第42話 封印されたビデオテープ

 「北斗先輩? さっき話していた親父のビデオ、俺にも見せてもらえませんか?」
 「ダメだ」
 「どうしてですか?」
 「あれは光陵テニス部に代々伝わる門外不出の秘蔵Vだ。そう簡単に見せられるか」
 「あのう……北斗先輩?」
 それなら、なぜOBのアンタが好き勝手に持ち歩いているのかと言いかけて、透はすんでのところで思い止まった。となりで弟二人がばつの悪そうにしている姿が見えたのだ。
 非常識な身内を持つ者の辛さはよく分かる。透自身、何度親子の縁を切ろうと思ったことか知れやしない。
 これ以上、彼等を追い込むような真似はしたくない。
 透は口にしかけた疑問を飲み込んだ。
 ふいに空いた、たぶん傍目には躊躇とも呼べない一瞬の間を目ざとく捉えて、北斗が言った。
 「つうことで、コーチも心配してんだろ。とっとと帰るぞ」
 非常に分かりにくいスタイルを取ってはいるが、これも北斗なりの配慮だろう。ここへ来る途中の唐沢の尋常ならぬ態度から、個人的な感情はさておき、この件に関しては現部長の意向を尊重すべきと判断したに違いない。
 「でも……」
 気持ちを整理して話せなかった。
 透にとって龍之介はもっとも近くて遠い存在だ。
 誰よりも近くにいるのに、父親らしい温もりを与えられた記憶はない。それどころか、近づこうとするたびに冷たく突き放される。
 そのくせ転機となる出来事には、必ずと言って良いほど龍之介が絡んでいる。
 偶然なのか、意図したことなのかは分からない。
 ただ親元を離れ、自分の意思で居場所を決めて歩けるようになった今、おぼろげながらも分かるのは、龍之介には透の知らない側面がいくつもあるということだ。
 残念ながら、テニスを止めて二十年以上も経つ父との接点はほどんどないし、その足跡を知る術もない。
 それ故、ハッキリとした自覚はなかったが、ひょっとしたら自分も唐沢や遥希のように父を乗り越えたいと願っているのかもしれない。そのために、今まで知らずに過ごしてきた父の人間性をもっと深く知ろうとしているのかもしれない。
 北斗の話では、龍之介の現役時代のビデオテープが存在するという。
 もしもその話が本当なら、何としても見てみたい。
 父が選手生命と引き換えにしてまで目指した場所がいかなるものなのか。父が見ていた景色を、息子の自分もこの目で見たいと切に願う。
 これら複雑な想いをどうやって説明すれば良いのか。
 透が柄にもなく言いよどんでいると、北斗がひどく不機嫌そうに、けれど、どこかで分かっていたという風に、しかめっ面を崩して言った。
 「まったく、しゃあねえな。だったら、こうしよう。
 ビデオは一旦テニス部に返却する。あとの判断は日高コーチに任せる。
 海斗も真嶋も、それで良いな?」

 透が合宿所へ持ち帰ったビデオテープを見るなり、ふてぶてしさが売りの日高の顔が情けない歪み方をした。
 ビデオケースに貼られた細長い背ラベルには記録時の年度と日付だけで、他には何も書かれていないというのに、その日は常に彼の記憶の中心にあるようで、こちらが口を開くよりも先に出どころを尋ねてきた。
 「トオル、どこでそれを?」
 「北斗先輩から預かった、というか、返してもらった」
 透はひと通り事情を説明してから、改めて日高に自分の想いを訴えた。
 「これには親父の最後の試合が映っているんだろ? だったら、俺も見てみたい」
 「興味本位で見るもんじゃない。分かっているのか?」
 「正直、自信はない。けど、いま見ておかなきゃ後悔すると思う。
 親父は家じゃ何にも言わねえし、あの性格だから、聞いたところではぐらかされるのがオチだ。
 知りたいんだ、本当のことを。親父がどんな選手で、どんな戦い方をして、そんで……どんな風に止めたのか。人伝えじゃなくて、自分の目で確かめたい」
 日高は黙って透の話を聞いていた。情けなく歪んだ表情を繕いもせずに、ビデオケースの背中の辺りをじっと見つめている。
