第48話 選ばれしダークホース

 インターハイ団体戦、二日目。
 初日に好調な滑り出しを見せた光陵学園は、二日目の今日も三回戦を無敗で突破して、準々決勝へと駒を進めた。
 並みいる強豪を押しのけ、いち早くベスト8の名乗りをあげる格好となった透たち光陵勢は、つぎの対戦相手が決まるまでの間、昼休憩もかねて選手控え室につめていた。
 例によって、唐沢はスポーツ新聞のド派手な紙面を臆面もなく広げており、陽一朗は連戦連勝で気持ちが高ぶっているのか、試合直後の遥希にちょっかいをかけまくり、その反対に出番のなかった藤原は、集中力を維持するためか、ブツブツと念仏のようなものを唱えている。
 この協調性の欠片もない、端からする気もない先輩たちの姿を、透はいまだかつてないほど好意的に捉えていた。
 彼等が普段通りに過ごしているということは、いま現在、一致団結する必要がないということで、決死の覚悟で臨んだ開幕前と比べれば、上位チームならではの余裕がうかがえる。
 トーナメントが進むにつれて、理想が現実に変わる。いままで漠然と夢見ていただけの「優勝」の二文字が、にわかに現実味を帯びてきた。
 残すはあと三戦。熾烈な戦いが予想される後半戦に向けて、選手全員、それに耐えられるだけの余力は残している。
 誰も口に出しては言わないが、皆が確かな手応えを感じている。控え室に漂うこの和やかな空気も、そうした自信の現れだと思っていた。

 しばらくしてから、マネージャーが三回戦の結果を伝えにやって来た。
 それによると、準々決勝で光陵学園と対戦するのは福岡県代表の鷹の台東高校で、インターハイ出場は去年につづき二度目という、何やら親近感を覚える相手であった。
 全国レベルの強豪校に囲まれ過ごしていると、出場回数の多さが強さのバローメータに見えてくる。
 実際、いま勝ち残っているほとんどがインターハイの常連校で、新参者は光陵学園と鷹の台東高校の二校である。
 「シンゴ先輩、つぎも出番ないかもしれませんよ。俺、今度はのびのびやれそうな気がします」
 透がこんな大口を叩いたのも、相手チームに対して仲間意識が芽生えたからである。
 ところが間髪を容れずに、藤原のスナップの利いた一撃が飛んできた。
 「タ〜コ! 浮かれてんじゃねえよ。インハイはここからが本番だ」
 「ここからって、じゃあ、いままでのは何だったんですか!?」
 「ぶちゃけ、常連校にとっちゃ肩慣らしみてえなもんだ。
 考えてもみろ。各都道府県の代表とは言え、エリアによって予選のレベルも違うし、運やらツキやらで、フラフラっと上がってこられた連中もいるんだよ。
 けど、ここから先はそうじゃねえ。ゲーム数も増えるし、マジでキツくなるから覚悟しておけよ」
 「シンゴのいう通りだ」
 それまで二人のやり取りを黙って聞いていた唐沢が、透に手元のファイルを投げてよこした。
 「いまベスト8に顔を揃えているのは、残るべくして残った連中だ。
 鷹の台東も例外じゃない。あそこは去年の大会で明魁をストレートで下して、ベスト8入りを果たした実績もある。
 中でも、お前の対戦相手の加曾利はかなりの兵と、俺は見ている。
 そこに滝澤がまとめた資料があるから、よく読んでおけ」
 試合前にマネージャーから渡される資料は、プログラムの端のほうに対戦相手の特徴が走り書きされた簡易なもので、正直、強敵相手に戦術を練るには物足りなさは否めない。
 とは言え、競技経験も人脈もない彼女等にはそれが限界で、唐沢もそこら辺の事情は分かっているのか、とりわけ注意を要する相手に関しては、その都度、滝澤に調査を頼んでいる。

 鷹の台東高校二年:加曾利大輔(かそりだいすけ)
 身長190センチ 体重78キロ(推定)
 右利き オールラウンドプレイヤー
 関東ジュニアテニス選手権で優勝経験あり。
 中学時代はテニス部エースとして活躍するも、三年時に左肩を負傷。原因は過度な練習による肉離れと言われているが、当時は顧問との不仲説も流れており、詳細は不明。
 以後、今年度インターハイ県予選まで、公式戦に関する記録なし。

 「なんッスか、これ? “滝澤ファイル”にしては、随分、あっさりしてますね」
 滝澤が選手データとして提出する資料は、調査範囲の広さと細かさから、毎回、ファイルに綴じなければならないほどのボリュームがある。その分、よりリアルにシミュレーションができるので、部員の間では「滝澤ファイル」と呼ばれて重宝されているのだが、加曾利に関してはいつもの半分以下だった。
 「あっ、思い出した!」
 困惑顔の透のとなりで、遥希が得心したように頷いた。
 「その人、アレだ。うちのジュニア・セレクションにいた加曾利さんだ!」
