第14話 不器用な男たち

 教室から昇降口へと続く一直線の廊下が今日は違って見える。いつもは素通りしていた景色が、その存在をアピールするかのように透の視覚に訴えかけてくるのである。
 廊下の柱とばかり思っていたのはロック同好会の会員募集の貼り紙で、「ROCK YOU!!」との熱いメッセージが書かれているし、窓辺に映る殺風景な中庭はいつの間にやら園芸部員が育てた花々で彩られている。
 通り道でたむろしている女子たちのお喋りも、今日はどこか楽しげに見えるし、カップルがそこ此処で目立つのも、全員が学園祭を機に付き合い始めたわけではあるまい。
 いつもより多くものが目につくこの現象は、心境の変化によるものなのか。
 恋をすると世界が色づき始めるなどと、何かの曲で聞いたような気もするが、それはあくまでもインパクト勝負の歌謡曲ならではの言い回しで、実際にそんな奴がいるとすれば、ただの色ボケ野郎だと思っていた。
 音感はあっても情感は今ひとつの透には、会ったこともない作詞家の心情をあれこれ詮索する趣味はなく、今まで目にした景色の数々がモノクロだったとも思えない。
 しかしながら貧困な想像力を総動員して察するに、世界が色づくとは言葉通りの意味ではなくて、まして色ボケした浮かれ野郎を指すのでもなくて、他人が幸せに感じることや、情熱を傾けていることに共感が持てるようになる。そうした感性豊かな心理状態をいうのだろう。
 但し透の場合、感性が豊かになったというよりも「過敏」といった方がしっくりくるし、もっと端的に言えば、些細なことで動揺しまくる「ビビリ」になっていた。

 「奈緒、お前のことが好きだ」
 彼女に想いを打ち明けて、付き合い始めたのが三日前。突然の告白に言葉を飾る余裕はなかった。
 ただ二度と自分の気持ちに嘘を吐きたくなくて、その一心で想いの丈を伝えたら、幸運にも彼女が応えてくれた。
 正直なところ、透はまだ我が身に起きた幸せを現実として捉えることが出来なかった。こうして奈緒と肩を並べて歩ける今が不思議で仕方がない。
 相手を想い続けた時間の方が長過ぎて。切ない痛みの方が分かり易くて。幸せを噛み締めて良いはずの場面でも戸惑いが先にくる。
 放課後、授業の早く終わった方が相手の教室まで迎えに行き、二人で昇降口までの廊下を歩いてから、別々の行き先へと向かう。
 クラスも部活動も違う二人が共に過ごせるのは一日のうちでもこの数分だけで、物足りなさを感じても、今はどうすることも出来なかった。
 「じゃ、また明日な」
 「待って、トオル。今日、一緒に帰れる?」
 先に帰るものと思っていた彼女からの嬉しい誘いに、透は柄にもなく躊躇した。
 「えっ? ああ……でも遅くなるけど?」
 「大丈夫。私も学園祭の片づけがまだ残っているし。
 テニス部が終わるの、待っていても良い?」
 互いの都合を気にかけながら、二人が共有できる時間を探していく。
 これからは口実を作らずとも彼女に会える。片思いでは叶わぬ彼氏ならではの特権に相好を崩しかけた透だが、ここが多くの生徒達が出入りする昇降口だと気づいて、慌てて引き締める。
 「だったら、手芸部の部室で待っていろよ。練習が終わったら迎えに行くから」
 「あのね、コートの出口のところで待ってちゃ駄目かな?」
 「駄目じゃねえけど、予選前だし、いつ終わるか分かんねえぞ?」
 「だから……」
 誰にも聞こえない程の小さな声で、奈緒が囁いた。
 「だから、その方が早くトオルに会えるでしょ?」
 「あ……そ、そうか?」
 自分が相手を想うのと同じぐらい相手からも想われていることに、驚き、戸惑い、そして照れる。そうであって欲しいと願いながら、慣れない現実に慌てた挙句、通り一遍の返事しか返せない。
 「練習の邪魔になる?」
 「べ、別に、良いけど……」
 「じゃあ、あとでね」
 「お、おう!」
 こんな時、もう少し器用であったなら。気の利いた台詞でなくとも、「楽しみにしている」とか、「早く会いたい」とか。
 伝えたい気持ちはあるのに、上手く言葉にできない。色づく世界は見えても、それを口にする器用さがないのである。
