第20話 10分だけのデート
病院の建物から明かりが見える。日暮れる前の早めの点灯は、中で過ごす患者達への配慮だろうか。
奈緒は正面玄関から少し離れた自転車置き場で立ち止まると、まだらに灯る小さな明かりを複雑な思いで眺めていた。
あの中のひとつに村主の病室がある。
村主とは直接の関わりはないが、透を介して彼がどのような人物であるかは知っている。
自校、他校を問わず、自分を慕うテニス部員をひとくくりに後輩として可愛がる親分肌で、透も初心者の頃から何かと面倒を見てもらったと聞いている。
だが皮肉なことに、その村主との対戦で不幸な事故が起きた。
テニス部の先輩達の話によると、村主のケガは選手生命を脅かすほど深刻なものではないようで、その点では不幸中の幸いと胸を撫で下ろしているのだが、高校生活最後の大会を不本意な形で終えた彼の胸中を思えば、手放しでは喜べない。
そして、この不幸な事故の加害者側に立たされた透は、今、どんな気持ちでいるのだろう。病院のベッドに横たわる村主を前にして、またも罪悪感に苛まれているのではなかろうか。
「奈緒? もしかして、ずっとここで?」
病院から出て来た透は、奈緒が案じた通り、ずいぶんと疲れた様子であった。しかし唐沢から渡された地図を見せると途端に笑顔になり、ここへ来た経緯を説明し終える頃には軽い冗談が飛び出すまでに復活した。
彼女よりも効き目のある“唐沢効果”を目の当たりにして、奈緒は胸の辺りが苦しくなった。
基本的に透は放任主義の両親に育てられたせいか、自立心が旺盛で、滅多なことでは人にはなびかない。唯一の例外が唐沢だ。彼の言葉だけは無条件に受け入れている節がある。
今日の予選でも、村主のケガで動揺を抱える透を立ち直らせたのは唐沢であったし、今も透を笑顔にしたのは唐沢から託された一枚の紙切れだ。
モヤモヤとした正体不明の感情が、さして広くはない心の中を支配する。
嫉妬ではないと思う。男の先輩に嫉妬するほど子供ではない。
どちらかと言えば、心苦しさのほうが勝っている。好きな人の力になれず、ただオロオロと成り行きを見守ることしか出来ない自分が無意味な存在に思えてならない。
しかもこんな時に限って、そのことを強く認識させるような事態が起きるのだ。
「サンキュー、奈緒。家まで送ってく」
「えっ? でも祝勝会は?」
「お前と寄り道してから来いって、唐沢先輩からの伝言だ」
「そんなこと書いてあった?」
「ああ、書かれていなくても俺には分かる。なんたって、俺は唐沢先輩の相棒だからな」
「でも、これ……」
せっかく笑顔を取り戻した彼氏を再び消沈させるつもりは毛頭ないが、奈緒には素直に頷けない理由があった。
和紀が病院を回って帰るならこっちの方が便利だと、予選会場に自転車を残していったのだ。弟なりの配慮だろうが、病院からスポーツセンターにかけては幹線道路沿いとあって歩道の幅が狭く、二人で帰るとなると一台の自転車は邪魔になる。
奈緒が遅ればせながら弟からの預かり物を見せると、案の定、テンポの良かった会話が途切れ、“唐沢効果”で復活したはずの笑顔も消えた。話の腰を折る、とはこのような状況をいうのだろう。
「ごめんね。和紀が置いていっちゃって。
テニス部の皆も待っていると思うし、トオルは寄り道しないで祝勝会へ行った方が良いよ。私は自転車で帰るから」
へしゃげた空気に耐えきれず、奈緒は言い訳もそこそこに自転車のペダルを踏み込んだ。
ところが勢いよく進みかけた自転車を、透が片手で押しとどめた。
「和紀がこいつを貸してくれたのは、こうしろって事じゃねのか?」
透は肩にかけていたテニスバッグを自転車のカゴに突っ込むと、奈緒からハンドルを奪い取り、片足をペダル、腰の半分もサドルに乗せて、いつでも走り出せる体勢で後ろの荷台を睨めつけた。
どうあっても奈緒を家まで送り届けるつもりのようだが、大きなテニスバッグを前に積んでの二人乗りは無理がある。安全性を考えると、どうしても躊躇してしまう。
おまけにこれは、四台の自転車を有する西村家の中で最もダサいランクに位置する父の愛車である。
