第4話 約束 

 とっぷりと日暮れた暗がりの中、透は三年ぶりに再会した仲間達と別れて、校舎の窓から漏れるわずかな灯りを頼りに、テニス部のコートがある敷地へ戻った。
 航空会社のストライキに巻き込まれ、慌しい帰国となったが、実は念願成就の暁には「絶対にやってやろう」と秘かに計画していたことがある。
 敷地の入口で、AからFと、GからLと、それぞれ六面ずつ並ぶコートの中から「F」の文字を探して、奥へと入る。あいにくネットは片付けられた後だが、今回の計画を実行するには却って都合が良い。
 仕切りのないコートの中央まで来て腰を下ろし、思いきり体を伸ばして、頭と手足を地面につける。
 何の事はない。コートの真ん中で大の字に寝そべっただけのことである。
 しかし透にとっては、この行為こそが光陵学園を感じられる、最も確かな方法だった。

 高等部のテニスコートへは中等部にいた頃に一度だけ、唐沢に連れられ入ったことがあるのだが、その時すでに透の進学先は隣の敷地ではなく遠い異国の地であると聞かされていた為に、憧れよりも恨めしさの方が強かった。
 ここに残り、皆と一緒に部活動に励みたい。さほど学業を疎かにしなければ誰もが来られる場所なのに、なぜ自分だけが、と恨めしく思った記憶がある。
 中等部よりも更に設備の整ったハードコートは、当時の透には幸せの象徴だった。その夢にまで見たテニスコートの中に、自分がいる。唐沢からドリルスピンショットを教わり、今さっき遥希を倒したばかりのFコートに。
 お世辞にも寝心地が良いとは言えないが、ごつごつとした感触が嬉しかった。ハードコートならではの冷たさも。
 ざらつく地面に髪の毛が引っかかりチクチクするが、それさえも現実的な喜びに変わる。ごつごつも、冷たさも、チクチクも、全てここに存在するが故のものである。
 「……帰って来たぁ……」
 試合中は気付かなかったが、こうして寝そべってみると、コートの上空には視界を遮るものが何もない。これで銀色にきらめく星空が温かく出迎えてくれれば申し分ないのだが、都会の空では叶うはずもなく、今夜は月も薄雲に覆われ、ぼやけて見える。
 昔の自分なら間違いなくふて腐れているだろうと思うと、懐かしさと同時に可笑しさが込み上げてきた。
 ぼやけた月も、星の見えない夜空も、あるがままの姿を受け入れられる。
 アメリカで荒れた生活を経験してきたせいなのか。あるいは、苦労の末に到達した場所だからこその境地かは分からぬが、今は濁った空の存在価値も素直に認められる。地球上でたった一つの大切な居場所として。

 とても穏やかな気持ちであった。遥希との試合の後から、この静けさは続いている。
 もっと興奮するとか、弾けるような歓喜が襲ってくるかと思っていたが、現実は少し違っていた。
 この三年間、ずっと倒したいと願い続けた因縁のライバル。いつどんな時でも、その存在を忘れたことはない。
 あいつに勝ったら、バク転のひとつでも披露して、大げさにはしゃいでやる。悔し涙を浮かべる遥希に向かって、「お前こそテニスに向いていない」と澄ました顔で言ってやろう。
 昔はライバルの顔を思い出すたびにそんな事を考えていたし、今もその願望は残っている。
 だが実際に遥希が悔し涙を浮かべることはなく、試合後、透の復帰に沸き上がる部員達を尻目に、彼は黙ってコートを後にした。
 凛とした真っ直ぐな後姿であった。顔こそ伏せてはいたものの、人より小さな背中は始終伸びていた。
 同学年の透に敗れ、尊敬する成田の留学話も聞かされ、遥希にとって人生で最悪の部類に入る一日であったはずなのに、彼は泣き言一つ漏らさず去っていった。
 それ故、透も敗者に追い打ちをかけるような子供染みた真似が出来なくなり、中途半端に大人になった自身に恨めしさを抱きながらも、黙って立ち去るライバルを、黙って見送った。
