第22話 爪痕

 銀色の光が近づいてくる。
 暗闇の中から音も立てずに近づくそれは、太陽のようでもあり、氷のようでもあり、いずれも違うような。けれど、どこかで見覚えのある光であった。
 輝き方は宝石に近いだろうか。
 吸い込まれそうなほど眩く冷たい光を、初め透は美しいと思った。
 だが、それがナイフから放たれたものだと気づいた瞬間、体が凍りつき、身動きが取れなくなった。
 一刻も早くこの場を離れなければ命が危うい。分かっているのに、手も足も動かない。
 今度こそ刺される ―― 迫り来る危険を察知して体が抵抗を続ける一方で、頭の中では覚悟が芽生えていた。ついに自分の番が回ってきたのだと。
 体の力がストンと抜けた。
 そうか。これは罰なのだ。
 透は無駄な抵抗を止めて、大人しくその身を差し出すことにした。
 何か思い残したことがあるような気もするが、罰であれば仕方がない。これが自分の負うべき運命だ。
 ところが無防備に佇む透の前に、何者かが立ちはだかった。
 背中を向けているにもかかわらず、透にはそれが誰だか分かる。赤い革のジャケットを羽織ったアメリカ人。再びあの悲劇が起ころうとしている。
 「何やってんだ!? そこをどけ!」
 身動きの取れない体で必死になって訴えかけるが、彼は背後の透には目もくれず正面を見据えている。
 「頼む、止めてくれ! そこをどくんだ! どいてくれ!」
 ナイフはすぐ目の前まで迫っている。
 「駄目だ、アンタは逃げてくれ! これは俺が受けなきゃならない罰なんだ!」
 暗闇で自分の叫び声が虚しく響く。鋭利な刃先はもう彼の腹部を捕らえている。
 銀色の光が消えてなくなり、痛みのない刺された感触が透の体を突き抜けた。
 どんなに叫んでも微動だにしなかった逞しい背中が崩れていった。
 「ジャン!」

 次は赤い視界が広がるはずだった。
 しかし透の目に飛び込んできたのは薄紫色の影のかかった自室の壁と皺だらけのシーツで、悲劇を連想させるものはどこにもない。
 「夢……?」
 夢にしてはあまりにリアルであった。刺された時の感触も、ジャケットの色も、何もかもが生々しい。
 透は辺りを注意深く見回した。
 小物が散乱している勉強机。滅多に開けないクローゼットと、その前に立てかけたラケットバッグ。床には洗濯物が使用頻度に合わせて三つの山を築いている。
 いつもの自室の光景だ。
 枕元の時計は夜中の十二時を指しており、人が出入りした形跡もない。
 それでも安心できなくて、皺だらけのシーツを広げて血の痕がないかを確かめた。
 長い時間、うなされていたらしく、どこもかしこも汗でぐっしょり濡れている。体が冷たく感じるのは、このせいだ。
 熱いシャワーを浴びれば少しは回復するかもしれないが、夢の中と同様、足がすくんで動けない。
 仕方なくベッドの上に体を横たわらせてみる。
 頬から、肩から、じっとりとした嫌な冷たさが伝わってくる。
 こうしていると、アメリカにいた頃のことが思い起こされる。
 同じ冷たい寝床でも、『ジャックストリート・コート』の方がマシだった。
 あそこには身を寄せ合う仲間がいた。たとえ夜風に体温を奪われたとしても、人の温もりを感じられた。
 こんな夜は独り暮らしを恨めしく思う。
 音もない。光もない。自身の息遣いだけが延々と続く暗闇では、嫌でも孤独を突きつけられる。
 例えばこのまま寒さで息絶えたとして、発見されるのは翌朝か。最悪の場合、誰にも気づかれることなく何日も放置されるだろう。
 体がますます冷たくなっていく。もしかして、自分は半分死にかけているのではあるまいか。
