第40話 北斗 VS 海斗 (前編)

 静かな朝だった。
 透は目覚まし時計の秒針の音で目が覚めた。
 布団の中から腕を伸ばし、手探りで時計の在り処を確認すると、役目の果たせなかったアラームの解除を試みる。
 朝の習慣として体にしみついている一連の動作は、まどろみから抜け出たすためには必要な儀式であったが、今朝はどういうわけか頭が冴えており、その理由を探して視線を這わせた側から得心した。
 昨日、唐沢は北斗に試合開始を朝の五時と告げていた。現在、その五時である。
 「なあ、ハルキ?」
 同室の遥希が目覚めていることは、頻繁に繰り返される寝返りの物音で気づいていた。人より神経過敏な彼は、うつ伏せ寝の体勢でしか熟睡できない性質である。
 「唐沢先輩がこんな朝早くに指定したってことはさ、見にくるなってことだよな?」
 「ああ、皆にも内緒だって言っていたし」
 「でも……」と言ったきり、透は口ごもった。
 光陵テニス部の礎を築いたとされる元部長の北斗と、そこに新たな歴史を刻もうとする現部長の唐沢と。新旧部長による直接対決が近くの合宿所で行われている。
 本気を出した唐沢はどんな戦い方をするのだろう。そして、彼を迎え撃つ兄・北斗は――。
 ふたたび遥希が寝返りを打ちながら、ついでのようにして視線をよこす。
 透はそれを仰向けに寝転んだまま、首だけを傾けて受け止めた。
 朝の光が窓際に寝転ぶ遥希の体に薄ぼんやりとした陰影をつけている。
 光の強さから察するに、今日はまずまずの晴天といったところか。快晴とは言えないまでも、試合中止にせざるを得ないほどの悪天候でもないようだ。
 時計の針がコチコチと律儀に時を刻んでいる。
 そろそろ決断しなければ。1セット6ゲームの短い試合では、どんなにもつれたとしても一時間もかかるまい。
 遥希が重ねていた視線をふいっと外し、二度、三度と寝返りを打った。
 やはり遥希も迷っているのだろう。薄い布団にくるまり悶える様には躊躇が見える。
 昨日の対戦で、北斗が光陵テニス部の元部長を名乗るに相応しい兵であることはよく分かった。本気を出さずしてルーキー二人を退け、それでもまだ充分な余力を残していた。
 早すぎる時間帯を口実にしていたが、唐沢は誰にも見られたくないと思っているのかもしれない。「負ける勝負は挑まない」と公言する彼が、兄の手によって呆気なく葬り去られる瞬間を。
 透とて唐沢が無様にやられる姿など見たくない。だが、テニスプレイヤーとしては見逃したくない一戦でもある。
 頭も体も目覚めているのに床から出るに出られず、悶々としていると、遥希とまた目が合った。
 「あのさ、こういう風には考えられない?」
 遥希が珍しく遠慮がちに、しかし両目をしっかり見開き問いかけた。
 「部長のことだから、本当に見られたくなかったら、俺達の前で時間を言わないと思うんだ。皆に内緒だって言ったのも、練習に響くといけないからで、あくまでも建て前の話じゃないかって。
 だから朝の自主トレってことで、勝手に覗く分には問題ない」
 「そうか……。そうだよな!」
 ずいぶん手前勝手な解釈と知りつつ、透は遥希の提案に便乗することにした。
 今から自主トレと称して、山の麓にある北斗の合宿所までランニングに出かける。その途中、“偶然”部長とOBの試合を目撃したので、後学のために休憩を兼ねて立ち寄った。
 こんな苦しい言い訳がまかり通るとは思えぬが、光陵テニス部始まって以来の大一番をこの目で見ることができるなら悔いはない。後できつい仕置きが待っていたとしても。
 そうと決まれば話は早い。
 透と遥希は同時にベッドから飛び起きた。そして、同時に噴出した。
 二人とも寝起きだというのに、すでにジャージに着替えている。
 「行こうぜ、トオル!」
 「おう!」
 ランニング用のシューズを履いて、汗拭き用のタオルとドリンクを携え、とりあえずの体裁を整えたところで走り出す。