前に買い物カゴ、後ろに荷台のついた重量感タップリの自転車は、日曜大工と園芸が趣味の父親がホームセンターで安かったと言って購入してきた「戦利品」だが、同時にいくら油を差してもどこからともなくギコギコと不快な音のする「欠陥品」でもあった。故に家族の誰からも相手にされず、必然的に父の愛車となったのだ。
よりによって、なぜ和紀はその欠陥品を乗って来たのか。これが西村家を代表する自転車だと思われたら、どうしてくれるのだ。
当初の安全性の問題から離れ、低次元の理由からアレコレ思案する奈緒を、透が珍しく急き立てた。
「早く乗れよ。祝勝会、終わっちまうだろ?」
「でも……」
さらに珍しいことに、奈緒の意見は無視された。
「とっとと行くぞ」
仕方なく荷台に腰を乗せると、一瞬ぐらりと自転車が揺れた。続いて、あのギコギコという不快な音が尻の下から響いてきた。
まるで重みに耐えかねた自転車の悲鳴を聞かされているようで、恥ずかしくて、申し訳なくて。発進してから五秒と経たないうちに、奈緒は降りたくなった。
父親に罪はないのだが「お父さんのバカ」と心の中で罵り、続いてダサい自転車をよこした弟にも恨み言を連ね、最後に透と付き合い始めてから本気で痩せると決心したのに、何故か体重を増やしてしまった自分に対して「私のバカ」と力を込めて罵倒した。
悲鳴を上げながらも二人を乗せた自転車は見る見るうちに加速して、頬に夜風を感じるまでになった。但し、それを心地よいと感じる余裕は微塵もない。
「しっかり捕まってねえと危ねえぞ?」
前でペダルを漕ぐ透から注文がつけられた。
遠慮がちにサドルの後部に捕まる彼女を案じてのことだろうが、これ以上、しっかり捕まることの出来る場所は限られている。彼の上着か、本体だ。
奈緒は運転中の彼氏の背中をまじまじと見つめた。
この場合、「しっかり捕まれ」の要望に応えるには本体がベストだが、いまだ二人はキスや抱擁はおろか、腕を組んだこともない。学校の帰り道に人目を忍んでこっそり手を握り合うのがせいぜいの間柄で、いきなり彼氏の腰に手を回すなど、あまりにハードルが高すぎる。
踏ん切りがつかずに困っていると、かなり強い口調で「早く!」と急かされた。
基本的に何をするにも時間のかかる奈緒は、他者から急かされたことは山ほどあるが、透に限ってはただの一度もない。
試合で疲れているというのに運転しづらい自転車を漕がされ、その原因を作った張本人は彼氏の忠告も聞き入れず、後部席で心配の種を増やしているのだから、さすがに腹に据えかねるものがあるのだろう。
これ以上、彼を怒らせないように、まずは無難な線で上着の裾を握ってみる。
すると突然ブレーキがかけられ、軽やかに走っていた自転車は歩道の脇で停止した。
「頼むから! ちゃんと捕まっていてくれよ」
依然として透は前を向いたままだが、口調からしてかなり苛立っているようだ。
弟がいるとは言え、奈緒は異性の体のどの辺りに手を回せば良いのか、よく分からなかった。ベルトの見える服なら見当もつくが、ゆったりとしたジャージの背中は上半身と下半身の境目が判別しづらい。
ただ下手に後ろから手を回せば、大変なところを掴んでしまうという小学生レベルの知識はあった。
透の剣幕に押されて、奈緒がそろそろと手を伸ばすと、幸運にもウエストのゴムと思しき膨らみに指先が触れた。
ここなら間違いないと安堵した矢先、手探り中の腕ごとぐいっと前に引き寄せられた。
いま奈緒は透の背中にぴたりと体を密着させて、ユーカリの木に捕まるコアラのごとき体勢を取らされている。
驚きのあまり声も出せず、だからと言って拒絶も叶わず。無言で慌てふためく奈緒に構うことなく、再び自転車は悲鳴を上げて走り出した。
たまに通学路でカップルが二人乗りをしている光景を目にすることがある。
電車などで人目も憚らずいちゃつくカップルよりはよほど健康的で、それでいて二人の親密度が感じられ、微笑ましいというか、羨ましいというか。自分も一度はやってみたいという憧れもあった。