 静か過ぎて夢と現実の区別がつかない。生死のどちらにいるのかも定かではない。
 生きているのか。死んでいるのか。本当はどこに存在すべき人間なのか。
 混濁する意識の中で、しきりと何かに呼びかけられている気がした。
 こんなところに長居してはいけない。早く来て、と囁く何か。
 透は這うようにしてベッドから抜け出すと、机の上のそれを手に取った――。

 「トオルいるんだろ!? 開けてくれ!」
 階下で人の声がする。
 不審に思いながらも階段を下りて応対に向かった透だが、玄関の扉まであと少しところで足が止まった。
 自分が扉を開かなければ、あの訪問者は中へは入れない。それでも彼は入って来てくれる。不思議と確信めいたものを感じる。
 透は玄関から離れて階段の中段に腰を下ろすと、扉が開くのをじっと待った。
 帰国して以来、この家に自分以外の誰かが入るのは初めてだ。
 ガチャガチャと鍵の擦れる音がして、ドアノブが回る。来客が立てる慌ただしい物音に胸が高鳴った。
 「トオル、無事なのか!?」
 扉が開かれると同時に、透のよく知る人物が現れた。
 「唐沢先輩? どうして……?」
 「どうしてって、覚えていないのか?」
 履物を脱いで、上り框(かまち)に足をかけていた唐沢が、虚をつかれたように立ち止まる。冷静沈着な彼が動揺を露にするのは珍しい。
 「さっき俺に電話よこしただろ?」
 「俺が電話? 先輩に?」
 何かの間違いだと言いかけて、透は手の中のある物に気がついた。携帯電話である。
 一瞬にして途切れた記憶が繋がった。
 ジャンの夢を見た後、ひとりで暗闇にいるのが耐えられなくなって、夢中で机の上の携帯電話を手に取った。
 無意識のうちに唐沢に助けを求めていたのだろう。詳細は覚えていないが、誰かの番号を押したことと、名乗りもせずに「早く来て」とだけ繰り返していた記憶はある。
 独り暮らしの透が急病などで音信不通になった場合に備え、コーチの日高と唐沢の二人は緊急用の合鍵を持っている。顔を見る前から扉の向こうにいる人物が家に入って来られると確信したのも、その事を覚えていたからだ。
 我に返ってよく見ると、唐沢はまだ肩で息をしており、髪の毛も湿っている。
 風呂上りに後輩から緊急と思しき電話を受けて、最低限の身支度だけで駆けつけた、といったところか。色味の異なる上下のスウェットが、彼の狼狽ぶりを物語っている。
 先程の来客を迎える際の高揚感は消え失せ、罪悪感が現実のものとして押し寄せた。
 「すいません。こんな夜中に訳の分からない電話して……」
 本来なら最初に口にすべき謝罪を述べた後、透は次の用意がないことに気がついた。
 ただ怖くて。誰かに側にいて欲しくて。
 幼子のような言い訳しか出来ない自分に愕然とする。
 「隣、座って良いか?」
 唐沢は非常識な振る舞いを咎めもせずに、透の側までやって来ると、隣の空いているスペースに腰を下ろした。
 肩先から感じる温もりに心が癒される。
 「夢を見て……。ジャンの。
 アメリカで行き場を失くした俺を拾ってくれたんです」
 穏やかな温もりに導かれ、封じ込めていた想いが弱った心の綻びから溢れ出す。
 真夜中に先輩を呼びつけた弁明をするはずが、綻びから漏れ出た言葉に先を越されて、制御できなくなっている。
 「ジャンから教わった事はたくさんあって。テニスだけじゃなくて、もっと色んなこと。
 誇りとか。信念とか。何ていうか、生き方みたいな事をたくさん。
 ジャンと出会えたから、俺は道を踏み外すことなく前へ進めた。それなのに……」
