第31話 VS 京極 (前編)

 優勝候補の一角とされていた藤ノ森学院を退けたことで、光陵学園のインターハイ出場の夢はかなり現実味を帯びてきた。
 残る難関は京極が率いる明魁学園のみ。ここを突破できれば東京都代表の切符が手に入る。
 しかしながら、この難関が最も高いハードルであることは今大会の優勝校最有力候補の位置づけから見ても否定しようのない事実である。
 過去に光陵学園が彼等と同じ土俵に立てたのは成田が中等部で部長を務めた代の一度きりで、そこでは接戦の末に勝利を収めているが、その紙一重の勝負を制した当時のオーダーは藤原、唐沢、成田の三強を軸に固めた、今にして思えば夢のようなラインナップであった。
 現在、主軸の成田が抜けて、光陵テニス部の戦力は大幅にダウンした。代わりにアメリカから呼び戻された透は試合を重ねるごとに成長の証を見せてはいるものの、実力の程はいまだ未知数だ。
 つまりは唐沢の当初の思惑通り、透が成田に取って代われる人材であるか、否か。これといった確証も得られぬままに最大の敵を迎えたことになる。

 「この一戦を制した者が団体戦の勝利を手にすると思ってくれ」
 対戦表から片時も目を離さずに、唐沢が淡々とした口調で透に告げた。
 彼がこの口調になる時は、小細工抜きの真剣勝負を覚悟した場合に限られる。
 透は地区予選での村主との対戦前もこんな感じだったと、ほんの一瞬、振り返り、それから唐沢に向かって同じ覚悟を示すように深く頷いた。
 インターハイ東京都予選二日目の今日、光陵学園のオーダーは唐沢がダブルスに回り、シングルスに遥希と藤原が入っている。
 そして唐沢がダブルスのパートナーに指名したのは双子の弟・陽一朗ではなく、非公式ながらも京極との対戦経験を持つ透であった。
 昨日の「お前がダブルスに降りて来い」の挑発を真に受けたのか、最初からそのつもりでいたかは定かでないが、明魁学園は部長の京極を初戦のダブルスに据えてきた。
 唐沢が大将役のS1を藤原に預け、自ら先鋒役を買って出たのも、彼等のこの動きを見越してのことである。
 すでに光陵学園は午前の二試合をストレートで勝ち進み、昼休憩を挟んで、午後からの明魁学園との大一番を待つ身であった。
 インターハイ出場をかけての取り組みの中でも、あまり類を見ないダブルスでのリーダー対決。その相方に選ばれたのだから、透自身、もっと緊張しても良さそうなものだが、不思議なことに、対戦表に京極の名を認めた後でもさしたる動揺もなく、むしろ来るべき時が来たと、冷静に構えていた。
 察するに透が冷静さを保っていられる理由は、どんなに親しくなろうともライバル校としての一線を引き続けた京極のお陰かもしれない。
 京極は分かっていたのだろう。いずれチームの命運を背負って互いに火花を散らす日が来ることを。
 ただ試合とは別に気がかりなことがあって、透は打ち合わせが終わるとすぐに選手控え室を後にした。

