第43話 頂点を目指して
部屋の明かりがついても、誰一人として声を発する者はいなかった。
ラケットも満足に振れない体でチームに勝利をもたらした龍之介。その凄まじいまでの執念に圧倒されて、現実に戻ったいまもスクリーンの中から抜け出せずにいるのだろう。
透とて例外ではなく、父が試合中に放った台詞がまだ耳の奥で響いている。
「俺たちがどうやって頂点を目指したか、あとに続く奴等に見せてやろうぜ」
残念なことに、その年の光陵テニス部は、龍之介の戦線離脱によりインターハイ本戦に出場するも初戦敗退に終わり、以後、衰退の一途を辿る。
それから二十余年の時が経ち、すっかり弱体化したテニス部の改革に乗り出したのが唐沢の兄・北斗であり、彼を夢の舞台へと駆り立てたのが、この龍之介の残したビデオテープである。
見果てぬ夢を追い続けた歴代のOBたち。世代を超えて受け継がれてきた想いが、いまここにある。
言葉にならない衝撃が覚悟に変わる。今年こそは彼等が夢見たあの場所へ。
想いは皆も同じと見えて、部員一人ひとりの顔つきが確たるものに変わっている。
ところが部長の唐沢だけは硬い表情を崩さずに、演壇に上がると同時に静かに切り出した。
「同じ光陵テニス部員として、真嶋先輩を誇りに思う。だが、俺は彼の選択が正しかったとは思わない」
まだ壮絶な試合の余韻は残っていた。涙の乾かぬ者もいた。
恐らく部員の大半が壇上に懐疑の目を差し向けているであろうに、唐沢は構わず話を進めた。
「俺たちが目指す頂点は、誰かの犠牲の上にあってはならない。
真嶋先輩がプレイヤーとしての道を閉ざしたことで、周囲の人間も傷ついた。いまも後悔の念に苛まれている者もいるだろう。
当時は専任のコーチもいなけりゃ、練習法も手探りだ。精神論で選手が育つと信じられていた時代のことだから、肩の故障もある意味、しかたのなかったことだと思う。
でも、いまは違う。無理な練習を重ねれば、どうなるか。ケガを押して出場すれば、どんな事態を招くか。俺たちは全員知っている。
あえて、この場で言わせてもらう。自己犠牲は断じて美徳じゃない」
いつもの唐沢とは何かが違っていた。表面上は冷静に話しているが、心の内では己が感情を持て余しているような。ポーカーフェイスを得意とする先輩にしては珍しいことである。
「もう一度、よく考えてみてくれ。俺たちが日本一を目指す理由を。
頂点が見たいというのなら、それがチームメイトの犠牲の上にあって、なお価値があると言えるのか。
前部長の悲願を叶えるためというなら、あいつが、成田がそんなことをして喜ぶと思うのか。
いまからインターハイの出場メンバーを発表する。その前にリタイアを申し出る者はいないか?」
どうも様子がおかしい。話の内容が、途中から特定の人物に向けられたもののように感じる。
他の皆も同じように感じたらしく、それぞれが周りの様子をうかがっている。
唐沢が、今度は強めの口調で語りかけた。
「本当にリタイアを申し出る者はいないか? コーチやチームメイトに、この先ずっと後悔を背負わせるつもりなのか?」
部員一人ひとりの顔を見回していた視線が、一所で止まる。その視線に促されるようにして席を立ったのは、これまでダブルスの要としてテニス部を牽引してきた双子の兄・太一朗だった。
「部長、実は俺……右膝が……」
「医者には診せたのか?」
「はい。半月板損傷だと言われました」
半月板は大腿骨と脛骨の間でクッションの役割を果たす膝の軟骨だ。
瞬発力に優れた弟・陽一朗のフォロー役を担う太一朗は、他の選手以上に激しい動きが要求される。その負担が下半身のもっとも繊細な個所に故障となって出たのだろう。
「でも、部長? インターハイだけはどうしても出場したいんです。
