第46話 インターハイ開幕

 冷や飯を出汁で煮込んで卵を落としただけの雑炊と、きなこ餅。脇に添えたのは、丸ごとのオレンジとバナナ。
 盛りつけに関してはやや忠実さに欠けるが、栄養士の母親からメールで教わった通りの料理を再現できた。
 試合当日の朝は、消化の良い炭水化物を中心にエネルギー源となる糖質をしっかり摂るのが基本だそうで、いくつか送られてきたメニューのうち、なるべく手間のかからないものを選んで調理した。
 温かな湯気が立ちのぼる食卓を前にして、透は満足げに頷いた。
 我ながら、まあまあの出来である。とくに出汁の香りの漂う雑炊は、朝の空っぽの胃袋を刺激する。
 ところが、どうしたことだろう。食欲はあるのに、箸が進まない。
 今日から始まるインターハイ団体戦。これが三年前であれば、母親が朝食を用意して、Vサインで送り出してくれた。
 はじめてバリュエーションに参加した日の朝もそうだった。この四人掛けのテーブルには手間暇かけられた食事がずらりと並び、いつもと変わらぬ母の笑顔があった。
 たしか龍之介は前日の夜から日高と飲みに出たきりで、家にはいなかった。息子が母校で初陣を飾るというのに、まるで無関心な父の態度に不満を覚えた記憶がある。
 ふと、透の頭に先日の国際電話でのやり取りが甦る。
 「どうせ自慢するなら、てめえの足で本物の頂点に辿り着いた時にかけてこい」
 やはり気持ちが高ぶっているのかもしれない。過去の面白くもない思い出が、浮かんでは消える。
 ひとりの生活が辛いわけではない。
 自ら望んで帰国したのだ。会話のない食事も、自炊も、多少の侘しさはあっても、苦ではない。
 ただ、ひとりでいることの重さを感じることはある。
 そして、そんな時、なぜか思い出されるのが、父から冷たく突き放された時の記憶である。
 ――まったく、あのクソ親父の戯言なんか。縁起でもねえ。
 透が思わず口の端を歪めた、その時だ。腰の辺りに携帯電話の細かな振動を感じた。
 〈おはよう。起きてる?〉
 奈緒からのメールであった。
 おそらく一人暮らしの彼氏がうっかり寝過ごしてはいまいか、案じてのことだろう。
 あまり返信に時間をかけては、彼女にいらぬ心配をさせることになる。
 透は箸を手にしたままで、すぐに返事を返した。
 〈大丈夫。いまからメシ食うところ。サンキュー〉
 合宿最終日の夜に互いの本音を確かめ合ってから、二人の間で行き交うメールの回数が増えた。
 もとは初のお泊り計画を水面下で進めるために始めたものが、回を重ねていくうちに毎日の習慣となっていた。
 恋人同士が交わすにしては色気のない、中学生の交換日記のようなやり取りばかりだが、日々の何でもない出来事をこうして分かち合える人がいる。
 それがいまの二人にはとても大事なことで、互いにそう感じている、と分かっている。
 透は携帯電話をテーブルの見やすいところにセットすると、湯気の薄れはじめた雑炊を一気にかきこんだ。


 昨夜は充分睡眠をとったし、体調も万全。準備も抜かりはない。
 それにもかかわらず、遥希はひどく機嫌が悪かった。
 「今日はとくに暑いから、水分補給は早めに、小まめに、が基本だぞ。
 ジャグは大きめのを二つ以上は持っていけよ。予選と違って、本戦は8ゲームだからな。
 タオルと着替えも多めに……ああ、そうだ。お前、替えのラケットは入れたのか?」
 現役時代はもちろん、コーチとしても場数を踏んでいるはずの日高だが、我が子となると話が変わるのか。朝から遥希にまとわりついては、分かりきった注意事項をくどくどと挙げつらねているのである。
 「念のため、シューズはハードとオムニ、両方入れておけ。時間が押すと、よその会場へ回されることもあるからな。
 あとは財布と、携帯と、とにかく出掛ける前に忘れ物がないか、もう一度、ちゃんとチェックするんだぞ」