 「ハルキ、知ってんのか?」
 「加曾利さんは元うちのスクール生だ。ジュニア・セレクションっていう小学生対象の選抜クラスがあって、そこで一緒になったことがある。
 福岡に引っ越したって聞いたけど……。そっか、鷹の台東に行ったのか」
 たしかに手元の資料には、「関東ジュニアテニス選手権で優勝経験あり」と書かれている。
 遥希の華々しい戦歴と比べれば見劣りするものの、同じ選抜クラスにいたのなら、相応の力があるのだろう。
 「上等じゃねえか。ジュニア・セレクションだろうが、なんだろうが、受けて立ってやる!」
 初戦と同じ失敗を繰り返してはならぬと、自らを鼓舞する透であったが、そんな思いを知ってか、知らずか、遥希が追い打ちをかけてきた。
 「言っとくけど、そいつ、強いから」
 「おい、ハルキ! 俺が負けるみたいな言い方すんな! 縁起でもねえ」
 「誰も『負ける』なんて、言ってない」
 「てめえ、わざとだろ?」
 「そう怒るなって。こんなんで熱くなるようじゃ、本当に『負ける』から」
 「また、お前……!」
 「冗談抜きで、真面目な忠告だ。
 加曾利さんは、うちのスクール生の中ではスタートが遅かったから、出られる試合が限られていただけで、お前よりは遥かに経験を積んでいる。
 おまけに、タッパもあるし、センスも良い。
 同じクラスで、同じように指導を受けたけど、あの人は俺とは違う。お前と同じタイプだから気をつけろ」
 滅多に人を褒めない遥希が真顔で「強い」と断言するのだから、やはり加曾利はかなりの兵と見て間違いない。
 だがしかし、自分と同じタイプだから気をつけろと言われても、透にはどうして良いのか、見当もつかない。
 そもそもジュニア・セレクションが、いかなるものなのか。人里離れた山奥で幼少時代を過ごした田舎者には、「何となく上級者のクラスっぽい」といった程度の理解である。
 だが、残りの資料を読みすすめていくうちに、滝澤の意図 ――なぜこの程度のボリュームで良しとしたのか―― は理解した。
 「県予選および今大会のファースト・サーブ成功率97パーセント、セカンド・サーブ100パーセントって……マジか!?」
 ブレイザー・サーブを完成させるのに一日千本以上のサーブ練習をこなした透でさえ、ファースト・サーブの成功率は90パーセントを維持するのがやっとである。
 サーブに限らず、試合中のミスショットによる失点はほとんどなく、攻守のバランスも取れている。
 目立った戦歴はなくとも、これらのデータが加曾利の選手像を明確に物語っている。
 このサーブの成功率の高さは、技術だけはない。メンタルの強さも伴わなければ、維持できない数字である。
 加えて、彼には身長190センチの恵まれた肉体と、テニスセンスもあるという。
 要するに、加曾利は滝澤の観察眼をもってしても弱点の見当たらない厄介な相手。即ち、“難敵”ということだ。


 四回戦の第一試合が始まった。
 透は応援席でストレッチをしながら、自分の出番を待っていた。
 準々決勝からは3セットマッチ(各セット6ゲーム先取)で行われるために、長丁場が予想される。唐沢と陽一朗がどんなに優位にゲームを進めたとしても、2セットは戦わなければならない。
 これが初日であれば、待ち時間の間にあれこれ余計なことを考えて、ひとりで迷走したかもしれないが、不思議なことに、今回は落ち着いてダブルス勢の奮闘ぶりを見ていられる。
 気負いもなければ、不安もない。ただ静かに出番を待っている。
 おそらく、つぎのS2は今まででもっとも過酷な試合となるだろう。
 体がそれに備えている。準備段階で余計な労力を使うことのないよう、慌てず、騒がず。だが、いつでもトップギアで走れるよう、予熱だけは入れておく。
 何しろ相手は、唐沢、滝澤、そして、あの遥希までもが「強い」と認める兵だ。よほど気を引き締めてかからねばなるまい。
 静かに待つこと四十分。審判が、セットカウント「2−0」のアナウンスとともに、第一試合の終了を告げた。
 光陵学園の無敗記録がまたひとつ更新された。

 ダブルスと入れ替わりでコートに入った透の前に、背の高い男が立ち塞がった。
 「お前が真嶋かぁ」
 対戦相手の加曾利である。
 滝澤ファイルに「身長190センチ」と書かれていたので、頭ひとつほどの身長差だと思っていたが、実際に向き合ってみると、それ以上に感じられる。
 スラリと伸びた手足に加え、肩までかかりそうな黒髪を後ろでひっつめているせいもあってか、露わになった首筋を中心に、どこもかしこも長いという印象を受ける。
 「ここに出てくるってことは、エースじゃねえんだよな?
