第45話 線香花火の咲く夜に
「奈緒、いまの……?」
透は途中まで言いかけて、絶句した。
いつもは相手の目を見て話をする彼女が、下を向いたまま動かない。
人間、途方に暮れると笑いが出るものなのか。自分でも、顔面の筋肉が妙な引きつり方をしているのが、よく分かる。
先輩たちの悪ふざけに乗せられて、大声で復唱しなければ良かった。「優勝したら、ヤらせてくれ」なんて。
これではまるで透自身の意思であるかのように聞こえてしまう。いや、すでにそう思われているに違いない。
「あのね……ハルキ君から、これ預かってきたの。トオルに渡してくれって」
奈緒が視線を合わせることなく、透明な袋を差し出した。北斗の置き土産の花火セットである。
遥希なりに気を利かせたつもりだろうが、親切心が仇となっている。
しかも誤解の種をまいた先輩二人は、後輩の窮地を救うどころか、一言のフォローもなく消えている。
透は改めて世の中には二種類の人間が存在することを思い知らされた。
「ゴメン」や「ありがとう」で大抵のことが乗り切れるのは、中西のように運にも人間関係にも恵まれた非常にラッキーな人たちの話であって、しょっちゅう誰が掘ったか分からぬ落とし穴に足をすくわれている自分には、所詮、夢物語でしかないのである。
こうなったら、頼みの綱は線香花火だ。
北斗の幼稚なメッセージを鵜呑みにしたわけではないが、この如何ともしがたい空気をどうにかするには、「女は線香花火で100パー落ちる」の説にすがるほかあるまい。
「じゃあ、せっかくだから、やるか?」
透が不用意に放った一言に、彼女の肩がビクッと跳ね上がる。
慌てて「いや、花火の話」と続けてみるものの、一度地に落ちた信頼はそう簡単には回復できぬと見えて、彼女は不自然な距離を保ったままである。
察するに、奈緒も少しは考えたことがあるのだろう。二人の間のデリケートな問題を。
透とて、考えなかったわけではない。
付き合い始めて数ヶ月が経つのだから、そろそろ進展しても良い頃だと思っていたし、折を見て、さり気なく誘ってみようかとも思っていた。
それが今回の一件で、完全に触れてはいけないタブーの領域に入ってしまった。
透の想いを平たく言えば、あの下品な一言に尽きる。どんなにさり気なく誘ったところで、下心は見え見えだ。
気まずい沈黙の中、透は花火セットの封を開けた。
バケツほどの大きさをした袋の中身は、打ち上げ花火やロケット花火など、パーティ受けする派手な花火で占められており、線香花火は片隅で小さくなっている。
こんな端役扱いされている花火にさほどの効果があるとは思えぬが、万に一つの望みを託して、その先端部に火をつけた。
程なくして、パチパチという小気味よい音とともに、黄金色の世界が広がった。
米粒大の火の玉から紡ぎだされる長短さまざまな錦の糸は、短いものは華やかに、長いものはたおやかに、儚い花の命を物語にして見せてくれる。
いままで主役級の花火にしか興味のなかった透は、線香花火が織りなす錦の紋様に魅了され、しばらく無言で見つめていた。
すると、長い沈黙に耐えられなくなったのか。奈緒がつと顔を上げた。
「牡丹、松葉、柳……。あと、何だっけ?」
はじめ透は何の話をされているのか、分からなかった。彼女が会話の取っ掛かりを作ろうとしているのは確かだが、乗っかりたくても覚えがない。
察しの悪い彼氏の困惑ぶりを、付き合いの長い彼女は察したらしく、つぶらな瞳をくるっと一回転させてから、続けて言った。
「ほら、教科書に載っていたでしょ? 線香花火のエッセイ。
最初が牡丹で、次が松葉で、そのあと柳になって、最後が何だったかなぁって」
「エッセイ? 全然、覚えてねえや。
基本、現文の時間は寝てっから」
「でも、トオルのクラスって、恩田先生じゃなかった? テニス部の顧問の?」
「そうなんだけど、苦手なんだよ。『この物語の主題は?』とか、『主人公の心情は?』とか、わけ分かんねえ」
「ふうん、そっか。ちょっと安心した。
トオルにも苦手な物があるんだね」
「そんなん、いっぱいあるさ。針とか、尖ったヤツは全部ダメだし、じっとしてんのも苦手だし、あとアスパラも。
お前だって知ってんだろ?」
「うん、でも……」
一度は微笑みかけてくれた彼女の視線が、声のトーンとともに落ちていく。
「ずっと不安だったの。いつかトオルに嫌われちゃうんじゃないかって。
トオルはちゃんと自分の目標を持っていて、それに向かってしっかり歩ける人で。
私なんて何の取柄もないし、一緒にいても迷惑かけるだけだから」
「なんで? 俺がいまあるのは、奈緒のおかげだ。
