第21話 課題

 テニス部の部室に入るや否や、透は違和感を覚えた。
 「ダブルスの軽い打ち合わせ」と言われて来たのだが、それにしては人数が多い。
 普段ペア練習を共にしている唐沢と伊東兄弟は別にして、何故ここに滝澤とマネージャーの樹里までも同席しているのか。しかも分厚いファイルと薄気味悪い笑顔を伴って。
 透と同じ不安を抱いているらしく、陽一朗が一歩、また一歩と、後ずさりをし始めた。
 伊東兄弟の弟・陽一朗は、日頃から周囲に対して「双子の場合は兄も弟も関係ない」と対等な立場を主張するわりには、都合が悪くなると太一朗の背後へ回り込み、安全圏に身を隠してしまう。兄の背中を亀の甲羅代わりに使っているのである。
 その陽一朗が後ろに退いたということは、やはり何かあるに違いない。
 嗅覚鋭い先輩につられて透も反射的に身構えた。その矢先、唐沢からA4サイズの書類が配られた。
 「今日から陽一とトオルは、滝澤の指示に従って特練に入ってもらう」
 「特練ですか?」
 名前の挙がった二人が同時に互いの顔を見合わせた。
 「特練」とは通常の練習では補い切れない問題個所を重点的に強化するための特別練習の略である。
 インターハイ優勝を狙う光陵テニス部でレギュラーを任されている以上、東京都予選を控えたこの時期の特練に異論はない。
 透と陽一朗が顔を見合わせた理由は他にある。唐沢はともかく、何故、太一朗が特練のメンバーから除外されているのか。
 二人の疑問を見透かしたように、唐沢が二、三度軽く頷いてから書類を指差した。
 「地区予選の結果を踏まえて今後の方針を検討した結果、ダブルスに関しては個別に強化対策を取ることにした。
 俺の目から見て、陽一はスタミナ、トオルは平行陣での柔軟性に欠けている。それらを克服するための効果的な練習法を滝澤に組ませた。
 これがそのメニューだ」
 通常、透に対しては問答無用で話を進める唐沢だが、陽一朗を意識しているのか、今回はやけに丁寧な説明を加えている。
 「ここから先はコンビネーションだけでは通用しない。各校、チームを挙げての総力戦になるから、当然、俺達の戦歴やプレースタイルも調べ上げ、充分な対策を練った上で、勝負を仕掛けてくるだろう。
 苦戦必至のトーナメントを勝ち上がるには、たとえ思わぬ弱点を突かれてペースを乱されたとしても、すぐにゲームを立て直せるような必勝パターンを一つの軸として握っておく必要がある。
 今の手駒で言えば、陽一かトオルが前衛で、太一か俺が後衛に回った時がベストポジションだ。つまり、そこを強化することで、その軸は盾にも武器にもなる。
 言っている意味、分かるよな?」
 「要するに、苦手対策をしつつ、今よりパワーアップしちゃおうって事ですよね?」
 特練が単なる弱点補強の目的ではなく、自分達への期待が込められていると分かり、陽一朗の顔に満足げな笑みが浮かんだ。
 「そういうことだ。しばらくの間、俺と太一はシングルスと合同練習に入るから、陽一にトオルの面倒も見てもらうことになるが、頼めるか?」
 「もっちろん、任せちゃってください!」

 いつもながら唐沢は心理操作が巧みである。兄と差をつけられると途端に機嫌の悪くなる陽一朗から上手くやる気を引き出している。
 実際は弱点補強の意味合いが強いだろう。
 陽一朗のプレーにはムラがある。身体能力の高さは人並み以上だが、持久力がないために、太一朗が弟の体力を考慮しながらゲームプランを立てている。
 しかし、そんなやり方をしていては、インターハイ本戦での長丁場を戦い抜くことなど到底できない。今のうちに一つでも不安要素を取り除いておこうというのが首脳陣の考えだ。
 そして、恐らく自分も、と透は思った。地区予選では唐沢のリードがあったから、どうにか切り抜けられたが、一人前と呼ぶには程遠い。
 「よっしゃ、俺も頑張ろうっと!」
 自分自身に喝を入れ、透が陽一朗のあとを追って部室を出ようとした時だ。
 「ああ、それから一つ確認だが……」
