第34話 怪盗現る!
「シンゴ先輩? 俺、用事思い出したんで帰ります」
藤原の口から『闇のバリュエーション』の詳細を聞かずとも、透にはある程度の察しがついた。
『闇の学園祭』に『闇の処罰』。「闇の」と名のつく催し物にロクな思い出はない。どうせ唐沢が副部長時代に残した置き土産に決まっている。
そんなものに関わったが最後、貴重な自由時間を失うだけでなく、夢にまで見た合宿が悪夢と化すのは必至。
日々、地味な鍛錬が基本の部活動の中で、合宿は唯一派手な感じのするビッグイベントだ。この際、夜のお楽しみなどなくても良い。多少、面白みに欠けたとしても、あとから振り返った時に「俺、結構頑張ったじゃん」とほっこりとした笑みのこぼれるような、高校生活の思い出を彩るに相応しい有意義な時間を過ごしたい。少なくとも、人前で話すのも躊躇われるような後ろ暗い青春の一ページ、いわゆる「汚点」にだけはしたくない。
「残念だが、真嶋。この名前を一度でも聞いた者は、絶対に抜けらんねえルールになってんだ」
「そんな話、聞いてないッスよ」
「だ・か・ら、聞いたらやるしかないの!」
往生際が悪いとばかりに陽一朗がキレ気味の声を張り上げる傍らで、兄貴分の千葉も「観念しろ」と言いたげに相槌を打っている。
どうやら最下級生の透に選択の余地はないらしい。
「……で、何すりゃ良いんッスか?」
透が渋々ながらも応じる姿勢を見せると、四人の中ではリーダー格の藤原が満足そうに笑んでから詳しい内容を説明し始めた。
「ひと言で言えば、ダブルスの総当たり戦だ。
俺たち四人がそれぞれ他の奴等とペアを組んで、勝ち数の多さで順位を決める。要領はバリュエーションと変わらない。
但しダブルス組のひとり勝ちになんねえよう、公式戦出場ペアの参加は禁止。つまり真嶋の場合、海斗と組むのは反則な」
「でも、どうしてダブルスに?」
「シングルスじゃ、いつものバリュエーションと変わんねえだろ? ダブルスの方が意外性もあって、面白いんだって」
勝負における優位性よりも面白さを追求するあたりが藤原の性格をよく表している。
藤原は根っからの勝負師だ。そして、そんな彼の特性を見抜いた上で、あえて『闇のバリュエーション』はダブルスに限定されているのだろう。
やはり、この胡散臭い催し物の創始者は唐沢だ。彼の興味は勝負の面白さよりも、いかにして勝利を我が物とするかに向いている。
ここが藤原との違いである。
唐沢も伸るか反るかの大勝負を好むが、勝負師ではない。彼の目当てはあくまでも危険な勝負を制したあとの報酬であって、楽して勝てればそれに越したことはないのである。
透がほんの束の間、本題とは関係のないところへ意識を逸らした隙に、千葉がすかさず先手を打ってきた。
「だったら、俺が太一と組むのはアリですね」
「じゃあ、俺ッチは部長をキープ!」
「陽一先輩、それメチャメチャずるいじゃないッスか!」
「ずるくたって反則じゃないもんね」
「じゃあ、俺は誰と組めば良いんスか?」
残りのメンバーでダブルスが得意な部員と言えば三年生の荒木と滝澤だが、無口な荒木ではコミュニケーションを取ること自体至難の業で、逆に滝澤では不要なスキンシップまで迫られそうで頼めない。
「俺は残りで良いや。真嶋の好きな奴、選べよ」
藤原の余裕しゃくしゃくの態度が却って焦りを募らせる。
こうなったら、少しでも勝てる見込みのある順に名前を挙げていくしかない。
「この間のランキングだと、唐沢先輩、シンゴ先輩、俺の次は……ハルキ?」
「よし、真嶋はハルキだな?」
「ちょ、ちょっと待ってください。ハルキは性格的にちょっと……」
「じゃあ、滝澤と組むか?」
「それだけは勘弁してください。生理的に無理です」
「荒木は?」
「物理的に無理です」
「んじゃ、ハルキに決定だ。俺は滝澤と組むからな」
事態が最悪の方向へ進んでいる。よりによって、遥希とペアを組むなんて。
遥希とは昔ほど犬猿の仲ではないが、他の部員と比べるとコンビネーションの部分で大いに不安がある。
しかも周りは陽一朗が唐沢、千葉が太一朗、藤原が滝澤と、ダブルスを得意とするパートナーをちゃっかり確保しており、コンビネーションがどうのと初歩的な問題を抱えているのは透一人である。
「ちなみに、これで勝ったら何か良いことあるんッスか?」
透は胸のうちの動揺を抑えて、まずは『闇のバリュエーション』の詳細を明らかにすることにした。
「勝てばと言うよりは……」
藤原がいつになく深刻そうに眉根を寄せた。
「負ければ地獄ってヤツ?
