第39話 負けず嫌いの逆襲

 「それ、マジでやるつもり?」
 ゲームメーカーの透の立場を尊重して確認の意味合いを強めているが、遥希の顔には明らかな不満の色が見て取れた。
 「しょうがねえだろ? あんだけ息の合ったコンビを倒すには、こんぐらいやんなきゃ勝ち目はねえよ」
 「そうだけど……」
 「良いか、ハルキ? 出来るだけ自然に、だ。ネット前を集中的に頼んだぞ」
 「本当にやるのか?」
 上目づかいで尋ねる視線が左右に細かく揺れている。
 最後の一線を超える手前の躊躇といったところか。エリート路線を歩んできた彼には、よほどの愚策と映るらしい。
 しかしながら他に選択の余地はない。透は負けず嫌いのライバルがもっとも嫌悪する結末を不満げな鼻先に突きつけた。
 「無理にとは言わねえよ。負けても良いならな」
 仏頂面の遥希が泥だらけのシューズに手を伸ばす。案の定、今の一言で吹っ切れたと見えて、黙って靴ひもを解いている。
 透は全身の汗を拭う振りをして、作業中の遥希の姿をスポーツタオルでそっと覆い隠した。
 ルーキー二人にとって、ここでの敗北は単にバーベキューの食材云々の話ではない。
 自分達がOBに負けるということは、成田と唐沢が一年生の時に打ち立てた記録を超えられなかったということで、即ち、それは一年生の彼等に敗北したのと同じ意味を持つ。
 遥希は成田を、透は唐沢を。それぞれが目標とする先輩を乗り越えたくて、ずっと努力を重ねてきた。
 過去の先輩達には負けたくない。
 そして、その想いは余裕しゃくしゃくでプレーを続ける北斗に対しても同じであった。
 「俺と真剣勝負したかったら、なりふり構わずかかってこい」
 勝利に対する執着が足りないと指摘するOBに一泡吹かせやる。遥希もそう思ったからこそ、ドロップショットを有効活用できないかと提案したのだろう。
 確かに遥希のいう通り、弾みの少ないドロップショットを砂の溜まったネット前に落とせば「そこそこ」の威力はあるが、オムニコートでのプレーを得意とする北斗のことだ。そう簡単にペースを乱すとも思えない。
 ドロップショットの効果を上げるには、さらにもう一つ、予測不能な仕掛けが必要だ。
 透はシューズを履き終えた遥希の背後に腕を回すと、傷心気味の丸い背中を手のひらでパンと叩いた。
 「最悪2ゲーム取られたとしても、挽回するチャンスは充分ある。安心して動いてくれ」
 「やれやれ。お前とのダブルスは色んな意味で忘れられなくなりそうだ」
 「思い出にするには、まだ早いって」
 「当たり前だ。俺達は思い出を作りにきたわけじゃない」
 遥希の背筋がまっすぐ伸びて、それと同時に目つきも変わる。ただでさえ愛想のない目元が一段ときつくなる。
 透はこの負けず嫌いを象徴するかのようなキツい眼差しが好きだった。敵としても、味方としても。
 敵として相対した時には闘争心を掻き立てられ、味方として共に戦う時には頼もしく思う。
 「頼んだぜ、ハルキ!」
 「任せとけ」

 現在、ゲームカウント「2−3」で、北斗のペアに1ゲーム分のリードを許している。
 欲を言えば、早い段階で同点に追いつきたいところだが、今回の作戦を実行するには少しばかり時間を要する。
 ステップを刻む振りをして、着々と準備を進める遥希。その代償として、丸々2ゲームを失った。
 夕日と突風をまともに受ける不利なコートで、パートナーが試合に集中せずに他の作業に没頭しているのだから無理もない。
 しかし2ゲームを費やすだけの価値はある。
 ゲームカウント「2−5」で、もう1ゲームも落とせない状況だが、おかげで準備万端整った。
 四度目の「コートチェンジ」を合図に、作戦は決行された。
 疾斗のサーブから始まる第8ゲーム。先程まで遥希が立っていた箇所へ足を踏み入れた途端、北斗が眉をひそめた。
 「お前等なぁ」と呟くその顔には未だ充分な余裕はあるものの、人を小馬鹿にしたような嘲りの笑みは消えていた。
