第35話 グレーのままに

 久しぶりに完敗の屈辱を味わった。
 接戦の末に勝利を逃した試合も未練が残るが、6ゲーム中一度も競り合うことなくあっさり敗北するのも別の意味で悔しさが付きまとう。
 パンツ盗難事件の恨みを晴らすべく復讐の鬼と化した遥希をパートナーに迎え、個々の戦力では優位な立場にいたはずなのに、まさか手も足も出ないとは。
 さすがに唐沢・陽一朗ペアを相手に勝利しようなどと大それた野望はなかったし、三年生の藤原・滝澤ペアにも「もしや」の期待を抱く程度であった。
 しかし二年生ペアの千葉と太一朗に対しては勝算もあったし、勝たねばならなかった。何故なら彼等との対戦で敗北を喫すれば『闇のバリュエーション』で透の全敗が確定するからだ。
 合宿所の長い廊下にひとり佇み、透は全力で悔やんだわりにはしょぼくれた溜め息を吐き出した。
 何が敗因なのか、さっぱり分からない。現時点で挙げるとすれば、遥希とのコンビネーションがまったく噛み合わず、いっそ二対一で挑んだ方がまだやりやすかったという事実だけ。
 やはりダブルスの何たるかを知る唐沢や陽一朗とペアを組むのと、ダブルスに苦手意識を持つ遥希とペアを組むのとでは勝手が違う。試合前夜の簡単な打ち合わせと勝負パンツへの執着心のみで勝てると信じた自分が甘かった。
 合宿所の長い廊下を気抜けた溜め息がまた一つ。但し、今度は少し熱を帯びている。
 己の甘さにも嫌気が差すが、パートナーに対する不満も大いにある。
 いくらシングルス一筋でやってきたとは言え、ダブルスにおける遥希は立ち位置からして素人で、いつもは難なく返せる打球も彼がパートナーの存在を意識していないが為に失点する場面も多々あった。
 透が唐沢とダブルスを組んで間もない頃、最初に叩き込まれたのがポジショニングであったが、こうして自分が逆の立場に立たされてみると、その理由がよく分かる。
 どんなに強固な防壁を築いたとしても、間に多くの隙間があればボールは容易にすり抜ける。まして建られてた場所が的外れとあらば、存在そのものが無意味なばかりか、場合によっては邪魔になる。
 ダブルスの基本はポジショニングであって、戦術云々は二の次だ。
 無論、遥希ひとりが悪いわけではない。子供の頃から英才教育を受けてきた彼なら当然知っているものと思って、ポジショニングの意識づけをしなかった責任は自分にある。この点に関しては、きちんと謝らなければならない。
 透は気持ちの整理をつけると自室に戻った。遥希に対する諸々の不満を抑え、まずは大人の対応をするつもりでいたのだ。この時までは。

 部屋の扉を開けるなり透の視界に飛び込んできたのは、遥希のとなりで涙を拭う奈緒の姿であった。
 一瞬、言葉が出なかった。目の前の状況をどう解釈して良いのか、分からない。
 彼女が泣くほどの事態に陥っていることよりも、もっと別の次元でショックを受けていた。胸の奥からモヤモヤとした不快な感情が込み上げる。
 無様な試合のあとで虫の居所が悪いというのもあるが、それだけではない。前々から少しずつ蓄積されていた“何か”がより一層不快な気分にさせるのだ。
 「お前等、何やってんの?」
 事情を聞くにしては非難めいた言葉が口からついて出た。やましい事などないと分かっているくせに。
 「別に」と遥希がそっぽを向いて、続いて奈緒が「ごめんなさい」と答えにならない答えを返した。
 悪びれる様子のない遥希の態度もそうだが、いきなり謝罪から入る彼女にも腹が立つ。
 「あのね、ハルキ君に相談したいことがあって……」
 「相談って何だよ?」
 「それは、あの……」
 「俺には出来ねえ相談か?」
 「そんなことないけど」
 「だったら、何?」
 彼女が他人の苛立ちに人一倍弱い性格だと知っていながら、わざとせっつくように質問を重ねた。
 ひどく幼稚な振る舞いをしているとの自覚はある。けれど声を荒らげずに話すのが精一杯で、言い方まで気にかける余裕はない。
 人前で滅多に涙を見せない彼女が泣いている。そしてその泣き顔を晒した相手は、自分ではなく遥希であった。
 突然、鼻先に突きつけられた現実に心が乱される。遥希の側で涙する彼女の姿に苛立ちを覚えてしまう。
 たぶん、嫉妬のような単純なものではない。この胸を不快にさせる “何か”は劣等感に近いだろう。