 彼はこのビデオの中身を実際に見てきただけでなく、透の抱える心の傷も、龍之介の事情も全て把握している唯一の人物だ。また、龍之介の肩の故障に関しては、いまだ負い目を感じている。
 そのことを考えると、日高にビデオテープの存在を思い出させたこと自体がひどい仕打ちに思えて、透はそれ以上、自分の気持ちを押し通すことが出来なくなった。
 因縁めいたビデオテープを前に、日高も、透も、そして心配してついてきてくれた唐沢も、黙したままだった。
 「これも巡り合わせか……」
 長い沈黙のあと、溜め息交じりに吐いた日高の言葉に、唐沢がつと眉根を寄せた。
 「コーチ、まさか?」
 「唐沢。夕食後、全部員を会議室に集めろ」
 「全部員って、何もそこまでする必要は……」
 「例の件をハッキリさせるためにも良い機会だ。そのあとでインターハイの出場メンバーを発表する」
 部員の自主性を重んじる日高にしては、珍しく高圧的な態度であった。あの口達者な唐沢にさえ有無を言わせぬ迫力がある。
 日高自身、何か思うところがあるのだろう。会話の内容から首脳陣は他にも問題を抱えているようにも聞こえたが、この時の透には父の過去と向き合うだけで精一杯だった。

 夕食後、テニス部全員が会議室に集められた。
 すでにOBが残したビデオテープの噂は広まっており、日頃からミーティングと言えばおふざけの場だと勘違いしている連中も、神妙な面持ちで席に着いている。
 「トオル、ここ、空いているか?」
 そう言いながらも、透の返事を待たずして、兄貴分の千葉がとなりの席に腰を下ろした。
 「あ、いや……そこは止めといたほうが。俺、また迷惑かけるかもしれないし」
 実際、どうなるか見当もつかなかった。最悪の場合、地区予選の時のように吐いてしまうかもしれない。
 「なに言ってやがる。いつものことじゃねえか」
 「じゃあ、俺もいつものことだから」
 千葉との会話に気を取られている隙に、すかさず遥希が反対側の席を陣取った。
 二人で示し合わせたのか。たまたま同じ考えだったのか。右に千葉、左に遥希と、気がつけばいざという時のお守り役が両サイドに揃っている。
 透は彼等の気遣いが嬉しい反面、情けなくもあった。覚悟を決めたはずなのに、壇上にかけられた映写スクリーンを目にしただけで、早くも体が拒否反応を起こしている。
 普段、何気なくしている呼吸が気になって仕方がない。部屋の酸素が薄い気がして息苦しい。
 膝が勝手に貧乏ゆすりを始めている。それを無理やり押さえつけようとすると、他のところへ震えの連鎖が起きる。
 「ああ、やべぇ。メシ食ったあとだし、これで暗くなったら、完ペキ寝るな?」
 千葉がいかにも退屈そうに欠伸をしながら、透の肩に寄りかかってきた。
 体の触れ合う個所から細かい震えが千葉のところにも届いているはずだが、彼はとりたてて気に留める様子もなく、やたらと大きな欠伸を連発している。
 遥希も時おり首を傾けたり、脚を組み替えたりするだけで、知らん顔を通してくれている。
 脇を支える二人から「どうということはない」と静かに諭されているようで、透は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 壇上に上がった唐沢が、全員が揃ったのを見届けてから例のビデオテープをデッキにセットした。
 部屋の照明が落とされたと同時に、透の耳元に誰かの吐息がかかる。
 「辛くなったら言えよ。今度は、俺がお前の支えになってやる」
 素っ気ない囁き声は、左の席からだった。

 暗闇からタイムスリップして映し出されたのはインターハイ東京都予選の会場と思しきテニスコートで、そこにはまだ幼さの残る高校生の龍之介がユニフォーム姿で立っていた。
 本戦出場をかけた大事な一戦であることは、スコアボードと観客の集まり具合からも見て取れた。ここで龍之介が勝たなければ光陵学園はあとがない。
 「玄、しっかりアップしとけよ。お前まで絶対回してやるからな」