犠牲だなんて思っていません。一生に一度、あるかないかのチャンスなんです。
お願いします。なるべく迷惑をかけないようにしますから!」
「太一、確かにお前はダブルスの要だが、それは今年に限った話じゃない。ここで無理をすれば、俺たちが引退したあと、ダブルスを託せる人間がいなくなる。
皆のためにも、お前自身のためにも、いまは治療に専念してくれ。頼む」
後輩に深々と頭を下げる唐沢を、透は直視できなかった。
先程から唐沢が持て余していたのは怒りの感情だ。それも自分自身に向けられたものである。
唐沢は自分を責めているのだ。二十数年前の日高と同じように。
「頭を上げてください、部長。全部、俺が悪いんです。
本当だったらダブルスの教育係は俺や陽一がやらなきゃならないのに、部長に任せっきりで。
だから俺も頑張らなきゃって、勝手に練習量を増やしていました。コーチからも無理はするなと釘を刺されていたのに……」
「いや、お前をそこまで追い込んだ責任は俺にある。悪かった、太一」
唐沢は薄々気づいてのだろう。恐らくは地区予選のあと、透と陽一朗、唐沢と太一朗に分かれて特別練習をしたあたりから。
先の都予選で太一朗を外し、透と陽一朗を組ませたのも、万が一に備えて、代わりのオーダーを模索していたのかもしれない。
伊東兄弟は個人ダブルスの部でもインターハイ出場を決めている。
後輩想いの唐沢のことだ。軽度であれば太一朗を団体戦から外して、個人戦一本に絞らせる腹積もりでいたに違いない。あくまでも、軽度であればの話だが。
唐沢に続いて、いままで沈黙を通していたコーチの日高が演壇に上がった。
「太一、コーチとしてお前の出場を認めるわけにはいかない」
「コーチ、それは個人戦も含めてですか?」
「ああ、陽一には気の毒だが、このあと高体連に連絡して、お前等兄弟の欠場を届け出る」
「そんな……」
「実はな、俺にこの話を最初にしてきたのは陽一だ。お前は上手く隠したつもりだろうが、陽一は気づいていたんだよ。俺や唐沢がお前の不調に気づく前からな」
太一朗の視線が弟の陽一朗へと向けられた。透もそれにつられて見やると、彼は叱られた子供のように肩をすぼめて小さくなっていた。
これで合点がいった。先の都予選で、急なオーダー変更にもかかわらず陽一朗が落ち着き払っていたのも、彼だけは太一朗の欠場を事前に知らされていたからだ。
「なあ、太一? いまはピンと来ねえかもしれんがな、お前の人生は高校で終わりじゃねえんだ。その先もずっと続いている。
お前が言うように、インターハイは一生に一度、あるかないかの大舞台だ。ましてお前等兄弟はずっと二人三脚でやって来た。弟のためにも、無理をしてでも出場したいという気持ちも分からなくはない。
けどな、その一生に一度のチャンスを逃したとしても、あとでもっとデカい花を咲かせた奴はいる。道は一つじゃない」
日高はそこで一旦区切ると、部員一人ひとりの顔を見回してから、さらに続けた。
「縁あって俺の教え子となったお前たちに、一つ覚えておいて欲しいことがある。
知っての通り、テニスは不確定要素がいくつも絡むスポーツだ。
対人競技のうえに、屋外の試合がほとんどだから、天候やコートのサーフェスによって予期せぬハプニングに見舞われることもある。
しかも個人競技だ。それらのハプニングを全部てめえの裁量ひとつで処理しなけりゃならない。
刻一刻と変わる戦況を素早く読み取る繊細さと、長時間のプレーに耐えられるだけの強靭さと、両極端の能力が求められる。
そのくせ、日頃の練習の成果が戦績に反映される保証はない。むしろ不確定要素の数からみれば、報われねえ率ナンバーワンだ。
こんな理不尽な競技はねえよな?