 正直なところ、いま透の胸に訪れている静けさは、勝利を喜び損ねた脱力感が半分以上を占めている。肩透かしというヤツだ。
 しかし、それだけではない。
 昔はムカつくライバルの鼻を明かす為だけにボールを追いかけた。ところがアメリカでジャンと出会ったことで、いつの頃からか、薄っぺらな目的が“あるべき場所”へ帰るための指針へと変わった。
 おかげで今は、してやったりの幼稚な満足感を得られずとも、大切な人との約束を果たせたことに満足し、またそっちの満足感の方が何倍も価値のあるものに思えた。

 「ジャン……俺、約束守ったぜ。“あるべき場所”に帰ったぜ」
 誰もいないコートの中で、透は薄ぼけた夜空に向かって呟いた。
 するとそこへ白い人影が現れた。
 暗がりでも白く浮かび上がって見えるのは、着ているジャージのせいもあるだろうが、その人物は屋外で活動するテニス部にしては珍しく、日焼けとは無縁の肌の持ち主だからである。
 「唐沢先輩……?」
 「やっぱり、ここだったか」
 コートで寝そべる不審な行動を気に留める様子もなく、唐沢が中に入ってきた。
 咄嗟に透は飛び起きた。
 アメリカにいたとは言え、もとは体育会系である。先輩が立っているのに、後輩である自分が寝転がっているわけにはいかない。
 それに、礼を言わなければならない事がいくつもあった。唐沢が目の前に来るのを見計らって、切り出そうとした矢先。
 「真嶋、改めて礼を言う。ありがとう。よく戻って来てくれた。
 試合を見せてもらったが、随分、成長したな」
 用意していた感謝の言葉を先に言われ、おまけに辛口の説教しかしない先輩から褒められ、透はすっかり舞い上がってしまった。
 「いや……本当は6−3で勝ちたかったんですけど……」
 「なんだ、あの内容で不満なのか?」
 「内容と言うより、カウントが。
 日本を発つ前、最後にハルキに負けた時のカウントが6−4だったんで。せめて6−3で勝たないと、やり返した気がしなくて……」
 半分は照れ隠しだが、半分は正直な気持ちであった。同じカウントでは満足できず、1ゲームでも多く差をつけて勝とうとするのが、負けず嫌いの本能だ。
 「そうか。ま、気持ちは分からなくもないかな」
 長い前髪に隠れて表情はよく見えないが、何となく唐沢が笑ったような気がした。三年前に送り出してくれた時と同じ柔らかな笑みを、夜の静けさの中で感じた。
 経験した者しか知り得ないことだが、彼が副部長の立場から離れた時、周りの空気が柔らかくなる。緩むといった方が的確かもしれない。張り詰めた緊張の糸が、すうっと解けて流れていくような。
 その変わらぬ空気感に安堵した透は、先ほど言いそびれた感謝の言葉を口にした。
 「俺の方こそ、ありがとうございました。先輩のフォローがなかったら、試合だってやらせてもらえなかったし。あ、いや……もっと前から。中等部の頃から先輩には色々と……」
 「中等部?」
 「ここのFコートでドリルスピンショットを教えてくれたこととか。『必ず帰って来い』って送り出してくれたこととか。
 先輩のおかげで、俺はここに帰って来られたんだと思います。正直、諦めた時もあったけど、先輩の言葉があったから」
 「ああ、それなら俺の方が助かったというべきだ。さっきの試合で、お前の借金、全部回収できたから」
 「へっ? 借金?」
 「そ、確か真嶋は九千五百円だったよな?」
 「唐沢先輩……まさか?」
 久しぶりの再会で忘れていたが、彼はテニスよりも賭け事を愛するギャンブラーであった。中学時代に何度もカモにされ、万単位の借金を背負わされたこともある。
 「やはり保険というのは大事だな。駄目もとでお前に『帰って来い』と言っておいて良かった。まさか本当に戻って来るとは思わなかったけど」
 「そ、そんな……先輩? 最後の日に『必ず帰って来い』って言ってくれたのは?
