第30話 データを制する者

 透と陽一朗の健闘の甲斐あって貴重な先制点をものにした光陵学園であったが、二試合目のシングルスで藤ノ森学院の巻き返しに遭い、インターハイ出場の夢は最後の部長同士の直接対決に委ねられた。
 「唐沢先輩ともう一度ダブルス組めるのを楽しみにしていますからね」
 透は唐沢をコートへ送り出す際に用意していた台詞を、本人が目の前にいるにもかかわらず飲み込んだ。
 今から対峙する新田という選手。少し話をしただけでも厄介な相手であることは容易に察せられた。頭の切れ方は唐沢に勝るとも劣らない。
 加えて、目的のためには手段を選ばぬ勝利至上主義でもあるらしく、応援席で初戦のダブルスから観戦していた遥希によると、透のミスを誘うべく相手選手がボールと接触したのも新田の指示ではないか、と話していた。
 百戦錬磨の唐沢が無策でこの難敵に挑むとは思えぬが、今回は情報面でのハンデも背負っている。
 中学一年生からレギュラーとして大会で活躍してきた唐沢に対し、新田は公の場に姿を見せたことがない。つまり、こちらの手の内だけが向こうに知られているのである。
 六年間、研究し尽された選手と、その間、秘密裏に育てられ、万全な対応策を持つ選手。どちらに分があるかは明らかだ。
 先のシングルス戦で藤原が敗北を喫したのも、技術や能力の問題というよりも、戦術において手詰まりな状況になるまで追い込まれた観がある。
 相手は藤原が場面ごとにどんなショットを放つのか、その癖を熟知しており、戦局を変えるために講じた策にもさほど苦慮することなく応じていた。
 どこから攻めても淡々と返球する様は、光陵学園との対戦用にプログラミングされたロボットを相手にしているようで、さすがの藤原も最後は冷静さを欠いて自滅した。

 いつもより早い段階から新聞の斜め読みを始めた唐沢の後姿を、透は不安な心持ちで見守った。
 今更ながら、S1がいかに重責を伴うポジションかを思い知らされる。
 せめて集中モードに入った先輩の邪魔をせぬよう、先程から話しかけたい衝動を抑えてコートに持ち込むラケットバッグの見張り役に徹しているのだが、そんなことしか出来ない自分がもどかしい。
 恐らく他の部員達も同じ想いでいるのだろう。普段は何かとお騒がせな面々が私語を控えて静かに過ごしている。
 ところが、この光陵陣営では滅多に見られぬ静寂を好んで破ろうとする不埒な輩が現れた。明魁学園の副部長・越智である。
 「おや、光陵は唐沢まで出番が回ったんだ? 返事を聞こうと思ったけど、どうやら、それどころじゃなさそうだね」
 越智がここを訪ねてきたということは、明魁学園は今日の対戦を予定通りに終わらせたということだ。
 そして彼の求める返事とは、部長の京極から託された伝言、「S1で待っている」の答えである。
 もともとこれは三年前の都大会で当時の部長だった成田がしつこく挑発してくる京極を黙らせるために発したもので、その後、行われたリーダー対決で優勝候補と目された明魁学園に敗北をもたらした曰く付きの台詞でもある。
 わざわざ京極がこの因縁めいた台詞を引用したのはリベンジを強調してのことだと思うが、その意図するところは分からない。
 正々堂々、大将戦での一騎打ちを願い出ているのか。はたまた唐沢をS1に追いやって、最初の二戦で決着をつけるための罠なのか。
 こちらの出方次第では、京極がオーダーを変えてくる可能性も否定できない。それ故、唐沢も迂闊な返事は控え、相手が次の一手を投じるまでは保留としたに違いない。
 唐沢が越智の姿を認めるや否や、広げていた新聞を畳んで歩み寄ってきた。
 「越智? 悪いが、返事は試合が終わってからにしてくれないか?」
 「随分と勿体ぶるんだね?」
 「その代わり、京極が飛び上がって喜ぶような土産を持たせてやる」
 「飛び上がって喜ぶような土産ねえ」
 訝しがる越智とは対照的に、唐沢はにこやかに接している。
 「どうせ最後まで見ていくつもりなんだろ? ゆっくりしていけよ」
 「ま、この試合の結果が出なきゃ、返事だけ貰っても意味ないし。
 オーケー。ここいる秘蔵っ子君と仲良くお喋りでもして待つことにするよ」
 「お、俺ですか?」
