第3話 VS ハルキ 再び (後編)
目線の高さから判断して身長155センチといったところか。その差は15センチ近くあるはずなのに、自分が優位な立場にいるとは思えない。むしろ低い姿勢から急所となる喉元を虎視眈々と狙われているような、強い危機感を抱かせる。
相変わらず、こいつは良い目をしている。初めてバリュエーションで対峙した時と少しも変わらない。
上向き加減の目尻をよりシャープに吊り上げ、正面から自分を見据える遥希に、透はふと懐かしさを覚えた。
追い込まれる程に研ぎ澄まされていく鋭い視線は、彼のプライドの高さを象徴すると共に、これ以上ポイントを取らせないとの固い決意の現れでもある。
ゲームカウント「3−3」と引き分けた後の第7ゲーム。ここで何かを仕掛けてくるはずだ。今までの経験から、透はそう確信した。
後半戦に突入する最初のゲームを制すれば、試合の流れも自ずと引き寄せられる。仕掛けるとしたら、今しかない。
透は前半と同じやり方で、遥希からドロップショットを誘った。
新しい決め球が何かは知らないが、現時点でやれる事はただ一つ。己を信じて進むのみ。
ネット際に落ちてくるショットを捕らえ、ドロップボレーで切り返した直後、前へと詰めてきた遥希の手元からボレーが放たれた。
それは少し遠くに腕を伸ばせば、或いはあと一歩深く踏み込めば、容易に捕らえられそうな至近距離からの一打であったが、そのスピードと角度の鋭さゆえに、急場しのぎで差し向けたラケットでは掠りもしなかった。
このネットの向こうからコートの脇腹に鋭角に切り込んでくる軌道は見覚えがある。
「まさか、成田部長の……?」
遥希が満足げな笑みを浮かべて、透の問いに無言で頷いた。彼が新たな切り札として披露したのは、成田の決め球、アングルボレーであった。
中学時代に一度だけ、成田が都大会の決勝戦で使用したのを見たことがある。ボレーの天才と謳われた京極でさえ返せなかった難易度の高い技である。
遥希はそれを習得することで、自身のドロップショットとのコンボを完成させていたのだ。万が一、ネット際で落ちるドロップショットを破られた場合でも、そこから前へ出て逆サイドを突くアングルボレーで切り返せば、相手の動きを封じることが出来る。
すでに決め球として確立されているドロップショットだけでは満足せず、より強力な切り札に手をつけるとは。しかも、それを完全に自分の物にして、連続攻撃の二太刀目に利用するとは。
ある程度、覚悟はしていたが、やはり遥希は一筋縄ではいかない相手である。
透のサービスゲームにもかかわらず、試合の主導権は向こうの手にあった。点差を広げるための取っ掛かりを作らなければならない場面で、逆にリードを許している。
このゲームを落とせば今後の展開が苦しくなると分かっているが、アングルボレーを攻略せぬ限り、反撃は難しい。透の切り札とするドリルスピンショットは、コート後方での打ち合いでこそ威力を発揮するのであって、ネット前の攻防戦では無力である。
ベースラインからのドロップショットと、ネット前でのアングルボレーと。オールラウンダーならではの強力コンボの前に打つ手はなく、とうとう透は第7ゲームのブレイクを許してしまった。
片手で軽くガッツポーズを作り、イメージ通りとばかりに何度も頷く遥希。その落ち着き払った態度が、大舞台での場数の差 ――いかに彼が勝利へのステップを踏み慣れているか―― を物語っている。
やはり変わらないのか。変われないのか。かつて二人の間に存在した実力差は今も等しくあり、それはどんなに努力を重ねたとしても埋まらぬものなのか。
勝負どころで要のゲームを奪われ、透の中で固く信じていた勝利の二文字が揺らぎ始めた。
目の前に整然と並ぶ六面のテニスコートが、不自然なほど広く感じられる。汚らしいペイントもなければ、丸太もない。たった一面のコートを巡って愚かな争いが起きることもない。
ここでの練習はさぞかし有意義なものであったに違いない。しかも、遥希には悪天候でも練習可能な自宅もある。
コーチから請われて戻って来たものの、本当は場違いなのかもしれない。予想以上に強くなったライバルと相対してみて、どうしようもなく自分がちっぽけな存在に思えた、その時だ。