 あ、文句じゃねえよ。俺だってS2出てんだし、お互いさまだから。
 ただ、さっきのダブルス見ちゃうとさ、やっぱ唐沢さんと当たりたかったなぁと思ってさ」
 加曾利はそう言いながら、ニッと笑った。
 これは挑発なのか。それとも、他に何か意図があるのか。
 正面から透を見据える視線は、初対面にもかかわらず大胆で。それでいて、どこか楽しげで。これまでの水面下での駆け引きを得意とする連中とは勝手が違う。
 戸惑う透に構わず、加曾利は話を続けた。
 「唐沢さんはさ、俺のガキの頃からの憧れでさぁ。一度は手合せ願いたいと思っていたんだが、あの人、草トーしか出ねえからチャンスがなくて。
 けど、そこがまた格好良くってさ。知る人ぞ知る陰の英雄って感じでさ。
 お前もアレだろ? 唐沢さんに憧れて光陵に入った口だろ?」
 加曾利はよほど唐沢に心酔しているのか。髪と同色の黒々とした瞳には、戸惑う透の顔がはっきりと映し出されているのに、彼は「だよな、だよな」と同意を得たかのように頷きながら、勝手に話を進めている。
 「まったく、お前が羨ましいぜ。あんなスゲエ人と同じチームで。
 俺も親の転勤がなかったら、いまごろ真嶋の代わりに、光陵のS2任されていたかもしんねえじゃん?
 あっ、俺、むかし東京に住んでたんだ。光陵学園のすぐ側で、駅向こうの日高テニススクールにも通ってた……って、知ってっか。そっちはハルキもいるからな」
 「ええ、まあ」
 「光陵生になり損ねた俺としてはだな、第一希望が叶わねえなら、せめて唐沢さんとガチで勝負してえなぁ、って思うわけよ。
 な、分かるだろ?」
 「はぁ」
 「けど、まあ、今回はしゃあねえか。うちも優勝狙ってるし、ここでキッチリ勝っておかなきゃ、後がねえもん。
 だから、考え方を変えてだな。唐沢さんが育てた後輩を潰すってのもアリかと思ってさ。
 少なくとも、俺が光陵のレギュラーとして通用したかはハッキリするし」
 加曾利の気持ちは分からなくもない。透もアメリカで明魁学園への転入話を持ちかけられた際に、いまの彼と同じことを考えた。
 唐沢の待つ光陵テニス部に戻りたい。けれど、それが叶わぬ願いなら、いっそ敵として対峙するのも悪くはないと。
 そして、それも叶わぬ時は、彼が育てた後輩を打ち負かすことで、己が成長の証を立てたいと思うだろう。
 しかし気持ちは理解できたとしても、試合前の挨拶で対戦相手から面と向かって「潰す」と言われれば、さすがに腹が立つ。
 明け透けな物言いに気圧されながらも、透が聞き捨てならない一言に唇を噛んだ時だった。
 加曾利が長い体を折り曲げて、下から透の顔を覗き込むようにして言った。
 「おっ、良い面構えになってきた!
 俺、お前みたいな奴、嫌いじゃないぜ。お前からは同じ匂いがする」
 「同じ匂い?」
 「ああ。一筋縄じゃいかねえつうか、土壇場に強えっつうか。いかにも番狂わせ起こしそうな面してやがる」
 「そうッスね。唐沢先輩にもよく穴馬扱いされてます」
 「穴馬かぁ。そいつは良いや」
 「けど、1レースに一匹いれば充分ですよね、穴馬は?」
 「お前も潰す気満々、ってか?
