第28話 誕生・最強最悪コンビ

 方向音痴の太一朗の遅刻により急遽ダブルスの出場を命じられた透は、各校の引率者専用の控え室、通称・顧問部屋を後にして、陽一朗のもとへと走っていった。
 頭の中が軽いパニックを起こしていた。こうして選手控え室へ向かっている今もどこか他人事のようで、目の前に差し迫った現実とどう向き合って良いのか、分からない。
 幸いにも、今回シングルスに出場する唐沢からウォーミング・アップの相手を頼まれていた為に、ラケットとシューズは自分の物がある。試合用のユニフォームもマネージャーが予備を用意してくれている。
 「あと足りない物は……えっと……」
 考えれば考えるほど、不安要素が増えていく。
 シングルスならまだしも、コンビネーションが求められるダブルスで一度も組んだことのない陽一朗と出場することになろうとは。しかも司令塔を務める太一朗の代役というのだから、能力的には足りないものばかりである。
 だがしかし、陽一朗の胸中を思えば浮足立ってもいられない。
 急ごしらえのペアで不安なのは陽一朗も同じである。おまけにチームメイトを混乱に陥れた原因が兄の遅刻とあっては、さぞかし肩身の狭い思いをしていることだろう。
 透が自身の支度をさておき選手控え室に足を向けたのも、パートナー不在の異常事態から一刻も早く陽一朗を解放してやろうとの気遣いからだった。
 ところが中に入ってみると、当の本人は自慢の金髪をどう束ねようかと思案中で、息を切らして飛び込んできた透に対しても、ヘア・ワックスをつけながら鏡越しに話しかけるという横着ぶりを見せている。
 「やっぱスプレーワックスにして正解! 固形だと、どうしてもベタつくんだよね。
 うん、これ絶対オススメ! トオルも使う?」
 「いえ、俺は……」
 「そう言えば、太一の穴埋め。お前が選ばれたんだって? ヨロシクな!」
 「はあ、こちらこそ……」
 「あれ、どうした? 元気ないな?」
 「いえ、何でもないッス」
 透は努めて冷静に振舞った。
 太一朗はどんな時でも冷静に状況を判断し、その都度ベストな選択をする。特に気分によってプレーの調子も変わる陽一朗の扱いには細心の注意を払っており、試合前は自身の感情を押し殺してでも弟の“ノリ”を優先させている。
 現時点で陽一朗に動揺が見られないのであれば、これ以上余計なことを話す必要はない。
 透は熱心に鏡に向かう陽一朗を控え室に残して、先にひとりでウォーミング・アップに入ることにした。

 ストレッチとランニングで体を解してから、壁打ちボードに向かう。陽一朗とのダブルスをイメージしながらボールを打ってみる。
 太一朗が「ゲームメークの達人」と呼ばれる所以は、戦術だけではない。ボールのコントロールにも優れている。
 透自身、唐沢と組んで分かったことだが、前衛の攻撃力を上げるのは後衛の力量によるところが大きい。
 安定したショットで相手の攻撃を抑えつつ、前後左右とコースを散らしながら敵の陣型を崩していく。こうしたお膳立てがあって初めて、前衛はチャンスボールを仕留めることが出来るのだ。
 今回は透がそのお膳立てをしなければならない。多少球速を落としてでも、コントロール重視でゲームを作る。
 頭の中でイメージは出来ている。体も充分に解れている。
 それなのに、壁打ちボードから返されるボールは透のイメージとは正反対のものだった。
 太一朗の代役というプレッシャーから余計な力みが生じているのか。制球力を欠いたボールは壁に激突した後、さらに不安定さを増して戻ってくるために予期せぬ方向へバウンドし、それを無理やり軌道修正しようとするものだから、無駄に力のこもった暴走球となるのである。
 「くそっ、なんで!?」
 思い通りにならない苛立ちから、ふたたび透が力任せに強打した時だ。
 「ボールに八つ当たりとは、お前らしくねえなぁ」
 振り返ると、そこには先輩の千葉が立っていた。冷やかすつもりはないのだろうが、大仰に寄せた眉根が芝居がかって見える。
 「ケンタ先輩……」
