第16話 和紀、現る
デビュー戦を勝利で飾り、無事に先鋒の務めも果たせた透であったが、勝利者らしい晴れやかな気分でいられたのは試合直後の数分だけだった。
インターハイ地区予選の団体戦は、ダブルス一戦、シングルス二戦のうち、先に二勝したチームが次へと駒を進められる。
つまりは、ダブルスとシングルスで連勝、もしくは連敗した場合、三試合目の選手は戦うことなく勝者か敗者に振り分けられるという、実に合理的、且つ、非情なシステムだ。
しかしながら、光陵学園が参戦する地区予選は激戦区とあって、この非情なシステムをもってしてもベスト8が出揃うまでは“芋の子洗い”が続くため、運営側もコートが空き次第、呼び出しをかけて対戦させたがる。
それ故、二回戦のダブルスで一勝を挙げた透は初勝利の余韻に浸る間もなく、後続のシングルスが勝つことを前提に次の試合に向けての準備を始めなければならなかった。
先程までダブルスの勝利に沸いていたコートは選手交代と同時に静寂に包まれ、張り詰めた空気の中、ボールを打ち合う音だけが響いていた。
光陵サイドの中堅役としてシングルスを任されたのは二年生の中西だ。
彼には個人的に随分と世話になっている。部長命令でコートから追い出され、無茶な自主トレに走ろうとした透を自宅に招き、「先輩を信じろ」と諭してくれたのが中西だ。
彼が独り暮らしの透のために振舞ってくれた温かなうどんの味は、上品な出汁の風味と共に今でも心に残っている。
透は選手控室のある管理棟へ向かいかけた歩を止めて、試合途中のコートを振り返った。
団体戦と言えばチーム一丸となって仲間を応援する様を思い描いていたのだが、現実は想像していたよりも事務的で、慌しい。まるでベルトコンベアに乗せられた荷物のようである。
だがしかし ―― 試合前、ふと目にした光景が透の頭を掠めた。
呆然自失で地面に膝をつく選手を見た。仲間に抱えられながらコートを後にする選手もいた。
この慌しさは勝利者ゆえのものである。敗れた者に次はない。どんなに味気なくとも、敗北を抱えて出て行けと言われるよりはマシなのだ。
透は静かなコートで黙々と打ち合う中西の姿を視界に収めると、体を前に戻して踏み出した。その直後、背後から歓声が聞こえたが、もう振り返ることはしなかった。
中西の活躍により、光陵学園は二回戦をストレートで突破した。そして続く三回戦のダブルスも危なげなく制したところで、唐沢から透に昼食の指示が下された。
「真嶋、次の試合までしばらく時間が空くから、今のうちに昼休憩に入れ。間違っても腹一杯食うんじゃないぞ。
メシが済んだら、体を冷やさない程度に休めること。午後は強豪との連戦が控えているからな。
ああ、それから他校の偵察に行くのは自由だが、試合は最後まで見ないようにしろよ。相手の勝ちパターンが頭に焼きついて、プレーに集中できなくなったら意味がない。
お前はまだ試合に関しては素人だ。今は自分のコンディションを整えることだけ考えろ」
「唐沢先輩はメシ食わないんですか?」
「俺はシングルスを見てからにする。ハルキなら問題ないだろうが、念の為だ」
次のシングルスは遥希が務めることになっている。
普段は何かと癇に障るライバルだが、チームメイトとして見る限り、遥希はこの上なく頼れる存在だ。唐沢の昼休憩の指示も、彼の勝利を確信した上で出されたものである。
シングルスを任され、唐沢からも「問題ない」と一人前扱いされる遥希を羨ましく思いながらも、透は自分の役割に専念することにした。
午前の二試合を通して、ダブルスに出場する選手が常に大会の流れを先読みして行動しなければならないことは理解した。
それは食事の時でも例外ではない。
食べ物の消化時間と次の試合の開始時刻を逆算し、ウォーミング・アップに入るまでには体をベストな状態に整える。本来なら炭水化物と糖分を中心とした消化の良い食事を用意するのが理想だが、独り暮らしの透には弁当を作ってくれる家族もなく、朝はどうにか自炊したものの、さすがに昼食までは手が回らなかった。