だがしかし、憧れの二人乗りは奈緒が想像していたよりも窮屈なものだった。
朝から気合を入れて、慣れない化粧をした己の愚行を恨めしく思う。
頬の赤みを隠すだけのファンデーションと、薄っすらと色づくオレンジ色のリップを化粧と呼ぶかは別として、そのせいで彼の大事なユニフォームを汚しはしないかと、心配で顔を近付けることが出来なかった。
その結果、奈緒は荷台に対して横座りしながら、上半身は前傾姿勢で透の背中に抱きつき、さらに顔だけは限りなく横に背けるという、雑技団並みのポーズを強いられている。
これはちょっとした拷問だ。健康的かもしれないが、断じて微笑ましくはない。
後部席の苦悶をよそに、透は黙々とペダルを漕いでいる。試合の帰りは大抵興奮して、こちらの相槌が追いつかないほど喋りかけてくるはずなのに。
二人の間に会話はなく、自転車から漏れる不快なギコギコ音が鳴り響くだけだった。
病院から三十分かけて、ようやく通学路の途中にあるいつもの河原が近くに見えた時、透が前を向いたまま呟いた。
「ごめんな。休みなのに付き合わせて」
「気にしないで。どうせ暇だし」
「毎日練習ばっかで、会う時間もほとんどねえし、休みの日もこんなで。
映画とか、遊園地とか。ほんとは行きたいところ、あるんだろ?」
「良いって、そんなの」
「良くねえよ! 奈緒はいつもそうやって俺の都合を優先してくれんのに、俺は何にも返せなくて。何にも出来ないくせに、お前に遠慮されると腹が立って……」
自転車のスピードが徐々に落ちていき、早送りに流れていた風景がペダルと共に停止した。
透の背中が小刻みに震えている。項垂れているので表情は分からなかったが、何かに耐えているような痛々しさを感じた。
奈緒の脳裏に先程の病室の明かりがチラリと浮かぶ。
もしかしたら、透はまだ村主のケガを引きずっているのかもしれない。あるいは、他にも病院で何か彼の気が滅入ることがあったのか。
奈緒は自転車の荷台から降りると、わざと横柄な態度で項垂れている透に詰め寄った。
「じゃあ、今からデートして?」
「えっ……? 今から? どこへ?」
「ここから私の家まで」
「それって、デートって言うのか?」
「良いの。私がデートって言ったら、デートなの!」
時間を確認すると、ちょうど夜の七時であった。
ここから奈緒の家までは歩いて十分程度の距離である。祝勝会にはギリギリ間に合う。
その算段を立ててから、奈緒は強引に透の腕を引っ張り、河沿いの通りを歩き始めた。
「ほら見て、トオル? 立ち葵、もう咲き始めてるよ?」
「あ、ああ……」
「帰国してから見るの、初めてだよね?」
「うん、そうだけど……」
いつものように会話が弾まない。
とりあえず目についたものから順番に声にしてみるものの、普段は聞き役専門の奈緒が透の気を引くような話題を提供できるはずもなく、結局、病院を出発する時から感じていた気まずさを再確認する結果となった。
今となっては、不快なギコギコ音が懐かしい。少なくとも沈黙を意識させない程度には役に立っていた。
それに引き換え自分は、今日一日、いや、もっと前から透のことだけを見てきたくせに、肝心な時に役に立たない。せめて彼の負担になりたくないと、無理矢理デートを始めてみたが、ますます彼を困らせている。
思いつきでデートなどと言わなければ良かったと、後悔しかけた時。透がぽつりと呟いた。
「弁当、美味かった」
「ほんと?」
「ああ、三年間の練習の成果がバッチリ出てた」
「どうして、知っているの?」
「和紀が教えてくれた」
「もう、あの子ったら! お喋りなんだから」
透に料理上手と思われたい一心で、この三年間、奈緒は機会を捉えては弁当を作り続けてきた。だがそれは、あくまでもさり気なく披露してこそ「出来る女」と見られるのであって、必死さが露呈してしまっては元も子もないのである。
弟の無神経な言動に思わず頬を膨らませた奈緒であったが、どういう訳か、透はその子供染みた膨れっ面に好意を示している。
「何か、良いよな」
「何が?」