お前がいなかったら、俺は途中で潰れていたかもしんねえし、そもそも日本に帰って来れたかどうかも分かんねえ」
「違うの。トオルといる時の私は、背伸びをしている私なの。
本当は、休みの日はデートしたり、二人で一緒にいたいなって、思っている。
試合の日もね、駅で待ち合わせをしているカップルなんか見ちゃうとね、良いなぁって。
それなのに、トオルの前では平気な顔して。先輩たちに『理解ある彼女で羨ましい』なんて言われて、調子に乗って。
本当は違うのに、良い子のふりして。トオルに嫌われないように、嘘ばっかりついている。
メールも……ゴメンね、返信しなくて。
会って話をしたら、また嘘ついちゃいそうで。だけど、本当のこと言って嫌われるのも怖くて……」
たどたどしい告白の中に、彼女の苦悩が見えた。
相手を思うがゆえの優しさと、自身の本音との間で板挟みになって、それを誰にも打ち明けられずに、ひとりで抱えていたのだろう。
「俺のほうこそゴメンな。いっつもお前のこと、後回しにして。奈緒はそれでも許してくれるって、甘えていた」
「トオルは良いの。そのままで。
正直いうとね、トオルがテニスに夢中になればなるほど、寂しいなって思うよ。私だけ置いてきぼりにされているみたいで。
試合の時もね、呼び出しがかかると、トオルは一度も振りかえらないでコートに入っていくの。
対戦相手の人とか、ペアを組んでる先輩とか。トオルに見えているのは、コートの中だけで、それ以外の人は切り離されちゃう。
でもね、矛盾しているけど、私はその時のトオルの顔がすごく好きなの。たぶん、一番好き。
だから、困っちゃうんだよね」
そう言って、奈緒はぺろりと舌を出して見せた。
もしかしたら、自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
学園祭で宮越との一件があってから、透なりに彼女を守ろう、守らなければと、精一杯やってきた。
しかし、それは透のひとりよがりであって、彼女の望みはもっと身近なところにあったのだ。
「奈緒、インハイ終わったら、二人で思い出いっぱい作ろうな。
いまより休みも取れると思うし、そしたら一日会えるから」
「本当?」
「任せておけって! どこが良いか、考えといて。お前の好きなとこ、連れて行ってやる」
いままでの埋め合わせを、たくさんしなければならない。ふたりで同じ時間を過ごすことが、もっとも分かり合える方法だから。
「俺さ、もっと強くなるよ。守るとか、そういうんじゃなくて。
お前に、少しぐらいわがまま言っても平気だって、思ってもらえるような。頼りがいのある男に」
「トオルは頼りなくなんかないよ。私が勝手にウジウジしているだけで……」
「分かっている。お前は俺を責めてんじゃなくて、自分を変えたいんだよな?
けど、それは俺も同じだ。
和紀のこともさ、俺がもっとしっかりしていれば、お前だって遠慮なんかしないで、真っ先に相談しただろ?」
「ハルキ君から聞いたの?」
「ああ、サッカー部の先輩と上手くいっていないって。
それで、いまさらだけど、俺なりの意見、言っても良いか?」
「うん」
「これは和紀自身が答えを出さなきゃいけない問題だと思う。
そりゃ、余計にこじれるかもしんねえよ。けど、そうやって痛い目見て、自力で掴んだ答えのほうが何倍も価値があるし、何だかんだ言って、自分なりの答えをもっている奴は強えと思うんだよな。
土壇場で自分を信じられるのは、そういうしんどい道を歩いてきた奴なんだ。
なあんて、俺も偉そうなこと言えねえんだけどさ」
「ありがとう、トオル。
あのね、ハルキ君にも同じこと言われたの。自分で答えを出すしかないって」
「なんだ、そっかぁ」
「私、『親バカならぬ、姉バカだ』って、言われちゃった。
もう少し様子見てみるね。二人が言うなら、間違いないもんね」
「ああ、俺はともかく、ハルキがそう言うなら間違いねえや」
「トオル……」
奈緒が驚いたように目を瞬かせ、それから口元を両手で押さえて言った。
「大人になったんだね」
「えっ、なんで? どこが?」
「う〜とね……内緒!」
そのあと彼女は何を聞いても微笑むばかりで、どこがどう大人になったのか、答えてくれはしなかった。
いつの間にか、パーティサイズの線香花火も残りわずかとなり、最後のひとつも、奈緒が「散り菊」の呼び名を思い出したと同時に、ポトリと落ちた。
黄金色の世界が、暗闇に変わる。
「私……」
花火の燃えカスを握り締めたまま、奈緒が呟いた。
「トオルの家が良いな」
「へっ?」
それはあまりに突然の申し出で、透は彼女の真意を理解するのに、少しばかり時間を要した。
「それって、さっきのデートの話?
