第26話 若葉マークの恋人たち

 「誕生日なんだから、好きなだけわがまま言って良いんだぞ」
 あの時の透の得意げな笑顔を思い出すたびに、奈緒はモヤモヤとした不快な感情に襲われた。
 不信感を募らせるとは、このような心境を指していうのだろう。打ち砕かれた信頼の欠片が粉塵となって降り積もり、ただでさえ傷つき易い乙女心を内側から圧迫するのである。
 駅前広場の時計台も、携帯電話も、アクセント代わりにつけてきた腕時計も、約束の一時をとうに過ぎている。それなのに、素敵な誕生日を演出してくれるはずの彼氏の姿はどこにもない。
 「お前の誕生日は好きなとこ連れて行ってやる。どこが良い?」
 透が珍しく体調不良以外の理由で部活動を休むと宣言し、二人して楽しい休日の計画を立てたのが一週間前。ちょうど奈緒の誕生日が週末にかかるという話の後だった。
 「だったら、映画が良いな」
 「そんなんで良いのか? 誕生日なんだから、好きなだけわがまま言って良いんだぞ。
 ディズニーランドとか、あと横浜の何だっけ? ほら、でっかい水族館のある……」
 「うん。でも、駅前の映画館で良いよ。普通のデートがしたいから」
 「遠慮するなよ?」
 「してないよ」
 口ではそう言いながら、奈緒は多忙を極める彼氏の体を気遣って、待ち合わせの時間を目一杯遅くした。
 インターハイに向けて、テニス部の練習はますますハードになっている。学校が休みの日でも何かしらの試合が組み込まれ、息吐く暇もないのが現状だ。
 せめて午前中は疲れた体をゆっくり休めてもらい、午後から二人で充実した時間を過ごすつもりであった。
 ところが、現在、午後一時四十分。決して見返りを期待していたわけではないが、私欲を抑えて思いやりの心を大事にした結果が四十分の遅刻では、彼氏の人間性を疑いたくなるのも無理はない。
 この日のために、奈緒は一週間も前から天気予報をチェックして、デートに着ていく服を吟味して、それに合わせた口紅とリップグロスも新しく買い揃え、今朝も日の出と同時に起きて身支度を整えた。
 自分だけが心待ちにしていたかと思うと、何やら裏切られたような気分になる。少し前まで胸をときめかせていた「誕生日だから」のフレーズも、今では不信感を煽る元凶だ。
 待ち合わせに現れては去っていくカップルを横目に、奈緒は今一度、携帯電話の新着メールをチェックした。
 面倒臭さがり屋の彼のことだから、よほどの遅刻でない限り、電話はもちろんメールも来ないと分かっている。
 だが、こうしていれば連絡を取り合っているように見えるはず。少なくとも、四十分も待ちぼうけを食わされて、それでもまだ待つ気でいる「ド暇な女」とは思われずに済むだろう。
 人目を気にして虚しい演技を続けるぐらいなら、いっそ自分から電話をかけるなりして事情を確かめれば良いのだが、二人の立場の違いが判断を鈍らせる。
 学園祭が最大の見せ場の手芸部員と違って、インターハイ優勝を目標に掲げるテニス部員の練習量は半端ではない。溜まりに溜まった疲労から、寝過ごしたとも考えられる。
 もう少し、切りの良い時間まで待ってみよう。あと少しだけ。
 カモフラージュの小道具と化した携帯電話を握り締め、祈るような気持ちで待っていると、遠くの方から息せき切って駆けてくる透の姿が見えた。
 「悪りぃ、奈緒!」
 小さな影が瞬く間に大きくなり、目の前まで来て立ち止まる。
 「ごめんな。お前の誕生日だってのに、俺のほうが遅刻して」
 よほど慌てて来たのか。彼の額には薄っすらと汗がにじんでいる。
 心の中に鬱積していたモヤモヤが淡雪のごとく消えていく。
 「大丈夫。私のほうこそ無理させてゴメンね。
 トオル、疲れているんでしょ?」
 「いいや、俺はバリバリ元気だぜ。