 ごく自然に、ついでと言っても不思議ではないタイミングで、唐沢が呼び止めた。
 「地区予選でネットプレーに迷いがあるように見えたのは、俺の気のせいか?」
 「いえ……」と言ったきり、透はしばらく返事が出来なかった。
 確かにネット際でチャンスボールが来ると、迷いが生じることがある。ゲイルのドロップボレーを放つか、ジャンのアングルボレーで勝負するか。
 残念ながら遥希との対戦以降、練習においても、実戦においても、ジャンのアングルボレーが成功した試しはない。機会を捉えて挑戦するものの、肝心の手本となるフォームが浮かんでこないのだ。
 遥希との対戦では「火事場の馬鹿力」的作用が働いた。
 成田の渡米のかかった大事な一戦で、敗北は許されない。しかしながら、ライバルの遥希は透の予想をはるかに上回る強さで攻めてくる。
 逃げ場のない崖っぷちに追い詰められて、藁をもすがる思いで繰り出したジャンのアングルボレー。それ故、細かい手順も覚えておらず、今では幻の一打となりつつある。
 地区予選でも、プレッシャーのかかる試合なら再び奇跡が起きるやもしれぬと、密かにチャンスをうかがっていたのだが、いざ本番となると成功率の低いショットで失点することを恐れてしまい、結局、安全策のドロップボレーに頼っていた。
 ネット際でのこうした葛藤を、パートナーの唐沢は敏感に察知したに違いない。
 「いえ、気のせいじゃないです。どうしても完成させたいボレーがあって……」
 「例のアングルボレーか?」
 「はい、すみません」
 「いや、自覚しているなら良い。次の予選までには時間がある。まずは特練に集中して、それから対策を考えよう」
 厳しい叱責を覚悟したにもかかわらず、唐沢から聞かされたのは励ましの言葉であった。
 ネット際での迷いは失点に直結する。それを熟知している唐沢が何も言ってこないところを見ると、大方の察しはついているのだろう。
 アングルボレー習得に向けて透なりに全力を尽くしているが、今現在、手詰まりであることや、その為にここ数日眠れぬ夜を過ごしていることも。
 「本当にすみません」
 再び唐沢に頭を下げてから、透は部室を後にした。

 コートに入ると、早速、陽一朗が「遅いぞ、トオル!」と文句をつけてきた。
 先輩の威厳を示さんがための行為に見えるが、唇を尖らせているあたりが彼らしい。
 透はあえてそこには触れずに、ふと頭に浮かんだ疑問を投げかけた。
 「あれ、陽一先輩?」
 「何だよ?」
 「止めてくれたんですか? 『ウ吉』って呼ぶの?」
 さすがに高校生となった今では呼ばれる事もほとんどないが、中学時代、散々悩まされた『ウ吉』というダサいあだ名の名付け親は、他ならぬこの陽一朗だ。
 何度違うあだ名にしてくれと懇願しても聞き入れてくれず、高等部に復学してからも頑なに『ウ吉』と呼び続けた先輩に、一体、どんな心境の変化があったのか。
 後輩からの思わぬ切り返しに、陽一朗は少しの間、思案するポーズを取っていたが、そのうち面倒臭くなったと見えて、自慢の金髪をグシャグシャと掻きながら「もう飽きたから?」と疑問形の答えを返した。
 「飽きたって、それだけですか?」
 「それだけじゃないけど、今はそんだけ」
 「あの、おっしゃっている意味が分からないんですけど?」
 「だ・か・ら、あとで分かるってこと! 後輩だったら、これぐらい察しろよ」
 「はぁ、すみません」
 立場上、透が引いてはみたものの、自分に落ち度があるとは思えない。自ずと不満が顔に出る。
 いかにも「鈍い奴だ」と言いたげに睨みつける陽一朗に対し、透も負けじと「あんな説明で分かるかよ」と非難の混じった視線で訴えた。
 するとそこへ、滝澤が分厚いファイルを抱えてやって来た。
 「部長からも説明があったけど、今回の特練は個々の課題に合わせて作ったスペシャルメニューだから、各自、目的意識をもって取り掛かるように。漠然とトレーニングを重ねても無意味だからね。
 具体的に何をするかと言うと……」