 前日に自分達がまんまとしてやられたオムニコート。そこで唐沢がどんな戦法で挑むのか。戦術の才に長けた弟を相手に、北斗はどんな手段で対抗するのか。
 朝の新鮮な空気を突き破り、二人は全速力で山道を駆け下りた。


 ゲームカウント「2−2」。
 透と遥希が着いた時には、試合は第5ゲームまで進んでいた。
 両者ともサービスゲームをキープしながら、1ポイントを争うシビアな攻防を続けていると、一足早く到着した弟の疾斗が教えてくれた。
 「それで、疾斗? お前はどっちの味方だ?」
 兄弟のいない透は目の前の試合もさることながら、疾斗が二人の兄のどちらの側につくのか、興味があった。
 中学時代は歳が近いこともあり、疾斗は次男・海斗に懐いていた。だが、昨日の試合では長男・北斗のパートナーを嬉々として務めており、すっかり北斗陣営に取り込まれている様子であった。
 「個人的には海斗だけど、唐沢家の平和を考えると兄貴だな」
 「なんだ、そりゃ?」
 「正直、海斗には勝って欲しいさ。子供の頃から兄貴を超えたくて、ずっと追い続けてきたのも知っているし、何だかんだ言って、俺のこと一番分かってくれんのも海斗だから。
 けど、実際問題、兄貴が負けたら明日からの生活に支障が出るからさ」
 「生活に支障が出るって、そんなにひでえのか?」
 「ああ、負け試合のあとの兄貴は最悪だ。
 海斗の場合はいくら機嫌が悪くたって放っときゃ治るけど、兄貴の場合は実害が出る。主に俺に」
 己の立場の弱さをうっかり吐露して、ばつが悪くなったのか。疾斗が日焼けで赤茶けた頭を鬱陶しそうに掻きながら、唇を尖らせた。
 「これでも苦労してんだぜ。
 ムードメーカーっての? そういう役回りは末っ子の俺がやるものと思われてっから。
 親父と兄貴と海斗。野郎三人の誰の機嫌が悪くても、俺がどうにかしなきゃなんねえし。
 うちの親父は一応坊主だから、酔っぱらった時しか面倒を起こさねえけど、兄貴の場合は素面で面倒起こすから、余計に性質が悪い。
 しかも今回は実の弟が相手だろ? 万が一、兄貴が負けたりしたら、俺の被害はハンパねえ。
 そうなるよりは、野郎三人の中で一番害の少ねえ海斗が負けてくれたほうが家内安全。万事上手く収まるってわけよ」
 末っ子の苦労を切々と訴えていた疾斗だが、ひと通り話し終えたところで、ふと真顔になった。
 「それに、兄貴には強いままでいて欲しい。自分勝手で、強引で、わがまま放題の兄貴だけど、やっぱ負けるところは見たかねえな」
 末っ子の複雑な心境は漠然としか掴めなかったが、尊敬する兄への思いは透にも理解できる。
 目標とする相手には強いままでいて欲しい。いずれ越えたいと願う気持ちとは裏腹に、決して越せない存在であって欲しいと願う。

 コート上では一進一退の攻防が続けられていた。
 技量はともに互角だが、経験値では北斗のほうが歳の分だけ有利に見える。それを唐沢がいかにして崩すかが勝負の分かれ目となるようだ。
 両者一歩も譲らずの攻防が続く中、コートに視線を置いたまま、遥希がぽつりと呟いた。
 「俺、ずっと部長が苦手だった。
 無関心なようでいて、部員一人ひとりをちゃんと見ていて。心の中まで見透かされているみたいで嫌だった」
 唐突に切り出されたタイミングからして、それはただの独り言として聞き流すべきものかもしれないが、普段クールな遥希がこんな風に人前で心の内を明かすのは珍しく、視線を合わせぬところが殊更本心に近い告白にも思え、透は彼の横顔をじっと見た。
 疾斗も同じことを感じたらしく、「おや」という顔つきで遥希と透を交互に見やっている。
 これも合宿の成果の一つだろう。
 透はここ数日で劇的な変化を遂げたライバル関係を疾斗にも話してやりたい衝動に駆られたが、まずは自ら殻を破ろうとしている遥希の言葉に耳を傾けた。
 「俺は昔の部長に似てるって。
 だからかな。あの人、俺のことは全部お見通しでさ。
 何をやっても、どう取り繕っても、手の内で転がされている気がして、すごく嫌だった」