 途中まで順調だったのに、海南の連中が来てからだ。あいつ等、また強くなりやがって……」
 「海南って、もしかして区営コートでテニスして来たの?」
 「ああ。午前中、空いてたし」
 一度は浄化されたモヤモヤが有毒ガスを多分に含んだ濃霧となって垂れ込める。爽快な笑顔で答える彼氏が急に不義理な男に見えてきた。
 言われてみれば、透は某スポーツメーカーのロゴ入りTシャツにジーンズという、どう見ても午後のデートよりも午前の予定を重視したラフな格好だ。ジャージでないだけマシとの考えもあるが、ファッション性はまるでない。
 学校遠足じゃあるまいし、どこの世界に彼女とのデートに動きやすい服装で臨む男がいるのか。
 ふつふつと湧き上がる怒りを静める間もなく、今度は不義理な男が素っ頓狂な叫び声を上げた。
 「やっべえ!」
 「どうしたの?」
 「忘れ物! お前はここで待っていろ。ちょっと家まで取りに行ってくる」
 「待って、私も……」
 慌てて踵を返す彼の背中に、奈緒のささやかな願いは届かない。「お誕生日はずっと一緒にいよう」って言ったのに。
 遠ざかる影を追いかけて、奈緒も駆け出した。全力疾走には不向きなヒールの高いサンダルが、昼下がりのどこか間延びした雑踏の中でやけに乾いた音を響かせていた。

 駅前から透の家までは歩いて二十分。走れば十分程度で到着する距離ではあるが、服装が災いしたのか、奈緒の全力疾走は徒歩と同じ時間を要した。
 無論、透はすでに家の中である。
 心臓がバクバクとけたたましい音を立てている。
 走った後の息切れだけが理由ではない。今日が初めてなのだ。奈緒が透の自宅に入るのは。
 開けっ放しの玄関から中を覗くと、かなりの音量の独り言が正面の階段をつたって降りてきた。
 「おっかしいなぁ。絶対、机の上に置いたよな?」
 「トオル、入るよ?」
 念のために玄関で声をかけたが返事はなく、返ってきたのは独り言の続きであった。
 「そうだ! 大事な物だと思って、一旦、引き出しに入れたんだ!
 あれ? 違った! ああ、もう! 昨日の俺、戻って来い!」
 あまりの狼狽ぶりに心配になって二階へ上がってみると、透の自室と思しき部屋の真ん中で頭を抱えてうずくまる丸い背中が見えた。
 「どうしたの?」
 「すっげえ大事なモン、失くした。えっと、うんと……」
 「一緒に探そうか?」
 「ダメだ! それだけは絶対ダメ!」
 ここまでハッキリ拒否されれば出番はない。ドタバタと駆け回る足音を聞きながら、奈緒は部屋の片隅で大人しく待つことにした。
 「あっ、思い出した! 忘れないようにと思って、今朝、リビングのテーブルの上に移動させたんだ!」
 ひとりで納得した透が目の前を通り過ぎ、何の説明もなく階段を下りていく。駅前に続き、本日二度目の置いてきぼりである。
 きっと透は彼女の存在など忘れているに違いない。あるいは、必ず付いてくると思っているのか。
 もともと透はデリカシーとは無縁のタイプで、奈緒もそれを承知で付き合っているのだが、一日に二度も置いてきぼりにされると、さすがに耐え難いものがある。
 追い討ちをかけるかのように、ひとり残された奈緒の視界にショッキングな光景が飛び込んできた。
 壁面収納型の透の部屋には書棚や洋服ダンスといった家具がなく、必然的にベッドの手前のとっ散らかった勉強机に注意が向くのだが、その一等目立つ机の上の正面奥、他の小物とは別格扱いで飾られていたのは唐沢とのツーショット写真であった。
 恐らく地区予選で優勝した時のものだろう。試合用のユニフォームを着た透と唐沢が仲良く肩を並べて写っている。
 しかも透の方は歯を出して笑っている。文句のつけようのない満面の笑みなのだ。
