第47話 コピーされた天才

 インターハイ団体戦初日。
 一回戦のダブルスは、唐沢と陽一朗が去年のインターハイ個人の部でベスト8の記録をもつ磯貝高校の熟練ペアを相手に、「8−2」の大差で勝利した。
 双子の兄・太一朗の故障により、急遽、組まれたペアとあって、はじめはコンビネーションが不安視された今回のダブルスだが、もともと唐沢はコーチの日高から、そして陽一朗はその唐沢からダブルスの指導を受けているために、さほど時間をかけずとも、基礎を同じくする者同士、コートに立てば長年コンビを組んできたかのような動きを見せる。
 おまけに師弟関係にあるこのペアは、上下関係もハッキリしているために、太一朗がしょっちゅう頭を悩ませていた予測不能のアクシデント ――おもに気分屋の陽一朗がちょっとしたことで機嫌を損ね、試合中にペースを崩すといった類のものだが―― に見舞われることもなく、難易度の高い戦術をスムーズに実行に移すことができるのだ。
 まさに「ケガの功名」というべきか。あるいは、それを見越したうえでの采配なのかは定かでないが、戦術に長けた唐沢と俊敏な陽一朗、二人が阿吽の呼吸で生み出す好プレーの数々は、太一朗が思わず感嘆の息を漏らすほどだった。

 味方の大勝利に沸く光陵陣営の中で、透はひとり黙々と試合の準備を進めていた。
 つぎに対戦する湊海人という選手。唐沢の過去の対戦相手と同様、胡散臭さはあるものの、彼もまたドリルスピンショットの使い手で、それを平然と言ってのけるあたりは、かなりの兵と見て間違いない。
 唐沢と同レベルか。あるいは、それ以上か。
 ここへ来て、改めてインターハイという大舞台の怖さを痛感させられる。
 シードでもないのに、いきなり一回戦から唐沢と同レベルの選手とぶつかるなんて、通常では考えられないことである。
 しかも、今回はシングルスだ。誰の助けも借りずに、ひとりで戦わなければならない。
 チーム内には早くも一回戦突破の戦勝ムードが流れている。
 みんなの士気を高めるためにも、ここまで自分を育ててくれた唐沢のためにも、何としても勝ち星を挙げたいところだが――。
 期待に応えようとする使命感が、余計な緊張を連れてくる。
 戦う前から喉が渇く。しっかりウォーミングアップしたはずの体が硬い。
 「落ち着け、落ち着け。こういう時は、えと、まずは深呼吸して……」
 そう自分に言い聞かせて、透が大きく息を吸い込んだ時である。
 「こういう時は、水だよ。水!」
 「えっ、水……?」
 声がするほうを振り返ると、真剣な眼差しでこっちを見つめる奈緒がいた。
 「そう、手のひらに『水』って三回書いてね。それを飲むの。
 緊張が解けるおまじないだから、やってみて!」
 どこか違うような気もしたが、あまりに彼女が真剣だったので、透はひとまず言われたとおりにやってみた。
 そして、やったあとから、気がついた。
 「奈緒、それって『水』じゃなくて、『人』じゃねえか?
