第17話 棄権

 午後の日差しがオレンジ色に傾きかけていた。
 もうすぐ始まる四回戦の試合会場は、十面ずつ二列に並ぶコートの中程、3番コートであった。
 ようやくベスト8も出揃い、強豪校による激戦が予想されるとは言え、決勝戦の二歩手前、ブロック優勝にも一歩及ばぬ四回戦では観客達の注目を集めるには至らない。
 時間的にもロケーション的にも中途半端で、本来は興味の対象にはなり得ない。
 それにもかかわらず、そこは ―― 四回戦の会場となった3番コートは、透が足を踏み入れた時にはすでに異様な熱気に包まれていた。
 六年前、唐沢の兄・北斗が行なったテニス部の改革以降、全国制覇を目指して着々と不動の地位を築いてきた光陵学園と。
 他校ながら北斗の人柄と高い志に感化され、同じ道を歩まんと彼の足跡を追い続けてきた海南高校と。
 浅からぬ因縁を持つ両校の部長同士が一試合目から激突するという大一番に、場内の観客達がこぞって詰めかけて来たのである。

 「真嶋? 会場の空気に惑わされて最初から全力で飛ばすなよ」
 透より少し遅れてベンチ入りした唐沢が、例によって要点を押さえた指示を出す。
 「恐らく村主は伊達のスピードを活かした攻撃を仕掛けてくるだろう。だが、それに対抗して全力で迎え撃つ必要はない。
 目安としては七割だ。七割の力に抑えて、可能な範囲でミスなく守れ」
 「七割の力、ですか?」
 「ああ。村主と俺、伊達とお前、選手個人の能力に格差はないはずだ。その場合、いかに自分達のペースを崩さず守りきるかが勝負の分かれ目になる。
 七割の力で、それを終盤までキープしろ。相手にとっても、最初から最後まで同じペースでプレーされる方が厄介だ。
 だから深追いする必要はない。どうしても決めなきゃならない時には、俺が出る。分かったな?」
 唐沢の指示には三年越しの対決を心待ちにするような浮ついた要素は欠片もなく、華々しいデビューを飾った初戦とは対照的に、「ひたすら防御に徹しろ」との意味合いが含まれていた。
 やはりそれ程の相手だと思うと気後れしそうになるが、不思議なことに、このざわついた空気の中でも、唐沢の指示だけはすんなりと頭に入る。
 午前の二試合を通して、自信とは別の強い気持ちが透の意識の中に芽生えていた。
 この先輩と共に戦う限り、迷いはない。たとえ相手が誰であっても、彼の言葉を信じて己の役割を果たすのみ。
 自信も、経験も、実績も、どこにも拠り所のない透には、唐沢から下される指示だけが唯一頼りにできる指針であり、また安心して身を任せられる命綱でもあった。

 試合が始まると、透はますますそのことを痛感した。唐沢の予想通り、村主が伊達のスピードを活かした攻撃を仕掛けてきたのである。
 通常ならテンポの速い攻撃に喰らいつこうと考えなしにペースを上げるところだが、透は前後左右と振られながらも、常に七割の力加減を念頭に置いて防御に徹した。
 攻撃的なショットを連打で浴びると、それを追いかけているうちにポジションがずれていく。そこに生じたミリ単位の裂け目を狙って渾身の一撃が放たれる。
 テニスプレイヤーなら誰しも闘争本能を持っている。表に出すか、内に秘めるかは別として。
 絶妙なコースを突かれたボールに対してはこの闘争本能が働いて、ついつい応戦したくなるのだが、透はそのたびに込み上げる衝動を抑えて、然るべきポジションに踏み止まった。
 ここで無理に返したとしても、すぐ後ろに控える村主が必ずトドメを刺しに来る。
 無茶な返球がファインプレーに繋がる可能性は無に等しい。少なくともこの試合に限っては、それは相手のチャンスボールにしかならない。
 唐沢からの「深追いはするな」の指示は、無茶な返球が相手のチャンスボールに変わるだけでなく、そこから自分達のペースを崩される危険性があることも踏まえた上で出されたものだった。
 透は矢継ぎ早に繰り出される伊達のショットに気圧されながらも、自身に課せられた使命に意識を集中させた。
 スピードに振り回されない。拾うべきボールを確実に捌く。