 ネット前の、前衛の立ち位置にしっかりと埋め込まれた泥の塊が、人工芝との最強タッグで非常に滑りやすいフィールドと化している。
 これでひとまず急場は凌げる。少なくとも、この第8ゲームでトドメを刺そうとしていた北斗の目論見は潰えたはずである。
 「お前等なぁ、勝とうとする努力は認めてやるが、どうせ2ゲーム後にはこっち側でプレーするんだぜ?」
 底が浅いと言いたげな北斗に対して、透は待っていましたとばかりに背後に連なる山々を指差した。
 「心配しなくても、この風の強さなら2ゲームの間に乾く。
 足元が滑ってプレーし辛いのはアンタ等だけ。俺達がそっちへ移る頃には、ただの砂地に戻っている。
 ついでに言わせてもらえば、そろそろ完全に日が沈む。この突風だって一時的なものだし、2ゲーム後にはアンタが俺等を陥れるために揃えた罠は、全部消えている」
 「なるほど、考えたな」
 「山のことなら、ここにいる誰よりも詳しいからな」
 「そうか。真嶋は山育ちか。
 だがな、俺は『草トー』育ちだ。お前等が悪あがきしたところで、結果は変わんねえよ」
 北斗のいう「草トー」とは「草テニストーナメント」の略である。
 光陵テニス部に入部してくるテニス経験者は主に二つのタイプに分かれている。
 テニススクールに入会し、テニスの技術を基礎から習得した者と、地元のスポーツ少年団などに所属して、実戦形式でテニスの戦い方を身につけてきた者と。
 成田や遥希がスクール育ちであるのに対し、唐沢三兄弟は「草トー育ち」、つまり後者である。
 一般的にスポーツ少年団は親達が金をかけずに運営する団体であるから、テニススクールのようにプロの指導を受けられるケースは極めて稀で、大抵は学生時代にテニスをかじった程度の大人の技術を子供たちが見よう見真似で覚えいくという、実にいい加減、且つ、自主性だけは培われるワイルドな環境だ。
 そんな彼等が力試しの場とするのが非公認のトーナメント、「草トー」だ。
 しかしながら、この手の大会は非公認ゆえに規定からして曖昧で、開催される時期や出場者によって試合のレベルが左右されることも少なくない。
 ジュニアの初級で応募したにもかかわらず、上級クラスの兵と当たることもあれば、その逆もある。
 また小規模な大会では学校の校庭並みに凹凸の激しいコートでプレーさせられたり、まともにルールも知らない地元住民が会場係を努めていたりと、要するに、ありとあらゆるアクシデントが起こり得るトーナメントの代名詞が「草トー」なのだ。
 そんな中で鍛えられた兄弟が、この程度の小細工で動じるわけがない。先の北斗の「草トー育ちだ」の台詞には、多くのハプニングを味方につけてきた者の自信がうかがえる。
 但し、透の秘策が単にコートを滑りやすくしただけの幼稚な策であれば、の話である。

 「なにっ!?」
 北斗が透の本当の狙いに気づいたのは、遥希がドロップショットを放った直後であった。
 ネット際でポトリと落ちるドロップショット。通常はボールの重みで多少なりともバウンドを繰り返すはずなのに、遥希から放たれたそれは一切弾みを見せずに着地した。
 その理由はいたって単純で、コートに溜まった砂が泥の水分を吸い取り、ボールの落下時に生じる衝撃を吸収するからだ。
 湿った砂地でいくらボールを強く叩きつけようと弾むものではない。
 透は時間が経てば乾いた砂が泥の水分を吸い取ることまで計算に入れたうえで、遥希にドロップショットを打たせている。
 「よっしゃ、ハルキ! でかした!」
 結果を見るまでは仏頂面だった遥希も、今は誇らしげな顔を見せている。
 これで一つ、前衛にいる北斗の牙を抜いた。疾斗がサーバーである以上、このゲーム中、彼はネット前から離れられない。
 滑りやすい足元と、弾みのないドロップショットを意識するせいか、北斗の動きがぎこちない。
 この機に乗じて、光陵ルーキーペアは1ゲームを奪い返した。
 続く透のサービスゲームは、ますます有利な展開となった。
