第24話 コートチェンジ

 透が唐沢の異変に気づいたのは、区営コートでの一件があってから何日も後のことだった。
 言い換えれば、その間、彼は何事もなかったかのように平然と過ごしていた。
 村主から「あのバカを頼む」と言われて、唐沢の自宅を訪ねた時も、彼は実に落ち着き払った態度で出迎えた。逆に何事かと驚かれ、透のほうが返事に窮したほどである。
 翌日も、そのまた翌日も、唐沢は普段通りの生活をしてみせた。
 せめて愛想笑いのひとつでも寄越してくれれば、こちらとしても突っ込みようがあるのだが、三百六十度、どこから見ても、彼は“いつもの唐沢海斗”であった。
 こんな芸当が出来るようになるまでに、どれだけ多くの嘘を重ねてきたのか。演じ慣れているとしか思えぬ彼の態度に、透は得体の知れない不安を抱いていた。
 ずっと、唐沢は「二面性のある困った先輩」だ、と思っていた。光陵テニス部を率いる切れ者の部長という表の顔と、後輩の純愛までも賭けの対象にしてしまう無節操なギャンブラーの顔を併せ持つ。
 だが、その「二面性のある困った先輩」も唐沢が演じていた役であり、彼の素顔は他にある。
 人は多かれ少なかれ、その場に相応しい振る舞いを強いられながら生きている。
 まして唐沢の場合、入部して間もない頃から「光陵テニス部の二枚エース」の一人として期待され、副部長、部長と、重責を伴う任を背負わされてきたのだ。素の自分を通していては、こなせぬ役もあっただろう。
 透の不安もそこにはない。あるとすれば、もっと別次元の予測不能なところにある。
 唐沢と関わりのある人間は、誰一人として彼の素顔を知らない。親友の成田も、恐らくは親兄弟も。
 透にはそれがひどく恐ろしいことのように思えてならない。
 インターハイ予選、本選、優勝と、熾烈な戦いはまだまだ続く。いくら精巧な作りの仮面でも、いずれは重みに耐えかね壊れる時が来るだろう。
 上手い具合に仮面だけが剥がれてくれれば良いが、壊れた拍子に素顔まで傷つけてしまったら。その時に誰も手を差し伸べる者がいなかったとしたら。
 やはり、このままで良いわけがない。これ以上、唐沢の抱える闇が深くなる前に、どうにかして手を打たなければ。
 しかし、話を切り出そうにも切っ掛けさえ掴ませてもらえない。
 己の小物ぶりを痛感し、途方に暮れていた矢先のことである。“いつもの唐沢海斗”に異変が生じた。
 よほど注意していなければ気づかないミリ単位の綻びだが、確かに今日の彼は変だった――。

 「何だよ、トオル! たるんでるぞォ!」
 放課後、ダブルスの練習中に陽一朗が透に向かって文句をつけた。
 「えっ? ああ、すみません」
 後輩の立場上、とりあえず透が頭を下げたが、今のは前衛にいる唐沢が拾うはずのボールであった。普段の唐沢ならば、そうしていた。
 仕草も表情も、いつもと変わらない。透も一緒にコートに立つまでは気づかなかったが、時おり判断が鈍るというか。彼にしてはコンマ何秒かの遅れを感じる。
 唐沢の意識がコートの外に飛んでいる。それをボールが来てから慌てて呼び戻すために、判断が遅れて見えるのだ。
 恐らく、この異変に気づいているのは透一人だろう。その証拠に、合同練習をしている伊東兄弟でさえ、今の返球は透のケアレス・ミスで、唐沢の力量を熟知するが故のミスだとは捉えていない様子である。
 問題は、なぜ今頃になって異変が起きるのか。あるいは、他に集中できない理由があるのか。
 次の予選に向けて練習もハードになっている。ひょっとしたら体調を崩したのかもしれない。