 水はしゃっくり止めるヤツだろ?」
 彼女の表情は分かりやすい。恥ずかしさで赤くなった顔がみるみるうちに青ざめて、大きく見開かれた瞳には薄っすらと涙が滲んでいる。
 「ごめんなさい。私のほうが上がっちゃって。
 大事な試合の前なのに、どうしよう……」
 「いや、謝ることねえよ。おかげで、良い感じにリラックスできたし」
 実際、先ほどから体にまとわりついていた緊張はきれいサッパリ消えていた。
 他の場面で同じ効果が得られるとは思えぬが、いまのこの状況に限っては、下手なアドバイスよりも、よほど早くいつもの自分に戻れた気がする。
 「ほんとに、ほんとに、ごめんね。
 私、余計なこと、言ったよね?」
 いまだ奈緒は激しく反省中のようで、両手を顔の前で合わせて、今にもひれ伏しそうな勢いで彼氏を拝みたおしている。
 「大丈夫だって。ほら、見てみ」
 透がニッと笑いかけると、ようやく彼女も納得したのか、懺悔の涙はすんでのところで引っ込んだ。
 その直後、選手集合のアナウンスが流れた。
 ふたたび透の体に緊張が走る。
 だが、それは嫌な緊張ではなかった。
 体の中心を通る神経が呼び覚まされて、背筋が伸びる。
 それと同時に、手足の筋肉が解放される。
 集中力も増しているのか、視界も思考も澄んでいく。
 この緊張には熱がある。先ほどの心身を硬直させる緊張とは異なり、プレイヤーである自分を身の内から温める静かな熱が。
 心地良い緊張感に包まれながらコートに向かった透は、入り口手前で歩を止めた。
 なるほど、奈緒のいう通りだ。自分は呼び出しがかかると同時に、肉体も精神もプレイヤーのそれへと切り替わる。
 ――あいつ、よく見てんな。
 ふと、透の頭に合宿最終日の夜の出来事が、線香花火の光とともに甦る。
 「正直いうとね、トオルがテニスに夢中になればなるほど、寂しいなって思うよ。私だけ置いてきぼりにされているみたいで。
  試合の時もね、呼び出しがかかると、トオルは一度も振りかえらないでコートに入っていくの。
  対戦相手の人とか、ペアを組んでる先輩とか。トオルに見えているのは、コートの中だけで、それ以外の人は切り離されちゃう。
  でもね、矛盾しているけど、私はその時のトオルの顔がすごく好きなの。たぶん、一番好き。
 だから困っちゃうんだよね」
 きっと、今日も彼女は自分の後ろ姿を複雑な思いで見送っているに違いない。
 透はジャージの袖を片腕だけたくし上げた。
 彼女もテニスも両方大事にすると言いながら、その実、頭の中はテニスのことばかり。そんな不義理な自分に、彼女は「光陵 優勝」と刻まれた手作りのリストバンドを渡してくれた。
 「ごめんな、奈緒。けど、サンキューな」
 透は前を向いたまま、右手のリストバンドを後ろの客席まで見えるよう高く掲げると、湊の待つコートへと入っていった。

 「やあ、真嶋君。よくひとりで来られたね」
 透がコートに入るとすぐに、湊が笑顔で話しかけてきた。
 周りの観客たちには、試合前の選手同士のちょっとした挨拶と映るだろう。
 「お互いベストを尽くそう」などと言いながら、笑顔で挨拶をかわす。そんなスポーツマンシップにのっとった清々しい場面を想像するに違いない。
 湊もそれを狙っているのか、やたらと白い歯を強調してみせている。
 「もしかして唐沢の奴、俺に気をつかったのかなぁ。五年前のお詫びってことで」
 「どういう意味だ?」
 「彼はね、俺に大きな借りがあるんだよ」
 「そういや、アンタ。さっきも天才がどうのって、言ってたけど。唐沢先輩と何があった?」
 「君には関係ないよ」
 「何だよ、それ? 
 話す気がねえなら、思わせぶりな態度とるんじゃねえよ。面倒くせえ野郎だな」
 「まったく、腰巾着のくせに、態度だけは大きいね」
 相変わらず湊は爽やかな笑顔を振りまいているが、白い歯からこぼれる台詞はどれも爽やかさとは無縁のものだった。
 「良いかい? 唐沢は天才なんて呼ばれて、もてはやされているけど、実際は勝てる相手としか勝負しない卑怯者さ」
 「バカ言うな。アンタもさっきの試合、見てただろ?」
 「なら、なぜ俺との勝負に応じない? このふざけたオーダーは?