 「陽一がお前の様子が変だって言うから、気になって来てみたら。どうした、緊張してんのか?」
 「ええ。緊張っていうか。プレッシャーっていうか。何かもうグチャグチャで……」
 気心知れた先輩を前にして、透は素直に思いを打ち明けた。
 「俺、ずっと唐沢先輩に甘えていたんだなって。
 この前、ハルキにも『甘い』って指摘されて、最初はそんなことないと思っていたんですけど、今は身に染みるっつうか。正直、応えてます」
 「確かに、いきなり太一の代役はキツいよな。
 だけどさ、四月からずっとお前の面倒を見てきた部長がゴーサイン出したんだろ?」
 「だから余計にグチャグチャなんですよ。先輩のお守りが必要な人間が、太一先輩の代わりだなんて、無理に決まっているじゃないッスか。
 ハルキだっているのに、なんで俺なんだろうって」
 話をしていくうちに、透は自分が認識している以上に大きな不安を抱えていることに気がついた。
 練習であろうが、試合であろうが、コートに立てるチャンスがあるのなら、どんな厳しい条件でも喜んで受け入れてきた。手足が冷たくなるほど緊張した地区予選でも、ここまで不安になることはなかった。
 だが、今はコートに立つのが怖かった。出来ることなら、誰かに変わって欲しいと思っている。
 いつも的確な指示を出してくれる唐沢がいない。指針となる背中が見えない。そのことが、こんなにも心細いものとは思いもしなかった。
 しかも今回は急ごしらえのペアである。
 また上手く勝ち進んだとしても、三回戦で当たる藤ノ森学院には自分達の情報が筒抜けで、その悪条件の中、陽一朗をリードしながら戦わなければならない。
 これがシングルスなら捨て身の覚悟で臨むところだが、運命共同体であるパートナーの存在が、初めて尽くしの緊張の上に更なるプレッシャーとなって圧し掛かる。
 話を聞き終えた千葉が芝居がかった渋面を解き、彼らしい真っ直ぐな眼差しを項垂れる後輩へ傾けた。
 「俺はダブルスに関しては上手くアドバイスできねえけど、もしも今回のオーダーが部長の人選ミスだって言うなら、それは違うと断言できるぜ」
 「でも、俺はハルキと違って試合経験も少ないし、ダブルスに回されたのも再教育が必要だからで……」
 「ひょっとして、前に部長から『シングルスじゃ使い物にならない』と言われたこと、気にしてんのか?」
 「気にするも何も、事実ですから。
 ケンタ先輩も聞いてたじゃないですか。四月のミーティングで、唐沢先輩がダブルスに転向するのは俺を教育し直すためだって」
 「やっぱ、それか。まあ、あんだけハッキリ言われりゃ、無理もねえけどよ。
 よし、分かった。これは三年生と副部長の俺しか知らねえ特秘事項だが、俺の独断で話すから、よく聞けよ。
 部長がダブルスに転向した本当の理由は、お前には成田先輩と同等か、それ以上の力があると判断したからだ。
 決してシングルスで使い物にならないとか、ハルキよりも劣るとか、そういう否定的な理由じゃない」
 「ケンタ先輩、いくら何でも、そんな見え透いた嘘は……」
 「俺が今までにテニスに関して嘘を吐いたことがあるか?」
 確かに千葉にはイタズラ目的で騙されたことは何度もあるが、テニスに関して嘘を吐かれたことは一度もない。
 それは千葉に限らず、テニス部内においても同じで、悪ガキ集団の中にも「羽目を外すならコートの外」という暗黙のルールが存在するのである。
 「四月の時点で部長の腹は決まっていた。
 ほら、お前がハルキと勝負した時だ。あの時、俺は部長と一緒に見てたんだ。
 正直、驚いた。お前等のプレーにも驚かされたけど、となりにいた部長にも。
 普段はポーカーフェイスで感情をほとんど出さねえ人が笑っていた。すっげえ楽しそうにな。
 たぶん、部長はあの試合で腹を決めたんだと思う。成田先輩という絶対エースの抜けたうちの部をインハイまで引っ張っていこうってな」
 帰国直後、レギュラーの座をかけて遥希と戦ったあの試合。今でも細部に至るまで内容を覚えているが、そんな風に見られていたとは知らなかった。
 「本来なら、お前はハルキと同じS2を任されていたはずだ。
