第37話 カリスマ部長と呼ばれた男

 久しぶりに本物の青空を見た。晴れているのか、曇っているのか分からない、中途半端な水色ではなく、群青色が空からズドンと落ちてくるような。
 昨日の夕立が不純物を洗い流してくれたおかげだろう。宇宙との境目が見えるほど空気が澄んでいる。
 透は雲ひとつない紺碧の空を仰ぎ見て、瑞々しい空気を胸一杯に吸い込んで、「はぁ……」と一息。深呼吸が溜め息へと変化するのを自覚した。
 光陵テニス部随一の野生児が、マイナスイオンたっぷりの大自然に囲まれていながら朝から溜め息まみれになる理由はただ一つ。
 あれから奈緒と話をしていない。仲違いをしたままなのだ。
 実際、どうすれば良いのか見当もつかなかった。
 いつも誠心誠意尽くしてくれる彼女に対し、心ない言葉を発してしまった。
 「お前に何が分かんだよ? テニス部員でもないくせに!」
 たまたま虫の居どころが悪かったとか。それまで蓄積されていた劣等感やら罪悪感やらが嫉妬と相まって、最悪のタイミングで爆発したとか。
 あらゆる言い訳をもってしても、あれは百パーセント自分が悪い。
 責められる謂れのない彼女を傷つけておいて「ごめん」の一言で許してもらえるとは思えない。だからと言って「ごめん」以外の持ち合わせもなく。
 ありのままを話そうにも考えなしに話した結果がこれかと思うと、最初の一歩が踏み出せない。
 結局、悩んだ末に出てくる答えは、目の前に広がる青空とは対照的な重苦しい溜め息ばかりである。
 こうなってみて初めて気づいたことだが、今まで奈緒とは喧嘩らしい喧嘩をした覚えがない。付き合う前はもちろん、その後も。
 基本的に彼女は自分で物事を決めるのが苦手なタイプで、大抵のことは透の意のままに進められ、いつしかそれが二人のスタイルになっていた。
 たまに訳の分からないことで彼女が拗ねたような素振りを見せるが、理由を聞くまでもなさそうなので放っておくと、いつの間にか機嫌が直っている。初デートの時もそうだった。
 今にして思えば、彼女にもいろいろと不満があったのかもしれない。
 部活動中心の慌ただしい生活の中で、せめて二人でいる時は楽しい時間を過ごそうと、なるべく衝突を避けてきた。
 そもそも今の生活も、透にとっては当たり前でも、彼女がどう思っているのか確かめたことがない。こんな付き合い方で満足しているのかも。
 聞いたところで変えられないと有耶無耶してきた不具合の数々が、ここへ来て表面化したのだろう。透に痛烈なダメージを与えた「最低」には、彼女がこれまでしてきた我慢がたくさん詰まっていたに違いない。
 「どうすっかなぁ……」
 どうするも何も謝るしか解決しようもないのだが、行動を起こそうとするたびに「最低」の一言が頭をよぎり、二の足を踏んでしまう。
 「あれって、やっぱ俺のことだよな。そうだよなぁ」
 今さら考えても仕方のないことで悶々としていると、ふいに背後から声をかけられた。
 「聞いたわよ。今度は北斗先輩のOBチームと対戦ですって?」
 「あ、滝澤先輩……」
 透が謝らなければならない人物がもう一人。『闇のバリュエーション』の罰ゲームの犠牲となった滝澤だ。
 「ハルキとペアを組むんでしょ? 彼はシングルスのつもりでセンターへ戻ろうとする癖があるから、まずはダブルスの立ち位置から意識づけをしないと苦しくなるわよ」
 「あの、滝澤先輩? 俺、先輩に謝らなきゃ……」