 壁打ちが終わるのをずっと待っていて、ラリーに付き合ってくれて、泣いている俺を元気づけてくれて……。あれって全部、保険ですか?」
 「当たり前だろ。万が一に備えてかけるのが保険だ。そもそも俺が意味もなく他人に親切にするわけがない」
 「でも、あの時、このFコートで勝負した時、借金はチャラにしてくれるって……」
 「もう二度と会わないと思ったから、餞別にしたまでだ。戻って来たなら借金として回収するさ。再会する奴に餞別を渡すバカはいない。そうだろ?」

 透はまじまじと唐沢の顔を見た。そして過去の彼の行動を、よくよく思い返した。
 この先輩は校内試合を「レース」と称し、透が知らない間に千円の掛け金を一万円以上の借金に膨らませた前科がある。『闇の学園祭』、『闇の処罰』など、陰で悪さをするのが生き甲斐のような男である。
 親身になって多くの助言をくれたかと思えば、それは校内試合で自分が一点買いした“穴馬”を勝たせる為の指導であった。その挙句、儲けのほとんどは彼がせしめ、頑張った本人に還元することもない。
 副部長という仮面の下で性質の悪い所業をくり返す。一言で言えば、悪魔 ―― そう思っていた。あの時までは。
 「嘘……ですよね?」
 過去の記憶を総動員した結果、透の口からは、恐らく先輩の期待に反するであろう言葉が漏れていた。
 「俺はあの時の、ここで見た先輩の姿が本物だって信じています。本当はギャンブルなんて、どうでも良いと思っている」
 「直感で物を言うなら止めておけ。俺は生まれつき、根拠のない話は一切受け付けない体質だ」
 「根拠ならありますよ。あの時、先輩から同じ熱を感じました。ハルキや、京極さんや、本当にテニスが好きな人から感じる真っ直ぐな情熱を」
 先程から話題にしている「あの時」とは、アメリカに転校が決まった直後のFコートでの対決を指している。
 三年前、ドリルスピンショットを見たい一心で挑んだ勝負の中で、透は初めて普段唐沢が内に秘めている熱を感じた。
 バリュエーション以外で部員同士の試合は禁じられているにもかかわらず、わざわざ高等部のコートまで出向き、「授業へ戻れ」と叱る教師達を反対にどやしつけ、記録にもならない勝負を強引にやり切った。
 テニス部の規則を破り、校則も破り、教師たちも敵に回し、しかも対戦相手はレギュラー入りしたばかりの一年生。唐沢にとって何一つメリットになる事などなかったはずなのに、それでも彼は最後まで後輩の真剣勝負に付き合ってくれた。
 テニスが本当に好きだから。もうすぐ旅立つ後輩にも、テニスを好きでいて欲しいから。同じ一人のテニスプレイヤーとして。
 そんな彼の真っすぐな情熱を、あの時、ここで見せられた。あそこに偽りの感情が入り込む余地はなかったはずである。
 「真嶋? お前、アメリカへ行って、臭い台詞を吐くようになったな。
 第一、散々、俺にハメられたくせに、まだ懲りていないのか?」
 呆れ顔で茶化そうとした唐沢だが、透の決してぶれない視線を見て取ると、冗談めかした表情を引っ込めた。
 「勝手に思い出を美化していろ。どうせこれからは、今までのようにはいかなくなる。凝ったレースを仕掛ける暇もないだろうし、ギャンブルも自粛しないとな」
 「そうッスね。部長になったら、もっと忙しくなるんでしょうね」
 「誰が?」
 「唐沢先輩が」
 「なんで?」
 「だって成田部長が抜けたら、あとは唐沢先輩しかいないじゃないですか。実力から言っても……」
 透の言葉を遮るように、唐沢が短く問いかけた。
 「お前次第だ、と言ったらどうする?」
 「えっ? あの……」
 一瞬にして緩んでいた空気が引き締められた。長い前髪の隙間から覗く鋭い視線が、瞬時に透の体から自由を奪っていく。
 視線だけで透を硬直させられる人間は、それほど多くない。
