第33話 恐怖! 夏合宿始まる
「ハ・ル・キ! 迎えに来たぜ!」
「なんでお前がここにいるんだよ? 昨日、来るなって言ったよな?」
「照れるな、照れるな。ほんとは楽しみにしていたくせに」
「バッカじゃないの? 今日の俺等のどこに浮かれる要素がある?
小学生の遠足じゃあるまいし。合宿だからってテンション高いの、お前ぐらいだぞ」
身長差15センチのハンデをものともせずに、澄んだ瞳が透を睨めつける。この下から平気で人を見下せる気位の高さが、遥希の遥希たる所以である。
確かに彼のいう通り、最上級生ならまだしも、下級生のうちから合宿だと浮かれる奴はまずいない。
一年生はもれなく下僕、二年生になってようやく市民権が得られる体育会系において、合宿での透たちの役割と言えばパシリであり、そこで培われるのは腰の低さと忍耐力のみである。
さすがに上下関係にやたらと厳しい野球部のように「三年生を神だと思え」などと無茶をいう輩は皆無だが、あの個性豊かな先輩達と寝食を共にするには、ある意味、別の覚悟を要する。
一週間の予定で行われる光陵テニス部恒例の合宿初日の今日、朝から遥希の機嫌が悪いのも無理からぬことなのだ。
そして、それに反して透が大はしゃぎするのもまた無理からぬことだった。
三年前、合宿直前で転校を余儀なくされた透にとって、今日という日は特別な意味を持つ。
突如として父親の転勤話が持ち上がり、長野へ行くつもりがアメリカへ行き先を変更せざるを得なかった、あの夏の日。合宿用の荷物を抱えた遥希と最後に別れたのが、ここ、日高テニススクールの門の前である。
「ああ、確かに俺一人かもしんねえな。
けど、しょうがねえじゃん。やっとお前と同じ目的地へ行けんだから」
透が感慨深げに細めた視線をテニススクールの門から遥希に移すと、彼の仏頂面がさらに険しくなった。
「だいたい学校が集合場所なのに、そこを通り越してくる意味あんの?」
「分かってねえな。お前と一緒にここから出発するってことに意味があるんだよ。
あん時、ハルキがさ、『いつか必ず一緒に行こうな』って言っただろ? 俺はあの言葉を支えに……」
「ちょっと待て。お前、自分の都合の良いように思い出を美化してないか?」
「じゃあ、何て言ったよ?」
「忘れた」
「嘘つけ! 覚えてんだろ? なあ、言ってみ?」
「バッカじゃないの?」
照れ臭さが先にたつのか、遥希がお決まりの台詞で会話を終わらせ歩き出す。
気位の高い彼のことだから、慌てて話題を変えたり、下手に言い繕ったりして墓穴を掘るようなヘマはしない。しばらくは無言で歩くだろう。
透は仕方なく彼のあとに続いた。
本当は学校までの道のりを二人仲良く肩を並べて歩く様を思い描いていた。
「晴れて良かった」とか、「お前の荷物多くねえか」とか。他愛のない話をしながら。
しかし思い描いていたものとは違っても、遥希の背中で揺れているツアーバッグが透の心を弾ませる。
日本に帰って来て良かったと、改めて思う。
もう一人だけ別のルートに放り出されることはない。皆と一緒のバスに乗り、同じ目的地を目指すことが出来るのだ。
三年の時を経て初めて経験する光陵テニス部の夏合宿。それ故、透は何も知らなかったし、周りの人間は当然知っているものと思っていた。
今日から始まるこのテニス部最大のイベントが、光陵学園の体育会系の中でも退部率ナンバー・ワンを誇る「地獄の夏合宿」と呼ばれていることを。
透たちテニス部員を乗せた大型バスは、毎年合宿が行われているという長野と新潟の県境にあるスポーツ施設に向かっていた。
遥希の話によると、そこは宿舎とセットでテニスコートがいくつも点在する広大な敷地であると同時に、それ以外は何もない辺鄙(へんぴ)な場所でもある為に、部員たちの間では皮肉を込めて「テニス村」と呼ばれているとのことだった。
目的地に近づくにつれ、透は子供の頃にタイムスリップしたような懐かしさを覚えた。