だが少しだけ、いや、大いに期待していることがある。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
かなり離れた場所で待っていたにもかかわらず、似たようなジャージ姿の選手が大勢いるにもかかわらず、奈緒が自分のところに一直線に駆けて来た。
「お昼、もう食べちゃった?」
「いや、ちょうど食おうとしたところ」
彼女の両手に抱えた荷物は遠目からでも認識できたが、透はそれが近くに来てから初めて気がついたように驚いて見せた。
「あ、弁当……本当に作ってきてくれたんだ」
我ながら芝居がかっていると思いつつ、照れ臭さからつい気持ちとは正反対のリアクションを取ってしまう。
「だって約束したでしょ?」
「そうだけど、大変だっただろ?」
「肉だんごが、ちょっと。たくさん作り過ぎちゃって」
「マジ? 今日のおかず、肉だんご?」
弁当の主役が自分の好物と分かり、それまで遠慮がちに引っ込めていた右手が荷物の方へと伸びていく。
「ずっと食いたかったんだよなぁ。奈緒の肉だんご! あとは、あとは?」
自分で聞いたくせに返事が待ちきれなくて、透は手近な芝のスペースを見つけると、さっさと腰を下ろして中身を広げた。
「おっ! 卵焼きだ。これって甘いヤツか?」
「うん、そうだよ」
「うわっ! 肉じゃがも。すっげえ豪華だな」
「トオル独り暮らしだから、あんまり煮物とか食べないと思って」
「サンキュー! こういうの、食いたかったんだ。あっ、でも、アスパラのベーコン巻はちょっと……」
「嫌い?」
「アスパラが苦手で……」
「駄目だよ、好き嫌いなく食べなくちゃ」
「そうだよ、好き嫌いなく食べなくちゃ。アスパラは栄養あるんだからね!」
奈緒の口調をそっくり真似して二人の会話に割り込んできたのは、二年生の陽一朗であった。その隣には当然の如く千葉もいた。
彼等は今回の団体戦にはオーダーされておらず、一度も出番はないのだが、後日行われる個人戦と次の予選も視野に入れて、偵察及び応援と称して選手団に同行している。但し、本当にその目的で来たかどうかは、タイミング的にも怪しいところである。
「陽一先輩、まだハルキが8番コートで試合していますよ? そっちを見に行かなくて良いんですか?」
「いーの、いーの。俺ッチはダブルス専門だから」
「ケンタ先輩は?」
「俺は海南の試合が目当てだから、この後じっくり見せてもらう」
「そんなこと言って、本当は奈緒の弁当を狙って来たんじゃないッスか?」
嗅覚鋭い先輩達に挟まれ、透は思わず警戒心を強めた。
ところが手間暇かけたであろう弁当が狙われていると言うのに、当の奈緒は平然としていて慌てる様子もない。それどころか、おにぎりやおかずを取り分け、先輩達に勧めている。
しかも彼女の招待を受けた先輩達は ――あくまでも彼女であって、透は招待した覚えはないのだが―― 自分よりも慣れた手つきで荷物から箸やら飲み物を探し当て、ちゃっかり自分達の席を確保しているではないか。
「あのう、ケンタ先輩? 妙に食い慣れているように見えるのは気のせいですか?」
「当たり前だ。俺達はお前がアメリカへ行っている間ずっと、彼女の手料理を食わせてもらっていたんだから。な、陽一!」
「そう、そう。試合の楽しみと言えば、ナッチの弁当だよね」
「何か、色んな意味でムカつくんですけど……」
ふて腐れる透を無視して、千葉が我先にと肉だんごに箸をつけた。
「あっ、それ! 俺の肉だんご! 何でケンタ先輩が先に食べてんですか!?」
「先輩だからだ」
「弁当に先輩後輩は関係ないでしょ。これは奈緒が俺のために作ってきてくれた弁当で……。
あっ! 陽一先輩まで!」
「俺ッチも、先輩だかんね!」
「こういう時だけ先輩面して!」