 「ああ、もうっ! しっかりしろ、俺!」
 テニスコートの入り口まで来て、自分の頬をパチンと叩いて喝を入れる。
 コートの中にプライベートは持ち込まない。恋愛と部活動を両立させる為にも、このケジメはきちんとつけなければならない。
 金網フェンスをくぐったと同時に、自分が追いかけるものは彼女の笑顔ではなくボールに変わる。欲するものは二人で過ごす時間ではなく、勝利の二文字だ。
 たとえ恋愛初心者ならではの戸惑いや疑問が山積みになっていたとしても、身も心もテニスに切り替えなければならない。
 どちらも大切なものだから。どちらも大切にすると決めたから。
 「よっしゃ! 今日も頑張るか!」
 気持ちの切替えを済ませると、透は背筋を伸ばしてコートに入った。

 「良いよな〜、真嶋は……」
 「良いよな〜、『ウ吉』は……」
 「良いよな〜、トオルは……」
 コートの中に入った途端、せっかく注入した気合いを台無しにするような溜め息が押し寄せた。聞こえた順に、三年生の藤原、二年生の陽一朗、そして副部長の千葉である。
 「あの、先輩? 三人でエコー付きでボヤくの、止めてもらえませんか?」
 「練習がきつい」などの愚痴ならともかく、今から気を引き締めて練習しようという時に、溜め息を聞かされることほどテンションの下がるものはない。
 「良いよな〜、理解のある彼女がいて」
 「良いよな〜、相思相愛になっちゃって」
 「良いよな〜、告白できて」
 これも、先と同じ順である。
 「一体、どうしたんですか? もうすぐ予選なんですから、しっかりしてくださいよ」
 透は部長の唐沢が不在であることを確認してから、エコーの発信源へ歩み寄った。
 ところが小声で話ができる距離まで近づいたと同時に、三人から最大級の溜め息を吐きかけられた。これは「俺の話を聞け」との先輩命令に他ならない。
 何やら面倒くさそうな臭気を感じるものの、後輩の立場では知らん顔を通す訳にもいかない。仕方なく透は年長者の藤原から溜め息の理由を聞くことにした。
 「分かりましたよ。まずシンゴ先輩、どうしたんですか?」
 「実はさ、いま付き合っている彼女に『私とテニスとどっちが大事なの!?』って聞かれたんだけどさ。
 こういう場合、どっちも大事としか言えねえだろ? 言えねえよな?」
 「ええ、まあ……」
 透と奈緒が付き合う前は、この藤原がテニス部内で唯一の“彼女持ち”であった。
 インターハイ優勝を狙うテニス部員にとって、部活動と恋愛の両立はまさに茨の道で、たまに浮いた話があったとしても、数ヶ月後には破局というのがお決まりのパターンである。
 よって現在彼も“彼女持ち”ではあるが、中等部から数えると片手では足りない数の失恋を経験しており、本人の意図したことではないにせよ、憧れの『寅さん』と同じく、非常に短い恋愛周期を繰り返している。
 「女って、何にでも優劣つけたがるだろ?
 『どっちかハッキリして』ってしつこく聞くから、地区予選の前だし、『今はテニスの方が大事』って答えたら……」
 「シンゴ先輩、まさか彼女に言ったんですか?」
 「俺だって最後まで『どっちも大事』で通そうとしたんだぜ。だけどインハイ終わるまで休みなんてねえし、デートのために部活サボれる立場じゃねえし。
 どう考えたって、テニス部優先になるだろ?」
 成田が抜けて、唐沢がダブルスに転向した今、彼がシングルスのエースとして光陵テニス部を支える立場にある。
 「それで、彼女は何て?」
 「『最低!』って泣かれた」
 「でしょうね」
 「ああ、俺も真嶋の彼女みたいに、部活に理解のある女と付き合えば良かった」
 うなだれる藤原を横目に、陽一朗が頬を膨らませた。
 「シンゴ先輩は彼女がいるだけマシじゃないですか! 俺ッチなんか、たった今、撃沈したところなんですよ」
 「陽一先輩は何があったんですか?」
 「テニス部より、サッカー部の方が良いんだってさ。
 なあ、『ウ吉』どう思う? 普通、爽やかさで言えば、サッカー部よりテニス部だろ?