けどな、そのテニスで一つだけ、確実に勝てる必勝法がある。
続けることだ。仮に不本意な負け方をしたとしても、コートに立ち続けることで、その敗北は次の試合の糧となる。
続けてこそ、テニス。そして、これは人生においても同じだ。
この先、お前たちがどんな生き方を選択しようと、歩き続けていれば得るものは必ずある。
当然、人によって形はさまざまだ。思い描いた結果じゃなかったり、無形の場合もあるだろう。
だが、お前たちの道を照らすのが派手な色のメダルやトロフィーとは限らない。その時に見えなかったものが、十年、二十年後に輝き出すこともある。
だから、太一。いまは理不尽に思うかもしれんが、堪えて欲しい。この先もお前が自分の足で歩き続けるために」
龍之介に対する負い目から、事あるごとに嘔吐を繰り返していたという日高。彼は日本一の夢が潰えたあとも、コートに立ち続けた。選手として、プロとして、コーチとして指導する立場になった今も。
それが償いの気持ちから来るのか、純粋に友と見た夢をまだ追い続けているのか。その理由は分からない。
だが、透には「続けてこそ、テニス」と説く日高の言葉が、いまはもうスクリーンの中にしか存在しない高校時代の龍之介に向けられたもののような気がしてならなかった。
「それじゃ、団体戦のメンバーを発表するぞ」
インターハイの団体戦はダブルス一組、シングルス二名、それに控えの選手が一名加わり、計五名の選手が選ばれる。
チームの命運を託される五名は誰なのか。皆の視線が壇上に立つコーチの日高に集まった。
「まずはダブルスに唐沢海斗、伊東陽一朗」
日高の口からダブルスの選手名が告げられたと同時に、部員たちの間にどよめきが起こった。
確かに太一朗の欠場はチームにとって痛手だが、唐沢がその穴埋めに回るとなると、シングルスの戦力は大幅にダウンする。「シングルス頼みの光陵」が切り札を先鋒に据えて、本戦を勝ち上がれるだけのオーダーが組めるのか。
全員が息をつめて、日高の次の言葉を待った。
「残りのシングルス三名は、S2に日高遥希と真嶋透、S1に藤原慎悟。以上だ」
「俺がシングルス!?」
透は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、不満か?」
「いや、でも、ずっとダブルスでやって来たから、いきなりシングルスって言われても……」
四月のミーティングで唐沢に「シングルスでは使い物にならない」と指摘されてから、一人前のプレイヤーだと認められたくて練習を重ねてきた透だが、いざ独り立ちするとなると不安のほうが先に立つ。
とくにこの合宿では、己の未熟さを嫌というほど思い知らされた。
『闇のバリュエーション』では遥希とともに惨敗をくり返し、不本意な結果に奮起して臨んだ『闇の光陵杯』では、百戦錬磨の北斗の策略にまんまんとハマり、同じ土俵に立つ間もなく自滅した。
こんな情けない現状で、S2の大役を胸張って「引き受けます」とは言いづらい。
となりの遥希もやはり戸惑っているようで、いつもの仏頂面に拍車がかかっている。
インターハイ出場メンバーに選ばれたというのに浮かない顔のルーキー二人に、唐沢がしたり顔とも、含み笑いとも取れる、独特の笑みを傾けた。賭け事に勝利した時に見せる、例の笑みである。
「本当は太一の故障がなければ、ダブルスを伊東兄弟に任せて、俺とシンゴと、もう一人の枠をトオルかハルキのどちらかにしようと思っていた。
四月の時点で、お前たち二人は充分な可能性を秘めていたが、それと同時に致命的な欠陥も抱えていた。
ハルキは技術的には申し分ないが、予想外の対応をされると途端にペースが崩れるという精神面での脆弱さが目立ったし、加えて、他の選手との身長差をカバーするだけのフットワークも、強みと呼べるレベルには達していなかった。
逆にトオルはメンタルの強さはあるものの、実戦経験が少ないために、ゲームの進め方は中学生以下だった。運頼みの出たとこ勝負じゃ、予選は勝ち抜けても、本戦では通用しない。せっかくの強みを活かすためにも、早急にベースを固める必要があった」
それぞれに抱える欠点をストレートに指摘され、透と遥希は非常にばつの悪い思いをしたのだが、ますます表情を曇らせる二人とは対照的に、唐沢は例の笑顔を保ったままである。