 管理棟の外に出た途端、初夏を感じさせる強い日差しと会場の熱気が一度に押し寄せた。
 予選二日目ともなれば選手団とその関係者を合わせて人の数は半減するが、だからと言って場内の熱気が静まることはない。
 試合が始まる前の興奮と勝利後の喜び。歓喜に沸き立つ応援席の裏側では必ず悔し涙を流す者達がいて、彼等の消化しきれぬ感情もまた熱源となっている。
 透は様々な感情が擦れあう息苦しい空間を通り抜け、人通りのまばらな表門へと足を向けた。
 今の時間、誰かと待ち合わせをするには、そこが最も都合が良い。知った顔を識別しやすいという点においても、慣れない場所では人一倍緊張しやすい彼女にとっても。
 「奈緒!」
 透はキョロキョロと辺りを見回す分かりやすい人影を見つけると、話の段取りを考える前に声をかけていた。
 聞き覚えのある声にピクリと反応して、慌ただしく振り返る。その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。
 「あのさ、せっかく来てもらったのに言いにくいんだけど……」
 いつも試合のたびに休日を返上して応援に駆けつけてくれる奈緒。大会二日目の今日も、急な出場にもかかわらず、わざわざ弁当持参で来てくれた。
 自分に向けられた好意の数々を思うと胸が痛かった。今から話すことは間違いなく彼女を傷つける。
 「実は次のダブルスの相手が、明魁の京極さんと岬さんで……」
 対戦相手の名前を告げたと同時に、彼女の笑顔に陰りが差した。
 今回、透が敵として戦う相手は、京極ともう一人。奈緒の幼馴染みである岬諒平だった。
 「京極さんと諒ちゃん?」
 「ああ。だから、もしキツかったら帰って良いぞ。俺が言うのもなんだけど、どう転んでもお前には辛い結果になると思う」
 京極も岬も、二人にとって関わりの深い相手である。
 透は中学の頃から京極には世話になっており、今でも日本で唯一ジャンを知る共通の友人として時折連絡を取っている。
 ジャンの死後、道を見失った透を正しい方向へと導き、さらには光陵テニス部に未練を残す透の胸の内を知って、帰国のお膳立てをしてくれたのも彼である。
 岬と話をしたのは一度きりだが、情に厚い男だということは言葉の端々から感じられた。彼自身も奈緒に好意を寄せているにもかかわらず、恋敵の透に対し、アメリカでの荒れた生活を気にするよりも彼女と素直に向き合え、と諭してくれた。
 実際、世話になった二人との対戦に戸惑いがない訳ではない。
 だが、自分の成長を見せることが本当の意味での恩返しになると自覚している。トーナメント続きで感覚が麻痺しているのかもしれないが、気持ちの中に迷いはない。
 しかし奈緒は違う。
 京極とは透が帰国した直後の不安定な時期に相談に乗ってもらった経緯があるし、岬に至っては子供の頃から共に育った兄のような存在だと聞いている。
 その二人が自分の彼氏と戦う様を見守れという方が酷である。
 「どうして良いのか、分からないけど……」
 因果としか言いようのない組み合わせに戸惑っているのだろう。奈緒の声が震えている。
 「でも、私だけ帰るのは違うと思う。みんな頑張っているのに」
 「無理すんな。俺等が頑張るのは当たり前だ。自分の為なんだから」
 「そうだけど……でも、やっぱりここにいる」
 「本当に大丈夫か? 俺も試合があるから一緒に居てやれねえし」
 「そんなに心配しないで」
 「ごめんな、奈緒」
 「どうして、トオルが謝るの?」
 自分でも説明がつかなかった。なぜ謝罪の言葉を口にしたのか。
 せっかく応援に来てくれた彼女に辛い思いをさせている。いつも頼みごとばかりで何もしてあげられない。休日なのにデートらしいデートもできない。
 頭に浮かぶ答えはどれも正解で、その一つ一つに思い当たる節がある。
 「俺にもよく分かんねえけど、ごめん」
 それらの理由を全て挙げていくのも気まずくて、透は曖昧な「ごめん」を二度言った。
 「そんなに謝らないで。大丈夫だよ。
 私は皆を応援するから。京極さんも、諒ちゃんも、唐沢先輩も、トオルも。
 だから、トオルも試合のことだけ考えて」
 「無理してねえか?」
 「うん」
 半分は強がりだろうが、復活した笑顔に先程のような陰りはない。
 普段は人の後ろをついて歩くような大人しい性格なのに、誰かのためなら気丈になれる彼女。そこが愛おしくもある反面、自分に対して向けられると、不甲斐なさを感じてしまう。
 「ごめん……あ、いや……」
 言いかけた言葉を、冗談にすり替えた。
 「だったら、俺だけ他の奴より多めに頼む」
 ほんのりと色づく頬から、今度は本物の笑顔が現れた。
 やはり彼女には笑っていて欲しい。今は無理に笑わせることしか出来ないが、それでも、と思う。単なる自己満足だと分かっていても。
 「ごめんな、奈緒」
 彼女に聞こえないぐらいの距離まで離れてから、透はもう一度小さく呟いた。