 チラリと投げかけられた視線から越智が自分を接待役に欲していると分かり、透の不安は試合とは別の方向へ傾いた。
 昔から越智は透に対して好奇の目をあからさまに向けてくる。
 最初はあの利己主義の京極が他校の生徒の面倒を見ていることに単純な疑問を抱いたようだが、今は別の理由によるものだ。
 特別恵まれた環境で育ったわけでもなく、中学時代に何の戦績も残さなかった選手が、何ゆえ成田の穴埋めとしてアメリカから呼び寄せられたのか。
 京極もアメリカでの出来事はプライベートと割り切っているのか。腹心の越智にも詳細は明かしていない。そのことは、以前、ストリートコートを訪ねてきた岬の態度からも判断できる。
 アメリカで暮らした三年間、中でもジャンと過ごした苦しくも濃密な時間を知らない越智にとって、透は謎多き天才と映るのかもしれない。
 しかしながら、痛くもない腹を探られる側は堪ったものではない。
 それでも透が越智の要求を黙って受け入れたのは、唐沢の「ゆっくりしていけよ」に意図的なものを感じたからである。
 情報を握る者の怖さも強みもよく知る先輩が、意味もなく敵の視察を容認するはずがない。試合前の大事な儀式の最中にズカズカと踏み込んでこられたにもかかわらず、にこやかに応対していたのも妙である。
 これは何かあると見て間違いない。阿吽の呼吸とまではいかないが、最近になって透にも唐沢の考えが少しずつ読めるようになっていた。

 唐沢がコートに入ると、早速、越智から探りが入った。
 「『ゆっくりしていけ』ってことは、唐沢には勝算があると思って良いのかな?」
 「さあ?」
 「あいつのドリルスピンショット、そろそろ進化しても良い頃なんだけど?」
 「俺に聞かれても、ちょっと……。最近は分かれて練習してたんで」
 中学時代、越智は唐沢とのシングルス戦で手痛い一敗を喰らっている。その敗因となったのが「進化したドリルスピンショット」であった。
 唐沢はかつて編み出したドリルスピンショットを用いて試合の前半に際どい勝負を演出し、それが越智に攻略されたと見るや、改良を加えたニュー・バージョンで畳みかけ、見事勝利を物にした。
 あの息の詰まるような神経戦から三年が過ぎた。
 越智のいう通り、周期的には改良されていても不思議はない。最近の唐沢にそんな時間的な余裕があったかどうかは別として。
 部長を引き継いでからの唐沢の忙しさは傍から見ていても気の毒なほどだった。
 成田が抜けて戦力の落ちたテニス部を地区予選で優勝するまでに立て直し、ダブルスの陣頭指揮を執る傍らで、経験の浅い透の教育にも中心となって携わっている。
 己のレベルアップのために割く時間のないことぐらい一目瞭然と言いたいところだが、否定しきれない部分も確かにある。
 透にはそれが「ゆっくりしていけ」と繋がっているような気がしていた。
 歯切れの悪い返事を受けて、またも越智が探るような目付きで問いかけた。
 「ふぅん、少しは警戒することを覚えたようだね?」
 「いえ、別にそういうわけじゃ……」
 「これも唐沢の教育の成果かな?」
 「違いますって」
 いくら正直に答えたところで、何でも深読みしたがる人間の疑念を晴らすことなど不可能だ。越智とは一生腹を割って話をすることはないだろうと思った矢先。
 「昔から俺は唐沢が嫌いだった。いや、この際だからハッキリ言おう。
 俺は唐沢が大嫌いだ」
 「は……?」
 「俺が二重に罠を仕掛ければ、奴は三重の罠を張って待ち構えている。三重にすれば、四重に。
 お互い天才肌の部長を陰で支える補佐役で、部内ナンバー2という立場も同じ。
 それなのに、いつもいつも俺の上をいく唐沢が憎らしくて仕方がなかった」
 あまりに唐突な告白に、正直、透は戸惑った。他校の情報を探りにきた人間が自らの心の内を簡単に晒して良いものか。
 だが話を聞く限りでは、あながち嘘とは思えない。一言ひと言に説得力がある。
 特に「大嫌いだ」の台詞には演技では出せない凄みを感じる。
 困惑顔を向ける透に構うことなく、越智が先を続けた。
 「もともと唐沢はナンバー2に収まって良い器じゃなかったんだろうな。偶然にも成田という逸材がいたから補佐役に回っただけで、本来、奴は統率する側の人間だ。