 「それと、前衛に回った時、後ろを振り返るくせも早めに直した方が良いわね」
 「昨日のこと……」
 「八の字ドリルを応用した新しい練習方法があるのだけど、試してみない?」
 こちらが謝罪を切り出そうとするたびに、はぐらかされる。それを何度か繰り返しているうちに、透は昨日の唐沢とのやり取りを思い出した。
 グレーのままに ―― たぶん、滝澤が望んでいるのは謝罪の言葉ではない。触れずにおくことが、今の彼にとっては謝罪の代わりとなるのだろう。
 「滝澤先輩? その八の字ドリルを応用した新しい練習法、詳しく教えてください」

 八の字ドリルとは、二本のカラーコーンをプレイヤーの両脇に置いて、それを中心に八の字を描くように移動しながらボールを打ち返す練習法で、光陵テニス部ではフットワーク練習の基礎固めとして毎回メニューに取り入れている。
 滝澤の提案はこの八の字ドリルを応用し、カラーコーンをダブルスの前後衛の守備範囲に設置して、フットワーク練習の中でポジショニングの意識づけを図るというものだ。
 頭で分かっていても、昔からの習慣が染みついて、実践では思うように動けないこともある。また自分では動いているつもり、といった選手自身の思い込みも意外に多い。
 この練習法なら自分の目で随時立ち位置を認識できるし、視覚と体感の両方から学習できるので、テニス歴の長い遥希には最適な練習法かもしれない。
 「もともとハルキはシングルス・プレイヤーとして育てられているから、ダブルスの視野の広さに慣れていないのね。
 後衛にいる時は相手の後衛と打ち合うことばかり考えて、前衛の動きが視界に入っていないし、前衛にいる時は自分が抜かれたボールの行方が気になって、敵の動きを見るべき時に後ろを向いている。その無駄な動きが隙を作るのよ。
 ダブルスで基本となるのは、正しい立ち位置と適切な視点。これを体で覚えてもらわなきゃ、うちのOBには勝てないわ」
 「俺も最初に唐沢先輩からポジショニングを叩き込まれていなければ、ハルキと同じところで躓いていたんですね」
 「ええ。あとは段階に応じてコーンの位置を調整すれば、上級者レベルのフォーメーションもじきにマスターできると思うわ。
 どう、気に入ってくれたかしら?」
 「助かりました。ホント、ありがとうございます!」
 「良かったわ。ついでに、もう一つ。
 北斗先輩を侮らないほうが良いわよ。僕が知る限り、彼は最強のプレイヤーよ」
 それまで穏やかだった滝澤の口調が物々しいものに変わる。
 「最強のプレイヤーですか? それって唐沢先輩よりも、成田先輩よりも強いってことですよね?」
 「ええ、そうよ。技術的にはあの二人のほうが上かもしれないけどね。その他の部分、特にメンタルの部分で、彼は群を抜いているわ」
 初めは半信半疑で話を聞いていた透だが、メンタルの強さと言われれば思い当たる節がある。
 唐沢の幼馴染みの一件で北斗の大学を訪ねた時も、あまりの我の強さに閉口した覚えがある。
 あの傲慢な態度をメンタルの強さとひとくくりにして良いかは別として、決してぶれることのない、他人の意見に惑わされることもなければ、端から耳を傾けるつもりもない、清々しいまでに自己中心的な考え方は確かに群を抜いている。
 「今でこそ『伝説のカリスマ部長』なんて呼ばれているけど、それは彼が引退してからの話。在学当時はひどい言われ方をしていたわ。
 例えていうなら、彼は織田信長ってところかしら?