 控え室へ戻ると同時に、自分でも呆れるほど早く意識が試合に向いた。
 昔はここまで割り切りの良い性格ではなかったはずだが、そうせざるを得ない立場にいることと、もう一つは捨て身でかからなければ倒せない相手だと、骨身に染みているからだ。
 ボレーの達人である京極と、俊足のベースライナー・岬。彼等がタッグを組むことで、攻守ともに死角なしの理想的なペアが出来上がる。
 明魁学園は、京極という切り札を最大限に活かせるカードを添えて勝負を挑んできたのだ。初戦で光陵学園を束ねるリーダーを粉砕し、インターハイ出場の切符を彼等の手中に収めるために。
 唐沢のいう通り、この一戦は重要な意味を持つ。
 通常は最後に控えるはずの大将戦が一試合目に組まれている。偶然なのか、策略なのかは両部長の胸の内でしか知り得ない事実だが、おかげで出場校の選手だけでなく、大会関係者までもが注目する大一番となった。
 その中で勝利を収めれば選手達の士気は高まり、逆に敗北したチームは勢いを削がれて総崩れとなるに違いない。
 先の「この一戦を制した者が団体戦の勝利を手にすると思ってくれ」との助言も、それを踏まえてのことである。

 控え室から試合会場まで。透の前を歩いていた唐沢がふと思い出したように足を止め、相変わらずの淡々とした口調で切り出した。
 「さっきの打ち合わせで変更はないが、一つだけ確認しておきたいことがある」
 「何ッスか?」
 「残念ながら、今回は勝算がない。昨日からずっと考えていたんだが、どう見積もっても五分と五分。これ以上の数字は出せなかった。だから……」
 「はい」
 「この勝負、諦めなかった者が勝つ。それだけは忘れるな」
 「それなら得意分野ッスよ。口と諦めは悪いほうですから」
 「お前ならそう言うと思った。最後まで一緒に戦ってくれるな?」
 「任せてください!」
 昨日の悲惨なダブルスを経験したせいか、透には唐沢と共にコートに立てる喜びのほうが強かった。緊張よりも、不安よりも、プレッシャーよりも。
 弾みがついたと言うのか。昨日の反動で、どこまでも勢いに乗って行けそうな気がした。大勢の観衆に囲まれたコートに上がり、そこでネットの向こうの京極と直接言葉を交わす前までは――。
 「エース格の藤原を連れてくると思って、こっちも岬を指名したんだが、俺も随分ナメられたもんだな?」
 上から自分を睨みつける堂々たる視線が、身長差を越えて格の差まで伝えてくるようだった。その昔、透に直感で「彼こそが頂点に君臨する男」と知らしめた威厳は、今もって健在だ。
 「俺に一度も勝ったことのない一年坊主を連れて来るとは、大した度胸だ」
 敵として相対する京極は、恩返しなどと甘っちょろい考えで向き合ってはたちまち食われてしまう。そんな有無を言わせぬ迫力がある。
 ネットの向こうは誰であろうと、容赦なく叩き潰す。今更ながら、百五十名の部員からなるテニス部を率いるリーダーの非情さを思い知らされた。
 京極の気迫に圧され無言になった透を見兼ねてか、唐沢が援護に回る。
 「いや、いや、お前等も大概リスキーだって。その一年坊主にやられたマヌケな三年を連れてきてんだから」
 過去の対戦成績で言えば、透は岬に一勝している。唐沢はそのことを持ち出して、やり返しているのである。
 「ふん、相変わらず嫌味だけはトップクラスだな。
 そんな付け焼刃のコンビで俺達から王者の座を奪い取れると思うなよ?」
 「付け焼刃はお互い様だろ。そもそも協調性ゼロのお前にダブルス出来んのか?」
 早くも両部長の間に不穏な空気が立ちこめている。
 歯に衣を着せぬ物言いで王者をアピールする京極と、負けず劣らずの毒舌で応戦する唐沢と。対戦前の“ほんのご挨拶”と分かっていても、透は反論どころか、声を発することすら出来なかった。
 試合慣れしたと自惚れていた自分がちっぽけな存在に思え、過去に一勝も挙げられなかった事実だけが重たく圧し掛かる。
 未だかつて透は京極に一度も勝てたためしがない。岬を倒した一勝も随分前の話で、それもコート表面の凹凸まで熟知したストリートコートで行われた試合であった。
 先程まで強く感じていた喜びが、唐沢の足を引っ張るのではないかとの不安に変わる。
 「トオル、プレッシャーに呑まれるな」
 両校のペアが分かれてそれぞれの自陣に向かう途中で、唐沢から短く注意を受けた。
 普段は本人に気づかせるやり方で指導する先輩が直接的な言い方をするということは、それだけ彼にも余裕がないのだろう。
 これ以上、唐沢に世話を焼かせてはならない。
 「まだ始まってもいないのに。しっかりしろ、俺!」
 透は自分自身に喝を入れると、ネットの向こう側にいる京極をじっと見据えた。
 「今までの借り、全部まとめて返さなきゃ」