 個性派集団の光陵学園には、むしろ成田よりも唐沢のほうが合っているかもしれない」
 「それって、どういうことですか?」
 「リーダーの中には群れの先頭に立って皆を引っ張っていくタイプもいれば、群れを後ろで支えながら各選手の能力を引き出すタイプもいる。
 成田や京極は前者で、唐沢は後者だ。だから悔しいけど、最初から俺なんかが敵う相手じゃなかったってこと」
 そうかもしれない、と透は思った。
 京極はもちろん、元部長の成田も、海南の村主も。性格は違うが、それぞれ先頭に立ってチームを率いていくタイプのリーダーだ。
 それに対して唐沢は、独裁者的言動が目立つものの、各選手が自発的に伸びる機会を与えてくれている。
 先程のダブルスの試合でも、ゲームメークの必要性を透自身が感じて実行に移した結果、掴んだ勝利である。
 選手が自分の頭で考え、悩み、転んだ時だけ支えるやり方は、確かに個性の強い光陵テニス部には合っている。
 しかも透はこういうやり方に慣れている。理由は分からぬが、転んだ時にしか手を出さない人物が身近にいたような気がする。
 「親父……?」
 不意に父・龍之介の顔が浮かんだが、すぐさま否定した。龍之介の場合、転んだ息子を踏みつけることはあっても、支えることなどあろうはずがない。
 では、何故このタイミングで父の顔が浮かんだのか。その理由を深く追求する前に、越智が意味ありげな笑みを差し向けた。
 「さあ、今度は君の番だよ」
 「えっ?」
 「情報交換さ。とっておきの秘密を君に明かしたんだから、そっちもね?」
 越智の唐突な告白は、透から内部情報を聞き出すための餌だった。
 「とっておきの秘密と言われても……」
 基本的に脳と舌が直結している人間に隠し事などあるわけがない。
 考えあぐねる透の表情をどう捉えたかは分からぬが、越智がやけに優しい声音を出してきた。
 「君自身じゃなくても良いよ。唐沢の話でも。
 あいつが苦手なものとか、弱点とか?」
 「苦手なものなら、ありますよ」
 「何?」
 「スィーツ全般。てか、甘い物は全部苦手じゃないッスか。
 ポテトサラダにミカンが入っているだけでも、メチャクチャ機嫌が悪いし。この前、俺がうっかり大学芋の入った弁当を買ってきた時なんか、もう最悪で……」
 「あのさ、そういう苦手じゃなくて、もっと人に聞かれると彼が困るような話はないの?」
 「困ると言えば、たまに浮上するホモ説ぐらいしかないッスね」
 「やっぱり、そうなのか? 俺も怪しいと思っていたんだ。
 性格はともかく、あのルックスで女っ気がまったくないのは、そうとしか考えられない」
 テニスとは全く無関係の話だが、越智もこの手の話には興味があると見えて、前のめりになっている。
 透は居心地の悪い空気が緩和されたこともあり、つい調子に乗ってテニス部内で実しやかに囁かれている噂を部外者の越智にも話して聞かせた。
 「他の先輩達は滝澤先輩とデキているって言うんですけどね」
 「滝澤だって? 成田じゃないのか?」
 「えっ? そんな噂もあるんスか?」
 「俺はてっきり成田だと思っていた。だって、あいつ等いつも一緒だろ?」
 「そりゃ、立場上、部活や試合では一緒にいますけど、学校じゃ滝澤先輩といるほうが多いッスよ。二人とも同じクラスだし」
 「確かに、滝澤ならあり得るな。あいつの男を見る目は、獲物を狙う目だ」
 「でしょ、でしょ。俺も何度か襲われそうになりましたもん」
 「じゃあ、滝澤が本命なのか?」
 「さあ?」
 「勿体つけずに、君の意見を聞かせてよ」
 「いや、だって俺は唐沢先輩がホモだなんて思っていませんから」
 「真嶋君? ひょっとして俺のこと、からかっている?」
 「いえ、そんなつもりは……」
 話の合わない人間との会話とは、こんなものである。どこまで行っても平行線で、たとえほんの一瞬、交わりを見せたとしても、あとで必ずその反動が押し寄せる。

 話をするほどに距離を感じる越智との会話を、透が持て余し始めた時だった。
 「あれは、真嶋君の……?」
 自分に向けられていた越智の厳しい視線がコートに釘付けになったまま戻らない。そのあとを追いかけた透も息を呑んだ。
 「なんで?」
 サーブ前の構えからボールを三回バウンドさせる癖まで、まるで鏡を見ているようだった。