 理由は単純さ。
 同じ年に、同じ名前の二人の天才。あいつには、それが許せなかった。
 そして、周りもね。
 先輩たちは、どちらが真の天才か、事あるごとに俺たちを競わせた。
 そりゃあ、最初は唐沢のほうに分があったさ。あいつには成田という怪物がチームメイトにいたし、部長の兄貴もいたからね。
 でも、俺はくじけなかった。誰よりも努力して、あいつと対等に渡りあうだけの力をつけた。
 ところが、いざ勝負って時に、あいつは逃げ出した。
 それだけじゃない。あいつはわざと俺が停学処分になるように仕向けて、うちのテニス部もろとも葬り去ろうとしたんだ。
 唐沢はね、そういう腹黒い奴なんだ」
 「ま、腹黒いってとこは否定しねえよ。あの先輩に恨みを持っている奴がごまんといるのもな。
 けど、このオーダーに関しては違うと思うぜ。だって、コレ。『逃げ』っつうより、『攻め』のオーダーだから」
 「へえ、だったら証明してみせてよ。君が俺の相手に相応しいってところを」
 「言われなくても、そのつもりだ」
 過去に湊と唐沢との間に何があったのか。詳しい事情は分からない。
 だが、湊が唐沢に対して遺恨のような根深い感情を抱いているのは確かである。
 透がその確信を深めたのは、試合開始前、サーブ権を決めるために行なわれたラケット・トスの時である。

 ちょうど春の地区予選が終わった頃だったか。唐沢がそれまで使用していたラケットのニューモデルが発売されたと言って、長いこと、頭を悩ませていた時期がある。
 ラケットの買い替え自体は決めていたようだが、同じシリーズで二つのタイプのニューモデルが出されたために、どちらにするかで迷っていたのである。
 多種多様なスピンを自在に操る技巧派の彼は、ラケット購入の際には何よりコントロール性を重視する。
 今回のニューモデルはともにその性能をさらに高めるために開発されたもので、二つの違いはラケットのフェースサイズ(=面の大きさ)と、フレームの重さのわずかな差であった。
 フェースサイズで言えば、15平方インチ。重さで言えば、10グラムほどしかなかったと思う。
 しかし唐沢にはこのわずかな差が気になるようで、何度も試打をしては感触を確かめて、コーチの日高にもスピンのかかり具合を見てもらい、ようやく一方に決めたが、購入後も彼は新しいラケットを予選では使用せず、夏の合宿で慎重に調整を行なってからデビューさせたのだ。
 つまり、対外的には今日が初めてのお披露目となる。
 いま、湊が手にしているラケット。それは唐沢が最終的に選んだのと同じタイプのものだった。
 これは単なる偶然ではないだろう。どんな手を使ったかは知らないが、湊は唐沢を徹底的に調べ上げ、この一戦に臨んでいる。
 彼をここまで駆り立てるものは何なのか。
 いずれにせよ、湊が唐沢と同レベルの技術を持つ選手であることは間違いない。ドリルスピンショットを使えると宣言したのも、ハッタリではなさそうだ。

 最初のサーブ権は湊にあった。
 「俺からのサーブだね。
 その目で確かめると良いよ。俺と唐沢、どちらが真の天才か」
 ベースラインに立った湊が前髪を掻きあげた。
 唐沢と同じラケット。同じ仕草。そして同じフォームから繰り出されるサーブも、同等の威力を備えていた。
 切れ味鋭いスライスは、唐沢のもっとも得意とするサーブのひとつで、無論、高度なテクニックを必要とする。それを湊は難なくやってのけている。
 サーブだけではない。湊から放たれるショットはどれも、ネットの向こうにいるのが唐沢ではないかと思うほど、完成度が高かった。
 透としては、序盤は様子見で、相手の癖や特徴を掴んでから攻撃に出るつもりでいたのだが、様子見どころか、二人の力の差をまざまざと見せつけられる。
 案の定、第1ゲームはあっさり奪われ、早くも透は窮地に立たされた。

 湊は口では挑発めいた台詞を吐くわりに、ゲームの進め方はいたって冷静で、このまま勢いに乗じて攻めてくるかと思えば、こちらの出方をうかがう慎重さも持っていた。
 このあたりの用心深さも唐沢とよく似ている。
 おそらく、試合経験も透とは段違いであるのだろう。
 幸いにも第2ゲームはどうにかキープできたが、それは向こうにとっての様子見で、勝利を確実なものとするための手順のひとつに過ぎない。
 現に、続く第3ゲームでは1ポイントも取らせてもらえなかった。
 これが全国レベルの試合運びか。
 いままでは、たとえ追い込まれたとしても、どこかで反撃のチャンスがあったし、それが分かっているから、苦しい状況でも持ち堪えることができた。
 しかし、ここまで周到にされては勝てる気がしない。当たった相手が悪かった。そう思うしかない。
 たしか、前にも似たようなことがあった。
 まだジャンが生きていた頃に、極度に疲れた状態で、プロ志望の選手と対戦させられたことがある。