 ヤンチャ臭い笑みを浮かべた龍之介が、腰から刀を抜くような仕草でラケットを大きく振りかざし、その切っ先を画面の外へ突きつけた。
 試合の記録が目的とあってカメラは龍之介を追いかけているが、会話の相手は当時部長を務めていた日高に違いない。
 なぜか透は若かりし父の姿に懐かしさを覚えた。正確には見覚えがあるというべきか。
 サーブの体勢に入る前の準備段階として、ラケットのグリップをクルクルと回しながら握り具合を確かめる。それからボールを三回バウンドさせる。
 いずれも集中力を高めるために、透自身がよくやる仕草である。
 以前、母親にも「龍之介と似ている」と言われたことがある。その時はひどく気分を害したが、こうして客観的な立場で見るとそう思う。
 実に不思議な感覚だった。まるで自分の分身を見せられているような。
 生物学的には向こうがオリジナルだと分かっているが、感覚的にはもう一人の自分がそこにいるかのようである。
 龍之介にも何百本、何千本と、サーブ練習に多くの時間を費やした時期があったのか。あの集中力を高める儀式も、その過程で自然と身についたものなのか。
 スクリーンの中の龍之介がいまだかつてないほど身近に感じられる。昔から変わらぬ光陵テニス部のユニフォームと、同じ年頃であることも原因の一つだろう。
 儀式を終えた龍之介がコートの中の一点を見つめている。あの落ち着き方からして、上手く集中モードに入れたようだ。
 音のない静かな世界が透のもとにも降りてくる。集中力が高まった時に訪れる無音の世界が。
 上空に伸びやかなトスが上がる。振り上げられたラケットから快音が鳴り響く。
 父の最後の試合が始まった――。

 試合の内容は、透が想像していたような激しいものではなかった。
 当時の東京都予選のレベルは、今ほど高くない。テクニックよりも、どちらかと言えば力強さと正確さで優劣が決まり、特にファースト・サーブの成功率がポイントに影響するという、単調なゲーム展開だ。
 大した山場もないままに、ゲームカウント「4−4」と引き分けた第9ゲーム。ここまで一度も外れたことのない龍之介のファースト・サーブが、突如として入らなくなった。
 事の顛末を知る現役部員の間には緊張が走り、その空気を感じた透もまた息苦しさを覚えた。
 恐らく今まで無理を重ねてきた右肩が限界に近づきつつあるのだろう。
 本人は動じることなくセカンド・サーブの準備に入っているが、この段階で勝負の決め手となるサーブが危ういようでは、残りのゲームも苦しくなる。
 いつ破裂するとも分からぬ爆弾を抱えて、父はこのあとどうやって試合を進めるつもりなのか。
 ところが息子の心配をよそに、龍之介は続くセカンド・サーブであっさりサービス・エースを決めた。
 スクリーンの中の対戦相手も、透を始めとする現役部員も、双方が呆気に取られている。
 通常、二本のサーブのうちの一本目を外した場合、二本目は確実に入れようと緩めの打球を放つ。
 そう判断して、相手が前進したところを、龍之介はファースト・サーブと変わらぬ威力のサーブを叩き込んだのだ。
 これは単なる偶然ではない。二度目に同じやり方でエースを奪った直後に、透は確信した。
 父はわざと一本目を外したに違いない。そして油断した相手の隙を突いて、二本目で本気のサーブを放った。
 言わば、ダブル・セカンドならぬ、ダブル・ファーストだ。
 端から安全策を取る気はなく、最初のサーブをフェイクに使い、セカンド・サーブで勝負したのである。
 よほどサーブに自信がなければ考えつかない策であり、それを裏づけるものは日々の練習に他ならない。
 自らトスを上げて打ち込むサーブは、練習量がものを言う。観客には分からずとも、同じ道のりを辿った者にはプレーひとつで舞台裏が見えてくる。
 「親父……」
 常識外れの荒業を平然とやってのける龍之介。しかし父はすでに痛みを感じ始めている。
 サーブの前にラケットをクルクルと回す仕草 ―― 序盤では難なくやれていた動作が、第9ゲームに入ってからは見られなくなった。