 ふん、一年坊主のわりには、肝据わってんじゃねえか。こりゃ、追い詰め甲斐がありそうだ」
 そう言いながら、背筋を伸ばした加曾利がまたニッと笑った。

 最初にサーブ権を得た加曾利は、ベースラインに立つと、手の中のボールに顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。
 その口づけにも似た甘ったるい仕草は、日本の、しかも高校生にしては気障な行為であるが、どういうわけか、加曾利のそれは神聖な儀式のひとつに見える。
 無言でボールを見つめる加曾利に笑みはなく、だからと言って、張りつめたものもなく、ただ身のうちに潜む何かと対話をするような、清廉とした空気を漂わせている。
 場数を踏んでいる選手は、どんなに緊迫する場面でも、最高のパフォーマンスを引き出す手順を心得ている。
 加曾利の場合は、あのボールに息を吹きかける仕草がギアチェンジの役割を果たしているのだろう。
 ゆったりと儀式を済ませたあとで、加曾利が空中にトスを放つ。
 高々と上げられたボールのあとを追うようにして、左腕も伸びあがる。
 深く沈み込む下半身に反して、体の軸は左腕を中心に決してぶれない。
 久しぶりに手本のようなサーブを見た、と透は思った。
 ファーストサーブは力押しで捻じ伏せようとする選手が多い中、加曾利のフォームは力みがなくて、しなやかだ。
 いまだジュニア・セレクションがいかなるものかは分からぬが、彼も遥希と同様、基本に忠実な日高の教えを受けたであろうことは、容易に察せられる。
 加曾利のラケットが振り上げられた。その直後、透の足元深くを黄色いボールが駆けぬけた。
 トスの角度とフォームから、フラット・サーブが来ることは読んでいた。センターラインを目がけて直線コースで突っ込んでくる、ボールの軌道もハッキリ見えていた。
 だが、間に合うと思って出したラケットはかすりもしなかった。
 「この速さで97パーセント、キープしてんのか!?」
 試合開始早々、いきなりのサービス・エース。しかもノータッチ・エースである。
 高校生とは思えぬ速さのサーブに、場内は割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こっているが、当の加曾利は気にも留めない様子で、さっさと次の準備に移っている。
 「くそっ! 涼しい顔しやがって」
 透はいつもより後方にポジションを置いた。こうすることで、わずかながら時間稼ぎになるからだ。
 ところが、透の一時しのぎの窮策を嘲笑うかのように、今度は加曾利のサーブが左脇を駆けぬけた。
 立て続けにエースを奪われたのは、いつ以来のことだろう。
 透自身、サーブに関しては人より努力したという自負があるだけに、サービス・エースによる連続二失点は耐えがたいものがある。
 おそらく一本目のセンターへのサーブは見せ球で、加曾利の狙いは最初から二本目のワイドにあったのだ。
 センターに打たれるボールは、外側のワイドと比べて飛距離が短い分、レシーバーのところへ到達するのも早い。それゆえ、透は一打目のサーブが最速だと思い込んでいた。
 加曾利はそのレシーバーの心理を巧みに利用して、透がセンター寄りの後方へポジションを下げたの見届けてから、さらに球速を上げて二打目を放った。そこからもっとも手の出しづらいワイドへと。
 「ちっくしょう!」 
 試合が始まってから、透はまだ一度もボールに触らせてもらっていない。
 非常に屈辱的な展開だが、相手がそれほど高い技術の持ち主だとも言える。
 ――落ち着け、落ち着け。熱くなったら負けだ。
 立て続けに二本もエースを取られ、うろたえてしまったが、冷静に思い返してみると、まったく手が出せないほどの球ではなかった。スピードの点では、透のブレイザー・サーブと大差ない。
 あとは早い段階でコースの見極めが出来れば、挽回のチャンスはあるはずだ。
 透はポジションをセンター寄りのまま、少し前につめてみた。
 案の定、こちらの構えを認めた加曾利は、サーブをワイドに放った。
 「思った通りだ」
 こちらがセンター寄りに構えることで、サーバーはそこ以外のコースを狙う。
 センター、ボディ、ワイドと三つの選択肢がある中で、あえてワイドを選んだということは、ワイドは加曾利の得意なコースに違いない。