都会とは違う生まれたての空気。自然の営みを感じさせる森の声。緑豊かな山々の景色が眠っていた五感を刺激する。
ところがさらに奥へと入っていくと、今度は思い出したくもない記憶まで甦り、気分が悪くなった。
最近、何かにつけて父・龍之介を思い出す。理不尽に思えた父の行動一つひとつに意味があったのではないかと、振り返る機会が増えたのだ。
車窓に映る故郷とよく似た景色が色褪せた記憶を甦らせる。
透が幼少期を過ごした岐阜の山奥も、こんな風に文明社会から隔離された未開の地であった。
携帯電話はおろか、テレビの電波もろくに届かぬ質素な暮らしの中で、父から与えられたのは古びた木製のテニスラケットと籠いっぱいのテニスボールの二つだけ。
必然的にそれらはおやつの果物や木の実を叩き落すための道具となり、野生動物から身を守るための武器となり、口うるさい大人達をからかう玩具となった。
本能の赴くままに野山を駆け回っていた子供の頃とは異なり、アスリートの視点を持つ今ならばよく分かる。
あの頃の不自由な生活そのものが、都会でいうところのスポーツジムの役割を果たしていた。
学校へ行くにも毎日アップダウンの激しい山道を通らなければならないし、遊ぶにしても保険の利かない自然が相手である。自ずと川遊びのやり方も覚えたし、雪山ではスキーのストックに頼らずとも滑れるようになった。
人間の力など到底及ばぬ大自然の中で、テニスプレイヤーとして必要な土台が培われていったのだ。
以前、唐沢から課題で渡されたテニスの解説書に書かれてあった。
スポーツ科学の世界では「ゴールデンエイジ理論」なるものがあるらしく、二歳から十歳までの間は人間の様々な神経回路が最も発達する時期であり、空間認知、バランス感覚、敏捷性、巧緻性などの能力の八割はその時期の過ごし方で決まるという。
昔は龍之介に対する不信感のほうが強くて確信には至らなかったが、イギリスの大学でそれなりの地位に就いていた父がわざわざ岐阜の山奥に活動拠点を移して仙人のような暮らしを始めた理由は、やはりゴールデンエイジを迎える息子がいたからに他ならない。
「トオル、ちょっと良いか?」
声をかけられ車窓から目を離すと、通路にコーチの日高が立っていた。
彼は顎をしゃくって隣の座席の荷物をどかせと命じると同時に、ごつい体を器用に屈めて空いたスペースに素早く収めた。
恐らく他の部員達の目を意識してのことだろう。父の親友でもある日高だが、引率者として同行する今は透一人を特別視できる立場ではない。
「お前、龍と連絡取ってねえのか?」
「誰がするかよ。あんなクソ親父」
たった今、父から注がれた愛情を確信したにもかかわらず、想いとは裏腹な言葉が透の口からついて出る。
「インターハイはどうする? あいつの仕事の都合がつくなら、一度日本に呼んでやったらどうだ?」
「別にあの親父に見に来てもらったって、何の得にもなんねえし」
「まったく、お前たち親子は揃いも揃って……。意地を張るのも大概にしねえと、後で取り返しがつかなくなるぞ」
「そんなんじゃねえよ」
頭では分かっていても、素直に行動に移せぬこともある。特に龍之介に関しては、それがひと際高いハードルに感じられる。
正直なところ、晴れの舞台を見にきて欲しいという想いはある。ここまで頑張った成果を父にこそ見て欲しい。
いや、正確には「見て欲しい」と「見せつけたい」の間で揺れている。
いくら感謝の気持ちが芽生えてきたとは言え、これまでの恨みが綺麗さっぱり消えたわけではない。実際、父の唐突過ぎる転居のせいで息子の苦労は今も続いている。
「そんなんじゃねえから」
透はもう一度、念押しするようにそう言うと、ふいに眠気に襲われた振りをして日高から背を向けた。
短くも勢いのある溜め息が一つ。間髪を容れずに吐きかけられたタイミングからして耳タコものの説教が始まるかと思いきや、後から続いて聞こえてきたのは親友とその息子の行く末を心から案じる男の声だった。