 「まさか、ブレイザー・サーブ?」
 驚いたのは透だけではない。対戦相手の新田にとっても想定外の出来事なのか。胡散臭いオヤジ顔が一段と険しくなっている。
 強烈なフラット・サーブが叩き込まれる ―― 透と瓜二つのフォームから予測をつけたに違いない。新田がベースライン後方へ退いた、次の瞬間。
 唐沢のラケットが振り抜かれ、勢いよく突っ込んでくるはずのボールは別の軌道を描いていた。
 「違う。あれはブレイザー・サーブじゃない!」
 試合中に思わず叫び声を上げた透であったが、幸運にも、それは客席の不満を訴えるどよめきの中へ吸い込まれていった。
 何故なら実際に打ち込まれたサーブは単なるスピン・サーブで、ブレイザー・サーブの存在を知らない観客達には強豪校の部長が何の変哲もないサーブにノータッチ・エースを許したかに見えたのだ。
 「まさか君達二人とも、お互いの技を共有し合っているとか?」
 疑念を大いに含んだ目で、越智が唐沢と透の両方を交互に見やった。
 もっともな疑問だが、透はその問いかけに答えることが出来なかった。
 透が唐沢のドリルスピンショットを自分の決め球として取り入れたように、唐沢も透のブレイザー・サーブを習得しているのか。彼の実力をもってすれば不可能なことではないが、そんな練習時間があったとも思えない。
 唐沢の思わせぶりなトリック・プレーは、ゲーム中盤まで続けられた。
 遥希のドロップショットから成田のアングルボレーに至るまで、ありとあらゆる光陵テニス部のレギュラー陣のフォームを模倣し、決め球を出すと見せかけて相手を翻弄していった。
 実際に同じ技を出さずとも、相手を警戒させて、一瞬の隙を突くには充分な役割を果たしている。
 光陵テニス部の情報を事細かに分析し、全て正確に頭に叩き込んでしまった新田が相手だからこそ、成立するトリックだ。
 初めは「1−1」、「2−2」と互いにサービスゲームをキープする形で進められていたが、要所要所で出される紛らわしい「決め球もどき」に気を取られた新田が、ついに1ゲームのブレイクを許した。
 そして続くサービスゲームも唐沢が守りきり、現在ゲームカウント「4−2」と、光陵学園が2ゲームの差をつけリードしている。
 「情報は多いに越したことはないが、それはあくまでも的確に捌ける能力があれば、の話だ。せっかく集めても情報に振り回されるようじゃ意味はない」
 2ゲーム差で優位に立った唐沢が、珍しく自分から対戦相手に話しかけている。ここで精神的な揺さぶりをかけて、点差を開かせようという腹なのか。
 しかし新田のほうも追い込まれた身でありながら慌てる様子はなく、むしろ余裕の笑みを浮かべている。
 「確かに振り回されてちゃ意味がないけど、分析のために費やしたと思えば、それなりに有意義じゃないか?」
 「分析ねぇ」
 「唐沢、あんまり甘く見ないで欲しいなぁ。君のプレーが全てパフォーマンスだってことぐらい、とっくに分かっているさ。
 完璧なのはフォームだけで、どれも技術そのものをマスターしたわけじゃない。2ゲームくれてやったのは、そのことを結論として決定づけるための時間だよ」
 唐沢が反論しないところを見ると、新田の指摘は図星のようである。
 トリッキーなプレーはフォームだけで、中身は伴わない。確信さえ持てれば反撃のチャンスはいくらもある。
 新田の落ち着き払った態度は、この算段を立てていたからだ。

 何もかもが“らしくない”と、透は思った。
 いつもは決着がつくまでは決して手の内を明かさぬ先輩が、今回は優位な手札を見せびらかすように積極的に話しかけている。しかも、それによって墓穴を掘る事態を招いている。
 思わせぶりなプレーにしても、そう何度もフェイントをかけられれば、新田でなくともただのパフォーマンスであることぐらい察しはつく。知略に長けた先輩にしては、あまりに短慮な駆け引きだ。
 勝ち急いでいるとしか思えない挑発行為は、透に罪悪感をもたらした。
 恐らくダブルスに不慣れな後輩を育てるのに時間を割いているうちに、彼は自身のシングルス戦の準備が満足に出来なかったに違いない。試合前「コートに立つのが怖い」と漏らしていたのも、彼の本心だ。