 滝澤が用意したメニューは、透と陽一朗がネットを挟んでショートラリーを行なうという、基本はいたってシンプルな練習方法だ。
 ショートラリーとはその名の通り、サービスエリアの内側で行なうラリーのことで、早い話がテニスの縮小版である。
 但し、滝澤が提示した条件はボール二つを同時使用。しかも十分間のラリーと二分間の休憩を1セットとし、それを合計10セット。つまり二時間通してプレーするという、まさに特練と呼ぶに相応しいハードな内容だった。
 「貴方達の技術なら、ラリーの最中に球筋が乱れたとしても容易に立て直しが出来るでしょ? だけど二球同時となるとそうはいかない。
 相手の打ちやすいところへ正確に返球しなければ、もっと乱れたボールとなって戻って来るし、それを立て直す間もなく次のボールがやって来る。負の連鎖が起こるのよ。
 どう、これ? 制球力をつけながら持久力もつけられる、貴方達にピッタリのメニューでしょ?」
 やらされる側の精神及び肉体的苦痛はお構いなしで、滝澤はこの無茶苦茶な練習法をいたく気に入っているようだ。
 以前、透は滝澤の考案した特練の犠牲になったテニス部員の話を聞いたことがある。
 コート上での視野を広げるために三球同時使用でドッチボールをさせられ、ボールが当たって脳震盪を起こしたとか。瞬発力を強化するためにボクシング部、フットワーク強化のためにバスケットボール部と、無理やり仮入部させられて、それきり来なくなった部員もいるという。
 これらは光陵テニス部に伝わる「怪談よりも怖い話」として、後輩達の間で実しやかに囁かれている噂である。多少の尾ヒレ背ヒレは付いているのだろうが、生々しい事この上ない。
 迫り来る危険を察知して硬直し始める後輩二人に、滝澤がにこやかな笑顔で説明を続けた。
 「しばらくは、僕が用意したジュニア用のラケットを使ってね」
 「ジュニア用のラケット? なんで?」
 「リーチが短くなる分だけ脚を使うでしょ? 因みにガットもボールが飛ばないように緩めに調整してあるから、腕力だけで返そうとせずに、正しいフォームでしっかり振り切ること。
 ショートラリーだからと言って、甘く見ない方が良いわよ。一旦、ラリーが乱れると、負の連鎖を引きずったまま十分もコートを走り回ることになるからね。
 とりあえず今日は初日だから、これぐらいにしといてあげる。じゃあ、頑張って!」
 いそいそとコートを後にする滝澤の後姿から、透はようやく理解した。
 なぜ滝澤が薄気味悪い笑みを浮かべていたのか。なぜ陽一朗が「後で分かる」と態度を曖昧にしたのかも。
 「陽一先輩? これって、もしかして相当ヤバいんじゃ?」
 「ああ、もしかしなくてもヤバい。『ウ吉』なんてふざけていたら、確実に死ぬぐらいヤバい」
 陽一朗はそう言いながら、髪の毛を後ろで一つに束ねている。
 中等部の頃から一度も地毛の色を見せることなく、こまめに手入れを続けている先輩のことだ。ヘアスタイルにも彼なりのこだわりがあるのだろうが、どうやら今は見た目を気にする余裕もないようだ。
 「お前は気付いていないと思うけど、この特練は俺とお前がペアってところが一番ヤバいんだ」
 「それって、どういうことですか?」
 「トオル? お前の課題、何だっけ?」
 「えと、平行陣になってからの柔軟性に欠けていると言われました」
 「つまりお前の場合、ネットに詰めてからのボールの処理の仕方に問題があるわけよ。
 ダブルスの経験がないんだからしゃあないけどさ。ベースラインでの打ち合いと違って、平行陣のラリーでは短い距離で相手を崩したり、自分達が崩されるのを阻止しなきゃならない。
 そこで物を言うのは、手数の多さと正確さ。相手を翻弄するだけの豊富なショットと、自分達が墓穴を掘らない程度の制球力が必要になるんだけど、でもそれは一朝一夕で身につくモンじゃない。
 だから滝澤先輩は、まずお前にネット前での制球力をつけさせようとしているんだと思う。
 どんなボールでも確実に返球する力。それさえ備われば、あとは試合をやりながら引き出しの数を増やせば良いだけだから。