抜け目のない先輩達に遅れを取るまいと、透が肉だんごを二つ同時に口へ放り込んだ時だった。背後から聞き覚えのある声がした。
「まったく、光陵は相変わらずだな。予選会場なんだから、もうちょっと静かに食えよ」
苦言めいた台詞とは裏腹に、ヤンチャ臭い笑みを浮かべて昼食の輪を覗き込んでいたのは海南高校の伊達ともう一人。
「伊達さん! あっ、村主さんも!」
「久しぶり……でもないか?」
「はい。先日はお世話になりました」
村主とは、つい最近、区営コートでペアを組んで戦ったばかりである。
忘れかけていたテニスを楽しむという純粋な気持ち。追い詰められて余裕のなかった透に、他校の枠を超えてテニスプレイヤーとして忘れてはならない大切なことを思い出させてくれた。
その村主から、先の試合について賞賛の声がかけられた。
「なかなか見応えのある試合だった。特にアンビとの一戦は、主力メンバーを相手に大したものだ」
「いえ、あれは唐沢先輩のリードがあったからで……」
「何を言っている? 唐沢のパートナーを務めること自体、大したものだぞ」
「そうなんッスか?」
「俺の知る限り、あいつの動きをあそこまでスムーズに引き出せるのは、成田とお前ぐらいだ」
「いえ、引き出しているとか、そんなつもりは全然ないんですけど……」
引き出すどころか、足を引っ張ることの方が多いはずだが、傍から見るとそんな風に映るのか。
「なんだ、一緒にプレーしていて気付かないのか?」
村主が今にも「呆れた奴だ」と聞こえてきそうな苦笑いを一つ挟んでから、真面目な顔で信じがたい一言を放った。
「唐沢はな、ああ見えて根は純粋な奴なんだ」
「村主さん? それ、本気で言ってます?」
「もちろんだ。表面上は色々と捻じ曲がって見えるが、あいつの核となる部分は子供と同じで純粋だ。
だから人間的にも、技術的にも、心から信頼できるパートナーじゃないと、あそこまで大胆に打って出ることはない。
俺は中一の時からあいつの試合を見てきたから、よく分かる。あの第9ゲームからの“どんでん返し”は、お前の実力を認めているからこその作戦だ。もっと自信を持て」
「は、はあ……」
透は答えに窮した。
先の試合で、罠にかかった敵の前で笑いを堪えて演技を続ける底意地悪い唐沢を目の当たりにしたパートナーとしては、大いに疑問の残る話である。
「唐沢純粋説」は人を疑うことの知らない村主ならではの見解で、恐らく身内である光陵テニス部員の誰に問うたとしても頷く者は皆無だろう。
透が答えに窮した理由はもう一つある。
次の四回戦では、この村主率いる海南高校と対戦することになっている。普通なら火花を散らすところを、逆に「自信を持て」と励まされ、どう返して良いのか分からなかった。
「あの、村主さんも頑張ってくださいね。午後からの試合」
通り一遍の社交辞令だと思われたくはないが、他校の部長に差し出がましいことも言えず、結局、透はありきたりな答えを返すに留めた。
しかし村主は気を悪くする風でもなく、透の苦し紛れの励ましに深く頷いて見せた。
「ああ、頑張るさ。あの北斗さんが育てた選手と、もう一度、遣り合うチャンスが巡ってきたんだ。全力で当たらせてもらう」
北斗は唐沢の兄であり、光陵テニス部の伝統を塗り替えたとされる元部長で、引退して二年が経つというのに、いまだ内外を問わず慕う者が多い。村主もその中の一人である。
感慨深げな村主の横顔から、透の胸にも三年前の地区大会での光景がほろ苦い思い出と共に浮かび上がる。
あの時は、海南中が光陵学園との大将戦に持ち込む前に敗れてしまい、最後に控えていた村主は唐沢へのリベンジを果たせぬまま敗者となったのだ。
部員達の手前、悔しさを押し殺し、黙って会場を後にした村主の凛とした後姿は今でも鮮明に覚えている。
あれから三年。彼はずっと待っていたのだ。再び唐沢と同じ舞台で対決する日を夢見て――。
「えっ? ええっ!?」