 初めはそれとなく様子をうかがうつもりであったが、透は心配のあまり、つい余計なことを口走っていた。
 「唐沢先輩、もしかして調子悪いッスか?」
 「そう見えるか?」
 「ええ、熱でもあるのかなって」
 さすがに部長を相手に、普段より反応が鈍いとは言い辛い。
 しかし透の意図するところは伝わったと見えて、唐沢はその問いかけをハッキリとは否定しなかった。
 「すまない。今日、迷惑かけているよな?」
 「いえ、全然迷惑じゃないです。けど、具合が悪いなら休んだ方が良いッスよ」
 「具合が悪いか……」
 そう言ったまま、唐沢はしばらくぼんやり遠くを見ていた。
 この切れ者と恐れられる先輩に最も不釣合いな光景は、前にも何度か目にしたことがある。ただ練習中にこの顔になるのは珍しい。
 やはり今日の彼はおかしい。体調云々の話ではなく、メンタルの部分で何か引っかかるものがある。
 「先輩、俺に出来ることがあれば……」
 透の言葉を遮るようにして、唐沢が不調の理由を告げた。
 「少し熱があるみたいだ」
 「えっ?」
 「悪い。今日は先に帰らせてもらう」
 「独りで大丈夫ですか?」
 透は思わず女子供にするような質問を、二歳も年上の先輩に投げかけた。だが、そう問いたくなるほど頼りなく見えたのだ。
 「あ、いや……熱があるなら、家まで付き添った方が良いかと思って」
 再びぼんやりとした間があった。後輩の申し出を受けるか、否かよりも、どう言い繕えば良いかを考えあぐねている風だった。
 「ありがとう。気持ちだけ受け取っておく」
 唐沢は時間をかけて考えたわりには通り一遍の答えを返し、独りで帰っていった。不気味なほど穏やかな笑みを残して。

 何かおかしい。何かがおかしい。ここ数日の中でも最大級の不安が透の胸に押し寄せた。
 まるで唐沢が別世界にいるような。そして、そこに留まったまま帰らぬ人となるような。何とも危うい印象を受ける。
 いや、これが彼本来の姿なのかもしれない。普段は上手く取り繕えているだけで、本当の彼はいつも別の場所にいる。
 「今日、迷惑かけているよな?」と聞いたのも、今日はそれを隠しきれなかった。そう解釈すれば合点がいく。
 明確な根拠はない。勘と臆測が八割を占めるが、自らが導き出した結論に異様な胸騒ぎを覚えた透は、居ても立ってもいられなくなって、コーチの日高のもとへと走っていった。
 「おっさん、俺も早退する!」
 「どうした、血相変えて?」
 「分かんねえけど、唐沢先輩をひとりにしたらヤバい気がする。今日の先輩、何か変だ」
 「お前、分かるのか?」
 「……って、何か知ってんのか?」
 「当たり前だ。俺はコーチだぞ。選手の調子の良し悪しぐらい、アップの仕方でだいたい分かる」
 「だったら教えてくれよ。なんで今日に限って変なんだ? つか、なんで今日だけ見せてんだ?」
 「お前、そこまで……?」
 半開きになった日高の口元を認め、根拠のない不安が確信に変わった。
 部員の前では動揺を見せないコーチが絶句しているということは、たった今出した結論が限りなく正解に近いということだ。
 「おっさん、理由知ってんだろ? ちゃんと説明してくれるよな?
 またアメリカに転校させられた時みたいに、俺だけ仲間外れにしねえよな?」
 父の親友という気安さもあって、透は自分だけが枠外に放り出されている不満を、過去の恨み言ともに日高にぶつけた。
 「分かったから、騒ぐな。他の連中が動揺する」
 「だけど……」
 「早退は認めてやる。どうせ唐沢の家に行くつもりなんだろ?