 明魁学園から始まるサービスゲーム。京極が以前にも増して磨きのかかったサーブを叩き込むと同時に、透の目の前まで詰めてきた。
 彼が取ろうとしているのはネット並行陣に違いない。ペアの二人共がネット前を陣取り攻撃を仕掛ける陣型は、引くことを知らない京極らしいフォーメーションだ。
 透は事前に唐沢から出された指示に従い、敵の陣型が固まるのを見届けてから、後ろへポジションを下げた。
 ネット前から攻める明魁に対し、光陵サイドは二人ともベースラインで守るダブルバックを選択した。
 「最初に岬を潰す」
 唐沢からは、そう指示を受けていた。元バスケットプレイヤーの脚力を軽視した訳ではないが、京極をターゲットにするよりは時間的にも体力的にもロスがない。
 前に詰め寄る明魁ペアに対し、透と唐沢は出来るだけ岬にボールを集めた。
 一見、攻撃的で有利に見えるネット並行陣だが、一人の選手が狙われた場合、ネットから選手までの距離が短いために互いに身動きが取れなくなる。
 パートナーが集中砲火を浴びて崩れかけた際にはもう一人が素早くカバーに入り、二人して体勢を立て直すなどという柔軟な対応ができるのは、光陵テニス部の中でも双子の伊東兄弟ぐらいである。
 当然、この試合の為だけに組まれた明魁ペアがそこまでのレベルに到達しているはずもない。
 ネットすれすれの低いショットで攻撃しながら、合間にロブを織り交ぜ、徹底的に岬の体力を消耗させる。
 ダブルスを熟知している唐沢ならではの策は見事にはまった。
 コートの縦半分をひとりでカバーする為には、岬はネット前だけでなく、後方のボールも拾わなければならない。俊足のベースライナーと呼ばれたプライドも手伝って、彼は際どい球にも喰らいついている。
 上手く作戦に乗ってくれたと、透が安堵した矢先。
 やはりこちらの思い通りにさせておくほど、京極は甘くない。彼は岬に向けた低いショットをボレーでカットしてみせると、今度は透を目掛けて反撃を開始した。
 唐沢が岬に狙いをつけたのと同様、京極は透を潰す気でいるらしい。
 「本物とメッキの違いを、自分の体で思い知れ」
 瞬く間に「攻め」と「守り」が逆転する。
 明魁ペアの攻撃は、時に決められるはずのポイントをわざと外してラリーを長引かせるという、冷酷かつ合理的なやり方だ。
 透が拾える範囲を計算に入れて、散々引きずり回した挙句に点を取る。野生動物の狩りと同じ手法である。
 両者共に互角、同じ戦術では、一瞬でも隙を見せた側が集中砲火の的となる。
 透と岬、どちらが先に潰れるか。頻繁に攻守が入れ替わる過酷な戦いが、第4ゲームまで続けられた。

 互いにサービスをキープして、ゲームカウント「2−2」で始まる第5ゲーム。この時、透は胸騒ぎを覚えた。
 同じ力加減で引き合うことで均衡を保っていたゲームの流れが、ここで大きく傾くような予感がした。
 切っ掛けとなったのは、京極から唐沢に向けられたフラット・サーブであった。
 上空へ真っ直ぐ上げられた伸びやかなトス。アメリカ人とも対等に渡り合える恵まれた肉体と、その利を目一杯活かしたスイングと。
 三拍子揃った条件下で生まれる打球は、もう二度と見ることはないと思っていたあのサーブに違いない。
 かつて透も必死になって練習を重ねたが、身長差がネックとなり思うような球威が出せず、最終的にトスを前に押し出すことでカバーした。その結果、完成したのがブレイザー・サーブである。
 だが、本来は京極が繰り出そうとしているサーブこそがブレイザー・サーブを名乗るに相応しい。
 生前のジャンと酷似したフォームに体が凍りついた。
 本物とメッキの違い。上辺だけでなく、体格も、筋力も、もちろん技術も。京極は全てにおいてジャンと等しい条件を備えている。
 もしかして自分はとんでもない男に勝負を挑んでいるのではなかろうか。
 体は凍りついているのに、頭の中は今から起ころうとしていることの顛末が見える。
 インパクトと同時に着弾するあのサーブだけは手も足も出ない。
 現に唐沢の技術をもってしても、緩めのリターンでネットを超えさせるのが精一杯だった。