 試合は透が想像していた以上にシビアな展開となり、隙のない連続攻撃で一気に点差を広げようとする海南高校と、ミスのないプレーで体力を温存しつつ、形勢逆転の機会をうかがう光陵学園との間で、中盤までは圧しつ圧されつを繰り返すシーソーゲームが続けられた。

 悪夢が起きたのは、第6ゲームであった。
 ゲームカウント「3−2」と海南高校に1ゲームのリードを許し、巻き返しを図るべく、透が高い打点からのジャンピング・スマッシュを放った直後のことである。
 これが決まれば「3−3」の引き分になるはずだった。ところが、それを阻止しようと村主が勢いのついたボールに突っ込んでいったのだ。
 「危ない!」
 村主としてもロブで返せるギリギリの範囲と判断してのことだろうが、運動能力に秀でた藤原を手本に完成させた透のスマッシュは、見た目よりも何倍もの威力があった。
 跳躍の反動から背筋を使って弾き出されたボールは、バウンド直後で叩かなければ、目で追うことすら出来ない程のスピードで跳ね上がる。他の打点での処理はまず不可能だ。
 無理な体勢からの返球がコンマ何秒かの遅れを生み、村主のラケットが空を切った。弾みのついたボールが凶器となって彼の顔面に襲い掛かる。
 無論、空中でラケットを振り下ろしたばかりの透に事態を回避する術はない。
 全ては一瞬の出来事だった。
 透の放ったスマッシュがバウントと同時に勢いよく跳ね上がり、村主の耳の辺りを掠めていった。
 「村主さん!」
 すんでのところで顔面直撃は免れたようだが、不安定な体勢でボールをかわした村主はその代償として左足を抱えている。
 どんな苦境も豪快に笑い飛ばす男の顔が、痛みに耐えかね歪んでいた。
 「村主!」
 場内の誰よりも早く、唐沢がネットを飛び越え村主に駆け寄った。
 「どこをやった? アキレス腱か?」
 「いや、足首の外側……くるぶしの……」
 「救護室に運ぶより、タクシーを呼んで専門医の手当てを受けたほうが良いな?」
 「すまない。俺が勝負を決めようとして深追いし過ぎた」
 「自分を責めるな、村主。ケガ人のお前が責任を感じる必要はない」
 「だが、トオルが……」
 「良いから、今は自分の体のことだけ考えろ」
 透にはすぐ近くにいるはずの二人の会話が遠くに聞こえた。
 目の前で村主がうずくまっているというのに、どうしたことか、現場に近付けない。全身が拒否反応を示している。
 「俺のボールが……」
 今まで自由に動いていた手足が、鉛のように冷たく重かった。震えているのか、硬直しているのか。体に力が入らない。
 「俺のせいで……」
 「真嶋、これはアクシデントだ!」
 唐沢の怒鳴り声で、ようやく透は我に返った。
 「あの……村主さんは?」
 「靭帯を切っているかもしれない。いま日高コーチが知り合いの病院を手配してくれている」
 「俺も一緒に行きます」
 「何を言っている? まだ試合が残っているだろ?」
 「でも……」
 「落ち着け、真嶋。お前が村主だったら、同情で付き添われて嬉しいか?」
 唐沢が言わんとすることは分かっている。
 仮に自分が付き添ったとしても、村主に負い目を感じさせるだけで、何の解決にもなりはしない。今なすべきことは、次の試合に集中するしかないことも。
 しかし、あの時スマッシュを放たなければとの後悔はいくら拭っても拭いきれない。せめて際どいコースではなく、違うコースを狙っていれば、この事態は避けられたはずである。
 動きの鈍い体に反して、頭の中ではいくつもの後悔の念が湧き起り、事故の責任を追及し続ける。
 「俺があんなコースに打たなければ……」
 スマッシュを放った瞬間の光景が浮かんでは消える。その合間を縫うようにして、まったく別の何かが目の前を行き来する。見覚えはあるがハッキリとは分からない。ぼんやりとした赤いものが。
 「……あんなに楽しみにしていたのに……。村主さん……三年も……」
 「とにかく落ち着け。海南に余裕がないのは分かっている。どうせ顧問もエントリーだけして帰ったんだろう。