 「それって、普通は喜ぶところじゃねえの? 何にも言わなくても、お前のことを分かってくれんだろ?」
 「プラス思考のお前には一生分かんないと思うけど、俺は嫌……っていうか、怖かった。
 父さんが元プロじゃなければ、もっと自由に生きられたのにって思うくせに、結局、逆らえなくて。それでも尊敬してて、超えたいとも思ってて。でも、敵わなくて。
 そういう、いじいじした情けない部分? 葛藤ってヤツ? 人に知られることが怖かった」
 「別に、いじいじしてようが、ぐるぐるしてようが、良いんじゃねえか? そこも含めて遥希だろ?」
 「ほんと、お前はお気楽で良いよな」
 遥希が浅い溜め息とともに、一箇所に集中させていた視線を透に向けた。目尻を下げて半笑いする顔は、呆れたようでもあり、羨ましそうでもあり。
 だがそれも一瞬で、彼はすぐに視線をもとに戻すと、すっと背筋を伸ばすように表情を引き締めた。
 「俺が昔の部長と似ているって言うんなら、あそこにいるのは未来の俺ってことになる。
 だから、部長には勝って欲しい。追い続けていれば越えられるってことを、俺の前で証明して欲しい」
 唇を横一文字に引き結び、真剣な眼差しでコートを見つめる遥希が、この時の透には大人びて見えた。
 遥希とは数日前、互いに父親から卒業しようと話したばかりである。
 透の考える卒業とは単純な巣立ちであるのに対し、遥希の思い描いた卒業は過去を清算し乗り越えることだったと、今さらながら気づく。
 それ程までに、彼は父親に縛られてきたのだろう。
 唐沢と同様、遥希自身もどこかでケジメをつけようとしているに違いない。
 憧れと不満。愛情と憎悪。心に潜む様々な矛盾と葛藤しながらも、彼等は己を縛りつけてきた運命を自らの力で乗り越えようとしている。
 「俺も唐沢先輩には勝って欲しい」
 そう答えたものの、透はあまりに短絡的な己を恥じた。
 透の場合、唐沢の勝利を願うのは、尊敬する先輩への忠誠心が半分と、もう半分は実に不純な動機である。
 北斗が勝利する姿は二度と見たくない。出来れば、昨日のあの「オムニコート、最高!」とはしゃいでいたムカつく笑顔を忘れるぐらい、完膚なきまでに叩きのめして欲しいのだ。
 これでは「お気楽」と言われても仕方がない。

 「ふ〜ん。相変わらずだな、北斗先輩は」
 聞き覚えのある声に振り返ると、三年生の藤原が立っていた。
 いつの間にギャラリーが増えたのか。コートの周りには『闇の光陵杯』と関わりのない部員達も全員顔を揃えている。
 「シンゴ先輩、なんで?」
 「海斗との付き合いは、俺のが長げえから。あいつの考えは読めんだよ。
 他の部員に迷惑をかけずにベストコンディションで試合に臨むには、この時間のここしかねえ」
 藤原は、感心したように頷く後輩二人を認めて気を良くしたのか、
 「第一、俺のおかげだからな。この夢の兄弟対決が実現できたのは」
と言って、得意げな笑みを差し向けた。
 つくづく鼻のよく利く先輩だと、透は思った。
 藤原は誰に対してもフランクな付き合い方をするが、決して自分から他人のプライベートに踏み込むような真似はしない。踏み込んだとしても、それはいわゆる「恋バナ」などの差し障りのない話である。
 但し、ひとつだけ例外がある。
 部内でも勝負師と称される彼は、こと勝負に関しては己の嗅覚に従って行動する。しかも、その勝負にやり甲斐や見応えがあればあるほど、嗅覚も鋭くなっていく。
 今回もそれが働いたに違いない。試合に出られなかったというのに、まるで一仕事終えたかのような顔である。
 「で、カウントは?」
 「いま3−3で、第7ゲームに入ったところです。
 さっきから、ずっとこんな感じなんですよ。互角というか。どっちも攻めあぐねているようで」
 透は一進一退の攻防戦を簡潔に伝えたつもりだが、それを聞いた藤原がつと眉根を寄せた。
 「いや、互角じゃねえな。いつもの海斗らしくないプレーだ。
 たぶん、させてもらえねえんだろうけど」
