第2話 VS ハルキ 再び (前編) 

 やはり東京の空は濁っている。壁打ちボードの向こうに広がる夕焼けがあまりに変わらな過ぎて、透は思わず苦笑した。
 突然の父親の転勤により、不本意ながらテニス部を退部したあの日。夕暮れの中、独り壁打ちボードに向かって、やり場のない怒りをぶつけたことを覚えている。
 当時、中学一年生の透に選択の余地はなく、受け入れがたい運命を前に無防備な我が身を晒すしかなかった。
 己の非力を恨みながら、涙で歪んだ壁打ちボードを睨みつけ、ひたすらボールを追い続けた泥だらけの記憶。
 あの日の夕焼けも、こんな冴えない色だった。岐阜はもちろん、アメリカの空とも明らかに違う。
 まるで一枚のすりガラスを通して見るような、くすんだ茜色が昔は嫌で嫌で仕方がなかった。けれど、三年の月日を経て仰いだ空に嫌悪は感じない。むしろ余計な物を見えなくするこの空が、今の自分には似合いに思えた。

 「真嶋。せっかくだから、人間相手に打たないか?」
 三年前とまったく同じ台詞で声をかけてきたのは、唐沢だった。
 あの時も、彼はこんな風に軽い調子で透をコートに誘い、無言でラリーの相手をしてくれた。
 懸命に涙を堪える姿から、同情や慰めは無用だと分かっていたのだろう。途中で堪え切れなくなって、我慢に我慢を重ねた涙を大量放出した時も、彼は慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ優しく頭を撫でながら「必ずここへ帰って来い」と言って送り出してくれた。
 あの時の約束があったからこそ、アメリカでも自分を見失わずに済んだのだ。
 恩ある先輩を前にして、溢れ出る言葉は一つではない。
 だが、それらを胸の内にしまうと、透は試合のチャンスを作ってくれたことへの礼を言うに留めた。
 「唐沢先輩。さっきは、ありがとうございました。先輩のフォローがなかったら、今頃アメリカへ送り返されているところでした」
 「いや、俺の方こそ……」
 途中まで言いかけて、唐沢も本来の目的を思い出したと見えて、透にテニスボールを投げてよこした。
 「お互い、話は試合が終わってからにしようか。アップの相手、俺で良いか?」
 「はい、お願いします」

 唐沢とは中等部から合わせて四年以上の付き合いになるが、彼が自ら後輩のウォーミング・アップを買って出るなど、今までになかったことである。珍事としか言いようのない光景に、千葉は小首を傾げた。
 チームの命運を左右する程の重要な試合でもなく、金儲けの要素もない。元部員をレギュラーに復帰させる為の、言わば形式だけの校内試合に、「副部長の皮を被ったギャンブラー」とあだ名される先輩が、自分から、しかも無償で、手を貸すメリットは何なのか。
 これが本来のあるべき姿だという常識的見解は別にして、唐沢の裏の顔までよく知る千葉にはどうにも合点がいかない。
 「どうした、ケンタ? 真嶋をハルキと対戦させるのが、そんなに不安か?」
 よほどの困惑顔を晒していたのか。金網フェンスの外側から二人の様子を凝視する千葉のもとへ、部長の成田が歩み寄ってきた。
 「ええ、まあ……」
 さすがに「唐沢が副部長らしくて驚いた」とは言えず、千葉は曖昧な答えを返した。
 「確かに三十六時間のフライトの後で、ハルキと対戦するのは厳しいだろうな。どこまで実力を出せるか。
 だけど、もし……もしも真嶋が勝利したら……」
 「えっ?」
 とっさに千葉は聞き違えたと思った。どの部員に対しても頑なに同じ姿勢を貫く成田が、贔屓とも取られかねない発言をするなど、あり得ない。
 「ケンタ、真嶋を頼む」
 「頼むって、どういう?」
 「これからは更に厳しい道のりになるはずだ。お前にも辛い役目を負わせてすまないが、その持ち前の明るさで真嶋を支えってやってくれ。頼んだぞ」
 硬い表情を崩さず言い置くと、成田は試合の査定をする為にコートの中へ入っていった。