 奈緒が透と出会ってから三年余り。正式に付き合い始めてから二ヶ月が経とうというのに、今まで二人で写した写真は一枚だけである。
 中学時代に写したもので、テニス部の先輩達に冷やかされたせいで、奈緒は下を向き、透はふて腐れてそっぽを向いているという、ひどく距離のあるツーショット。
 確かにあれよりは地区予選優勝の記念写真を飾るほうが絵になるかもしれないが、奈緒の机の上には飾られている。そのひどく距離のあるツーショット写真が。
 いつでも見られるように。大切な人を飾るに相応しい場所だと思うから。
 先輩との仲睦まじいツーショット写真を正視できずに余所へ目を向けると、さらにショッキングな光景に出くわした。
 机の前の壁一面に見知らぬ外国人の写真が所狭しと貼られているのである。
 透と付き合い始めた時、奈緒は一つだけ心に決めたことがある。
 決して自分から彼の過去をほじくり返すような真似はしない。
 アメリカでの話をする時の表情を見れば、その三年間がいかに彼の心に暗い影を落としているかは容易に推察できる。だからこそ、余計な詮索はしないと決めたのだ。
 しかし、こうして目の前に写真をぶら下げられると、ついついじっくり見てしまう。彼が向こうでどんな生活を送っていたのか。
 表情豊かな外国人と共に微笑む透は、机の上のそれとは違って、どれも大人びて見える。革のジャケットを着ているせいもあるのだろうが、笑っていてもどこか警戒しているような。
 無邪気さとは対極にある笑顔に胸が痛くなった。半分は彼の経験してきた過去を思って。そしてもう半分は罪悪感からである。
 詮索しないと決めたくせに、やはり視線は一人の女性を探している。彼がもっとも辛い時期に支えてくれたという元彼女の姿を。
 派手な服装の男達と一緒に写るジャージ姿の女性や、モデルのような目鼻の整った美人もいる。一目で姉御肌と分かる女性は、透を頭から抱え込み、フレンドリーな国民性以上の親密さを醸し出している。
 共通して言えるのは、いずれも奈緒から見れば大人の女性ということだ。
 化粧の仕方も写真の写り方も心得ていて、初デートが決まってから慌てて口紅やリップグロスを買いに走るようなお子様は一人もいない。
 じわじわと広がる罪悪感の上からつんとした痛みが突き刺さる。
 こんな洗練された女性達に囲まれ過ごしていたのなら、透が物足りなさを感じたとしても不思議ではない。自分との初デートが学校遠足と同じ枠内に放り込まれているのも無理からぬことなのだ。
 「なんだ奈緒、ここにいたのか?」
 ずっと「ここにいた」にもかかわらず、いま初めて発見したような口ぶりで、透が声をかけてきた。
 「家まで付き合せて悪かったな。今から仕切り直しってことで、出掛けるか?」
 失くし物は無事に発見できたと見えて、上機嫌で階下へ下りていく彼とは対照的に、奈緒の足取りは重かった。
 写真の中の洗練された女性達と、大人びた透の笑顔が頭から離れない。
 すぐ目の前に本人がいるというのに、写真の彼のほうが本物で、彼の本心も別のところにあるように思えてならない。
 奈緒の不安をよそに、透はさっさと家の戸締りを済ませると、いつものヤンチャ臭い笑みを浮かべて言った。
 「やっぱ、あった方が便利だよな?」
 「何が?」
 「合鍵。お前の分」
 思いがけない提案に、奈緒はとっさに返事が出来なかった。
 一人暮らしをする彼氏の家の合鍵を渡されるということは、とても重要な意味を持つ。いつでも来て良いということで、誰にも邪魔されずに会えるということで、今のお付き合いから一歩踏み込むということだ。
 「だってさ、そうすりゃ待ち合わせも俺ん家で良いし、今日みたいに慌てなくても済むし……」
 合鍵と聞いただけで奈緒は耳まで赤くなったというのに、透は平気な顔で話を続けている。
 「お前も要るか?」
