日のこと」
 「ああ、俺の転校初日に河原でぶつかって、落っこちそうになったお前をキャッチしたんだよな?
 前に聞かれた時は何となく照れ臭くて誤魔化したけど、本当は覚えていた。どんな些細なことでも、お前に関することなら全部」
 繋いだ手から伝わる温もりが、心の中のわだかまりを少しずつ溶かしていく。
 今度こそ、きちんと向き合わなければならない。彼女にも、過去の自分にも。
 「あのな、奈緒。寝たままで良いから聞いてくれ」
 正直に話したところで、彼女の理解を得られるとは限らない。ただ、そうせずにはいられなかった。
 何もしなくても相手を傷つけてしまうことがあるように、後ろ暗い過去を話さずにいることが今の透には罪に思えた。
 「実は、俺、アメリカの中学に入ってすぐにテニス部を辞めたんだ。
 人種差別ってヤツ。今から考えればもっと他の方法があったのかなって思うけど、あの時は我慢出来なくて。
 だけど、どうしてもテニスを続けたくて、ストリートコートへ行ったんだ。そこはヤンキーの溜まり場っていうか、まともな人間なら近付かないような危険区域で。
 俺もそいつ等に混じって喧嘩もしたし、人も傷つけたし、それに……」
 先を続けるには勇気が要った。だが、事実を告げるのは今しかない。
 「俺のせいで大切な人が命を落とした。行き場のなかった俺を拾って育ててくれたのに、大切なことをたくさん教えてくれた恩人なのに、俺の不注意から死なせたんだ。
 それと、その時に……一番きつい時に支えてくれた女性がいて、俺は彼女と付き合った。
 言い訳はしない。あの時は本気で彼女と生きていこうと思っていた」
 まるで古傷をえぐるような痛みを伴う作業であったが、話を聞いてくれる奈緒の真剣な眼差しに応えようと、透は言葉を継いだ。
 「宮越の言っていたことは本当なんだ。俺は最低の人間で、今も先輩達に守られてようやくテニス部にいられるような奴で……。
 だけど、お前がいなくなったって聞いた時、自分でも勝手だって分かっているけど、守りたいと思った。他の奴じゃなくて、俺自身の手で」
 ひと通り話を終えたところで、奈緒の反応が気になり様子をうかがってみたが、彼女は押し黙ったまま口を開こうとはしなかった。
 やはりショックだったのか。自分の気持ちを伝えたい一心で過去を打ち明けてみたものの、彼女の方は「聞かなければ良かった」と後悔しているのかもしれない。
 ふいに訪れた罪悪感から、透は居住まいを正す振りをして繋いだ手を離しかけたが、奈緒がそれを引き止めた。とても今まで倒れていたとは思えない程の握力で、透の手を握りしめている。
 「私ね……トオルのことを待っていた訳じゃないの。たぶん、諦める勇気がなかったんだと思う。
 会えないのが辛くて諦めようと思ったこともあったけど、心の中までトオルがいなくなる方がもっと辛くて。
 周りの皆は『三年も待っていて』って言うけど、本当はそうじゃない。勇気がなかっただけなの。
 だから自分を責めないで。今までの自分も否定しないで。どんな過去も、こうなる為に必要なことだったと思うから」
 彼女のいう「こうなる為」とは、今のこの手と同じ想いであると。そう解釈して良いのだろうか。
 「それは、つまり……え〜と……」
 ここは男として白黒ハッキリつけるべきである。胸に留めていた想いの九割は伝えたが、残りの一割、それも肝心の彼女への想いを打ち明けていない。
 まずは大きく息を吐いて、気持ちを落ち着けた。
 たった一言、たった二文字の言葉を伝えれば良い。仮に受け入れてもらえなくても、正直に気持ちを伝えることで自分の中でのケリはつく。
 「俺、お前のことが好きだ。いや、すげえ好き。いやいや、すげえは禁句だから、ものすごく好きです。ん? 好きです? 好きだ?