透は慌ててマネージャーから渡された資料を繰った。今朝から大会の流れに乗ることしか頭になくて、次の対戦相手まで気が回らなかった。
「ということは、村主さん? もしかして……?」
四回戦の相手校の情報欄を辿っていくと、ダブルスに村主と伊達の名前が記されている。
三年前の記憶から、てっきり村主は最後のシングルスに出場するものと思っていた。
唐沢がダブルスに回ったという噂を聞きつけ、彼もダブルスに転向したのか。三年前に叶えられなかった因縁の対決を実現させるために。
「村主さんが、次の対戦相手?」
「ああ、俺は伊達と組んでお前達に挑戦する。よろしく頼む」
「『よろしく頼む』って、言われても……」
確かに村主の前で「ぶっ倒す」と宣言した覚えはあるが、それは意気込みを伝える為のものであって、まさか本当にそんな機会が巡ってくるとは夢にも思わなかった。
ある意味、唐沢の思う壺かもしれないが、ダブルスも大会も経験の浅い初心者には荷が重い。
またも透が答えに窮していると、変声期特有の擦れ声が耳に飛び込んできた。
「なあんだ。さっきはまずまずかと思ったけど、近くで見るとそうでもねえや。想像した通りのヘタレって感じ」
この年代に知った顔はいないはず。不思議に思って振り返ると、透の真後ろに見知らぬ少年が立っていた。
中学生ぐらいだろうか。彼はパーカーのポケットに両手を突っ込み、首を斜めに傾けて、いかいにも生意気そうな視線をこちらに投げかけている。
「見たことねえガキだな?」
「ガキじゃねえよ。西村和紀」
「で、その西村和紀が俺に何か用……。ん? 西村?」
少年に見覚えはなくとも、苗字には覚えがある。決して大きくはないがクルクルとよく動く丸い瞳も。
「お前、もしかして……?」
透の問いかけに覆いかぶさるようにして、隣から叫び声が上がった。
「和紀!? どうして、アンタがここにいるの!」
「姉ちゃんの彼氏が試合に出るって聞いたから。どんな奴か、興味あるじゃん」
「もう、マセたことばっかり言って! 良いから帰りなさい。ここは部外者が遊びに来るところじゃないのよ」
「自分だって部外者のくせに。それに遊びに来たわけじゃねえもん」
「サッカー部の練習はどうしたの?」
「うんと、今日は気分が乗らないから休んだ」
この少年が奈緒の弟であることは、二人の会話から察しがついた。また似ているのは外見だけで、中身は正反対だということも。
「それで大切なお姉さんの彼氏を近くで見た感想は?」
弁当を広げた時よりも素早く、陽一朗が奈緒の弟に食いついた。騒ぎを大きくしたり、問題をややこしくしたりするのは、彼の天賦の才と言っても過言ではない。
「そういうシスコンみたいな言い方、止めてください。第一、俺はまだ彼氏と認めてねえし」
この発言だけでも充分なシスター・コンプレックスだと思うが、あえて透は口を挟まなかった。今は質問の答えの方が気にかかる。
「で、その『彼氏候補生』を見た率直な感想を早く聞きたいな。お兄さん達これから大事な試合があるから、手短に頼むよ」
今度は他校の伊達まで話に加わった。完全に面白がっていることは締まりのない口元からも明らかだ。
「そうだな。ハッキリ言って……」
皆の視線が一斉に和紀に集中した。
この時点で、透はある程度の覚悟を決めていた。何故なら「ハッキリ言って」の後に褒め言葉が続くケースは滅多にないからだ。
小動物を思わせるような和紀の丸い瞳が下から上に向けてクルリと半周した。思案しながら話をする時、奈緒も同じ仕草をする。
「ハッキリ言って、ハルキ先輩の方が良いや。いや、全然、良いね。
俺の知っている範囲で順位をつけると、上から順にハルキ先輩、諒兄ちゃん、間に五、六人挟んで、こいつかな」
透は自身が覚悟した以上の結果に絶句した。よりによって、彼氏候補生の第一位が遥希とは。
たぶん「諒兄ちゃん」というのは奈緒の幼馴染みである岬諒平だと思うが、栄えある一位に輝いた遥希との接点が分からない。