 だったら、その前に少し付き合え」

 日高が透を連れて向かった先は、正面玄関とは反対方向の裏門に隣接されている教職員専用の駐車場であった。
 教師達が乗りつける車の中でも、一際目立つ赤のコルベット。これが日高の愛車である。
 三年前と違って、透にもその愛車が一千万円近い高級車だと分かるようになった。そして、部室ではなくわざわざ駐車場まで連れて行かれた理由も。
 ジャージのポケットにキーを入れたまま車のロックを外した日高が、運転席のドアを開ける直前で隣の席をくいっと顎で指した。
 「とにかく乗れ。俺の知る範囲で教えてやるから」
 透はすぐにでも事情を問いただしたい衝動を抑え、黙って助手席に乗り込んだ。彼が車を出すということは、誰にも聞かれたくない話か、よほど深刻な場合に限られる。
 「今から話すことは、あくまでも俺の独り言だからな」
 日高はルームミラー越しに透を睨みつけるように言ってから、愛車のコルベットを発進させた。
 「唐沢に兄弟がいるのは知っているよな?」
 唐沢には元部長の兄・北斗と、松林高校に通う弟の疾斗がいる。
 「ああ。兄貴の方はよく知らねえけど、弟の疾斗は俺のダチだから」
 「そうだったな。トオルはよほど唐沢家と縁があるんだな」
 走り慣れた道を通ると見えて、日高のハンドル捌きはいつにも増してスムーズだ。
 「菜摘と言ったか。あの三兄弟共通の幼馴染みがいた」
 「ナヅナ?」
 透が初めて耳にする名前であった。疾斗からも、唐沢からも、一度も聞かされたことはない。
 「今日は彼女の誕生日だ。年に一度、この日だけは耐えられなくなるんだろう。命日よりも、彼女が生まれた日のほうが」
 「命日って、その菜摘って人は?」
 「ああ、死んだ。五年前、唐沢が中学一年の時に」
 何となくそんな気がしていた。唐沢の瞳に映し出される暗闇が、自分と同じに見えたから。
 しかし五年経った今もその死を引きずっているとは、よほど大切な存在だったのか。
 村主と激しい口論を交わした後でも平気な顔をしていた唐沢が、かぶり慣れた仮面を保てなくなるほど心を乱している。しかも、その日は亡くなった幼馴染みの誕生日だという。
 年に一度、唐沢が綻びを見せてしまう原因が。その日が彼女の命日ではなく、誕生日であるという理由も。この時の透にはまだ充分理解出来ずにいた。
 「唐沢は何も知らされていなかったんだ。彼女が重い病気を患っていることも、そのせいで亡くなったことも」
 「それって、どういう……?」
 「北斗の話では、徐々に筋肉が衰えていく病気だと言っていたな。明るくて、活発で、そうは見えなかったが」
 「兄貴は知っていたのか?」
 「ああ、北斗は長男だから、親御さんもきちんと話をしたんだろう。
 だが中一になったばかりの唐沢と、小学生の弟には教えなかった。話して分かる歳でもねえし、何より彼女自身が知らされていなかった」
 「だけど亡くなったことまで教えなかったって、どうして?」
 幼い病人への配慮から周囲の者に口止めしたとして、亡くなった後まで隠す必要はない。
 「都大会の前日だった。彼女が死んだのは」
 「まさか、試合のために?」
 「今から思えば、北斗は事前に彼女の危篤を知らされていたんだろう。
 都大会の三日前だ。北斗が俺のところへやって来て、何があっても海斗を試合に出場させてくれと言って頭を下げた。
 あのプライドの高い男が、俺に土下座をしたんだ」
 「つまりチームを勝たせる為に、唐沢先輩に彼女の危篤も死んだことも隠してたってことだよな? 