 それなのに、うちのテニス部は胡散臭いって。何か納得いかないんだよね」
 「いや、俺は普通に納得できますけど」
 「あっ! その言い方、すっげぇ嫌な感じ。自分が幸せ絶頂期だからって、俺ッチのこと馬鹿にしているだろ?」
 「そんな事ないですよ」
 「いいや、最近『ウ吉』は調子に乗り過ぎだ。そういうの、慢心って言うんだぞ」
 「そういうの、言いがかりって言うんですよ」
 単に陽一朗は自分の告白が相手に受け入れられなかった為に、後輩の幸せをひがんでいるようだ。こんな子供染みた八つ当たりにいちいち付き合っていては身が持たない。
 透は早々に話を切り上げるつもりで、質問の相手を千葉に変えた。
 「で、ケンタ先輩は?」
 「いや、俺は良いんだ」
 何かを言いかけて急に黙りこくった千葉を不審に思い、透が再び尋ねようとした矢先、マネージャーの樹里が四人のところへやって来た。
 「ねえ、ケンタ? 部長は?」
 「ああ……と、確かコーチと打ち合わせがあるから三十分ぐらい遅れるって」
 「ふうん。じゃあ、ケンタで良いわ」
 「『ケンタで』って何だよ?」
 「だって、副部長でしょ? 地区予選の資料をまとめておいたから、あとで部長に渡しておいて」
 「自分で渡せよ。俺はパシリじゃねえよ」
 「何よ! ケンタのケチ!」
 親分肌の千葉にしては、マネージャーに対する態度が妙に冷たい。普段は自分から面倒事を引き受ける性分なのに、どうしたことだろう。
 「チバケンも辛いところだよな」
 二人の様子を見ていた陽一朗が眉をひそめた。
 「辛いって、何がですか?」
 「だからさ、樹里と部長の間に挟まれちゃって」
 「挟まれると、どうして辛いんですか?」
 「もしかして『ウ吉』、何も気付いてない?」
 「えっ、何が?」
 陽一朗がひそめた眉を、飛びっきり高い位置まで引き上げた。
 「ホント、おめでたい奴だなぁ。あのね、チバケンは樹里に惚れてんの!」
 「そ、そうなんッスか?」
 「ついでに言っておくけど、テニス部全員が知っている、周知の事実ってヤツだから」
 「マジっすか?」
 「中等部から、ずっとだからね。気付かない奴の方が、どうかしているって。
 ま、『ウ吉』は途中からいなくなったから仕方ないけどさ」
 言われてみれば、確かに思い当たる節がある。樹里の話題になると、なぜか千葉は落ち着きがなかったような気がする。つまりは周りにも分かるほど意識をしていたということだ。
 「じゃあ、もしかして樹里先輩は?」
 「これも有名な話だけど、樹里は唐沢部長一筋だから」
 「で、その唐沢先輩は?」
 「今はインハイしか頭にないっしょ? もともと感情とか表に出す人じゃないから、本当のところは分からないけど。
 『ウ吉』、何か知らないの?」
 「そういう話はしないスね。俺の場合、話より説教の方が断然多いし」
 「せっかくペア組んでんだからさ。さらっと、さり気なく、聞いてみ?」
 「無理ですよ! 俺は『さらっと、さり気なく』が一番苦手なんです。
 第一、そういう話に持っていきづらい雰囲気があるじゃないですか。もしもそれが唐沢先輩の地雷だったらって思うと、あとが怖くて聞けませんよ」
 「だよねぇ。あのルックスでモテないわけはないんだろうけど、プライベートは完全に謎なんだよなぁ」

 話をしている側から、唐沢本人がコートに現れた。
 「地区予選の対戦表だ」
 唐沢のこの一言で、今まで溜め息を漏らしていた先輩達の顔つきが変わった。
 対戦表を手にした彼のもとへ誰からともなく集合し、その輪に向かってマネージャーが手際よくコピーを回している。
 全員に資料が行き渡るのを見届けてから、唐沢がいつもよりいくらか抑え気味のスピードで話し始めた。皆が誤解なく聞き取れるようにとの配慮だろうが、それが更なる緊張を掻き立てる。
 「今回もうちはシードだから正確には二回戦からの出場になるが、番狂わせがなければ、初戦の相手はアンビだ」