もしかして自分の留学中に、奈緒と遥希との間に何かあったのか。あるいは、透が遥希をライバル視していることを知って、わざと比べているのか。
上位二人と自分の間に挟まれた「五、六人」の存在も気になるし、年下に「こいつ」呼ばわりされたことにも軽く傷ついた。
絶句している透に構わず、和紀の辛口の感想は尚も続けられた。
「同じ学校の先輩としては、合格点をあげても良いんだけどさ。姉ちゃんの彼氏としては、ちょっとね。
性格はそれなりに評価しているよ。俺も一応サッカー部だから、試合を見ればどんな奴か、だいたい分かるし。
でも、こういう正攻法しか知らない実直タイプって、周りは何かと巻き添えを喰らって迷惑しない? 体育会系の中で生きていく分には重宝されるけど、他ではどうよって感じ。
ありがちなのが、仲間も彼女も大事にするとか断言しておいて、要領悪いから目先の問題しか処理できなくて、結局、彼女が一番後回しにされる、ってパターン。
どうせ土日、祝祭日は漏れなく部活だろうし、金持ちのボンボンってわけでもなさそうだし、誕生日とかクリスマスなんかのイベントにも疎いと見たね。
うちの姉ちゃん、世間知らずだから。今は三年越しの恋が実って浮かれているかもしれないけど、こんな自己中男と一緒にいたって苦労するだけじゃん?
何もこいつ一人が男じゃねえんだし、もうちょっと自分を大事にしなよって言いたいね」
どれも思い当たる事ばかりで、耳が痛かった。おまけに弟の口をあたふたと塞ぎにかかる奈緒の態度と、そそくさと視線を逸らす周囲の反応からして、この意見は第三者の目から見ても妥当な評価のようである。
もともと透は人の目を気にする性質ではないし、帰国してからは特にインターハイに向けて出された課題をこなすのに精一杯で、他人にどう映っているかなど考える余裕もなかった。それだけに、和紀の端的な評価がずしりと胸に堪えた。
テニスも彼女も両方大切にすると言いながら、実際は休日だというのに彼女に試合会場まで弁当を持って来させている。インターハイが終わるまでデートらしいデートも出来そうにない。
現状では彼女が一番後回しになっていて、まさしく仰せの通りである。
「ごめんね、トオル。子供の言うことだから気にしないで」
奈緒が顔の前で両手を合わせ、拝むようにして謝ってくれているが、その必死な形相がパンドラの箱を開けた時のそれに思えてならなかった。
「和紀は私と一緒にテニススクールに通っていた時期があって、ハルキ君の影響を随分受けているみたいなの。ちょうど、この子が光陵学園に入学した年にテニス部の部長で活躍していたし。
だから悪気はないと思うの。本当に気にしないでね」
フォローにフォローを重ねる謝り方が、ますます傷口を広げていく。
「良いよ、別に。全然、気にしてねえから。ハハハ……」
皆からの妙に湿り気を帯びた視線が辛かった。
「こいつ、絶対に傷ついているよな」と言いたげな、「無理しなくも良いぞ。俺達は分かっているから」と訴える、同情と哀れみを多分に含んだ視線が自分のところに集まり、せっかくの強がりが乾いた笑いとなって宙に浮く。
居たたまれなくなって、透はどう考えても早いウォーミング・アップを言い訳に、その場を離れた。
とっさに別行動を取ったは良いが、やはり準備に入るには早過ぎた。だからと言って、今さら引き返すわけにもいかず、会場内には時間を潰せるような店もない。
己の軽率さを悔やみながらストレッチに適した場所を求めてしばらく歩き回っていたのだが、そのうちバカ正直に言い訳を実行する必要はないと気づき、急きょウォーミング・アップを取り止め、テニスコートと隣接する陸上競技場へと足を向けた。
今回、地区予選の会場となった総合スポーツセンターは、その名の通り、陸上競技を始めとして、サッカー、バレー、野球、水泳、武道と、あらゆるスポーツの試合が行なわれる大規模な複合施設であった。