ああ、そうか。待ち合わせの場所か。この前、待たせたからな」
「ううん。そうじゃない」
察しの悪い頭が猛スピードで回転し始める。
彼女がデートは彼氏の自宅が良いという。しかも、その目的は待ち合わせではないと。
これも彼女の秘めたる本心か。デートと言えば出かけるものと思っていたが、彼女の性格からして、家でまったりするほうが好みなのかもしれない。
だがしかし、それにしては表情が硬すぎる。デートの好みを打ち明けているのであれば、普通は笑顔になるはずだ。
高速回転で弾き出された仮説の数々が、一つずつ消されていく。
そして空っぽになった頭の中に、突如としてあの下品なフレーズが浮上した。
「それって、もしかして、俺ん家で過ごす……とか?」
透の問いかけに、彼女が小さく頷き返した。
恥じらう姿に嫌でも期待が高まるが、万が一ということもある。彼女が単なる「おうちデート」のつもりであったなら、いろんな意味でショックがでかい。
透は慎重、且つ、紳士的に話を進めた。
「じゃあ、家で一緒に昼メシ食うか?
お前、あれだよな? グラタンとか、好きだよな?」
「お昼だけなの?」
「ああ、一日デートって約束だからな。だったら、DVDでも借りて見るか?
遅くなったら、送ってやるからさ」
「帰らなきゃ、ダメ……かな?」
「えっ、いや、ダ、ダ、ダメじゃないけど……」
話が核心に近づくにつれ、冷静ではいられなくなった。動揺して噛みまくる自分が情けない。
「その……一応、俺も男だからさ。夜まで二人きりでいたら、何するか分かんねえぞ」
「良いよ。それでも」
「奈緒、分かってんのか? それって、つまり……」
つまり「優勝したら、ヤらせてくれる」ということだ。いや、この場合、優勝しなくても。
「また無理してねえか? さっきの話は、先輩たちが悪ふざけしただけで、俺は全然、そんな気ねえし」
ここでがっついては、いままでの苦労が水の泡になる。
何しろ、あの下品なフレーズを聞かれたあとなのだ。紳士の自分をアピールしなくては。
「そんな気、ないの?」
「いや、あの……」
あるか、ないか、で問われれば、あるに決まっている。本当は「そんな気」ばかりが渦巻いて、収まりがつかなくなっている。
遠くから、ビンゴゲームで盛り上がるみんなの声が聞こえてくる。
どうにかして会話を繋げなければ。この下心とリンクして暴れ出す胸の鼓動を、彼女に気取られる前に。
「本当に良いのか?」
「うん」
「無理してねえか?」
「無理、したい」
ここはもう、腹を決めるしかない。
「分かった。じゃあ、インハイ終わったら……」
透は真っ直ぐ彼女の目を見て言った。
「インハイ終わったら、俺ん家に来て。
そんで夜まで……いや、朝まで。朝まで俺と一緒にいてください」
「はい」
「もう、キャンセル出来ねえかんな!」
照れ臭さもあって、冗談めかして言ってみるが、秘密の約束をしたあとのぎこちなさは、なかなか拭い去ることが出来なかった。
「キャンセルしないよ。でも、その前に……」
奈緒が小さな包み紙をポケットから取り出した。
中を開けると、そこには白いリストバンドが入っていた。
それは三年前、透が日本を発つ際に奈緒から贈られたものと同じであったが、今回、そこには紫の刺繍糸でこう綴られていた。
「光陵 優勝」
短い休息は終わった。やるべきことは、全てやり終えた。
目指す場所はただ一つ。インターハイ優勝へ向けて、透たち光陵テニス部員の熱い夏が始まろうとしていた。