 「アンビって、あの杏美紗好学院ですか?」
 全員が納得して頷く中、透だけが驚きの声を上げた。
 確か中等部にいた頃の記憶では、杏美紗好学院は光陵学園と優勝争いをするほどの強豪校であったはず。それがシードにもならないばかりか、自分達の初戦の相手とは、どういうことなのか。
 「真嶋が驚くのも無理はないが、この三年でうちの地区の勢力図は随分変わった。今やアンビは参加校の一つに過ぎない」
 「でもダブルスの宮本さんとか、キザ野郎……。えっと、何だっけ?」
 「エースの季崎か? 二人とも健在だ。
 勘違いするな。アンビの戦力が落ちたわけじゃない。他が力をつけたんだ」
 唐沢は当たり前のように話しているが、それは地区全体のレベルが格段に上がったことを意味しており、シード権を与えられた光陵学園も決して油断できない状況にあることを物語っている。
 対戦表に再び視線を落として、唐沢が続けた。
 「現段階で俺達がマークすべきは初戦のアンビ、それから海南と松林。この三校との対戦が山場と踏んでいる」
 硬式テニス部を有する校数の少ない中学の大会と比較して、高校のインターハイ地区予選となると参加校も多く、今回もトーナメントのブロックが二つに分けられている。
 このうち次の予選へ進めるのは上位二校に限られている為、インターハイ出場を狙う光陵学園としては何としてもブロック優勝を果たさなければならない。
 全員の視線が同じブロック内の反対側のシードに位置する松林高校に注がれた。シード校同士、順当に勝ち進めば、決勝戦では彼等と戦うことになる。
 透の記憶では、松林高校のテニス部はほとんど無名に近い存在だった。偶然にも唐沢の弟・疾斗が通っているから、その名が頭に残っているだけだ。
 以前、京極からも全国の学生テニスそのもののレベルが高くなっていると聞いたことがあるのだが、この地区も例外ではないらしい。宮本、季崎のいる杏美紗好学院、村主の率いる海南高校、そして疾斗が通う松林高校と、いずれも簡単に撃破できる相手ではなさそうだ。
 「覚悟しろ」と言いたげに、唐沢は透に一度頷いてみせてから、改めて全員に向き直った。
 「最初に伝えたことだが、もう一度、確認しておく。
 俺に『がんばりました』は通用しない。万が一、俺の目から見て結果に結びつかないと判断すれば、レギュラーであっても外すつもりだ。各自、心して練習にかかれ。以上だ」

 唐沢の予想が外れたことはない。初戦の相手は杏美紗好学院と見てまず間違いないだろう。
 あの「陣型崩しの天才」と呼ばれる宮本と、唐沢をライバルとして追い続けているエースの季崎と。彼等がどう攻めてくるのか。
 因縁のライバルの名前を聞いて、今回の団体戦には出ないはずの陽一朗が俄然やる気を見せている。
 「『ウ吉』、俺ッチの代わりに宮本達をやっつけちゃってよね!」
 シングルス中心の光陵テニス部とは対照的に、相手はダブルスを得意とするチームである。特にその中核を担う宮本には、昔から意表を突く作戦で何度も手痛い目に遭わされたと聞いている。陽一朗が敵視するのも無理はない。
 そして、今年はその厄介なダブルス戦に、透が唐沢と挑むのだ。
 打ち合わせの時から少しずつ感じていた緊張が、一気に高まった。練習の段階で緊張しても仕方がないと分かっていても、思うように体が動かない。
 するとそこへダブルスの最終調整のために、唐沢が伊東兄弟と透を呼び寄せた。
 「アンビの司令塔は宮本だ。あいつのことだから、得意のダブルスで勝負をかけてくる可能性が高い。
 最悪の場合、宮本がエースの季崎とペアを組んで出場するかもしれない。ダブルス一戦、シングルス二戦のうち、初戦の一勝はデカいからな。
 今日から本番までは、予選を想定した実践形式で練習を進める。
 良いか? 俺がダブルスに復帰した限りは、他校の連中に『シングルス頼みの光陵』と言わせるなよ」