 二人交代でS2に出場させて、経験を積ませながらじっくり育てていく。これが従来のやり方だ。
 けど、成田先輩が抜けるとなると、悠長なことは言ってらんねえ。
 だから部長はやむなくダブルスに転向した。お前を成田先輩と同レベルのプレイヤーに育てるために。
 あえて『シングルスじゃ使い物にならない』と理由付けをしたのも、ナンバー3の現状に満足させないよう考えてのことだ。
 お前はとっくに合格点をもらっているんだよ」
 「俺を成田先輩と同じレベルまで育てるために? それで唐沢先輩がダブルスに?」
 俄かには信じがたい話であった。
 唐沢とは他の部員よりも公私にわたり付き合いのあるほうだ。だが、彼がそんな素振りを見せたことは一度もない。それだけに喜びよりも驚きのほうが強かった。
 「俺の話を信用する、しないは勝手だ。
 だがな、トオル? コーチも、部長も、他の三年の先輩達も、もちろん俺も。お前なら成田先輩の代わりになれると信じている。
 だから太一の代役ぐらいでビビッてもらっちゃ困るんだよ」
 千葉がそう言って、ニッと笑った。
 成田ほどのプレイヤーになれるかどうかは別として、先輩達が自分のことをチームの命運を託すに値する選手だと思ってくれている。それだけは確かなようである。
 「先輩たちの為にも、腹くくるしかないってことですね?」
 「そういうことだ。シングルスでもダブルスでも、コートに入ってボールを追いかけるのに変わりはねえよ。
 何も野球やサッカーで結果出せって、言ってんじゃねえ。お前の好きなテニスだろ?」
 「ハハ……ケンタ先輩。何か、力が抜けました」
 「なんだ。力が湧いたんじゃねえのかよ?」
 「いえ、良い感じに抜けました。たぶん、結果を意識し過ぎて、余計な力が入っていたんだと思います」
 「そっか。じゃあ、任せたぜ!」

 シングルスでもダブルスでも、ボールを追いかけるのに変わりはない。
 千葉の言葉が支えとなったのは、第一試合が始まるまでのほんの十五分間だけだった。
 ゲーム開始早々、透は自分ひとりの判断で試合を進められるシングルスと、二人の意思疎通がなければ成立しないダブルスとでは、大きな隔たりがあることを思い知らされた。
 通常、サーブ権を持つペアの前衛は、リターンで脇を抜かれて失点することのないよう、センターとサイドラインの中間地点に陣取るのが一般的である。透も唐沢からそう教わった。
 ところが陽一朗は最初からネットのほぼ中央に構えている。
 瞬発力に長けた彼のことだから、相手の返球がクロスであろうと、ストレートであろうと、全て自分が叩き返すつもりでいるのだろう。
 陽一朗にとっては当たり前のポジションかもしれないが、サーブのコースを自在に打ち分ける腕があり、そこから攻撃の糸口を掴もうとする透にとって、あの位置取りは非常に打ちにくい。
 サーバーの視界のど真ん中に味方の前衛が立ち塞がる格好となる為に、コースを選択する幅が限られる。
 第一、後衛が攻撃のチャンスを作り、前衛がそのチャンスを活かして点を取るという、ダブルスの基本中の基本はどこへ行ったのか。
 やり辛いのは、それだけではなかった。
 試合前に二人で決めたサインも、透はてっきり太一朗の代役である自分が指示するものと思っていたのだが、陽一朗は前衛の位置から後ろ手に送ってくる。
 しかもゲームの途中で自らが送ったサインと全く別の攻撃を仕掛け、結果オーライとばかりに平然としている。
 動きの激しい前衛をフォローするだけでも手一杯だというのに、作戦までコロコロ変わるとなれば、コンビネーションもあったものではない。
 当然、そんな不協和音を奏でる凸凹コンビが得点できるはずもなく、点差はじりじりと開いていった。
 「陽一先輩、何でそこで強引にポーチに出るんッスか!? 今のは一旦繋いで体勢を立て直さないと」
 苦労のわりにはポイントにならない焦りから、透は試合中にもかかわらず陽一朗に文句をつけていた。
 「なに言ってんの? お前がポジションチェンジしないから、逆襲されたんじゃん!