あの男の言葉が耳元を掠めた。
「お前には行く場所がなくても、帰りたい場所はあるんじゃないのか?」
聞こえるはずのない声が、確かに聞こえた。遠く離れても、尚、語りかけてくる。偉大なる男の声が、胸の奥を揺さぶった。
透は一旦、構えを解いて、静かに目を閉じた。
自分はここへ何をしに来たのか。誰の為に、何の為に、戦っているのか。
日本を離れてからの三年間、抱き続けたこの想い。かなりボロボロになってしまったが、たった1ゲームを落としたぐらいで壊れるほど脆いものではないはずだ。
悔しさと共に握り締めた強さの分だけ固くなり、消えかかる希望と共に握り続けた長さの分だけ凝縮された想いが、この手に、この胸に、宿っている。
透は目を閉じたままで、意識を奥深くへと潜らせた。もう二度と見ることは出来ない彼の姿を、埋もれた記憶から呼び起こすために。
ドロップショットで相手を誘き寄せ、アングルボレーで仕留める遥希の強力コンボは、透のドロップボレーをもってしても崩しようがない。
この窮地を脱するには、ドロップショットからアングルボレーのコンボへ繋がる前に、こちらから打って出るしかない。彼の高度な技の上をいく決め球で。
頭の中が白い霧に包まれている。その深い霧の中で、更に意識を集中させると見えてくる。
赤い革のジャケットを羽織り、精悍な顔立ちに顎鬚を蓄えたアメリカ人。確か彼はグリップを柔らかく持ちながら、ラケットを立てて構えていた。
頭の中の霧が少しずつ晴れていき、過去の記憶が鮮明な映像となって現れた。
透が目を開けると、遥希はすでにサーブの構えに入っていた。ここで一気に攻め込み、点差を広げる腹だろう。透からのリターンを捌いて、ドロップショットに転ずる手順に迷いはない。
遥希の仕掛けたドロップショットが、ネットの際を落ちていく。不思議なくらい、ゆっくりと。
透はラケットを立てて構えた。集中力が最高潮に達した時の特有の現象であることは、過去の体験から分かっている。
あらゆる動きがスローモーションとなって視界に映る。この感覚が訪れた時に意識することは、ただ一つ。自身が最も欲する映像が肉体に降りてくることを念じるだけである。
「頼む、一度だけ力を貸してくれ……」
アングルボレーの構えで前進してきた遥希の斜め前を、一筋の光が照らし出す。それはいつもの記憶のアルバムをめくる時の感覚とは少し違って、光そのものに透を導こうとする意思があるかに見える。
「ここを狙え」と言われているのだ、と思った。
透は神経を研ぎ澄ませると、落ちてくるボールの感触を探った。
父が息子のために吟味したであろうラケットは、こうした繊細なタッチを要するショットに適していた。ボールの衝撃を程よく吸収しつつも、必要な情報はグリップを通して使い手に教えてくれる。
腕から伝わる感触に呼吸を合わせ、透は一筋の光に向かってラケットを滑らせた。
ほんの一瞬、霧の中から故人が姿を現したような気がした。本人の前では滅多に褒めることのなかった捻くれ者の彼が、「それで良い」と微笑んでいる。
「ありがとう、ジャン。おかげで助かった」
心の中で短く礼を言い終えると、透は再び倒すべき相手に目を向けた。
遥希は呆然と立っていた。勢いに乗じて勝負を決めにいったところを、予期せぬ形で出端をくじかれ、戸惑っているのだろう。しかも三年の月日をかけて習得したボレーを、ライバルもまた身につけている。その事実を受け入れられない様子であった。
「今のボレーは、一体……?」
混乱の最中にいるライバルに向かって、透は努めて冷静に、受け入れがたい事実を一言にして告げた。
「ただのアングルボレーだ」
「ただの……?」
「そうだ。お前のと同じ、ただのアングルボレーだ」
遥希の顔が見る見るうちに険しくなった。眉をひそめ、唇を噛み、肩を震わせながらラケットを強く握り締める。思い通りのプレーが出来ない時に見せる独特の仕草である。
二つの決め球を組み合わせた強力コンボを破られた上に、苦労して習得した技を「ただのアングルボレー」と切り捨てられたのだ。
不機嫌さを前面に押し出した顔には先ほどの気高さはなく、急速に赤みを増す頬が憤りの過程を克明に伝えている。三年前、「バカはテニスに向いていない」と侮辱された時の自分を見ているようだった。
