第49話 残心

 まるで悪い夢を見ているようだった。
 透の足元で力なく転がるボール。本来、それはネットを超えて、相手コートのベースラインから出ていくはずだった。
 どんなに追い込まれようと一瞬で戦況をひっくり返してきた決め球が、なぜこんなところに転がっているのか。
 ショットの最大の特徴であるドリル回転は削がれ、先ほどの激しいラリーの応酬などなかったかのようにピクリとも動かない。
 皮肉なことに、その抜け殻と化した姿から、透はある一つの結論に思い至った。
 「ストップボレーか?」
 アングルボレーやドロップボレーなどの回転系のボレーとは異なり、ストップボレーは相手の球威を殺すことに重きを置いた無回転のボレーである。
 インパクトの瞬間に手首を柔らかく使ってショットの衝撃を吸収し、ガットの撓(たわ)みを使って返球する。
 そのため、ボールは重力に逆らうことなく落下して、着地後もほとんど弾みを見せずに静止する。ちょうど、いま透の足元に転がるボールのように。
 「ほんとはアングルボレーで応戦するつもりでいたんだぜ。
 けど、昨日の湊さんのやられっぷり見てたらさ、ちょっと無理かと思ってさ」
 加曾利は初日の対・磯貝戦の話をしているのだろう。
 図らずもドリルスピンショットの打ち合いとなった、あの試合。加曾利も近くで観戦し、対抗策を考えていた違いない。
 ドリルスピンショットをアングルボレーで返球するには、より強力なスピンをかけなければならない。
 湊の半端なスピンだからこそ、あのような荒業が通用するが、透が放つショットでは、回転量に圧されて打ち損じるか。最悪の場合、ラケットごと弾かれてしまうだろう。
 そう判断した加曾利は、アングルボレーで処理するのを諦めて、リスクの少ないストップボレーに切り替えたのだ。
 おそらくショットを捕らえるポイントも、透のプレーを手本としたに違ない。
 ボールがネットを超えて、ドリルの軸と地面が並行となる一瞬。このタイミングさえ外さなければ、本物であっても出来ないことはない。
 「真嶋、あまり決め球を過信するなよ。テニスボールである限り、返せない球なんてないんだぜ」
 加曾利の言葉が他人事のように頭の中を通過する。
 ドリルスピンショットが破られた。この信じ難い事実を受け入れるか否かで思考が立ち止まり、そこから前へ進めない。
 残りのゲームは、プレーしている本人も目を覆いたくなるほど悲惨なものだった。
 集中力を欠いた透は、踏ん張りどころである第1セットの最終ゲームをあっさり奪われ、続く第2セットでも気持ちを切り替えられずに、ただ呆然とポイントが失われていく様を見ているだけだった。
 情けない試合をしている、との自覚はある。落ち込んでいる場合ではないと分かっている。
 だが、意識と体が別々の方向を向いたまま、自分でも収集がつかなくなっていた。
 セットカウント「2−0」。
 ダークホースの意地とプライドをかけた一戦は、直接唐沢から教えを受けた透ではなく、遠くからその背中を追い続けた加曾利の勝利で幕を閉じた。

 試合終了後も、透はその場に留まり、コートの端からドリルスピンショットが落とされたネットの辺りを見つめていた。
 決め球を過信したつもりはないが、まさかこんな簡単に破られるとも思っていなかった。完成に至るまでの苦労を思えば、あまりに呆気ない。
 「なんだよ、真嶋? この世の終わりって面してんなぁ」
 ふいに腰のあたりに軽い衝撃を感じて振り返ると、藤原がニヤニヤしながら立っていた。
 「すみません、シンゴ先輩。俺……」
 「な、言った通りだろ? 山で言えば、ちょうど八合目ってところだ。ここから頂上まではマジでキツいから」
 インターハイは初めてでも、彼はトーナメントの性質をよく理解している。
 大きな大会になればなるほど、山場となる試合がいくつかあるものだ。先の試合もその一つだろう。
 それゆえ、みんなが慎重に動いていた。滝澤に対戦相手の調査を頼んだ唐沢も、透に用心しろと忠告してきた遥希や藤原も。
 そして、対戦相手の加曾利も。
 彼が初日の慌ただしいスケジュールの合間を縫って、わざわざ磯貝高校との対戦を見にきたのも、この準々決勝が一つの山場となると分かっていたからだ。
 「やっぱり、俺は過信していたのかもしれません。ドリルスピンショットだけじゃなくて、自分の力も」
 「上には上がいる。それが分かっただけでも良かったじゃねえか」
 「でも……」
