第19話 閉ざされた友情

 松林高校との準決勝に続いて決勝戦でも勝利を収めた光陵学園は、二枠しかない東京都予選への切符だけでなく、地区最強の栄誉までも手に入れた。
 この栄えある優勝の瞬間を見届けた透は、歓喜の声で沸き上がる予選会場を後にして、村主が搬送された病院へと足を向けた。
 本来なら閉会式やその後の後片付けにも参加しなければならない立場だが、レギュラーとしての最低限の責務を終えたと同時に居ても立ってもいられなくなり、部長の唐沢に頼み込み、特別に早退の許しを得たのである。
 本音を言えば、試合中でこそパートナーに迷惑をかけまいとプレーに集中したものの、それ以外の時間はずっと村主のケガの具合が気にかかり、悶々と過ごしていた。
 透がまだ初心者の頃からの付き合いだ。単なるアクシデントと割り切るには、あまりにも関わりの深い相手である。
 時に先を行く者として苦言を呈し、時に同じテニス仲間として支えてくれた。良き先輩であり、恩人であり、目標にしていた選手の一人である。
 その村主にケガを負わせてしまった。
 幸いコーチやチームメイトのおかげで吐くほどの恐怖心はもうないが、あのケガが選手生命に係わる致命傷になりはしないか。後遺症が残るのではないかと、悪い想像ばかりが先に立ち、目の前で熱戦を繰り広げる仲間の勇姿も他人事のように見えていた。

 病院へはバス停で数えて五つ程の距離であったが、透はあえてバスには乗らず、試合後の疲れた体に鞭打って、走っていくことにした。
 ちょうど夕方のラッシュ時に突入していたこともあり、到着時間の読めないバスを苛々しながら待つよりも、己の脚力に頼ったほうが遥かに速いと踏んだのだ。
 息せき切って病院の正面玄関から駆け込むと、一階ロビーの受付のところに元部長の成田が立っていた。
 「真嶋、おめでとう。優勝したんだってな。さっき海斗から連絡があった」
 「ありがとうございます。それより村主さんは?」
 ほんの一瞬、成田が困惑気味に眉をひそめた。
 地区予選とは言え、強豪ひしめく激戦区での優勝だ。そこに至るまでの苦労を知るだけに、透の淡白な反応に驚いたようだが、そうならざるを得ない心情を察したと見えて、すぐに話を切り替えた。
 「とりあえず村主の病室に行くか。詳しい話はそこで……」
 透は思わず、前を歩き始めた成田の肩に手をかけた。先輩の話をこんな風に遮るなど礼儀を欠いた行為と分かっているが、その場で確認せずにはいられなかった。
 「病室って……どういう事ですか? 村主さん、そんなに悪いんですか?」
 頭の中が真っ白になった。試合の合間に想像していた最悪の事態が起きようとしている。いや、すでに起きているのかもしれない。
 「心配するな。入院と言っても、大したことはない」
 唐沢から予選会場での出来事を知らされているのだろう。成田は度重なる無礼な態度にも動じることなく、透の手をそっと肩から外すと、再び歩き出した。
 そして病室の前まで来ると、さり気なく後ろへ回り、
 「ほら、見ての通りだ」と言いながら、透の背中をポンと叩いて中に入るよう促した。

 「おう、トオル。来てくれたのか」
 八つのベッドが二列に並ぶ大部屋の一番奥から、村主が声をかけてきた。病院が用意したと思われるブルーの検査着を着ているせいか、コートにいる時よりも逞しさは半減して見えるが、それ以外は普段通りの村主であった。
 透がベッドの側まで近づくと、彼は大きな体を窮屈そうに折り曲げ、謝罪の言葉を口にした。
 「すまなかったな。嫌な思いをさせて。俺が無茶をしたせいで、大ごとになってしまった」
 「何を言ってるんですか!? 俺のせいです。俺があんなコースに打たなければ……」
 「それは違う。あれは完全に俺の判断ミスだ。お前のスマッシュを甘く見ていた俺の……。
 だから、もう自分を責めるな。いや、責めないでくれ。
 次の予選もあるんだ。俺のせいでお前達を煩わせたくはない」