 ずっと口にしてはいけない、と思っていた。
 誰にも打ち明けたことのない心の声。ゲイルに「覚悟して生きろ」と言われて以来、ずっと我慢し続けた。
 「俺のせいでジャンが……『伝説のプレイヤー』とまで言われた人が、俺なんかの為に命を落とした。
 俺はその事実を背負って生きていかなくちゃいけない。
 だけど、時々どうしようもなく苦しくなる。楽になりたいって、思っている」
 胸に秘めていた想いと共に、故人と過ごした日々が甦る。彼が愛したあの曲も。
 『アメージング・グレース』といったか。あれは深い悔恨から生まれたものだと聞いたことがある。
 これは懺悔か。それとも弱者の泣き言か。
 仮に懺悔だとして、許されなくても良い。泣き言だとして、笑われても良い。
 ただ聞いて欲しい。ジャンの死後、一度だけ言いかけて、ゲイルに遮られた。あの時の切なる願い。
 「こんな俺が生きていて、その俺を庇ったジャンが死ぬなんて間違っている。
 本当は俺が……」
 唇が震えた。ずっと誰かに聞いて欲しいと思っていたはずなのに、いざとなると怖くて震えてしまう。
 本心であって、本心ではない。後悔に満ちた心の叫び。
 「俺がジャンの代わりに死ねば良かったんだ!」


 この表情(かお)を見たことがある。
 本音を吐露しながらも、まだ尚、憂いを残す後輩の横顔に、唐沢は今までに抱いたことのない感情を覚えた。
 同情とも、哀れみとも違う。あえて言うなら理解だろう。
 求めてはいけないものを求めている。叶わぬ願いを持ち続けることに疲れて、心が擦り切れてしまった者の顔である。
 この表情を知っている。時おり自室の鏡に映るから。
 「あるよな、そういうこと……」
 ごく自然に共感の言葉がついて出た。
 他の誰かと分かち合えるとは思っていなかった。望みもしなかった。それなのに、親友の成田をも拒絶した領域に、暗闇とは無縁のはずの後輩がいる。
 彼には光を目指して欲しいと願いながら、心のどこかで引き合うものがあったのか。
 隣で透が首を傾げている。
 てっきり激しく叱責されるか。長々と説教をされるか。少なくとも共感を得られるとは思いも寄らなかったに違いない。
 大抵の人間は、そんなことを考えてはいけない。命は尊いものだから、と真っ当な理論を振りかざす。
 しかし、こればかりはどうしようもない。自分が代わりに、と願う気持ちは止められない。
 生きている者と死んだ者。両者の世界を隔てるものが命であるならば、いっそ捨ててしまおうかと思うことがある。それが伝えられなかった想いを届ける唯一の手段のような気がして。
 暗闇で孤独だけを見つめて生きる者に、残された命は重過ぎる。
 毎日同じことの繰り返し。
 望まずとも朝が来て、学校へ行き、授業を受け、部活動にも顔を出し、あたかも青春を謳歌している振りをする。死にたいと願いながら命を繋ぐための食事もする。
 そして長い一日が終わり、夜になって、ようやく本当の自分と向き合える。誰もいない真っ暗な部屋の中で。
 「俺もそう思うことがある。だけど、トオル?」
 いまだ震えの残る後輩の肩に自身の上着をかけてから、唐沢は続けた。
 「いくら望んでも死んだ人間が生き返ることはないし、俺達が身代わりになることも叶わない」
 隣で上着をきつく握り締める姿が目に入った。分かりきった事実でも、言葉にされると耐えがたいものがあるのだろう。
 唐沢は項垂れたままの後輩の体を抱き寄せると、静かに告げた。
 「失って良い命なんて一つもない。俺も、お前も、残された命がどんなに価値のないものだと思っても、自分から手放すことは許されない」