 「心配すんな。何のために俺がいる? 俺等三年がいるうちに、一年坊主はしっかり負けておけ」
 藤原はそう言って、ふたたび透の尻に軽く蹴りを喰らわせると、コートの中へと入っていった。

 「すみませんでした!」
 透は応援席に戻るや否や、唐沢に向かって頭を下げた。
 事前に加曾利に関するデータをもらい、「用心しろ」と注意を受けていたにもかかわらず、まんまと敵の術中にはまって負けたのだ。
 しかも、決め球のドリルスピンショットを破られての敗北だ。その原因も、突きつめれば、透が対・磯貝戦でヒントを与えたことになる。
 ところが唐沢はとりたてて気に留める風でもなく、感心したように呟いた。
 「テニスボールである限り、返せない球はない……か。あいつ、上手いこと言うな」
 透は思わず頭を上げて、唐沢の顔をまじまじと見つめた。
 てっきり「それ見たことか」と怒鳴られると思っていたのに、彼の話ぶりは破られることを予期していたかのようだ。
 「トオル、お前は親父さんから“残心”という言葉を聞いたことはないか?」
 「いいえ?」
 「剣道では、打突のあとも油断せず、敵の反撃に備えて構えることを、そう呼ぶんだそうだ。先輩が残した資料の中で読んだことがある」
 たしか、以前、北斗もそんな話をしていた。テニス部には龍之介が後輩のために書き残した資料があると。
 その時は練習メニューに関するものだと思っていたが、どうやら他にも記述があるらしい。
 「部室のロッカーの脇にダンボールが積んであるだろ? その中に入っているから、気が向いたら読んでみると良い。
 たぶん、剣道の理(ことわり)の中からテニスに通じるものを選んでくれたんだろうな。勝負事における心構えが書かれている。
 いま話した残心もそのひとつだ」
 「残心……」
 どんな強力なショットでも、絶対に返されないという保証はない。たとえ、それが数々の窮地を救ってくれた決め球だったとしても。
 先の試合で透に欠けていたのは、この残心だ。
 打てば必ず決まると過信していたために、破られた途端、どうして良いのか分からず、パニックに陥った。
 それに対して、産みの親である唐沢が平然としていられるのは、彼は常に破られるやもしれぬという覚悟をもって勝負に臨んでいるからだ。
 「決め球は結果的にそうなるのであって、加曾利さんのいう通り、返せない球なんてないんですね」
 「ああ。敗北を気にするなとは言わない。ただ、俺の中では想定の範囲だ。ドリルスピンショットが破られることも。お前等ルーキーが一度や二度は負けることも。
 俺やシンゴも、そうやって育てられた。失敗も練習のうち、敗北も経験のうちだと言って」
 唐沢が厳しい視線をコートに向けながら、静かな口調で話を続けた。
 「万が一、ここでチームが負けたとしても、その責任は俺にある。後輩の尻拭いも満足にできないような底の浅いチームを作った俺の。
 だから、敗れたからといって恥じる必要もなければ、謝罪の必要もない。反省材料だけ拾ったら、さっさと気持ちを切り替えろ。
 それが長いトーナメントを勝ち抜くコツだ。分かったな?」
 「はい」

 コート上では、藤原が苦戦を強いられていた。
 鷹の台東高校は、加曾利を中堅に出してくるほど選手層の厚いチームだ。そこの大将ともなれば、成田や唐沢同様、かなりの兵に違いない。
 現に、あの藤原が相手のサービスゲームでは一度もネットに出させてもらえていない。
 試合を見守る唐沢の顔にも、心なしか、不安の色が垣間見える。
 おそらく、現時点で両者は互角。あるいは、先のS2で相手チームが勝ち星を挙げて勢いづいた分、こちらは分が悪いのかもしれない。
 互いに一歩も譲らずの激しいせめぎ合いが続く中、唐沢がふたたび口を開いた。
 察するに、試合経験の浅い透のためを思ってのことだろう。顔半分をこちらに向けてはいるが、視線は勝負の行方を追っている。
 「どの学校も指導者によってチームカラーが出るものだが、鷹の台東は徹底してオールラウンダーの育成にこだわった万能型のチームだ。
 だから、うちのように個性の強い選手ばかりを揃えたチームと対戦すると、それが強みとなって活きてくる。
 ネットプレーを得意とする速攻型の選手には、ベースラインでじっくり守って崩す。逆に、相手が粘り強いベースライナーなら、ネットプレーで応戦して速い展開に持っていく。
 彼等は対戦相手に応じて、変幻自在にプレースタイルを変えられる。それも、相手がもっとも苦手とするタイプに。