 試合の中盤で出された京極のサーブにより、光陵学園は苦しい立場に立たされた。
 カウント上は「3−2」と、京極が自身のサービスゲームをキープした形だが、試合の流れは明魁学園に傾きかけている。
 それを実感したのは、光陵学園がサービスゲームを死守した後の第7ゲーム。岬が後衛、京極が前衛の最も警戒すべきポジションに回った途端、彼等は陣型を雁行陣に変えてきた。
 この二人が本来の能力を思う存分発揮できる陣型で、さらに追い討ちをかけようという腹である。
 無論、そのターゲットとなるのは透である。
 最初から彼等はネット並行陣で徐々に透の体力を奪っておいて、優位なポジションになるこの第7ゲームで一気にトドメを刺すつもりだったのだ。
 浅いボールでネット前まで誘き出され、足止めを食らった状態で攻防を強いられる。
 ボレーの達人と勝負するだけでも勝ち目は低いというのに、そのうえ俊足のベースライナーが後ろで守っていれば、ポイントを奪えるチャンスは無に等しい。
 返しても、返しても、果てしなく続くラリーから逃れる術はなく、ただひたすら、こちらの体力が削られる。前半戦の疲労も加わって、透は自分でも動きが鈍くなっていくのを感じた。
 「絶対に諦めない」
 その根性だけで拾い続けるには、あまりにも過酷なラリーであった。
 呼吸が荒くなるにつれ、視界も狭くなる。まるで鉛をつけられたかのように手も足も動かない。
 「メッキの限界だな」
 京極の囁き声が聞こえた直後、またも目の前に現れたのはジャンが得意とした決め球、アングルボレーであった。
 しかも、以前、アメリカで見せられたものよりも遥かにキレがある。そして透自身が完成させたと思っていたものよりも。
 「そんな……」
 愕然とする透に向かって、たった今、得点したばかりの京極が冷たく言い放つ。
 「他人の技術を模倣するのは猿でも出来る。それを進化させて自分の技にするかどうかが、本物とメッキの違いだ」
 久しぶりに味わった逃げ場のない焦り。
 恐らく京極は、透がダブルスに出場すると分かった時点で、あらゆる角度からダメージを与える方法を考えていたに違いない。
 試合前の「一度も勝ったことがない」の台詞に始まり、ジャンとそっくりのサーブと、それ以上の威力を持つアングルボレーも。透の体力を削りながら精神的にも追い詰め、万が一にも気力で持ち堪えることの出来ないよう、心身の両方から潰していく。実に非情なリーダーらしいやり方だ。

 窮地に追いやられた光陵学園に第7ゲームをブレイクする余裕はなく、嫌な流れも払拭できないままにコートチェンジを迎えた。
 ベンチに倒れこむようにして腰を下ろした透の手元へ、唐沢がスポーツドリンクの入ったボトルをよこした。
 「よく頑張ったな、トオル。ここまで持ち堪えてくれれば上出来だ」
 夢でも見ているのだろうか。この先輩が試合中に褒めることなど、今までになかった。
 ドリンクを口に含んでみるが、冷たさも味も感じない。意識が遠のく感覚があるものの、それを声にして訴えることすら出来なかった。
 客席の声援や、となりのコートで打ち合う音も。全てのものが遠くに聞こえる。やはり京極のいうように、これが限界なのか。
 「お前にしては上出来だ」
 ふいに父・龍之介の声が耳元で響いた。
 一段と狭くなった視界から垣間見えるのは、深い森の中でいきり立つイノシシだ。確かに仕留めたはずなのに、奴はまだ生きている。
 不思議な感覚だった。夢を見ていると分かっていながら、意識が沈んでいく。
 行き着く先は遠い昔の記憶。透が十歳の時に目にした光景だ。
 視界が狭く感じるのは、イノシシの牙で左目の上を裂かれたせいだろう。赤い斑点のようなものが、そこらじゅうに飛び散っている。
 自力でイノシシを倒したと思っていたのは記憶違いか。
 考えてみれば、十歳の子供が『山の主』と恐れられる猛獣をラケットとボールだけで倒せるはずがない。
 薄れゆく意識の中で、記憶に埋もれていた事実が再現されていく。
 なぜ今このタイミングで思い出すのか。頭の片隅にぼんやとした疑問を残したままで――。