 あれ? 何か違げえな」
 とてつもなく重いと思っていた告白の言葉が、いざ口にしてみると薄っぺらで陳腐に思えた。
 以前、アメリカでいきなりビーがジーンに「好きだ!」と告白した時には、第三者の透でさえガツンと胸に来るほどの強い衝撃を受けたというのに。
 「好きだぜ!……じゃねえし。ああ、畜生! 何か台詞考えときゃ良かったな……」
 気持ちを込めて伝えようとすればする程、深みにはまっていく。
 彼女に対する想いは、もっと深くて重いはず。その重いはずの言葉が軽く感じる原因は何なのか。
 「お前のことは好きなんだけど……何か、ちょっと違くて……」
 突然アメリカへの転校が決まってからの三年間、ずっと胸の中で抱え続けた彼女への想い。その想いの深さを伝えようとして、一発勝負の直球を何度も言い直して連続投球した為に、却って空々しくなったのだ。これでは三年間の重みも何もあったものではない。
 「と、とりあえず、好きだから」
 「とりあえず?」
 今まで歯がゆい告白を黙って聞いていてくれた彼女も、「とりあえず」とセットの直球では我慢がならなかったようだ。
 「あ、いや……とにかく?」
 「とにかく?」
 「違う、とことん。そう、とことん好きだから! 全力で!」
 「それも違う気がする」
 「なんで!?」
 「だって部活みたい。とことんとか、全力とか」
 言われてみれば、確かに違う。
 「わ、分かった、奈緒。ちゃんと言う。ちゃんと言うから、聞いてくれ。
 えっと……俺は、ずっと同じことを思っていて。それをずっと言えなくて。ずっと後悔していて。
 自分でも情けないと思うけど、上手く言えなくて。たぶん、今も上手く言えないと思うけど……」
 やはり気持ちを伝えるには、これしかない。この言葉を伝えるために帰って来たのだ。三年間、握り潰すことしか出来なかった想いを形にして伝えるために。
 「……だけど……奈緒、お前のことが好きだ。俺にお前を守らせてください!」

 彼女の顔をまともに見られなかった。恥ずかしさよりも、彼女の反応が怖かった。
 玉砕覚悟の告白とは言え、断られた後のことまで考えていなかった。ここで「ごめんなさい」などと頭を下げて謝られたら、地区予選を前にして再起不能になるかもしれない。
 心臓が耳の後ろまで迫り来るような音がした。ドクドクと切羽詰まった心音が妙な圧迫感となって押し寄せる。
 突然の告白に、奈緒は困惑しているのだろうか。長い沈黙が息苦しい。
 そろそろ何か言ってもらわなければ窒息するのではないかと思った矢先、おもむろに彼女が半身を起こして、申し訳なさそうに首を傾げた。
 「ごめんね、トオル」
 「マジで?」
 「一生懸命、話してくれたのに」
 「そんなぁ……」
 「想像していたのと違ったからビックリしちゃって」
 「へっ? ビックリしたって、それって嫌いって意味じゃなくて?」
 「違う、違う。嫌いじゃなくて」
 「じゃあ、あの……結局、どっち?」
 非常にデリケートな場面で何とも間抜けな会話だが、好きか、嫌いか、ハッキリ言われなければ、恋愛に不慣れなテニスバカには伝わらない。
 「私も……好きです。いま謝ったのは、変な間が空いちゃったから」
 「ほんとに? じゃあ、俺で良いのか? 俺なんかで?」
 「トオルだから……トオルじゃなきゃ駄目だから。
 もう、どこにも行かないよね?」
 「ああ」
 「突然いなくなったりしないよね?」
 「その為に帰って来た。奈緒と一緒にいたいと思ったから」
 ようやく伝えられた彼女への想い。三年の月日を経て、二人の気持ちが通じ合った。
 「これからはずっと一緒だ」
 透が繋いだ手に力を込めると、奈緒も同じ強さで握り返してきた。今度はその手を自分のところへ引き寄せてみると、彼女は照れながらも応えてくれた。
 ここが学校の保健室だという自覚はあったが、もう少しだけ引っ張ってみる。
 徐々に縮まる二人の距離。互いの体温を感じられるすれすれのところまで近づくと、透は更なる欲求を抑えられなくなった。
 今すぐ彼女を抱き締めたい。そう思ったと同時に体が勝手に動き出し、彼女を自分の懐に抱き寄せていた。