 今は亡き恩師のジャン・ブレイザーと、父親の龍之介。そして、この目の前で無言の緊張を強いる唐沢だ。
 彼が三人の中で最も若く、透と歳も近い。それなのに、他の二人に引けを取らない迫力がある。

 「質問を変えようか?」
 視線に気圧された後輩の様子を察して、唐沢が口調を和らげ問い直した。
 「ずっとライバル視していたハルキに勝利して、真嶋の次の目標は何?」
 「次の目標は……あの、言っても怒らないですか?」
 「ああ」
 「本当に怒りませんか?」
 「良いから言ってみろ」
 唐沢に促されて、透はおこがましくて誰にも言えなかった第二の目標を明かした。
 「あの……次ぎは、唐沢先輩を倒したいなと……」
 「俺を?」
 「あ、いや、その……あくまでも目標っていうか、願望っていうか、そのぐらい強くなれれば良いなと」
 言った後から恥ずかしくなった。視線一つで金縛りにあう未熟者が公然と掲げるには、その目標は高すぎる。
 ところが、当の本人からは思いがけない言葉が返された。
 「その前に……俺を倒す前に、一緒に寄り道しないか?」
 後輩の無礼で無謀な野心を聞かされても平然としている先輩の態度に驚きつつ、彼の言う「寄り道」に興味が湧いた。
 「寄り道って、どこへ?」
 「インハイへ」
 「インハイって、インターハイですか?」
 今さら確認するまでもないが、まるで近所に行くような口振りだったので、ついその意味を聞き返してしまった。
 「そう、インターハイ。それも優勝だ。真嶋、俺と一緒に頂点を目指してみないか?
 そこに集まる連中はハルキどころじゃない。日本中から兵が集まる。日本一を決める大会だから」
 「日本一の大会……」
 透は自身の中に異変を感じた。先程まで体を満たしていた静けさが引いていき、代わりに“うねり”のようなものが起こっている。
 しかし嫌な気分ではなかった。むしろ失いかけた高揚感を取り戻し、ほくそ笑む自分がいる。
 ひょっとしたら、自分は静けさよりも、この興奮を得るために戻ってきたのかもしれない。そんな錯覚に陥るほど魅力的な言葉であった。
 日本一を決める大会。インターハイ。
 「うちがインターハイに出場したのは、コーチとお前の父親が現役の時、一度だけだそうだ。それも初戦で敗退している。
 だから俺は、どうせやるなら歴史ごと塗り替えてやろうと思う。光陵学園テニス部史上、俺達が最も強いことを証明する。
 どうだ、面白そうだろ?」
 唐沢の言葉に、体が反応している。
 遥希よりも、もっと手強い選手が集まるインターハイ。光陵学園テニス部史上、自分達が最強だと知らしめる為の大舞台。それを聞いただけで血が騒ぎ、胸が震えた。
 「唐沢先輩と一緒なら、やれそうな気がします。いや、やります。一緒に行きましょう、インターハイ!」
 「成田が抜けたチームで狙うには、かなり厳しい道のりになる。それでも付いていく自信はあるか?」
 「もちろんです! テニスが出来ない辛さから思えば、どうってことないッスよ。
 コートから追い出されない限り、俺は何があっても平気です!」
 「分かった」
 唐沢が「お前次第」と言ったのは、すでに彼の気持ちは固まっていて、透の覚悟の程を確かめようとしたのではあるまいか。コートを後にする白い背中が、先程の己が敗戦を一身に背負う遥希の後姿とよく似ていた。


 三年ぶりに戻った我が家は、なぜか透が思っていたよりも広く感じた。
 通常、場所や建物は、子供の頃に受けた印象から狭くなることはあっても、広くなることはない。しかし家族と共に過ごした思い出が記憶の中心にあるせいか、独りでいると部屋の中がやたらと広く感じられる。
 アメリカでは十三人もの留学生に囲まれて過ごしていた。ストリートコートへ行けば、五十人の仲間が何かしらの問題を抱えて待っていた。