 同じ癖を持つ透にはその理由がよく分かる。もうグリップを握るだけでも辛いのだ。
 あんな奇策を取ったのも、痛みを堪えてラリーを長引かせるよりは、一撃必殺で仕留めるほうが肩への負担も少ないと判断したからだ。
 事情を知らない観客たちが父のプレーに拍手を送っている。セカンド・サーブで勝負に出るなど、高校生にしては度胸があると思われているのだろう。
 会議室の張り詰めた空気も、いつしか熱気に変わっている。あの頃より高度な技術を持つ現役部員でさえ、父の豪胆さに驚きを隠せない様子である。
 だが問題はこのあとだ。立て続けに2ポイントも連取されれば、さすがに対戦相手も警戒する。父に次の一手はあるのか。

 「セカンドが返ってこねえんじゃ、話になんねえな。
 しょうがねえ。下から打ってやるか?」
 次に龍之介が見せたのは、ストロークと同じように下から打ち上げるアンダー・サーブの構えであった。
 「てめえ、ふざけんのも大概にしろよ!」
 当然のことながら、相手の選手が顔を赤くして睨みつけている。
 騙し打ちのようなサーブを放っておきながら、あたかもお前のレベルが低いと言わんばかりの物言いでは、誰しも馬鹿にされたと思うだろう。
 これも作戦のうちなのか。龍之介は相手に構わずボールを上から掴むと、胸の高さまで持ち上げた。
 「今から良いモン見せてやる」
 口の端を意地悪く歪める独特の笑い方。この相手を試す時の挑発的な笑みは、昔から変わらない。
 何かが来る ―― 透には「良いモン見せてやる」の台詞が、自分に向けられたメッセージに聞こえた。
 水平に保たれた左腕からボールがふわりと落とされる。それを後ろに引かれたラケットが音もなくすくい上げる。
 一連の動作がハッキリ見えるのは、大事な瞬間を見逃すまいと、全神経が父の一挙手一投足を追いかけているからだ。
 龍之介がラケットを下から斜め上に振り上げた。
 滑らかな半円を描くラケットから送り出されたボールは、ゆらゆらと不安定なリズムでネットを超えたかと思えば、サービスエリア内に着地すると同時に、地面に細かいバウンドを刻んでいる。
 あの特徴的なバウンドの仕方は、サイドスピン、つまりボールに横回転をかけたに違いない。
 サイドスピンはその性質上、空中にいる間は浮遊物のような不安定な軌道を描き、着地してからは短いバウンドを繰り返す。
 龍之介はボールにサイドスピンを加えることで、平凡なアンダー・サーブを軌道の読みづらい厄介なサーブへと変えたのだ。
 さっきまで怒りを露にしていた相手選手が、呆然とボールの去ったあとを眺めている。
 コート周辺から沸き上がる歓声。現役部員からも感嘆の声が漏れている。
 透は北斗がこのビデオテープをバイブルとして隠し持っていた気持ちが分かる気がした。
 ピンチをチャンスに、無難なサーブを敵からエースを奪い取る武器に。
 型破りな戦法で対戦相手を翻弄する父のプレーは見る者を魅了する。
 龍之介は次にどんな手を使ってくるのか。誰もが身を乗り出して、父のプレーを注意深く見つめていた。
 カランと不吉な音がしたのは、その時だ。
 「R.MAJIMA」と刻まれたラケットが、木製ならではの乾いた音をコートに響かせ転がった。
 「やっべ……これ、まだ借金残ってんだよなぁ」
 冗談めかして拾い上げる父の額にはじっとりと汗が滲んでいる。
 一瞬にして、透は現実世界へ引き戻された。
 父が突然アンダー・サーブに切り替えたのは、限界に近づいた肩に負担をかけないための苦肉の策だ。恐らくあと数分もすれば悲しい結末を迎えることになる。
 スクリーンの中の龍之介が小声で何か呟いているが、他の音に掻き消されて聞き取れない。父のプレーに興奮した観客たちが、拍手や声援を送っているのである。
 普通なら息子として誇らしく感じるはずの応援が、この時ばかりは恨めしく思う。
 龍之介は何と言ったのか。どんな想いで場内の応援を聞いていたのか。
 ふたたびサーブの構えに入った龍之介が、左腕を胸の高さまで持ち上げ、対戦相手に向かって挑発的な笑みを浮かべて言った。