「トオルには俺とダブルスを組むことで、必要な知識は与えたつもりだ。お前は俺のお守りを卒業だ。
そしてハルキも。今回の合宿では、ライバルに刺激されて随分成長したよな?」
この一言で、透は「実りある賭け」の正体を悟った。唐沢が強引に『闇の光陵杯』を決行し、そこに遥希を引きずり込んだのも、全てはルーキー二人の能力を伸ばすために意図したことだった。
「一度に四人の動きを頭に入れて戦うダブルスからは学ぶことも多い。
おかげで、ハルキは課題のフットワークが改善されたし、精神面でも頼もしくなった。
同様に、トオルもハルキとペアを組むことで自分からゲームメークをするようになった。
今なら二人とも安心してシングルスを任せられる」
次々と唐沢の口から明かされる真実を、遥希は身じろぎもせず聞いていた。そして話を聞き終えたあとで、ポツリと漏らした。
「やった……」
他の誰が言ったとしても聞き流されるであろうその言葉を、遥希が漏らしたことで、透にも実感が湧いてきた。試合経験豊富なライバルが声に出すほど喜ばしい出来事が、自分の身にも起きているのだと。
遥希が色白の頬を赤らめ、けれど人目も気になるのか、しきりとそこを手の甲で扱きながら言った。
「俺……嬉しいです。
正直、外されると思っていました。部長がトオルを買ってるのは分かっていたし、実際、こいつ、すごい勢いで成長してたし」
「俺はトオルと同じように、お前のことも買っていた。ただ育て方が違っただけだ。
いまのお前等ならシングルスを任せられる。二人でS2、守ってくれるよな?」
唐沢は二人が力強く頷くのを見届けてから、今度は神妙な面持ちで藤原のほうに向き直った。
「シンゴ、すまない。何度もコーチと話し合ったんだが、結局、お前に一番負担のかかるオーダーになった。
代わりと言っては何だが、俺はダブルスで全戦全勝を約束する。どんなことをしてでも、チームに一勝を持ちかえる。
だから、あとのシングルスを頼む」
「バ〜カ! 今さらS1ごときでビビるかよ。『ハイリスク、ハイリターン』が俺等のやり方だろ?」
今回のオーダーは、透と遥希がS2でローテーションを組み、藤原が大将格のS1を担う。
長年、成田とともにエースを努めてきた唐沢には、藤原にかかるプレッシャーの大きさが誰よりもよく分かる。
そしてまた、そんな唐沢の想いを藤原も分かっているのだろう。彼はすっくと席を立ち、演壇の前まで進み出ると、唐沢を正面から捉えて言った。
「海斗? お前は忘れてるかもしんねえけど、中学で陸上部だった俺をテニス部に引っ張り込んだの、海斗だかんな。
俺は最初から他の誰でもねえ、お前についていくと決めてんだ。
お前、あん時、言ったよな? 一緒に頂点目指そうって?
その気持ちは、いまも変わんねえだろ?」
「ああ」
「だったら、あとはやるっきゃねえじゃん。ようやくここまで来たんだ。
本戦に出る奴はもちろん、出られねえ奴も。みんなで力を合わせて、歴代のOBたちに俺等が最強だってところを見せてやろうぜ!」
藤原の声かけに、全部員が笑顔で頷いた。
誰も犠牲を払わず、皆で笑ってあの場所へ。きっとそれが多くの想いを託された自分たちの、いまの正解だと思うから――。
ミーティングが終わり会議室を後にした透は、公衆電話が設置されている事務室へと足を向けた。
合宿に来てから、何となくだが百円玉を使わず取っておいた。たまった額は三千円近くある。国際電話をかけるには充分だ。
龍之介と話がしたい。本当は随分前からそう思っていた。
ただ、やり方が分からなかった。木刀で事の善悪を語る父親と、どうやって親子の会話を始めれば良いのか、取っ掛かりが掴めなかった。
透が事務室の前で百円玉を並べていると、背後から声がした。
「中の職員用の電話、使って良いぞ」
コーチの日高であった。
「や、でも、個人的な用だし」
「龍に連絡しろと言ったのは俺だ。通信費で落としてやるから、ゆっくり話せ」
「サンキュー。あの……コ、コーチ?」
照れ臭くて顔を上げられなかった。
返事がないところをみると、日高も「コーチ」と呼ばれたことに驚いているようだ。
「あのさ、俺が塗り替えてやるよ」
「光陵テニス部の歴史をか?」
「いや、アンタの思い出を。
親父が無茶したのは、いまでも自分のせいだと思っているんだろ?