 傷つけた人間が負い目を感じることで、傷つけられた側の人間も同じように負い目を感じることもある。村主の性格からして、自身の痛みよりも他人の痛みの方が辛いのだ。
 これ以上、彼を苦しめてはいけない。頭では分かっていても、上手い言葉が見つからない。
 本当は「気にしていません」と、一言だけでも返した方が良いのだろうが、正面切って嘘を吐けるほど大人ではなかった。
 何か彼の気持ちが楽になるような言葉はないものか。
 少ない引き出しの中から探してみるが、脳と舌とが直結しているテニスバカにテニス用語以外の用意はない。そうこうしているうちに時間が過ぎていく。
 ただでさえ辛気臭い病室が気詰まりな空間に転じるのは驚くほど早く、慌てて違う話題を探そうにも、白いカーテンの向こうも、そのまた向こうも、無表情でベッドに横たわる入院患者しかいなかった。
 「靭帯に損傷が見られるが、きちんと養生すれば元の生活に戻れるそうだ。骨にも異常はないし、さっきも話した通り、入院するほどのケガじゃない」
 透ひとりでは如何ともしがたい沈黙を取り払ってくれたのは成田であった。
 「ここは日高コーチの知り合いの病院で、スポーツ・ドクターが常駐している。リハビリの設備も整っているし、治癒後の再発予防の仕方まで教えてくれるらしい。
 本当は通院でも問題はないんだが、二十四時間体制で治療に専念した方が治りも早いし、今後、競技生活を続けていく上でも安心だという話になった」
 「それじゃあ、またコートに立てるんですね?」
 「当たり前だ。こいつがそう簡単に止めると思うか? たった一面のコートから俺達に勝負を挑んできた執念の男だぞ?」
 成田が場を和ませようと、柄にもなく飛ばした冗談に、村主が笑顔で応えた。
 「地区予選は逃したが、テニスコートが消えてなくなる訳じゃない。お前達とも、いつか必ず決着をつけてやるさ」
 「村主さん……」
 確かにテニスコートが消えてなくなることはない。その気になれば、いつでも試合は出来る。
 だが逃したものの重みを考えると、透はどうしても二人のように笑い飛ばすことが出来なかった。
 「打倒・光陵」を目標に掲げ、苦労の末にようやくそのチャンスを手にした村主。彼の五年越しの夢があの一瞬で砕けたかと思うと、砕いた側の人間がかけられる言葉はない。

 病室を出てからも、透は一言も話さなかった。村主の前では饒舌だった成田もまた、何も話しかけてこなかった。
 二人して押し黙ったまま長い廊下を歩き、気が付けば一階のロビーに着いていた。
 入院設備も有する大きな病院であるにもかかわらず、待合室を兼ねたロビーに人影はなく、受付も一箇所を除いて閉まっている。
 その閑散とした様子に違和感を覚えた透は、そこで今日が休日であることに思い至った。日高の口利きで特別に受診させてもらえたが、病院自体は休診日にあたるのだ。
 違和感の原因は他にもあった。
 人気のないロビーに差し込むオレンジ色の夕日。その光を受けて、車椅子や搬送用のストレチャーが金色に輝いている。
 病院が明るくあってはならないとは言わないが、夕日を浴びてキラキラと輝く様にはやはり違和感を覚えてしまう。
 これが小学生の時分なら、無邪気に綺麗と感じたはずで、その事に何の疑問も持たずにいただろう。
 それがいつの間にか世間の常識や固定観念に捕らわれ、自由で良いはずの感性に自ら歯止めをかけている。頭の固い大人にだけは断じてなるまいと思っていたのに、だ。
 ぼんやりと立ち止まる透を追い越して、成田が玄関脇の自動販売機の前まで来て振り返った。
 「真嶋はコーヒーより、紅茶派だったよな?」
 「あ、いえ、自分の分は……」
 慌ててポケットから小銭を出そうとする透を制して、成田がボタンを押していく。
 レモンティーに続いて、ココアの缶が一つ。甘い物好きの成田らしいチョイスである。