 「次は返してくれるよな?」
 「止めろよ、バカ! もう限界だろ!?」

 熱気に包まれていたテニスコートが、透の叫び声とともに消えてなくなった。唐沢が異変を察知して停止ボタンを押したのだ。
 現実に戻ったはずなのに、父の姿が頭にこびりついて離れない。
 「もう、止めてくれ……」
 出来ることなら、ビデオテープと同じように父の過去も止めて欲しかった。
 今ならまだ間に合う。まだ致命傷には至らない。
 試合が中止になれば、傷つく人間はいなくなる。日高も、龍之介も、誰も傷つかない。
 頭の中が混乱していた。自分がどこにいるのか分からない。
 過去にいるのか。現在にいるのか。
 「トオル?」
 となりから遥希に揺さぶられて、ようやく透は我に返った。
 不安げに自分を見つめる部員一人ひとりの顔が視界に入る。彼等のいるこの会議室が現実であって、自分が止めようとした父の試合は何をしても変えられない過去の出来事だ。
 「俺は、何を……」
 「少し外で休んだほうが良い」
 遥希に促されて、透は会議室を後にした。

 気分は最悪だった。
 プレイヤーとして父の過去と向き合うつもりが、結局、耐えられなかった。
 唐沢の助言に耳を貸さず、日高にも無理を言って見せてもらったのに。
 一体、自分は何をやっているのか。
 「ちくしょう、何でだよ……」
 会議室から出た途端、脚の力が抜けて動けなくなった。
 遥希が支えようと踏ん張ってくれたが、小柄な彼では膝から崩れ落ちる体を食い止めることは叶わず、扉から二、三歩離れたところで二人してへたり込んだ。
 己が選手生命と引き換えにしてでも、チームをインターハイへ進ませようとした龍之介。その想いを分かっていながら、直視できない。まともにサーブも放てぬほど傷つき、それでも顔色一つ変えずに戦う父の姿を。
 会議室の中から歓声が聞こえる。透は戻って来られないと判断して、残りの部員で続きを見ることにしたのだろう。
 歓声が上がったということは、龍之介が例のアンダー・サーブを決めて、第9ゲームを物にしたのか。
 試合の続きが気にならなくもないが、あそこに戻るには勇気が要った。手を伸ばせば届く距離なのに、歩幅にして三歩もないはずなのに、体が震えて動けない。
 父の最後となるプレーを見届けることも出来ない自分が情けない。情けなく思うのに、やはりどうすることも出来なかった。
 「大丈夫だから」
 遥希が透の肩に腕を回した。
 「トオルが悪いんじゃない。あんなぶっ飛んだ試合見せられたら、誰だってビビるよな?」
 遥希は困ったような顔を見せてから、ふたたび透の肩を強く抱き寄せた。
 遥希から温もりを分けてもらうのは、いつ以来だろう。
 あれは地区予選の時だったか。村主にケガを負わせ、散々、吐いたあとに差し伸べられた、あの時の手の温もりが甦る。
 頭にこびりついていた龍之介の残像が少しずつ薄れていき、背中を包む遥希の声が現実のものとして響いてくる。
 「今朝、唐沢先輩と北斗先輩の試合を見てた時、俺にボールを渡してくれただろ? あの時は返事をする余裕もなかったけど、本当はすごく嬉しかった。
 いや……もっと前から。お前は最初から俺を『日高プロ』の息子じゃなくて、対等のライバルとして見てくれた。
 あの頃は、それがムカついて、しょうがなかった。初心者のくせに、偉そうにって。
 だけど、お前と付き合ううちに、それが救いになっていった。
 俺がガチガチに積み上げた壁を軽々飛び越えて、一人でいるな、一緒に全国行こうって、外へ引っ張り出してくれた。
 俺がここまで歩いて来られたのは、トオルのおかげだ。
 だから、今度は俺がお前の支えになってやる」
 いつの間に遥希はこんなに強くなったのか。
 アメリカと日本で二人が別々に過ごした三年間、遥希も挫折を繰り返し、数々の試練を乗り越え、成長したのだろう。そして、この合宿でも多くのものを吸収し、また一段と強くなった。
 昔ならライバルの成長に焦りを感じるところだが、今は素直に認められる。遥希は確かに強くなった。