合宿の期間中、俺たちの僕として仕えてもらう」
「なんだ、それじゃいつもと変わんないじゃないッスか」
「そうでもないぜ。去年の例で言うとだな、毎朝のモーニングコールとコーヒーのサービス、日中は鬼のように出てくるウェアの洗濯と部屋の掃除、夕食後はマッサージと夜食の買出しと……」
「スンマセン。前言撤回します。
俺、たぶん死ぬと思います」
「だよなぁ。真嶋は風呂当番もあるからな。さすがに壊れるか」
すでに透が負けるという前提で話が進められていることに不快感を覚えなくもないが、ここは最悪のケースを考慮して、少しでも罰ゲームの負担を軽くしておいた方が身のためだ。
「だったら、俺ッチに良い考えがあるんですけど?」
陽一朗が金髪の下からヤンチャ臭い笑みを覗かせた。
彼がこの笑みを浮かべる時は、大抵、事態は悪化の一途を辿る。そのことは透も過去の経験から分かっているのだが、それでも先の罰ゲームよりはマシかと思い直し、黙って耳を傾けた。
「せっかくだから光陵テニス部の七不思議の一つにして最大の謎、『禁断のグレー・ゾーン』に迫ってみませんか?」
最初に千葉が「面白れえ」と言いながら陽一朗と同様の笑みを浮かべ、続いて藤原が「悪くねえな」と感心したように呟いた。
これも一種のブランクか。もともと噂の類に関心がないうえに中学時代を海外で過ごした透には、先輩達が何に同意しているのか、さっぱり分からない。光陵テニス部に七不思議が存在することすら今の今まで知らずに過ごしていた。
「あのう、シンゴ先輩? 『禁断のグレー・ゾーン』って、何ッスか?」
「ほら、うちの部員なら誰もが一度は疑問に思う、アレだよ」
「またアレですか? もう止めましょうよ。アレとか、コレとか」
「けどよ、アレはアレとしか言いようがねえんだよ。
俺も入部した時から気にはなっていたんだが、面と向かってアイツにアレをナニするなんて……なぁ?