 今日の先輩達は、何かがおかしい。漠然とした感覚的なものだが、千葉はそう直感した。
 そもそも透の帰国が部員達に伏せられていた事からして妙である。
 中学部時代にたった四ヶ月しか在籍していなかったとは言え、今ここにいる面々とは知らぬ仲ではない。それどころか、悔し涙を残して去っていった彼の復帰を、どの部員も心待ちにしていたはずである。
 さすがに日が経つにつれて話題に上る頻度は少なくなったが、誰もが小さな奇跡を信じていた。
 本来なら真っ先に通達されても不思議ではない嬉しいニュースが、何故かひた隠しにされており、首脳陣の間で極秘事項として進められていた。
 何かが起ころうとしていることは間違いない。後輩の復帰が単純に嬉しいニュースとはならない重大なことが。
 「ケンタにしては、鋭い推理だ」
 ウォーミング・アップの相手を終えた唐沢が、いつの間にか傍らに立っていた。
 「えっ!? 俺、何か喋っていました?」
 頭の中での考察に収めたつもりが、余計なことを口走っていたのか。うろたえる千葉を横目に、唐沢が何でもないことのように、しれっと種を明かした。
 「ケンタの場合は、視線と表情で何を考えているのか、見当がつくからな」
 「俺って、そんなに顔に出ますか?」
 「分かり易さで言えば、真嶋の次にお前かな。
 『今日の先輩達は様子がおかしい。ボランティアとは無縁の唐沢が後輩のアップを進んで手伝っているし、規律と公平さを重んじる堅物部長はなぜか一人の部員に肩入れしているようだし、天変地異でも起こらなければ良いが』と、こんなところか?」
 「あ、いや、そこまでは……」
 慌てて否定すればするほど、その指摘が正しいことを物語っている。
 相手は軍師と呼ばれる切れ者だ。ここは素直になった方が良い。
 千葉は思い切って、自分なりの結論を唐沢にぶつけた。
 「もしかして、部長に何かあったんですか? その……もうすぐ居なくなるとか?」
 これといった確証はなかったが、千葉にはそうとしか考えられなかった。
 首脳陣の不可解な行動は、光陵テニス部を根底から揺るがす程の大事から来るものに違いない。そうなると、疑わしきは部長の成田だ。何より、先程の成田の台詞はもうすぐここを去る者の言葉に思えてならない。
 「唐沢先輩?」
 返事を促そうとした矢先、唐沢がふうと溜め息を漏らした。これも“らしからぬ”行為である。
 「分かり易いわりには扱いにくいんだよね。お前とか真嶋みたいに、本能で動く奴。
 理屈より直感。視覚より嗅覚。それが案外鋭かったりするから、性質が悪い」
 「はあ……」
 初めはいつもの調子で話をはぐらかされるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 人を煙に巻く時や、陥れようとする時、唐沢は決まって胡散臭い笑みを浮かべる。今の彼は何事かを思案しているようだが、その口元はきつく引き結ばれていた。
 千葉は次の言葉をじっと待った。
 「お前の推測通り、この試合が終わったら色々なことが大きく変わる。
 ケンタ、その前に頼みがある。もしも真嶋が勝ったら、俺を信じて付いてきてくれないか?」
 事の次第を一切省いた乱暴な問いかけに、千葉は黙って頷く外なかった。
 それは先輩達の“らしからぬ”言動のせいでもなければ、自身の直感に頼ったわけでもない。地区大会レベルの試合では大抵涼やかな顔で勝利を収める唐沢の首筋に、一筋の汗が流れていたからだ。