 初めはネット前に集中していた泥の塊が、北斗の靴底を通じてサービスエリア内にまんべんなく広げられたからである。
 スライス・サーブを放てば、より滑りの良い打球となり、フラット・サーブを放てば、予測不能なバウンドがレシーバーを翻弄した。
 2ゲームを奪い返し、ゲームカウントは「4−5」。試合の流れは、完全に光陵ペアに傾いている。
 「そろそろ本気出してもらうぜ、北斗大先輩?」
 残り1ゲームまで追い上げたところで、透は不敵な笑みを北斗に向けた。無論、自分たちの勝利を確信してのことである。
 「ああ、確かによく巻き返したが、一手遅かったな」
 「何だと?」
 「俺は『草トー』育ちだと言っただろう? お前等とは踏んできた場数が違う」
 その台詞とともに北斗が披露して見せたのは、今まで透が目にしたことのないサーブであった。
 例えて言うなら、バレーボールの天井サーブに近いだろうか。
 上から叩き込むオーバーヘッドのサーブと違い、彼は下から上へ高くボールを打ち上げている。
 ストロークと同じ打ち方で、下から放つサーブをアンダー・サーブと呼ぶが、通常は回転をかけたりして、レシーバーが返球しづらくするための工夫がなされている。
 しかし北斗のそれは回転をかけるよりも、出来るだけ高く打ち上げることを目的としたサーブであった。
 「何だよ、これ!?」
 透が唖然と見上げている隙に、北斗がすかさずネットへ詰めてきた。二人が前にポジションを置くネット並行陣だ。
 この攻撃重視の陣型を取られた場合、防御策として前衛は少し後ろへ下がって守りを固めるのが一般的だが、ダブルスに不慣れな遥希は咄嗟の判断ができず、前の二人からボレーの連打を浴びて、あっという間に最初のポイントを奪われた。
 北斗が高く打ち上げたサーブは、彼が前へ出るための時間稼ぎの役割を果たしていたのである。
 しかも高く打ち上げられたボールがバウンドすると、その勢いで乾いた泥が砂埃となって舞い上がり、たちまち視界が悪くなる。こちらの泥塗り作戦を逆手に取られた格好だ。
 「ちっくしょう! どこまでもセコい手使いやがって!」
 唇を噛み締める透に、北斗が追い討ちをかけてきた。
 「甘いな、真嶋。俺から本気を引き出そうなんざ、十年早えよ」
 「まだ負けたわけじゃねえよ」
 強がりではなく、本心からそう思っていた。
 まだ諦めない。諦めたくない。
 「団体ボケ」の話をされたせいか。敗北の二文字がより身近なものに感じられる。
 あと1ゲームで負けるのだから身近には違いないのだが、もっと切羽詰ったもの。ここでの勝負に負ければインターハイでも勝てないような、そんな危機迫る敗北だ。
 「あのさ、トオル? 北斗先輩のサーブを俺がロブで返したらどうなる?」
 諦めたくないと思っているのは遥希も同じであった。
 「ロブ・リターンか?」
 「うん。あれならネット並行陣の後ろを抜けるし、少なくとも一人は後ろで足止めできるだろ?」
 「よし、分かった。やってみるか」
 ふたたび北斗からアンダー・サーブが放たれた。
 北斗が前進するのを確認してから、遥希がサーブをロブで返した。ところがネットについていたはずの疾斗が、今度は後ろで陣を構えている。
 サーブを入れた北斗が前へ、そして前衛にいた疾斗が後ろへ。
 「だから甘めえんだよ!」
 このかけ声と同時に、疾斗からスマッシュが叩き込まれた。迷いのない打球が無情にも透と遥希の間を駆け抜ける。
 最初のネット並行陣は、ロブ・リターンを誘い出すための囮だったのだ。

 ルーキー二人に残されたチャンスは、あと2ポイント。これを逃せば、せっかくの苦労も水の泡となる。
 二人の間に漂い始める重苦しい空気を、北斗が明確に言い当てた。
 「どうだ、崖っぷちに立たされた気分は? そろそろ後悔し始めてんじゃねえか?
 あそこで、ああすれば良かった。あの時、こうすれば良かった。
 さっき『一手遅かった』と言っただろ?