 毎日部活動に明け暮れ、彼氏らしいことは何一つ出来ずに彼女を振り回してばかりいる。その負い目がいつしか劣等感となって心の奥底に蓄積していったのだ。
 先日行われた東京都予選でも、急遽、太一朗の代わりに出場を命じられた彼氏のために休日返上で応援に駆けつけてくれた彼女に対し、対戦相手が幼馴染みの岬だからと言って、弁当だけを受け取り帰るよう促した。
 結局、彼女は光陵学園の応援席に留まり、試合後も何事もなかったかのように一緒に勝利を喜んでくれたが、さぞかし心中は複雑だったに違いない。
 これが遥希であれば、彼女の気持ちにいち早く気づいて一言ぐらいはフォローを入れている。少なくとも自分の彼女をそっちのけで敗北した相手校の部長のフォローに向かうような不義理な態度は取らないし、それを今頃になって気づくようなバカでもない。
 透がますます劣等感に苛まれているところへ、遥希から痛烈な一言が浴びせかけられた。
 「ガキみたいに絡むなよ。
 だいたい、お前は甘え過ぎなんだよ。彼女にも、部長にも」
 「どういう意味だよ?」
 「西村に負け試合の八つ当たりするなって言ってんの」
 「別に八つ当たりなんてしてねえし」
 「ま、八つ当たりでもしなきゃ、やってらんないか。四月からずっと部長の指導を受けてきた結果があれじゃあな」
 「ふざけんな! 誰のせいで負けたと思ってんだよ!? 全部、てめえのせいだろうが!」
 テニスに専心できる遥希には透の抱える負い目やジレンマを知る由もないのだろうが、その点を割り引いたとしても今の発言は許せない。
 三試合ともダブルスに不慣れな遥希のフォローに追われ、思うようなプレーが出来ずに敗北した。それでも彼の能力を上手く引き出してやれなかった非は自分にあると、どうにか心の整理をつけてやって来たのに、当の本人は反省どころか、敗因は透にあると思っているようだ。
 「お前の独りよがりなプレーにどんだけ振り回されたと思ってんだ。自己中野郎が偉そうに上から目線で説教たれてんじゃねえよ!」
 一度は腹に収めた不満が淀むことなく溢れ出す。惨敗を重ねるたびに一つずつ解けていった最後の箍(たが)が今の遥希とのやり取りでプツンと切れたのだ。
 かくなる上は口の悪さを自負する者同士、心ゆくまで罵りあいをしてやろうと鼻息荒く詰め寄る透であったが、遥希の胸倉を掴んで残りの罵詈雑言を吐き出そうとした矢先。
 「トオル、お願いだからもう止めて。ハルキ君、悪くないから!」
 まさに頭から冷や水を浴びせかけられた気分であった。沸点に到達しそうな怒りから一転、寒々とした冷気が体を包み込む。
 「私が勝手に押しかけてきただけで、ハルキ君は何も悪くないの」
 いつもは味方についてくれるはずの彼女が遥希の側についている。心なしか、自分に向けられた視線も敵と相対する時のそれに近い。
 きっと冷静さを保っていれば、この場を収めようとする彼女の必死さが見えたのかもしれないが、いまの透に落ち着いて物事を見極めようとする余裕はなかった。
 「なんで、こいつの肩を持つんだよ?」
 「だって、今日のトオル変だよ」
 「どこが?」
 「試合に負けたからって、人のせいにするなんて、らしくない」
 「お前に何が分かんだよ? テニス部員でもないくせに!」
 言った後からマズイと思ったが、すでに遅かった。今度こそ本当に敵視されている。
 日頃から献身的に尽くしてくれる彼女に対し、言ってはいけない一言を発してしまった。テニス部員でもない彼女を、毎回、部の行事に付き合わせているのは他ならぬ透自身だというのに。
 「あっ、いや、ごめ……」
 「そうだよね。部外者の私なんかに口出しされたら気分悪いよね」
 謝罪を口にするより先に彼女の掠れた声が覆いかぶさった。
 目に涙をいっぱいに溜めて、声も震えているが、その立ち姿は凛としている。
 彼氏の前で女の武器を使うは禁じ手だと思っているのか。泣き崩れることなく透を睨みつける彼女が知らない女に見えた。
 「この間の京極さんと諒ちゃんとの試合だって、私がいると集中できないから帰って欲しかったんでしょ?」
 「いや、違うって」
 「邪魔なら早く言ってくれれば良かったのに。最低……」
 「最低って……お、俺!?」
 心優しい彼女から強烈なパンチを喰らい、唖然とする透の傍らをパタパタと足音が通り過ぎていく。