 あの時、透はイノシシを失神させただけだった。そして、ようやく仕留めたと浮かれた矢先。一瞬の油断を狙い澄ましたかのように、イノシシがふたたび牙を剥いたのだ。
 左目から滴り落ちる血でパニックを起こした透は、その場で腰を抜かし、相手に追撃のチャンスを与えてしまった。野生動物特有の獲物を捕らえる鋭い目と荒い息がジリジリと、しかし何の躊躇いもなく迫ってきたのを覚えている。
 正直、もう駄目だと思った。ここで自分の命は尽きるものと覚悟した。
 ところが次の瞬間、両者の間に立ちはだかる大きな背中が見えた。父・龍之介である。
 「お前にしては上出来だ。あとは俺が始末するから下がっていろ」
 龍之介は静かに言い置くと、息子の手からラケットを取り上げ、テニスボールをイノシシ目掛けて打ち込んだ。
 確か三発目だったと思う。龍之介の放ったボールの一つが眉間に命中し、臆したイノシシはふらつきながら山中に逃げていった。
 最後に勝負をつけたのは父であって、透ではない。自分はただ怖くて震えていただけだった。
 よろよろと去り行く後姿に注意を払いながら、龍之介が右肩を押さえている。古傷が痛んだのかもしれない。
 そこで記憶は途切れたが、もう一つ。父に負ぶわれ家に帰る途中で、独り言のようなものを聞いた気がする。
 「まだガキだと思っていたが、重てえな」
 そんな台詞だったか。いつも自分を拒絶する父の背中は思いのほか温かく、戸惑いながら聞いていた。
 「俺がこんな風に守ってやれるのも、あと十年か。いや、野郎の場合はせいぜい五、六年ってところだろうな。
 それまでに強くなれよ? 俺の宝物を、今度はお前が自分の手で守るんだ」
 確かに龍之介はそう言った。
 なぜ今まで忘れていたのか。
 「自分より強い奴を倒さなきゃ意味がない。だからお前が倒せ」
 以前、父に助けを求めた時、こう言われて突き放されたと思ったのか。十歳の透には背中で聞いた「宝物」の意味が分からず、記憶の中に埋もれさせたのかもしれない。
 しかし、今なら分かる。それが何を指すのか。誰を指して言ったのか。
 ずっと守られていた。気付かなかっただけで。気付こうとしなかっただけで。
 いつもタイミングよく必要なものを与えてくれたのは、ジャンや唐沢だけではない。
 アメリカでテニス部を追い出された時、練習場所を用意してくれたのは誰なのか。
 帰国する際、息子の成長に合わせたラケットを与えてくれたのは。光陵学園という優れたプレイヤーが集う理想的な環境を教えてくれたのは。
 間違いなく自分は愛されていた。彼の大切な宝物として。

 「よく頑張った、トオル。上出来だ。あとは俺がやるから……」
 やはり束の間、夢の中に落ちていたらしい。父の声がいつの間にか唐沢のものに代わっている。
 「唐沢先輩。俺、まだやれます。やらせてください」
 「そんな体で無理するな」
 「最後まで一緒に戦うって、約束しましたよね? この体がどこまで持つか分からないけど、自分なりに限界だと思えるところまでやらせてください」
 「次のゲームは向こうも本気でブレイクしに来るぞ?」
 「勝負を人に預けて、守られて。それはダブルスじゃないです。せめて、このゲームだけでもお願いします」
 「分かった。次のゲーム、こっちも雁行陣で真っ向勝負する。良いな?」
 サーブのポジションについた透に迷いはなかった。
 メッキだったとしても、実力の差があったとしても、自ら望んだ勝負を途中で捨ててはいけない。
 アメリカから戻ってきたのも、苦しい練習に耐えてきたのも、逃げ出すためではない。
 サーバーに与えられた二つのボールの内の一つをポケットにしまい、残る一つを握り締める。気力を取り戻した透の視界には狙いを定めたコースしか入らない。
 それ故、前衛に位置する唐沢の表情も見えるはずがなかった。彼が誰にも悟られないよう笑いを噛み殺していることも。
 「ついに来たか……」
 地道な実戦経験の積み重ねと、極限状態に追い込まれても尚、己の限界を超えて立ち向かおうとする闘争心。そしてどれだけ窮地に追いやられても失せることのない勝利に対する執念と。
 未知数から実数を導き出すための方程式が完成しつつあった。






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