 昨日の夜から、何度同じ話を聞かされたことか。中等部では部長も務めた息子に対し、まるで初めて大会に参加するかのような口振りだ。
 一人暮らしの透を思えば贅沢な悩みかもしれないが、父の心配が弁当の箸にまで及んだ時は、さすがにキレそうになった。
 そして、いまも――。
 「父さん、もうガキじゃないんだから放っといてくれよ。つか、トイレぐらい、静かにさせてくれ」
 「でもな、お前は他の連中とは事情が違う。会場に着いたら、俺は……」
 「『俺は光陵テニス部のコーチだから』って、いい加減、耳タコなんだけど?」
 本当は、遥希も分かっている。
 立場上、日高は父親であっても、我が子を特別扱いすることが出来ない。それを後ろめたく思っているのだと。
 「あのさ、俺だけじゃないから。家族が応援に来ないのは。
 父さんはコーチとして、俺は選手として、やるべきことをやる。いままでだって、そうしてきただろ?」
 言いながら、遥希はいつもの習慣で便の色や形をチェックした。
 少し前までは、自身の中に定着している何もかもが嫌だった。そのほとんどが、「元プロテニスプレイヤー」という肩書のついた父親に無理やり教え込まれたものだから。
 それが、合宿が終わる頃からか、少しずつ受け入れられるようになっていった。
 父の教えが息づく我が身を、誇りとは言えないまでも、もっと大切にしなければと思う。
 トイレで用を済ませて出ていくと、案の定、父が口を半開きにして立っていた。
 無理もない。遥希が膨れっ面でも、嫌味でも、無視でもなくて、こんな風に正論をもって父に意見するのは初めてのことなのだ。
 「父さんこそ、忘れ物すんなよ。
 俺たちが安心して手綱を任せられるのは、日高コーチだけだから。いつものふてぶてしいコーチでいてくれよ」
 遥希はなだめるようにそう言うと、呆け顔の父をひとり残して家を出た。


 「正直、自分でも驚いているよ。エース不在のチームで、ここまで来られるとは思っていなかった」
 「そうか? 俺は行けると思っていたけどな。
 だって、光陵の真のエースはお前だから。
 逆にお前が抜けて、俺が光陵を率いたとしても、こうはならなかった」
 「いまさらおべんちゃら言っても、何にも出ないぞ」
 「いや、別にそういうつもりじゃ……」
 受話器越しに伝わる親友のどこかぎこちない息遣いを、唐沢は目を細めて聞いていた。
 相変わらず、不器用な男だ。先ほどから幾度となく「ありがとう」と言いかけては、その都度、代わりの言葉を探している。
 優勝するまでは感謝の言葉は口にしないし、受け取らない。
 これは唐沢が成田から部長を引き継ぐ際に、自身に課した禁である。
 現状に満足してゴール手前で足を止めることのないように。感謝の言葉を禁句としたのである。
 律儀な成田はそれに従い、わざわざ時差のあるアメリカから国際電話をかけているというのに、己が思いを伝えられず、先ほどから口ごもってばかりいる。
 「で、部長のお前から見て、どうなんだ?」
 「さあ、初戦次第かな。そこさえ突破すれば、あとは良いところまで行けそうな気はするんだけど。
 初戦の相手が磯貝高校なんだ」
 「磯貝って……あの神奈川の?」
 一瞬、間が空いたのは、決して国際電話のせいではない。
 「海斗、お前なら大丈夫だ。自分を信じてベストを尽くせ」
 「何だよ、そのベタな励まし方は?」
 「すまない。どうも俺は、世辞の類は上手くない。
 だから、これは本心だ。
 お前ほどネットの向こうに立たれて嫌な選手はいない。俺も、京極も、一度でもお前と対戦経験のある奴は、全員、そう思っている。
 過去の因縁はどうであれ、磯貝もその中のひとつだと思って、いつも通りにやれば良い」
 「ほんと、上手くないな。でも、おかげで少し楽になった。