よし、体力的にも問題ねえし、俺等が引退する前にハッキリさせておくのも良いんじゃねえか」
先輩達の含みを持たせた口振りから、ようやく透にも『禁断のグレー・ゾーン』の正体が見えてきた。
光陵テニス部員なら一度は疑問に思いつつ、誰一人として踏み込めず、五年もの間放置され続けていた謎と言えば――。
「まさか、滝澤先輩のアレですか?」
「ああ、アレだけは俺にも分かんねえんだよな。口調はカマっぽいけど、滝澤の場合、男として男が好きなような気もするし。
だけど、考え方は何気に女なんだよ。
この間もさ、マネージャーに『この人の子供を産みたいと思える相手は本物よ』って、真顔で力説してたし」
「いや、それは何気にどころか、生々しく女の発想じゃないッスか?」
「だろ?」
「けど、そんなこと直接本人に聞いちゃって良いんですか?」
「バ〜カ! 聞いちゃいけねえから罰ゲームになるんだろ。
真嶋、お前の骨は俺が責任もって拾ってやるから、ホモか、カマか。光陵テニス部最大の謎を解き明かしてこい」
「なんで、俺が負けるの前提みたいになっているんスか?」
「おっ? このメンツで勝てると思ってんのか?」
「やるからには、そりゃ……」
「へえ、ますます面白くなってきた。
良いぜ。練習時間外なら、いつでもかかって来いよ。
先に断っておくが、俺は勝負事に関して一切手を抜かねえ主義だから」
「俺だって遠慮しませんから、覚悟しておいてくださいよ!」
透は自室へ戻る道すがら滅多に使わぬ頭をフル回転させて、この難局を乗り切る策を思案した。
ダブルスの総当たり戦で勝ち数を競い合う『闇のバリュエーション』。ついその場の勢いで承諾してしまったが、明らかに分が悪いのはルーキー二人である。
先輩達がパートナーとして確保した面々はいずれもダブルスを得意としており、部内では指導者的立場にある。それに反して透はいまだ指導される側の人間で、遥希もこれまでの言動から察するに、ダブルスに関しては苦手意識があるようだ。
非常に困ったことになった。
『闇のバリュエーション』で敗北すれば、先輩である滝澤に対して地雷にも匹敵する失礼な質問をしなければならない。
あの何事にも頓着なさそうな藤原でさえ入部してから五年近くも触れられずにいたタブー中のタブーに自ら切り込むなど、想像しただけでも背筋が凍る。
ここは何としても勝利して、先輩たちに屍となってもらう以外、道はない。
冷静に考えて、ダブルスを苦手とする遥希とペアを組んで勝ち星を挙げていくのは茨の道だが、シングルスでは常に部内三位と四位の座をキープしている二人である。ダブルス巧者の唐沢・陽一朗ペアは無理だとしても、他が相手なら望みはある。
だてに今まで唐沢の教えを受けてきたわけではない。現に先の予選では、陽一朗と急遽ペアを組んで強豪・藤ノ森学院を退けたではないか。
幸い、遥希とは同室で打ち合わせの時間もたっぷり取れる。この利を最大限に活かしてコンビネーションの強化を図れば、きっと上手くいく。
「はあ!? なんで俺が?」
自室に戻り、遥希からつれない返事を聞かされたと同時に、透はそのコンビネーションが一番の問題だと思い知らされた。
「だから、ほら、自主トレ的な? インハイ前に苦手分野を克服しておいた方が良いかと思って」
「余計なお世話だ。お前に俺の自主トレまでとやかく言われる筋合いはない」
けんもほろろとは、このことか。まったくもって取りつく島もない。
ここは正直に経緯を話して協力を仰ぐべきかもしれないが、日頃から先輩達の悪ふざけに関しては否定的な見方をする遥希のことだ。『闇のバリュエーション』に捕まったなどと言おうものなら、「バッカじゃないの?」の一言で切り捨てられるに違いない。
「実はシンゴ先輩が……」
「シンゴ先輩?」
「あ、いや、ケンタ先輩。そうそう、副部長命令だ」
「何だよ、その中途半端な命令の出処は?