 彼は、透のセンター寄りのポジションがワイドへの誘導だと承知のうえで、勝負をかけたのだ。
 この一球だけは何としても返さなければならない。ここで加曾利の得意なコースを潰しておけば、たとえこのゲームを落としたとしても、その事実が後々のブレイクチャンスで活きてくる。
 透は素早く右方向へ移動すると、外側へと逸れていくサーブを捕らえた。
 ところが、ガットがボールに触れた瞬間、いつもとは異なる感触を覚えた。
 ボールはたしかにガットの中央に収まっているのに、手首がぶれる。
 大事な勝負どころで、なんたる失態。ボールに追いつくことばかりに気を取られ、そこから先の手立てを考えていなかった。身長190センチの長身をめいっぱい使って放たれたサーブが、易々と返せるはずがない。
 どうにか三連続失点は避けたいと、全身の筋力を使って軌道修正を試みるも、崩れたラケット面ではそれも叶わず、ボールはサイドラインを割って出た。
 ダブルスコートのさらに外側を、豪快に走り抜けていくボール。その後を目で追う透の脳裏に、遥希の仏頂面がふと浮かぶ。
 「言っとくけど、そいつ、強いから」
 加曾利がビッグサーバーであることは、事前に知らされていた。それを踏まえた上での策だった。
 しかし、加曾利のサーブは透の予想をはるかに超えていた。
 通常、コントロールを重視すれば、自ずと球速が抑えられるものだが、加曾利の場合はそんなセオリーなど無きが如しで、狙い通りにピタリと決まるサーブはどれもプロと見紛うほどのスピードボールばかりである。
 コントロールも、球速も、ともに妥協のないサーブ。しかも、首尾よく捕らえたとしても、そこでは終わらない。まるでボールにサーバーの意思が乗り移ったかのように、ガットの中であがき続ける。
 これを制するのは至難の業である。
 案の定、4ポイント目も用心して構えていたが、このゲームで透のリターンがまともに相手コートへ返ることはなかった。

 ゲームカウント「1−0」。しかも、一球も返せずに終わった第1ゲーム。
 だが、ここで落ち込んでいる暇はない。透は気持ちを切替え、自身のサーブに意識を集中させた。
 サーブに関しては、透にも譲れないものがある。
 ボールを三回バウンドさせてから、前方へとトスを上げる。
 このトスアップのやり方は、ジャンとの体格差を埋めるために編み出したもので、ここに辿り着くまでに多くの時間と労力を費やした。
 いまもトスを上げるたびに思い出す。ただひたすらにボールをコートに打ちつけて、遠回りばかりしていた苦々しい日々と、それを黙って見守り続けた不器用な男の眼差しを。
 「サーブで負けるわけにはいかねえんだ!」
 サーブを放つと同時に、「ヒュー」と口笛のような溜め息が漏れ聞こえた。
 ネット向こうでは金網フェンスが騒がしい音を立てている。
 「その体で、ここまでのサーブを打つとはな。大口叩くだけのことはあるじゃねえか」
 さすがの加曾利も、透が渾身の力を込めて放ったサーブには対応しきれなかったようで、レディ・ポジションを保ったままである。
 「この体だから打てるサーブもあるんッスよ」
 「ハハッ! 面白しれえ奴」
 サービス・エース、しかもテイクバックをする間もなく決められたというのに、加曾利は面白そう笑ってみせる。
 たぶん、それは強がりでも何でもない。彼は心から透との勝負を楽しんでいるのだろう。
 「まったく、厄介な野郎と当たっちまったもんだぜ」
 加曾利に聞こえぬように小声で悪態をつく透であったが、その口元には無自覚ながら、彼とそっくりな笑みが浮かんでいた。

 ゲームカウント「2−2」と、両者サービスゲームをキープしながら迎えた第5ゲーム。
 少しずつボールのスピードにも慣れてきたのか、透は加曾利のサーブを返せるようになっていた。
 ところが、戦況の変化を敏感に察知した加曾利が、今度はサーブを放つと同時にネットを目掛けてダッシュした。サーブ&ボレーである。
 これではせっかくタイミングを合わせてサーブを返したとしても、二打目のボレーで決められる。
 「真嶋、そう簡単にはブレイクさせないぜ」
 ネット前から、加曾利がボレーを放つ。
 ここでも彼は力みのないフォームで、絶妙なコースにボレーを沈め、次々とポイントを重ねていく。