 既成のものを壊すのに、彼は躊躇がないの。だから上級生からレギュラーを選ぶという部の伝統も簡単に破って、当時一年生だった成田と海斗にダブルスを任せた。
 でも、他の二、三年生から猛反対されてね。結局、全員が納得する方法を模索して、考え出されたのが今のバリュエーションなのよ」
 以前、成田からも似たような話を聞いたことがある。テニス部内の改革に着手した当時は二、三年生からの風当たりも強く、あらぬ噂を立てる者もいたという。
 「もともと北斗先輩はテニススクールに通わずに、自己流でテニスを始めた人なの。だから他の部員達からは素人部長の浅知恵だと非難を浴びて、それを日高コーチが諭すと、今度は『コーチの飼い犬』だと言われてね。
 おまけにレギュラー入りさせた新人の一人が弟の海斗だったから、身内贔屓としか見られなくて。ブラコンだの、バカ兄だの、もう散々な言われようだったのよ」
 「ひどいッスね」
 「ええ、本当に。だけど本人はケロッとしていたわ。周りが拍子抜けするぐらいに。
 きっと彼は何かを失うことを怖いと思わない人なのね。地位も、名誉も、信頼も。普通、人の上に立つ人間が拠りどころにしそうなものに一切興味を示さない。
 たまたま目指す方向に前例がないから、彼が先頭に立っただけ。
 だから彼の興味は常にどれだけ目標に近付けたか。そこにしかないの。
 ひたすら前進することのみに全力を傾ける。北斗先輩はそういう人よ」
 滝澤の話を聞きながら、透はコート上で自分と対峙する北斗の姿を思い描いた。
 失敗を恐れず、ひたすら勝利に向かって淡々と前進を続ける。そんな強靭な精神力の持ち主が対戦相手となると、こちらも相応の覚悟をもって臨まなければ勝利は掴めまい。
 急に口数の少なくなった透を気遣ったのか。滝澤が口調を和らげた。
 「失うことを恐れない相手も厄介だけど、逆境に立たされてから力を発揮するタイプも嫌なものよ」
 「それって、俺のことですか?」
 「正確には貴方たち。負けず嫌いの貴方たちなら望みはあるわ。頑張って!」
 「滝澤先輩、いろいろありがとうございます」
 「これはほんの気持ち。昨日のこと、他の皆には内緒にしてくれたでしょ?」
 「は、はい! 俺、誰にも言ってません……ってか、もうとっくに忘れていますから!」
 「ありがとう。その素直さが坊やの武器よ。大事にしなさいね」
 そう言ってから、滝澤はいつものように悩ましげなウィンクを残して軽やかな足取りで去っていった。


 『闇の光陵杯』の一番手である千葉と陽一朗が奮闘してくれたおかげで、透と遥希はダブルスの練習に専念することが出来た。
 だが、それも長くは持たず、対戦三日目でOBチームの中堅に敗北を喫した彼等は、試合後、OBが寝泊りする宿舎のトイレ掃除、風呂掃除、買出しと夕食当番に至るまで多くの労働を強いられ、夜遅くにボロ雑巾のようになって帰ってきた。
 次はいよいよルーキー二人の出番である。
 合宿用とダブルス用の両方の練習メニューをこなした体で、北斗のサークルが活動拠点とする施設へ向かおうとした時だ。
 唐沢が珍しく困惑した表情で、携帯電話を片手に後を追ってきた。
 「いま兄貴から連絡があって、三組目と四組目のOBは棄権だそうだ」
 「……ってことは、いきなり北斗先輩と?」
 いずれは対戦する気でいたものの、初っ端から大将が相手となると、さすがに気後れしてしまう。
 「兄貴の話じゃ、どうも食中毒だそうだ。それも人為的な」
 唐沢の含みのある言い方で、透も遥希もピンと来た。
 昨日の夕食には千葉と陽一朗が調理に携わっている。唐沢の困惑顔は、OBの宿舎で起きた食中毒がヤンチャな後輩二人の仕業と睨んだからである。
 「だったら、先輩達の体調が落ち着くまで延期しても良いッスよ」
 真面目な遥希らしい申し出を、唐沢はあっさり跳ね除けた。
 「いや、延期したところで結果は同じだろう。今のお前等なら大将までは辿り着く。向こうも続行を希望しているし、遠慮なく暴れてこい」
 「あの、唐沢先輩?」
 「なんだ?」
 「北斗先輩は大丈夫なんッスか?」