 いまシンゴが対戦している部長の志摩も、対戦相手によって戦い方を変えられる選手だ。
 とくに志摩の場合、防御の固さは今大会一と言われている」
 「ボレー巧者のシンゴ先輩でも、志摩さんの防御を破るのは厳しいですか?」
 「それ以前の問題だ」
 「どういうことですか?」
 「志摩が本領を発揮するのはベースラインじゃない。ネット前だ」
 唐沢に言われて、改めて志摩の動きに注意して見てみると、たしかに彼はロングボレーで深いコースを突いて、前へ出ようとする藤原の足止めをしている。
 こうすることで、藤原の武器となるボレーを封じるとともに、志摩自身はネット前からの攻撃が可能となる。
 これに対し藤原は、得意のサーブ&ボレーでどうにか自身のサービスゲームは死守しているが、相手のサービスゲームでは自慢の俊足を活かしきれず、あっさり得点を許している。
 このまま試合が長引けば、体力的にも苦しくなるのは藤原だ。
 志摩の狙いも、じつはそこにあるのかもしれない。
 「ネットプレーを得意とするシンゴには厄介な相手だ。あの足元深くに落とされるロングボレーをどうにかしないと、前には出られない。
 だが、残念ながら、あいつはお前やハルキほど器用じゃない」
 「そうですか? 少なくとも、俺よりは器用に見えますけど……」
 「要領や技量の話じゃない。心技体のうちの“心”の話だ。
 柔軟性に欠ける、といったほうが分かりやすいか。
 あいつは自分のプレースタイルを決して変えない。むしろ、それを良しとしている節がある。
 困ったことに、うちのエースは勝利よりも勝負にこだわる性質だから」
 唐沢は透に「分かるだろ?」と言いたげに軽く笑んでから、ふたたび厳しい視線をコートに向けた。
 「シンゴが志摩の強固な守りを突破できるか。あるいは、その前に力尽きて自滅するか。
 いずれにしても、この試合、長丁場となるはずだ」

 終盤に差し掛かっても戦況は変わらず、第1セットはタイブレークの末に藤原が、そして第2セットは同じくタイブレークの末に志摩が取り、勝負の行方は最終セットに持ち込まれた。
 炎天下の中、2セットとも「7−6」、「6−7」ともつれにもつれ、それでも尚、自身のスタイルを崩さぬ藤原。その揺るぎない姿を前にして、透の胸に後悔の念が押し寄せた。
 先の加曾利との対戦で、もっと自分が粘っていれば、どこかに形勢逆転のチャンスを見出せたのかもしれない。少なくとも、第2セットはそうするべきだった。
 いまさらながら、安易に手放したポイントが悔やまれる。
 「シンゴ先輩……」
 固唾を呑んで試合を見守る透の傍らで、唐沢がふうっと長い溜め息を吐いた。
 安堵の溜め息と見るべきか。それとも、失意からくるものか。
 腕組みを解いてジャージのポケットに両腕を突っ込む姿は、リラックスしたようにも見えるし、諦めたようにも見える。
 「五年前、シンゴは陸上部で短距離のエースだった」
 おもむろに昔話を始める唐沢に疑問を抱きつつも、透は黙って耳を傾けた。
 「テニスにはいろいろな勝ち方がある。対人競技だから、こっちがさほど労せずとも、相手が自滅してくれることもある。
 まさに『勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし』だ。
 けど、陸上は違う。己をより限界まで追い込んだ者が勝つ。陸上の勝利には必ず理由がある。
 トオル、お前はシンゴがトラックを走る姿を見たことがあるか?」
 「いいえ」
 「あいつはとなりに誰がいようと、前しか見ない。レース前のウォーミングアップでも、視線は常にゴールを向いている。
 陸上とはそういう競技なのかもしれないが、いつも周りの目ばかり気にしていた俺には、それが新鮮に映った」
 「だから、テニス部にスカウトしたんですか?」
 「ああ。身体能力の高さもさることながら、あいつの脇目も振らず、ただ真っすぐゴールを目指して走る姿に惚れたんだろうな」
 中学時代、陸上部に籍を置く藤原をテニス部にスカウトしたのは唐沢だ。
 初めてこの話を聞いた時は、唐沢がギャンブル要員として強引に引っ張ってきたのだと思った。藤原のレースにおける“穴馬ぶり”を高く評価したのだと。
 だが、真相は透が想像していたものとは違うようである。
 「そう言えば、合宿の時、シンゴ先輩が話してくれました。
 『俺がテニス部へ移ったのは、海斗に誘われたからだ。他の奴なら断っていた』って」