 「うん」と言いかけて、最後の一言に引っかかりを感じた。
 「私も……? 他に持っている人、いるの?」
 「ああ、コーチと唐沢先輩。緊急用にな」
 聞き返さなければ良かったと、後悔した。同じテニス部の、それも男の先輩に嫉妬しても仕方がないと分かっていても、こうも立て続けに恋人の立場を奪われては恨み言の一つも言いたくなる。
 一体、透の中で自分はどのポジションに置かれているのか。テニスよりも下で、テニス部の先輩達よりも下で、きっと恋人などではなく、友達よりは仲が良い程度かもしれない。
 テニス>先輩>恋人>私>友達と、こんなところか。
 先輩と恋人の間にも、区営のコートのテニス仲間とか、もっと大切な人がいるかもしれない。
 「ねえ、トオル?」
 彼の気持ちを確かめたい。お子様だと笑われたとしても、問いたださずにはいられない。彼にとって自分の存在がどれ程の意味を持つのか。
 ところが続きを言う前に、ふたたび透が駆け出した。
 「奈緒、走れ! お前の見たいって映画、もう始まってんぞ!」

 序章をカットされた映画ほど興醒めするものはない。特に奈緒のように映画が始まる前の予告からどっぷりその世界観に浸りたい人間にとって、多くの伏線が組み込まれていたであろう前半部を省いてストーリーの核心を突きつけられても、そこまでの過程が気になって気分が盛り上がるどころか冷めてしまう。
 出来れば次の回の最初から鑑賞したいとの願いも空しく、今頃になって大幅な遅刻の負い目を感じた透が映画館の受付で「今日が彼女の誕生日で、とても楽しみにしていた映画なんです」と、ちょっとハートフルなエピソードを挟みながら泣きついたが為に、異例にも二人は人の良さそうな支配人の指示のもと上映中の館内に案内されるという、非常に不本意な特別扱いを受けたのだ。
 真っ暗な通路をフットライトの灯りを頼りに通って席に着くと、案の定、スクリーン上では告白タイムが始まっていた。
 奈緒が前半部を端折らず見たいと願った理由は、それが恋愛映画だからというのもあった。
 ミステリーやアクション系なら途中からストーリーに追い付くことも可能だが、恋愛映画でいきなり「I LOVE YOU」を連発されても、その告白は軽薄なものとしか映らない。
 二人がどんな出会いをして、相手のどこに魅力を感じ、どのような紆余曲折を経て「愛している」に至ったか。きちんと納得してから肝となるシーンに突入するのが恋愛映画の正しい見方だと思うが、残念ながら主役の二人はすでに互いをトロンとした眼差しで見つめている。
 二人の顔が徐々に近づき、スクーンいっぱいに濃厚なキスシーンが映し出された。
 本来なら最も気持ちが高まるはずの感動的な場面が、どんなに想像力を膨らませても卑猥な情事に見えてしまう。
 そもそも肝心な時に目を瞑るのを忘れ、一生に一度のファースト・キスを三秒以下で終わらせた愚かなお子様には、外国人が繰り広げるキスの上にキスを重ねる連続技は過激としか言いようがなく、目のやり場にも理性のやり場にも困るのだ。
 ふいに映画の中の恋人達と、自分達の姿が重なった。
 あの時、一瞬で終わったファースト・キスの後、透から送られたメールにはこう綴られていた。
 〈次のデートの時は、絶対、目瞑ってくれよな!〉
 あれは今日の、このデートのことではないか。
 奈緒は顔の向きをスクリーンに固定したままで、視線だけをそっと隣へ向けた。
 透は今、どんな顔をしてこの濃厚なキスシーンを見ているのか。外国人の彼女がいたというのだから、彼もこんな高度な連続技を習得しているのか。
 こっそり様子をうかがってみると、あろうことか、彼はこの濃厚なキスシーンをものともせずに深い眠りに落ちていた。白いシャツの胸元が気持ちよさそうに上下に揺れている。