隣のコートでは、透の放ったボールがいまだ竜巻状の横回転から逃れられずに、ネットの裾をさわさわと揺らしていた。図らずも、その様子が「ただのアングルボレー」に施された回転の質の高さを伝えると共に、二つのボレーの格の違いを見せるつける結果となった。
いくら成田がプロの養成所から誘いを受ける程の有能なプレイヤーであっても、実際にプロとして活躍してきたジャンと比べれば、ちょっとしたところに違いが出る。そして、その差がトップクラスの選手であればあるほど、彼等が放つ打球に、つまりは目に見える結果となって現れる。
従って、それらを素直に模した透と遥希のボレーにも格差が生じるのは当然のことである。但し、透の場合は窮地に追い込まれた末に発した「火事場の馬鹿力」的要素が強く、もう一度同じ球を放てと言われても、再現できる自信は皆無だが。
透はまだ何か言いたげな遥希に背を向けると、自陣のベースラインに戻った。集中力が切れないうちに、このゲームだけは押えておかなければならない。
たった一度きりのアングルボレーだが、遥希に与えた衝撃はそれなりにあったと見えて、際どいコースを攻めていた彼の球筋が乱れ始めた。
良くも悪くも、互いを知り尽くした相手である。透はこの機を逃さず、第8ゲームを物にした。
「あと2ゲーム……」
ようやく終着点が見えてきた。
光陵テニス部へ帰る ―― それだけの為に、三年を費やした。長い旅路が、あと2ゲームで終わろうとしている。
悔しさは嫌というほど舐めてきた。次に手にするのは勝利の二文字と決めている。誰の為でもない、自分の為に。“あるべき場所”へ帰るために。
相手が動揺している今こそ、畳み掛けるチャンスである。
透はボールを三回バウンドさせると、トスを前方へ上げた。
「なるほど、そういう事か……」
途中から後輩の戦いぶりを黙って見ていた唐沢が、ここで再び口を開いた。
「そういう事って、どういうことですか?」
沈黙が破られるのを待っていましたとばかりに、千葉が質問をかぶせた。
一つ前のゲームまでは、遥希はサーブのタイミングを正確に掴んで返していた。ところが、第9ゲームに突入したと同時に苦戦を強いられている。
傍から見る限りでは、球種が変わったとは思えない。一体、コート上で何が起こっているのか。
この不可解な現象を、一刻も早く経験豊富な先輩に解明して欲しかった。
「真嶋のトスをよく見てみろ。今までより前に上げているだろ?
最初にあいつが言った『小細工抜きでやる』の台詞に、俺達全員、騙されていたらしい」
「ひょっとして、あれが本来のブレイザー・サーブ?」
「恐らくな。第1ゲームの口振りで、俺達は真嶋が全力を出していると思い込まされた。だけど、実際は七割か、多くて八割の力しか出していなかった。
たぶん、あのサーブはトスを前へ上げることによってスピードを加速させるだけでなく、コースの予測も立て辛くする利点があるはずだ」
「つまり、トオルのサーブがパワーアップしたって事ですか?」
「ああ、そうだ。だからハルキは返せなくなった。
ようやく慣れたと思ったサーブのスピードが増した上に、コースも読めない。しかも真嶋は、ここぞのポイントでより飛距離の短いセンターを狙って打っている。
この終盤でやられれば、俺でも攻めあぐねるかもしれない」
第1ゲームに時間が逆戻りしたかのように、遥希が淡々と打ち込まれるサーブに振り回されている。対する透は、やはり第1ゲームと同様、力強くも冷静に試合を進めている。
終盤に来て、またも流れが変わった。ゲームごとに戦局の変わる後輩二人のライバル対決は、彼等の今現在の実力に差がないことを示している。
この勝負、一体、いつになったら終わりが見えるのか。また、どんな形で決着がつくのか。
実力が伯仲する二人の熱戦を、固唾を呑んで見守る千葉の隣で、唐沢がジャージのポケットを探りながら呟いた。次の予定に意識が向いた時、彼は携帯電話で時間を確認する癖がある。
「勝負あったな。真嶋の方がハルキよりも用意していた手札が一枚多かった」
「だけど、次のゲームはハルキのサービスゲームですよ? 5−4ならまだ反撃の可能性があるんじゃ……?」