 その遥希がともに進もうと待っている。
 「俺……やっぱ、戻るわ」
 「大丈夫か? 無理するなよ?」
 「無理するさ。ここで踏ん張んなきゃ、あのクソ親父に太刀打ちできねえかんな」
 片足ずつ、膝の具合を確かめながら立ち上がると、それを見届けた遥希が安堵したように微笑んだ。
 二人でわずか三歩足らずの短い距離を歩き、同時に会議室の扉に手をかけた。

 中に入るや否や、龍之介の怒鳴り声が聞こえた。
 「バカ野郎! お前等、インハイ行くんだろ!? 日本一目指そうって奴等が、こんなんでビビッてんじゃねえよ!」
 スクリーンに映し出された龍之介の画像が乱れて見えるのは、撮影を任された部員の手元が震えているからに違いない。これまでひた隠しにしていた肩の故障が、他の皆にも知れたのだ。
 スコアボードは「5−4」と、光陵学園が1ゲームをリードしたままで止まっている。
 龍之介がベンチからコートの外に向かって指示を飛ばす。
 「おい、誰か紐……いや、テープだ。ガムテープとグリップテープ、両方持って来い!」
 程なくして後輩らしき部員が、怯えた様子で言われた通りの品物を抱えてやって来た。
 予期せぬアクシデントに驚いたのか、先輩の気迫に圧されているのか。彼は両手で二種類のテープを差し出すと、あたふたと去っていった。
 画面を通して、部員たちの狼狽ぶりがありありと伝わってくる。
 必要な情報がどこからでも手軽に入手できる今と違って、当時は自分たちの頭の中の知識が全てだ。おまけにテーピングの用意もろくに出来ないチームのことだ。龍之介の助けになる人間は皆無だろう。
 二種類のテープを手にした龍之介は、まずグリップテープで右手首をラケットごと固定して、さらに上からガムテープで補強した。
 今でいうテーピングの代わりだろうが、それにしても固定する箇所が手首で良いのか。あれではグリップチェンジは行えない。
 となりにいる遥希も同じ疑問をもったのか、困惑した様子で見つめている。
 二人の疑問を見て取って、唐沢が補足を加えた。
 「この時点では、誰も真嶋先輩が肩を壊したとは思っていない。
 ガムテープを使った派手な演出のせいで、敵味方関係なく、全員、手首を痛めたと思わされている」
 言われてみれば、確かに龍之介は患部を悟られるような動作を一度たりともしていない。ラケットを落とした時でさえ、額に油汗を浮かべながらも肩には触れていなかった。
 そうとなると、手首を固定したことにも意味があるはずだ。
 いま龍之介の手首はウェスタングリップで固定されている。ベースラインでの打ち合いには適しているが、スライスをかけて処理するような場面、例えば片手のバックハンドやボレー、あるいはコンチネンタルグリップを使うであろうスマッシュは打ちにくい。
 恐らく相手もそこを中心に攻めてくる。バックハンド・ストロークか。あるいはバックボレーか。
 まさしく、それが龍之介の狙いであった。
 コートで向き合う父の手元を注意深く見ていると、両手でラケットを構える振りをして、秘かに左手を使ってグリップチェンジを行っている。
 先にグリップテープを巻きつけたことにより隙間が出来て、粘着力の強いガムテープの制約を受けずに、グリップを自由に動かせるようにしたのである。
 龍之介のパフォーマンスに騙された対戦相手が、案の定、バックハンドを中心に攻めてきた。
 コートを斜めに横切るショートクロスが決まったのは、この直後であった。
 相手の選手は唖然としている。拍手も歓声もないところをみると、観客たちも同様に驚いているのだろう。
 ガムテープで固定された手首から放たれたボールには、ウェスタングリップでは考えられないほどの強烈なスライス回転がかけられている。
 瞬時に行ったグリップチェンジを見落とした者には、魔法でも見せられたように思うはず。
 会場ごと欺いた龍之介が、コートの中から話しかけた。
 「なあ、玄? テニスってさ、ルールばっかで面倒臭せえけど、面白れえな?