 このペアでポイント取るには俺ッチが決めるしかないんだから、そっちが合わせろよ」
 「それじゃあサインの意味がないじゃないッスか!」
 「サイン通りに出来たら、誰も苦労しないっつうの! ゲーム練習じゃないんだからさ。試合は常にイレギュラーの連続なの!」
 「陽一先輩はイレギュラーばっかじゃないですか! こんなメチャメチャな動きされたら、フォローし切れないッスよ」
 「うるさいなぁ、もう! 太一の代役だったら、黙って動けよな」
 「どうせ、俺は太一先輩とは違いますから」
 「開き直んなよ。
 だいたいお前は部長に甘やかされ過ぎなんだよ。この過保護の一人っ子!」
 「陽一先輩にだけは言われたくないッスよ!」
 共にダブルスにおける立場も同じ、負けず嫌いの性格も同じという似た者同士の急造コンビは互いに引くことを知らず、審判に注意されるまで見苦しい口喧嘩を続けた挙句、相手ペアの息の合った攻撃に脆くも粉砕されて、無念の敗北を持ち帰る結果となった。
 幸い、藤原と唐沢の活躍でチーム全体の敗北は逃れたものの、二回戦でもコンビネーションの悪さは改善されず、またも後続の先輩二人に不協和音の尻拭いをさせたのだ。
 次はいよいよ藤ノ森学院との対戦である。
 本当は打ち合わせを始めなければならない時間だが、透は控え室のある管理棟から少し離れたベンチでひとり膝を抱えて座っていた。
 他校の試合を偵察するでもなく、ウォーミング・アップを開始するでもなく、無論、陽一朗のいる控え室へ向かう気などサラサラない。
 どうせ行ったとしても、今朝のように鏡越しにあしらわれるに決まっている。
 パートナーが変わると、こうも勝手が変わるものなのか。
 さすがに代役に指名された直後のような不安や恐れはもうないが、代わりに落胆と失望感が怒涛のごとく押し寄せている。
 そもそも透も陽一朗も自分でゲームを組み立てたことがない。全てパートナーが司令塔となって、その役割をこなしてきた。
 御者のいない馬車馬が二匹。身体能力は人並み以上だが、思考力はまるでない。性格的にも、静と動で分ければ激しいほどの「動」である。
 そんな二人がコンビを組んでいるのだから、衝突するのは目に見えている。
 似たもの同士。磁石のS極とS極が反発し合うのと同じ現象が起きている。
 ここは、どちらかがN極にならなければ。そう思って太一朗の代わりにサインを出しているのだが、向こうも同じ発想をするらしく、反対にサインを送り返してくる。
 さらに二人の経験値の差も余計な衝突を招いている。陽一朗には暗黙の了解と思えることでも、透には指示がなければ対応できない場面が少なからずあったのだ。

 「ああ、もう最悪だ!」
 落胆と失望に押し潰されて頭を抱えた透であったが、ふと人の気配がしたような気がして顔を上げると、唐沢がすぐ目の前に立っていた。
 「確かに、ダブルスの教材に使いたくなるような試合だったな。
 『コンビネーションの重要性』というタイトルで解説をつければ、立派なマニュアルになりそうだ」
 「唐沢先輩……なんで?」
 「それ、俺の台詞。どうして、お前がこんな所にいる? 打ち合わせの時間だろ?」
 疑問を投げかけたわりには、その顔はさして驚いた風でもなかった。
 先程の千葉と同様、ひとりで空回りしている後輩が心配になって様子を見にきた、といったところだろう。
 唐沢の気遣いが嬉しいような。恥ずかしいような。
 自分を信じて大役を与えてくれた先輩に対し、期待に応えるどころか、逆に負担を強いている。合わせる顔もなければ、返す言葉も見つからない。