だいたい、お前は自分の立場が分かってんのか? くだらない冗談言ってないで、さっさと風呂掃除、始めるぞ」
遥希に立場を問われると返す言葉が見つからない。何故なら透も遥希も、今まさに“微妙な立場”に置かれているからだ。
先日行われたインターハイ東京都予選の個人シングルスの部で、二人は唐沢、藤原とともに本戦進出を決めている。ダブルスの部で優勝を果たした伊東兄弟と合わせると、光陵学園からは六名もの選手が個人の部の本戦に駒を進めることになる。
今年の東京都の個人枠はシングルスが六名、ダブルスが三組。この狭き門の半分を光陵テニス部のレギュラー陣が占めたのだから快挙と言えば快挙だが、ここで一つ問題が生じた。
先輩達から聞いた話によると、海千山千の日高もここまでの好成績は予想だにしなかったようで、団体戦の出場選手を選出するのに頭を悩ませているという。
これまで可愛い教え子がインターハイの高い壁に阻まれ玉砕する姿を散々見てきた彼は、いくら豊作の年と言えど個人の部の本戦に進めるのはせいぜい伊東兄弟と唐沢、藤原の四名で、遥希と透のどちらか一人が食い込めば御の字ぐらいに構えていた。そしてこの親の欲目も指導者の欲目も省いた極めて現実的な見立てに基づき、予選で敗退した選手を団体の部の本戦に起用する算段を立てていた。
インターハイ本戦の団体と個人の部は日を置かずして行われる。しかも真夏の猛暑の中での連戦だ。
団体優勝を目標に掲げる光陵学園としては伊東兄弟、唐沢、藤原の主力選手で陣を固めつつ、残りの補欠の一枠を団体戦に全力投球できる選手を投入し、皆の体力を上手く温存しながら過酷な連戦を乗り切るつもりでいたのである。
遥希が個人で進んだ場合は透を団体戦に、透が個人で進んだ場合は遥希を団体戦に。将来のエース候補二人に大舞台の経験を積ませる意味でも、この分散方式は妥当な判断と言える。
ところが日高の予想を裏切り、ルーキー二人ともが個人の部での出場を決めてきた。そのため、団体戦の最後の一枠が宙に浮いた状態になっている。
無論、これはあくまでも先輩たちの憶測の混じった噂話であって日高から直接話をされたわけではないが、首脳陣が今回の合宿を団体戦の選手選考会として捉えているのは確かなようである。
つまり透も遥希も今は最後の一枠を巡って争うライバル関係にあるわけで、合宿の趣旨から大きく外れた怪しげな催し物にうつつを抜かしている場合ではない。お前にはそこのところの自覚があるのか ―― 遥希が厳しい口調で透に問うた「立場」には、こうした意味合いが含まれている。
完全に読み間違えた。
自分と同じテニスバカの遥希なら「自主トレ」の誘い文句で簡単に食いつくと高をくくっていたのだが、思いのほか、団体戦にかける意気込みが凄まじい。
きっと尊敬する成田の夢を自分自身の手で叶えてやりたいとの想いが強いのだ。
インターハイの団体優勝は光陵テニス部の悲願であると同時に、成田が長年追い続けていた夢でもある。唐沢もそのために尽力している節がある。
透とて想いは同じだが、正直なところ、遥希ほど鬼気迫るものはない。
数か月前まではストリートコートで日本に帰ることを夢見ていたヤンキーが、念願かなって帰国して、光陵テニス部でレギュラー入りを果たし、インターハイの予選突破にも貢献できた。しかも個人の部では本戦出場も決めている。
己が望む以上のものを手にした透には、その先のもっと大きな目標に目を向けろと言われても、今ひとつピンとこない。想像の域をはるかに超えているのである。
おまけに光陵テニス部のチームカラーかもしれないが、他の部員たちは合宿に来てからも始終リラックスムードで普段と変わらない。
最後の一枠の選考基準が白紙に戻ったということは、ルーキー二人に限らず、全部員にチャンスがあるにもかかわらず、良くも悪くも彼等には遥希のような追い詰められた感がない。
遥希が生真面目すぎるのか。周りがお気楽すぎるのか。