 いくら大事な試合だからって、そんな……。だって兄貴にとっても知らねえ仲じゃねえんだろ? 幼馴染みだろ!?」
 昔から唐沢は兄の話になると露骨に嫌悪感を示した。ポーカーフェイスを得意とする彼が珍しいと思っていたが、その原因はここにあったのだ。
 第三者の透でさえ、思わず声を荒らげるほどの怒りを感じるのだから、当事者からすれば許しがたい行為であったに違いない。
 一瞬、頭の中で菜摘という少女が奈緒と重なった。
 もしも自分が唐沢と同じ立場に立たされたら。彼女がそう長くは生きられないことも、死んだことすら知らされず、実の兄から「試合に行け」と言われたら、どんな気持ちになるのだろう。
 仮定とは言え、少し考えただけで恐ろしくなった。
 だがこれは実際に唐沢の身に起こった出来事で、考えたくもない悲劇が現実となって中学一年生の彼に降りかかっていたのだ。
 巧みにハンドルを操作しながら、日高が普段より幾らかトーンダウンした声で続けた。
 「今でも、あの時の判断が正しかったのかどうか、俺にも分からない。
 ただ、唐沢は途中で兄貴の目論見に気がついて、大会当日の朝、会場へ向かわずに彼女が入院していた病院に駆け付けた。そして、その行為が成田と唐沢の間に深い溝を作った。それだけは確かだ」
 以前、成田から「俺は待つべきじゃなかった」と打ち明けられたことがある。あれは、この時の話だろう。
 真実を悟った唐沢は、試合を放棄して彼女のもとへと走った。親友との絆を信じた成田は、ひたすら唐沢を待ち続けた。
 どちらも当然の選択をしたはずなのに、唐沢は親友を裏切ったという罪悪感を背負い、成田は親友に重荷を背負わせた自分を責めている。
 「なんで、こんなことに……」
 最初のボタンをかけ違えた為に、次々と狂いが生じている。一度そこに巻き込まれた者達は、己が望みとは異なる方向だと気づく間もなく、不本意な関係を築かされていったのだ。
 修復する方法は、ただ一つ。一度全てのボタンを外して、最初からやり直すしか術はない。但し、全員の記憶が都合良くリセットされれば、の話だが。

 日高がある建物の前で車を止めた。
 「北斗が通う大学だ。この時間ならテニスコートにいるはずだ。
 あいつと直接話をしてくるか?」
 聞きたいことは山ほどあった。
 どう考えても、北斗の判断は間違っている。最初にボタンをかけ違えたのは、彼だと思った。
 そのせいで、どれだけ多くの人間が苦しんできたか。成田や唐沢だけでなく、弟の疾斗も、兄達の確執が原因で荒れた中学時代を過ごした。
 しかし、こんな怒りを抱えたままで北斗に会えば、話だけでは済まない気がする。
 頭の中を整理しようと落とした視線の先に、握り拳が見えた。
 怒りを静めるために、無意識のうちに握り締めていたのだろう。膝の上で右の拳が震えている。
 透はそれを反対の手で押さえながら、今、己がなすべきことを考えた。
 北斗の仕打ちとも言うべき過去の所業は、許しがたいものがある。だが、今更それを責めたとして、唐沢が抱える問題の解決にはならない。
 怒りで固くなった右の拳と、それを押さえる左手と。がっちり組み合う両手の始末がつけられず困っていると、日高のごつごつとした大きな手のひらが覆い被さった。
 「コートチェンジだ」
 「えっ?」
 「唐沢に会う前に、北斗の言い分も聞いてやれ」
 テニスの試合では公平さを保つために、奇数のゲームごとにコートチェンジが義務付けられている。
 日高は透に自分の目で真実を見極めさせようと、ここまで連れて来たに違いない。
 「分かった。俺、行ってくる」
 「あのな、トオル? 最初に断っておくが、北斗は悪い奴じゃない」
 いつもはふてぶてしく見える日高の顔が、困ったような崩れ方をした。
 「心配しなくても、大学生のOB相手に喧嘩なんか吹っ掛けやしねえよ」
 「いや、そうじゃない。その……会えば分かると思うが、似ているから」
 「誰に?」
 「くれぐれも感情的になるんじゃないぞ」