「なあ、トオル? インターハイは誰もが出られるわけじゃない。お前はもちろん、あいつにとっても特別なんだ。
いろいろ思うところはあるだろうが、出来ればお前の方から声をかけてやってくれないか?」
普段は悪ガキどもを腹の底からビビらせる強面のコーチが似合わぬ声を出している。
人の内面に触れなくてはならない時のソフトな声音。相手の心の傷を、その痛みを知るからこそ、つい腫れ物に触るように接してしまう。
日高がそうなる理由を、透は知っている。
――おっさん、気遣いすぎなんだよ。
透は言いかけた言葉を欠伸でごまかすと、日高が根負けして席を立つまでひたすら寝たふりを続けた。
皆を乗せたバスは山を二つほど超えて、さらに三つ目の山頂付近で停車した。
「ようし、全員揃ったな? それじゃ、まずはこれを引いてから宿舎へ入れ」
中高合わせて六回目の合宿ともなると段取りも心得ているらしく、部長の唐沢が手際よく指示を出し、部員達にクジを引かせている。
何のクジかは分からぬが、透も皆と同じように順番待ちをしていると、唐沢から待ったがかかった。
「お前は引かなくて良いぞ」
「どうしてですか?」
「なんだ、ハルキから聞いていないのか?
あのな、これは部屋割りを決めるためのクジ引きだ。お前等二人は同室だから必要ない」
「なんで俺達だけ……って、俺、ハルキと同室ですか!?」
「その方がお互い便利だろ? 風呂当番同士、仲良くやれ」
「風呂当番!?」
「それも聞いていないのか? まったく、相変わらずコミュニケーションの悪い奴等だ。
良いか? お前等二人は予選前に俺に黙って試合しようとしただろ?
本来ならレギュラーから外されても文句が言えないほどの重罪だが、今回はインハイも控えているし、特別に合宿の風呂当番で済ませてやろうという日高コーチのご慈悲だ。
断っておくが、風呂当番は風呂場を掃除して終わりじゃない。消耗品の補充と買い出し、タオル類の洗濯と乾燥、風呂に関すること全部、お前等の担当だから」
「そんなぁ……」
朝からの華やいだ気分が一気に冷めた。恐らく遥希はわざと黙っていたに違いない。
「くっそ、あの野郎!」
「まあまあ、落ち着けよ」
怒り心頭で遥希のもとへと向かいかけた透を、副部長の千葉が背後から引き止めた。
「ハルキに喧嘩ふっかけるのは風呂場を見てからにした方が良いんじゃねえか?」
「どういうことですか?」
「ここの風呂場はメチャメチャ広いから。いがみ合うより二人で協力しねえと、自由時間なんて無くなっちまう」
「そんなに広いんですか?」
「ああ、銭湯並みに広い。泳げるぐらい広い」
「マジですか?」
確かにそこまで広いとなると揉めている場合ではない。不本意でも協力体制を敷いて事に当たらなければ、貴重な睡眠時間を削ることにもなりかねない。
「元気出せよ、トオル。後で“良いモノ”見せてやるからさ」
「良いモノ……?」
千葉が目だけで周囲をチラチラと警戒しながら、耳元近くで囁いた。
「合宿初日は秘蔵Vの鑑賞会と決まっている。メシ食ったら、シンゴ先輩の部屋に集合な」
千葉の含みを持たせた笑みからして、これは男子高校生なら誰しも食いつくお宝映像に違いない。頑張ってノルマをこなせば夜にはお楽しみが待っている。
これぞ合宿。こういうイベントを期待していたのだ。
「ケンタ先輩、俺、頑張ります!」
「おう、待ってるぜ」
いつもの快活さが戻った透を認め、千葉が満足そうに去っていく。
やはり持つべきものは一つ上の先輩だ。去年まで同じ立場にいただけに、下っ端の苦労も分かっている。
透はやけに軽快な足取りで去っていく千葉の後ろ姿を、露ほどの疑いもなく、尊敬の眼差しで見送った。
合宿初日の練習メニューは移動に時間が割かれたこともあり、話に聞くほどきつくはなかった。
山道のランニングで音を上げる部員も数名いたが、山育ちの透にはさほどの運動量でもなく、むしろアスファルトを走るより衝撃が少ない分だけ楽だった。