 「まったく、お前達は似た者同士だな。控え室でも陽一が同じポーズでいじけていた」
 唐沢は呆れ顔でそう言うと、透のとなりに腰を下ろした。
 「別に、いじけてなんかいませんよ」
 唇を尖らせ反論をしながらも、透は唐沢とは反対方向へ体をずらして、彼がゆったり座れるだけのスペースを作った。
 唐沢がとなりにいると、それだけで安心する。やはりこの組み合わせが一番自然だと、改めて思う。
 早く一人前になると息巻いておいて情けない気もするが、何事にも相性というものがあって、特にダブルスにおいてはその良し悪しが成否に大きく影響するのかもしれない。
 すると、透の心情を知ってか、知らずか。偶然にも、唐沢が相性の話をし始めた。
 「滝澤の占いによると、射手座同士の組み合わせは最悪になるか、最強になるか、どっちかなんだってさ。
 お前等二人とも射手座なんだって?」
 「ええ、まあ……」
 「見事に的中したわけだ」
 「どうせ俺なんか、どう頑張っても太一先輩はなれませんから」
 「ああ、控え室で陽一も同じ愚痴をこぼしていた。だから『俺の代わりになろうなんて、二万年早い』と怒鳴りつけておいた。
 お前も、そうして欲しいのか?」
 透はなぜか楽しそうに話を進める唐沢の横顔をじっと見た。
 徹底した現実主義の先輩が占いを信じているとは思えない。では、なぜ彼はこんな話をするのか。
 似た者同士がコンビを組めば、ある程度の衝突は避けられない。まして同じ立場となれば、尚更だ。
 だが、やり方によっては最悪が最強に転ずる場合もあるのではないか。無理して太一朗や唐沢の代わりになろうとせずに、自分達のやり方で勝利を掴む術があるはずだ。
 唐沢はそのことを伝えにきたに違いない。
 「でも、俺……」
 解決の糸口を示されても、透はまだ立ち上がる気にはなれなかった。
 次の相手は、あの藤ノ森学院だ。
 対戦表には知らない選手の名前が記されていたが、条件は同じではない。初顔合わせであっても、向こうはこちらの手の内を知っている。
 そのことを考えると、どうしても腰が重くなる。
 口ごもる後輩の様子から不安を察したらしく、唐沢が静かに問いかけた。
 「コートに立つのが怖いか?」
 自分でも情けないと思いながらも、素直に頷くしかなかった。
 きっと怒られる。そう思って身構えた瞬間、予期せぬ返事が返された。
 「俺だって怖いさ」
 一瞬、透は聞き間違いではないかと耳を疑った。向かうところ敵なしの唐沢に恐怖心などあろうはずがない。
 疑問がハッキリ出ている透の視線を、唐沢は一旦笑顔で受け止めた後で、今度は思案するように軽く首を傾けてから、また笑った。
 一度目は困惑気味に。そして二度目は本音を語る時の照れの混じった笑顔に見えた。
 「昔は負ける気がしないなんて思ったこともあったけど、今は怖くなることの方が多いかな。
 逆に、そうでなければいけないと思うようになった」
 「唐沢先輩でも怖くなることってあるんですか?」
 「そりゃあるさ。特に今回は久しぶりのS1だからな。
 ずっとシンゴに任せていたけど、大将格のS1はさすがに緊張する。正直、俺の番に回る前に決着がついてくれ、と思っている」
 照れたように語られる先輩の本音は、意外にも透が心に秘めていたものと変わりがない。
 これはプレイヤーなら誰しも抱える感情なのか。抱えても良いものなのか。
 恐怖心はマイナスにしか作用しないと思っていたが、唐沢は必要なものとして受け入れているようだった。