 一体、何がどうしてこうなったのか。「最低」の一言が胸に突き刺さり、目の前の現実を受け入れられない。
 パニックに陥りかけた透の頭に昨夜の藤原の台詞が雷鳴のごとく鳴り響く。
 「こっちの気持ちを伝えていないばっかりに、彼女が勝手に冷めたと思い込んで、突然『別れましょう』なんて言われてみろ。マジ、洒落になんねえぞ」
 ひょっとしたら、いま自分は藤原がいうところの「洒落になんねえ」状況に置かれているのではあるまいか。
 些細な行き違いが別れ話に発展するのはよくある話で、つまりはこうした痴話喧嘩がもとで別れる恋人達が世の中にはごまんといるということだ。
 ここは悠長に傷心している場合ではない。泣きながら出ていった彼女のあとを追いかけなければ。
 合宿所で奈緒が駆け込むとすれば、親友の塔子のところに違いない。そう思って部屋を飛び出した直後、さらなる不幸がヘッドロックとともに襲いかかった。
 「よう、トオル! 迎えに来たぜ。
 罰ゲーム、忘れちゃいねえよな?」
 首根っこを押さえられているので顔は見えないが、この声は二年生の千葉である。
 「あっ、はい。覚えていますけど、今はそれどころじゃ……」
 「光陵テニス部の最大の謎を解き明かすことより大事な用事があんのかよ」
 「いや、俺にとっては、こっちのほうがメチャメチャ大事で……」
 「往生際が悪いぞ。お前も男なら約束は守れよな!」
 男としてなすべきことは他にもあるにもかかわらず、透の体はずるずると逆方向へと引きずられ、三つとなりの部屋の前まで来ると有無を言わさず放り込まれた。
 「あら、いらっしゃい。坊やのほうから訪ねてくるなんて、どういう風の吹き回し?」
 まるで菩薩のような神々しくも得体の知れない笑みに、透の背中が凍りついた。

 代々、光陵テニス部員が合宿所を「テニス村」と評するとおり、透たちが寝泊りする部屋はテレビもなければ調度品と呼べる家具もなく、単にベッドと簡易クロゼットが置いてあるだけのシンプルな造りである。
 早い話が、扉を開けて真っ直ぐ進めばもれなくベッド・インできるレイアウトになっており、滝澤はそのベッドの上でゆるりと読書の最中だった。
 ここで謎解きをするのは、かなり危険を伴う行為である。しかも滝澤と同室の千葉に押し込まれたということは、十中八九、助けは来ない。扉の向こうでは千葉が余計な邪魔が入らぬよう張りついているに違いない。
 光陵テニス部の七不思議の一つにして最大の謎。滝澤は男として男が好きなのか。女として男が好きなのか。
 これを解明せぬ限り、この怪しげな空間で二人きりの時間を過ごさなければならない。
 正直なところ、滝澤がどんなリアクションを取るのか見当もつかなかった。少なくとも今さら後輩から性別を問われて笑顔で答える可能性は皆無だろうが、この先輩が不快感を露にする姿が浮かばない。
 何はともあれ、ここから脱出するには任務を遂行するしかない。透は腹をくくると、深めに息を吸い込んだ。
 ところがそのタイミングを見計らったかのように、滝澤のほうから核心に触れてきた。
 「これは『闇のバリュエーション』がらみの余興か、何か?」
 「えっ……知っていたんッスか?」
 「当然よ。坊やがハルキとダブルスなんて、普通じゃ考えられないもの。
 それにテニス部内で起きていることは、大抵、僕の耳に入ってくるの。立場上、必要な情報は部長に報告しなきゃならないし」
 「じゃあ、罰ゲームの内容もご存知とか?」
 「さあ、何かしら?」
 ここまで情報通をひけらかしておいて、肝心の謎については知らん顔を通すのか。あるいは、こちらの出方を探っているのか。
 滝澤の菩薩のような笑みがますます不気味さを増している。
 「何にでも興味を持つのは悪いことじゃないわ。情報交換だと思えば、お互い有意義な時間になるはずよ」
 滝澤が読みかけの本をベッドの脇へ押しやると、つと立ち上がった。
 「情報交換……?」
 この先輩が意味不明なことを口走った時は、絶対に聞き返してはならない。過去にもそれで散々ひどい目に遭っているにもかかわらず、透はまたも同じ失敗をやらかした。
 だがしかし、今回は逃げ切る自信があった。
 中学時代の経験から滝澤の行動パターンは読めている。