 成田? いや……吉報を待っていてくれ」

 神奈川県代表・磯貝高校。そこは、唐沢にとって浅からぬ因縁の相手である。
 五年前、光陵テニス部は練習試合もまともに組めない苦難の時代を迎えていた。
 唐沢の兄・北斗が推し進めた内部改革は少しずつ成果を挙げて、その噂は近隣校にも広まっていたのだが、却ってそれが仇となったのだ。
 弱小校ならまだしも、下手をすれば新興勢力にもなりかねない相手にむやみに手の内を明かす必要はないと、どの学校も積極的な交流を控えていたのである。
 しかしながら、近隣校にそっぽを向かれたからと言って、大人しく引き下がる北斗ではない。
 彼は草トー巡りで培った人脈をフルに活かして、最近急成長したと噂の学校を調べ上げ、練習試合の話を持ちかけた。
 それが磯貝高校の中等部にあたる磯貝中学だ。
 北斗の思惑通り、磯貝中学も同じ悩みを抱えており、見事利害が一致した両校は、都県の枠を超えて頻繁に練習試合を行なう間柄となった。
 ところが、都大会終了後、一ヶ月ほどしてからのことだ。磯貝中学の一年生が唐沢を訪ねてやって来た。
 聞けば、彼は時期エースとチームから期待されていたにもかかわらず、練習試合のたびに同学年の唐沢に敗北し、一度も勝利を挙げることが出来なかった。
 そのため、地区大会でも、県大会でもレギュラーから外され、ようやくその座を掴んだ全国大会では、光陵学園の都大会敗退により唐沢にリベンジすること叶わず、思い余って訪ねてきたという。
 是が非でも決着をつけろと詰め寄る彼に対し、唐沢はその申し出を拒んだ。
 理由は単純だ。当時は幼馴染みを亡くしたばかりで、試合どころか、生きることにも興味が持てず、ただ成田への償いのためだけにテニス部に籍を置いていた。
 そんな形ばかりのテニス部員が、いくら熱い勝負をふっかけられたとしても、そう簡単に応じるはずがない。
 「唐沢、俺はお前を倒すために、いままで必死にやってきた。どっちが強いか、いま、ここでハッキリさせろ」
 「良いよ、別に。俺の負けで」
 「ふざけんな! お前のせいで、俺がどれだけ肩身の狭い思いをしてきたか……」
 「そんなに迷惑してんなら、ひと思いに殺っちゃってくれない? 俺ひとりじゃ上手く死ねなくてさ」
 「人をバカにするのも大概にしろよ!」
 こんなやり取りをしたあとだ。突然、彼のほうから殴りかかってきたのだ。
 まさか唐沢が本気で死を望んでいるとは夢にも思わず、無気力な言動に腹を立てたに違いない。
 怒りに任せて繰り出された彼の拳を、唐沢は避けようとはしなかった。
 あわよくば致命傷になりはしないかと期待してのことだが、結果的にそれが原因で、彼は他校の生徒にケガを負わせたとして一週間の停学処分、磯貝テニス部も同じ期間の活動停止を言い渡され、以来、両校の間で練習試合は一度も行われていない。
 正直なところ、唐沢にこの頃の記憶はない。見るもの全てが虚しく、どんな言葉も届かない。無色無音の世界で、ひとり漂うように過ごしていた。
 ただ去り際に彼が残した台詞だけは、いまでも鮮明に覚えている。
 「唐沢、お前だけは絶対に許さない。いつか必ずコートに引きずり出して、俺の前に跪かせてやる!」

 試合会場の門の前まで来て、唐沢は歩を止めた。
 四月に成田が抜けて、一時はインターハイ出場も危ぶまれた光陵テニス部だが、どうにかここまでこぎ着けた。
 部員一人ひとりの努力もさることながら、運も味方についていた。
 インターハイ本戦の会場が、今年はとなりの県であることも、そのひとつだろう。
 開催地が遠方だと、それだけ選手の負担も増える。移動にかかる時間や、慣れない土地での連泊、連戦を思えば、かなりの利点である。
 唐沢の目の前を、大型バスがいくつも通り過ぎていく。