 布石を打つのとゲームを捨てるのとでは、似て非なるものだ。お前等はコートに細工をするために費やした2ゲームを、もっと有効に使うべきだった」
 まさしく彼のいう通りである。
 あの時、1ゲームでも死守していれば、ここで奇策を講じられても、何とか次のゲームで立て直すことが出来たはず。明らかに透の作戦ミスである。
 だが北斗が非難したのは、遥希のほうだった。
 「日高、お前は真嶋のリードに頼り過ぎだ。ダブルスはパートナーを信頼しても、寄り掛かっていては成り立たない。二人が自立してこそのダブルスだ」
 北斗から至極真っ当な指摘を受けて、遥希の背中がふたたび丸くなる。自身の足元を見つめる彼の瞳に先程の負けん気の強い光はない。
 パートナーを信頼しても、寄り掛かってはならない。この見た目にはアドバイスと思われた台詞が遥希の動揺を誘うための罠だと気づいたのは、残りの2ポイントを失った後である。
 三日にわたりダブルス専用のトレーニングを重ねたにもかかわらず、すっかり自信を失くした遥希は克服したはずの悪い癖を頻繁に繰り返すようになった。前衛のポジションで抜かれた際に、後ろを振り向く癖が復活したのである。
 パートナーに頼りきりではいけない。自分がどうにかしなければ。
 この余計な気負いがポジショニングを狂わせ、失点へと繋がった。
 ダブルスは弱いところから崩される。最後はこのセオリー通りの策にはまり、光陵ルーキーペアは自滅した。

 「6−4か。ま、急造コンビにしては頑張ったほうか」
 試合後に北斗からかけられた労いの言葉も、まんまとしてやられた立場では嫌味にしか聞こえない。しかしここで敗者が何を言ったとしても、負け犬の遠吠えにしかならないことも知っている。
 透は残りわずかなプライドを掻き集め、精一杯、虚勢を張った。
 「褒められたって嬉しくねえよ。6−4でも、タイブレークでも、負けは負けだから」
 「その通りだ、真嶋。どんなに僅差でも、負けは負けだ。俺等が勝者で、お前等は敗者。
 負けたら悔しいよな。惨めだよな。試合で負けるって、人格を全否定されてるみてえに辛れえよなぁ。
 ああ、セコい手使ってでも勝って良かった。お前等の足、引っ張っておいて良かった。
 オムニコート、最高!」
 返す言葉もなく、ただ唇を噛んで恥辱に耐える後輩二人を前にして、北斗はしばらくの間、己の勝利に酔いしれていたが、ふと何かの気配に気づいたように顔をしかめると、急に真面目な口調になった。
 「インターハイはこんなものじゃない。全国各地の厳しい予選を突破してきた強豪が、死に物狂いで頂点を取りにくる。
 新参者のお前等と違って、去年、一昨年と、そこで辛酸を甞めた連中も当然いるだろう。夢の大舞台まで来ていながら、不本意な理由で追い出された奴等がな。
 過去に敗れた先輩達の想いを抱えて、今年もまたリベンジしにやって来る。そういう連中の想いの強さは何より強力な武器となる。半端な気持ちで遣り合えば、お前等なんか秒殺だ。
 一瞬でも、1ポイントでも、ゲームを捨てるな。負けたくないなら、ただ勝つことのみ考えろ。
 経験の浅せえ一年坊主があそこで勝ち抜くには、それしかない」
 この時だけは、北斗が先輩らしく思えた。非常に屈折したやり方だが、彼はこのことを伝えたくて、ルーキー二人を条件の悪いコートへ引っ張り込んだのかもしれない。いかなる場合でも勝負を捨てるようなことをしてはならないと。
 「北斗先輩、えっと……一応、礼言っときます。ありがとうございました」
 「何だ、その中途半端な感謝の仕方は?」
 「いや、だって……。本当は俺達のためですよね? オムニコートに変更したのも、疾斗を呼んだのも。
 違いますか?」
 直感ではあるが、透には確信があった。
 よくよく考えてみれば、大学生が高校生と試合するメリットなど、どこにもない。戦利品のバーベキューの食材も、北斗の大学のほうが上だと話していた。
 唐沢の兄というだけあって変化球しか見せないが、弟と同様、その根底にはインターハイを間近に控えた後輩のためを思う、彼なりの優しさがあるのではないか。
 ところが唐沢よりパワーアップした兄の返事は、やはり直球ではなかった。
 「勘違いするな。俺がお前等とわざわざ対戦してやった理由を教えてやろうか?」