 最初からこの手のジャンルに興味がないのは分かっていた。そう思って約束の時間をずらして、映画では起きていられるよう計画を立てたのに。
 本日三度目の置いてきぼり。物理的ではなく、精神的な意味で。
 二人でいるのに孤独を感じる。奈緒の興味のあるものに透は全く関心を示さず、彼の夢中になる世界に自分は入れない。
 アメリカと日本で離れていた時よりも、今のほうが彼を遠くに感じる。
 「……No,no……I told you,MAULOA.Not、IPOLANI……」
 規則正しい寝息の合間に、熟睡の証とも取れる意味不明な寝言が聞こえた。
 字幕を追うだけの奈緒にはBGMにしかならないが、アメリカに住んでいた透には俳優達の会話が理解できると見えて、無意識のうちに頭の中が英語に切り替わったようである。
 寝言とは言え、彼の話す英語はネイティブと変わらぬ流暢なもので、それがまた二人の距離を感じさせる。
 発音が良すぎて、一度も日本から出たことのない奈緒には何を喋っているのか、さっぱり分からない。
 「……no,way! Couldn‘t be IPOLA……あっ? あれ、ここどこだ?」
 居場所を忘れるほど熟睡していた透が、明るくなった館内と映画を堪能して出て行く客達の冷たい視線の中で、ようやく目を開けた。
 「やべ! 俺、寝てた?」
 「うん」
 「何か、喋ってた?」
 「うん。でも、よく分かんなかった」
 「そっか! ああ、良かった」
 「何が良いの!?」
 自分でも驚くほど強い口調であった。
 知らない世界がいくつもある透。その彼から「お前は知らなくて良い」と拒まれたようで。
 客の引けた館内に気まずい空気が立ち込める。
 「ごめんな。寝ちまって……」
 険のある口調に驚いたのか、透はすぐに謝罪の意を示したが、奈緒が腹を立てているのはそこではない。最初はそうであったが、今は違う。
 もしも自分がテニス部員であったなら。もっと大人の女性であったなら。英語も流暢に話せたら。
 二人のギャップを見つけるたびに不安が膨らみ、モヤモヤが募っていく。
 せっかく透が素直に謝ってくれているのに、返す言葉が見つからない。
 いま口を開けば唐沢とのツーショット写真や合鍵のことまで責めてしまいそうで、奈緒は唇をきつく噛み締めた。
 その拍子に、リップグロスの「ヌルッ」とした感触が口の周りに広がった。
 泣きたくなるような虚脱感が全身を覆う。
 プルンとした「モテ唇」になるという触込みのリップグロス。少しでも可愛く見られたくて口紅とセットで買ったは良いが、調子に乗って重ねづけした結果、厚塗りし過ぎたようである。
 どうして、こうも自分はやる事成すこと、お子様なのか。
 この感触は間違いない。リップグロスが唇からはみ出している。
 「あのさ……腹、減ってねえか?」
 気まずい沈黙から抜け出そうと、透がまったく別の話題を差し向けた。
 本当はとても食事をする気分にはなれなかったが、一刻も早く化粧室に飛び込みたくて、奈緒は渋々ながら彼の提案に頷いた。

 映画館の化粧室で、奈緒はリップグロスを拭き取り、口紅だけを薄く引いた。
 適量の分からぬリップグロスを無理してつけている自分が愚かに見えて、どうにも我慢がならなかった。
 化粧を直して外に出ると、透が待ちかねたように歩き出した。
 透が前を歩き、奈緒が後ろから付いていく。二人の間に会話がない時は ――主に透が考え事をしている時だが―― 決まってこうだった。
 振り返ることなく先を進む透と、彼に置いていかれないように必死になって距離を縮める自分と。二人はいつもこうして歩いている。
 すると突然、透の足が駅前のカフェの入口付近でピタリと止まった。そこは中学時代、学園祭の準備のために買い出しに訪れた懐かしい店だった。