 本来なら光陵テニス部員も学校が用意してくれたチャーターバスを利用する予定であったが、日高が「大事な試合こそ、自分たちの足で行け」と言って譲らなかったために、息子の遥希を含む全員が自分の足で ――正確には、電車などの公共交通機関を利用して―― 会場入りする羽目になったのだ。
 たしかに不便ではあるものの、首都高速の渋滞やそこで起きる事故のリスクを考慮すれば、日高の判断は極めて正しい。
 但し、そう主張した日高本人は、明らかに悪目立ちするであろう愛車のコルベットで来るという、その一点に納得しがたい矛盾を感じるが。
 表門を通り抜け、会場となるスポーツセンターの敷地内に足を踏み入れた唐沢は、控室のある管理棟を素通りして、テニスコートの前までやって来た。
 いまから、ここで熾烈な戦いが始まる。
 果たして最後まで勝ち残ることができるのか。故障者を出してまで仲間に強いてきた過酷な練習は、無駄ではなかったと証明できるのか。
 深呼吸のつもりで吸い込んだ朝の瑞々しい空気が、溜め息に変わる。
 そう言えば、ずいぶんと長い間、弱音を吐くことはなかったし、他人に見せることもしなかった。
 万が一、溜め息が出そうになった場合には、周りからそれと悟られないよう静かに追い出した。
 リーダーの弱気はチームの士気にかかわる。
 「いつも通りにやれば良い……か」
 唐沢は静かに溜め息を吐き終えると、部員たちの待つ控え室へと向かった。


 「あのう……もう少し緊張感があっても良いんじゃないッスか? インハイですよ?」
 選手控室に入るや否や、透は先輩たちにあからさまな抗議の目を向けた。
 「なに言ってんの? インハイだから、いつも通りが良いんだって!」
 双子の陽一朗は、例によって兄・太一朗とともに「あっち向いて・ホイ」に興じている。
 彼等にとっては、これが試合前の集中力アップのやり方かもしれないが、日本一を決める大会で「あっち向いて・ホイ」はふざけているとしか思えない。
 エースの藤原にいたっては、柴又の商店街で購入したという「寅さん湯のみ」と「山田洋次監督のサイン入り手ぬぐい」を嫌がる遥希に見せびらかしている。
 藤原曰く、この日のために苦労してゲットしたお宝だそうだが、どう贔屓目に見ても単なるコレクションの一部に過ぎず、全体を通して言えば、これはいつもの部活動後の風景だ。
 つくづく透は可笑しなチームにいるのだと痛感する。これでスポーツ新聞を広げる部長の唐沢が加われば、別の意味で光陵学園の名を全国にとどろかせることが出来るだろう。
 「そう言えば、唐沢先輩は?」
 時間にうるさい先輩が、試合当日に遅刻するとは思えない。様子を見に行こうと、透が扉に手をかけたところへ、スポーツ新聞を手にした唐沢が現れた。
 「全員揃っているな?」
 唐沢のこの一言で、だらけた空気が引き締まる。
 「いまから俺たちが挑むのは、五十一校あるうちのたった一つ。日本一を決める戦いだ。
 だから『いつも通り』などと甘いことを言うつもりはない」
 好き勝手な方法で準備を進めていた部員たちが、唐沢のほうへ向き直り、次の言葉を待った。
 そしてその様子を認めた唐沢が、一呼吸おいてから、一人ひとりの目を見て言った。
 「この会場にはインハイ常連校もいれば、全国区の選手も当然いる。周りは全員、場数を踏んできた連中ばかりだ。
 初参加同然の俺たちは、なりふり構わず戦うしかない。
 緊張していようが、頭が真っ白になろうが放っておけ。いままで練習してきたことも、全部忘れて構わない。
 試合に必要なものは、体が覚えている。俺たちはそういう練習をしてきたはずだ。
 戦況さえ見誤らなければ、試合の進め方は体が教えてくれる。
 俺たちが頭に留めおくべきは勝利の二文字だ。今日から三日間、勝つまでコートから出られないと思え。分かったな?」
 「うぃッス!」