 「それって、どういうことですか?」
 「海斗が得意とするラリー中にタイミングを外す戦法な? 要するに、あれは球種やスピードを変えることで相手のミスを誘う作戦だ。
 ところが北斗先輩はその変化が起きる前にライジングで返して、海斗の仕掛けをことごとく潰している」
 「でも、北斗先輩はいうほどライジングは使っていませんよ?」
 「ライジングはほんの一例に過ぎない。
 北斗先輩は特別足が速いとか、パワーがあるとか。目立った能力は一つもねえし、決め球を持っているわけでもない。
 けど、あの人、バランス感覚だけは無敵でさ。いきなり速いボールを打ち込んでもフルスィングで返されるし、深いコースを突いても、高い打点から叩き返される」
 「つまり揺さぶりが利かないと?」
 「そういうことだ。
 どっちが打ち負けるか、根競べってところだろうが、そうなると海斗の方が体力的にも分が悪い。
 北斗先輩、精神面でも、肉体面でも、タフだから」
 元陸上部の藤原ならではの見解だ。彼の場合、技術や戦術に加え、プレイヤーの身体能力も考慮して判断を下す。
 言われてみれば、全体を通して唐沢の打球にいつものようなキレがない。
 特にスライスに関しては、得意な球種であるにもかかわらず、効果的に使われた場面は一度もない。それどころか、スライスを打つ頻度からしていつもの半分以下である。
 決め球のドリルスピンショットが出せずにいるのも、出そうとする直前で北斗がフラットに変えて防いでいるからだろう。
 相手の得意とするプレーを強引にねじ伏せ、自滅へと追い込んでいく。まさに北斗の性格そのままのプレースタイルだ。
 「あのさ、北斗先輩のフォーム、おかしくない? 昨日はあんな打ち方しなかった」
 それまで藤原とのやり取りを黙って聞いていた遥希が、コートの中を指差した。
 中を見やると、確かに北斗はボールを打つ直前に踵を滑らせ、体の向きを変えている。昨日とは明らかにフォームが違う。
 困惑顔の二人の視線を受けて、疾斗が出番とばかりに解説役を買って出た。
 「ああ、あれは兄貴の十八番。兄貴がオムニを好きな理由もそこにある」
 通常はボールを迎える際に、下半身を安定させてからスィングに入るのが基本であり、試合中なら尚更、ベストショットを放つためにも体の安定性を重視する。
 ところが北斗は、せっかく安定させた体の向きを直前で変えることにより、相手にボールの打つ方向を読ませないよう工夫をしているという。
 ほどよく摩擦の利いたオムニコートならではの、そしてバランス感覚に長けた北斗だからこそ可能なプレーである。唐沢が苦戦するのも無理はない。

 ゲームカウント「4−4」と引き分けたところで、サーブ権を有する唐沢がベースラインから反対側のコートに立つ北斗に声をかけた。
 「ここから一気に決めさせてもらって良いですか?」
 落ち着いた口調とは裏腹に、その内容は兄・北斗に対して勝利宣言とも取れる大胆なものである。
 唐沢が勝利するには、ここから2ゲームを連取しなければならない。しかし厳しい競り合いの続く展開を、どうやって崩すのか。
 全員が固唾を呑んで見守る中、唐沢からサーブが放たれた。
 「すげ……」
 透は感嘆の声を漏らしかけて、驚きのあまり絶句した。
 見慣れたフォームから繰り出されたスライス・サーブ。それはまるで鳥の羽根のような軽やかさでコートに舞い降りたかと思えば、少しの弾みを見せずに出ていった。
 黄色い羽根が曲線を描きながら氷の上を滑っていく。これがテニスの試合であるという事実を度外視すれば、そんな印象だ。
 空気抵抗も、摩擦も、重力も感じさせず、一瞬で通り過ぎていく。極限までボールの回転数を上げればそうなるのかもしれないが、フォームはいつもと変わらない。
 「なるほど、そういうことか」
 ノータッチ・エースを決められた北斗が不敵な笑みを浮かべ、それに対して唐沢も似たような笑みを返した。
 「オムニが得意なのは貴方だけじゃありません」