 サーブ&ボレーは透も得意とするところで、たとえ先手を打たれたとしても、即座に対応する自信はある。
 現に部内随一の俊足を誇る藤原とは、バリュエーションで対戦するたびに、ネット前の主導権を巡って熱戦をくり広げている。
 だが、元スプリンターと互角に遣りあえる脚力をもってしも、加曾利は止めらない。彼は透がスタートを切る時にはネットについて、サービスエリアに踏み込む前にボレーを決めている。
 無論、サーバーとリターナーでは、先にスタートダッシュを切れるサーバーのほうが有利なのは分かっているが、いままで透は持ち前の俊敏さでその差を埋めてきた。
 そもそも、テニスコートのベースラインからネット前までは十メートルほどしかない。スタートダッシュや足の速さで後れを取ったとしても、一秒もあれば追いつける。
 では、なぜ加曾利は止められないのか。彼と相対していると、一秒よりももっと長い、体感的には二秒の隔たりがあるように感じられる。
 無遠慮に自分を見つめる透に構わず、加曾利が屈託のない笑顔を傾ける。
 「さあ、どうする真嶋? まさか、もうお手上げなんて言うんじゃねえだろうな?」
 挑発でも、嘲りでもない。心から勝負を楽しむ笑顔。ふたたびそれを目にした瞬間、透の頭の中で雑然と散らばっていた事実が一つに繋がった。
 たしか滝澤の報告書によると、加曾利は中学三年時に左肩を故障して、高二の春まで公式戦には出なかった。
 だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。故障の原因が、報告書の通り、肉離れとするならば、二年の療養期間はあまりにも長すぎる。
 重度の肉離れでも、半年もあれば完治する。慎重にリハビリを進めたとしても、せいぜい一年だ。
 二年の空白は何を物語っているのか。
 ひょっとしたら、その答えが二秒の差に繋がっているのではあるまいか――。
 陸上の短距離走と違って、テニスでは、足の速さよりも足運びの上手さが物をいう。
 実際、シングルスコートで正しいポジションに立っていれば、どこへボールを落とされようと、大抵三歩で追いつける。
 ここで注意すべきは、いかに正しいポジションをキープするか。そして、いかに効率よく足を動かすか、の二点である。
 とくにボールを打つ際に中心となる軸足とは反対の足。これを上手く使うことができれば、同じ足の速さの選手より素早い移動が可能となる。
 加曾利が透より早くネットにつけるのも、そこからフォームを崩さずボレーへと繋げられるのも、足運びの上手さに理由があるのだろう。
 少しでも効率の良い足の使い方を研究し、ほんの十メートルの移動にも工夫を凝らし、一歩にかかるコンマ何秒の無駄を削ぎ落とした結果が二秒の差を生んだのだ。
 おそらく加曾利は、療養中も普段と変わらず、いや、もっと過酷な練習を続けていたに違いない。
 肩の故障というテニスプレイヤーにとっては最悪の状況下で、彼は動かせない上半身の代わりに、下半身の強化に目を向けた。
 透も身体能力は人より高いと自負しているだけに、よく分かる。
 足の速さは持って生まれた才によるところが大きい。そのため、自然に覚えた歩幅や足の動かし方を矯正するとなると、他の者より多くの時間を要する。
 まして実戦で使えるようにするには、年単位でかかるはず。
 あくまでも推測にすぎないが、療養期間中、加曾利は自分のプレーを一から見直し、効率の良いステップを身につけることで、全体的なレベルアップを図ろうとしたに違いない。
 顧問との不仲説も、人知れず行なった荒療治がそんな噂を呼んだとすれば、滝澤の報告書とも辻褄が合う。
 加曾利は二年の間、表舞台に立てなかったのではない。立たなかったのだ。
 そして、故障前よりも俊敏なフットワークを身につけ帰ってきたのだ。憧れの先輩も目指すであろう日本一の舞台に立つために。
 あの心から勝負を楽しむ笑顔は、飢えから来るものだ。
 二年もの間、表舞台から離れていたからこそ、笑っていられる。サービス・エースを取られた悔しさも、なかなか主導権を握れぬ苦しさも、すべては勝負をするが故のものだから。
 転んでも、ただでは起きない男 ―― 遥希は同じタイプと言ったが、透には加曾利が自分以上にタフな選手に思えてならなかった。