 寝不足と疲労を言い訳にして、途中で試合を投げだそうとしたのだが、結局、ギリギリのところで奮起して、ゲームカウント「0−5」から奇跡の大逆転を果たした。
 だが、それは勝算があればこその話で、相手が唐沢と同レベルの選手なら、とうに諦めていただろう。
 明らかに実力差のある選手との対戦は、苦痛以外の何ものでもない。どんな策を講じても反撃には及ばず、己の未熟さを思い知らされるだけなのだ。
 苦戦を強いられているせいか。試合とは関係あるようでないものが、頭に浮かんでは消える。集中力が切れてきたのが自分でも分かる。
 そう言えば、以前、OBの北斗からも、こんな注意を受けていた。
 一昨年、去年と、インターハイで辛酸を甞めた連中がこの舞台にやって来る。そういう連中の想いの強さは何より強力な武器となる。
 経験の浅い一年生が彼等と遣りあうには、一瞬でも、1ポイントでも、ゲームを捨ててはならない。負けたくないなら、ただ勝つことのみ考えろ、と。
 その時は、自ら勝負を捨てるなど、あり得ないと思っていた。
 無論、いまも捨ててはいない。
 ただ、勝てる気がしないのだ。唐沢と同レベルの選手を前にして、どこから、どう切り崩せば良いのか。

 前半の第7ゲームを終了した時点で、ゲームカウントは「4−3」。
 透はブレイザー・サーブとドロップボレーを駆使して、どうにかサービスゲームをキープしているものの、調べが終わった湊がそろそろブレイクの算段をし始める頃だ。
 ここから一気に4ゲームを取られて、ゲームセットというところか。
 6ゲーム形式で慣れている透には、ゲーム数が増えた分、さらに負担に感じてしまう。流れが相手に傾いている試合はとくに。
 どうせ負けるなら、さっさと負けたほうが良いのかもしれない。
 みんなにも実力差があり過ぎたと納得してもらえるし、つぎの試合に向けて、気持ちも早く切り替えられる。
 こんなバカげた考えまで頭をもたげるようになってきた。
 勝負を捨てるとは、敗北を意識するところから始まると、いまさらながら思い知る。
 ここで自分が踏ん張らなければ、あとに控える藤原にはもっと手強い選手がオーダーされているに違いない。
 団体戦は三番勝負だ。S2の敗北が、チーム全体の敗北にも繋がる。
 頭では分かっていても、この難局を乗り切る手立てが浮かばない。
 ドリルスピンショットの使い手である湊に、同じ決め球が通用するとは思えない。向こうもそれを承知で、わざと唐沢と酷似したプレースタイルで試合を進めている。
 力の差を見せつけられ、決め球を奪われた自分に、他にどんな策があるのか。
 カウント上は「4−3」でも、敗北はすぐ後ろに迫っている気がした。

 第7ゲームから第8ゲームへと移る途中、コートチェンジの短い時間を利用して、透は水分補給のためにベンチ休憩に入った。
 一回戦の第二試合。日差しの角度はまだ朝なのに、真夏の太陽は気が早く、昼間と変わらぬ熱をここぞとばかりに打ちつける。
 頭上から照りつける陽光と、コートの照り返しが観客席の熱気と相まって、まるでサウナの中にいるようだ。
 保冷材のおかげでドリンク類はかろうじて冷たさを保っているが、それ以外のものは、ラケットバッグの奥のほうに入れたタオルまでもが熱かった。
 逃げ場のない暑さが判断を鈍らせる。落ち着いて策を練ろうにも、これではろくな考えは浮かぶまい。
 するとそこへ、コーチの日高が感心したように呟いた。
 「湊と言ったか。あいつ、なかなか良いセンスしてんなぁ」
 生徒の自主性を重んじる日高が、試合中に声をかけてくるのは珍しい。
 まして、第7ゲームまで進んでいるのに、序盤で抱いたであろう感想をあえて口にするとは、どういう了見か。
 何かの含みを感じながらも察しきれず、透がベンチを立とうとすると、日高の間延びした声が背後から覆いかぶさった。
 「唐沢は幼馴染の一件があってから、どれだけ俺が推しても個人戦には出ようとしなかった。
 あいつが試合に出るのは団体戦のみ。それも成田の夢が叶いそうなデカい大会に限られている。
 せめて唐沢に北斗並みの図太さと野心が備わっていりゃなぁ。そうすりゃ、いまごろは成田と並んで全国区だ。
 いや、ひょっとしたら、成田より先にプロへの道が開けたかもしれん」
 「なにが言いたい?」
 「唐沢は光陵テニス部随一の技巧派にして、真のエース。成田にそう言わしめた男だ。
 そんな奴とそっくりなプレーをされたんじゃ、そりゃビビるよな」
 「べつに、ビビッてなんかいねえし」
 言いながらも、透は心の内を見透かされたようで、日高のほうを振りかえることが出来なかった。
 「いやあ、俺も迂闊だった。磯貝にあんな伏兵がいるとはな。
 すまんな、トオル。お前じゃ無理だ。この試合、とっとと終わらせて、つぎに頭を切り替えろ」
 「か、勝手なこと、抜かしてんじゃねえよ! 