 「わざわざニューボールまで用意して、ご苦労なこった」
 「他の選手が相手なら、こんな苦労はしませんよ」
 「だろうな。8ゲームかけて、わざわざヘタレボールを作るなんざ、よほどの執念がなけりゃ出来ねえ芸当だ」

 「おい、疾斗!? ヘタレボールって何のことだ?」
 透はすっかり兄弟対決の解説者と化した疾斗の首根っこを捕らえて、説明を求めた。
 「そう急かすなよ。俺もここからじゃ良く見えねえし。
 けど、兄貴の口振りからすると、海斗はわざとボールを毛羽立てたんじゃねえか」
 「だけど、昨日はニューボールを使うって言ってたぞ?」
 「そこがミソなんだ。いくら兄貴でも目の前で開封したてのニューボールを見せられれば油断する」
 「じゃあ、唐沢先輩はニューボールをあんなスライスがキレッキレになるまで毛羽立てたっていうのか? たった8ゲームで?」
 「摩擦の大きいオムニなら出来ないことはない。意図的にトップスピンを連打すれば、ちょうど8ゲームぐらいでヘタレてくる。
 海斗はそれを使ってスライスの威力を上げたんだ」
 「じゃあ、唐沢先輩が今までスライスをセーブしていたのは、このために?」
 「ああ、たぶんな……」
 疾斗から説明を聞かされて、ようやく合点がいった。前半の「らしくない」と思われたプレーの裏側で、唐沢は残り2ゲームで決着をつけるための罠を着々と仕掛けていたのである。
 先の宣言通り、第9ゲームはボールを味方につけた唐沢の独壇場だった。
 猛攻撃というよりは、事もなげに相手を突き放していくような。唐沢のスライスを中心とした鮮やかなショットがゲームを支配した。
 ゲームカウント「5−4」。ここまで来れば、唐沢の勝利は疑いようがない。誰もがそう確信した。
 ところが次の第10ゲームでは、ふたたび北斗がサービスゲームをキープした。
 「ヘタレボールでチップ・リターンからブレイクを仕掛けるつもりでいたんだろうが、俺には通用しない」
 チップ・リターンとはスライス回転をかけた返球で、これを使ってサーバーを足止めし、その隙にリターナーがネット前へ出て攻撃を仕掛ける、いわゆる「チップ&チャージ」を成功させるためのネックとなる一打である。
 スライスの威力が上がった今なら、深いコースを狙えば高い確率で唐沢がゲームの主導権を握れるはずだった。
 しかし成功率の極めて高いと思われたチップ・リターンも、北斗の前ではさほど効果はなかった。
 またもゲームが引き分けたところで、藤原が深い溜め息を吐いた。
 「やっぱ、北斗先輩のバランス感覚は無敵だったか。オムニコートであそこまで速くダッシュできるのは、あの人ぐらいだ」
 昨日オムニコートで散々泣かされた透には、その言葉の意味がよく分かる。
 あのコートは砂の量が均一ではないために、勢いをつけてスタートを切ろうとすると、場所によっては足を取られる。
 仮に上手く走り出せたとしても、ネットにつく過程で同じ現象が起こる可能性は高い。しかもサーブを打った勢いを利用して踏み込むなど、そのリスクを高めるようなものである。
 それを北斗は持ち前のバランス感覚で走りながら体勢を整え、鋭いスライスのかかったチップ・リターンをコート前方で処理して、唐沢が到着するのと同じ頃にはネット前について攻撃できるのだ。
 砂地に取られたのと反対側の足で、バランスを取りながら前へ進む。
 北斗のプレーに華やかさはないが、彼は己の能力の使い方と使い時をよく心得ている。それ故、どんな奇襲をかけたとしても崩れない。
 これも「草トー育ち」の強みか。「百戦錬磨」という言葉は、彼のためにあるように思えた。

 藤原の目つきが勝負師のそれに変わった。彼が他人の試合で、この顔になるのは珍しい。
 「北斗先輩の強みは、あの無敵のバランス感覚だ。
 俺達が必死になってフットワーク練習を続けるのは、素早くボールに追いつくことだけが目的じゃない。