 どこへ行ってもプライベートを確保できない環境で、透は常々独りになれる空間を求めていた。日本に住んでいた時も、母親はともかく、父親は邪魔だと思っていた。
 引っ越し直後の状態で放置された家の中には、家具もなければ照明器具もなく、透が帰国する前に送った段ボールの荷物が二つ。箱の中身も、自分で荷造りしたのだから知っている。
 家財と呼ぶにはあまりに貧相な二つの箱を眺めていると、ふとアメリカで荷造りしていた時のことが思い出された。
 空輸便の送料の負担を考え、出来るだけ荷物をコンパクトにまとめようとする透に、同居人のディナとエリックがビーフジャーキーのお徳用パックを非常食代わりに持って行けと真顔で迫り、「食べ飽きたから」と断ると、今度は地元の主婦に人気のインスタント食品をこっそり箱の底に忍ばせた。
 よほど、男子高校生の独り暮らしが心配だったのか。実の親よりも甲斐甲斐しく世話を焼く彼等に、日本にもコンビニがあって、アメリカよりも店舗数も多く、営業時間も長いため、家事能力が低くても不自由のない旨を説明したのだが、それでも完全に納得してもらうまでに数日を要した。
 「やっぱ、もらっときゃ良かったな……」
 思わず漏らした独り言が、驚くほど鮮明な響きで障害物のないリビングにこだました。

 暗い部屋の中で、透は灯りになるものを探した。確か、日高からもらった紙袋の中に携帯電話が入っていたはずだ。
 指先の感触を頼りに電話機を取出し、蓋を開けると、淡い光が現れた。部屋全体を照らすほどの明るさはないが、手元に光があるだけでも有難い。
 だが、ホッとしたのも束の間、十秒も経たないうちに節電機能が働き、暗くなった。
 一旦蓋を閉めて、もう一度開けてみる。明るくなっては消え、消えてはまた開ける。まるで現代版『マッチ売りの少女』である。
 生まれて初めて携帯電話が私物となった透には、どこを触れば明るさが維持出来るとか、それ以前に何の機能があるかを調べるという、極めて初歩的な作業に思い至らない。
 開けては閉めて、閉めては開けて。自分でも情けなく思うが、灯りが消えるのが寂しくて、無意味な行動を繰り返した。
 そして何度もやり続けて、本格的に虚しくなった頃に、本来の役目を思い出した。これは電話である。
 ここでようやくメインメニューの存在に気づき、その中にあるアドレスなるものを発見した。
 「あかさたな」の順に、荒木、伊東、唐沢とテニス部員の名前と電話番号が登録されている。きっと、過保護な日高がマネージャーの塔子に命じて、入力させたに違いない。「な」行のところで、成田と中西の他に部員ではない名前が載っている。

 西村奈緒。淡い光を背景に、懐かしい名前が浮かび上がる。暗がりでも明るさをもたらす文字は、彼女の存在そのものだ。
 道に迷った時にはいつでも「だいじょうぶ。トオルなら出来るよ」と言って、前に進む勇気を与えてくれた。アメリカと日本で離れていた時も、彼女がくれたリストバンドがその役目を果たしていた。
 携帯電話に名前がある。それだけのことで、彼女を近くに感じる。よくストリートコートの連中が意中の彼女の電話番号をゲットしたと言っては締まりのない顔を晒していたが、その気持ちが分かったような気がした。
 「いきなり電話したら、ビックリすんだろうな……」
 独り言のつもりで電話機に話しかけた、その時。「ピッ!」と短い音がしたかと思えば、「西村奈緒」の名前が画面一杯に広がり、続いて警報機のようなけたたましい音が部屋中に鳴り響いた。
 「な、何だ!?」
 突如として目の前で騒ぎ出した光と音の正体は、携帯電話を所持する者なら誰でも知っている着信の合図だが、たった今、文明の利器を手にしたばかりの少年には状況が飲み込めず、対応の仕方が分からない。