 これは透の素朴な疑問であった。他のOBはコートに立てないほどのダメージを受けているというのに、北斗は問題ないのか。
 「ああ、心配ない。うちの兄貴は試合前になると、栄養バランスと体調を考えて、三食とも自分で調達、調理したものしか口にしない」
 「マジですか?」
 「だから言っただろう。兄貴は勝負事に関して容赦のない男だって。
 たとえそれが非公式の練習試合であっても、勝負である以上、手は抜かない。
 お前たちも足をすくわれないよう気をつけろ」
 彼にまつわる様々な武勇伝を聞いて、それなりに覚悟はしていたが、北斗の行動は透の想像をはるかに超えている。
 普段、滅多に物怖じしない透と、子供の頃から多くの猛者と渡り合ってきた遥希。二人の間に緊張が走った。
 だがしかし、敵将を前にして退いては現役チームの名折れである。「今年の光陵、ナメんなよ」と啖呵を切った手前、やるしかない。
 唐沢のインターハイ優勝にかける想いと「気を抜くな」の忠告と。この二つを胸に、二人は宿舎を後にした。

 北斗の合宿所は険しい山道を下った麓にあるために、透と遥希の二人は歩いて行かなければならなかった。
 その道すがら、遥希が世間話をする時のような“さり気なさを装った唐突さ”で切り出した。
 「あれから話してないのか?」
 対象者の名前もなければ脈絡もなかったが、透には何の話か、察しはついた。
 「うん、まあ……」
 「俺から言うのもどうかと思って、黙っていたんだけどさ。西村の相談って、弟の和紀のことだから」
 「和紀の?」
 「ああ。あいつ、サッカー部の連中と折り合いが悪くてさ。たまにだけど、相談に乗ってた」
 「なんでハルキに?」
 「一応、中等部じゃ部長やってたから、運動部の内部事情はだいたい知っているし。それに……」
 そこで遥希が言い淀んだように見えたが、すぐに元の口調に戻った。
 「お前、そういうの疎いだろ?」
 「鈍感だって言いてえのか?」
 「違うって。中等部の内部事情に疎いって言ってんの。
 お前、中学時代どこにいたんだよ?」
 突如として、透の脳裏に合宿初日の夜、奈緒と交わした会話が甦る。
 あの時、何となくだが彼女の話し方に歯切れの悪さを感じた。感じたくせに、いつものように放っておいた。
 察するに、合宿に遅れた理由も弟の和紀の一件が絡んでいたのだろう。
 これでようやく合点がいった。
 奈緒が中等部に在籍する弟の問題を透に相談できなかった理由。なぜ遥希が透に対して素っ気ない態度を取っていたのかも。
 透に三年間の不在を負い目に感じさせないよう気遣っていたのである。
 「ごめんな、ハルキ。ほんと、ごめん。
 俺、そんなこと考えもしなかった」
 何のわだかまりもなく口にした謝罪を、言葉通りに受け止めてくれたのだと思う。遥希が少し間を置いてから、やんわりと諭すように言った。
 「謝る相手が違うだろ?」
 「でも、ハルキにも……ごめん」
 「もう良いよ。それより帰ったら、ちゃんと彼女と仲直りしろよ」
 「分かった」
 昨日の夕立のせいか。OBの合宿所へと続く山道はどこもかしこもぬかるみが激しく、とくに道の端のほうは日陰とあって、足を取られるほど土が柔らかくなっていた。
 こういう時はなるべく道の真ん中の乾いた個所を選んで通るのが常識だが、都会育ちの遥希は平然と端を歩き続けている。
 「あのさ、ハルキ? この状況でそこを歩くのは自殺行為だぞ」
 「うん、分かってんだけど……」
 「お前、試合前に転ぶなよ?」
 「分かっているって」
 どこからどう見ても現状を分かっているようには見えないが、相変わらず遥希は道の端を歩き続けている。
 「俺さ、小さい頃から公園とかで遊んだ記憶がないんだよね。
 だから泥遊びとか、こうやって靴が泥に埋まる感じ? ほら、カポッて抜ける音とか。
 何か新鮮で……」
 弾んだ声で泥の感触を伝えようとするライバルがいつになく幼く見えた。
 幼少の頃から人とは違う道を歩かされてきたために、心に不安を抱える遥希。その中には子供なら当然するはずの楽しい体験も含まれているかと思うと、無理に止めさせるのも酷な気がして、透は少しずつ歩を緩めた。