 加曾利がサーブ&ボレーのスタイルに切り替えたことにより、透はブレイクチャンスを逃した。それどころか、つぎのゲームでは追い込まれる側に立たされた。
 スピードに慣れたのは相手も同じある。攻撃の要のブレイザー・サーブが、正確なコントロールとともに返されるようになったのだ。
 このままではブレイクされるのも時間の問題だ。
 「なんとかして、加曾利さんの動きを止めなきゃ」
 サーブのスピード同様、足の速さは互角と見て良い。だが、ラリーが長引き、ボールの行き来が増えれば、あの無駄のないステップが活きてくる。
 最悪の場合、リターンの体勢からダッシュをかけられ、自身のサービスゲームを落としかねない。
 「待てよ。厄介なのは、あのステップなんだから……」
 透は深呼吸で息を整えてから、ボールを三回バウンドさせた。
 狙うは加曾利の右側、コーナーぎりぎりの一角。透はそこにサーブを放つと、ネット前までダッシュした。
 視線でこちらの思惑に気づいたのか、加曾利が素早く右サイドに移動する。
 コーナーを狙われたレシーバーが、ネットプレーを阻止するために高い確率で放つのは、相手の脇を抜くパッシングショットである。
 透は腰を低く落として、ラケットを立てて構えた。
 いままではネット前の攻防戦の切り札として用いたアングル・ボレーを、今回はサービス直後の二打目にあてた。
 パッシングショットをアングル・ボレーで捌くのに不安はあったが、あらかじめコースの予測がついていれば、出来ないことはない。
 透は角度のきついサーブで加曾利をコートの外へと追い出し、彼がステップの強みを活かしてネットにつく前にアングル・ボレーで決めるという荒業に出たのである。
 「まったく、お前はとんでもねえ野郎だな」
 お返しとばかりにサーブ&ボレーを、それも難易度の高いアングル・ボレーでやり返されて、加曾利がやれやれという風に首を振る。
 だが、その投げやりな態度とは裏腹に、彼の口元には例の笑みが浮かんでいる。
 「……けど、良いモン見せてもらったぜ」
 加曾利は満足げにそう言うと、軽い足取りでベースラインに戻っていった。

 透の奇策が効いたのか、一度は加曾利に傾きかけた試合の流れは振り出しに戻り、第8ゲームまで激しい競り合いが続いた。
 現在、ゲームカウントは「4−4」。
 透は加曾利の素早い動きに苦戦しつつも、アングルボレーを巧みに使い、決してリードを許さなかったし、加曾利もまた、自身のサービスゲームを死守していた。
 一瞬たりとも気の抜けぬ苦しい状況にもかかわらず、透はなぜか満ち足りた気分であった。
 勝負に飢えているのは、自分も同じであった。
 アメリカのストリートコートで過ごした三年間。幸運にも一生の師と仰ぐ男と出会い、指導者にも仲間にも恵まれ、結果的には中学のテニス部にいるよりもはるかに充実した日々を過ごせたが、ただひとつ、遥希と同じ舞台に立てないことが辛かった。
 決して華々しい戦績や栄誉を欲していたわけではない。
 ただ、自分と目線を同じくするライバルと心ゆくまで勝負がしたい。しのぎを削る戦いというものを、一度は経験したいと思っていた。
 だが、学生の身分でレベルに合った大会に出るには、学校の部活動かテニスクラブの所属が必須条件で、『ジャックストリート・コート』という無所属よりも始末の悪い集団にどっぷり浸かっていた当時の透には、夢物語でしかなかった。
 いまのこの加曾利との勝負は、紛れもなく“しのぎを削る戦い”だ。同じ目線でぶつかり、刺激し合い、互いが互いを高め合う。
 ところが、そんな風に感じていたのは透ひとりであって、現実は加曾利のほうが一枚も二枚も上手であった。そのことに気づいたのは、第9ゲームに入った直後である。
 加曾利のサーブが、突如として返せなくなったのだ。
 正確には、見慣れたはずのサーブのスピードが急激に上がったために、見えなくなったというべきか。
 ここへ来てスピードアップするということは、彼はまだ余力を残していたということか。
 普通に考えればそうなるが、プロのサーブも経験してきた透には、何かトリックがあるような気がしてならない。
 序盤で受けたサーブは、間違いなく彼の中では最速だ。
 では、なぜ球速が上がって見えるのか。