 いつもなら迷わず「この店、覚えている?」と話しかけるところだが、奈緒はあえて彼の記憶を確かめるようなことはしなかった。三年も前の取るに足らない出来事を、彼がいつまでも覚えているはずがない。
 通りからしばらく中の様子をうかがっていた透が、何も言わずに扉を開けて、店の奥へと入っていく。
 やはり彼は奈緒が当然付いてくるものと思っているようだ。閉じかけた扉の隙間から、店員に向かって指を二本立てているのが見えた。
 一瞬、意地悪な考えが頭をよぎる。
 ――このまま透を残して、ひとりで帰ろうか。
 だがしかし思い出の店で喧嘩別れはしたくないとの想いもあって、結局、奈緒は彼に続いて扉を開けた。

 奈緒が店の中に入ると、透はすでにカウンター席に腰を下ろし、オーダーを取りに来た店員と親しげに話していた。
 彼はよくこの店に出入りするのだろうか。通い慣れている感じがする。
 それに店員達の態度も二人の事情を知っている風だった。
 入れ替わり立ち代り、わざとらしくカウンターの後ろを通り過ぎては、奈緒ににっこりと微笑みかけてくる。決して冷やかし目的ではなく、「おめでとう」と言いたげに。
 透はそんな彼等を睨みつけるようにして追い払うと、急に真顔で奈緒の正面に向き直った。
 「えと、まずは……お誕生日おめでとう」
 そう言ってジーンズのポケットから取り出して見せたのは、小さな正方形の包み紙であった。
 リボンも何もないので気付かなかったが、まさしくこれは今日の為に用意されたプレゼントで、さっき彼が慌てて家に取りに帰ったものだった。
 「開けねえの?」
 プレゼントを握り締めたまま動かぬ奈緒を、透が訝しげな顔で見つめている。きっと予想外の反応に戸惑っているのだろう。
 奈緒が嬉しさのあまり次の動作に移れないでいることを、彼は知らない。
 「あ、うん。開けてみるね」
 促されるままに封を開けると、中から上品なピンクがかったゴールドのチェーンがするりと滑り落ちてきた。
 それは奈緒が密かに憧れていたハワイの伝統工芸品、ハワイアンジュエリーのペンダントであった。
 「どうして?」
 「前に話してただろ? こういうのに興味あるって」
 「いつ?」
 「覚えてねえのかよ?」
 確かに前々から奈緒はハワイアンジュエリーに深い関心を抱いていた。特に南国の花をモチーフにしたデザインに魅かれて、手芸部の作品にも取り入れるほど凝った時期もある。
 しかし、そのことを誰かに話した記憶はない。
 「合宿の話が出た時……っつても、三年も前の話じゃ覚えてねえか」
 透は尖った唇を紅茶のカップに押し付けると、重なりかけた視線をふいっと外した。
 三年前と言われて、奈緒の記憶に遠い昔の河原での会話が甦る。
 「あっ、あの時のこと?」
 三年前、テニス部の夏合宿の話が持ち上がった際に、ハワイアンジュエリーに興味があると漏らしたかもしれない。
 だがそれは、いつもの他愛もない会話の中の戯言のようなもので、話したとしてもほんの一言、二言だ。
 彼はそんな些細な出来事を覚えていたのか。
 「ディナって……アメリカにいる友達で、そういうのに詳しい奴がいてさ。知り合いに頼んで作ってくれるって言うから」
 「ありがとう。でも、高かったでしょ?」
 ハワイアンジュエリーは、高校生が簡単に手の出せる代物ではない。ペンダントとなると、尚更だ。
 「だから、ここでバイトしてた」
 「バイトって、部活の後に? そんな、体を壊しちゃうよ?」
 「三年分だから」
 「えっ?」
 「俺が向こうにいる間、ずっと渡せなかった。だから……」
 ぶっきら棒な口調と決まりの悪そうな横顔で、奈緒はようやく透がカウンター席を選んだ理由を理解した。