体が疲れていなければ、自然と気持ちも前向きになるものだ。
透は夕食の配膳やら片づけといった下級生ならではの雑務を済ませると、早速、鑑賞会に参加すべく食堂を後にした。
先程のクジ引きで決められた部屋割りでは、藤原と陽一朗、荒木と中西、千葉が滝澤と同室になったと聞いている。
透は不謹慎と分かっていながら、込み上げる笑いを禁じ得なかった。我が身と比べて他の先輩たちを気の毒に思うなど、滅多にあることではない。
『男はつらいよ』のストーリーを一作目からしつこく語って聞かせる『寅さん』マニアの藤原や、いくら話しかけても「はい」と「別に」しか返さぬ無口の荒木や、異性よりも同性に興味のある滝澤も。
彼等と同室になるぐらいなら、遥希の方が何百倍もマシである。少なくとも身の安全は保証される。
若干、歪んだ幸福感に浸りつつ、透が廊下を歩いていると、奇妙なものに出くわした。
「ぬいぐるみ……? 何でこんなところに落ちてんだ?」
ちょうど手のひらに乗る大きさの熊のぬいぐるみは、街中ではよく見かけるものの、野郎ばかりが寝泊りする合宿所では不釣合いであるが為に、大いに透を困惑させた。
「それ、テディベアだよ」
「えっ!?」
「ごめん、ビックリさせちゃった?」
熊のぬいぐるみよりも、いきなり背後から声をかけられたことよりも、透は目の前の人物そのものに驚いた。
「奈緒、どうして?」
合宿所にいるはずのない奈緒が、なぜか目の前に立っている。
「あのね、マネージャー二人じゃ大変だからって、塔子に頼まれて。食事とか、買い出しとか、お手伝いすることになったの」
「言ってくれれば迎えに行ったのに。なんで黙っていたんだよ?」
「うん、本当はバスに乗る時にビックリさせようと思っていたんだけど、乗り遅れちゃって……」
若干、彼女の話し方に歯切れの悪さを感じたが、この時は深く追及しなかった。それよりも持ち主の皆目見当のつかない落とし物のほうに意識が向いていた。
「これ、テディベアって言うのか?」
「うん、テディベアの仲間でバースデー・ベアって言うんだよ。
ほら、お腹のところに日付が刺繍してあるでしょ? 三百六十五日、全部、色や形の違うテディベアがいるの」
「ほんとだ。十二月七日って……俺の誕生日じゃねえか!」
愛くるしいはずのテディベアが急に禍々しいものに見えてきた。
自分と同じ誕生日のテディベアが合宿所の廊下に落ちている。これは単なる偶然か。
よく見ると、あちらこちらに引きずられたような痛々しい跡がある。昼間ならまだしも、夜遅くに人気のない廊下でこんな哀れな姿を見せられると、わら人形的恐怖を感じてしまう。
「もしかして、俺、誰かに恨まれてんのかな?」
「宝物かもしれないよ。肌身離さず持っていたのかも」
「野郎しかいねえのに?」
「それは……」
彼女の丸い瞳がクルクルと慌ただしく動いている。どうにか透を安心させようと、それらしい理由を探しているのだろう。
彼氏のために懸命に知恵を絞る姿が微笑ましくもあり、いじらしくもあり。もう少し眺めていたい気持ちもあったが、透はさっさと話を切り上げた。
「今日は遅いし。奈緒は早く部屋に戻って休めよ」
「トオルはどうするの?」
「俺は、えっと……適当に皆の部屋を回って聞いてみる」
透が話を切り上げたのには訳がある。
「今からひとりで回るの?」
「うん、まあ……」
「私も一緒に手伝おうか?」
「いや、大丈夫! 大丈夫!」
「明日も練習あるのに、平気?」
「全然、平気!」
「トオル?」
「な、なに?」
知らず知らずのうちに鼻の下でも伸ばしていたのか。奈緒が訝しげにこっちを見ている。
非常にばつが悪かった。だが罪悪感を抱きつつも、頭の中は魅惑の「秘蔵V」がほぼ九割を占めていた。
健全な男子高校生が不健全なものに惹かれるのは自然の流れである。何人たりとも抗えぬ男の性というヤツだ。
しかしながら、純粋な彼女を前にすると裏切り行為に思えてならない。