そういうの全部、無駄じゃなかったって思えるように、俺が塗り替えてやるからさ」
「バカ野郎。ガキがいっぱしの口利きやがって。
俺のことより、さっさと龍を呼んでやれ。お前ら親子が仲良くやってくれりゃ、俺の心配の種が一つ減るからな」
「あ、ああ……そうだよな。悪りぃな、いつも迷惑かけて。
じゃ、遠慮なく」
透は慌てて話を切り上げ、事務室に駆け込んだ。
はっきりとした確証はなかった。ただ日高の不自然に小鼻を動かす仕草から、これ以上、そこに留まってはいけない気がしたのである。
久しぶりの国際電話であった。日本に戻ってから親友のエリックとは時おり連絡を取り合っていたのだが、それも最近ではすっかりご無沙汰だ。
時計を見ながら時差を計算する。電話をかけるには早すぎる時間帯と知りつつも、母親の気まぐれに期待して自宅の番号を押してみる。
案の定、長いコールのあと聞こえてきたのは母親の能天気な声だった。
「あら、トオル! ちょうど良かったわ!
ねえ、『佐倉』の黒豆、もうこっちに送ってくれた?」
帰国して以来、はじめて息子が声を聞かせたというのに、我が子の安否はさておき、食卓に並べるおかずの一品に関心を寄せる彼女のマイペースぶりは健在だ。
「久しぶりの会話で、第一声が黒豆かよ?」
「だって、ずっと待っているのに来ないんだもん」
「他にもっと言いようがあるだろ? これ、国際電話だぞ?」
「じゃ、龍ちゃんのお気に入りだから、なるべく早く送ってね」
「違げえよ! 頼み方うんぬんの話じゃねよ。
そもそも、なんで俺が黒豆係みたいになってんだ?」
「そんなの決まっているじゃない。トオルのほうが近いもの」
無論、どちらが『佐倉』に近いか、その距離を問題にしているのではない。東京都内の、それも自宅の近所にある店が、太平洋を隔てたアメリカよりも遠いとは思わない。
「あのさ、俺は大事な用事があって、わざわざ日本から電話してんだよ。そこのところを汲み取ってだな……」
「あら、まあ、そうだったわね。いま、呼んで来るわ。待っててね!」
「……って、誰に用事か、分かってんのか!?」
しばらく間が空いてから、次に聞こえてきたのは親友のエリックの声だった。やはり彼女の頭の中には、息子が夫と話したがっているというごく自然で常識的な発想はないらしい。
「やあ、トオル? 元気だったかい?」
これが本来の会話のあり方だ。しかしエリックには申し訳ないが、早々に話を切り上げなければならない。
ここまで来るのに、すでに五分は経過している。いくら日高から許可を得ているとは言え、ものには限度がある。
「エリック……本当に悪りぃんだけど、親父を呼んでくれないか?」
「えっ?」
朝っぱらから叩き起こされた上に、挨拶もそこそこに電話を替われと言われては、さすがのエリックも絶句するしかない。
だが賢い彼は、相手が龍之介と聞いて事情を察してくれたのか、
「オーケー、トオル。元気な声が聞けて、良かったよ」と短く言い置き、去っていった。
やはり持つべきものは親友だ。自分を生み育ててくれた母親よりも、よほど理解が早い。
さらに五分が経過した。
龍之介はまだ眠っているのか。たった一言、感謝の気持ちを伝えるだけなのに。
こんな苦労をするのなら、近くにいる時にさっさと伝えておけば良かったと後悔した。
長い沈黙が緊張を運んでくる。
仮に龍之介と話ができたとして、何から切り出せば良いのだろう。今頃になって、自分のしている行為が愚かしく思えてならない。
受話器から聞こえる砂嵐のような雑音が、やたらと耳につく。