 コート上では、先にサーブ権を得た透がベースラインで構えていた。準備を終えて露になった肉体を目の当たりにして、千葉はなるほどと得心した。
 球技において、力を生み出す筋肉にはバネと同じ働きが求められる。無駄に太いバネよりも、細くとも隙間なく巻かれたバネの方が弾力性も高く、ボールに与える威力も大きい。
 ジャージを脱いだ後輩の体躯は、まさに高性能のバネを手に入れた、テニスプレイヤーの理想とするそれだった。
 千葉は今一度、無言で佇む唐沢の首筋に目を向けた。部内ナンバー2の彼がウォーミング・アップの短いラリーで汗をかかされたのは、偶然ではないらしい。
 この試合が終わったら、一体、何が変わるというのか。積極性とも意欲とも対極にいるはずの副部長に、「俺を信じて付いてきてくれ」などと勇将のごとき台詞を吐かせた、その背景となるものが気にかかる。
 少しの間、意識を余所へ逸らした千葉であったが、慌ててコートに戻した。視界の端に、しかもかなり上の方で、テニスボールの黄色い軌跡が見えた。あのトスの上げ方は、筋力の長い“溜め”を必要とするフラット・サーブに違いない。
 ところが、後輩の成長ぶりを見逃すまいと向き直った直後。上空に浮かんでいたはずのボールは姿を消して、次の瞬間には遥希の背後のフェンスを激しく揺らしていた。
 サーブのスピードが速すぎて、千葉の視力をもってしても、その軌道を捉えることが出来なかった。
 「あいつ、なんてサーブを……。高校生が打つ球じゃない。まるでプロのサーブだ」
 「ブレイザー・サーブ」
 千葉の嘆声に応えるように、透がその名を告げた。試合前、コーチと押し問答を繰り広げていたヤンチャ坊主は鳴りを潜め、幾多の激戦を制してきたテニスプレイヤーの顔になっている。
 「ハルキ。ナンバー4のお前を倒すんだ。最初から小細工抜きでやらせてもらうぜ」
 きつく相手を睨みつける視線は、闘争心を前面に出しながらも冷静さが感じられる。がむしゃらな戦い方しか知らなかった三年前から見れば、まるで別人だ。
 サーブ名の「ブレイザー」の意味は分からないが、千葉には特別な人か場所の名前に思えた。尊敬する人か、大切な思い出のある場所か。
 真剣な気持ちで打ち込まなければ許されない。そんな受ける側をも巻き込む気迫が、ひしひしと伝わってくる。
 明らかに透の放つブレイザー・サーブに圧されている。対戦相手の遥希も、そして傍観者であるはずの千葉自身も。
 「あのハルキが一歩も動けないなんて……」
 そう評するのが、やっとであった。

 「序盤はサービス勝負だろうな。どちらが先に相手のサーブを崩すか。ここが最初の分かれ目だ」
 唐沢の読みを裏付けるかのように、第二ゲームは遥希が主導権を奪い返した。三年の時を経て、彼のスライス・サーブにも磨きがかかっている。
 充分な回転が施されたボールは、振り下ろされた刃の切っ先のような鋭い弧を描き、サービスエリアからサイドへと抜けていく。しかも回転数によって軌道が変わる為に、タイミングを合わせるのが難しい。
 「この三年間で成長したのは、お前だけじゃない」
 口調は静かだが、透を見据える遥希からも、同様に強い闘志を感じる。
 再びライバルと対戦する日に備えて努力してきたのは、遥希も同じである。その険しく孤独な道のりは、先輩の千葉の目から見ても痛々しいほどだった。
 透に出会った時から、事あるごとに突っかかっていた遥希。いつもクールな彼が初心者を相手にしつこく絡む理由が分からず、不審に思ったこともある。
 今にして思えば、あの頃から遥希は透の中のまだ芽吹いてもいなかった才能を敏感に感じ取っていたのかもしれない。いつかこうして、最強のライバルとして挑んでくることも。
 だからこそ、同学年の誰よりも華やかな戦績を残していながら、決して気を緩めることなく、独りで走り続けていたのだろう。
 中学時代、成田や唐沢の代が引退した後のテニス部を実質引っ張っていたのは、遥希であった。
 谷間の学年と呼ばれる千葉の代では、ダブルスの伊東兄弟を除き、前年度の実績を塗り替えられる程の選手はいなかった。その歪みが必然的に遥希に圧し掛かっていた。
 一年生にしてエースの看板を背負わされ、翌年からは部長の重責に耐えながら、遥希は黙々と練習を続けた。
 東京都の新人戦で個人優勝を果たした時も、都大会で個人、団体、共に上位入賞を果たした時も、勝利の喜びに沸き上がる部員達を尻目に、彼だけはニコリともせず、練習があるからと言って独り自宅へ帰っていった。
 学校内外を問わず、同学年では向かうところ敵なしと称えられ、数多の勝利を手にしても驕ることなく、必ず戻ると信じたライバルに照準を合わせて努力し続けた。そこから生まれた結晶の一つが、あの切れのあるスライス・サーブである。