「いや。真嶋には、まだ隠し球があるはずだ。あのラケットは、たぶん……」
「ラケット?」
唐沢の視線を辿って、千葉も透のラケットに目を向けた。以前、彼が使用していた古びた木製のラケットとは異なるようだが、さして特別なものには見えなかった。しいて特徴を挙げるとすれば、流行に疎い後輩にしては今の時代に即した持ち物だと言うことぐらいか。
「あのラケットが何か?」
「あれは、操作性の高い点ではストローカー、ボレーヤー共に使い勝手の良いラケットだが、ガットの組み合わせ方次第では、タッチショットや回転系のストロークに威力を発揮する。要するに、俺と同じスタイルの……」
途中まで言いかけて、唐沢から笑みがこぼれた。失笑にも似たその表情(かお)は、一度は抑えた感情が堪らず噴きこぼれた感がある。
いつの間に、この二人はこんなにも親交を深めていたのか。ギャンブル好きの困った先輩とそのカモだと思っていたが、唐沢が透に傾ける眼差しには何か特別な感情が混じっている。
例えて言うなら、頼もしくなって戻ってきた弟子を迎え入れる師匠のような。厳しさの中にも、どこか誇らしげで、弟子が強かさを見せるほど、喜びを隠しきれない様子である。
二人を結び付けているものが何なのか。千葉は程なく知ることとなった。
「まさか!?」
遥希から打ち込まれたトップスピンを透のラケットが吸い寄せた。
隣で笑みを浮かべる先輩と見紛うほどに酷似したフォーム。同じスタイルの選手が使うと教えられた新しいラケット。そこから放たれるショットが何であるかは千葉にも察せられたが、この目で確かめるまでは口にはしなかった。
濃紺色のラケットが、操作性が高いと言われたフレームの特性を活かして、しなやかな動きを見せる。
初めは噛み付かんばかりに激しく抵抗していたトップスピンが、柔らかなガットに包まれているうちに徐々にいなされ、角度を変えられ、全く別の球種となって送り出される。
そのドリルの刃先を思わせる回転と言い、ネットを超えた後から変化する特殊な軌道と言い、もう疑う余地はないのだが、それでも千葉は信じることが出来なくて、答えの知れた質問をしつこく投げかけた。
「あれって、唐沢先輩のドリルスピンショット……ですよね?」
「ああ、あれなら合格だ。『ドリルスピンショット』と呼んでも良い」
走り去るボールを目で追う唐沢は、自分の決め球を盗まれたというのに、やけに機嫌が良い。模倣された不快感より、正確に再現されたことに喜びを感じているようだ。
ギャンブル以外で、唐沢のこんな笑顔を見るのは初めてだ。
ひょっとしたら、試合前のウォーミング・アップを終えた時点で、彼には分かっていたのかもしれない。透が同じカウンターパンチャーとして、大きく成長して戻って来たことを。
全部員が驚きのあまり声も出せず、コート周辺は沈黙に包まれていた。水を打ったような静けさの中で、唐沢がもう一度、そこに至るまでの経緯を分かり易く説明してくれた。
「昔からハルキは競技に不向きな体型をカバーしようと、トップスピンに関しては人一倍努力を重ねてきた。その分、自信もあるだろう。
人間は苦しい状況になればなるほど、得意分野にすがろうとする。真嶋はそれを逆手に取ったんだ」
「それじゃあ、わざとハルキからトップスピンを出させたと?」
「第8ゲームで『ただのアングルボレー』と言ってハルキを怒らせたのは、トップスピンを誘い出すための挑発だ。ドリルスピンショットは、充分にトップスピンがかかっていないと出せない技だから」
「あのトオルが、そこまで考えてプレーするなんて……」
「常にライバルとして追い続けたからこその成果だろうな。相手の気性も、プレースタイルも知り尽くした上での作戦だ」
「だけど、唐沢先輩? トオルはいつの間にあのショットを?」
「あいつが渡米する前、このFコートで勝負したことがあった。たぶん、その時の記憶を頼りに向こうで練習したんだろう。
細かいところまで、そっくりマスターしている。あれなら文句なく合格だ」
ドリルスピンショットの生みの親が言うのだから間違いないのだろうが、千葉には衝撃が強すぎて、まだ夢か現かも区別がつかなかった。