 逆に言えば、今のお前には制球力がない。そして、俺ッチにはスタミナがない」
 「つまり、俺達のどちらにも負の連鎖を引き起こす原因があるってことですか?」
 「そういうこと。だから、今回はマジでやるけど、ついて来れる?」
 いつもは千葉と組んで後輩をからかってばかりいる先輩の、こんな真面目な姿を見るのは初めてだが、不思議と違和感はなかった。それどころか、妙に得心できるものがある。
 『シングルス頼みの光陵』と言われた光陵テニス部がここ数年で強豪校の仲間入りを果たせた理由の一つに、伊東兄弟のダブルスにおける功績が挙げられる。そんな大役を担う先輩が、どこまでもお気楽なはずがない。
 スッキリと髪をまとめ終えた陽一朗に対し、透もジャージを脱いで応えた。
 「良いッスよ。その代わり、俺も本気出しますから覚悟してくださいね」

 特練を始めて一時間が過ぎた頃から、透は少しずつその効果を実感した。
 一見、ただのイジメかと思うようなメニューだが、そこには滝澤ならではの配慮があった。
 まず前半の一時間は陽一朗にリードされる形でラリーが続く。しかし持久力のない彼は一時間が経過した頃にペースダウンし始める。そこから先は、持久力のある透がリードしなければならない。
 この練習方法は、それぞれの長所で相手の短所を支えつつ、個々の能力を伸ばせるよう組まれている。
 同時に、ジュニア用のラケットも地味に役に立っている。
 滝澤は脚をより多く使わせる為だと話していたが、それだけではない。普段よりも軽くてガットの緩いラケットでラリーを続けるには、力や反動に頼らず、より正確にラケット面を調整し、フォロースルーもより丁寧に行わなければならない。
 これらはロングボレーやハーフバウンドで処理する際に必要となる動きであり、この基本フォームを繰り返し体に覚えさせることでショットが安定し、ネット前での制球力も上がる。
 体力的にはかなり厳しいが、この特練を続けていけばスキルアップは間違いない。ジャンのアングルボレーも完成させられるかもしれない。

 「滝澤先輩? あの二人、良い感じで伸びそうですね?」
 計測を任されたマネージャーの樹里が、ストップウォッチを片手に滝澤に微笑みかけた。
 「そうだと良いけど……」
 「何か心配ごとでも?」
 「陽一は良いとして、坊やの方がね」
 自慢のメニューを披露したわりには、滝澤の表情は暗かった。
 データ分析の達人にして、唐沢の知恵袋と称される彼が気がかりなこと。それは透の運動能力の変則的な伸び率にあった。
 アメリカにいた頃と帰国してからのデータを比較してみると、透の持ち味であるはずの瞬発力を示す数値の伸び方が異常に遅い。遅いと言うよりも、ある一定の数値まで伸びては逆戻りするという不可解な現象が起きている。
 あたかも越えたくないラインが存在するかのように、成長を阻む壁を作っている。全体的に停滞するのであれば本人の能力の限界とも取れるのだが、瞬発力だけとなると話は別である。
 中学時代からずっと彼の記録を取り続けている滝澤にも、何が原因なのか見当もつかなかった。ただ「何かある」としか分からない。伸び率を停滞させてしまう原因が。
 既存のメニューがあるにもかかわらず、今回、唐沢がわざわざ専用のプランニングと管理を滝澤に依頼してきたのも、分析名人にそこのところを探らせようと考えたからである。
 「まったく、ペアは似るって言うけど、ほんと見かけによらず繊細なのよね。あの二人……」
 滝澤が思わず漏らした溜め息に、マネージャーの樹里が首を傾げた。
 「あの二人って、真嶋と陽一ですか?」
 「うん? まあね。そういう事にしときましょ」
 溜め息は愚か者の結論と心得るべし。
 自らが唱える持論を思い出し、滝澤はふたたび頭をもたげた愚か者の結論を気付かれないよう胸の奥にしまった。


 陽一朗と透とで個別練習に入ってから二週間が経過した。
 順調な伸びを示す陽一朗に反して、相変わらず透の数値は不可解な現象を繰り返している。