 唐沢の予想通り、互いに相手のサーブを崩す手立てが見えぬまま試合は進み、その拮抗した様子は数字にも現れていた。
 ゲームカウント「2−2」。両者譲らずのせめぎ合いの中で、最初に突破口を開いたのは遥希であった。
 フラット・サーブはスピードに目が慣れさえすれば、コースは明確だ。2ゲームを費やしてベストなタイミングを掴んだ遥希は、透のサーブを捕らえると、得意のドロップショットで反撃を開始した。
 「さすがだ、ハルキ。そう来なくちゃ、面白くねえよな!」
 序盤でサーブが破られることを予測していたのか。透は平然と言ってのけ、逆にその態度が気に入らないのか、仕掛けた側の遥希は無言であった。
 まだ何かある。警戒心を露にする遥希と同様、千葉もそう睨んでいた。
 「トオルの奴、サービスゲームをブレイクされたのに動じませんね?」
 このゲーム展開を軍師はどう見ているのか。探りを入れるつもりで問いかけると、唐沢は
 「真嶋の立ち位置をよく見てみろ」と言って、自らもそこに視線を置いた。
 「そう言えば、あいつ。さっきから、あの位置でサーブを受けていますよね?」
 千葉が指摘された個所へ目をやると、透はコートのセンター寄り、それも前方に立っていた。
 遥希のスライス・サーブは、コート中央からサイドへと逸れていく。その軌道に合わせるとしたら、もっと外側に構えていなければ捕らえることは難しい。それにもかかわらず、彼はずっと内側で構えている。
 「どういう事ですか?」
 「ハルキのサーブは、本来2パターンの攻撃方法がある。サイドに大きく逸れるコースと、コート中央を直線で低く弾むコース。この二つのコースを使い分けることによって、相手に球筋を悟らせないよう工夫している。
 ところが相手がどちらかのコースを塞げば、どうなる?」
 「つまり、トオルはわざとコートの内側に立って、直線コースを塞いでいるってことですか? 最初から、サイドに逸れるコースを狙って?」
 「ああ、しかも前に詰めることで、そのコースは更に限定される。サーブを強打されない為には、レシーバーから遠いところへボールを落そうとするだろ?」
 「そうか。レシーバーから遠いところを狙うなら、出来るだけネットの近くでバウンドさせて脇を抜くしかない。だからトオルはずっと前にいた。
 あいつ、そこまで考えて?」
 「そろそろ真嶋にも軌道が読めてきた頃だ」

 カーブを描くサーブは曲がり幅に変化をつけられる為に、スピード重視のサーブよりも軌道が読みにくい。ところが前へ詰めて変動の範囲を狭くすることにより、そのメリットを封じられる。
 ボールが遥希のラケットから放たれたと同時に、透が素早くサイドへ移動した。もともと優れた瞬発力の持ち主だと思っていたが、さらに磨きがかかったようだ。サイドに抜けるサーブを捕らえて返球すると、遥希がドロップショットを放った頃には、すでに彼はネット前を占領していた。
 「お前には、もう一つ借りがあったからな!」
 急激に落下していくショットを目で追いながら、透が挑発的な笑みを浮かべた。その直後であった。
 千葉が捉えられたのは、決まったと思った遥希のドロップショットが再び浮上して、ネットの白帯の上をつたって落ちる。その一瞬だけだった。
 まるでドロップショットが逆再生されたかのような不思議な光景に理論が追い付かず、千葉はまたも唐沢に説明を求めた。
 「唐沢先輩。一体、何が起こったんですか?」
 「ドロップボレーだ。ハルキのドロップショットを、真嶋がネット際からドロップボレーで返した」
 「そんな事が出来るのか」と言いかけて、千葉は我が目を疑った。
 普段はめったに感情を表に出さない先輩が、大いに違和感のある笑みを湛えている。
 賭け事で部員達を陥れる時の悪魔の笑みよりも大胆に。自身の試合で勝利した時よりも楽しげに。人が生来、誰からも教わることなく感情のままに浮かべる喜色の笑み ――それが何故か、唐沢が浮かべると不自然に思えるが―― を表情の乏しい口元が映し出している。
 「真嶋は前のゲームをわざとブレイクさせたんだ」
 本人も自覚があるのか。唐沢は口元を彩る感情を言葉で押さえ込もうと、普段から早口なのに、それをより加速させて話している。
 「わざと、ですか?」
 「ああ、一つはハルキのドロップショットの軌道を確認する目的で。そしてもう一つは、三年前の借りを返すために」
 「三年前の借り?」
 「覚えているか? 最初に真嶋とハルキが対戦した時のバリュエーション。あの時の内容を」
 「あの時は、確か……」