 「なんだ、それ?」

 日高の言葉を理解するのに、あまり時間はかからなかった。
 横柄で、傲慢で、自己中心的な考え方しか出来ない上に、口の悪さだけは尊敬に値する。つまり唐沢の兄・北斗は、透が最も毛嫌いする人物、父親の龍之介にそっくりであった。
 「なんで俺が弟のために時間を割かなきゃならない?」
 第一声、挨拶も終わらぬうちに返ってきた台詞がこれである。
 「だって、アンタ、兄貴だろ?」
 「ふん、好きで兄貴をやっている訳じゃない」
 その昔、同じ台詞をこの男から聞いた覚えがある。まだ疾斗が更生する前の話だが、区営コートの乱闘に巻き込まれた弟を強引に連れ去る北斗に対し、「理由ぐらい聞いてやれ」と透が引き止めたところを、こう切り返されたのだ。
 悪びれる様子のない言い方も、あの頃と変わらない。
 日高の「くれぐれも感情的になるな」の助言でかろうじて踏み止まっているものの、すでに透の拳は固く握られていた。
 「それなら『元部長として』と言えば、話をしてくれるのか?」
 「してやっても良いが、お前はどうなんだ? 光陵テニス部員として俺に会いに来たんじゃねえのか?」
 「だったら、どうした?」
 「後輩のくせして、その態度はどうなんだ? とても先輩に頼みごとをしているようには見えんがな。
 ああ、喋り過ぎて喉が渇いた」
 「くそっ! 人の弱みにつけ込みやがって!」
 「腹も減ったかな?」
 「て、てめえ……」
 この弱みを握った相手に対してはとことん苛め抜く、性質の悪い権力志向も龍之介とよく似ている。
 怒りで震える透の顔を覗き込んでは、北斗が追い討ちをかけてくる。
 「まずは敬語な、敬語。それと、うちの後輩は俺のことを『北斗先輩』と呼んでいる。
 だからお前の場合は『北斗大先輩』、いや、『北斗大先生』ってところだな。
 俺の教えを請うんだ。当然だよな」
 「アンタ、ぶっ飛ばされてえのか!?」
 「俺は一向に構わんが、お前の知りたがっている真実は永久に闇の中だぞ。
 良いのか、それで? 真嶋透君?」
 「何で、俺の下の名前を?」
 「弟達からよく聞く名前だ。
 あいつ等の話を聞いて、てめえのケツも拭けねえくせにお節介だけは一人前、って奴を想像したからな。
 それ、お前のことだろ?」
 「この……!」
 考えるより先に拳が出ていた。父の姿と重なったことも影響したのかもしれない。
 しかし相手の顔面を捕らえる寸前のところで、その拳はいとも簡単に捻じ伏せられた。
 腕っ節には自信のある透だが、過去に二人だけ拳を止められたことがある。一人は父親で、もう一人はジャンだった。
 この北斗で三人目になる。
 「ふ〜ん。利き腕じゃねえわりには良いパンチしてるな。右手はテニスの為にしか使わねえってか?」
 「アンタは利き腕で殴る価値もねえからな!」
 精一杯の強がりを言ってみせたが、渾身の一撃を封じられた時点で勝負が決したことは明らかだ。押しても引いても動かぬ拳が、どちらに分があるかを物語っている。
 「おまけに負けず嫌いか。弟達と気が合うはずだ」
 北斗の視線が、透の拳と悔しげな表情との間を面白そうに行き来する。
 透は悪足掻きを止めて、大人しく腕の力を緩めた。そうせざるを得なかった。
 彼は品定めをしている。最初から透の素性を知った上で、反応を逐一観察し、見極めていたのだ。腹を割って話せる人物か、否かを。
 透が力を緩めたと同時に、北斗が真顔になった。
 「どうやら、ただのバカでもなさそうだ。
 良いだろう。話してやるから、ついて来い」

 北斗に連れて行かれた場所は、大学の敷地内にあるオープンカフェのようなところであった。いわゆる学食なのだが、そう呼んでは申し訳ないほど雰囲気も料理も洒落ている。
 北斗はそこの一角に腰を下ろすと、さっさと自分だけアイスコーヒーを注文した。
 「で、何を聞きたい?」
 「えと、都大会の前日の話です。五年前の。