 俺も、もっとはよ出会っとったらなぁ……」
 ふたたび画面が揺れた。部員の嗚咽らしきものも聞こえてくる。
 「しっかり撮れよ、記録係! 俺たちがどうやって頂点目指したか、あとに続く奴等に見せてやろうぜ」
 画面の乱れが激しくて、肝心の父の表情がよく見えない。
 後輩を叱咤する声には余裕を感じるが、その顔は苦痛を訴えているに違いない。でなければ、試合の最中に1ゲームのリードを保持するチームから嗚咽が聞こえるはずがない。
 右肩に負担をかけずに勝負を進めるためには、最悪、両手打ちでも返せるバックハンドのほうが柔軟な対応ができる。父はそこへ相手のボールを誘い込み、次々とポイントを決めていった。
 さっきまでの興奮が嘘のように、場内はしんと静まり返っている。
 コートで激しく打ち合う音に紛れて、部員たちのすすり泣く声が聞こえる。
 いまだかつてテニスボールの打球音がこれほど痛々しく感じたことはない。
 マッチポイントを迎えた龍之介が、大胆にも自らネットに詰めていった。
 万が一、ロブを上げられでもしたら、どうするつもりなのか。
 グリップチェンジは可能でも、あの肩でスマッシュを放つには無理がある。それが出来ないからこそ、オーバーヘッドのサーブをアンダー・サーブに切り替えたはずではなかったか。
 前に詰め寄る龍之介を退けようと、相手の選手がロブを上げた。だがマッチポイントの緊張からか、高さがない。中ロブ程度の低めのロブである。
 ネット前の龍之介がすぐさま後ろへ下がる。こうなることを見越していたかのような素早さだ。
 一瞬、透の頭の中で記憶が交錯した。
 左腕を支えにしてラケットを頭上で振りかぶる父の姿。それは透が自宅のリビングで父と一戦交える際に何度も目にした上段の構えと同じであった。
 剣道ではこの上段の構えを「火の構え」と呼ぶのだと、聞いたことがある。防御を捨てたもっとも攻撃的な構えであることからその名がついたという。
 すでに対戦相手はスマッシュを警戒して、後ろで待っている。
 ボールが落ちてくる軌道に合わせ、龍之介が体を開いた。
 スマッシュを放つなら、体を右側に開いて利き手のほうに空間を作らなければならない。
 しかし龍之介は左足を引いて、左側に体を反転させたかと思えば、その体勢から打点を少し落として、バックボレーを放ったのだ。
 充分にスライス回転のかかったボールがサービスエリアでバウンドしてから、サイドラインを斜めに駆け抜けた。
 無論、ベースライン後方で構える対戦相手が返せるはずもなく、スマッシュを警戒して後ろに退いた一瞬の判断ミスを後悔するかのように、オープンスペースと化したバックコートに拳を叩きつけている。
 審判のゲームセットのアナウンスと同時に、龍之介がこちらに向かって笑いかけた。体をくの字曲げてネットに寄りかかり、立っているのもままならぬ様子であったが、それでも父は笑っていた。
 「おい、記録係! さっきは怒鳴って悪かったな。ご苦労さん」
 その直後に画面が暗くなった。ふたたびカランという乾いた音を残して。






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