ラケットの握り方すら知らなかった初心者が、難易度の高い技を身につけ、唐沢から太鼓判を押されるまでに進化を遂げた。しかもその戦いぶりは、この場にいる全員を欺くほど巧みで強かだ。
三年前、校内試合で負けて八つ当たりをしていた弟分の幼い姿を印象に残す千葉には、目の前で見事な戦術を披露する後輩が同一人物とは思えなかった。
「今のは……ドリルスピンショット?」
ようやく口を開けるようになった遥希が、千葉と同じ疑問を透に投げかけた。
「ああ、これが俺の三年間だ。光陵テニス部で部長まで務めたお前と違って、決して褒められるような三年じゃなかった。
でも、感謝している。今こうしてハッキリ断言できるから。
甘いのはハルキ、お前の方だ」
「その台詞は、俺に勝ってからにしろよ!」
あくまでも冷静に話を進める透とは対照的に、遥希が余裕を失くしていることは、千葉の目にも明らかだった。ここまで来れば、唐沢でなくとも勝負は見える。
「30−0」、「40−0」と点差が広がるにつれて、他の部員達もざわつき始めた。彼等も、まさかの結末を予期したようである。
「一手違いだな」
唐沢が一足早い総評を漏らした直後に、遥希から放たれたボールがネットにかかった。
「ゲームセットだ。ケンタ、行くぞ」
それは単なる「集合」の意味での声掛けかもしれないが、千葉にはそうは聞こえなかった。興奮で沸き上がる部員達の間をすり抜け、硬い表情でコートの中へと入っていく唐沢には、何か重々しい覚悟のようなものが垣間見える。
本来なら、千葉も他の部員達と共に奇跡の勝利に色めく側にいるはずだが、そんな気楽なポジションにいてはいけない気がした。
「この試合が終わったら色々な事が大きく変わる」
試合前に唐沢から言われた台詞を思い出し、千葉の体に緊張が走った。
全部員が集合したのを確認してから、コーチの日高が極秘としてきた事実を皆に明かした。
「成田がアメリカへ留学することになった。プロの養成所からのオファーで、六月には日本を離れて渡米する」
いきなりの爆弾発言に、周りの部員達は互いに顔を見合わせ騒ぎ立てたが、千葉だけは黙っていた。ある程度、察しがついていたのもあるが、それ以上に、部長、副部長の両者から託されたものがそうさせた。
部長の成田からは「真嶋を頼む」と、副部長の唐沢からは「俺を信じて付いてきてくれ」と。驚きよりも責任の方が重く圧し掛かっていた。
コートの中はいまだ騒然としていた。透の突然の帰国に始まり、校内試合とは思えぬほどの白熱したライバル対決と、その結末と。衝撃的な事件が立て続けに起こった後での爆弾発言で、皆の自制心も利かなくなっているのだろう。
部員達の間に広がる動揺を察知した千葉は、口々に発する疑問をまとめ、皆の代表として手を挙げた。
「コーチ? 成田部長が六月に日本を発つとして、いつまで俺達と……いえ、地区予選はどうするんですか? それと、次の部長はもう決まっているんですか?」
なるべく個人的な意見は控え、チーム主体で話が進むよう配慮した。
出来ることなら、少しでも長く成田と共に過ごしたい。同じコートに立っていたい。その思いを抑えて、あえてチームの悲願であるインターハイに話を合わせた。
「具体的には、まだ何も決まっていない。詳細は追って連絡する」
「でも……」
「ケンタ、久しぶりに全員揃ったんだ。今日はこれぐらいにしようや」
日高が手にした紙袋を高く掲げ、透の方へと視線を移した。
全員揃って昔のように笑えるのは、恐らく今日しかないのだ。コーチの意図を察した千葉は、胸に燻る質問を中にしまうと、自分もその他大勢の側に加わった。今日だけは。今だけは。
「トオル、ちょっと来い」
「えっ? 俺ッスか?」
日高の呼びかけで紙袋の中身が自分あてのものだと悟り、透はおずおずと部員達の最前列へ進み出た。
「よくやったな。今日からお前も光陵テニス部のレギュラーだ」
紙袋の中には試合用のユニフォームの他に、ラケットバッグと携帯電話が入っていた。
「俺からの入学祝だ。もうラケットを背負う必要もねえし、今後はガットの消耗も激しくなるだろうから、ちゃんとケースに入れて持ち歩け」
「あっ、そうか……」
透がラケットを鞄に入れて背負うようになったのは、父・龍之介の不意打ちに備えての行動で、剣道四段の木刀から身を守るための生活の知恵だった。