 勘が良いのはコートにいる時だけで、度胸が良いのは対戦相手の前だけで、普段の彼は思っていることの半分も言えない、照れ屋で不器用な人間だ。
 誰よりもよく分かっていたはずなのに。なかなか会えない不安から、本来の彼を、彼の心を見失うところであった。
 貰ったプレゼントに視線を戻すと、チェーンの先に細長いペンダント・トップがついていた。
 表にはプルメリアの透かし模様が施され、裏を返すと「MAULOA T to N」と刻まれている。
 「T to N」は「透から奈緒へ」の意味だと思うが、「MAULOA」が分からない。
 そう言えば、映画館でも似たような単語を耳にした。透が寝言で発していたのは、これだったかもしれない。
 奈緒はジュエリーに刻まれた文字を指差した。
 「『マウロア』って、何?」
 「し、知らね……」
 「嘘。さっき寝言で言ってたもん」
 「マジ!? やっぱ喋ってたんだ。最悪だ」
 そっぽを向いてクシャクシャと髪を掻きあげる仕草も、今では彼特有の照れ隠しだと気付いてあげられる。
 「ねえ、教えて?」
 「ハワイ語」
 「意味を聞いてるの」
 「知らねえって。後でネットか何かで調べろよ」
 透は乱暴に伝票を掴むと、飲みかけの紅茶を置いて席を立った。
 彼がひとりで先を歩くのは、考え事をする時以外にもう一つ。その理由を悟った奈緒も後に続く。
 ところが店のレジの前まで来て、透が驚いた様子で立ち止まり、大仰なしかめっ面をして見せた。
 「なるほど、思い出の店で三年分の誕生日プレゼントですか。
 いや〜、純愛だね。青春だね。若いって良いね」
 彼の視線を辿ると、レジの前で中年の男性店員がエプロン姿で立っていた。
 「店長、なんでレジに出てんッスか!?」
 「だってさ、真嶋君が気の毒なぐらい緊張しているって皆が言うから、これは年長者の私の出番かと思ってね」
 「や、全然。もう帰るとこなんで」
 店長と呼ばれた男性は透の非難めいた視線を笑顔で交わすと、伝票だけを抜き取った。
 「彼女、財布の写真より実物のほうが断然可愛いね。こりゃあ、休憩時間のたびに見たくなるわ」
 「余計なこと言わなくて良いッスよ!」
 「照れない、照れない」
 「ああ、もう! ご馳走様でした。帰るぞ、奈緒!」

 店を出てからしばらくの間、映画館とは違う沈黙が流れた。
 忙しい体で三年分のプレゼントを用意してくれた透。彼は二人の思い出の店も、奈緒が三年前に何気なく漏らした一言も覚えていてくれた。
 しかもカフェの店長の話では、例の距離のあるツーショット写真を財布に入れて持ち歩き、休憩時間のたびに眺めていたという。
 相変わらず、透はひとりで前を歩いている。奈緒は後ろに続いている。
 気まずさはもうないが、依然として二人の間には距離がある。
 恥ずかしさと、戸惑いと、焦りもあるのだろうか。いつもより彼の歩調が速い。
 透が奈緒の自宅近くの公園の前を通り過ぎた。
 もうすぐ初めてのデートが終わってしまう。二人の間にちぐはぐな距離感を残したままで。
 「お誕生日は……」
 奈緒は前を歩く透の腕を掴むと、歩を止めた。
 「お誕生日は、好きなだけわがまま言って良いんだよね?」
 自身の腕に引っ張られるようにして、透も立ち止まる。
 「あ、ああ……他にどこか行きたいとこあるか?」
 「ペンダントかけて欲しい。トオルに……」
 「別に良いけど?」
 「やり方、分かる?」
 「たぶん。でも、ここじゃ暗いから。
 公園に自販機があったよな? そこなら見えるかも」
 一年のうちで最も日が長いとされる時期ではあったが、出だしが大幅に遅れたせいで、すでに太陽は淡い光を残して姿を消していた。
 二人は暗くなった通りを離れ、公園内の自動販売機の明かりを目指した。
 「えっと……ここを開けて、こう引っかければ良いんだな?