 彼は正面から迫る振りをして、相手が怯んだ隙に背後から伸ばした腕で逃げ道を塞ぎつつ獲物を捕獲する。したがって、彼の腕の長さを二人の間合いとすれば捕まることはないのである。
 透は滝澤が近づいた分だけ後ろへ退き、常に一定の距離が保てるよう細心の注意を払った。
 じりじりと詰め寄られるたびに、ずりずりと後ろへ下がる。地味な防御策ではあるが、こうしていれば身の安全は保証される。
 耳元に息を吹きかけられただけで腰を抜かした昔とは違う。アメリカではもっとアクの強い仲間と過ごしていたのだ。これぐらいの防衛戦は朝飯前である。
 ところが、この三年間で成長したのは透だけではなかった。
 幾度となく地味な攻防を繰り返しているうちに、適切な間合いが取れなくなった。逃げ道となるはずの後方、ちょうど透のふくらはぎの辺りにマットのような質感のものが当たっている。
 この部屋のシンプルな造りから考えて出てくる答えはただ一つ。どうやら透は知らず知らずのうちに、もう片方のベッドの際へ誘導されていたらしい。
 「一方的な質問はフェアじゃないでしょ? 僕が知りたいのは、そうねえ……」
 菩薩の笑みをたたえた滝澤がじりじりと近づいてくる。ベッドを背にした透に逃げ場はない。
 「坊やがアメリカでどんなお勉強をしてきたのか。まずはそこから教えてもらおうかしら?」
 体中のあらゆる箇所が自分の意思とは真逆の反応を示している。助けを呼ぼうにも恐怖のあまり喉は貼りつき、逃げ出そうにも足は震えて動かない。
 「そんなに硬くならないで。大丈夫、痛くしないから」
 滝澤が悩ましげな台詞とともに人差し指を透の唇につんと押し当て、輪郭を辿るようにゆっくりと触れていく。
 口づけを迫られている訳でもないのに、その行為がひどく卑猥に思え、透は後ろにのけ反った。次の瞬間、ふくらはぎに感じたものと同じ質感を背中に覚えた。
 滝澤の菩薩顔が目の前にあり、彼の肩越しに部屋の天井が見えている。この構図から推察できる体勢は一つしかない。
 男が男に押し倒される。生まれて初めての経験に、透はたとえようのない恐怖を感じた。
 「た、た、た、滝澤先輩?」
 「知りたいんでしょ、僕のこと?」
 「いや、あの……」
 頭の中が天井の蛍光灯の光よりも白かった。両腕はベッドに押さえつけられ、下半身の自由も利かず、気分はまるで今から解剖されるカエルのようである。
 この危機的状況をどうやって回避すれば良いのか、皆目見当もつかないが、ひたひたと迫り来る恐怖と絶望の中で透はある重大な事実を思い出した。
 同じ宿舎の中に奈緒がいる。万が一、こんなところを彼女に見られでもしたら――。
 可能性は低いだろうが、あり得ないことではない。滝澤はよくマネージャーの恋愛相談にも乗っているし、塔子の仲介で奈緒と二人で訪ねてくるケースも考えられる。
 キスから進展を見せない彼氏が他の男とベッドの上でそれ以上の深い関係になっていた。そんな紛らわしい現場を見られでもしたら、口喧嘩の謝罪だけでは終わらない。場合によっては、言い訳する間もなく「さよなら」だ。
 最悪の結末から逃れるためにも、ここは体育会系の厳しい序列より我が身を優先しなければ。そう決心して事を起こそうとした、まさにその時。突然、部屋の扉が開いた。
 「バカ! 入ってくんな……って、あれ?」
 最悪の結末を恐れるあまり、思わず怒声を浴びせた扉の向こうには唐沢が立っていた。コートの外で彼の存在を心強く思うのは久しぶりのことである。
 「悪い、取り込み中だったか。邪魔なら出直すか?」
 「なに言ってるんですか? 助けてくださいよ!」
 「今、『入ってくるな』って言わなかった?」
 「嘘です! 間違いですッ!」
 「俺、後輩に『バカ』って言われたの、初めてなんだけど?」
 「ゴメンなさい。謝ります。何でもしますから助けてください!」
 「でも滝澤の意見も尊重しないと」
 「何でこんな時だけ真面目なんッスか!?」
 唐沢の姿を認めて安堵したのは早計だった。彼は涙目で訴えかける後輩に動じることなく、あくまでも公平に接している。
 「滝澤、どう思う?」
 「そうねぇ。もうちょっと坊やの反応を楽しみたい気もするけど……。
 あら、もしかして妬いているの?」
 「俺は部活とプライベートを分けて考える主義だから。部員が休み時間をどう過ごそうが口出すつもりはない」
 先輩二人の会話は完全に透の存在を無視して進められていた。