 うちから誰か付き添いを出すから……」
 唐沢の声がさっきよりずっと遠くで聞こえる。
 「海斗、俺が行こう」
 「良いのか?」
 「俺がお前達にしてやれることは、これぐらいしかないだろ?」
 「すまない。助かる」
 唐沢が誰かと話をしている。声の主は元部長の成田のようだ。責任感の強い彼のことだから、地区予選の様子を秘かに見に来ていたのだろう。
 だが、その声も何枚も壁を隔てているかのように遠くに聞こえる。
 「村主より、真嶋の方が重症かもしれない」
 「ああ。だからコーチも俺も、ここを離れるわけには……」
 「こっちは任せておけ。何か分かったら連絡するから、海斗は真嶋を頼む」
 二人とも、どうして負傷した村主ではなく、自分のことを気にかけているのか。この時の透には理解できなかった。

 ふいに襲い来る不快感。急な悪寒と共に強い吐き気を覚えた透は、管理棟の入り口近くのトイレに駆け込んだ。
 先程から目の前をチラつく赤い何かが、徐々に形を成してくる。
 赤い革のジャケットを羽織ったジャンの姿と、痛みのない刺された感触。赤い何かはジャケットの色なのか、それとも――。
 記憶の奥で息を潜めていた二年前の悪夢が甦る。それと同時に腹の底から不快なものが噴き出した。
 昼間、先輩達とじゃれ合いながら腹に収めた食べ物が便器の底へと流れていく。
 一瞬、奈緒に申し訳なく思ったが、そのことを心に留め置く間もなく、過去の記憶が理性を無視して溢れだす。
 自分の放ったスマッシュが赤い革のジャケットを引き裂き、テニスボールの打感がぬるぬるとした生温かな血の感触に変わり、苦痛に歪んだ村主の顔が父親の顔と入れ替わる。
 まるで記憶がひとりでに暴走を始めたようだった。
 透の父・龍之介は肩の故障が原因でコートを去らねばならなかった。もしかしたら村主もそうなるかもしれない。
 他校の枠を超え、同じテニス仲間として透と接し、励ましてくれる村主。その彼を自分が傷つけた。
 誰にも防ぎようのないアクシデントであることは分かっている。
 しかし、テニスを続けている限り、似たような事故はまた起こる。今日でなくとも、いつかは誰かの悪夢を引き起こす原因となるかもしれない。
 再び加害者の烙印を押されることが怖かった。二年前のあの時のように。
 体の震えが止まらない。鉛のような手足がますます冷たくなっていく。
 絶え間なく続く嘔吐。体中の血液が逆流するような、おぞましい感覚。
 もしかして必死になって吐き出そうとしているのは恐怖心ではなく、自分自身、いや、自分の全てかもしれない。
 暗く冷たいトイレの中で、透は不可解な嘔吐の答えを知った。
 この嘔吐は自分に対する拒絶から来るものだ。村主の事故を切っ掛けに、今まで抑えていた自分への嫌悪が一気に噴き出したのだ。
 ジャンを死に追いやったのは誰なのか。村主を父親と同じ目に遭わせようとしたのは誰なのか。
 全身にぞわぞわと悪寒が走り、その細かな波に合わせて吐き気が襲い来る。
 繰り返し吐くたびに涙が零れた。昼間の食べ物は全て出したというのに、それでもまだ吐き足りないのか、わずかに染み出た胃液までその対象となっている。
 喉の奥がえぐられるように痛かった。唯一、体温を感じるものと言えば、嘔吐の反動で絞り出された涙だが、それも頬をつたって落ちる頃には冷たくなっていた。
 「……誰か……」
 滅多なことでは弱音を吐かない透だが、この時ばかりは苦しさのあまり助けを求めていた。
 「全部吐いたら、一度出て来い。控え室で待っている」
 トイレのドア越しに低い声が聞こえた。コーチの日高だと思う。
 まだ少し吐き気は残っていたが、透は口元を押さえながらも出口に向かった。そうでもしなければ、暴走を続ける記憶から永遠に抜け出せないような気がしたのである。
 手を洗い、口の中をゆすいだ後で、鏡を覗いて驚いた。
 ろう人形のように真っ白な顔をした自分が立っている。透自身、そこが鏡だとの認識がなければ、死人と間違えたかもしれない。それほどまでに、鏡に映る顔には生気がない。