 千葉から聞いた話では、唐沢は元部長の成田とダブルスを組み「光陵最強ペア」と謳われた実力の持ち主で、現在、ダブルスの中核を担う伊東兄弟をここまで育て上げたのも彼等である。「俺がダブルスに復帰した限りは」と強気な発言が出来るのも、こうした実績があってのことだろう。
 しかし、そのダブルス陣営を支える四人の選手の中で、透だけが経験も実績もない。果たして自分の力がどこまで通用するのか。
 「『ウ吉』、どったの? 顔色悪いぞぉ」
 透の異変にいち早く気付いた陽一朗が声をかけると、太一朗もそれに続いて、
 「部長、少し休憩を入れませんか?」と言って、唐沢の注意が透に向くよう目配せをした。
 「よし、十分やる。真嶋、顔でも洗って来い」
 「は、はい……」
 さすが先輩達は落ち着いている。しかも彼等は師弟関係にあるせいか、多くを語らずとも意思疎通が出来ている。
 これも経験の差なのか。透は我が身の不甲斐なさを呪わずにはいられなかった。
 まさか予選前からこんなに緊張するなんて。どちらかと言えば、度胸のある方だと思っていたのに――。

 「どうした、トオル? 青い顔して、腹でも壊したのか?」
 透がコートを出たところで、同じように休憩に入った千葉と出くわした。
 「ケンタ先輩……実は情けない話なんですけど、緊張してきたみたいで……」
 「ああ、俺も落ち着かねえよ」
 「えっ? ケンタ先輩でもですか?」
 てっきり笑われると覚悟していたのに、予想外の反応だ。
 「特に予選が始まる前のこの時期はな。始まっちまえば波に乗れるんだが、走り出す前のこれからって時が一番キツい。
 準備し忘れたことはねえか、やり残したことはねえか、と考えて……。あれ? 今、同じこと言ったよな?
 やっぱ、緊張してやがる。どっちも同じだっつうの!」
 千葉は冗談として笑い飛ばそうとしているが、心なしか笑顔が引きつって見える。
 「あのう、ケンタ先輩? もしかして『やり残したこと』って……」
 透は迷いながらも、先ほど有耶無耶で終わった話題に触れてみた。正確には触れようとした。
 千葉が途中で言いかけて止めたのは樹里に関する悩みに違いなく、そうであれば気持ちを伝えるべきだと進言するつもりであった。
 ところが千葉も透の考えを察したらしく、続きを言う前に遮られてしまった。
 「それ以上は言うな」
 「でも……」
 「お前の言いたいことは分かっている。だけど、俺はお前等とは違う」
 「それでも伝えるべきだと思うんです。後悔しない為に」
 「告ったって後悔するのは同じだろ」
 「違うと思います。行動を起こせば、反省はしても後悔はしないッスよ」
 「そうだよな。そうなんだよな……」
 頑なな態度から一転して、千葉が真剣に考え込んでいる。その彼らしからぬ思い詰めた表情を前にして、透は胸が痛んだ。
 千葉と樹里とは中等部の頃から毎日のように部活動で顔を突き合わせているし、立場上、この先も一緒に活動しなければならない。想いを告げずにいるのも辛かろうが、打ち明けたが為に気まずくなったら、もっと辛いだろう。
 確かに千葉のケースと自分達とは違うのかもしれない。余計な進言をしたやもしれぬと悔やんでいると、千葉が踏ん切りをつけたように大きく頷き、透を真っ直ぐ捉えて言った。
 「俺、ちょっと話をつけてくる」
 「今からですか? 練習中ですよ?」
 「予選まで時間ねえだろ。さっさと言わせなきゃ」
 「えっ? 言わせなきゃ……?」

 透の困惑をよそに、千葉が向かった先は樹里のところであった。まさかとは思うが、彼は部活動の最中に告白するつもりなのか。
 嫌な予感が大いにするが、今さら止める手立てはない。仕方なく透は苦手な“さり気なさ”を装って、近くで成り行きを見守った。
 「樹里、お前さっさと部長に告れよ」
 「はぁ!? 何よ、急に?」
 「いま言わなきゃ後悔するぞ。部長は三年だし、予選が始まっちまったら、あっという間に引退だ」
 「余計なお世話……」