 ボールを打つ瞬間に、いかにして体の軸を安定させるか。安定した軸から引き出した力を、いかに無駄なくボールに伝えるか。そのための訓練だ。
 体重を乗せるにしても、遠心力を利用するにしても、軸が定まらなければ力は分散するからな。
 だけどあの人は、どんな体勢でも絶対に軸がぶれない。体操部に入っていたらインハイまで行けたんじゃねえかと思うほど、抜群のバランス感覚を持っている。
 ここだけの話、前に北斗先輩と試合をした時、俺はしばらくコートに立つのが怖かった。下手に一撃必殺の決め球を出されるより、毎回ベストショットで返されるほうが怖いと思い知らされた。
 どの返球も体重の乗ったボールが戻ってくるんだから、こっちは無理やり強打で壁打ちさせられているようなモンだろ? おまけに体力は異常にあるし、頭も切れるし。
 ホント、あの人は怖えよ」
 藤原はもう一度「あの人は怖えよ」と繰り返し、思い直したように軽く首を振ってから、先を続けた。
 「次のゲームは海斗が取るとして、問題はその次だ。
 真嶋? 俺の買い被りじゃなければ、さっき海斗が『一気に決める』と宣言しただろ? あれは、もしかしたら何かの布石かも知れない」
 「と言うと?」
 「北斗先輩をネット前に誘き寄せるための罠か。でなきゃ、あの用心深い海斗が試合中に勝利宣言をするわけがない」
 言われてみれば確かにそうだ。
 唐沢はたとえ勝利を確信したとしても、試合途中で相手に手の内を悟られるような真似はしない。勝負事には常にどんでん返しが付きまとうことを、彼自身が一番よく分かっている。
 では、わざわざ北斗をネット前へ誘き寄せて、一体何をしようというのか。そこまではさすがの藤原も読めないようで、それ以降は黙したままだった。

 藤原の予想通り、唐沢がサービスゲームをキープして迎えた第12ゲーム。ここで北斗が自身のサービスゲームをキープすれば、「6−6」でタイブレークにもつれ込み、勝負はまた振り出しに戻る。
 精神的にも、体力的にもタフな北斗を相手にする唐沢としては、このゲームを何としても死守したいところだろう。
 透のとなりで遥希が試合の成り行きを微動だにせずに見つめている。
 よほど緊張しているのか、きつく結んだ唇が紫がかっている。
 「大丈夫か、ハルキ?」
 透の問いかけにも、彼は頷くのが精一杯の様子である。
 「そうだ……。これ、使うか?」
 透はポケットからテニスボールを取り出した。
 「俺もよく力が入り過ぎて、金網の跡がついたりするからさ。試合を観戦する時はいつも持ち歩いている。
 お守り代わりに握っていると、案外、落ち着くぜ」
 てっきり「お気楽な奴だ」と突き返されると思ったが、意外にも遥希は素直に受け取った。
 「二人とも心配するな」
 背後から藤原が、透と遥希、二人の肩を抱き寄せた。
 「海斗の勝負強さは俺が一番よく知っている。
 俺が陸上部からテニス部へ転向したのも、あいつが勧誘に来たからだ。他の奴に誘われたとしても、きっぱり断っていた」
 「それって、唐沢先輩にハメられたからじゃないんですか?」
 透が聞いた話によると、藤原がテニス部に転向したのはギャンブラー・唐沢の陰謀によるもので、テニス部員の間ではそれが定説となっている。
 「タ〜コ! いくら俺でも、そこまでバカじゃねよ」
 「じゃあ、なんで?」
 「勘だ。あいつに付いていけば、面白れえことが待っている気がした。
 勝負事に関しては、あいつ、無敵だから」
 「さっき北斗先輩のことも無敵だって言いましたよね?」
 「それは能力的な話だろ? だけど、海斗の無敵は勝負と名のつく全てにおいて……」
 勝負師の顔に、コートの外では決して見せない好戦的な笑みが浮かんだ。
 「勝負はここからだ。お前等、あいつの戦い方をよく見とけよ。
 唐沢海斗は負ける勝負は挑まない。それが、あいつが勝負師じゃなくて『軍師』と呼ばれる所以だ」






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