じわじわと頭をもたげる罪悪感に耐えかねて、透が何の脈絡もなく「ごめん」と謝ろうとした時だ。
彼女の真っ直ぐな視線が和らいだ。
「合宿、大変そうだけど頑張ってね」
「えっ……それだけ?」
「それだけ、って?」
「いや、なんでもない。じゃ、おやすみ!」
こういう時、つくづく男は困った生き物だと思う。対戦相手には必死になって喰らいついていくくせに、本能には簡単に白旗を揚げてしまうのだから。
愛しい彼女に心の中で手を合わせ、深々と頭を下げてから、透はいそいそと藤原の部屋の扉をノックした。
「あの……シンゴ先輩? 秘蔵Vって、まさかコレじゃないですよね?」
この合宿所に来て、怒りで体が震えるのは二度目であった。
「コレに決まってんだろ? 俺のお宝映像と言えば『寅次郎・ハイビスカスの花』第二十五作目だ」
透は藤原が二学年も上の先輩だと承知の上で、今すぐ彼の顔面に拳を捻じ込みたい衝動に駆られた。
「先輩? 俺、ここまで来るのに結構苦労したんッスよ?」
「そうか、そうか! だったら、特別に『相合い傘』から見せてやる。去年、こいつ等には見せてやったんだけどさ、実は二十五作目と連作になっていて……」
「去年、こいつ等に見せたって?」
藤原の両脇にかしずくようにしてヘラヘラと作り笑いを浮かべる千葉と陽一朗。この笑顔が全てを物語っている。
「ケンタ先輩、俺のことハメましたね?」
「悪りィ! 俺と陽一だけじゃ、正直キツくてさ。
頼む、トオル。一緒にシンゴ先輩の『寅さんワールド』に捕まってくれ」
「いくらケンタ先輩の頼みでも嫌ですよ。もっとちゃんとしたVだと思ったから、奈緒を振り切って来たのに」
「へえ? 『ちゃんとしたV』って、どんなだよ?」
「それは……えと……」
うろたえる透をさらに追い込もうと、陽一朗からも追撃の手が伸びる。
「どんなVかなぁ? ナッチに聞けば分かるかなぁ?」
「ちょ、ちょっと、陽一先輩! それだけは勘弁してくださいよ」
「てかさぁ、お前等まだヤッてないって本当?」
「当たり前じゃないですか! まだに決まって……」
あまりに軽い口調で聞かれた為にうっかり答えてしまったが、これが陽一朗の誘導尋問であることは一斉に向けられた先輩達の視線で理解した。
たちまちビデオ鑑賞会が取り調べ室に変わる。
最初に真顔で尋問を始めたのは藤原だ。
「真嶋? お前、もしかしてアメリカで悪い病気でも貰ってきたのか?」
「ち、違いますよ!」
「だったら一人暮らしの羨ましい環境で、彼女に合鍵まで渡しておいて、なんで『まだ』なんだ?」
「シンゴ先輩、合鍵の話はどこから……?」
「ん? ケンタからの最新情報」
「ケンタ先輩!?」
「俺も一応、副部長だからな。前副部長を見習って、こまめに情報収集してんだよ」
「そんなところを見習わなくても……」
「で、結局どうなんだ?」
このメンバーでは言い逃れは出来ない。過去の経験からそう判断した透は、渋々ながら白状することにした。
「そりゃあ、俺だって男ですから考えなくもないですよ。
でも、前の彼女とはその場の勢いで突っ走ったところがあって、後悔したんです。こういう事はきちんと段階を踏んでからじゃないと、相手を傷つけるって。
だから、奈緒とは時間をかけたいというか。大切にしたいんです」
この集まりに参加した当初の目的を思えば、彼女から「どの口がほざいている」と怒られそうだが、未熟なりにも今のは透の本心だ。
「真嶋は良くても、彼女はどう思っているんだ?」
ふたたび藤原が真顔で尋ねた。
透を除けば、彼はテニス部で唯一の彼女持ちである。他の二人とは違って、冷やかし目的ではないようだ。但し、彼の場合、恋愛周期は極端に短いが。
「さあ……」
「『さあ』って、彼女とそういう話をしないのか?」
「だって、そんな……いつヤるかなんて、普通しないでしょ?」
「タ〜コ! 誰がダイレクトに聞けっつったよ。それとなくだよ!