 記憶を辿る過程で千葉が初めに思い浮かべたのは、遥希のスライス・サーブに苦戦する後輩の姿であった。当時、初心者の透は回転球の特性も対処の仕方も知らず、切れ味鋭いスライスに翻弄されていた。
 そして次に透を苦しめたのが、遥希の決め球、ドロップショットである。彼はそのせいで一旦は掴みかけた試合の主導権を奪われ、それを切っ掛けにして崩れるように敗北した。まさに因縁のショットである。
 透が「借り」と言ったのは、あの時の苦い思い出から来ているに違いない。
 第5ゲームが終わる頃にはサーブを攻略されると踏んだ透は、ブレイクされるのを覚悟の上でドロップショットの軌道を確認することに専念し、そのタイミングを正確に掴んだ後に、ドロップボレーを使って再び試合の流れを手元に引き寄せたのだ。
 「あのトオルが、そんな先まで読んで試合をするなんて……」
 初心者の印象しかない千葉にはにわかに信じられない話だが、ゲームカウント「3−3」とブレイクし返した事実が、それを証明している。
 「この三年で真嶋はかなりの修羅場をくぐって来たんだろう。だが、本当の勝負はこれからだ。ハルキの三年も、これでは終わらない」
 早口で告げる唐沢の言葉に、千葉は大きく頷いた。もはや唐沢が感情を抑える為に口調を速めているのか、それにも増して感情が昂っているのか。よく分からなかった。
 先輩の異変にも関心を払えなくなるほど、千葉自身も身の内から湧き出る興奮に振り回されていた。公式戦ならともかく、校内の身内同士の対戦でここまで息の詰まる攻防を見せられたのは初めてだ。
 ここにいる全員が同じ気持ちだろう。コートを囲むフェンスからは、歓声はおろか、話し声一つ聞こえない。ピンと張り詰めた緊張の糸がコートの周りを覆っている。
 そのきつく張り巡らされた糸の中央から、遥希が透に新たな挑戦状を突きつけた。
 「お前さ、相変わらず甘いんだよ。三年前の借りなんて、まだそんなものに縛られていたのか?」
 「何だと?」
 「三年前の敗北にしがみついているようじゃ、俺は倒せない。お前がただの浦島太郎だということを、これから思い知らせてやる」
 常にクールな態度で試合に臨む遥希が、珍しく感情を剥き出しにしている。
 三年ぶりに見る光景だった。透と初めて対戦したバリュエーション以来の。
 都大会で個人優勝の懸かった試合でさえ淡々とゲームを進めていた遥希が、我を忘れて目の前の宿敵を叩きのめそうとしている。
 「この試合が終わったら色々なことが大きく変わる」
 これもその一端なのか。高みにいたはずの孤高のサラブレッドが牙を剥いて下りてきた。
 試合前とは明らかに違う。形振り構わず襲いかかろうとする姿は、彼の人格そのものが野生に戻ったようである。
 「ドロップショットは昔の決め球だ。見せてやるよ、俺の新しいウィニングショットを」
 ゲームカウント「3−3」。互いの三年間をぶつけ合うライバル対決は、新たな局面を迎えた。






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