 この勝負は俺んだ。俺がチームを代表して戦ってんだ。
 いくらコーチだからって、人の引き際、勝手に決めんじゃねえ」
 「じゃあ、誰がいつ決める?」
 相変わらず、日高の口調はのんびりとしていたが、その一言は、透の意識の奥深くを揺さぶった。
 「試合の勝敗を決めるのは誰だ?」
 「そんなの、決まってんじゃねえか」
 サウナのような暑さが落ち着いた。
 いまだ日差しは緩まず、体も火照っているが、頭の中はスッキリと晴れやかだ。
 「試合の勝敗を決めんのは、アンタでも俺でもねえ。審判だ。
 審判がゲームセットにするまで、二度と俺の勝負に口出しするんじゃねえ」
 「ほう、全国区と遣りあうか?」
 「ったりめえだ。インハイってのは、そういうとこなんじゃねえのかよ?」
 「まあ、そうだな。そういうとこだな」
 背中に日高の吐息を感じた。
 それが安堵からなのか、失笑から漏れ出たものかは分からぬが、少なくとも落胆の溜め息ではないだろう。
 試合の勝敗を決めるのは、選手ではない。結果を手にする前から、何をそんなに怯えていたのか。
 仮に相手が自分よりはるかに格上の選手だったとしても、やるべきことはただ一つ。全力で戦うことではなかったか。そのために練習を重ねてきたのではなかったか。
 不安材料がすべて消えたわけではない。しかし、日高の問いかけのおかげで、良い結果を出すために努力する。その覚悟は出来た。
 「うちのチームは、勝つまでコートから出させてもらえねえからな」

 序盤で湊の完成度の高いプレーを見せられ、すっかり怖じ気づいた透は、ここまで唐沢から盗んだ技を使おうとしなかった。ブレイザー・サーブとドロップボレーを駆使して、どうにかサービスゲームをキープしたのである。
 ゲームカウント「4−3」で迎えた第8ゲーム。向こうは透の手の内を知っている。残りの手札に何があるのかも。
 ならば、それを逆手にとってはどうだろう。試してみる価値はあるはずだ。
 「なあ、唐沢先輩の真似しか出来ない……あれ、名前なんだっけ?」
 「湊だよ、湊海人!」
 「へえ、名前も同じか。そりゃあ、頭にくるよな。
 実力は大差ねえのに、片や天才と騒がれて、片やいつまで経っても凡人扱いで。
 おまけに、そいつにハメられて停学喰らったとなりゃ、とんだお笑い種だ。
 せめて『俺もあいつの決め球打てます』ってアピールしなきゃ、ただのマヌケな人になっちまうもんな」
 「べつに、俺は奴のコピーに甘んじているわけじゃない。君のレベルに合わせてやっているだけだ。
 第一、腰巾着の君に言われたくないよ」
 「誰もコピーが悪いなんて、言ってねえよ。俺だって似たようなもんだ。
 だから、勝負しようかと思って。アンタと俺、どっちがより本物に近づけているか」
 「力の差がありすぎて、自棄になったのかい?