電話とか、メールとか、普段の会話の流れでいくらでも探れるだろうが?」
「メール自体しないですからねぇ。第一、そんな時間ないですよ」
「あのな、真嶋? 俺の経験から言わせてもらえば、時間がない時ほど話をしておいた方が良いと思うぞ。
俺達が忙しいということは、相手をひとりにさせている時間が長いということだ。
こっちの気持ちを伝えていないばっかりに、彼女が勝手に冷めたと思い込んで、突然『別れましょう』なんて言われてみろ。マジ、洒落になんねえぞ」
「シンゴ先輩、その手の修羅場の数はテニス部ダントツだかんね!」
「陽一、それどういう意味だ、コラッ!」
陽一朗は沈んだ空気を明るくしようと、冗談のつもりで言ったに違いない。ところが、それが藤原の逆鱗に触れたと見えて、後ろから羽交い絞めにされている。
プロレスごっこに転じた二人に代わって、今度は千葉が話に加わった。
「俺は人の恋愛に口挟める立場じゃねえけど、ナッチは自己主張しないタイプだからな。お互い想い合ってんのに別れるなんてことのないようにしろよ?」
「はい、ありがとうございます。
で、そういうケンタ先輩は樹里先輩とどうなっているんですか?」
そろそろ透の方から反撃しても良い頃だ。
「何だよ、急に?」
「まさか卒業するまで告らないつもりですか? 一体、何年かかっているんですか?」
楽しげな会話を聞きつけて、陽一朗がプロレスごっこから帰ってきた。
「だよね! 俺ッチもそう思う!
五年も片思いしているなんて国宝級だよ。ケンタ、絶対おかしいって」
「どこがおかしいんだよ?」
「全部だよ、全部!」
「お前、人のこと言えんのか? 見境なく告っているくせに、一度もオーケーもらったことねえだろうが!」
「うるさいなぁ、もう! それなら、トオルだって。四年も付き合ってんのに『まだ』なんてさ」
「四年は知り合ってからの年数で、付き合い始めたのは最近です! 先輩達に比べれば一番まともじゃないッスか?」
悪夢はここから始まった。
五年間、秘めた想いを告白できずにいる千葉と、想いを打ち明けるたびに断られ、一度も恋愛を成就させたことのない陽一朗。そして合鍵を渡す仲でありながら、いまだ清いお付き合いから脱却できない透。
いずれも異常と言えないまでも、希少価値の高さは甲乙付けがたく、そのせいで不毛な議論が延々と続けられた。
睡眠不足はケガのもとである。そのことをよく知る最年長の藤原が痺れを切らして一喝した。
「お前等、そんな調子じゃ夜が明ける。どうしてもって言うなら、アレで決めたらどうだ?」
一瞬にして千葉と陽一朗の動きが止まった。
後から思うに、ここで不穏な空気を察知して大人しく引きさがっておけば良かったのかもしれない。
「シンゴ先輩、アレって何ですか?」
「アレと言うのはな……」
相変わらず真顔の藤原だが、今までの後輩想いの先輩とは違って、その目からは勝負師と評される独特の気迫が伝わってくる。
「アレというのはな、合宿恒例の『闇のバリュエーション』だ。お前等、覚悟しろよ?」
本当の意味での「地獄の夏合宿」の始まりだった。