 先程から皆に気遣われていた原因がようやく分かった。負傷した村主よりも、透の方が気を失いそうな顔をしていたからだ。

 トイレを出てから廊下の壁に寄り掛かるようにして歩いていくと、光陵学園の控え室の扉が開いたままになっており、中では日高が腰を下ろして待っていた。
 試合前に入室した時にはテーブルと椅子だけの殺風景な部屋の印象しかなかったが、今はどこよりも安全な場所に思える。
 わずかだが日も当たるし、外からは歓声も聞こえる。何より人がいる。死人ではない、温かな血の流れる生きた人間が。
 日高は青白い顔の透を見ても驚きもせずに、無精ひげの生えた顎をしゃくって、隣の空いている席を示した。それから「水分補給をしておけ」と言って、レモン入りのサイダーを二人の前のテーブルに置いた。
 透は手を伸ばしかけて、少しの間、躊躇した。炭酸飲料が苦手というのもあるが、ここで飲み物を口にすれば、また不快な嘔吐に襲われるのではないかと不安になったのだ。
 「無理にとは言わんが、こういう時はこいつの方が効くはずだ」
 日高の助言が正確に聞き取れた訳ではない。ただパチパチと音を立てて弾ける泡を見ているうちに、その軽やかに動く液体が魅力的に思えて、手に取った。
 一口、二口と含んでみると、レモンの酸味と炭酸が程よい刺激となって、案外、楽に喉を通っていく。散々吐いた後で喉の奥には痛みがまだ残っているが、心配したような嘔吐もなく、不快感も少しずつ薄れていった。
 透は手にしたサイダーを半分ほど飲んでから、自分を襲った嘔吐の原因を話し始めた。
 「村主さんと、俺のせいで亡くなった恩人の顔が交互に浮かんだ。それから親父の顔も……」
 とても第三者に理解してもらえるような説明ではなかったが、たった今味わった恐怖を誰かに聞いて欲しくて、思いつくままに打ち明けた。
 「龍はどんな顔をしていた?」
 「分からない。ただ辛そうに見えた……ように思う」
 「そうか」
 殺風景な部屋の中に日高の低い声が響いた。
 「俺の場合は、試合直後のユニフォーム姿の龍だ。肩を押さえて倒れる瞬間の」
 透は日高の横顔を凝視した。
 コートを離れれば煩わしい程に過保護な日高がやけに落ち着き払っているのは、レモン入りのサイダーをタイミングよく出せるのは、彼にも同じ経験があるからだ。
 食い入るように見つめられているにもかかわらず、日高は淡々と話を進めた。
 「今じゃ二日酔いの時ぐらいだが、現役の頃はしょっちゅうだった。
 試合で勝つたびに吐いて、ランキングが上がるたびに吐いて、俺だけがテニスを続けて良いのかと思うたびに吐いた。
 誰に責められなくても、ご立派な言い訳で誤魔化そうとしても、こればかりはどうすることも出来ねえ。俺が俺を許せねえんだからな」
 それまで俯き加減で話をしていた日高が、つと顔を上げた。
 「今でも俺は、龍からテニスを奪った責任は自分にあると思っている」
 「そんな事はない」と言いかけて、透はその言葉を飲み込んだ。下手な慰めが何の役にも立たないことは自分が一番よく分かっている。
 透がいまだ過去の過ちに縛られているのと同様、日高もまた、高校時代の自分自身を許せずにいるのだろう。
 一旦、芽生えた自責の念は、他人の価値観ではどうにもならない。どんなに理路整然と説かれても、自分で自分を許せぬ限り、事あるごとに湧いてくる。
 時を隔て、生活環境を変えたとしても、生きている限り、永遠に続くのだ。
 普段はいかつい日高の顔が、ほんの一瞬、無防備な少年期に戻ったかに見えた。
 彼もこのスポーツセンターに思い出があるのだろうか。ゆっくりと控え室を見渡す仕草は、意図して遠い昔の出来事を呼び寄せているようだ。
 「ちょうど成田と唐沢のような関係だった。俺が部長で、あいつが副部長で。
 昔から龍は掴みどころのない奴だったが、あいつがチームにいると、不思議と色々なことが上手く運んでいた。