 道端の泥を靴で掻き回しながら、遥希がふたたび“さり気なさを装った唐突さ”で切り出した。
 「今度会った時は、ぜってえ倒してやるからな! 首洗って待っていろよ!」
 「えっ? ハルキ、なに言って……?」
 「俺が何て言ったかは覚えていないけど、お前がそうやって馬鹿デカい声で叫んでたのは覚えている。
 『絶対だかんな、ハルキ! 忘れんなよ!』って。
 だから、俺も楽しみにしてた。お前と合宿行くの」
 下を向いているので表情までは見えないが、きっと遥希は耳まで赤いはず。
 子供染みた泥遊びも照れ隠しのカムフラージュか。
 合宿初日の朝、何を聞いても「バッカじゃないの!」で済ませていた彼の本音が少しずつ明かされていく。
 「実はさ、風呂当番と部屋割りの話もわざとなんだ」
 「わざとって?」
 「わざと黙っていた」
 「なんで!?」
 一度に多くの事件が起こり過ぎて、すっかり記憶の片隅に追いやられていたが、確かにこの件については一言文句を言おうと思っていた。
 部屋割りはともかく、せめて過酷な労働ぐらいは事前に教えて欲しかった。
 だが透が文句をいうより先に、遥希が必死な形相で畳みかけた。
 「だって! 俺と同室なんて嫌がるに決まっているし、それに風呂当番までさせられるって分かったら、合宿に来ないんじゃないかと思って。
 だから……! だから、言い出せなくて……ごめん……」
 最後は消え入りそうな声で言ってから、遥希はばつの悪そうに俯いた。足元のぬかるみを靴の先で突いては、チラチラとこちらの反応をうかがっている。
 普段の強気なライバルはどこへやら。透にはそのギャップが可笑しくて、再燃したはずの初日の怒りはすっかり冷めていた。
 「駄目だ、許さねえ」
 「やっぱ、そうだよな」
 「ああ、そんなことで俺が合宿サボるなんて、あり得ねえだろ?」
 「えっ?」
 「俺だって楽しみにしてたんだぜ。三年前から、ずっと。
 俺が日本を出発する日と、テニス部の合宿が重なって。俺は嫌々空港へ行かなきゃなんねえのに、こいつは合宿へ行けると思ったら、最初は腹が立った。
 だけど家の前で申し訳なさそうにしているお前見てたら、いつか絶対一緒に行こうって。一緒に行ってやるって。
 あれから、ずっと。ずっと、ずっと、お前と一緒に合宿行くのが夢だった」
 「本当に?」
 「こんなんで嘘ついてもしょうがねえだろ?」
 きっと遥希は周りが思うほど、クールでも大人でもないのかもしれない。ただ人よりも少し不器用で、気持ちを伝えるタイミングが遅いだけなのだ。
 安堵したように微笑むライバルが、透には今までで一番愛おしく、この上なく大切な存在に思えた。

 「兄貴は勝負事に関して容赦のない男だ」
 唐沢の忠告を改めて実感したのは、二人が北斗の合宿所に足を踏み入れた直後のことである。
 「やっぱ、二番手はお前等か。んじゃ、VIP専用コートに案内してやる」
 いかにも恩着せがましい台詞と共に連れて行かれたその場所は、人工芝に砂を撒いた「オムニコート」と呼ばれるコートであった。
 「まさか、オムニでやるんじゃ?」
 コートのサーフェス(=表面の材質)を認めた途端、遥希の顔色が変わった。
 「不満か? まあ、あったとしても却下だけどな」
 「ハードコートもあるのに、なんでわざわざオムニで?」
 光陵学園の高等部は全面ハードコートで、現役生はもちろん、OBもそっちの方が慣れている。それにもかかわらず、なぜ北斗はオムニコートを指定するのか。
 訝しげな顔を向ける遥希に対し、北斗がどこかで見覚えのある悪魔的な笑みを浮かべて答えた。
 「理由を教えて欲しいか?」
 「ええ、先輩の嫌がらせでなければ」
 「オムニは俺が最も得意とするサーフェスだからだ」
 「そんな……。だったら、せめて俺達に調整時間をくださいよ」
 「それも却下。俺は試合をするというから時間を割いたのであって、お前等の幼稚なラリーに付き合う義理はない」