 よし、後ろ向いて」
 アクセサリーなどの装飾品とは縁遠いはずの彼が慣れない手つきでペンダントと格闘する様は、後ろ向きでもよく分かる。
 なかなか止め具が噛み合わないらしく、何度か首を絞められそうになった後で、ようやくサラサラという軽やかな響きと共にプルメリアのペンダント・トップが奈緒の胸元に届けられた。
 「永遠……」
 「えっ?」
 「MAULOAは永遠って意味だから」
 「そうなの?」
 振り向きかけた奈緒の肩を、透がやんわりと押し戻す。
 背後の自動販売機から照らし出された二人の影が、一つになって地面に落ちている。彼が真後ろにいるのは確かだが、それ以外のことは分からない。どんな顔で話しているのか。
 「本当はIPOLANIが良いって、友達に勧められたんだけど……」
 怒っているような、困っているような。カフェにいた時と同じたどたどしい口調が背後から流れてくる。
 「あっ、『イポラニ』は最愛の人とかって意味で、よく彼女のプレゼントに使うって。
 さっき映画館でその夢を見てた。友達がふざけて、無理矢理それにした夢。
 奈緒にプレゼントがバレたかと思って、それで『良かった』って、つい……」
 「最愛の人じゃなくて、永遠?」
 「最愛のほうが良かったか?」
 「分かんないよ。理由を言ってくれなきゃ」
 「そんなの、言えるかよ」
 「だったら、分かんない。トオルは何も言ってくれないから分かんない!」
 IPOLANIとMAULOA。意味の違いはどうでも良かった。
 ただ彼にとって自分がどんな存在なのか。言葉にして伝えて欲しかった。
 気がつけば、奈緒は制止を振り切り、向き合うように立っていた。困惑気味の透の顔がすぐ目の前にある。
 「話してくれなきゃ分からないよ。トオルが何も言ってくれないから、私、勝手に不安になって、誤解して。
 いつも大変なんだよ?」
 一度言い出したら抑えることが出来なかった。今まで我慢してきた想いが、饒舌ではないにしろ、次々と言葉となって溢れ出す。
 「本当は私のこと、そんなに好きじゃないのかなとか。もっと大人の女性のほうが良いのかなとか。
 あれこれ悩んで。でも、嫌われたくないから背伸びして……。
 だから、ちゃんと言って?」
 「何を?」
 「私のこと好き?」
 「バ、バカ! そんなの言わなくたって分かんだろ?」
 「だってお誕生日だもん。わがまま言って良いんだよね?」
 明らかに彼を困らせる行為と分かっているが、奈緒は構わず問い詰めた。この機会を逃せば、照れ屋の彼から本心を聞き出すチャンスなど一生ないかもしれない。
 「好きとか。そういうんじゃねえんだ。
 奈緒は、そういうのとは違う」
 「じゃあ、どういうの?」
 「もっと、こう……何ていうか。色々だ」
 「色々って?」
 「色々は、色々だ」
 「全部言って」
 「だから、一緒にいてホッとする、とか」
 「それから?」
 「一番に守りたいって思う奴で」
 「あとは?」
 「まだ言わなきゃ駄目なのか?」
 「トオルが思っていること全部話してくれるまで駄目。だってお誕生日だもん」
 さすがにわがままが過ぎたのか、透がムッとし始めた。
 「まったく……」
 髪を掻き上げる仕草も、やけに乱暴に見えた。
 「だ・か・ら、いい加減目瞑ってくれって思ってんの!」

 とうとう本気で怒らせてしまった、と初めは思った。しかし「目を瞑れ」の一言が、そうではないと教えてくれた。
 気持ちの伝え方は一つではない。
 彼の乱暴に髪を掻き揚げていた右手が頭から離れ、何か思案するように口元を経由した後で、そっと奈緒の肩に回された。
 あの時の、初めて唇を重ねた時と同じ光景が目の前を覆う。ほのかに石鹸の匂いのするシャツ以外、何も見えない。
 今度こそ目を瞑るのを忘れてはいけない。奈緒は静かに目を閉じた。
 胸の鼓動を伝える場所から彼の声がする。
 「何でキレてんのか、よく分かんねえけど、俺がお前のこと不安にさせてんなら謝る。
 ただ、これだけは覚えておいて欲しい。
 どこにいようが、何をしていようが、お前に対する気持ちは変わらない。今までも、これからも」
 「だから永遠なの?」
 「ああ。IPOLANIは分かってると思ったから、MAULOAにした」
 「ありがとう、トオル。あのね、私も……」
 「もう喋んな」
 映画の主人公のようには出来なかったけれど、二度目に交わした口づけは、ファースト・キスよりはほんの少し進歩が見えた。そして二人の関係も。
 別れ際に透がくれたもう一つの贈り物。
 「さっき渡しそびれたんだけどさ。その……緊急用とかじゃなくて、お前ならいつでも歓迎っつうか。
 言っとくけど、部費じゃねえぞ? 俺が自分の金で作ったヤツだから」
 不器用で照れ屋の彼が素直に想いの丈を語ってくれたのは、奈緒が目を瞑っていたわずかな間で、もう二度と聞けることはないかもしれないが、これからは二つの贈り物が教えてくれる。
 IPOLANIよりもMAULOA。最愛の人だから、永遠に――。






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