 いままでの流れを振り返るに、もっとも疑わしいのは、加曾利がサーブ&ボレーに切り替えた第5ゲームだ。仕掛けをするとしたら、そこしかない。
 サーブ&ボレーの場合、サーブが遅ければ、その分、ネットにつくまでに余裕が生まれる。但し、速攻で決めなければロブで抜かれる危険性があるために、スピードを落とすといっても限界がある。
 加曾利はサーブ&ボレーを成立させるギリギリのラインを探りつつ、サーブのスピードを落としていったに違いない。
 透がタイミングを合わせられるようになったと感じたのも、これが原因だ。
 ゲームを重ねるにつれて徐々にサーブのスピードを上げていく選手はいるが、途中でスピードを落として、ふたたび上げるという巧みなコントロールをする選手は初めてだ。
 しかも相手にそうと気づかせず、極めて自然に見えるよう操作していた。
 ファーストサーブの成功率97パーセントを誇る男の実力を、まざまざと見せつけられた気がした。
 ゲームカウント「4−4」で引き分けた第9ゲームの、これから勝負を仕掛けようとする大事な場面で、透は敵の策にはまって身動きが取れない。
 夢にまで見た“しのぎを削る戦い”の呆気ない幕切れ。相手はまだ準備段階で、自分は手のひらの上で踊らされていただけだった。
 加曾利がボールに息を吹きかける。
 雑念のない凛とした佇まい。そこから妥協のないサーブが放たれる。
 サーブで負けるわけにはいかない。序盤では支えとなったプライドが足を引っ張る。
 「30−0」、「40−0」とポイントが傾くたびに、焦りが募る。
 焦りがつまらぬミスを生み、第9ゲームは一度もラリーならずに終了した。
 コートチェンジのおかげで、どうにか冷静さを取り戻せたものの、もしもいまのゲームが偶数で、あのまま試合を続けていたらと思うと、ぞっとする。
 しかしながら、ダメージを最小限に食い止めたとは言え、もう後がない。
 ゲームカウントは「5−4」だ。つぎのゲームを死守しなければ、第1セットを落としてしまう。
 ここまで粘ってセットを落とすとは、精神的にも肉体的にも辛いものがある。

 透の想いとは裏腹に、第10ゲームに入っても戦況は変わらず、ラリーの主導権はリターナーである加曾利が握っていた。
 透は加曾利のサーブに負けじと、最初から全力を出していた。疲労で球速が衰えることはあっても、逆はない。
 加曾利はこうなることを見越した上で、端からそれを狙って、透を上手に乗せたのだ。
 この巧みな戦術は、唐沢から学んだものなのか。
 たとえ直接教えを受けずとも、他人の技術を盗み見て、我が物とする。
 かつて、透もそうだった。尊敬する先輩に少しでも近づきたくて、遠く離れたアメリカで、己の記憶を頼りにドリルスピンショットを完成させた。
 加曾利はまだあの時の満たされぬ想いを抱えたままなのだ。勝負だけはない。自分を取り巻く環境と、そして自分自身に対しても。
 隙のない戦術がそれを物語っている。
 だが、このまま終わらせるわけには行かない。この数ヶ月、直接指導に当ってくれた唐沢のためにも、勝利を持ち帰らなければならない。
 加曾利のボールがますます勢いづいてくる。ここで一気に勝負を決めるつもりらしい。
 「させるかよ!」
 透は相手のボールに充分なスピンがかかっていることを確認してから、ラケットを引いた。
 唐沢には「切り札は最後まで取っておけ」と教えられたが、背に腹は代えられない。
 試合の流れが完全に相手に傾く前に、食い止めなければ。もう一つの切り札で。
 慎重にタイミングを見極め放ったドリルスピンショットがネットを越えた。
 悪夢が起きたのは、この直後であった。
 完璧な状態で送り出したはずのショットが、加曾利のラケットに吸い込まれたと同時に、姿を変えた。
 ドリルの刃先は丸くなり、つぎに解放されたと思った時には、無回転のボールとなって地面に落ちていた。
 しかも、落とされた場所はネットの向こう側ではない。透の陣である。
 「0−15」のアナウンスを聞かされても、透はまだ目の前の光景が信じられなかった。
 「ドリルスピンショットが破られた……?」






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