「奈緒と和紀を見てるとさ、俺にも姉貴がいたらこんな感じかなって」
「こんな感じ?」
「姉ちゃんが他の野郎に取られるのは面白くねえけど、幸せになって欲しいから、つい余計な口出ししてさ。でもって、姉ちゃんもヤンチャな弟に手を焼いているんだけど、やっぱり憎めなくてさ。
お互いちょっとズレてて、でも、そこも含めて分かり合えている。そういうの良いなって」
確かに、透のいう通りだ。透を待ち続けた三年間を最も近くで見ていたのは和紀である。
憎まれ口ばかり叩いているが、予選会場に顔を出したのも、自転車を置いていったのも、姉を想えばこその行為である。そして、奈緒もそんな和紀を愛しく思っている。
もしかしたら、いま透が必要としているものも、もっと単純で身近なところにあるのかもしれない。
「あのね、トオル? 私、本当に不満なんてないんだよ。
毎日こうして会えるし、すごく幸せだと思っている」
「だけど、休みの日に弁当を作らされて、平日は部活が終わるまで待たされて、デートだってした事ないんだぜ?」
「でも、一緒にいられるでしょ? 話したい時に話せるし、テニスコートに行けばトオルに会える。
これってね、今は当たり前だと思うけど、本当はすごく幸せなことだから」
「奈緒……」
テニスに関する専門知識はない。気分を盛り上げるような会話も出来ない。
しかし等身大の姿を晒すことで、今の想いを伝えることで、救われることもあるのだろう。自分を見つめる彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
そこはいつもの通学路で、交わされる会話に色気はなく、デートと呼ぶには平凡すぎるが、お陰で大切な人が笑顔になった。それで充分満足だ。
とは言え、たった十分の短いデートでは名残惜しさが付きまとう。ようやく二人とも普段通りに話せるようになったのに。
奈緒の思いとは裏腹に、目的の場所にはあっという間に到着した。
すっかり元気を取り戻した透は、身の丈以上の働きをした父の愛車を自宅の庭先まで運ぶと、花マル印が浮かんできそうな笑顔を残してテニス部の祝勝会へと向かった。
暗がりの中、白いジャージが小さくなり、曲がり角でふいっと消えた。
「行っちゃった……」
病院で感じた窮屈な痛みが、胸の奥で甦る。
やはり嫉妬かもしれない。自分より頼りになるテニス部の先輩と、透の中で重要な位置を占めるテニスに対して。
先程の言葉は嘘ではない。日本とアメリカで離れ離れになっていた頃を思えば、今は毎日会えるし、幸せだと思っている。
けれど、透の負担になりたくなくて背伸びをしたのも事実である。
ごく普通のどこにでもいるカップルのように、映画や遊園地に行ったりして、予選とかインターハイとか、勝負事とは無縁の場所で彼を独占したいと思う。
テニスに打ち込む彼を応援する一方で、もっと一緒にいたい。時計など気にせずに、休日を共に過ごしてみたい、と願う自分がいる。
「わがまま、だよね」
人通りのない路地に溜め息を一つ置いてから、奈緒は踵を返した。
「明日は学校で会えるんだし、部活が終わってから一緒に帰れば良いんだし、メールだって出来るし」
一つひとつ前向きになれる理由を挙げて、自らを納得させようとした時だ。
遠ざかったはずの足音が近付いてくる。何事かと振り向きかけた奈緒の視界が、突如として白く覆われた。
自分の体を包む力強い腕と、洗い立てのシャツの匂い。顔を見ずとも、誰だか分かる。
「忘れ物?」
的外れな質問が、奈緒の口から飛び出した。こんなに強く抱き締められたのは初めてで、頭がパニックを起こしている。
「うん、まあ……そんなとこ」
的外れな質問に、透が合わせてくれた。
「なに?」
「大事なこと、言い忘れた」
独り言のような囁き声が耳元を掠めた。
「ありがとう」
体を抱き寄せる力強さに反して、少し掠れたその声は優しくて。照れ屋の彼が滅多に見せない優しさに、奈緒の胸は高鳴った。
「お前の誕生日は、ずっと一緒にいような」
「でも、次の予選が近いでしょ?」
胸の鼓動がますます激しくなる。