 「これから祝勝会だろ? その前に一息吐いていけ。高等部の祝勝会は、練習よりキツいから」
 彼はそう言ってレモンティーの缶を差し出した。

 好みの飲み物を手にした二人は、どちらからともなくロビーの長椅子に腰を掛けた。
 成田がココアに口をつけるのを見届けてから、透もレモンティーを一口含む。
 茶葉から淹れた紅茶と違い、味も香りも単一的だが、おかげで平常心を取り戻せたような気がする。
 今日は予期せぬ出来事が重なって、無意識のうちに自身に緊張を強いていたらしい。学校で飲み慣れた味が体の各所の強張りを溶かし、それが長い吐息となって口から漏れた。
 その頃合いを見計らったように、成田が切り出した。
 「真嶋は下手な慰めと取るかもしれないが、運も実力のうちだ。責められるべきは村主であって、お前じゃない」
 初め透は、聞き間違いではないか、と耳を疑った。
 事故の現場に居合わせ、負傷した村主に付き添い、彼の苦悩も目の当たりにした人間が、こうもあからさまに被害者を非難できるものなのか。
 恐らくその疑念は顔にもハッキリ表れていたと思うが、成田は気にせず先を続けた。
 「試合のレベルが高くなればなるほど、選手の実力とは別の不確定要素の存在が大きくなる。これからお前も、自分の実力とは関係のないところで泣かされたり、振り回されたりするだろう。
 だけど、その不確定要素とどう向き合い、味方につけるか。そこも含めて実力なんだ、と俺は思う」
 「村主さんには実力がなかったと仰りたいんですか?」
 「結論から言えば、そうなる。
 真嶋? お前は試合前、海斗からどういう指示を受けた?」
 「えと……全力を出す必要はないから、七割の力に抑えてミスなく守れと」
 「そうだろうな。俺も海斗の立場なら、同じ指示を出したと思う。
 あの試合は、実質、頂上決戦だった。優勝候補の部長同士の直接対決だ。当然、試合のレベルも高くなる。
 だからと言って、何も特別な戦術は必要ないし、余計な気負いは却って邪魔になる。
 対戦相手を観察し、試合の流れを読んで、勝つためにベストな選択をする。当たり前のことだが、これがいざとなると難しい。
 力の拮抗する試合では、一つひとつのプレーの中身が濃いから、ついそれを無駄にすまいと欲が出る。しかも、どちらもポイントを奪える位置にいるだけに、プレッシャーも半端ない。
 そんな中でラリーを続けていると、どうしても勝ち急いでしまう。
 海斗はそうなることが分かっていたから、真嶋に同じペースでミスなく守れと指示を出し、逆に村主はお前達のミスのないプレーにプレッシャーを感じて、自分達のなすべきことを見失った。
 その一瞬の判断ミスが、あの事故に繋がった」
 話を聞きながら、透は今朝、予選が始まる前に唐沢から言われた台詞を思い返した。
 適度な緊張は人間の能力を最大限に発揮させる。あれも透に不確定要素を味方につけさせる為の配慮である。
 ほんの少しココアに口をつけてから、成田がまた続けた。
 「あの時点で村主は、お前のスマッシュを無理して拾う必要はなかった。たとえ失点したとしても、引き分けだ。後々の可能性を考えれば、あそこは削っても良いポイントだった。
 真嶋? お前の村主に対する感情はともかく、これだけは事実として頭に入れておけ。
 この先、大会の規模が大きくなるほど、プレシャー、恐怖、焦りといった目に見えない障害が出てくるはずだ。
 これらの不確定要素の多くは精神面での弱さから来るものだから、大抵の選手は締め出すことに意識を傾ける。だが俺の経験から言わせてもらえば、その時に必要なのは受け入れる覚悟だ。
 自らが生み出した障害を認め、向き合い、消化する。この行程が苦痛だからと言って、目を背けた奴から脱落する。
 お前達はそういう茨の道に足を踏み入れた。今日の村主のあの姿は、明日のお前かもしれない。そのことを肝に銘じておけ」