 部活動のみならず、プライベートな時間まで世話を焼かせた諸々の出来事が、重石となって透の胸に圧し掛かる。
 「唐沢先輩……」
 己の不甲斐なさを悔やんでいると、またしても越智が嫌なタイミングで話しかけてきた。
 「あのさ、さっきから唐沢がこっちを見ているんだけど、何か心当たりない?」
 言われてみれば、唐沢はコート上の新田ではなく、ギャラリーばかりを気にしている。正確には、ダイレクトに越智に視線が向いている。
 無駄な動きを嫌う先輩にしては珍しい。
 さらに珍しいことに、唐沢から始まるサービスゲームで、彼はサーブを打ったと同時にネットに向かってダッシュした。
 通常、サーブダッシュはネットプレーを得意とする選手がよく使う攻撃パターンであるが、カウンターパンチャーの彼がこんな形で仕掛けることは滅多にない。
 ブレイザー・サーブと見せかけてスピン・サーブを放った後、前方へと走り出す唐沢。
 しかし、すでにブレイザー・サーブのフェイント効果はなく、スピン・サーブは叩き返された。
 まさに息をつく間もない、一瞬の出来事だった。試合の流れを決定づける一打が放たれたのは。
 反撃のチャンスとばかりに意気込む新田の強烈なリターンを、ネット前の唐沢がバウンドする直前でいとも簡単に受け止めた。
 無論、それは一瞬の出来事ゆえに“いとも簡単に”見えたのであって、充分に体重が乗せられたであろうパワーボールをボレーで捕らえるには相応のテクニックが必要だ。
 単純にラケット面を正確に作って当てるだけでは、ボールかラケットのどちらかが弾け飛ぶ。
 そうさせない為にはグリップは極力柔らかく保ち、球威を出来るだけ吸収しなければならないが、それを更に狙った方向へ送り出すには、手首をしっかりと固定しなければコースに乱れが生じる。
 ボールを正確に捕らえて、勢いを一旦殺してからまた甦らせる。この絶妙な力加減が難しい。
 それを唐沢は一瞬でやってのけたのだ。
 「テクニックがパワーに勝る時もある」とは唐沢の持論の一つであるが、目の前で放たれたボレーはまさしく彼の正当性を裏付けるかのような一打であった。
 ボールが唐沢のラケットから離れた瞬間、透は確信した。これが試合の流れを変えるポイントであると。
 「ふん、いい加減トリックは……」
 そう言いかけた新田の顔色がネットの上を転がるボールを見て豹変した。
 「本物なのか!? まさか、そんなはずは……!」
 余裕の笑みを浮かべる選手が、ネットを挟んで入れ替わる。
 「時間をかけたわりには、随分とお粗末な分析だな。そろそろ本物が出てくるとは思わなかった?」
 流れを変えたその一打とは、透の決め球の一つでもあるドロップボレーである。持ち主の目から見ても完璧な仕上がりだ。
 唐沢は新田の強打したリターンをボレーで手なずけるに留まらず、新たな返し技として甦らせたのだ。
 ドロップボレーが決まったことにより、今までフェイクと判断していたプレーもそうとは断言できなくなった。
 敵将とは言え、透には新田の気持ちがよく分かる。
 光陵テニス部の第一線で活躍する選手達の決め球が、今から唐沢によって次々と繰り出されるかもしれない。それぞれの威力を知るだけに、彼の恐怖は察するに余りある。

 ふたたび唐沢がコートの中から越智へと視線を移し、忌々しげに舌打ちをした。
 「まったく、邪魔なギャラリーを何とかしろよ」
 もしかして先程から送られていた視線にも何か意味があるのか。「気を利かせろ」と言わんばかりに、透と越智を交互に睨みつけている。
 唐沢は越智の存在が邪魔なのかもしれない。そうだとしたら、考えられる理由はただ一つ。
 新田の顔が瞬く間に青ざめていく。
 ネット前に転がるドロップボレーの残像。コートの外のギャラリーをやたらと警戒する唐沢。そして、その視線の先には越智がいる。
 唐沢がフェンスの向こうの越智をもう一度睨みつけ、そして観念したように溜め息を吐いた。
 「あいつに情報が漏れると厄介なんだが、仕方がない。そろそろ俺のオリジナルで勝負しようか?」
 唐沢の得意とするスライス・サーブが打ち込まれたと同時に、透の体に震えが走った。彼は宣言通り、オリジナルの技で勝負するつもりなのだ。