 それを聞いた唐沢が、当時を思い出したのか、ふと頬を緩ませた。
 「最初は苦労したんだぜ。あいつ、やたらと警戒心強くてさ。
 おまけに『俺から陸上を取ったら、何が残るんだ』って、突然、語り始めてさ。三度のメシがどうのって。
 いまなら『寅さん』の台詞だって分かるけど、あの頃は何の情報もなかったし。
 じつはヤバい奴なのかもしれないって、正直、焦ったさ」
 「たしかにビックリしますよね。見た目は爽やかなのに、中身は昭和のおっさんで」
 「ああ。あいつ、下町育ちの上に、爺ちゃん子だからな。
 だけど、その分興味を持った。俺とはまったく違う物の見方をする奴だと直感して、是が非でもうちのチームに入れたくなった」
 「わざわざ毛色の違う人間をスカウトするところが、先輩らしいッスね」
 「そうか?」
 「だって、普通、副部長の立場なら敬遠するでしょ。うちの部、ただでさえ協調性ないんですから。
 やっぱり唐沢先輩は、むかしからチームのことを一番に考えていたんですね」
 「いいや。そんなご大層なものじゃない。
 もっと自分勝手な理由だ」
 「……というと?」
 唐沢が自然とこぼれる笑みを打ち消すように、口角をくいっと持ち上げて言った。
 「あいつを仲間にすれば、面白くなるんじゃないかと思ってさ。うちの部も、テニスも」

 目の前では、いまだ激しい攻防戦が続けられていた。
 隙のないボレーで足止めする志摩と、それを切り崩そうとする藤原。両者とも一歩も譲らぬまま、試合はゲームカウント「5−5」を経て、第11ゲームへと突入した。
 猛暑の中の戦いは、精神的にも体力的にも消耗が激しい。
 準々決勝の今日はとくに暑かった。頭上から照りつける日差しがコートに反射して、陽炎のように揺らめき立っている。
 「トオル、よく見ておけ。あいつの、シンゴ流の残心を」
 相手の反撃に備えるための心構えを説く残心。そこに流儀があるのかと疑問に思った、その直後。藤原がベースラインまで退いた。
 彼が自分のスタイルで勝負をするなら、少しでも前で踏み止まらなければならない。
 ところが藤原は、相手のロングボレーの落下地点よりもさらに後方にポジションを置いている。
 志摩のボレーがぽっかり空いたオープンコートに落とされた。次の瞬間、藤原がベースラインから勢いよく飛び出した。
 ロングボレーで深いコースを突いて、足止めしようとする志摩に対し、藤原はそれを拾いながら、前へ前へと詰め寄った。
 足元深くに落とされるボールは返球が難しい。そのため、一旦足を止めて、体を安定させてから返球するのが基本だが、藤原は走りながら返している。いわゆるランニング・ショットである。
 一般的にボレー対ストロークの場合、ストローカーよりもボレーヤーのほうが有利である。なぜなら、ボールがバウンドしてからストローカーの手元に届く間、ボレーヤーには時間的な余裕が生まれるからだ。
 しかしランニング・ショットであれば、ストロークにかかる時間をわずかだが短縮できる。その分、ボレーヤーの時間も削られる。
 藤原が体力も限界に達しているであろう終盤で、あえて体に負担のかかるショットを選択したのも、そうした狙いがあるのだろう。
 しかも、そのスピードは徐々に速くなっている。
 コート上にゆらゆらと揺らめき立つ陽炎を切り裂くように、藤原がネットに向かって突き進む。
 ただひたすらに前を見て。トラックを駆け抜ける彼はこんな感じだろうと、連想させる走りであった。
 何度返されても前へ出ようとする藤原の姿に、透はなぜ唐沢が「シンゴ流の残心」と言ったのか、その理由が分かった気がした。
 彼は相手の反撃に備えて用心するに留まらず、それをつぎの前進のための足場としているからだ。
 走る勢いをそのままに、藤原がネット前に躍り出た。
 強固な守りが崩れ始めた。ベースライン後方から加速してきた勢いと体重の両方を乗せた強力なショットが、ついに志摩のボレーを打ち破った。
 少しでも体力を温存したいこの状況で、藤原が見せたランニング・ショットは、志摩から時間的な余裕を奪うに留まらず、精神的にもプレッシャーを与えたに違いない。
 「俺からボレーを取ったら、一体、何が残るってんだ?」
 満面の笑みで『寅さん』の口上を始める藤原を、透は誇らしい気持ちで見つめていた。但し、誇らしく思えたのは、ほんの三秒ぐらいだが――。
 「俺からボレーを取ったら、一体、何が残るってんだ?