 それは決して加害者となった透を慰めるために向けられた言葉ではなかった。村主を貶めるような厳しい評価も、この先、さらに高みを目指す後輩を思えばこその苦言である。

 透は改めて成田に尊敬の念を抱いた。彼のこの冷静な判断力が、海外のプロの養成所から誘いがかかる所以であり、光陵テニス部をここまで率いてきた男の強さでもある。
 だがしかし、その成田とこうして話が出来るのもこれが最後だ。来月には渡米が決まっている。
 もっと先の話だと思っていた先輩の旅立ちが間近に迫っていると気付き、透はつい胸の奥に秘めていた本音を漏らした。
 「部長? 俺、本当は部長と一緒にインターハイへ行きたかったです。
 あっ、いや……無理なことはよく分かっているんですけど、もっと部長に色々と教わりたかったなって……」
 成田の渡米は変えようのない事実で、本人も苦渋の選択をした末の結論だ。彼の穴を埋める為に、自分がアメリカから呼ばれたことも分かっている。
 しかし、いざとなると名残惜しさが出てしまう。
 「すいません、部長。つまらないことを言って」
 己の失言を悔いて頭を下げた透であったが、成田からはまったく別の返事が返ってきた。
 「真嶋、そろそろ俺のことを『部長』と呼ぶのは止めてくれないか? 第一、海斗に悪いだろ?」
 「あっ、すみません。唐沢先輩からは部長禁止命令が出てたんで。だから、俺の中では部長のイメージが成田部……えっと、成田先輩のままで」
 「海斗が?」
 「はい。試合中は一人のプレイヤーとして集中したいから、『部長』と呼ぶなと言われました」
 八十人からなるテニス部員の中で、唐沢とペアを組む透だけは現部長を「唐沢先輩」と呼んでいる。事情を知らない者には不思議に映るだろうが、これは本人たっての希望である。
 「そうか……」
 成田がふと頬を緩めた。
 常に厳格なイメージがつきまとう彼のその笑顔は、病院の待合室に差し込むオレンジ色の光よりもミスマッチで、甘ったるいココアを飲みながら苦言を呈するよりも不釣合いな光景に見えた。
 実は前に一度だけ、成田が笑うところを目にしたことがある。
 三年前、都大会の前日に偶然会った甘味処で、彼は部員の前では決して見せない素顔を晒した。あそこで過ごす時間が、部長の役を演じる彼に唯一許される「幕間」だと言って。
 しかし今のどこか物悲しげな笑みは、あの頃の屈託のない笑顔とは少し違う。
 それが、同じ笑みでも寂しさから来る悲しい笑みだと理解したのは、この直後であった。
 「少し妬けるかな」
 「えっ?」
 「さっき海斗が『トオルがそっちへ行くから、よろしく頼む』と話していた」
 「はぁ」
 「俺が海斗に名前で呼ばれることは二度とないから……」
 そう言って、成田はまた寂しげな笑みを浮かべた。
 透はどう答えて良いのか分からなかった。
 「二度と」いうことは、過去にはあったということだ。互いに名前で呼び合っていた時期が。
 二歳年上の兄・北斗が先に先輩としてテニス部に在籍していた為に、唐沢は同級生から「海斗」と呼ばれている。それは遥希が父親の日高と区別されるのと同じ理由である。
 しかし、唐沢が他の人間を名前で呼ぶのは聞いたことがない。自らスカウトしたという藤原ぐらいか。
 特に成田に対しては、最も信頼を寄せるチームメイトであり、親友であるにもかかわらず、不自然なまでに苗字で通している。
 二人の間に何があったのか。
 興味本位で先輩の過去に踏み込むのも憚られ、透はひとまず黙っていたのだが、その建て前に反する気持ちはしっかり表に出ていたようで、成田はひとつ頷きを入れてから話をし始めた。
 「海斗はどんな時でも、自分以外の人間とは一線を引いている。たぶん、真嶋が初めてじゃないかな。あいつの心を開かせたのは」
 「心を開かせるなんて、そんな大それたことじゃないッスよ」
 「いや、大それたことだ。俺が五年かけてやろうとして出来なかったことだから」
 その台詞と同時に、成田の顔から表情と呼べるものが跡形もなく消えた。