 北斗の視線が、コートの外へと向かった。
 「そろそろ、あの阿呆と本気で決着をつけたいと思ったからだ。俺の自由が利かなくなる前に……」

 それまでふんぞり返っていた北斗の態度が変わった。具体的にどことは言えぬが、かつて光陵テニス部を率いた部長ならではの威厳を感じる。
 そして、その視線の先には現部長であり弟でもある唐沢海斗が立っていた。
 「可愛い後輩が気になって様子を見にきたんじゃねえな、その面は。明日の下見か?」
 二番手のルーキー二人が敗北した時点で、必然的に明日はチーム最後の大将戦となる。唐沢はその段取りをつけに来たらしい。
 「やはりオムニでしたか。相変わらず、勝負事には容赦のない人ですね」
 兄と相対する唐沢はまるで別人だった。
 先輩、後輩の線引きをしているのか。実の兄と話すのに敬語を使い、普段から表情の乏しい顔が一段と冷たく見える。
 「そういうお前も手を抜くつもりはねえんだろ?」
 「ええ、せっかくですから先輩の胸をお借りして、シングルスでお願いしようかと」
 「実の弟がわざわざ東京から来てんのに、外せってか? 手の内を知られている相手とはやりたくねえか?」
 「いえ、うちのエースと彼とでは実力差があり過ぎますから。
 あくまでも条件は同じじゃないと、貴方を倒す意味がない」
 「シンゴはそれで納得してんのか?」
 「はい。さっき本人の了解を取りました。この勝負、俺に預けてくれるそうです」
 「へえ、そつのないことで」
 唐沢もまた、勝負事において兄に負けず劣らずのシビアさがある。しかも公平さを保つためと言って、彼はあらゆる条件を細かに指定した。
 「コートは貴方の得意なオムニで呑む代わりに、他の条件はこちらで決めさせてもらいますよ?」
 「例えば?」
 「まず試合の開始時刻は明朝五時。コートは真ん中のBコートを使わせてください」
 「なるほど。早朝なら日差しの影響をほとんど受けねえし、Bコートならラインの凹凸もねえからな」
 「それから試合球も、こちらで未開封のニューボールを持参しますからご心配なく」
 「海斗……お前、性格変わったな? いくら俺でもボールに細工なんかしねえよ」
 「細工をしないという保証がどこにあるんです?」
 「分かった、分かった。お前の気の済むようにして良いぜ」
 敵意を剥き出しにする唐沢と、あくまでも兄としての余裕を保ったままの北斗。傍目にも北斗のほうが格上に見える。
 まるで一瞬でも気を緩めれば敗北に繋がると思っているような、切羽詰った感が唐沢の言動からひしひしと伝わってくる。
 常に相手の行動を先読みし、にこやかに応対した時にはすでに策は始まっているというのが唐沢のスタイルなのに。こんな余裕のない姿を見るのは初めてだ。
 もしかして唐沢はまだ兄・北斗と和解しきれていないのか。
 我が身を振り返れば、よく分かる。身近な人間であればあるほど、一度生まれた確執はそう簡単に取り除けるものではない。
 かつて唐沢には大切な幼馴染みがいた。その幼馴染みの死によって生じた兄弟間の確執は、親友・成田との間にも溝を作り、テニスに対する情熱を封印する楔(くさび)となった。
 偽りの仮面をかぶり、決して感情を表に出そうとしない唐沢。そんな彼が変化を見せたのは、透が帰国してからだ。
 互いに持つ傷が同種のものだったのか。あるいは、二人を引き合わせる運命的な要因があったのか。
 いずれにせよ、共にインターハイの予選を勝ち進んでいくことで、一度は封印したはずの情熱が唐沢の中で再燃し、止まっていた時間も少しずつ動き始めた。
 たぶん、これは禊の儀式だ。インターハイという大舞台で、死に物狂いで挑んでくる強敵たちと渡り合うために、唐沢はこの試合を通して今まで引きずってきた過去を清算しようとしているに違いない。
 彼はいま、兄の言葉の通り、なりふり構わず勝負を挑んでいる。初めて人前で見せる余裕のない態度も、兄との真剣勝負を意識してのことだろう。
 北斗と海斗。光陵テニス部の伝統を塗り替えた元部長と、そこに新たな歴史を刻もうとする現部長。
 光陵テニス部始まって以来の大一番が、山奥の名もないコートでひっそりと行われようとしていた。






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