 友人の携帯電話を拝借する時はいつも通話可能な状態で渡されるし、無論、そこにかかってくる電話に勝手に応じることもしなかった。
 「とりあえず、ボタンを押せば良いのか?」
 電話機に向かって無意味な確認を取りながら、透は一番目立つボタンを押してみた。
 「もしもし?」
 話し始めたと同時に「ツーツー」と虚しい音が聞こえた。
 「……って、切れてんじゃねえか!」
 謝るはずもない機体を睨みつけ、真剣に文句を言った後で、原因が自分にあると気がついた。
 透が目立つと思って押したボタンには「電源」という赤い文字が刻まれている。
 つまり、せっかくかかってきた記念すべき第一号の電話を、自ら切ったのだ。しかも相手は、ずっと話したいと願っていた奈緒からだ。
 「マジかよ……」
 あまりの愚かさに、我ながら呆れるしかなかった。これでは時代に付いていけないオヤジ連中と変わらない。ひょっとしたら、それ以下かもしれない。
 着信音が鳴ったので、とっさに一番目立つボタンを押せば話せるかと思ったが、通話よりも電源の方が大事に決まっている。だから赤い表示になっていたのだ。
 落ち着いて、もう一度、手の中の「さほど便利とは思えぬ利器」をじっくり観察してみる。
 ずらりと並ぶボタンの中に、電話の受話器が上に外されているマークがあった。
 「これかぁ。ようし、分かってきた!」
 今の失態で負けず嫌いに火がついて、俄然、やる気になった。インターハイで全国制覇を夢見る前に、まずは高校生の必須アイテムを制しておかねばなるまい。
 「ここをこうして、アドレスを押せば……」
 何度か操作しているうちに、徐々に携帯電話の機能も分かり、通話のやり方も理解した。
 そこで透は思い切って奈緒に電話をかけ直そうと、着信履歴のボタンを押した。
 今度は虚しい音ではなくて、軽やかな音がする。どうやら彼女に通じているらしい。
 電話なのだから当然の結果ではあるが、少し前まで懐中電灯代わりに使用していた人間にとって、これは快挙である。

 「もしもし……?」
 電話の向こうから、ひどく警戒する声が聞こえた。今しがた通話と同時に切られた為に、彼女は訝っているのだろう。
 「奈緒か?」
 「トオルなの?」
 「うん」
 「今……どこ?」
 「俺ん家」
 「日本?」
 「ああ、日本にいるよ」
 思わぬアクシデントで感動が薄れてしまったが、それでも彼女の声を聞いた途端、今まで溜めていた想いが一度に溢れ出た。
 電話の向こうに奈緒がいる。写真の中ではなく、やっと話ができる。今度こそ誰にも邪魔されることなく、想いを伝えることが出来るのだ。
 会いたくて、逢いたくて。三年前に伝えられなかった気持ちを、今こそ打ち明ける時が来た。
 「奈緒、俺さ……」と言いかけたと同時に、不快な電子音が耳の奥をつんざいた。
 「今度は、何だよ!?」
 慌てて画面を見ると、電池マークが赤く点滅し、その隣には同じく赤い文字で「充電」と記されている。
 「ゲッ! まさか!?」
 「どうしたの、トオル? 大丈夫?」
 「あ、いや……えっと、なんか時間切れみたいで……」
 「時間切れ?」
 正確には電池切れであるが、携帯電話を懐中電灯代わりに使用した挙句、通話の仕方が分からず充電が必要になるまで格闘していたとは、さすがに言い辛い。
 塔子がアドレスを登録する際に使ったかもしれないが、いずれにせよ、三年越しの想いを打ち明ける重大且つデリケートな場面で、雑音交じりの途切れ途切れの告白なんて、縁起も悪いし、格好も悪い。
 電話のノイズがますます酷くなる。とにかくここは上手く誤魔化して、彼女と会う約束だけでも取り付けなければならない。
 「時間ないから、月曜日、学校で話そうか?」
 「月曜日……明後日?」
 「あっ、明後日になるのか。やべ、曜日の感覚もなかった。
 だったら、もっと早く会えないかな。明日とか?