 五年前、当時中学一年生の成田と唐沢は、光陵テニス部始まって以来の期待のルーキーとして周囲から注目を集めていた。入部して間もない一年生が地区大会のレギュラーに抜擢されたことが最大の理由である。
 昔のテニス部は今のようなバリュエーションのシステムはなく、主な大会の出場選手は上級生から順に選出するのが慣例となっていたのだが、唐沢の兄・北斗が古い体質のままでは勝利は掴めぬと、実力重視の選抜方式を導入したのである。
 成田と唐沢はその一期生にあたり、北斗がテニス部にもたらした改革の象徴ともいうべき存在だった。
 テニス部員の中にはルーキー二人の才能に対する嫉妬から、北斗が個人的な感情で選手を選出しているとして不満を述べる者が続出したが、地区大会で結果を残してからは誰も何も言わなくなった。
 実際、成田の目から見ても、北斗は己の夢を実現させるためには手段を選ばぬ野心家で、身内だからと言って温情をかけるような甘い男ではなかった。
 その証拠に、テニススクールにも通ったことのない唐沢が成田と同じ扱いを受けたのも、兄の練習相手に無理やり付き合わされているうちに偶然にもその才能を開花させたからであり、仮に北斗の興味がテニスではなく、水泳や陸上といった一人でも練習可能な競技に向いていたなら、唐沢は今頃、ただのミステリー小説好きの高校生として平凡な毎日を過ごしていたに違いない。それ程までに兄の北斗は自己主張が強く、また弟の唐沢は大人しい性格だったという。
 性格も、プレースタイルも、そして生き方も、まるで正反対の兄弟だが、ことテニスに関しては、兄は弟の実力を認めており、弟は夢へと突き進む兄を尊敬していた。少なくとも成田にはそう見えていた。
 ところが「ある事件」を切っ掛けに、二人の関係に亀裂が入り、確執を抱えるようになった。
 「それって、北斗先輩と何かあったってことですか?」
 「詳しい事情は分からない。何度聞いても、海斗は口を開こうとしないんだ。
 ただ、事件が起きたのが都大会の当日で……」
 暗くなり始めたロビーに成田の悲しげな声が響いた。

 北斗のインターハイ出場の夢は、当初、六年計画で進められていたのだが、成田と唐沢のレギュラー抜擢が功を奏し、それまで地区大会敗退が常であった弱小校が優勝を果たすという大躍進を遂げた。
 これによりテニス部内では北斗の改革を支持する気運が一気に高まり、皆が一致団結して都大会上位入賞、そしてその先まで目指すようになっていた。
 ところが都大会の当日、成田と共にダブルスの出場選手に選ばれていた唐沢は試合会場に来なかった。
 何度携帯電話にかけても繋がらず、兄の北斗に理由を聞いても答えてくれず、事情も分からぬままに成田は一方的にパートナーの変更を言い渡された。
 しかし前日に「お前と一緒に戦う限り、負ける気がしない」と話していた親友の言葉を信じた成田は、頑なに変更を拒否し続けた。
 唐沢は必ず来る。心から信頼を寄せるパートナーが、自分に何も言わずに試合を放棄するはずがない。
 コーチの日高を始め、他の先輩からも説得されたが、成田は頑として聞き入れず、試合の直前まで待つと主張した。
 実際、当時の光陵テニス部には唐沢の代わりが務まるような選手は、シングルスに出場予定の部長、副部長を除いて他にはいなかった。急きょパートナーを変えたところで不戦敗するのと変わらない。
 成田の頭の中では、唐沢が欠けた時点でチームの敗戦も見えていた。
 結局、試合が始まる時間になっても唐沢は現れず、初戦のダブルスは不戦敗となった。それでも北斗と副部長が奮戦し、どうにかベスト8までは勝ち進んだが、成田の主張を通して唐沢の分もエントリーを済ませていた為に人員的な余裕もなく、全国大会まであと少しのところまで来ていながらチームは敗退したのであった。
 「俺はあの時、海斗を待つべきではなかった」