 「余計じゃない。本当のことだ」
 「ケンタに関係ないでしょッ!?」
 どうやら千葉は、自身が樹里に告白するか否かではなく、彼女が唐沢に想いを告げずにいることに頭を悩ませていたらしい。
 自らも辛い立場にありながら、相手のことを思いやる。決してスマートなやり方ではないが、透は千葉のそういう男気のあるところが好きだった。
 たとえ千葉の想いが樹里に届かずとも、弟分の自分だけは兄貴の勇姿をしっかり見届けよう。そんな純粋な忠誠心から、その場を離れずにいたのだが――。
 「だから、もう告白して振られたんだってば!」
 「へっ……?」
 「部長にはハッキリ、キッパリ断られたの! だから、もう余計なことは言わないでッ!」
 「マジで?」
 いくら相手のことを親身になって考えられたとしても、人間には限界もあれば、本音もある。特に予期せぬ展開には本音が出やすいものである。
 叶わぬ恋と諦めていた相手がすでに失恋していて、自分にもチャンスが巡ってきた。棚ボタ式に転がり込んだ幸運に思わずほくそ笑んでしまうことだって、未成熟な高校生なら尚更、あり得る話であった。
 「あっ! ケンタ、いま笑ったでしょ?」
 「バカ! わ、笑うわけ……」
 「ほら、やっぱり笑った! 人の不幸を笑うなんて、最低!」
 「いや、お前の不幸を笑ったんじゃなくて、俺の幸運をだな……」
 「どうせ私の不幸は、アンタには蜜の味がするでしょうよ!」
 「パンッ!」と掴みかけた幸運が砕け散る音がした。千葉の態度を不謹慎だと解釈した樹里が、気丈なことに平手打ちをかましたのだ。
 不憫としか言いようのない光景に思わず目を覆った透だが、この時すでに自分にも不幸が訪れていることに気付かなかった。
 「真嶋、その様子ならリラックス出来たようだな?」
 「げっ……! 唐沢先輩、こ、これはですね……」
 「五分の遅刻だ。俺が緊張を解すために与えた時間は十分のはずだが?」
 千葉の告白騒動に巻き込まれ、自分が期限付きで休憩に出されていることをすっかり忘れていた。
 「唐沢先輩、これは何て言うか……リラックスしようとしたら、タイミングよく……じゃなくて、タイミング悪く、騒ぎが起きたと言うか……」
 「人の世話を焼く余裕が出てきたのは結構なことだが、緩み過ぎだ。今からグラウンド十周して引き締め直して来い」
 「そんなぁ……」
 「ケンタ、お前もだ。副部長のくせして、練習中に何をやっている?」
 「お、俺も!?」
 弱り目にたたり目とは、このことだ。片想いの相手に誤解され、平手打ちを食らった挙句、ペナルティーまで課せられるとは。
 「十周で足りないなら、滝澤に頼んで特別メニューも用意してやるか?」
 「いえ、充分です!」
 弁解の余地が残されていないと悟った千葉は、不満顔の透を引き連れ、猛スピードでグラウンドに向かって駆け出した。

 互いに「お前のせいだ」と文句を言い合う二人を見ながら、樹里が呆れたように肩をすくめた。
 「ケンタったら、ほんと、おバカなんだから!」
 先日振られたばかりの相手に騒動の一部始終を目撃されたのだから、この場合、千葉への批判というよりも唐沢に対する照れ隠しの意味合いの方が強かった。
 「ああ、確かにケンタは賢く世渡りの出来るタイプじゃない。だけど、樹里? 俺がお前なら、ああいうバカを選ぶと思う」
 見開いた瞳に困惑の色を浮かべる樹里に向かって、唐沢は人差し指を口にあててやんわりと微笑み、
 「念のため、バカどものアイシングの準備を頼む」と言い残して、コートに戻っていった。
 グラウンドでは、いつの間に徒競走になったのか。二つの影が全速力で駆け回っている。
 「まだ半分も終わっていないのに。ほんと、バカなんだから」
 やはり呆れ顔で呟いた彼女だが、その頬にはほんのりと赤みが差していた。






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