 見た目は細いのに柔らかい。ふんわりとした安らぎを与えてくれる温かな感触が心地良い。
 この感触をもっと確かな方法で確かめてみたい。夢ではないと実感できるやり方で。
 赤み帯びた頬を下からそっと持ち上げる。
 たぶん、誰かと唇を重ねるのは初めてのことだろう。彼女の肩が震えている。
 震えてはいるが、黙って瞼を閉じたところを見ると、同意してくれたに違いない。
 宮越の事件の後だけに、無理強いするつもりはなかった。過去の苦い経験から、衝動的に事を起こすのは止めようとも思った。
 しかし彼女も同じ気持ちなら、あえて我慢する必要はない。
 奈緒がまだ瞼を閉じていることを確認してから、透が唇を重ねようとした、まさにその時――。

 「真嶋、おっめでとう!」
 大歓声と共にベッドの周りを覆っていた白いカーテンが開き、二人だけの密やかな空間はあっさり消滅した。
 「えっ……何!? 何で!?」
 計ったようなタイミングの悪さ。いや、彼等は狙ってやったのだ。
 ベッドを囲むようにして群がる面々を見れば、狙った結果だということぐらいは察しがつく。
 「真嶋、良かったな。部外者の俺まで貰い泣きしそうだ」
 どう見ても馬鹿にしているとしか思えないニヤけ顔の唐沢を筆頭に、テニス部の悪ガキどもが勢ぞろいしている。
 「その部外者の先輩が、何でここにいるんですかッ!?」
 とっさに透は奈緒を後ろに隠した。あとから考えれば全く無意味な行動だが、この時は冷静な判断が出来なかった。
 彼女と口付けを交わす直前の、確実に惚けているであろうマヌケ面を大勢の仲間達に目撃されたのだから無理もない。
 「良かったな、トオル! マジで、俺達、心配していたんだぜ?」
 唐沢に続いて声をかけてきたのは、千葉である。唐沢のニヤけ顔より悪意はないにせよ、「心配していた」わりには安堵とは程遠いところで笑われている気がする。
 落ち着いて周りを見渡せば、他の部員も笑みを浮かべている。
 さて、うちの部はここまで友情に厚い男達が揃っていたであろうか。
 保健室を埋め尽くすほどの人数は、ほぼテニス部全員とみて間違いない。かねがね二人の仲を案じていた彼等が成り行きを見届けようと、学園祭の最中にそれぞれのクラスの出し物を放り出して、一同集結したというのか。
 それにしては彼等の態度が微妙に違う。「良かった」と言いながら心底喜んでいるのは唐沢と千葉ぐらいで、残りは言葉とは裏腹にガックリ肩を落としているようにも見える。
 何かがおかしいと訝る透の頭を、唐沢が上機嫌で小突き回した。
 「真嶋、よくやった! さすが俺の右腕だ」
 「右腕って……何が?」
 透の問いかけは部員達の溜め息で掻き消されてしまったが、彼等の消沈する姿こそがその答えであった。
 「畜生、部長にまんまとハメられた。俺も付き合う方に賭けておけば良かった」
 「まさか三年も告れなかったヘタレ野郎が、いきなり奮起するとは思わねえもんな」
 肩を落とした部員達が口々に文句を言いながら、唐沢に紙切れを渡している。いや、あれは紙切れではない。紙幣である。
 落胆する部員達と、飛び交う札束と、嬉々とした唐沢の笑顔を見れば、考えられることはただ一つ。
 「唐沢先輩? まさか、俺が奈緒に告白するかで賭けていたんじゃ?」
 「そうなんだよ。あの優等生のせいで初日を潰されたから、せめてこっちで元を取ろうかと思って」
 「『そうなんだよ』じゃないですよ! 何を考えているんですか!?
 つか、さっき体育倉庫から慌てて出て行ったのも、もしかしてこの為ですか?」
 「そんなに目くじら立てるなよ。年に一度の学園祭じゃないか」
 体育倉庫で正義の味方に思えた先輩の姿はどこへやら。今は悪質なギャンブラーと化している。
 人が決死の覚悟で打ち明けた想いを、事もあろうに賭けの対象にするなんて。しかもテニス部全員で盗み聞きした挙句、最悪のタイミングで暴露するなんて。ドッキリでも、もう少しマシなタイミングでネタばらしをするはずだ。
 遅ればせながら、透は宮越の言うことにも一理あると思った。
 ――なんて性質の悪い人なんだ!