 話を始めた時と同じ穏やかな口調で、唐沢が続けた。
 「最初の二戦で決着がつけばチームとしても理想的なパターンだし、その分、俺も体力を温存できる。
 本当のことを言うと、藤ノ森の精鋭を相手に自分の力がどこまで通用するのか、不安で仕方がない。
 大げさだけど、死刑囚にでもなった気分だ。この試合が最後になるのかなって、心の底では弱音ばかり吐いている。
 だけど、俺がここで負ける訳にはいかない。そうだろ?」
 「そうですよね。インハイ本戦の出場がかかってるし、S1って後がないから、俺なんかよりプレッシャー半端ないッスよね」
 「タ〜コ! そんな建前はどうでも良い」
 「どうでも良いって?」
 「絶対、誰にも言うなよ?」
 唐沢は辺りを警戒するように慎重に見やってから、急に声を潜めてこう言った。
 「俺が負けたくない本当の理由は、もう一度、お前とダブルスを組みたいからだ」
 「そんな理由ですか?」
 「そんな理由とは、何だ? 俺は本気でそう思っている。
 お前とのダブルスは予想外のハプニングばかりで、成田と組んだ時とは別の面白さがある」
 ふざけているようには見えないが、真面目な話だとも思えない。意味ありげに微笑む先輩の表情をどう読み取れば良いのか。
 透の困惑をよそに、唐沢が問いかけた。
 「トオルはどう思う? 地区予選、どうだった?」
 「いま思えば、メチャメチャ面白かったです」
 「もう一度、あんな試合をしたいと思わないか?」
 「はい! 唐沢先輩と一緒なら何度でも」
 「だったら、やるべきことは一つだろ?
 もう一度、俺とペアを組むには、どうすれば良いか。分かるよな?」
 唐沢と再びダブルスを組むために、今やらなければならないことはただ一つ。
 「俺、この先も唐沢先輩と一緒に戦いたいです。先輩だけじゃなくて、今回出られなかったハルキとも。あいつとも一緒に戦いたいです。
 『甘い』って言われるかもしれないけど、俺にとってハルキはライバル以上に仲間だから」
 「エンジン、かかったか?」
 「はい。今度こそ勝ってシングルスに回しますから、見ていてくださいね!」

 透は控え室に入るなり陽一朗の肩を背後から掴んで自分のほうへ向き直らせると、きちんと目線を合わせて言った。
 「陽一先輩、俺は太一先輩にはなれません!」
 「お前、まだ言うか?」
 「そうじゃなくて、俺は太一先輩みたいにゲームメークの達人でもないし、陽一先輩のことを上手くフォローできないと思います。
 だけど、俺だから……いえ、俺達だから作れるゲームプランもあると思うんです」
 「あのさぁ、それ俺ッチが先に言おうと思っていたんだけど?」
 陽一朗が不愉快そうに差し向けた視線の先には、青や赤で書き込みのされているホワイトボードがあった。
 似た者同士の二人の能力を最大限に活かせるポジショニングを探っていたのだろう。四角いコートに何本ものラインが引かれている。
 「俺、陽一先輩のこと信じて付いていきますから、何でも指示してください!」
 「バ〜カ! お前も一緒に考えるんだよッ! 
 俺ッチだって部長みたいに頭良くないんだから、二人で知恵絞って作戦立てんの!」
 ヤンチャ臭い笑みを見せる陽一朗と。
 「了解ッス!」
 同じ笑みを返す透と。
 光陵テニス部始まって以来の最悪コンビが、最強コンビに転じた瞬間だった。






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