 恐らく何度も同じ後悔をしたのだろう。成田の声が擦り切れたテープのように掠れて聞こえた。
 「でも、俺が成田先輩の立場だったら、きっと同じことをしたと思います」
 透は成田と唐沢を、自分と遥希に重ね合わせていた。
 遥希とは親友と断言するには微妙な関係だが、テニスに関しては絶対に裏切らないという確信がある。たとえそれが一方的な思い込みであっても、透が同じ立場なら迷わず遥希を待つだろう。
 成田がつと席を立った。それは躊躇いもなく「同じことをした」と断言する後輩の真っ直ぐな主張から逃れるための行為に思えた。
 そして一歩、いや、半歩かもしれない。透との距離を取ってから、成田が振り向きざまに問いかけた。
 「そのせいで、あいつが自分を責め続けたとしても?」
 一瞬、透は言葉を失った。成田から向けられた視線が鈍色というのか。とても彼のものとは思えぬほど深く悲しい色に見えたのだ。
 「都大会の後、海斗はしばらく部活にも学校にも来なかった。本当なら退部を言い渡されても仕方のない状況だったし、たぶん、本人もそのつもりだったと思う。
 だけど、都大会で俺が取った行動をどこかで耳にしたんだろう。ある日、突然テニス部に現れて、コーチと先輩達に処分の撤回を求めて土下座したんだ。全テニス部員の見ている前で。
 海斗は何も言わなかったけど、俺には分かった。こいつは俺への償いのために戻って来たんだと。
 以来、海斗は事件のことで先輩達からしつこく嫌がらせを受けても言い訳せずに、テニス部員であり続けた。最上級生になってからは、部長である俺のサポート役に徹した。
 あの日から、俺達の関係は変わった」
 成田は一旦そこで区切ってから静かに告げた。
 「俺達は主従関係にあるんだ。信頼じゃなくて、義務で結ばれている。
 海斗は俺が望むことなら、何でもする。インターハイ優勝にこだわっているのも、俺がそれを望んでいるからだ」

 透は病室にいる村主を思い浮かべていた。加害者が負い目を感じることで、被害者が苦しむこともある。
 唐沢は成田に負い目を感じ、その姿を見て成田もまた自分を責める。どちらかが過去の過ちから自分を解放せぬ限り、二人はこの悲しい連鎖を繰り返す。
 彼等はそんなことを五年も続けてきたのだ。仲の良い部長、副部長の役を演じながら。
 想いの丈を吐き出して落ち着いたのか。成田の表情がほんの少し和らいだ。
 「俺はずっと海斗と対等でいたかった。親友として。ライバルとして。
 あの事件がなければ、養成所の推薦を受けたのは海斗の方だ」
 「それって、どういう……?」
 「俺がバリュエーションで部内のトップに立ったのは、北斗先輩が引退して、新人戦が始まる直前。つまり事件の後からだ。
 その前は北斗先輩が首位をキープしていて、海斗が二位につけていた。
 今でも、俺は思う。もしも海斗が本気を出したら、俺達の立場は入れ替わっていたと」
 「『本気を出したら』って、唐沢先輩は本気を出していないってことですか?」
 「手を抜いているという訳じゃないんだ。ただあの事件以降、海斗はテニスに対する情熱を自分で封印してしまったように見える。
 テニスが好きな自分を否定するというか、憎むというか。そんな風に感じる時がある」
 「まさか……」
 「北斗先輩と何があったかは分からない。でも意識的に自分を抑えて、本音の部分を他人に見せなくなった。
 だから今回、海斗が真嶋のことを『トオル』と呼ぶのを聞いて、嬉しい反面、羨ましくなった」
 目の前で先程と同じ寂しげな笑みが浮かんだかと思えば、突然、その笑顔が消えてなくなった。
 「ちょ、ちょっと成田先輩! 止めてくださいよ」
 成田が後輩である透に向かって、深々と頭を下げたのだ。
 「先輩、お願いですから頭を上げてください」
 困惑する透に構わず、成田はその姿勢を崩さなかった。
 「成田先輩?」
 「真嶋、海斗を頼む。本当は後輩のお前に託すことじゃないのは分かっている。