 これだけはどうしても伝えておかねばならない。同じ悲しみを持つ者だからこそ。失って良い命など、この世に存在しない。存在させてはいけないと。
 「先輩? 俺、怖かった。
 日本に帰って来て、充実した毎日に埋もれて、そのうちジャンのことを忘れるんじゃないかって。
 こんな罰当たりな奴が生きていて、ジャンが死ぬなんて。
 やっぱりあの時、死ななきゃいけなかったのは俺の方だって。そう思うと、また怖くなって……」
 昔から透は本当に辛い時に限って泣くのを堪える癖がある。今にも崩れそうになりながら肩を震わせ耐える姿が、三年前の茜色の記憶と重なった。
 突然、アメリカへの転校が決まり、不本意ながらテニス部を退部していったあの日。彼はひとり壁打ちボードに向かって、泣きながらボールを追いかけていた。
 人知れず流した涙を唐沢に見られて、慌てて拭う仕草が愛しくて、つい柄にもなく「必ず帰って来い」と声をかけた。人との関わりなど持ちたくなかったはずなのに。
 「昔と少しも変わらないな、お前は」
 「先輩、ごめん……。俺、また泣いて……ごめ……」
 「分かっている。もう何も言わなくて良いから」
 泣きじゃくる姿も昔のままだ。
 唐沢は嗚咽で上下する両肩をもう一度しっかり抱き締めると、彼が最も望んでいるであろう言葉をかけた。
 「トオル、お前は生きていて良いんだ。残りの人生を、その命を大切にして良いんだ」
 腕の中の嗚咽がますます激しくなった。不規則な振動が彼の本音を伝えてくる。
 ずっと許されない死を望んでいた。そして死を望みながらも、逆のことも望んでいた。
 お前は生きていて良い。存在して良いと、誰かに言って欲しかった。
 肉親でなくても、周りにいる近しい人でも。自分をよく知る相手から。
 他人の命を犠牲にしてまで生きている者でも、この世に存在して良いと許して欲しかった。
 そう望んでいるのが手に取るように分かる。何故なら、かつて自分も同じ言葉を求めていたからだ。
 泣き疲れて眠りに落ちた後輩の、まだ幼さの残る寝顔を見つめ、唐沢はせめて彼だけはと心から願った。


 暗闇の向こうに光が差している。あの狂気じみた冷たい光ではなくて、もっと温かな金色の光が。
 透が目を開けると、階段の上窓から光の帯が降りていた。
 とても穏やかな朝だった。後ろめたさを感じることなく朝を迎えられたのは久しぶりのことである。
 だが、それも束の間――。
 「痛ッてぇ! ケツ……」
 「目が覚めたか?」
 頭上からの声掛けに応えようとして、透は困惑した。頭の上に唐沢の顔がある。
 状況が今ひとつ理解できない。いや、それは分かっている。
 昨夜、自分は夜中に先輩を呼びつけ、散々、泣き言を聞いてもらった挙句、彼の膝を枕代わりにさっさと寝たのである。この腰の痛み具合からして、熟睡の域に達していたことは間違いない。
 分からないのは、なぜ唐沢が朝まで同じところに留まっていたのか。
 恐らくは、透が先に寝入ったために帰る機会を逸しただけだろうが、それでも帰ろうと思えば帰れたはずである。
 「先輩、ずっとここに?」
 「ああ、お前と一夜を過ごすなんて、我ながら驚いていたところだ」
 「一夜って、そういう誤解を招くような言い方しないでくださいよ!」
 「分かっているって。滝澤には内緒にしておいてやる」
 「だから、そうじゃなくて!」
 カジュアルな部屋着のせいなのか、朝日のせいかは分からぬが、普段は鬼のように厳しい先輩が優しく見える。
 「ぼんやりして、どうした? まさか、本気で俺に惚れたのか?」
 「ち、違いますよ!