 どうして幼馴染みが亡くなったのに、唐沢先輩に知らせなかったんですか?」
 「試合に勝つためだ。それ以外に理由はない」
 「だけど、唐沢先輩にとって大切な人だったんですよね?」
 「ああ、そうだ。俺達三人の中でも、海斗と菜摘は一番仲が良かった。学年も同じだったし」
 「だったら、どうして? 逆の立場なら、教えて欲しいと思うでしょ?」
 「いいや、思わないね。基本的に、俺は死んだ人間の為にしてやれることはないと思っている。
 死んだら終わりなんだよ、何もかも」
 「そんな……」
 「それが現実だ。幸か不幸か、親父の商売柄、俺はガキの頃から人間の死に関しては嫌というほど見聞きしている。その中で一つだけ分かったことがある。
 何百万円もする立派な墓を建てても、自分が壊れるまで泣いたとしても、死んだ奴には伝わらない。だから今現在生きている奴は、生きている間にやりたい事をやるしかない」
 淡々と語っているが、北斗の言葉には重みがあった。
 彼の主張を全面的に受け入れるつもりはない。だが、透よりも遥かに多くの人の死に直面し、その経験から出た言葉だということは理解できた。
 「それでも、俺は教えて欲しいです。声が届かなくても、きちんと遺体と向き合って、別れの言葉を言わないと。
 もう会えないなんて、いなくなってから言われても……そんなの認められるわけないじゃないッスか!」
 唐沢の為だけではなかった。ジャンの死という悲劇を乗り越えたとは言え、透も同じ痛みを抱えている。
 学食の中にいた数人が、その声の大きさと会話の異様さに振り返ったが、北斗は気にも留めずに話を続けた。
 「俺だって、言えるモンならとっくに話していたさ。
 だけど海斗も菜摘も、当時は中学一年だ。やっとランドセルから卒業したばかりだ。どっちも死なんて考えられる歳じゃねえ。
 まして、そのうちの一人は生まれながらにして命の期限が決められてんだ。話せという方が酷だろ?」
 「せめて彼女が危篤だって分かった時点で、どうにか出来なかったんですか?」
 「最期の一週間は、素人の俺でさえ、もう長くはないと分かったさ。
 だけど、お前言えるか? 彼女の両親に『そろそろお宅の娘が死にそうだから、弟達に話します』と?」
 運ばれてきたアイスコーヒーで一旦喉を湿らせてから、北斗がふたたび続けた。
 「たぶん、菜摘は気づいていたと思う。てめえの体だし。
 亡くなる三日ほど前だったか、彼女が俺を呼んでこう言った。
 もしも試合の最中に自分が死んだとしても、海斗に知らせないでくれ。ボールを追いかけていれば、きっと寂しくないから、と。
 死期を悟って、彼女なりに考えたんだろう。自分がいなくなった後、海斗が悲しまずに済むよう、精一杯想像力を働かせてさ。
 菜摘は近所に住んでいたし、うちは寺だから。幼馴染みが死んだことを隠し通せるわけがねえ。
 ガキの浅知恵だ。すぐにバレちまう。
 けどな、それがあいつのこの世での最後の願いだとしたら、聞かねえわけにいかねえだろ?」
 会ったこともない菜摘という少女。北斗の話から、彼女がいかに唐沢のことを大切に思っていたかが、よく分かる。
 彼女が一番辛かったはずなのに。それでも、自身がいなくなった後のことを必死に考え、北斗に唐沢のことを託したのだ。
 「今でこそ海斗はテニス部で部長なんざやっているが、もとは体育会系とは無縁の大人しい性格だ。ミステリー小説が好きで、俺がテニスの相手に外へ引っ張り出さなけりゃ、一日中部屋にこもって本を読んでいる奴だった。
 本当は中学でも帰宅部を狙っていたんだろうけど、菜摘のたっての希望でさ。彼女の代わりにテニス部に入部したんだ。
 まあ、兄貴としては複雑だよな」
 「どうしてですか?」
 「当たり前だ。弟の方が上手いとあっちゃあ、兄貴の面目丸潰れだろ?」
 「面目って、兄弟の間で見栄張ってどうするんですか?」
 「あっ! どうせお前、一人っ子か末っ子だろ? その『他人がどう思おうと関係ない』的な傲慢な態度は? 