懲りずに背伸びをする愚かさを責めているのか。あるいは、慣れない抱擁に体が火照り出したのか。
いずれにせよ、今はまともな判断が出来る状態ではない。
「俺がそうしたいから。今度の誕生日は、何があっても部活を休む。
だから、ちゃんとしたデートしような?」
彼の好意に甘えても良いのだろうか。背伸びではなくて。
戸惑いながらも頷くと、透は安堵したように奈緒の額にコツンと自分の額を押し当てた。
ドリップ中のコーヒーの滴を思わせる、琥珀色の瞳がすぐ目の前にあった。遠目では分からない左目の上の古傷も。
息が触れ合うどころではない。まつ毛が触れ合うほど近くに彼がいる。
あの時の、告白後の保健室での続きが始まろうとしていることは、奈緒にも分かった。
琥珀色の瞳と同じ色をした前髪が奈緒の頬にかかる。それと同時に、温かな感触が唇を覆う。
男の人の唇がこんなに柔らかなものとは知らなかった。重ねられた唇と、その動きに合わせて伝わる頬の柔らかさも、自分のそれと変わらない。
コートの中で挑むような目をする彼から贈られたキスは、思いのほか優しく、繊細で、そしてあまりにも短かった――。
「あのさ、奈緒?」
困惑を露にした視線が、真っすぐ自分に向けられている。
一体、どうしたというのだろう。テレビや映画でイメージしていたキスは、もっと長くてうっとりするような間があった。
「その……出来れば、こういう時は……」
普段は歯に衣を着せぬ物言いの彼が、珍しく言い辛そうにしている。
「そのさ……こういう時は、目を瞑ってくれないか?」
何という失態。一生の不覚。短い口づけの原因は自分にあったのだ。
どうして気づかなかったのか。キスをする時に目を瞑るのは、女性としての最低限のマナーではないか。
子供のころから夢見たファースト・キスが、まさか未遂で終わるとは。いや、未遂ではない。やるにはやったが、失敗したのだ。
初体験ならともかく、ファースト・キスを失敗するなんて聞いたことがない。
時間にして三秒にも満たなかった。十秒以内なら無効になるとか、どこかに都合の良い決まりはないものか。
しかも問題はそれだけではない。
透にデリカシーのない女だと思われたかもしれない。キスをする際に、彼氏の顔面を瞬きもせずに凝視していたのだから。
自分が反対の立場なら、そう思う。たとえ突然のことで心の準備もなく、緊張のあまり忘れていたと、言い訳されたとしても。
「ごめんなさい」
とにかく、せっかくのムードをぶち壊しにした詫びを入れねばならない。あとは何を言えば良いのだろう。
まさか自分から続きを催促する訳にもいかない。しかし、もう一度チャンスは欲しい。
せめて世にいう「キスの味」とやらを自覚できる程度に、たぶん十秒ぐらいで出来ると思うので、やり直しのチャンスが欲しかった。
「そんなマジで謝るなって」
少し前まで自分を力強く抱き寄せていた彼の手が、気にするなという風に髪の毛をくしゃくしゃと撫でている。それは確かに親愛の情のこもった仕草であるが、今から口づけを交わそうとする恋人にするものではない。
どうやら透にその意思はないようだ。残念ながら、人生にやり直しが利くのはファースト・キスを除いた場合に限られるということだ。
「じゃあ、今度こそ行くわ」
どっぷりと自己嫌悪に浸かった奈緒を残して、透は通りに向かって駆け出した。
気のせいか、彼の足取りが軽やかに見える。とびきり面白い出来事や珍事件に遭遇した時、彼は決まって子供のようにスキップを交えた走り方をするのである。
「もう……最低」
奈緒が漏らした後悔まみれの溜め息と入れ替わるようにして、ポケットの中から携帯電話の陽気なメロディーが響いてきた。画面を開くと、たった今別れたばかりの透からメールが届いている。
基本的に面倒臭さがり屋の透からメールが送られてくることはなく、あったとしても用件のみの短い文章だ。
今回も大失態を演じた彼女に対して、送られてきたのはたった一行。だが、それを読んだ瞬間、奈緒の口元には笑みが戻った。
〈次のデートの時は、絶対、目瞑ってくれよな!〉