 だけど海斗の心を開けるのは、もうお前しかいない。
 あいつにもう一度、テニスと向き合って欲しい。俺に対する負い目じゃなくて、一人のテニスプレイヤーとして」
 そこには純粋に友を想う一人の高校生が立っていた。後輩を厳しく指導する厳格な部長ではなく。誰もが羨む才能を持ちながら、輝かしい将来を手にしながら、それでもたった一人の親友に想いを残す普通の高校生の姿である。
 「成田先輩? 俺はまだ練習に付いていくのがやっとで、唐沢先輩の気持ちも汲み取れないし、正直、何を考えているかも分かりません。
 でも、俺には唐沢先輩が成田先輩への償いだけでコートに立っているとは思えません。
 だって今日の試合でも笑っていましたから。背中を向けていたけど、後ろにいた俺にも分かるぐらい楽しそうでしたよ」
 「海斗が?」
 そう言って聞き返すのと同時に、深々と下げられた頭が勢いよく上げられた。成田の驚きが伝わってくるようである。
 「はい。松林との対戦なんて、後半はエンジン全開って感じでした。俺の調子が悪かったって言うのもあるんですけど、弟が相手なのに容赦なかったし」
 「あの海斗が? そうか……」
 安堵の笑みと共に、再び成田が崩れるように頭を下げた。恐らく頭を下げたのではなく、上げられなくなったのだ。
 俯く成田の背中が不規則に揺れている。それに気づいた透は、黙ってその場を離れた。
 もしも相手が遥希であったなら、冗談の一つでも言って慰めたかもしれない。しかし後輩の立場で出来ることは限られている。
 少なくとも、透からの ――友を友として、同じ目線でいられる者からの―― 言葉では役には立たない。
 親友と対等であり続けたいと願う成田と、その成田に負い目を感じ、あえて距離を置こうとする唐沢。彼等から見れば、たとえ犬猿の仲であっても、闘争心剥き出しで張り合える後輩二人は恵まれていると映るだろう。
 たった一度のすれ違いで、接点を見失った先輩達のことを考えると、胸が痛かった。過ぎた時間を呼び戻すことは、やはり叶わぬ夢なのか。

 透が人気のないロビーから玄関を通って外へ出ると、薄暗がりの中で見覚えのある影が立っていた。
 どこにいても、初めて来た場所のようにキョロキョロと不安げに辺りを見回す。いつもは危なっかしくて、心配になるのに、今はその危なっかしい人影にひどく安堵した。
 「奈緒?」
 透の姿を認めた彼女は、数時間前、一緒に昼食を取ったにもかかわらず、待ち人に会えた喜びを丸い瞳に目一杯湛えている。
 「もしかして、ずっとここで?」
 「ううん。いま着いたばかり。
 あのね、唐沢先輩が『祝勝会の場所を教えていなかったから渡してくれて』って。これ、預かってきたんだけど……」
 彼女から渡されたメモ紙の切れ端には、いかにも面倒臭そうに描かれた地図が記されており、よく見ると、それはいつもテニス部が行事のたびに使用する馴染みの店だった。
 渡す必要のないメモを彼女に託したということは、理由はただ一つ。
 「サンキュー、奈緒。せっかくだから、家まで送ってく」
 「えっ? でも祝勝会は?」
 「お前と寄り道してから来いって、唐沢先輩からの伝言だ」
 「そんなこと書いてあった?」
 自分を見つめる彼女の瞳には大きな疑問符が浮かんでいるが、透は自信を持って答えた。
 「ああ、書かれていなくても俺には分かる。なんたって、俺は唐沢先輩の相棒だからな」
 唐沢は全てを封印したわけではない。テニスに対する情熱も、人との触れ合いも。いくら封じ込めても溢れてしまう感情を、すでに本人も持て余している。
 それが透だけでなく、成田にも、そして確執を抱えた兄・北斗にも、素直に向けられる日が来るのではないか。そうあって欲しい。
 透は雑に描かれた地図を大切にポケットにしまうと、奈緒と共に病院を後にした。






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