だが、その龍之介はここにはいない。もう父の気まぐれに振り回されることもなければ、何の断りもなく居場所を奪われることもない。
「サンキュー、おっさん。それに携帯まで」
「携帯は俺の保護責任というヤツだ。日本にいる間は、一応、俺がお前の親代わりという条件で、学校には許可を取ってあるからな。
前の家に住むんだろ?」
「そのつもりだけど……」
「独りであの家に住むのが寂しければ、うちに下宿しても良いんだぞ?」
「止めとく。懲りたから」
渡米する前、透は日高の家に下宿したことがあるのだが、あまりの過保護ぶりに窮屈な思いをした経験から、考える間もなく断った。
「真嶋。これは俺からだ」
日高に続き、成田からも紙袋を渡された。たった今、受け取ったばかりの新しい袋と違って、こっちはかなり古い物らしく、所々黄ばんでいる。
「袋ぐらいは取り替えようかと迷ったんだが、あの時と同じ状態で返した方が良いと思って。大事な預かり物だから」
「預かり物」の一言で、透には黄ばんだ袋の見当がついた。古さから見ても、これは退部する前に返却したユニフォームに違いない。
「部長? もしかして、ずっと持っていてくれたんですか?」
「お前が、そうしろと言ったんだ。もうサイズは小さいだろうが、せっかくの勲章だ。
高等部と中等部はラインの本数が違うだけだから、間違えるなよ」
「ありがとうございます……本当に……」
「いや、礼を言うのは俺の方だ。真嶋、よく帰って来てくれた。ありがとう」
「そんな……俺は、ただ……」
それ以上の言葉は出なかった。
あの日、己の未熟さゆえに手放さざるを得なかったものを、再び取り戻すことが出来た。古い紙袋を手にした瞬間、退部した日の光景が頭の中でフラッシュバックした。
思い出にしたくないからと、半ば強引に返却したユニフォーム。泣いた顔を見せたくなくて、最後まで頭を下げて通していた。
涙で歪んだ部室の床と、冗談めかして励まそうとする先輩達の声と。思えば、あれが全ての始まりだった。「必ずユニフォームを取りに帰る」という強い想いがあったから、ここまで頑張れた。
いま透が手にしているのは、その時のユニフォームだ。どれだけ月日が経とうとも、決して朽ちることのない努力の勲章。
「なんだトオル、また泣いてんのかよ!? 今の試合で成長したと思ったら、中身はちっとも変わんねえなぁ」
千葉が顔を覗き込むようにして、ちょっかいをかけてきた。
「『また』って、どういう意味ですか? 俺は一度だって泣いてないッスよ!」
「嘘つけ! お前が泣いたのなんか、全員知ってるって!」
「皆の前では泣いてないッスよ!」
「いいや、泣いてた!」
二人のやり取りに釣られるように、懐かしい面々が寄って来た。
「俺ッチも、バッチリ見ちゃったもんね。肩とか、プルプル震えてさ。あれは間違いなく泣いていた!」
まずは双子の弟の陽一朗が割って入り、それに『寅さん』マニアの藤原が続く。
「あン時は、参ったよなぁ。こっちは次の日から合宿だってのに、全員テンション下がりまくりでさ。行きのバスの中なんて、辛気臭せえったらありゃしねえ」
「でも、泣き顔もなかなか見応えあったわよ」
相変わらず、物腰柔らかに語りかけてくるのは滝澤だ。
「ねえ、坊や? ちょっと男らしくなったんじゃなあい?アメリカでどんなお勉強をしてきたのか、後でじっくり聞かせてちょうだいね」
からかい甲斐のある透を目当てに、続々と部員達が会話に加わった。普段は協調性ゼロの彼等が、人をからかったり陥れたりする時だけは一致団結するという、呆れたチームカラーは高等部に移っても健在だ。
次第に広がる輪の温もりに包まれて、透にも遅ればせながら実感が湧いてきた。
成田空港に到着しても、飛行機を降りてからも、ずっと得られなかった。電車に乗っても、校門をくぐっても、テニスコートに入っても、確かなものには思えなかった。
しかしライバルとの激闘を制し、預けていた勲章を取り戻し、昔と変わらぬ仲間達に囲まれて、ようやく実感できた。
ついに帰って来たのだ。光陵学園テニス部に。
そして、この瞬間に新たな戦いの幕は切って落とされた。インターハイへ向けての長く苦しい旅路の始まりであった。