 ジュニア用のラケットのおかげでショットはかなり安定し、制球力もついてきたのだが、自分のラケットに持ち替え、ラリーのテンポが上がり始めると、途端に乱れが生じる。
 「畜生、なんでだよ!?」
 自分だけ後れを取っているという焦りから、透は練習中にもミスが目立つようになり、互いの能力を引き出し合うはずの理想的な組み合わせは次第にその効力を失っていった。
 「そんなに焦るなって。同じように練習していても、数字に結びつくタイミングには個人差があるからさ」
 今まで負けず嫌いの後輩を挑発していた陽一朗も、さすがに限界を感じたらしく、慰め役に回っている。
 「だけど、俺だけこんなで。先輩にも迷惑かけてばかりだし」
 「俺ッチのことは気にしなくて良いの。だいたい他の奴と比較したって、どうなるモンでもないっしょ?」
 「でも……」
 「先輩の話は素直に聞けよな。散々、太一と比較してきた俺ッチが言うんだから、間違いないって」
 計測中にもかかわらず、陽一朗はラリーを中断してコート脇のベンチに腰を下ろすと、透にも一緒に座るよう促した。
 視界の端にマネージャーの姿が見えた。
 ストップウォッチを高く掲げ、背後の部室を指している。「部室で待機している」との合図だろう。
 マネージャーにも気を遣わせたことに罪悪感を抱きつつ、透は言われるがままにベンチに腰を下ろした。
 初めは先輩らしく何か言って聞かせるのかと思ったが、陽一朗にそんな素振りは少しも見られない。それどころか、彼は髪を束ねていたゴムを外すと、散らばった毛先を人差し指に巻きつけ遊んでいる。
 クラスの女子が暇な時によくやる仕草だが、陽一朗がすると、何故かそれが彼のオリジナルに見えてくる。子供のように気ままに遊ぶ姿がとても似合うのだ。
 少しの間、そうして遊んだ後で陽一朗が呟いた。
 「この髪さ、結構、手間かかってんだよね」
 愚痴でも、自慢でも、まして説教でもなく。世間話をする時の気負いのないトーンで話し始めた彼だが、その直後、また思い出したように毛先を人差し指に巻きつけ遊んでいる。何とも落ち着きのない先輩だ。
 「高校生にもなって金パなんて、周りからも『いい加減、大人になれ』って言われるんだけど、一応、こだわりがあるわけよ。
 知っている? 俺ッチと太一って、本当は誕生日が違うって。
 向こうは十二月十七日の二十三時五十五分で、俺ッチは翌日の零時十分に生まれたんだ。
 双子は誕生日が同じじゃなきゃいけないからって、二人とも十八日になっているけど、太一の本当の誕生日は十七日」
 ここで陽一朗は一息吐いて、透をチラッと見やってから、今度は空に向かって長い溜め息を吐きかけた。
 「たった十五分の差。それがなかなか埋まらないんだよねぇ」
 双子の兄弟、太一朗と陽一朗。しっかり者の兄とは対照的に、弟の陽一朗は落ち着きがなく、三年生の先輩達からは「事件の陰に陽一あり」とのお墨付きを賜るほどのトラブルメーカーだ。
 透がテニス部に入部しようと初めてテニスコートを訪れた時も、どこからともなく彼が現れて、いつの間にか全部員を巻き込む騒ぎとなっていた。
 だがそれも個性派ぞろいのテニス部では「そういう性格だ」と思われており、取り立てて気に留める者もいなかった。
 「双子って、スタートラインが同じだろ? だから否応なしに比べられちゃうんだよね。親も、教師も、子供の頃からずっと。
 何でもそつなくこなす太一と比べられるのが嫌で、わざと真逆なことばかりやってきた。
 この金パも、そう。双子の片割れじゃなくて、伊東陽一朗っていう単体で見て欲しくてさ」
 指先に絡め取られた髪の毛が、クルクルと回転してから勢いよく跳ねた。それに合わせて、滴が飛び散った。
 今まで自分のことで精一杯だったが、陽一朗にとってもこの特練はキツいのだ。束ねた髪に汗が染み込むほどに。
 疲れているのに余計な気を遣わせてしまったと、透が頭を下げようとしたところへ、陽一朗から思わぬ台詞が飛び出した。
 「初めてなんだ。太一以外の奴と組んで練習するの。