 こうなると、昨日の河原での会話も疑わしく思えてくる。
 「自分の気持ちを伝えられる時に言わないと、一生後悔することもある」
 あれは本当に透のためを思っての助言だったのか。
 「まあ、結果オーライってことで許せよ、トオル!」
 副部長の千葉がすかさず唐沢のフォローに回る。腹立たしいまでの息の合い方だ。
 「そういうこと。ほら、ケンタ。お前の分け前だ。
 それから、ハルキも」
 「ハルキまで!?」
 素っ頓狂な声を上げる透に向かって、遥希がいかにも不本意といった仏頂面で応じた。
 「部長命令だって言うから。賭けに参加しないと退部だって」
 「唐沢先輩!? 部長の立場をそんなことに悪用して良いんですか?」
 「部長だからこそ成せる業だと言ってくれ。ほら、お前にも出演料やるから。これで彼女と美味いものでも食え」
 そう言って唐沢はせしめたばかりの一万円札をよこした。その鮮やかな手捌きと言い、やはり彼は札の扱いに慣れている。
 「良いッスよ、こんな大金。だいたい俺には演じた覚えもないんスけど?」
 「確かに、あの告白を演じろと言われても無理だろうな。あの初々しい台詞を思い出しただけで、俺なんか眩しすぎてクラクラする」
 「唐沢先輩!」
 「冗談だ。これは見舞い金の意味もあるから、遠慮せずに取っておけ。本当はもうちょっと多く還元してやるつもりだったが、予定外の買物に使ってさ」
 「買物って、もしかして新しい賭けの道具とか?」
 「まあな。大事な穴馬を走らせるための必要経費ってとこかな?」
 「まさか穴馬って、俺のことじゃないッスよね?」
 学園祭は二日間にわたって行われる。明日も何か企んでいるのではと身構えた透だが、当の唐沢は何事もなかったかのように涼しい顔で受け流し、意気消沈する部員達を引きつれ出て行った。

 急に静かになった保健室で、奈緒が思い出したように笑い声を漏らした。
 「どうした?」
 「ハルキ君は皆とは違う方に賭けてくれたんだね」
 「ああ、そう言えば……」
 確かに分け前を受け取っていたのは、唐沢と千葉と遥希の三人だ。つまりは、あの三人だけが透の告白を信じていたということだ。
 「だけど、なんか素直に喜べねえな」
 「そうだね。でも……嬉しいのも、ちょっとあるかな」
 彼女の言わんとすることは、透にも分かる。
 仲間の告白を賭けの対象にするなど非常識極まりない行為で、部長命令とは言え、そこに乗っかる連中もどうかと思うが、それでも遥希が勝利を信じて賭けたのは透と奈緒がずっと望んでいたことで、彼もそうなることを願ってくれていた証拠である。
 「奈緒、歩けるか?」
 「うん」
 「じゃあ、せっかくだから美味い物でも食いに行くか?」
 「うん!」
 「そうだ、これ……体育倉庫に落ちていたから拾っておいた。携帯に付けている虫の部品だろ?」
 「あっ! それ、『メロリン』の触角!」
 「あの騒ぎで二本とも取れたみてえだな。俺が修理してやろうか?」
 「ダメ! 絶対、ダメ!」
 「何で?」
 「良いの、これで……」
 大事にしているマスコットが壊れたというのに、何ゆえ彼女は嬉しそうに笑っているのか。透には理解できなかったが、今は彼女の笑顔が近くにあるだけで満ち足りた気分であった。
 大切な人が側にいる。長い間離れていたからこそ、その幸せを実感できる。
 彼女の笑顔を見つめながら、透はしばしの間、羽を休めることにした。
 もうすぐ地区予選が始まる。熾烈な戦いが繰り広げられることは、想像に難くない。
 その前のわずかな休息を、彼女の笑顔と共に過ごしたいと思った。
 三日後、体育倉庫には最新式の防犯用監視カメラと新しい扉が取り付けられ、その扉の端には「テニス部有志寄贈」の文字が刻まれていた。






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