 俺は部活が終わった後ならいつでも、何なら今でも……」
 「えっ……何……?」
 この間の空き具合からして、あまり時間はないようだ。こうなったら欲張らずに、確実な手段に委ねる方が良い。
 「奈緒、クラスどこ?」
 「一年六……」
 「俺は八組」
 クラスが違うとなると、昔のように授業の合間に気軽に話すことも出来そうにない。せめて待ち合わせの時間と場所だけでも決めておかなければ。
 「だったら昼休みに、どこが良いかな。えっと、えっと……」
 高等部の校舎に足を踏み入れたことのない人間に、待ち合わせに適した場所を決められるはずもなく、無遠慮なノイズに追い立てられて、気持ちだけが焦っていく。
 「……前に……二人……隠れた場……」
 「何だって? おい、奈緒!?」
 叫んだ途端、耳障りな電子音を最後に何も聞こえなくなり、完全に通話が途絶えてしまった。

 再び真っ暗になった部屋の中で、透は携帯電話を念入りに調べた。しかし明かりのない場所で出来ることなど、たかが知れている。
 「どうなってんだよ?電話のくせに!」
 ようやく通話が出来るようになったレベルの田舎者が、充電器の存在を知るのは、もう少し後のことである。
 何も答えてくれない電話機を握り締め、透は彼女が残した暗号のようなメッセージについて考えた。
 声が途切れてよく分からなかったが、繋ぎ合わせると「前に、二人で隠れた場所」と言われたと思う。たぶん具体的な場所の名前も告げられたはずだが、肝心な部分が分からない。
 「隠れた場所? 二人で? 高等部……だよな?」
 部屋の中が明るくなり、少しずつ周りが見えるようになった。薄ぼけた月が雲を蹴散らし、カーテンのない殺風景な窓辺に青白い光を落としている。
 ようやく主役のお出ましかと夜空を仰いだ透の脳裏に、いつかの風景が浮かび上がった。薄暗い部屋の中で、上から差し込む透き通った光――。
 「そうか、体育倉庫だ!」
 初めてのバリュエーションの時だったか。奈緒との関係を冷やかしてくる先輩達から逃れようと、二人で体育倉庫に逃げ込んだことがある。二人が隠れた場所で、高等部からも行けるとすれば、そこしかない。
 「月曜日の昼休みに、体育倉庫だ」
 暗がりに居ながらにして、温かな光を手にしているような。非常に満ち足りた気分であった。
 はるか遠いアメリカで独り悶々と過ごした日々を思えば、月曜日に会えるという約束は、何倍も堅実で、心強い。たった一日。あと一日待てば、写真ではない本物の彼女に会えるのだから。
 「明後日、会える」
 窓辺を照らす月明かりと、久しぶりに聞いた彼女の声が、寒々とした部屋を安らぎの空間に変えていく。それと同時に、三十六時間のフライトと試合の疲れが一気に押し寄せてきた。
 「月曜日に体育倉庫。昼休みに……体育倉庫。
 明日は……電気……買わなきゃ……」
 透は段ボール箱に寄りかかると、吸い込まれるように眠りに落ちた。通話も出来ず、光源にもならなくなった携帯電話を、両手にしっかりと握り締めて。






 BACK  NEXT