 正直、嬉しかった。俺ッチにも弟分が出来たみたいでさ。
 理屈抜きで、何か構いたくなるんだよね。太一もこんな風に感じていたのかな、なんて思ったり……」
 そう言って、陽一朗は自分の汗で濡れた指先を透のシャツに押し付け、ニッと笑った。
 これが陽一朗なりの励まし方なのだ。
 そしてまた、それに続く言葉も、その延長線上にあるものだったに違いない。決して可愛い後輩を追い詰める為のものではなくて――。

 「俺ッチの経験から言わせてもらうと、煮詰まった時はさ、客観的な視点っての? そういうのが案外役に立つからさ。
 だからあえて聞くけど、お前、なんでストッパーかけちゃうの?」
 「いえ、別にかけてるつもりはないんですけど」
 「いいや、かけてるね。お前とラリーやっていると、妙な間があんの。
 せっかく良い感じで続いてんのに、テンポが上がってくると、スッと冷めるいうか。急ブレーキがかかるというか。
 それが諦めちゃっているように見えるわけ。
 誰か強烈に意識する相手がいて、でも、そいつは絶対に超えられないって思うぐらい上手いから、同じレベルに上がろうとするとビビッて体が引いちゃう感じ? 心当たりあるんじゃね?」
 先輩からの思いがけない一言に、体が異様な反応を示した。背中がピクリと跳ねたあと、少し遅れて震えが走る。
 「どうして、そんなこと?」
 これ以上、聞いてはいけない。話を続けながらも、頭の片隅では危機感を抱いていた。埋もれた記憶が動き出しそうな予感がする。
 「そりゃあ、分かるさ。俺ッチだって、太一にコンプレックスありまくりだもん。
 太一の得意なショットだと思うと、変に意識して力が入ったり、逆に体が引いたりしてさ。
 まあ、あの部長相手じゃ、ビビんのも無理ないと思うけど」
 「えっ? なんだ……。意識している相手って、唐沢先輩?」
 「違うの?」
 「あ、いえ……」
 どうやら陽一朗は、超えられない相手を唐沢と勘違いしているらしい。
 いくつもの汗が首筋をつたって流れていった。まるで間一髪で命拾いしたような。そんな感覚だ。
 しかし覚悟したものとは違う名前を告げられ安堵はしたが、手足に震えは残っている。
 それを認めて、初めて透は自覚した。自分はショックを受けているのだと。気付かぬ方が都合の良かった深層心理を言い当てられて。
 偶然とは言え、陽一朗の指摘により数々の疑問が一つに繋がった。
 アングルボレーを放つジャンの姿が正確に思い出せない。特練を始めて二週間も経つのに、自分だけ成果が出ない。ラリーのテンポが上がるとストッパーがかかるのも。
 これらの原因は、全て自分自身の潜在意識の中にあったのだ。

 その頃、マネージャーから報告を受けた唐沢も同じ結論に達していた。
 アングルボレーを完成させることで、透は自身が死に追いやったという恩人との繋がりが絶たれることを恐れている。帰国と同時に数値が停滞したのも、それが原因だ。
 皮肉なことに、過去の思い出は今を懸命に生きようとすればするほど薄れて風化する。
 忘却 ―― その許しがたい行為を避ける為に、透は潜在意識の中でアングルボレーの完成を拒んでいる。
 完成しなければ忘れることはない。必死で思い出そうと努力する。たとえそのせいで自身の勝負球を一つ失うことになったとしても。
 唐沢はいつものように前髪にふうっと息を吹きかけた。本来ならば考えをまとめる為の行為が、今回ばかりは長い溜め息となって消えていく。
 「愚か者の結論か……」
 頭脳明晰な友の持論が頭をよぎる。
 このまま強引に特練を続けたとしても、透が自力で壁を打ち破る可能性は限りなく低い。最悪、精神に異常を来す場合も考えられる。
 現時点で選択肢は二つある。才能あふれる後輩の将来を犠牲してまでチームのレベルアップを図るか、否か。
 長い沈黙の後、唐沢はマネージャーに伝言を託した。
 「滝沢を呼んでくれ。特練は中止する」






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