透はテニスの試合でしか訪れたことがない為に、スポーツセンターと言えばついテニスコートを思い浮かべてしまうが、実はこの陸上競技場がメインであり、その周りを囲むようにして体育館や武道場など、その他の施設が点在している。
競技場入り口の薄暗い階段を上っていくと、観客席の途中の通路に出たようで、突如として目の前にすり鉢状のスタジアムが現れた。
陸上も近々地区予選が開催されるのかもしれない。閑散としたスタジアムの中央部では数名の作業員がトラックの整備を行なっている。
透は無人の観客席を独り占めにして寝転ぶと、両手足を伸ばして、ほぼ百八十度に広がる空を仰ぎ見た。
暇つぶしのつもりで見上げた空は、都会にしては珍しく真っ青で。だが、そこに浮かぶ白い雲はごくごく平凡な雲だった。
いわし雲とか、飛行機雲とか、入道雲とか。話題に上るような雲ではなくて、単にいびつな雲を総称した「千切れ雲」と呼ばれる類のものである。
てんで冴えないその雲は、擦り切れたビニール袋が浮かんでいるようでもあり、それでいて、確固たる意志をもって進んでいるようにも見える。
ふわふわと。ゆらゆらと。向かった先には巨大な雲の塊が居座り、行く手を阻んでいた。
ところが自分よりも何倍も大きな塊に果敢に挑むかと思いきや、上空の風に煽られ、押し戻された。
風に押し流されてはまた戻り、巨大な雲に拒絶されてはまた挑む。それを何度か繰り返した後で、千切れ雲はふいと方向を変えて、別のところへ泳いでいった。
臨機応変と言おうか。お調子者と言うべきか。
飄々とした雲の姿に、思わず笑みが零れた。肩透かしを喰らった感があるが、これがこの雲らしい結末とも言える。
久しぶりに、のんびりと空を眺めた。時間に追われ、立場に追われ、ベルトコンベアの勢いに圧されていた自分を程よくリセットできたように思う。
まだまだクリアしなければならないハードルはたくさんあって、課題も山積みだが、今なすべきことは一つである。
気を取り直して、体を起こした透の目の前に、和紀がひょっこり顔を出した。
「あのさ、さっきはゴメン」
奈緒に怒られて謝りに来たのだろう。唇を丸め、背中も丸め、全身で気まずさを表している。
「この後も試合があるのに、余計なこと言っちゃって。俺も一応サッカー部だから、その辺の仁義は守らなきゃいけなかったかなって。ほんと、ごめん」
「反省しているわりにはタメ口か?」
「いえ、ごめんなさい」
初対面の反抗的な態度は、姉への想いがそうさせていたようだ。素直に頭を下げる姿は、奈緒との血の繋がりを感じさせるものがある。
「もう怒ってねえよ。もともと、そんなに気にしてねえし」
「嘘だぁ。思いっきり落ち込んでたくせに」
「お前なぁ……」
「あっ、冗談です。試合に集中してください。俺、もう消えますから。どうもスミマセンでした!」
そう言って足早に走り去ろうとする和紀を、透は呼び止めた。
「和紀って言ったよな? もしかして、お前、肩痛めてんのか?」
動きが止まったところを見ると図星のようだ。
透は先程から和紀のスポーツ選手らしからぬ仕草に違和感を覚えていた。
彼は会ってから一度も両手をパーカーの前ポケットから出していない。
平地ならまだしも、段差の多い観客席で両手をポケットに突っ込んだまま動き回るなど危険極まりない行為で、スポーツ選手なら、尚更、避けるはず。おまけに右肩もやけに下がっている。
パーカーのポケットに腕を通すことで、無意識のうちに痛めた肩の筋肉を使わないよう庇っているのだろう。父親のもとにも似たような癖を持つ選手がよく訪ねていた。
「いつからだ?」
「一年前に……関節炎やって……」
「放っておいたのか?」
「ちゃんと病院に行って、診てもらったよ。その時は通院して、完治したって言われたんだけど、最近また痛むようになって」
「痛み出してからは行っていないんだな?