 懸命に食い下がる遥希には申し訳ないが、透はオムニコートでの経験がないために、何が問題なのかさっぱり分からない。北斗がオムニコートを強く主張するメリットも、それに対して遥希が異を唱える理由も。
 透の困惑顔を見て取って、遥希が北斗から顔を背けるようにして耳元で囁いた。
 「俺達が普段練習で使っているハードコートと違って、一般的にオムニは球脚が遅いはずなんだけど……」
 「だけど?」
 「オムニの厄介なところは、その特徴が均一じゃないんだ。
 場所によってはグラスコート並みに球脚が速い場合もあるし、砂の量や、コート整備の前と後とでも違ってくる」
 「要するに同じオムニでも場所によって千差万別で、初めてここでプレーする俺等はメチャメチャ不利ってことか?」
 「ああ、反対にここで毎日練習している北斗先輩はメチャメチャ有利ってこと。おまけにオムニは得意なサーフェスらしいし」
 「それじゃあ、VIPでも何でもねえじゃんか! 元部長のくせして、こんな卑怯な真似して良いのかよ!?」
 ようやく事態を把握した透はすぐさま食ってかかったが、当の北斗は悪びれるどころか、ふんぞり返っている。
 「まったく最近の高校生は礼儀がなってねえな。
 良いか? お前等は先輩の胸を借りて試合をさせてもらっている肩身のせま〜い後輩の立場。
 俺等は未熟な後輩の下手くそなプレーに付き合わされている上に、タダで試合会場まで提供してやっている感謝されるべき先輩の立場。
 普通は『先輩のお好きなコートでやらせていただきます』と、謙虚に頭を下げてお願いするのが筋ってモンじゃねえのかよ?
 それとも、何か? お前等がコート代を全額払ってくれるのか?」
 まるで事前に用意していたかのようにスラスラと飛び出す屁理屈に、さすがの透もそうとは分かっていても口を差し挟むことさえ叶わず、黙るほかなかった。
 この黒いものを堂々と白と言ってのける荒業には、やはり兄弟の血の繋がりを感じざるを得ない。
 「第一、世話になった先輩のメシにピンクの小粒をぶち込むような無礼な奴等から、卑怯者呼ばわりされる覚えはない」
 「ピンクの小粒って、もしかして?」
 皆まで聞かずとも、それが人為的食中毒の全容であることは察しがついた。
 恐らく千葉と陽一朗は過酷な労働から逃れたい一心で、『闇の光陵杯』が継続不能となるよう画策したに違ない。その結果、OBの夕食にピンクの小粒を混入するという犯罪すれすれの妙案に行きついた。
 ところが北斗のほうが一枚上手で、彼は二人の所業を見逃す代わりにオムニコートでの試合を迫っている。前の二組を棄権させても良いというのだから、よほどの自信があるのだろう。
 思わぬところで弱みを握られ、閉口する二人の前で、さらに北斗が聞き捨てならない話題を持ち出した。
 「お前等、確か一年だったよな? そう言えば、成田と海斗が一年の時も『闇の光陵杯』に参加させたんだが……」
 目標とする成田の名前を出され、遥希がピクリと反応した。
 「それって、ダブルスですか? 結果は?」
 「ああ、先発で全勝だった」
 無論、唐沢を目標とする透も無関心ではいられない。
 「先発で全勝って、二人でOBを全員倒しちゃったってことですか?」
 「まあな」
 北斗が弟とそっくりの笑みを浮かべ、わざとらしく言い足した。
 「因みに、あいつ等もこのオムニでやった。本当に実力のある選手はコートのサーフェスごときでガタガタ文句を言わねえもんだ。
 ああ、気にするな。成田と海斗は特別だから。お前等凡人とは違うから」
 成田と唐沢が新人の頃の噂は時おり耳にする。どれも光陵学園始まって以来の最強ダブルスだったという話だが、まさか大学生を打ち負かすほどとは思わなかった。
 過去にも『闇の光陵杯』が行われていたにもかかわらず、その存在が他の部員達に知られていないのも、先発の二人で片をつけていたからだ。
 「なあ、ハルキ?」
 「ああ、分かっている。ここまで言われたら、やるっきゃないっしょ」
 「決まりだな」
 負けず嫌いのルーキー二人と、光陵テニス部の伝統を塗り替えた元部長との真剣勝負が、波乱だらけのオムニコートで始まろうとしていた。






 BACK  NEXT