 俺はこの五年間、ずっと唐沢を追い続けてきたんだ。一年の君なんかに負けるわけがない」
 「時間をかけりゃ良いってモンでもねえだろが。ドリルスピンショットに関しては、俺だって天才の域に入んだぜ」
 「後悔すると思うけど」
 「さあ、どうだかな」
 透はサーブの体勢に入った。
 ブレイザー・サーブと並行して、練習を重ねてきたスライス・サーブ。まずは、ここから始めるしかない。
 コーナーに狙いを定めたスライス・サーブを、湊はいとも簡単に返した。
 向こうも唐沢のプレーを研究し尽くしているのだから、当然だ。
 それでも怯まず、つぎの一手に意識を傾ける。
 たとえ見込みはわずかでも、そこに可能性があるのなら迷わず突き進む。それが徒労に終わったとしても、何もせずに敗北するよりマシである。
 「格好良い勝ち方なんて、俺等プロじゃねえんだから出来るわけねんだよ。
 殺されたって次には回さねえ。なりふり構わずってのは、そういう覚悟だ」
 あんなに腹立たしく思えた北斗の言葉が、いまは心強い味方となっている。
 だからと言って、あの傍若無人が服を着て歩いているような男に、感謝の気持ちを述べる気はサラサラないが。
 現時点で鍵となるのは、やはりドリルスピンショットの使い時だ。
 湊もそれを分かっているのか、ベースラインに張りついたままだった。
 トップスピンの返し技であるドリルスピンショットを、いつ、どのようにして、どちらが先に打つか。
 透は頭に描いた瞬間を、辛抱強く待った。
 コートの中をスピンボールが行き来する。一打目より二打目。二打目より三打目と、プレイヤーの手元から離れるたびに、ボールが加速する。
 ここで返球にミスがあっては元も子もない。
 透は暴れ馬のように跳ね上がるスピンボールをどうにかガットに収めると、さらにスィングスピードを上げて打ち返した。
 ついに湊がドリルスピンショットを繰り出した。
 同じコートに、同じ決め球をもつ選手が二人。
 同学年に天才と呼ばれる選手がいるだけで、我慢のならない湊のことだ。先んじて披露するであろうことは分かっていた。
 透は神経を研ぎ澄ませて、湊のドリルスピンショットに意識を集中させた。
 ドリルスピンショットは、唐沢が多くの歳月を費やして完成させた最高難度のショットである。他校の選手より間近で観察する機会に恵まれていた透でさえ、完成形を習得するのに何度も試行錯誤をくり返した。
 ひょっとしたら、湊の放つショットにもまだ改善点が残されているかもしれない。
 そう考えて、あえて先手を許した透であったが、目の前に迫りくるショットは完璧にコピーされており、非の打ちどころがなかった。
 捨て身の策が裏目に出たと、後悔した次の瞬間。コートの端に転がるボールを目にした透は、思わず笑みを浮かべた。
 「こんな半端なスピンで、ドリルスピンショットを語るなよ」
 「なんだって!?」
 湊が両目を吊り上げて、斜に構えた角度から透を睨んでいる。
 それは己の正当性を信じて疑わぬ者がよくやる仕草だが、心の片隅に疑念もあるのか、しきりと目を瞬かせている。
 「こういうのを『子供だまし』と言うんだぜ」
 「いい加減なことを言うな!」
 「だったら、本物を見せてやろうか?」
 透にダメ出しされたのが、よほど頭にきたのだろう。湊はすっかり落ち着きを失くしている。
 勝負に打って出るのは、いましかない。
 透は先ほどと同じようにベースラインでの打ち合いを続け、来るべきチャンスをじっと待った。
 程なくして、湊からトップスピンのかかった絶好球が送り込まれた。
 ドリルスピンショットの手順そのものは、さほど変わりがない。
 通常のスライスより後ろでインパクトを取ることでガットとボールの接着時間を稼ぎ、その間にラケット面の向きを変えながら前に振り切ることで、スライス回転からドリル回転へと変化する。
 透のラケットから放たれたボールも、湊のそれと同様、ベースラインからネットにかけて緩やかに上昇し、ネットを越えたと同時に急降下したかと思えば、最後はコートの上を蛇行しながら出ていった。
 ここまで両者のショットに違いはない。違いが出るのは、このあとだ。
 ラリーの途切れたコートの中にカシャカシャと響き渡る金属音。それにつられて、湊が背後に目を向けた。
 ベースラインの後方、コートを囲む金網フェンスが小刻みに揺れている。透の放ったドリルスピンショットが、いまだ激しいドリル回転から逃れられずに、もがているのである。
 「他の奴等の目はごまかせても、俺の目はごまかせない。俺も前に一度、ダメ出しされてっから」
 アメリカでの苦々しい経験が、こんなところで役に立つとは思いもしなかった。