 ベッドの上で後輩を押さえつけ、馬乗りになった状態で平然と話を続ける滝澤と。その滝澤に対して、同じく平然と向き合う唐沢と。
 どうせなら両腕だけでも解放してもらいたいものだが、残念ながら透の哀れな姿は彼等の眼中にはないようだ。
 「僕としてはもっと積極的に口出ししてもらっても良いのだけど」
 「あいにく言えた義理じゃないからな」
 「まだ忘れられないの?」
 「いいや、とっくに忘れた。ただ、すぐにまた思い出す。それだけだ」
 「そう……」
 透の頭上で交わされる会話のリズムが途中で変わったような気がした。いつもの軽口とは違う。何か重苦しいものが行き来している。
 だが、その違和感もほんの束の間、次の瞬間には全て元通りに戻っていた。先輩二人の間に漂う妙な空気も、貞操の危機に晒されていた透自身も。

 部屋を出るなり、唐沢の説教が始まった。
 「お前、『闇のバリュエーション』で全敗したのか?」
 「はい。すみません」
 「廊下でケンタが張りついていたから、そんなことだろうと思った」
 さすが『闇のバリュエーション』の創始者ともなれば、部員の行動一つで何でもお見通しのようである。
 「まったく、お前たちは合宿の意義を分かっているのか?」
 「すみません。でも、お言葉を返すようですが……」
 厳しい口調に圧されて頭を下げたが、元を辿れば納得のいかないものがある。
 「『闇のバリュエーション』って、唐沢先輩が始めたんスよね?」
 「タ〜コ! 俺が仕切っていた頃はもっと実りある賭けだった」
 「実りある賭け、ですか?」
 「ああ、ギャンブルとは本来、虚実を賭けて争う真剣勝負だ。勝者には大いなる利益がもたらされるが、負けた者には何も残らない。捨て身の勝負にこそ美学がある。
 お前等のように勝者も敗者も虚しいだけの勝負はギャンブルとは呼ばない。せっかく俺が苦労して築き上げた『闇のバリュエーション』の品位を落とした罰はきっちり受けてもらうからな。覚悟しろよ。
 それより滝澤のことだが……」
 そもそも唐沢が考え出した傍迷惑な催し物に品位が存在するとは思えぬが、先輩の一段落とした声のトーンでここからが本題だと察した透は、大人しく続きを聞いていた。
 「物事には白黒つけないほうが良いこともある。そうは思わないか?」
 「有耶無耶ってことですか?」
 「どちらかと言うと、曖昧?」
 「正直、よく分からないです。
 確かに今回の罰ゲームはやり過ぎだったと思いますけど、曖昧にしたまま放っておくっていうのも何だか寂しい気もするし。関わりを避けているみたいで」
 「その辺りの線引きは難しいけどな。ただ人には安易に立ち入って欲しくない領域がある。
 お前にだってあるんじゃないのか?」
 先ほど唐沢がすぐに助けに入らず焦らしていたのは、お仕置きの意味も含んでいたのだろう。初めての合宿で浮かれて、悪ふざけが過ぎたのかもしれない。
 「俺、滝澤先輩にちゃんと謝ってきます」
 「いや、今はそっとしておいたほうが良い。と言うより、本当に謝罪が必要なのはお前じゃない」
 「それって、どういう……?」
 唐沢はその問いかけに答えることなく、黙って前を歩き始めた。
 これも一つの答えということか。
 白黒つけずにそっとしておく。人にはそんなスペースが心のどこかに必要なのかもしれない。自分に対しても、他人に対しても。

 唐沢に連れられ自室に戻った透だが、さすがに遥希と目を合わせづらかった。冷静になった頭で考えれば、九対一の割合でこちらが悪い。
 『闇のバリュエーション』で思うような結果が出せなかったからと言って些細なことで腹を立て、敗戦の責任をパートナーになすりつけた挙句、止めに入った彼女とも喧嘩になる始末。さぞかし向こうは幼稚な奴だと思っているだろう。
 だが唐沢は挙動不審の透には目もくれず、部屋に入るなり捲くし立てた。
 「これから『闇の光陵杯』を行なう。
 俺が直々に実りある賭けの正しいあり方を教えてやるから、『闇のバリュエーション』の参加者を一人残らず呼んでこい!」
 グレーの話をした時の思慮深い部長の姿は影を潜め、代わりに悪魔の微笑を浮かべた性質の悪いギャンブラーがそこにいた。






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