 俺が先頭に立ってチームを指揮して、龍が補佐をする。俺達に出来ないことはない。全国制覇も夢じゃない、と思っていたんだが……」
 そこで一旦区切ると、日高はしばらく天井を見つめ、口調を変えてまた続けた。まるで誰かを問い詰めるような、そんな厳しい口調であった。
 「あいつがしていたのは補佐じゃなかった。補佐というのは共に歩んでこそのものであって、そうでなければ……それは犠牲だ。
 龍は自分の体を犠牲にして、俺達をインターハイに行かせようとした。
 俺は部長として、あいつを止めることが出来なかった。それどころか、あいつが試合会場で倒れるまで故障を抱えているとは気付きもしなかった」
 日高の膝の上で固く握られた拳が行き場を失くして震えていた。
 透は彼の拳の上に自分の両手を重ねた。ごつごつとした拳は父のものより大きく、思いのほか温かい。
 その温度差が自分の手の冷たさからくると気付き、慌てて引っ込めようとしたのだが、それを日高がやんわりと制した。
 「まだ、こんなに小せえんだよなぁ。ハルキと同じ歳だ。それなのに余計なもん背負いやがって……」
 日高の声が擦れている。透の両手を柔らかく包んでくれている手のひらは温かなものなのに、部屋に響いた掠れ声はひどく悲しい余韻を残していた。
 「これから俺はどうすれば……?」
 放任主義の両親に育てられたせいか、透には常に自分の頭で考え、意思決定する癖がついている。だが、この件に関してはどうすれば良いのか、皆目見当がつかなかった。
 自分だけが苦しみから逃れようとは思わない。ただ、こんな厄介な体を抱えたままで、この先、テニスを続けていけるのか。その答えが欲しかった。
 「すまんな、トオル。俺にも答えられん。
 だが二度と起こって欲しくないと思うことが、自分の中に恐怖心として存在する。お前の場合はケガに対する恐怖。まずは、それを受け入れることだ。
 残念ながら、その先は自分で見つけていくしかない」
 「おっさんも……まだ……?」
 「俺の場合は、ひょっとしたら墓の中まで持っていくかもしれんな。
 だがな、トオル? お前には仲間がいるだろ」
 「仲間?」
 「吐こうが、何しようが、一緒に歩いてくれる仲間がお前にはいる。
 独りで背負えなきゃ、頼れば良い。俺も龍にそうして欲しかった」

 日高が透の手を離し、部屋の入口に目を向けた。その視線を辿っていくと、扉の隙間から心配そうに中を覗き込む遥希の姿があった。
 ずっと入室の機会をうかがっていたらしく、彼は二人が気づいたと見るや、扉を開けて中に入り、海南高校との試合結果を報告し始めた。
 「シングルスも『6−2』でうちが勝ちました。副部長の石丸さんがコーチに『後日、改めてお礼に伺います』とおっしゃっていました」
 「そうか」
 通常、遥希が人前で日高に話しかける時は、父親としてではなく、その場に応じた肩書きで呼んでいる。テニス部では「コーチ」、テニススクールでは「オーナー」という風に。
 今回も透を意識してのことだと思った。ちらちらと探るような目付きでこちらを見やるのも。
 「それから、部長からも伝言が」
 「なんだ?」
 「いえ、コーチじゃなくて、あの……」
 一段と落ち着きのない態度で、遥希が透の様子をうかがっている。
 「俺に?」
 よほど話し辛い内容なのか。彼は無言で透の問いかけに頷くと、小さな溜息を一つ吐いてから、呼吸の勢いを借りて一気に吐き出した。
 「海南の敗北を背負う覚悟があるなら戻って来い。その覚悟がないなら戻って来るな。お前の代わりはいくらでもいる、って……」
 その無情とも言うべき内容に泣きそうになったのは、伝えられた側の透ではなく、伝えに来た遥希の方だった。大きく見開かれた瞳と言い、唇の震え方と言い、利かん気の強い子供が泣くのを堪えている時の表情そっくりだ。
 遥希は一息に伝言を吐き出すと、唇を震わせたままで「本心じゃないから!」と叫んだ。
 いつもクールな彼がこんなに声を荒らげたのは、初めての事かもしれない。
 「ハルキ?」