 三度三度メシ食って、屁こいて、クソたれるだけの機械。つまりは、ただの造糞機だよ。なあ、コーチ?」
 以前、唐沢が聞かされた長台詞というのは、これに違いない。
 たしかに初対面でこんな口上を聞かされれば、ヤバい奴かと疑われても文句は言えまい。
 さすがの日高も、インターハイに来てまで『寅さん』の口上 ――しかも、よりによってクソの話―― を聞かされるとは思わなかったようで、居心地悪そうにベンチの上で脚を組み直している。
 呆気にとられるギャラリーと、慌てて注意を与える審判と、サッと顔を伏せる光陵部員と。
 だが、いつもの光景に一つだけ違いがあった。部員の中には、周囲の痛い視線に耐えながらも、ほくそ笑んでいる者がいる。
 透もその一人であった。
 藤原から『寅さん』の口上が出たということは、彼が勝利を確信したということだ。
 先ほど唐沢がリラックスして見えたのも、その兆候をいち早く察知したからだ。
 透がとなりを見やると、唐沢がしたり顔で頷いた。
 「あのランニング・ショットは、シンゴがテニス部に入って最初に覚えたショットだ。
 たぶん、あいつなりに自分の武器となりそうなものを模索していたんだろうな。
 ほら、うちの学年、成田を筆頭に、わりとセンスの良い奴が揃っていたからさ。
 だけど、たまたま練習を見にきたうちの兄貴が、成田に命じて封印させたんだ。体重移動を覚える前から小手先のテクニックに走ったら、じきに使い物にならなくなると言って。
 結局、封印させた本人は卒業して、俺もその件は忘れていたんだが、成田が律儀に覚えていてさ。
 今年の春頃だったか、どうしても気になるから、兄貴にいつ解禁になるのか聞いてくれって、頼まれたんだ」
 「もしかして、北斗先輩も忘れていたんじゃ……?」
 「ああ、俺もそう思った。でも、違った」
 「北斗先輩は、何て?」
 「『シンゴが自分で封印を解いた時が使い時だ』って、笑っていた。
 こうなることを予期してか。単に意地が悪いのか。紙一重の笑顔だったけど」
 「もしかして、それが今? あのランニング・ショットは五年も封印されていて、いまここで解禁したんですか!?」
 「まあ、そういうことになるな」
 「でも、これ、準々決勝のS1ですよ? 俺がいうのもなんですけど、失敗したら後がないんですよ?
 そんな大事な場面で、練習もナシにいきなりぶっつけ本番なんて……」
 「練習は試合のごとく。試合は練習のごとく。
 シンゴがいつも自分に言い聞かせている台詞だ。
 さっきも控え室で、あいつ、ブツブツやってたろ?
 普段は、教室から部室に来る途中で唱えている。
 そうやって、あいつは一年のうちのほとんどを本番だと思って過ごしている。毎日、毎日、他の連中にとっては何でもない日に、自分にプレッシャーをかけて、追い込んで。
 だから、俺はあいつに託したんだ。うちの部のS1を」
 しばらくして、審判のアナウンスがコートに響いた。
 セットカウント「2−1」。ゲームカウント「7−6」、「6−7」、「7−5」。
 インターハイ団体戦二日目。光陵学園、準決勝進出決定。






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