 個性の強いテニス部員の中でも、とくにマイペースなメンバーが揃って同じ返事をしたのは、これが初めてかもしれない。
 全員が唐沢の意見に納得し、その通りに従おうとしている。五十一校の頂点に立つために。

 ミーティングが終わり、コートへ向かう道すがら、透はマネージャーから渡された大会資料に目を通した。
 団体戦が行われる三日間のうち、何の実績もない光陵学園が優勝するには、トータル六試合を勝ち抜かなければならない。
 試合形式は1セットマッチ・8ゲームで、チームの構成はダブルス一組、シングルス二組。そのうち二勝したほうが次に進める。
 光陵学園は唐沢と陽一朗がダブルスに出場し、透、遥希、藤原の三人がシングルスを固める。
 とは言え、実際にローテーションするのは透と遥希の一年生コンビで、エースの藤原はS1に固定である。
 したがってルーキー二人の役割は、「ダブルスは必ず全勝する」という唐沢の言葉を信じて、続くS2で確実に勝利を収め、藤原の負担を可能なかぎり軽減することだ。
 一回戦に出場する透の対戦相手は、神奈川県代表・磯貝高校の湊と記されていた。
 「『部長と訳アリ』って、何だこれ?」
 中学時代のほとんどをアメリカで過ごした透のために、マネージャーが対戦相手の情報を書き込んでくれているのだが、簡潔すぎて分からない。「訳アリ」とは、どういうことなのか。
 控え室に戻って確認しても良いのだが、忙しそうに動き回っているマネージャーにこれ以上面倒をかけるのも気が引ける。
 あとで誰かに尋ねようと思っていると、遠くから見知らぬ人物がこちらに向かってくるのが見えた。
 「ねえ、そこの君! 君がS2に出場する光陵学園の真嶋君?」
 「そうですけど?」
 「俺は磯貝高の湊海人。
 ねえ、そっちに唐沢海斗っているでしょ? あいつ、まだ天才面してやってんの?」
 「あのう、何か?」
 「ふぅん、さすが唐沢に仕込まれているだけあるね。まずは敵の動向を探るってわけかい?」
 「いや、普通に聞いているだけなんですけど」
 話の内容とユニフォームの「ISOGAI」の文字から察するに、彼が透の対戦相手の湊に違いない。
 そしてまた「部長と訳アリ」の意味も、何となくだが分かりかけてきた。
 杏美紗好学院の宮本、明魁学園の越智、それに藤ノ森学院の新田。この磯貝高校の湊という選手からは、彼等と同じ匂いがする。
 「ねえ、真嶋君? 君が『唐沢の腰巾着』って呼ばれているの、知っているかい?」
 「腰巾着?」
 「保護者がいないと何もできない、ただのバカってこと。
 でもね、今日君に教えたいのは、そのことじゃない。君はついていく人間を間違えた。
 それを分からせてあげる。俺の完全勝利という形でね」
 失礼極まりない台詞に反して、湊が見せる笑顔は爽やかで。それが余計に鬱屈したものを感じさせる。
 「安い挑発なら、コートに上がってからにしてくんねえか?」
 「挑発じゃなくて、事実だよ。
 なぜ唐沢がダブルスで大事に育た君をシングルスに回したか、分かる? 
 俺との勝負を避けるためさ」
 「唐沢先輩はそんなセコい理由でオーダーを決めたりしねえよ」
 「いいや、奴には避ける理由がある。なぜなら、俺には『ドリルスピンショット』が通用しないから」
 「どういうことだ?」
 「残りはコートでと言いたところだけど、可哀想な一年生にハンデをあげる。
 どうして通用しないかって、それはね……」
 湊が、場内の知り合いと思しき生徒に笑顔で手を振った。
 年齢性別問わず受け入れられそうな、爽やかな好青年スマイル。それを口元に称えたままで、彼は低い声で囁いた。
 「俺も使えるからさ。奴の決め球、ドリルスピンショトをね」






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