ちょっと見せてみろ」
本人もよほど不安があるのか、姉の彼氏に対する酷評を述べた時の生意気さは欠片もなく、素直に透の指示に従っている。
「こうやって動かしても、痛みはないんだな?」
関節の動きを調べる為にあらゆる方向へ腕を動かしてみたが、特に痛みはないようだ。
「うん。どちらかと言うと、じっとしている時の方が痛むんだ。鉛が入ったみたいにジワジワって、冷たくて重い感じがする」
「最近どこかに強くぶつけたとか、転んで打ったとかは?」
「少しずつ痛み出したんだ。きっと完治していなかったか、再発したのかもしれない。
俺もう、サッカー出来ないのかな?」
好きなスポーツを制限されることほど辛いものはない。医者でもない透の言葉でさえ、和紀は怯えている。
「違う、と思う」
「えっ?」
「たぶん再発を気にして使わなかったせいで、筋肉が固まっているだけじゃねえか。
ちゃんと医者に行って診せた方が良いのは確かだけど、和紀が恐れているような結果にはならないはずだ」
「本当?」
「これが正確な診断だと思うなよ」
そう念を押してから、透は続けた。
「痛みが必ずしも故障とは限らない。だから、少しでもおかしいと思ったらまず医者へ行け。
スポーツ選手なら医者を敬遠するんじゃなくて、かかりつけを持つぐらいの気持ちでいねえと。万が一、故障だったとしても、素人が考えるより余程マシな選択肢を与えてくれるから」
「俺……サッカーやっても良いんだ? また、やれるんだ」
かなり思い詰めていたらしく、和紀は噛み締めるように繰り返した。
「肩を庇って変な走り癖がついたら、サッカー選手だって困るだろ?」
「それはそうだけど……」
「だったら騙し騙し使ってないで、さっさと行けよ。分かったな?」
「うん」
「じゃあ、俺、そろそろアップ入るから」
「あの……」
透が去ろうとするのを、今度は和紀が呼び止めた。
「あのさ、お礼に良いこと教えてあげる」
丸くなっていた背中はピンと伸び、口元からは白い歯が覗いている。
「姉ちゃんさ、三年間ずっとテニス部の試合のたびに弁当作っていたんだぜ」
「ああ、知っている」
「なんでだと思う?」
「なんでって、うちの先輩に頼まれたからじゃねえのか?」
「違うって。あの先輩達は単なる練習台。
だって、今日の弁当のおかず。前に先輩達から『美味い』って好評だった物しか入ってねえもん。
姉ちゃん、ああいう性格だから言わないと思うけど、今日が本番だったんだ。
だから、姉ちゃんのためにも格好良いとこ見せてくれよな、真嶋先輩!」
得意顔で言い終えると、和紀は勢いよく階段を上がっていった。二段飛ばしでリズミカルに動く脚に合わせて、自由になった両腕も軽やかに振られていた。