 通常のストロークより大きめに引かれたテイクバックのフォームは、やはりドリルスピンショットの構えである。
 だが、それを本物と言い切るには一つ問題があった。何故なら唐沢がテイクバックを始めた場所は、ベースラインではなくネット前なのだ。
 トップスピンの返し技をネット前の攻撃技として改良したのか。いずれにせよ、ドリルスピンショットと同じ回転を持つショットであれば、バウンドする前にボレーで対応しなければならない。
 新田が前方へダッシュした。その直後、彼の頭上を鮮やかなロブが通り過ぎていった。
 「フェイク……だと?」
 この期に及んで、肩透かしを喰らうとは思いも寄らなかったに違いない。呆然と佇む新田に向かって、唐沢が申し訳なさそうに頭を掻いた。
 「悪いね。余計なギャラリーがいると、つい出し惜しみしちゃうんだよね」
 ここでようやく透は唐沢が試合前から着々と敷いていた仕掛けの全容を理解した。
 彼が越智に「ゆっくりしていけ」と言ったのは、ドリルスピンショットの進化を匂わせるための演出だ。
 明魁学園の副部長がわざわざ偵察に来ているとなれば、当然、新しい技に期待が高まる。しかも三年周期で進化するかもしれないとの実しやかな噂まで流れている。
 序盤でフェイクを連発させたのも、その後で本物のドロップボレーを放ったのも、ドリルスピンショットの進化に真実味を加えるための伏線だ。
 ドロップボレーそのものは、タイミングさえ掴めば、さほど技術を要する技ではない。当時中学生だった透でもマスターできたのだから、唐沢なら容易に出来るはず。
 長きにわたり唐沢を調査し続け、研究してきたデータが裏目に出たのだ。唐沢のこれまでの試合展開も、その技量も知るが故に、「あいつならやりかねない」との疑念が生まれ、それが不要な警戒心に繋がった。
 データに振り回され、進化したドリルスピンショットを警戒し続ける新田に反撃のチャンスが訪れることはなく、ゲームカウント「6−2」と後半は唐沢のワンサイドゲームで試合は終了した。
 自分達の情報は全て敵の手に渡っている。この不利な状況を逆手に取り、戦術として用いた唐沢の作戦勝ちである。

 「唐沢先輩、お疲れ様です!」
 「ああ、お前もご苦労さん」
 透が越智を苦手としていたことは、唐沢も分かっていたのだろう。彼が労いの言葉と共に目を細めている。
 「俺、途中で本当にドリルスピンショットが進化しているのかと思いましたよ」
 「そう簡単にバージョンアップできたら苦労はない」
 「けど、さすがの新田さんも先輩の演技にはすっかり騙されたみたいッスよ」
 「いや、俺の演技に騙されたんじゃない。強いて言えば、あいつ等のデータには一つだけ不備があった」
 「不備ですか?」
 首を傾げる透の背後から、待っていましたとばかりに越智が会話に割り込んだ。
 「策士とギャンブラーの違いさ。藤ノ森のデータに唐沢は光陵きっての策士とでも書かれていたんだろうが、実際はそうじゃない。
 策士は確かな情報をもとに策を練ろうとするが、こいつは策士であると同時にギャンブラーでもあるからさ。実体がないものからでも勝利を導き出せる。
 要するに唐沢を相手にする時は、ハッタリも立派な戦術だと思ってかからないと、新田のように足をすくわれるってこと。
 まったく、あれほど『甘く見るな』と忠告しておいてやったのに」
 「越智、待たせたな」
 「待たされたことよりも、体よく使われたことのほうが心外だ。
 最初から俺を利用するつもりで引き止めていたんだろ?」
 「そうカリカリするな。ちゃんと土産は用意してあるからさ」
 唐沢の顔から笑みが消えた。
 「で、『京極が飛び上がって喜ぶような土産』って、何?」
 「俺の返事はこうだ。言った通り伝えろよ?」
 唐沢は先に前置きをしてから一気にまくし立てた。
 「『俺は成田ようにS1で待っていてやる程お人好しじゃない。初戦で叩きのめしてやるから、本気で俺と勝負したければお前がダブルスに降りて来い。何様だと思ってんだ、ボケ!』と、伝えとけ」
 多くの思惑と因縁の絡んだ明魁学園との対決は明日に迫っていた。






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