大会経験の浅い透にはどちらが正しいあり方なのか、よく分からない。
ただひとつ現時点でハッキリしていることは、このままでは透一人が『闇のバリュエーション』で不戦敗扱いになるというそら恐ろしい事実。
これだけは、その先で待ち受ける惨事が想像の域をはるかに超えていようとも本能で分かる。全力で阻止しなければ生きては帰れまい。
やたらと広い風呂場の掃除は、遥希と二人がかりでも小一時間かかった。
早く戻って体を休めなければ、明日からは本格的な練習が待っている。
透は温存していた体力を全て投じて風呂掃除を済ませると、遥希と争うようにして自室に駆け込んだ。
ところが中に足を踏み入れた瞬間、異様な気配を感じた。退室した時とは部屋の雰囲気が何やら違う。
遥希も同じことを感じたらしく、慎重に辺りを見回している。
「なあ、この貼り紙……」
遥希が指差すところに目をやると、部屋の扉の内側に紙きれが一枚貼ってある。
「『貴様らの宝物は預かった。返して欲しければ、直ちにラケットを持って宿舎前のコートに集合せよ。怪盗 ツパン』……って、何だよ、これ!?」
急いで荷物の中身を確認すると、見事に下着だけが抜き取られている。
部屋に入った時の違和感は、片付けておいたはずの荷物が荒らされていたからだ。
「この汚ねえ字は陽一先輩だよな?」
「たぶん、ケンタ先輩も絡んでいると思う。怪盗ツパンなんてアホらしいネーミング考えられるの、あの人ぐらいだ」
透の問いかけに遥希が頷き、遥希の推理に透も頷いた。
二人で協力して風呂場の掃除をするよう勧めたのは、他ならぬ千葉である。親切ぶって話していたが、彼の狙いはここにあったのだ。
詳しい動機も目的も分からぬが、ともかく今は盗られた“宝物”を奪還するのが先決だ。
こんな山奥ではコンビニもなく、物が物だけに他の部員が快く貸してくれるとも思えない。明日からの過酷なトレーニングをノーパンで凌ぐなど、精神的にも、衛生的にも無理がある。
バカバカしくも目を瞑ることの出来ない貼り紙を前に、深い溜め息が二つ。その直後に二人はどちらからともなく駆け出した。
案の定、指定された場所には千葉と陽一朗がラケットを片手に立っていた。
深夜だというのに、初日は皆も寝つきが悪いのか。ナイター照明がなくとも宿舎の窓から漏れる灯りでコートの中があらかた見渡せる。
ネットの側でスタンバイする先輩二人の足元にはテニスボールの入ったカートが二台。いや、二台のうちの一つはテニスボールではない。手のひらサイズに小さく畳まれた“宝物”が入っている。
「ケンタ先輩、一体どういうつもりなんッスか?」
透は千葉の姿を認めるなり文句をつけた。秘蔵Vの一件と言い、今回の盗難事件と言い、可愛い後輩に対してあまりにも酷い仕打ちである。
しかし当の千葉は悪びれる様子もなく、したり顔でこう告げた。
「秘蔵Vは単なる余興だが、こいつは合宿のメインイベントだ。舐めてかかると痛い目見るぞ?」
「あの……おっしゃる意味がよく分からないんですけど?」
「今からちょっとした実験を行なう。俺と陽一で考え出したボレー練習の一つで、メンタル強化と同時に認識速度と反応速度も上げられる画期的なトレーニング法だ。
お前等で試して効果がありそうなら他の一年にもやらせるから、心してかかれ」
「それはつまり、俺達に新しいトレーニング法の練習台になれと?」
「そういうことだ。
俺達がランダムに球出しするボールを、テニスボールならコートの中へ。お前等のパンツならガットの上でワンバンさせてから外に出す。
要するにパンツとボールをボレーで分別すりゃ良いんだよ。但し、パンツとボールじゃ重さが違うから、下手こかねえよう気ぃつけろ」
「もしかして、間違えると没収とか?」
「ボール、パンツに関係なく、一回ミスるごとに雑巾が増えると思え」
「そんなぁ」
今もって意図するところは不明だが、彼等が新しいトレーニング法を試したがっていることだけは理解した。