 「本心じゃない……と思う。本当はお前のこと、待っていると思う」
 唐沢から「余計なことを言うな」とでも釘を刺されているのだろう。言った後から遥希は、ばつが悪そうに目を伏せた。そして、もごもごと「俺も」と言い添えた。
 隣では日高がしかめっ面で頭を掻いていた。
 プロの世界で辛酸をなめてきた父親の目には、息子のフォローの仕方が頼りなく映るのか。あるいは、不器用な励まし方に自分の姿を重ねているのか。
 ついさっき透に「仲間を頼れ」と言った手前、不満そうな顔ではあるが、頭を掻く仕草は息子から視線を逸らすためのポーズのようで、それほど困った風にも見えなかった。
 「ハルキ? 手を貸してくれないか?」
 透はまだ感覚の戻らぬ右手を遥希に向けて伸ばした。
 ケガをしたわけではなく、独りで立ち上がれないこともない。しかし、今はこの不器用なライバルの助けが必要だった。
 いつもは嫌味の一つも返すはずの遥希が、黙って透のリクエストに応えて右手を差し出した。
 偉大な父親に守られて育った彼の腕には傷一つなく、血管が透けて見えるほど白かった。
 「あったかいな、お前の手」
 遥希は予想外の冷たさに驚いたようで、一瞬、出した手を引っ込めかけたが、すぐに前よりも強い力で握り返してくれた。
 彼の力強い腕に引っ張られるようにして、透は立ち上がった。体の震えは、もうない。

 「おっさん? じゃ、俺帰るわ」
 「そうか」
 「サイダー、美味かった。サンキュー」
 「必要になったら、いつでも作ってやる」
 日高とのやり取りを聞いていた遥希が、肩にかけていたラケットバッグをおずおずと前に差し出した。
 透がコートに放りっぱなしにしてきた荷物を、遥希がバッグに詰めて運んで来たのだろう。几帳面な性格を反映して、バッグのファスナーの金具が全て端のところできちんと止められている。
 透はいつもの習慣でファスナーを開けて、中身を確認した。バッグの中には帰国前、龍之介から渡されたラケットが入っている。
 グリップを握ると胸の辺りがトクンと動いた。冷たかった手足に血が戻り、徐々に体が温まっていく。
 すると、突然、遥希が声を張り上げた。
 「勘違いするなよ! お前を帰らせるために持って来てやったんじゃないからな!」
 どうやら彼には、透が帰り支度をしているように見えたらしい。不安げにラケットバッグを渡したのも、透がどこへ帰るか、確信がなかったからである。
 「バ〜カ! お前こそ勘違いするな。俺が帰ると言ったら、コートしかねえだろうが」
 色白の遥希の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。口の悪いライバルの復活に、嬉しさ半分、腹立たしさも半分といったところか。
 「次はブロック優勝がかかってんだよな? だったら尚更、俺が行かなきゃ始まんねえって。
 そうだろ? ハルキ?」
 「バッカじゃないの!?」
 遥希がこの台詞を口にする時は、本気で相手を馬鹿にしているか、嬉しいくせに照れているかの、どちらかだ。
 同じ台詞をもう一度。二度、三度。合計四回の「バッカじゃないの」を連発してから、真っ赤な顔のライバルは控え室から出て行った。
 「そんなに怒んなよ、ハルキ。一緒に帰ろうぜ!」
 さほど長くもない廊下を尋常ならぬ速さで歩いていく遥希。
 彼はどんな想いでこのラケットバッグを運んで来たのだろう。あのうろたえ方からして、彼なりの苦悩があったことは想像に難くない。
 今まで図太いと思っていたライバルが顔面蒼白でトイレに駆け込む姿を目の当たりにし、部長からはシビアな伝言を託され、思い悩んだ末に、先程の付け足しのような「俺も」に辿り着いたに違いない。
 透は控え室に残った日高に軽く笑んでから、ラケットバッグを担いで駆け出した。決して素直ではないけれど、共に歩もうと手を差し伸べてくれたライバルの背中を追いかけて。






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