 たしかに湊の放ったショットにも、特徴的なドリル回転がかけられていた。
 だが、その回転数は本物の半分にも満たない。まさに「半端なスピン」だったのだ。
 おそらく予選までは完璧な仕上がりだったに違いない。
 ところが、本番直前になって唐沢がラケットを買い替えたとの情報を入手して、湊も慌てて同じものを購入したのだろう。
 それが、ショットの精度を落とす結果となったのだ。
 唐沢が最後まで頭を悩ませていた理由も、そこにある。
 フレームの重さと、フェースサイズが異なる二つのタイプのニューモデル。
 一方は、ストリングホールやフレームの形状にニューモデルならではの工夫があるものの、スペック自体は唐沢がそれまで使用していた従来のラケットと変わりがなかった。
 もう一方は、細かいリニューアルに加えて、従来のものよりフレームの重量が増えて、フェースサイズも狭かった。
 一般的に、フレームの重量が増えれば、球威も上がる。インターハイで多くの猛者と渡りあうのに、このパワーアップしたスペックは魅力であった。
 しかしドリルスピンショットを放つには、ある一定のフェースサイズが必要で、従来と同じスペックのほうが適している。
 ドリルスピンショットの精度を落としてでも、パワーアップを図るか、否か。
 散々悩んだ末に唐沢が出した答えは、重いほうのラケットのメリットを活かしつつ、ショットの精度も保つという、凡人には考えもつかないものだった。
 合宿で何度か練習に付き合わされた透だからこそ、断言できる。
 あのパワーアップしたラケットで、回転数を落とすことなく、完璧なドリルスピンショットを放てるのは、唐沢をおいて他にはいないと。
 「新しいラケットが裏目に出ちまったな。大人しくてめえの身の丈に合うヤツに替えたらどうだ?」
 「うるさい! ボールの軌道も回転も完璧だ。少しぐらい回転数が足りなくたって、俺のショットを返すことは不可能だ」
 「俺も、昔はそう思っていた。でもな……」
 あえて透はその根拠を口にしなかった。
 ここから先は、実際に彼自身の目で確かめてもらうしかない。それこそが、透の真の狙いなのだから。

 実は、ドリルスピンショットには一つだけ弱点が存在する。ネットを越えてから着地するまでの間に、ボールを捕らえられる瞬間があるのだ。
 ちょうどボールがネットを越えた直後。急降下に入る直前。その一瞬を狙って、ドリルの刃先をピンポイントで合わすことができれば、返せぬことはない。
 ドリル回転の性質上、少しでもタイミングがズレれば、ラケットごと弾かれる。だが、回転数の少ない湊のショットなら、成功する確率は高い。
 透は自らスピンボールを叩き込むと、ネット前までダッシュした。
 ラケットはいつもより立てて構えて、腰も低めに落とす。
 頭に思い描くは、三年前、透のドリルスピンショットを「半端なスピン」と言って、鼻先で笑いながら捻じ伏せた男の姿だ。
 あの時、彼は自身の得意な決め球を透に見せようとしたに違いない。ところが透のショットの出来があまりにお粗末だったので、とっさにドロップボレーに切り替えたのだ。
 察するに、あれは彼なりの親心かもしれない。
 当時の透は、逆境を跳ねのけられるだけの力をつけねばと、躍起になっていた。その焦りが不完全なショットを生んだのだ。
 そんなところへ別の決め球を見せようものなら、光陵学園で学んだことをおざなりにして、目新しいほうへ興味が向くに決まっている。
 彼が「お前のレベルが低すぎて、決め球を出せなかった」と、辛辣な言葉で透のプレーを評したのも、もう一度、自身のテニスを足元から見つめ直してほしいと願ってのことだろう。
 ふたたび湊がショットを放つ。
 ボールが緩やかな曲線を描いてネットを超える。ドリルの軸はまだ地面と平行だ。
 つぎの一瞬を見逃してはならない。
 ボールがネットを超えた。ドリルの刃先が下へと傾きはじめる。
 透はその一瞬をガットの中央で捕らえると、サイドスピンをかけるべく、立てていたラケットを一気にスライドさせた。
 ジャン直伝のアングルボレーである。
 ドリルスピンショットを当てて返すだけでは、単なるイージーボールで終わる。形勢逆転の一手とするには、ドリルスピンショットをより強力な決め球に変えて、返さなくてはならない。
 「まさか、そんな……」
 湊の足がサービスエリアの手前で止まる。
 いままでの経験上、追っても無駄だと分かるのか。彼は目の前を斜めに横切るボールを、ただ見送るだけだった。
 「アンタと唐沢先輩の間に何があったか知らねえし、いまさら知ろうとも思わねえ。
 けど、アンタの気持ちは分からなくもないぜ。俺も同じだから。