これはいわゆるプレッシャー練習法の一つである。
視界のはっきりしない暗がりで、グリップの感触を頼りにテニスボールか否かを瞬時に判断して返球する。しかも打ち損じようものなら、大事な下着が雑巾にされてしまう。
この嫌でもプレッシャーのかかる状況で、いかにして普段通りのグリップとフットワークを保てるかが成否の鍵である。
基本的にボレーの打ち方はいたってシンプルだ。ガットの中央にボールを当てればまず返る。
ところが長いラリーや白熱した試合で緊張を強いられると、ついつい余計な力が入る。
決めのボレーのコースを外す。繋ぎのボレーを浮かせてしまう。大事な場面に限ってこうしたミスが生じるのも、本来柔らかく保っていなければならない個所の力みが原因だ。
上手くいけば他の一年生にもやらせるというのだから間違いない。千葉達はここで試した練習法を三年生に提案するつもりだろう。
インターハイ出場校の自覚が芽生えてきたのか。普段はふざけてばかりいる二年生にしては珍しく真摯な態度である。ただ一点を除いては。
「やり方は分かりましたけど、何も俺等のパンツを使わなくても良いじゃないッスか?」
もっともな意見に、遥希も同時に異を唱えた。
「つうか、パンツで練習なんてあり得ないし」
しかし後輩二人からのクレームなどどこ吹く風で、千葉は人差し指を「チッチッチ」と腹立つ角度で振りかざすと、片眉だけをわざとらしく下げて中途半端なしかめっ面を作ってみせた。
「分かってねえな。自分達のパンツだからこそ効果があるんだよ。
プレッシャーに強くなる訓練だって言っただろ?」
結局のところ、彼等は真面目にやる気がないのである。新しい練習法を考案するまでは高い志があったのかもしれないが、試す段になって力尽きたと見える。
いずれにせよ、この趣味の悪い実験から逃れる術はないようだ。
「ハルキ? お前、パンツどれぐらい持ってきた?」
「たぶん十枚ぐらい」
「やっぱ、そうだよな」
合宿用のハードなメニューを覚悟して、着替えだけは多めに持ってきた。そこを上手く利用されたのだ。
単純計算でパンツが一人につき十枚。テニスボールと合わせて二十球といったところか。
これを完璧に捌かなければ、自分達の下着が合宿所のどこかで雑巾代わりに使われる。
野郎だらけの合宿と聞いて、荷造りの際にも適当にそこら辺にある物を詰めてきた。破れかけのパンツが一枚ぐらい紛れていたとしても不思議ではない。
そんな物が人目に晒されれば、向こう三年間の語り草となるに決まっている。
「畜生、やるしかねえか。ハルキ、一枚も逃すなよ?」
「そっちこそ」
スイッチの入った後輩二人のもとへ、次々と“ボールらしきもの”が送り込まれた。
黄色はテニスボールだと思ってコートの中へ返そうとすると、実は同色の下着であったり、最初から下着だと分かっていても、慣れない感触に危うくバウンドし損ねたり。やり辛いこと、この上ない。
「ああ、もう! ハルキ、紛らわしいパンツ持ってくるんじゃねえよ!」
「そんなの知るかよ! お前こそ、高校生にもなってテニスボールの柄パンなんて止めろよな」
「あっ、それ! 絶対、しくじるんじゃねえぞ!」
人間、必要に迫られると驚異的な集中力を発揮するらしい。
透も遥希も、テニスボール、パンツ、パンツ、テニスボール、パンツと、通常ではあり得ない非常識な送球を一度もミスすることなく捌き、十分後にはコートの外に下着の山を築いていた。
テニスボールは一つもない。完璧な下着の山である。
「ようし、合格だ! 二人とも、よくやった」
千葉が実験終了の合図とともに、なぜか自分の手柄のように得意げな笑顔を見せた。
「明日、部長の前でデモンストレーションするから、引き続きヨロシクな!」
「まさか、唐沢先輩の前でパンツの分別するんですか?」
「バ〜カ! スポンジボールに決まってんだろうが!