 世の中の人間が、全員、自分の味方だと思っているだろ?」
 「誰もそんなこと思っちゃいませんよ。てか、どっちが傲慢なんッスか!?」
 「弟のいる奴なら理解できるはずだ。
 兄貴は弟に負けちゃいけねえ。どんな状況においても敗北は許されない。
 何故なら、兄弟間に世代交代がないからだ」
 先程までのシリアスな表情から一変して、北斗がやけに子供染みて見える。幼馴染みの話をしている時は、実年齢以上の成熟さを感じたが、兄弟間の話になると、途端に自己中心的なお子様に変化する。
 そう言えば、疾斗からも似たような話を聞いたことがある。北斗は唐沢に「お前に俺は越えられない」と呪文のように言い続けていると。
 「ああ、それはマインドコントロールってヤツだ。海斗の頭の中に『兄貴は強い』と刷り込んでおけば、何かと有利に働くからな。
 おかげで、あいつとの対戦成績はいまだ無敗で通している」
 「アンタ、最低だな」
 「何とでも言え。俺には時間がないんだ」
 「時間がないって、まさか!?」
 「勘違いするな。俺は病気でも何でもない。ただ俺の自由ってヤツは期限付きだ」
 「期限付きの自由?」
 「これでも一応、長男だから。親父の跡を継がなきゃなんねえ。
 まったく、最初に母親の腹から出て来たってだけで、一生、人の死に付き合わされる運命だ。
 だから俺は大学を卒業するまで好き勝手やると決めたし、実際、その通りやってきた」
 話を聞いているうちに、透は龍之介と北斗が似ている理由は、性格だけはないと思った。
 二人に共通する冷淡なまでに現実を直視する姿勢や、普通の人間から見れば身も蓋もないような言い方も。
 不本意な運命を背負った者だからこその境地なのかもしれない。
 龍之介に関して言えば故障した肩であり、北斗は親に定められた将来を、それぞれ背負っている。
 彼等はあやふやな夢や希望ではなく、いま手にすることの出来る確かな現実を求めている。そうすることで、己が人生を最大限に生きようとしている。

 「なあ、真嶋? 俺達だって菜摘と同じなんだ。命の期限が知らされているかどうかの違いで、生まれた瞬間、死に向かっていることに変わりはない。
 だから俺も、お前等も、立ち止まっている暇はねんだよ」
 アイスコーヒーを飲み終えた北斗が、席を立つと同時にポケットから何かの鍵を投げてよこした。
 「家の鍵だ。今夜は親父もお袋も自治会の集会で朝まで帰らねえし、疾斗と俺は適当にやるから、海斗と二人きりで話すなら使えば良い。選択権はお前にある」
 「良いんですか?」
 「勘違いするなよ。俺は五年前の判断が間違っていたとは思わない。
 第一、海斗がどんな人生を歩もうが俺の知ったこっちゃねえし、今さら機嫌を取る気もねえ。
 だけど、もしも真嶋がてめえのケツも拭けねえくせにお節介だけは一人前で、性懲りもなくまだ他人の世話を焼くつもりなら……」
 あくまでも命令口調を崩さずに。横柄で、傲慢で、自己中心的な考え方しかできない龍之介とそっくりな先輩は、最後に一つだけ“らしからぬ”伝言を残して去っていった。
 「海斗に『今夜ぐらい好きにしろ』と、伝えてくれ」
 コートチェンジをしなければ見えてこないものもある。
 日差しの眩しさとか、風の強さとか。そこに立たされなければ、分からないことがある。
 透はテーブルの上に残された鍵と“らしからぬ”伝言を握り締め、北斗の大学を後にした。






 BACK  NEXT