 いつか必ず、あの先輩を超えてみせる。そのためにも、まずはアンタを超えなきゃな」

 ゲームカウント「4−8」。
 湊のドリルスピンショットを破ったことにより、試合の流れは一気に変わり、後半は本物のドリルスピンショットを決め球に持つ透が点差を広げて勝利した。
 「途中ヒヤヒヤさせられたが、初めてのS2にしては上出来だ」
 試合終了後、唐沢が透に労いの言葉をかけてくれた。
 「ええ、俺も途中でダメかと思ったんですけど、いろいろとラッキーだったみたいで……」
 「タ〜コ! ラッキーのひと言で片づけるな。だから、お前はいつまで経っても……」
 長い小言が始まると思いきや、凄まじい剣幕で二人の間に割って入る者がいた。
 「唐沢、お前はどこまで俺をバカにすれば気が済むんだ!? この一年だって、本当は俺との対戦を見据えて、極秘に訓練したんだろう?」
 対戦相手の湊である。
 「俺は、お前がどんな卑怯な手を使ったとしても、絶対に諦めない。いつか必ずコートに引きずり出して、俺の前に跪かせてやる!」
 「それ……五年前に言われたのと同じ台詞だ。ずっと頭から消えなかった」
 普段は変化に乏しい唐沢の表情が、湊の姿を目にした途端、険しくなった。
 やはり唐沢と湊の間には、何かあったのだ。
 一発触発の状況に、透も身を硬くして成り行きを見守っていたのだが――。
 「湊、お前だったのかぁ」
 ようやく合点がいったとばかりに、唐沢の表情が和らいだ。
 「忘れたとは言わせない。この五年間、俺がどんな思いで過ごしてきたか」
 「や、忘れるも何も、最初から記憶にない。お前の顔も、名前も」
 「何だと!?」
 「悪いな。俺、あの頃の記憶がほとんどなくてさ。磯貝の誰かだということと、さっきの台詞は覚えていたんだが」
 「か、唐沢先輩?」
 部外者が立ち入ってはいけないと思いつつ、透は頭に浮かんだ疑問を確かめずにはいられなかった。
 「俺が口出すのもなんですけど、顔も名前も覚えてないのに、なんで台詞だけ?」
 「それは、たぶん……見ず知らずの奴に、なんでそんなこと言われなきゃなんないのか、分かんなくてさ。ちょっと、ムカついたから?」
 「マジで覚えていないんですね。しかも疑問形だし」
 「ホント悪いな。俺さ、ちょっと前まで人生投げていたから」
 あくまでも唐沢は事実を述べているのだが、軽い口調のせいか、湊にはふざけていると取られたようだ。
 「俺は騙されないぞ。この五年間ずっと、お前を倒すことだけを夢見てきたんだ」
 「ああ、そりゃ悪かったな」
 「そんな軽い謝罪で済まされるか!」
 「そうだよな。俺が本戦で使うラケットまで知ってんだから、熱心に調べてくれたんだよな」
 「俺をファンの一人みたいに言うな! そういう人を喰ったような態度が腹立つんだよ!」
 「悪い、悪い。ただ、ちょっと気になってさ。そんなお前が、なんでS2に出てんのか」
 「なに!?」
 「ここまで正確な情報を掴んでいるんだ。俺がダブルスに出場することぐらい、分かっていただろう?
 百歩譲って、うちの内情を知らなかったとしても、曲がりなりにも部長を相手にするんだ。普通はS1だと思うよな」
 「それは……」
 「お前が望んでいたのは、俺との勝負じゃない。おそらく五年前も。
 あの時の芝居がかった臭い台詞は、他人の目を自分に向けんがためのパフォーマンスだ。あるいは、自分で自分の台詞に酔ってたか。
 もしもお前が本気だと判断したなら、俺はたぶん、引き受けていたと思う。あの頃、俺は毎日死ぬことばかり考えていたが、テニスを止める気はなかったからな」
 「そんなバカな話、誰が信じるか!」
 「普通はな。けど、となりにいるこのバカは信じたぜ。
 五年前は俺も言葉が足りなくて、お前にも変な誤解を植えつけたようだから、いまここでハッキリさせてやる。
 基本的に、俺は無益な勝負はやらない主義だ。
 だが、相手が本気なら、いつでも応じるつもりだ。たとえ相手が格上であろうが、格下であろうが、全力で迎え撃つ。それは、昔も今も変わらない。
 お前が本気で俺との勝負を望むなら、いつでも来いよ。
 それから、もう一つ。
 お前が『天才』と名乗りたきゃ、好きにすれば良い。俺はテニスバカで充分だ」
 そう言って、唐沢はこつんと透の頭を小突くと、意味ありげな笑みを残して去っていった。
 数時間後、唐沢と陽一朗の安定したダブルスと、S2遥希の活躍により、光陵学園は無事二回戦を突破した。
 インターハイ団体戦初日。光陵学園、三回戦進出決定。






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