採用されたら他の一年生にもやらせるから、ちゃんと説明できるようにしておけよ」
「だったら最初からスポンジボールでやりゃ良いじゃないですか!」
「可愛い後輩二人には特別な愛情を注いでんだよ。それぐらい分かれよな」
どこからどう見ても単なる悪ふざけにしか思えぬが、去り際に千葉が頭を掻きかき漏らした一言で、透はそれ以上の追及ができなくなった。
「インハイが近いってのに、一年の練習メニューまで部長に任せっきりじゃ情けねえじゃん」
早く一人前になりたくて足掻いていたのは、自分だけではなかった。能天気に見える彼等も、どうにかして部長である唐沢の負担を減らそうと少ない知恵を絞っていたのだろう。
学年、立場に関係なく、皆で協力し合い優勝を目指す。そうしなければ辿り着けない場所だから。
先輩達から意気込みを見せられた透は、いくらか晴れやかな気分で遥希の肩を抱き寄せた。
「俺たちも負けちゃいらんねえな!」
「一枚足りない」
「えっ?」
「九枚しかない」
同意を求めて抱き寄せた肩が力なく沈んでいく。
「嘘だろ? だって、さっき合格って言ってたぞ。全部取り返したんじゃねえのか?」
「俺の……ツ……」
何と言ったか聞こえはしたが、透はあえてもう一度尋ねた。
「今なんて?」
「俺の勝負パンツがない」
「勝負パンツって……お前、合宿にそんなモン持ってきたのか?」
「合宿だから持ってきたんだろ」
意外な一面を見せられた気がした。自分と同じテニス一筋のテニスバカだと思っていたが、遥希も普通の高校生で、勝負パンツを持っていたりもするのだ。
「ちょっと待て。ここへ持ってきたということは、相手は誰だ?」
「別に誰でも良いけど……」
「おい、おい。節操なさ過ぎだろ、それ?」
「良いんだよ。遣れるチャンスがあれば、誰でも構わない。今はいろんな奴と遣って、経験値を上げないと」
「そりゃ、まあ、経験値は大事かもしんねえけど、見境なくヤるってのもヤバくねえか?」
「何だよ、さっきから! お前、勘違いしていないか? 俺は試合用の勝負パンツの話をしてんだぞ?」
「へっ? 試合用……?」
どうりで話が噛み合わないはずである。互いに「勝負パンツ」意味を取り違えていたのだ。
「紺と白のチェック柄。ちょっと赤も入っている。
あれで負けたことなかったんだ。負け知らずの勝負パンツだったのに……」
よほど思い入れがあるのだろう。強気なライバルが気の毒なまでに肩を落としている。
先輩達はすでに引き上げた後である。また、あの口振りからして隠しているようにも思えない。
ひょっとしたら、コートの中に運び入れる最中にどこかで落としたか。
真夜中のコートを透が手探りで歩き回っていると、金網フェンスの扉のところにひらひらと風にはためく布きれが目に入った。紺と白のチェック柄に、細い赤のラインも交じっている。
「ハルキ、お前の勝負パンツあったぜ!」
喜んだのも束の間、発見された勝負パンツには金網フェンスの綻びに引っ掛けたと思われる惨たらしい裂け目がついていた。
「駄目もとで、奈緒に頼んで縫ってもらうか?」
「嫌だ。縁起が悪い」
「なんで?」
「破れたパンツなんて」
恐らく「破れた」は「敗れた」に通じるというのだろう。
「お前さ、昔から変なとこ神経質だよなぁ」
「うるさいッ! それより、トオル?」
「はい?」
遥希から「トオル」と呼ばれるのは、中学一年の夏以来である。
「さっきのダブルスの話。どうせお前等のことだから、くだらない賭け事とかやってんだろ?
あの二人も参加してんのか?」
「ケンタ先輩と陽一先輩か? ああ、メンバーに入っているけど……」
「罰ゲームは?」
「ある。結構ハードなヤツが」
「万単位の借金を背負わされたり、坊主頭にカラースプレーかけられるよりも酷いのか?」
「ああ、俺が今までやらされた中で最悪だ」
「だったら、俺も参加する。この礼はきっちり返させてもらう」
ふるふると肩を震わせ、破れたパンツを握り締める遥希。これはもしかして「棚からぼた餅」というヤツか。思わぬところからパンツ、いや、幸運が降りてきた。
「この調子ならいけるかも……」
怒りで震えるライバルを横目に、透はひとりほくそ笑むのであった。