今までの龍之介に対する暴言、暴行の数々が頭をよぎり、しかしながら自分だけが悪いのではないと思い直したりしながら、思考が一巡した頃、ようやく受話器の向こうから無愛想な声がした。
「なんだ、こんな時間に?」
「あのさ……俺、選ばれたんだ。インハイの団体戦に」
心のままに伝えれば良い。いまのこの想いを伝えるために、勇気を出して電話をかけたのだから。
「さっき、テニス部の皆でビデオを見た。親父の最後の試合。
俺等が優勝できるか分かんねえけど、親父の目指した頂点ってヤツを見てこようと思う。日高コーチと一緒に」
龍之介が自身の肩と引き換えに目指したインターハイ。そこへ行けるのも、他ならぬ父のおかげだ、と言おうとした。
「俺さ、ずっと親父は俺に無関心なんだと思っていた。でも、違ったんだな。
俺がこうしてテニスを続けていられるのも、出場メンバーに選ばれたのも、親父がいつも……」
「グダグダうっせえな。こっちは二日酔いで頭痛てえんだよ。危篤でもねえのに、朝っぱらからしょうもねえ用事でかけてくるな」
「はぁ? なんだよ、それ!?」
あまりに理不尽な物言いに、透は思わず声を荒らげた。決して威張れることではないが、こんな素直に「ありがとう」と言ってやれるのは、一生に一度のことである。
「人がせっかく呼んでやろうと思ったのに!」
感謝の気持ちが恨み言に変わる。
「誰が真夏のクソ暑い時期に、クソ暑い日本に帰るかよ。バカバカしい。時間の無駄だ」
「バカバカしいって、インターハイだぞ? 分かってんのか?」
「お前こそ、自分の立場が分かっているのか?
いまお前が立っている場所は、どうせ誰かが用意周到にお膳立てして、立たせてくれたものだろう? 試合の進め方もろくに知らなかった素人が、半年足らずで到達できる場所じゃない。
他人の力でインハイに行けるというだけで、調子に乗るな。どうせ自慢するなら、てめえの足で本物の頂点に辿り着いた時にかけてこい」
「ちょっと、待ってくれよ。個人戦だって、俺は……」
「くだらん!」
ガツンと金属バットか何かで後頭部を殴られた思いがした。
苦労してかけた国際電話は一方的に切られてしまい、透の耳元では「ツー、ツー」と虚しい不通音が響いている。
高校時代の父の姿を知って、甘えたくなったのもある。出場メンバーに選ばれて、浮かれていたのもある。
思いやりの欠片も見えない苦言の数々を腹立たしくも思うが、今回に限っては父の言い分が正しいと認めざるを得ない。
団体、個人に関係なく、インターハイへ行けるのは自分一人の力ではない。唐沢を始めとする多くの仲間の力を借りて、どうにか足を踏み入れることが出来たのだ。高い山の入り口に。
その昔、龍之介の部屋で目にした光景がふと甦る。
世間から「天才」と呼ばれたプロの選手たちの記録が、戸棚の中でピラミッドのようにうず高く積み上げられていたのだが、そこの頂にいたのはほんの一握りの選手であった。
透は改めて日高の説く「続けてこそ、テニス」の意味を理解した。
いま龍之介が見つめる頂点は、昔とは違う。いくら透が昔の夢を引っ張り出したところで、父にとっては数ある険しい山の中でも比較的易しい初心者用のそれに過ぎない。
龍之介は歩き続けていたのだ。肩を壊し、選手生命を絶たれたあとも、もっと険しい山の頂点に向かって。
「ちっくしょう。簡単に超えられそうもねえや、あのクソ親父!」
憎々しげな口調とは裏腹に、受話器を置いた透の口元には誇らしげな笑みが浮かんでいた。