 先輩が妙に優しいっていうか。そういう顔見るの初めてで、ちょっと驚いただけですよ」
 「ふ〜ん、初めてだったんだ?」
 「だから、ややこしい言い方しないでくださいって!」
 「まあ、俺が黙っていても、お前が赤い顔してケツ擦っている時点で、勘の良い奴は察するからな。
 悪いな。庇ってやれなくて」
 「先輩ッ!」
 面と向かって礼を言われるのが照れくさいのか。先程から唐沢は話を茶化してばかりで、取っ掛かりを与えてくれない。
 夜中に呼びつけられて、泣きじゃくる後輩のお守りをし、一晩中、居心地の悪い階段の上で一睡も出来なかったというのに。礼も謝罪も不要だと態度で示している。
 「分かりましたよ。もう何も言いませんから。
 でも一つだけ、お願いしても良いですか?」
 冗談とは言え、際どい会話の後でかなり照れくさかったが、透は恐る恐る切り出した。想いの丈を吐き出して、新地となった心に、今一度、留めておきたいものがある。
 「もう一回、昨日の……。えっと、ちゃんと覚えておきたいって言うか、その……」
 言い終わる前に、唐沢の腕が透の首筋に伸びていた。
 「お前は生きていて良いんだ。この先、不安になったら何度でも言ってやる。生きるんだ、トオル。
 今は自分の為だと思えなくても良い。彼女の為でも、テニス部の為でも、俺のせいにしても良いから、生きろ。
 前にも言っただろ? 俺の許可なしに勝手に消えるんじゃない」
 頭部を両腕でがっちりと固定され、繰り返し耳元で囁かれる言葉の数々が、渇いた大地を潤す雨のごとく心に深く染み込んでくる。
 「焦る必要はない。ゆっくりで良いんだ。いつか自分の為に生きられるようになるまで、何回でも言ってやる。
 生きてくれ、トオル」
 子供の頃から誰かに甘えた記憶はない。父親には特に。
 だからこそ覚えている。涙を見せた相手は、後にも先にも、ジャンと唐沢だけである。
 「今度はお前が、誰かに胸を貸してやれるぐらい強くなれ」
 故人の言葉が懐かしい思い出として甦る。
 透は穏やかな温もりに抱かれながら、新地の心に改めて誓いを立てた。
 いつか自分も彼等のように。傷ついた者を温かく包み、痛みを和らげてやれるような男になりたいと。

 透に笑顔が戻るのを認めた唐沢が、思い出したように携帯電話を見やってから、つと眉根を寄せた。
 「悪い。朝練の時間だ」
 彼は携帯電話のスケジュールを手早く確認すると、今日の段取りを頭の中で組んでいそうな目付きのままで意外なことを言い出した。
 「ああ、お前は今日一日、学校も部活も休め。担任とコーチには、俺から話しておく」
 「でも特練が……」
 「特練は一旦中止する」
 「ダブルスの強化対策はどうなるんですか? 陽一先輩にも迷惑かかるし」
 「陽一は俺と太一でフォローするから安心しろ。
 良いか、トオル? これは前に進むための休息だ。走りっ放しじゃ息切れを起こす。
 明日またコートで待っているから、しっかり体を休めておけよ」
 たぶん、唐沢は知っていたのだろう。透が帰国してからずっとプレッシャーと戦い、恐怖と戦いながら、必死になって走り続けてきたことを。
 挨拶もそこそこに慌ただしく出て行く唐沢はいつもの部長の顔に戻っていたが、透にはその顔が昨日までとはほんの少し違って見えた。

 唐沢を玄関先で見送り、再びひとりになった透は激しい睡魔に襲われた。
 ここ数日の寝不足は、たった一晩熟睡したぐらいでは解消できないようである。
 しかも昨晩は階段の上で、無理な姿勢で眠っていた。精神的には安らぎを感じても、質の高い睡眠とは言い難い。
 透はふらつく足取りで自室まで戻ると、まだ湿り気を帯びているベッドに倒れ込んだ。
 意識のあるうちから眠りに落ちていく。起きたまま夢の中へ連れていかれたような可笑しな気分である。
 夢の中では雲との見分けがつかない程の濃い霧が立ちこめていた。
 霧の向こうにはぼんやりとした人影が見える。
 いつもならこの人影を追って奥へと入っていくのだが、今日は向こうから出て来てくれるのを待っていた。彼には陰気な場所は似合わない。
 少しずつ視界が鮮明になっていく。
 雲が切れる。霧が晴れる。雲の隙間から差し込む陽光がその人物を照らし出す。
 やはり思った通り、彼だった。顎鬚を蓄えた精悍な顔立ちのアメリカ人。
 だが、いつもとは様子が違う。彼はジャケットを脱いで、ラケットを正面に立てて構えている。
 「小僧、今から面白れえもん、見せてやる」
 それは生前、京極との対戦中に透の前で初めて見せた、アングルボレーを繰り出す直前のジャンの姿であった。






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